レキオ島唄アッチャー

変容する琉球民謡、八重山から本島へ。「久場山越路節」

 「久場山越路節」(クバヤマクイツィブシ)
 久場山の峠道を切り開いて作った苦労が歌われている。
石垣島の北部、野底村の東方約半里(2キロ㍍)くらいの所から東南方にある峠道で、峠の長さはおよそ1キロ余り、葛折りの険しい道だという。
 次のような歌意である。
♪険阻な峠道がなければ(いいのに) 険しい山道がなければ(いいのに)
♪険阻な峠道もあった方がいいのだ 険しい山道もあった方がいいのだ
♪どのようにして開いたのか、峠道を 如何なる方法で拓いたのか、山道を
♪踏み倒して開いたのだ、峠道は なぎ倒して拓いたのだ、山道は
 歌詞はまだ8番まで続く。
 山道の幅いっぱいに絹布を敷き延べて野底村の役人さまをご案内します、という歌詞になっている。
 険阻な山道を切り開くために動員された庶民の恨みの声で始まる。でもすぐに、山道はあった方がよいと役人を丁重に案内するという矛盾した歌詞になっている。歌詞には、峠道を開く難工事に駆り出されて、苦労した庶民の側と、開通を計画して住民を動員して進めた役人の側の両方の見方が反映されているような印象がある。
 喜舎場永珣氏は「大浜英晋が野底村の与人役(村長)を勤めている時に、作ったと、その子孫や古老は伝えている」(『八重山民謡誌』)。英晋が与人を拝命したのは1836年だというから、180年近く前に作られたことになる。
 それはともかく、この元歌で歌われることはほとんどないという。「つぃんだら節」に続けて「退(ピゥ)き羽」として歌われることが多い。その場合は、歌詞はまったく変わる。
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写真は、島分けの悲劇を象徴する野底まーぺーの伝説がある野底岳
 「つぃんだら節」は、黒島に住む仲睦まじい二人が首里王府の命令で引き裂かれ、女性が野底に移されるまでが描かれている。これに続けて歌う「久場山越路節」は、野底に移された女性が、黒島では彼氏といつも一緒だったと懐かしく回顧する内容となっている。

 「久場山越路節」の歌意は次の通り。
♪黒島にいた間は さふ島(黒島の別称)にいた間は ※かわいそうな愛しい人よ
♪島は一つだった 村は一つだった ※ハヤシ
♪苧(ブー)作業の時も私たち二人は(注) 結(ユイ、共同作業)をする時も 私たち二人は一緒だった
♪山に行くのも二人 磯下りの時も二人だった  
 注・苧(苧)は布織りの糸の原料。苧にかかわる作業か、もしくは一般的な夜業、夜鍋か、「ブー(夫役)に服する作業か、いろいろ説がある。
 黒島では一六九二年から一七三二年の間に計四回の強制移住があった。一七三二年には、約四〇〇人も移住させた。「島分け」の悲劇を歌った曲は、哀調を帯びていて、歌っていても胸に迫るものがある。
 薩摩に支配され搾取されていた琉球は、財政難のため、八重山で人口の多い島から未開拓の地に住民を強制移住させる政策を進めた。昔は、大きな石垣島や西表島はマラリアの危険な地域があり、人口は少なく、島は小さくても比較的、人口は多かった黒島などから移住させられた。役人が村の道路を境に移住者と残留者を無慈悲に線引きして決めたので、恋人でも仲を引き裂かれ、たくさんの悲劇が生まれた。そのために、「島分け」をテーマとした唄は、八重山でも宮古島でもたくさん作られている。
               
   動画は高嶺ミツさんの唄・三線による「つぃんだら節」。「久場山越路節」は入っていないが素晴らしい歌だ。
 この曲は、沖縄本島では沖縄芝居に使われることになった。題名は同じであるが、八重山の元歌とも、「つぃんだら節」の「退き羽」で歌われる歌詞ともまったく異なる歌が作られた。旋律も相当違うので、これはもう題名は同じでも、まったく別の歌の感じがする。

 本島の「久場山越路節」は、男女掛け合いの恋歌で、次のような歌意である。
♪女 衣の袖を掴まえ 私と知りながら 何とでもなれと思って 捨てて行くの ねえ貴方
♪男 その積りではない もしも他人に知れて 世間の噂になったら どうするの ねえお前
♪女 女の身の習慣の 義理も恥も捨てて 焦がれる心を 貴方は知らないの ねえ貴方
♪男 誘惑があっても 靡(ナビ)くなよ お前 心の中の契り 他人に知らすなよ
♪男 二人が真心も 無駄にしてはいけない 
♪女 変わるなよお互いに 何代までも ねえお前 ねえ貴方
 芝居の台詞がそのまま歌詞になった感じだ。

 ややこしいのは、この本島で歌われた「久場山越路節」は、さらに歌詞が変えられて「桃売アン小(ムムウイアングヮー)」となったことだ。この曲は、私が通う民謡三線サークルの課題曲となっているので、よく歌う。やはり、男女掛け合いで歌う。
 歌意は次の通り。
♪女 山桃を売って織った布を買ってあるから それで着物を縫って 愛しい彼に着させる
♪女 着物を縫った後、切れ端が残るから 私の着物の袖に付け足して 私が着るわ
♪男 着物を洗っているのか、布を晒しているのか、水汲みは私がするから 疲れていないかい、ねえお前
♪女 着物を縫って貴方に着させるから、今から後は他所の人と夜遊びはしないでね
♪男 心からの形見であるなら、今から後は、他所の人と夜遊びはしないよ
♪女 言ったわよねあなた
♪男 心変わりはするなよ、お互いに
♪男女 親に話して二人は夫婦になろうね 私たち二人は
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       アルテで「桃売あん小節」を歌ったことがある 
 これも沖縄芝居で使われたような歌詞である。「桃売アン小」は、少し古い時代の男女のあり様がわかって面白い。とくに、彼女は、山桃を売ったお金で布を買い、彼のために着物を縫ってあげる。その余った布で、自分の袖につけて着るという表現には、女性の愛らしさがとてもよく出ている。彼氏も、女性にとってつらい仕事だった水汲みを私がやろう、疲れていないかい、と彼女へのいたわりをみせる。

 面白いのは、着物を着せたあとは、もう毛遊びをしないでね、と迫るところ。毛遊びは、若い男女が野原に出て夜のふけるのも忘れて歌って踊って遊ぶ。そこは、恋愛の相手を見つける出逢いの場でもあった。夫婦になる誓いをする二人だから、もう毛遊びに行かないでというのも当然なのだろう。
というわけで、「久場山越路節」はもともと峠道を開いたことをテーマとした曲だったのに、時代とともに変貌し、替え歌が作られ、替え歌の替え歌が作られたという、なんか数奇な運命をたどった民謡だ。替え歌を作りたくなるような魅力をもっていたということだろうか。

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変容する琉球民謡、八重山から本島へ。「真謝節」

 「真謝節」(マジャブシ)
 石垣市白保の集落内に真謝井戸(マジャンガー)がある。石の階段のある古い井戸である。歌は白保の村を褒めるとともに、この真謝井戸のことを歌っている。「シンダスリ節」とも呼ばれている。「シンダスリ」とは「可愛い乙女を見て気がよみがえる」というような意味だとのこと。お囃子の言葉が題名にされている。白保では「白保節」「ボスポウ節」とともに三大名曲とされている。
 真謝井戸の碑が建っている。碑文を紹介する。
 「寛延3年(1750)の頃、真謝村は白保から分封した。真謝井戸は当時村民の飲料水川として掘られたが、明和8年(1771)大津波によって埋められてしまった。白保真謝両村も津波のため壊滅したので、八重山の行政庁蔵元では波照間島から強制移住せしめて白保村を再建し、真謝村は廃村となった。
 真謝井戸は琉球王命により、視察のため派遣された馬術の名人馬真謝という人が、村人と共に採掘して長く村民の生活に役立てた由緒ある井戸である」
 八重山民謡、民俗に詳しい喜舎場永珣氏は、馬真謝(ウママジャ)が白保村に来たのは、流罪になったから。その理由は、馬真謝は首里城内で馬目利役を勤めていたが、王の愛妾と人目を忍ぶ仲となったのが露見したためという。
 馬真謝は白保村では、美人で歌の名人である「多宇サカイ」に惚れ、これを娶っている。村民に請われて津波で埋没した井戸を掘りおこし、石の階段をつくり、水汲みの便をはかった。
 その落成式の当日、前から歌っていたチィンダスリ節を、馬真謝が琉歌体に改作し、村民に歌わせたと伝えられている。
 
 ただし、真謝の来島については、明和の大津波の災害視察のために王の命で派遣されたという説もある。碑文は「視察のための派遣」という見解である。
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 「真謝節」の歌意は次の通り。
♪白保という村は 恵みに満ちた村で 真謝井戸を背に 裕福な村を前にしている 
 ※シュンドスリ サースリヱー(以下同じハヤシ)
♪与那の岡に登って 周りを見渡すと 稲粟の稔りは 見事に豊作である
♪稲粟の穂の色合いは 二十歳頃の娘の肌艶のように 粒が立派に稔ったので
  初穂を神仏に捧げます
♪真謝井戸に降りて 水を汲む女性の 髪が黒々と輝き 目鼻立ちの美しいことよ 
♪真謝井戸の水は 澄んでいると底を見ることが出来る これほど美しい娘の 心のうちは 
 推し量ることが出来ない
 沖縄本島では、この真謝井戸(マジャンガー)を題材にして、舞踊喜歌劇「馬山川」が作られた。とても人気がありよく踊られる。
 「真謝節」の歌詞にある「♪真謝井戸に降りて 水を汲む女は 髪が黒々として 目眉の美しいことよ」という歌詞を脚色し物語としている。
 真謝川で水汲みをする美女に惚れた醜男が美女に言い寄るが、美女には美男の恋人がいる。そこへ百姓女が洗濯にくる。最後は、美女と美男、百姓女と醜男が、それぞれ結ばれるという芝居。とても面白く描かれている。「YouTub」でもいくつかアップされている。
               
 これは、大正・昭和期の沖縄芝居で完成した歌舞喜歌劇で、伊良波尹吉(イラハインキチ)の作。スンダスリ節(真謝節)、クンヌハシ節、白保節など八重山民謡を入れている(沖縄コンパクト事典)。
 「石垣島にある真謝川の民謡を聞き知った伊良波は喜歌劇に仕立てて劇を作った」という。「馬山川」とは、沖縄であまり聞かない名称である。なぜ「真謝川(井戸)」が「馬山川」になったのか。
 「これは、伊良波が、島袋光裕に『真謝川』の筋立てを話し、それを記録してもらった。その時、島袋は『真謝川』を『馬山川』と聞き違えて『馬山川』と記録したのが、そのままになり今日まで『馬山川』でとおっているといわれている」(『琉球芸能事典』)

 「馬山川」は次のような歌意になっている。
 ナンパするために馬山川やってきた醜男、女の子がいないから 隠れて待っていようか?
 水を汲むために馬山川に降りてき美女
 そこに美男がやってきてカップル成立
 ガックリの醜男の背後に醜い女がやってきてい互にからかい合う
 エスカレートして喧嘩する二人を諌める美男美女
 自分のために美男美女がやってきたとおもう二人
 あとはひっちゃかめっちゃか
 (ネット「沖縄民謡な日常 はいさいくによし」から)
 これは、歌詞というよりあらすじにすぎない。全体の歌詞はとっても滑稽で面白いそうだ。いま手元に資料がないのが残念である。
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力道山を指導した沖識名

 戦後、日本プロレス界のヒーローだった力道山にプロレスを教え、コーチをしたのは、沖縄人の沖識名(オキシキナ)だった。彼について、耳にしたことはあったが詳しいことは知らなかった。2014年6月27日付の「琉球新報」で仲村顕氏(県立芸術大学付属研究所共同研究員)が書いている。「眠れる先人たちー墓所にたずねる琉球・沖縄史」という連載記事である。この記事をもとに、紹介したい。
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  写真は「プロレス桃源郷へのいざない」ブログからお借りした。
 沖識名はリングネームで、本名は識名盛雄(シキナセイユウ)といい、与那原町与那原で1904年に生まれた。父は、ハワイに移民をしていたが、1912年に父が呼び寄せて盛雄は母とともにハワイに渡った。
 盛雄は、体格に恵まれ、小学校を卒業した頃から、柔道と相撲を習い始めた。ハワイでは沖の海という四股名で活躍し、ハワイの相撲チャンピオンにもなったそうだ。
 プロレスラーに転向したのは1931年のこと。日系人レスラーの三宅太郎に弟子入りした。プロデビュー後は、他のレスラーが持っていない技を武器にして米本土でも人気レスラーになっていったという。
 引退した4年後の1952年、相撲からレスラーになった力道山が、教えを乞いにハワイにきた。沖識名は力道山を徹底的に仕込んだ。沖識名のもとで修業を積んだ力道山は、53年に日本に帰国し、日本プロ・レスリング興業を設立した。
 54年には、日本における本格的な国際試合が行われた。プロレスは前年から放送が開始されたテレビで中継放送もされ、爆発的な人気を得て、発展していった。
 この国際試合のとき、沖識名はNWA世界タッグ王者のシャープ兄弟とともに来日し、試合のレフェリーをつとめた。
以後、19年間にわたり、日本のリングでレフェリーとして活躍した。
1973年にリングを去り、83年にハワイ・ホノルルで亡くなった。
 引退式では、日本プロ・レスリング興業から感謝状が贈られた。そこには、次のように記されている。
 「角界よりプロ・レスラーとして転向の不滅の英雄故力道山をハワイにおいて育成し今日の日本プロ・レスリング界発展の礎を築いた功績は誠に偉大であります」
 力道山といえば、子どもの頃、高知の田舎でもテレビの前に人だかりができて、熱狂的な人気を得ていたことを思い出す。そのヒーローを育て、試合ではレフェリーとして活躍したウチナーンチュ(沖縄人)がいたことは、思いもよらないことだった。
 沖縄が移民県であり、ハワイ・北米にたくさんの県民が渡ったから、日本より早く戦前からプロレスに触れ、レスラーとして活躍する場に恵まれたのだろう。お墓はハワイにあるので、残念ながら訪れる機会はない。
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変容する琉球民謡、八重山から本島へ。「祖平花節」

 「祖平花節」(スィビラパナブシ)
 この歌は、波照間島で作られた曲である。歌には伝承がある。昔、波照間島の名船頭といわれた祖平宇根が人頭税を積んだ公用船の船頭に抜擢され航海を続けていた。ある年、熱帯的気圧に遭遇し、中国に漂着した。3年間滞在した間に、恋仲になった女性が遠視できる霊感持ち主で、波照間島の「風水」「航海安全図」を与えられ、無事帰国した。
 村の役人、古老らと協議し、風水図を基礎に(湊から名石村までの)「祖平花道」の新道路を開通した。浜から上がると「火の神」を建て、上方には「ビッチェル御嶽(拝所)を創建し、船の出入りの時は、航海安全を祈願し感謝することにした。以後は航海も安全になった。歌は、開通の喜びのあまり作られた即興詩だと伝えられている(喜舎場永珣著『八重山民謡誌』)。
 「祖平花節」の歌意は次の通り。
 ♪祖平花道を サーサー 縁起のよい道を サーサー 
 ※シュラヨイ シュラヨイ キユ スィディル ダキヨー
 ♪どなたをご案内するのですか どのお方をご先導するのでうか ※以下同じ
 ♪守る王府のお役人をご案内します お役人様をご先導いたします
 ♪首里王府のお役人の後ろを お役人様のお側を
 ♪私女頭(ブナヂゥ、女性の下級役職)役がお供します この私、
女性が後ろに付き添います
 ♪アシゥヤキャー(役人の宿泊所)にお供します お宿までご案内いたします
 この歌は、首里王府から派遣された役人を迎え、港から島の中心部に位置する名石村の宿泊所まで案内する道行の情景を描写している。
 「祖平花節」が元歌と見られるのが本島の「南嶽節(ナンダキブシ)」である。舞踊曲「貫花」で「武富節」「南嶽節」がセットになっている。
         
 本島の「南嶽節」の歌詞は、まったくの替え歌である。「南嶽節」は次のような歌意である。
 ♪打ち鳴らし鳴らし 四つ竹は鳴らし 鳴らす四つ竹の音の美しさよ
  ※シュラヨゥイ シュラヨゥイ キユ スィディナンダキヨゥ
 ♪今日は行き逢えていろいろ遊びをして 明日はあの人の面影が立つと思えば
 「南嶽」が何を意味するのか不明だ。歌詞の中には題名にかかわることは全然出てこない。ただし、囃子の部分だけは、ほとんど同じである。囃子の最後の「ダキヨー」が「ナンダキヨゥ」となっているだけの違いである。この「ナンダキヨゥ」に「南嶽」の漢字を当てて題名としたのかもしれない。

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変容する琉球民謡、八重山から本島へ。「真栄節」

 「真栄節(マザカイフシ)」
 竹富島からコメ作りのために西表島の仲間村に移り住み、引き離された恋人をしのぶ曲に「真栄節」がある。
 歌意は次の通り
 ♪産まれは竹富、育ちは西表仲間村の マザカイ(男名)は
   ※ウヤキヨーヌ ユバナヲゥレ
 ♪何ゆえに、いかなる理由で 仲間村に移り住んだのか ※以下ハヤシ
 ♪大浦田の、ミナグチゥの田んぼで 稲作するために
 ♪もち米を、白米を 作るために移り住んだ
 ♪竹富の、仲嵩の 上空に
 ♪白雲が、積雲が 立ち上ったら
 ♪白雲だと、積雲だと 思わないでね
 ♪カナシャーマだと、愛しい人だと 思ってちょうだいね
 ♪古見岳の、八重岳の 真上に
 ♪若月が、三日月が 上ったら
 ♪若月だと、三日月だと 思わないでよ
 ♪竹富島から来たマザカイだと 思ってくれよ
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 竹富島に生まれたマザカイは、「優良な田んぼがあり、そこで稲作をするために」西表島に移住したと答える。自ら志願して西表島に渡ったとされる。
 喜舎場永珣氏によると、マザカイは「真栄」とも「真佐久(マサグ)」とも童名で呼ばれていた。20歳で分家したが、本家より与えられたのは珊瑚礁畑であり、「かかる石塊畑の収穫では人頭税重税なりし折、己の義務を果たすことの不可能な事を覚り、早くも米作に目をつけたのか、西表島の仲間村に移住したのである」、しかし、自由移住が認められたわけではなく、仲間村にもあった竹富島役人の俸禄田である「ウイカ田」の監督者という名義で許可されたとのことである(『八重山民謡誌』)。
 王府時代には、貢納は米や粟をもって納付しなければならない。田んぼがなく米の穫れない竹富島や黒島などの住民にも米納を義務付けた時代があったという。
 マザカイも人頭税を納めるため、移住せざるをえなかったのだ。
 離別を余儀なくされたマザカイと竹富島に残されたカナシャーマが互いに、「竹富の上空に白雲、積雲が上がったらカナシャーマだと思ってちょうだい」「西表島の古見岳の真上に月が上がったらマザカイだと思ってくれよ」と言い交すのは、哀切きわまりない。
           
 この曲は、沖縄本島の舞踊曲「貫花」(ヌチバナ)の中の「武富節(タキドゥンブシ)」とそっくりの旋律である。前から、「この曲の歌詞には、武富(竹富)のことはまったく登場しないのに、なぜこの題名がついているのだろうか?」とずっと疑問をもっていた。でも、竹富島が舞台となった「真栄節」が元歌だとすれば、納得がいく。
 「武富節」の歌意は次の通り。
 ♪さあ連れ立って花を摘みに行こう 花は露に濡れて摘めないよ 
   ※エヰエヨウヌ ヒヤルガヒエ 
 ♪流れの早い白瀬川に流れる桜を すくい上げて愛しい彼に花輪(レイ)にしてかけよう
 ♪赤い糸の花輪は彼にかけて  白糸の花輪はもらいなさい子どもたちよ
 歌詞に見るように、曲の題名だけ「武富(竹富)」の名があるけれど、中身は何の関係もない。まるっきり替え歌である。2番目の歌詞は、久米島を舞台として歌われる「白瀬走川節」を取り入れたものである。
琉球舞踊「貫花」は「武富節」「南嶽節」がセットになっている。「南嶽節」は次回に取り上げる。「貫花」の2曲と舞踊の動画をアップするので比べてみてほしい。
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変容する琉球民謡、八重山から本島へ。「あがろーざ節」

 「あがろーざ節」
 八重山民謡を、本島で取り入れて、編曲したり、歌詞を変えて歌った曲を見てきたが、編曲してよくなっているのもあるし、本島でもとても有名な名曲となっている曲が多い。ただし、どうしても八重山の元歌の方に味わいがあり、本島の曲にはなじめない曲もある。
 その典型が子守唄「あがろーざ節」である。本島では「子守節(クムイブシ)」となっている。
歌詞は長い上に、同じ内容を少し変えた表現で繰り返すという八重山古典独特の形式となっている。
 全文ではなく、主な歌詞の歌意だけを紹介する。
 ♪東里村の真ん中にヤゥイ 登野城(トノシロ)の真ん中に※ヤゥ ハリヌクガナ
 ♪ミカンの木の下に 香り高い木の下に ※以下同じ
 ♪子守りたちが寄り揃い 子どもを抱く守姉たちが集まって
 ♪腕が痛むほど子守し 手首が痛むほど子どもを抱き
 ♪大人になりなさい 立派な人になりなさい
 ♪学問に優れた人になり 筆を執るのが上手な人になりなさい
 ♪沖縄本島への旅を受けなさい 首里王府への旅を受けなさい
                
 この歌は、子守りの娘さんたちが、登野城の中心部に集まってきて、九年母(クニブ=ミカン)の木の下で子どもを抱き、おしゃべりもしながら子守りをする。子どもが立派な人間に成長することを願う心情があふれている。八重山の子守りの情景がとてもよく表現されている曲である。
 八重山での子守りがどのように行われていたのか、宮城文さん著『八重山生活史』から紹介する。
 「子守は五、六才前後の娘のおつとめになっていて、姉のいる家庭ではもちろんその姉が、そうでない家庭では親戚や隣家の娘を頼むのが常例であった。娘たちは、たくさんの子供をお守するのが誇りであり、『守児(モリゴ)』のいない娘は毎日の朋輩の集いでもさびしい想いをしなければならないので、母親は遠い所まで探し求めてお守りをさせることさえあった」
  守りする子どもには、愛情を注ぐ。守りをした縁故は、生涯にわたって続く。守姉は、お守りした子の成長を見守り、守りをしてもらった子どもは、大きくなってからも、祝い事には、贈り物をするなど感謝の気持ちを忘れない。これは八重山だけではなく、沖縄全体に共通したことだった。
                 天川御獄
     石垣市登野城にある天川御嶽(オン)の説明坂
 大和の子守歌では、親元を離れて「子守り奉公」に出され、子どもが泣くと憎くなり、親元が恋しいと歌う子守歌が多い。八重山など沖縄の子守歌は、まったく逆の世界である。
  「あがろーざ節」は、沖縄本島では「子守節(クムイブシ)」として歌われている。
 ♪姉さんが大事に守り育ててあげるから 学問で優秀になりなさい
 ♪八尋屋の主になりなさい 十尋屋の主になりなさい
  「八尋、十尋屋の主」とは、大きな屋敷に住めるような人になれという意味だ。本島の「子守節」は、八重山のような子守りの情景はもう描かれていない。子守りをする子どもがよく学問をおさめて、出世する、立派な人になることを願うという、内容では共通している。本島でも八重山でも、士族層にとっては、学問を身に着け、王府の役職に就く、出世をすることが大きな望みだった。
 石垣島の登野城の地域は、百姓より士族の割合がとても多かった。「あがろーざ節」は、「学問の優れた人になりなさい」「首里王府への旅を受けなさい」と歌われていることから、士族層の子守の歌だと思われる。百姓は、学問は認められず、ましてや首里王府への旅などありえないからだ。
  「あがろーざ節」は、歌うととっても味わいがあり、私も好きな名曲である。「子守節」になると、なぜか味わいが薄くなる。あまり歌う気持ちがわかない。不思議だ。

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69年目の「慰霊の日」

 沖縄は6月23日、69年目の「慰霊の日」を迎えた。朝から、平和祈念公園や「魂魄の塔」をはじめ、沖縄各地の慰霊碑には、多くの人々が訪れて、慰霊と平和の誓いを新たにした。わが家は、今年は家でテレビ中継を見ながら、正午からの黙とうをした。
 
 終戦記念日はいつなのか?
 6月23日は、第32軍の牛島司令官が自決し、日本軍の組織的戦闘が終わったとされ、慰霊の日としている。といっても、6月23日が沖縄戦の終結の日とはならない。まだ、各地と離島で、山やガマに隠れて抵抗を続ける日本軍と住民がたくさんいた。だから、8月15日の天皇の玉音放送と終戦の事実も知らないままだ。
 米軍の捕虜になった住民は、各地の収容所にいたが、日本軍の降伏を通訳から聞かされたという。自宅でラジオを聞ける状態ではない。
              魂魄の塔
         沖縄戦の犠牲者を祀る魂魄の塔
 8月15日の終戦記念日は、沖縄ではいまひとつピンとこない。というか、この日に追悼行事はあまりない。
 沖縄戦の公式の終了は、1945年9月7日である。日本の降伏調印にともなって、沖縄本島を含む南西諸島の日本軍代表3人が、越来(ゴエク)村森根(現沖縄市)で、降伏文書に調印した。この日を沖縄戦終結の日とすべきという人もいる。
 悲惨なのは、終戦も知らされず、なおもガマや山などに逃げ隠れたり、日本軍に虐殺された人たちもいたことだ。
 南城市玉城糸数のアブチラガマでは、避難民百余人と傷病兵7人が米兵の呼び掛けに応じて壕を出たのは、8月22日だった。3月24日にガマに避難した糸数集落の住民は、なんと5ヶ月ぶりに太陽の光を浴びたという。ここでも、住民虐殺事件が起きている。
 久米島では、島に配属された海軍通信隊(鹿山隊、40人)が住民をスパイ視して殺害する事件が相次いだ。8月15日以降も、住民に投降を呼びかけた仲村渠(ナカンダカリ)明勇さんと妻、子どもの3人が浜辺の小屋で刺殺され放火された。朝鮮出身の谷川昇さんの一家7人にスパイ容疑をかけて、子どもの手を引き、乳飲み子を背負って逃げる妻や娘2人、昇さんを殺害した。狂気の沙汰である。こうした虐殺の責任者の鹿山兵曹長は、平然と生き延びて、降伏調印の場に現れたという。
 日本政府の無条件降伏である終戦記念日は、沖縄にとっては、米軍の横暴な占領と支配のスタートを意味する。9月7日の降伏文書調印によって、沖縄、奄美は日本本土から切り離され、米軍の直接統治のもとに置かれたからだ。
 危険な基地として住民が閉鎖を求める宜野湾市の普天間飛行場も、占領のもとで建設が進められた。米兵のよる女性への暴行も、沖縄戦の初期のころから多発した。8月には、玉城村(現南城市)や金武村(現在町)などで、家族と食料を探していた女性が複数の米兵に山中に連れ込まれ暴行されるなどの事件が起きた。
 沖縄の終戦とは、米軍基地と米兵による新たな重圧と危険の始まりであった。
 
戦後は終わらない
 沖縄は、終戦から69年がたっても、まだ収集されない遺骨が埋まっており、不発弾は約2050トンも残されている。しかも、米軍基地は日本全体の74%が沖縄に集中した現状は変わらない。それどころか、オスプレイの配備や辺野古への新基地建設など基地は強化されてきているのが現実だ。戦後は終わらない。
 集団的自衛権の行使という平和憲法の実質改悪が行われれば、日本は文字通り「戦争できる国」に変貌し、アメリカの戦争に加担することなる。そうなれば、沖縄が真っ先にその出撃拠点とされるだろう。
 戦後は終わらないばかりか、新たな戦争への道に沖縄が結び付けられることになる。県民の平和への願いを踏みにじるこんな道は、絶対に許されない。米軍基地も自衛隊基地もない平和な島でこそ、沖縄の未来がある。

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変容する琉球民謡、八重山から本島へ。「古見浦ぬぶなれーま節」

 「古見浦ぬぶなれーま節」
 「古見ぬ浦節」にかかわって興味深いのは同曲に登場する女性ブナレーマと同じ名前の女性を主人公にした「古見浦ヌブナレマユンタ」「古見浦ブナレマジラバ」など八重山の各地にあることである。
これは、古見のブナレーマが人頭税の貢布を納めるため舟で石垣島に出かけるという物語となっている。
 歌意を紹介する(囃子は略)。
 1、古見浦のブナレーマ女は ミユシク(古見浦の異称)の娘は
 2、初夏になったので 若夏がきたので
 3、自分の織り上げた上納布を取り持ち 十尋(ヒロ)の長さの布を抱きかかえて
 4、前の浜に駆け下り 皆の寄り合う浜に跳んで来て
 5、自分の舟を押し下ろし 艫高の舟を引き下ろし
 6、自分の織り上げた上納布を取り載せ 十尋の長さの布を抱き載せ
 7、石垣島に舟を走らせて行き 親島に舟を飛ばして行き
 8、どこが舟着き場か ミシャギゥ(美崎)の前が舟着き場だ
 9、どこが宿泊所か 蔵元の前が宿泊所だ
10、検査所に行って入り 点検所に入って行き
11、検査役人に検分してもらい 収納係りの役人に納めた
12、蔵元の戻りには 沖縄商店に入って行き
13、注ぎ口の湾曲した土瓶は祖母の土産に 木製の煙草入れは祖父への土産に
                         比屋根孝子
八重山民謡歌手の比屋根孝子さん。比屋根さんが歌うこの曲はまだ聞いていない
 この曲は、島と地域ごとに少しずつ表現が異なる。この歌意は、當山善堂著『精選八重山古典民謡集4』から紹介した。
織り上げた布を自分で舟に載せ石垣島に運び、宿をとり、役人の厳しい検査を受け、無事納めた帰りに、祖父母にお土産を買って帰る。こんなブナレーマの姿は、とてもたくましく、健気である。
 「古見ぬ浦節」で出てくるブナレーマと「古見ぬ浦ぬぶなれーま節」」のブナレーマは同じ女性だろうか、同名異人なのだろうか。同じ名前の女性が何人かいたとしても不思議ではない。時代が別なのかもしれない。
 竹富島の同曲は、上記の歌詞と似てはいるが、これに続けて歌う「引羽」(ヒクバ)の歌詞が、曲の後半部にあたり、少し異なる内容である。
1、布を引かしての帰りには 長さを引かしての帰りには
2、大和屋に走り 沖縄屋に走り行き
3、簪(カンザシ)も持って来た 押し差し(簪)も持って来た
4、筑補佐(チクブサ、役職名)家に走り行き 佐事補佐(サジブサ)家に走り行き
5、餅米も七升 粳(ウルチ)米も七升
6、二七つ 十四 二十八つ持って来た
7、簪は父のもの 押し差しは愛しい人のもの
8、餅米は異なもの 粳米は父のもの
9、古見村に走り行き 美与底(ミユスク、古見の異称)に帰りなさり
 こちらは、土産を買うのに「大和屋」にも行ったり、役人が登場する。土産をあげる相手も、父とともに愛しい人が出てくる。情景が目に浮かぶような曲である。
 當山氏は、この曲について「人頭税時代の女性に課された上納布にまつわる長編の叙事詩で、その表現の豊かさは圧倒的で傑作中の傑作と言っても過言ではない」(同書)と高く評価している。
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八重山上布(石垣市博物館)
 上納布を納めるための女性の苦労について、喜舎場永珣氏は次のように記している(『八重山民謡誌』)。
 「完納するまで婦女子はほとんど全部石垣の街で借家をして完納の祈りをし、役人に対してのお伽役を婦女子は秘密裏に強制せられて帰るという習慣であった。これは封建時代の秘史である…完納期間中の石垣の街は各離島や東部地方の婦女子で一杯であった」。
 検査と収納にあたる役人が、権威を背にして女性にお伽役も強制していたことを明らかにしている。
 波照間島の「古見浦ヌミヤラビアユ」は、少し歌詞の内容が異なる。
 <石表島の古見村に生まれた乙女は、朝起きると集合の合図板が打たれたので行くと、村番所の中で御用布の原料の白苧麻を紡ぐ命令だった。
 古見浦に生まれた乙女は、美人に生まれたのでお役人の賄女にご奉公していた。村のお役人の旅先の妻になっていた>
 あらましこんな内容の歌詞である。こちらは、納布のため出かける話ではないが、村番所に集められて役人の監視のもとに糸紡ぎや機を織らされる労苦と役人の現地妻にされた悲哀が歌い込められている。
 この曲は、歌詞の内容に異同はあっても、いずれも人頭税時代に生きた「ブナレーマ」をはじめ無数の女性たちを苦しめた現実を素材とした哀史というべき曲である。
 これは、本島でも歌われているわけではないが、「古見ぬ浦節」の付録として取り上げてみた。

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変容する琉球民謡、八重山から本島へ。「古見ぬ浦節」

 古見ぬ浦節(クンヌーラブシ)
 八重山民謡でも名高い「古見ぬ浦節」は、西表島の東側にある古見の浦が舞台である。大宜見長稔(1682-1715)によって作詞作曲された(喜舎場永珣著『八重山民謡誌』)という。歌の背景に伝承があるが、まずは歌意を紹介する。
♪古見の浦から見る八重岳よ 八重に連なるミユシク(古見の異称)よ 
  何時までも眺めていたいものだ
♪桜の花のごとく美しいブナレーマよ 梅の花のごとく香しい乙女よ
  何時までも花の盛りであってほしい
♪袖を振ると里之子※の衣装から 極上の沈香の香りがほのかに匂う 
  何時までも染まる移り香の芳しさよ  ※サトゥヌシ、位階名で転じて士族の若者。
♪乙女の想いは 愛しい乙女の心情は いつまでも二人だけで語っていたい
♪私の面影が立ったならすぐ一路古見においでよ 可愛いと思われたなら
 安否を問合せて頂戴ね 何時でもお出でをお待ちしています

                  
 作者の大宜見長稔は、官命によって、与那国島の人頭税輸送の大任を受けて、航海中、風雨にあい、古見の浦にたどり着いた。子孫の伝承によると、村民などの救助をうけ介抱された。ブナレマという美女の愛情に魅せられた。天気が順風になり、出帆するとなると、二人は手を握って涙とともに生木をさき折るように裂かれて、長稔は船中に人となった。涙とともに謡いだされたのが古見ぬ浦節だという。
 長稔は1715年、首里王府の尚益王の前でこの曲を歌ったところ、国王の御感に入り、三味線一挺拝領の光栄に浴したという(喜舎場永珣著『八重山民謡誌』)。
 ちなみに、18世紀半ばの古見は、人口700人以上を数える大きい村だったそうである。
 當山善堂氏は「ブナレーマは架空の女性」とする。「古見の浦の美しい景観や温かい人情を織りまぜながら描かれている」けれども、里之子との別離の場面は、「強制的に現地妻にされたあと、おきまりの筋書きどおり置き去りにされる別離の悲惨さが感じられない」と断じている。確かに生き別れとなる悲痛な思いを歌ったのなら、もっとそれらしい内容の歌詞になるのかもしれない。
                   古見の浦節歌碑
写真の「古見の浦節」の歌碑は「沖縄県の琉歌碑写真集」から使わせていただいた。
 ただ、私的には少し異なる意見を持つ。長稔が救助されての滞在なら、役人の赴任と違って、権威を背景にして現地妻を置かせることは考えにくい。「ブナレーマ」という名の女性が実在したかどうかは別にして、滞在中の食事などの世話をする女性はいただろう。村で心魅かれた女性がいても不思議ではない。どれほどの愛情関係があったかわからないが、魅かれた女性との思い出を、胸に刻んで帰郷したことはありえることではないだろうか。
 「いつまでも二人だけで語っていたい」という4番や「私の面影が立ったならすぐ一路古見においでよ」という5番の歌詞などは、別れの哀切感がにじみ出ている。
 伝承の真偽のほどは別にして、この曲は「しっとりとした曲調」「気品にみちた荘重な旋律」(當山氏)で歌われる名曲である。
 ちなみに、作者の長稔はどこの出身だろうか。石垣島の「八重山白保(真謝)の与人(真仁屋与一)の家・石垣家が…『古見の浦節』の作者・大宜見長稔の実家」だという。石垣家が所有した知念型三線(石垣市立八重山博物館所蔵)は、「長稔愛用と伝わる」そうである(「琉文21」ブログから)。
              
 本島の古典音楽に取り入れられた「古見ぬ浦節」を見てみたい。
 ♪おしつれて互に 花の下しので 袖に匂移ち 遊ぶうれしゃ
  歌意は次の通り。
 ♪一緒になって花の下に行って、袖に匂いを移して遊ぶのが嬉しい
  次の歌詞もある。
 ♪月も照り清さ 花もにほひしほらしゃ 押風とつれてながみやい遊ば
  次のような歌意だろう。
 ♪月は照り輝き美しい 花も匂いが香しい 風にあたりながら遊びましょう
 『安冨祖琉工工四』には、上記と同じ二つの歌詞が載せられている。
 『屋嘉比工工四』にある「古見之浦節」は、八重山の原歌を基にしたものと考えられるという。その歌詞は、次の通り。
 ♪沈や伽羅とぼそお座敷に出でて 踊る吾が袖ん匂のしほらしゃ
  歌意は次の通り
 ♪沈香や伽羅を焚いて、お座敷に出て踊るわが袖に、漂う匂いの香しさよ
 八重山の原歌を基にしたといっても、歌の内容は、いかにも首里の王朝文化の世界である。本歌を含めて共通するのは「袖に匂い」とか「沈香の香りが匂う」という言葉だけである。もはや、もはや古見の浦の景観の美しさや島の女性との別れの情感などは、まったく消え去っている。別世界の歌となっている。
 『屋嘉比工工四』の歌詞は、本島の古典の「黒島節」でも使われている。舞踊曲集「松竹梅」に入る「黒島節」を歌う時、この「沈香や伽羅とぼそお座敷に出でて」の部分は、なぜこういう歌詞なのか、と疑問に思ったことだった。「古見ぬ浦節」との関係を知ると、少し理解ができる。

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幻想的なサガリバナ咲き始める

 夜に咲く幻想的な花、サガリバナが咲き始めた。梅雨の季節から7月にかけて咲く。アルテ崎山で「ギターアンサンブルの夕べ」を見に行ったさい、そろそろ咲き出しているのではないか、と思って首里鳥堀の公民館付近の街路樹を見に行った。
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 もう花を咲かせるつるがたくさん、樹木の上から下に向かって下がっている。まだ見に行った時間は午後7時過ぎで明るいので、咲くには少し早い時間だ。でも、もう蕾がたくさんついて咲き出している。
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 サガリバナは、陽が落ちて暗くなってから咲き出して、太陽が昇るまでの、一夜限りの花の饗宴を繰り広げる優雅で美しい花だ。
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 よく見ると、樹木の上の方の葉っぱに覆われて暗い部分で、咲いている花があった。サガリバナは、白とピンクがあるけれど、こちらは真っ白な花だ。
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 写真を撮っていると「夜になるともっときれいですよ」と声をかけてくれた女性がいた。「そうですよね。これからですよね」と応えた。「これから」というのは、時間的にこれから、花の季節としてこれからが本番という、二重の意味である。昨年、見た満開のサガリバナの写真もアップしておく。ブログのプロフィールの写真も、この鳥堀の街路樹の花である。
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