レキオ島唄アッチャー

元気なウチナー野菜

 梅雨の晴れ間の沖縄は、もう夏に入った感じ。土曜日の朝の日課は、JA国場で土日に開かれる「ハルサー市」に行くこと。ハルサーとは、「畑を作る人」を意味する。つまり野菜の直売である。ここで野菜を買って、まだ足りない分は、近くの民間の野菜直売所「アグリハウス」に回ってくる。今朝も、たくさんの野菜を仕入れた。
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 まずは、瓜類から。こちらは「ナーベラー」。ヘチマである。大和では、食べないが、沖縄ではゴーヤーと並びよく食べる。ナーベラーの味噌煮が一番。昨夜も食べたところだ。1本100円。
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 こちらは、お馴染み「ゴーヤー」だが、ツブツブが大きい。「アバシゴーヤー」で、苦みは少なくサラダにもよい。ゴーヤーでは高級部類に入る。1本150円。
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 こちらは「モーウイ」。大和的には、「赤瓜」と呼ぶ。瓜類は、基本的に夏野菜だから、ゴーヤーもナーベラーもモーウイも5月半ばから出回り出したところ。わが家では、薄切りして塩でもみ、ワカメとシラスをかけて酢ものにするのが定番だ。煮てもよいし、漬物にもよい。1本100円。
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 次は冬瓜。冬の瓜と書くけれど、冬にはない。いまが最盛期だという。皮が厚いので長く保存できる。豚軟骨と冬瓜の煮物がとても、マーサンだ。美味しい。1本100円。
 写真は載せないが、キュウリは3本入りで100円。南瓜1個100円。南風原町は南瓜の産地で有名。こちらは栗南瓜みたいで、とても美味しい。
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 葉野菜では、まず「ハンダマ」。彩が鮮やかだ。薬草だから、身体によい。もっぱらサラダにする。お汁に入れてもよいが、色が出る。1袋100円。
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 お馴染み「サラダ菜」。6個くらい入っているが、やはり1袋100円。スーパーなら、1個で100円位する。それだけに、「ハルサー市」でも人気があり、早くいかないと、お店を営業しているらしき人が来て、買い占めてしまう。これらは年中ある野菜だからうれしい。
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 トマトは真夏になるともう沖縄は作れない。いま最後の時期ではないか。7個入りでなんと1袋100円。完熟。アグリハウスのレジの女性が、売り手なのに「まあ、安いわね!」と驚く。こちらも「ビックリですよね」と答える。値段は農家が付けて、委託販売になるから、レジの人も値付けには関与しないからだ。
 わが家では、トマトシーズンも終わるので、いまのうちにと果物代わりに毎日食べている。それに、トマトと鶏肉の煮物もよし。今だからできる。もうすぐ、トマトは高い大和産しかなくなる。アグリハウスは、周囲が畑でビニールハウスが並んでいる。見ると、トマトもたくさん作っている。
 
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 赤ピーマンもいまが旬なのだろうか。たくさん並んでいる。10個も入って1袋100円。サラダにも炒め物にも使い、いまは漬物にはまっている。キュウリ、ニンジンと一緒に酢漬けにした。
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 買った野菜を並べてみる。食べきれるか不安になるくらい。
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 アバシゴーヤー以外は、オール100円。それに、直売所はどちらも消費税は内税。3%上がっても、値段は変わらないから、嬉しい。野菜直売所に感謝である。


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変容する琉球民謡、八重山から本島へ。「でんさ節」

 「でんさ節」
 八重山はもちろん沖縄県を代表する教訓歌である。
  「でんさ節」は、宮良里賢氏が西表島の上原村の与人(ユンチュ、村長)時代に作詞作曲した(喜舎場永珣著『八重山民謡誌』)。1768年から3年近く上原与人を勤めたというから、240年余り前の曲だ。八重山全体の教訓歌として歌われ、さらに本島でも広く歌われるようになった。古い上原村は、1909(明治42)年には廃村になり、現在の上原村は、開拓移住者によって形成された村だという。
 歌意は次の通り。
 最初、「♪上原村で歌っているデンサ節は 昔から伝えられている教訓歌であるから 島(村)のあらん限り 永久に変わらない教訓歌である」(『八重山民謡誌』)と歌い始める。でも、私が使っている大浜安伴版工工四(楽譜)は、以下の歌詞である。
                        
 ♪島(村)を治めることと家庭を営むことは 船を操ることと同じである 船頭と船子、
  親と子(村長と村びと)が 揃わなければ(心が一つでなければ)ならない
 ♪親子の仲がよいのは子の心掛け次第 兄弟姉妹の仲がよいのは年下の心掛け次第 家庭の営みが
  円満であるのは  嫁の心掛け次第
 ♪人の大きな身体は愛らしくない 胆心こそ愛らしい 胆心をよく持ってこそ 世間を渡られる 
 ♪夫は家庭の大黒柱で 妻は家庭の鏡である 黒木柱と鏡は 家庭の繁栄の基である
 ♪人のした意見は大事なことではない 心延えこそが肝要である 心延えを尽くしてこそ 
  世間はうまく渡られる
  古くから八重山の島々に生きてきた人々が、大切にしてきた人生の道しるべがうかがわれる教訓歌である。  
  「儒教的倫理観を思想背景としているため、今日の時代感覚にそぐわない面もあるかと思われるが、総じて社会生活に処すべき普遍的な道徳規範が示されていて、日常生活に深く溶け込んでいる」(當山善堂著『精選八重山古典民謡集』)。
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                        本島の「デンサー節」を演奏した芸能チャリティー公演
 本島で歌われる「デンサー節」は、同じような歌詞もあれば、本島流の歌詞もある。元歌は、旋律への歌詞ののせ方が独特で難しさがある。本島の「デンサー節」は、よりシンプルな曲風になっている。味わいは少し落ちるけれど、歌いやすい。
 次のような歌意である。
 ♪デンサー節を作って 子どもたちに詠ませよう 世間の戒めとなることを 私は願っている
 ♪河(井戸)を油断する女性、道を油断する女性 それから夫も油断させるのだ
 ♪夫は家の中柱、妻は家の鏡 黒木柱と鏡は 欠かせない家庭の備えだ
 ♪船尾が高い船は島に着けない 気高い女性は家もてあそび ひどく気高いと前に転ぶよ
 ♪物を言う時は慎みなさい 口の外に気安く出してはいけない 一度出した後から飲むことはできない
 古い教訓歌だから、そこには当時の儒教的、封建的な道徳観、家庭観が色濃く投影されている。そのまま現在に持ち込めば、家族の関係、女性観など受け入れられない価値観がある。批判することはたやすい。でもいまさらそれをあげつらっても仕方のないことだ。今日でも大事な教訓も多い。沖縄民謡では、教訓歌は一つの重要なジャンルをなしている。
 「デンサー節」は「てぃんさぐぬ花」とともにその代表的な民謡である。
 人生の大切な教えを歌にすることによって、わかりやすく、記憶に残り、広く愛唱されるようになった。
 教訓歌を歌うおじい、おばあは「この歌はジョートーさ」ととても評価する。

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変容する琉球民謡、八重山から本島へ。弥勒神の始まり

 八重山の弥勒神の始まり
 八重山の豊年祭には、よくミルク様が登場する。ミルク神は、とても愛されている。土着ではない弥勒神の信仰は、それほど古い起源があるとは考えられない。いつから始まったのだろうか。
 喜舎場永珣著『八重山民謡誌』に、弥勒神と「弥勒節」の起源についての記述があった。これが、ほんとうに史実なのかどうか、いまは確認する術はない。でも、興味深い伝承なので、「弥勒節」について書いたついでに、同書からあらましを紹介する。
 弥勒菩薩の始まりは1791年にさかのぼる。大浜用倫氏が黒島首里大屋子(頭職)職勤務の時、公用で首里王庁へ上国した。公務が完了して帰省の途中、低気圧に襲われて安南国(ベトナム)に漂着した。時に安南国は豊年祭で賑やかな行列や余興が繰り広げられていた。弥勒祭が挙行されたので、見学したうえその由来を聞くことができた。弥勒菩薩は豊年泰平の神であり、神を崇敬して祭典を行うことで、五穀は豊穣し、人心は調和して豊年で理想郷になるという。
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                写真は、八重山ではなく那覇市小禄のミルク行列
 それを聞いた用倫は感動して、この弥勒神を八重山に請来して祭ったら、孤島苦を解消してユートピアを築くことになると確信して、そのことを請願した。これが容れられて弥勒面と衣装を新調し、これを記念として、福州を経て琉球に着いた。
用倫は、公務で首里滞在を命じられたので、随行者であった新城筑登之(チクドゥン、琉球の位階)に弥勒菩薩と祭典の模様や由緒を村人に伝承するよう言い含めた。弥勒神は子々孫々まで新城家で保管するよう厳命した。この弥勒神は遺言通り、新城家に保管され現代に至っている。
 用倫は、心にたぎっていたミロクの歌が、琉球に着いた時完成したので、歌詞を筆写して新城筑登之に教えた。彼が帰郷して、村民に伝えたのが弥勒節である。
 用倫は、公務を終えて帰省の途中、台風に襲われ、再び福州に漂着したが、病魔に倒れ客死した。54歳だった。

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ジョン万次郎が滞在した当時の高安家の風景

 沖縄ジョン万次郎会の定期総会で、同郷の高知人の和田達雄さんにお会いした。2年ぶりだ。和田さんは、糸満市米須に住んでいて、万次郎が琉球上陸をした大渡海岸に「上陸記念碑」の建立をめざす建立期成会の事務局長として奔走されている。
 ジョン万のシンボルマークを付けた「ジョン万ハット」をかぶり、みずから「ジョン・タツオ」と自称しておられる。
 上陸記念碑はまだ構想段階の図であるが、とても大きくて立派なもの。万次郎がこれを見れば、立派過ぎて「はじかさー」するかもしれない。
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 1851年、アメリカから故郷の日本に帰る上で、上陸の地に選んだのが琉球だった。半年余り滞在した。和田さんは、豊見城市翁長(オナガ)の高安家を訪れて、5代目当主の高安亀平さんにお話をうかがったそうだ。その際、高安家の大正時代の風景を描いた絵を見せてもらい、写真に撮影した。昔の家屋の情景がよくわかる。
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 これはあくまで大正時代。二階建ての赤瓦の家は万次郎が滞在した当時はなかった建物だ。この絵をもとにして、赤瓦の二階屋の部分を、昔のわら葺の家に修整して、万次郎が滞在した当時の家屋敷と思われる風景を復元してみたという。
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 高安家は、万次郎ら土佐人3人を宿泊させるため、家の当主らが住んでいた家屋を提供し、自分たちは別に住むための家を建てたそうだ。
 右端の母家が土佐人の寝床となり、入り口すぐ左の家に家族8人は移動した。母家の隣は炊事場と物置、左端の家は馬小屋だという。
 この絵が実際に当時の家屋を正確に再現したものであるかどうかはわからない。しかし、19世紀の琉球王府時代の家屋敷らしい雰囲気はとてもよく出ていると思う。
  家の周りにある生垣は竹である。家の敷地に入ると正面にヒンプンが見える。万次郎はこのヒンプンを飛び越えていたとも伝わる。
 定期総会の講演で配布された尚家文書「土佐人漂着日記」の解説に興味深いことが記されていたので、ついでに紹介する。
 上陸時の万次郎ら土佐人の服装はアメリカ帰りだから洋装だったため、日本着物(和装)に改めるよう在番奉行所から指示が出された。この指示は「沖縄仕立」の単(ヒトエ)と袷(アワセ)に変更された。4月には夏向けの単の「琉球裳」作成の指示が出されているという。
 万次郎らの翁長での滞在について、村民に対して5項目の禁止事項が出された。①漂着人の村中歩行禁止②村民の漂着人との接触禁止と中国・日本・琉球その他に関する会話の禁止③漂着人宿近辺への女性の通行禁止④火の用心⑤漂着人との商売の禁止と進物・贈物の禁止である。
 といっても、万次郎は村の若者たちとも交流したり、琉球語を学び、村の一大イベントである大綱曳きにも参加したと伝えられる。役所があれこれ禁止を並べても、実際にはあまり縛られなかったのだろう。
 この絵を見ていると、万次郎がいた当時の情景が頭に浮かんでくるようだ。
 
 
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ジョン万次郎と「土佐人漂着日記」の講演を聞く

 沖縄ジョン万次郎会定期総会が5月24日、豊見城市JАおきなわ豊見城支店3階ホールで開かれた。総会の案内では、午後4時受付、4時半、総会報告とあったので、4時過ぎに着いたら、もう総会は終わるところだった。平成25年度の事業報告と26年度の事業計画、決算、予算が承認された。
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 事業計画では、今後、「琉球のグスクを訪ねる」や川澄哲夫氏の講演「たった一人の日本遠征」、第4回土佐清水ジョン万祭り(10月24日)、万次郎忌の集い(11月9日)への参加など予定されている。
 総会の後は、講演会。栗野慎一郎氏(歴史研究者)が「ジョン万次郎と『土佐人漂着日記』(尚家文書)」のテーマで2時間ほど講演した。
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 興味深いのは、「土佐人漂着日記」で、1851年の中浜万次郎ら土佐人琉球上陸事件についての、琉球王府側の正式記録であり、事件当時に作成された唯一の一件文書である。あまり知られていなくて、この史料の存在が注目されたのは、琉球国王だった「尚家関係資料」の那覇市移管にともなう総合調査(1998-2002年)と報告書の刊行によってである。
 史料には、万次郎ら土佐人3人が摩文仁間切(現在糸満市)小渡浜に上陸した1851年1月3日から7月までの文書が収録されている。特に、上陸直後の1月の記事が多い。従来の土佐人関係資料の欠落を補う内容を有しているという。
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 栗野氏もまだ解読の途中で毎月、勉強会で読んでいくという。
 講演は、2時間を費やしながら、最も聞きたかった「土佐人漂着日記」の内容については、ほとんど踏み込まないで、主題以外の「万次郎入門編」の話が大半を占めるなど、物足りなかった。まだ解読途中だからなのか。それにしても、欲求不満の講演だった。
 
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変容する琉球民謡、八重山から本島へ。「弥勒節」

「弥勒節」(ミルクブシ)
 八重山地方の農耕神事である豊年祭には、大方の村において豊年や豊穣の世の象徴として来訪神の「弥勒神」が出現し、村人に五穀の種子を手渡す。この「弥勒節」はその場面で歌われることが多く、弥勒神の降臨を祝福するとともに五穀豊穣を祈願する内容となっている。
 ミロク信仰は、沖縄ではとても盛んだ。大和では、弥勒といえばあの有名な法隆寺の弥勒菩薩の優雅な仏像を思い浮かべる。でも、沖縄のミルク様は、布袋様の顔をしていて、にこやかで、お腹は大きくて、とても福々しい。
 弥勒は釈迦入滅後56億7000万年後にこの世に出現し、釈迦仏が救済しきれなかった衆生を救う来訪仏とされる。中国で実在した布袋和尚を弥勒の化身とする信仰が広がり、それが八重山にも伝わったそうだ。だから、沖縄のミルク様は布袋様の姿になる。
                  
     
 八重山一帯の豊年祭など祭りで登場する。それが本島にも伝わった。
「豊年や豊穣の世」を意味する言葉の中でも、最も頻繁に登場するのが「弥勒神」によってもたらされる「ミルクユー(弥勒世)」である。
 「本来は神事専用の祭り歌であったが、美しく大らかな曲調とめでたい詩句でつづられているため、次第に一般の祝宴の言祝(コトホ)ぎ歌として演奏されるようになってきた」という(當山善堂著『精選八重山古典民謡集』)。
 次のような歌意である。
 ♪神の国から弥勒神が 私たちの島にご来臨なさった 島に立派なお治めください 島の護り主様
 ♪豊年満作を賜ったので 遊ぶなら大いに祝い楽しみなさい 踊るなら思う存分 祝い楽しみなさい
   お許しが出たのだから
 ♪豊年満作の予兆に 十日おきに夜雨が降った 立派にお治めください 恵み豊かな世の徴しとして
  ミルク神が降臨して豊作となった歓び、豊年満作を願う内容となっている。豊年の予兆とされる「夜雨」の意味については、すでに書いた。
 この曲は、沖縄本島ではわらべ歌「赤田首里殿内(アカタスンドゥンチ)」(みるく節)としてよく歌われる。次のような歌詞である。
                 
 ♪赤田にある首里殿内は黄金色の灯篭(クガニドウルウ)さげて それが灯れば 弥勒菩薩様を迎える
 ※しーやーぷー しーやーぷー みーんみんめー みーみんめー ひーじんとー 
  ひーじんとー いーゆぬみー いーゆぬみー
♪夜明けとともに勉強しに行くので 髪を結って下さい 私のお母さん ※以下ハヤシ 
♪安南国(いまのベトナム)の弥勒菩薩が わが島へいらっしゃり お与えくだされ 五穀豊穣の恵みの世を 
♪道行く先々の辺りで 歌を歌って遊ぶのは 弥勒豊穣の恵みの世が 近くなった証しだ
 那覇市首里赤田では「みるくウンケー」の伝統行事があり、この歌が歌われる。ミルク様を先頭にした行列が練り歩き、豊穣、健康、繁栄を祈願する。
 歌の囃子の部分は「しーやーぷー しーやーぷー」とはじまることから、子どもをあやす手遊びの歌として親しまれている。「しーやーぷー」はミルク様のほっぺた、「みーみんめー」はミルク様の福耳、「ひーじんとー」はミルク様のひじ、「いーゆぬみー」は手のひら、だという(沖縄出身の唱者、豊岡マッシ―さんのブログ「イチャリバーズ」から)。
 「弥勒節」の元歌と「赤田首里殿内」を比べると、歌詞の文言はかなれ異なるが、弥勒様をお迎えし、五穀豊穣、弥勒の「世果報」を願う内容の歌としては共通している。それぞれに、味わいがある。ただ、本島の「赤田首里殿内」は、わらべ歌として歌われ、その囃子に特徴がある。子どもの手遊び歌となってきたことにより、歌の性格がガラッと変った。
 なぜ、本島ではこのような囃子がついたのだろうか。ミルク様は、とてもみんなに愛されている。ミルク様の持つ扇で仰いでもらうと無病息災のご利益があるとかで、みんな道の両側に並んでミルク様を迎える。
 愛嬌のある風貌、ふくよかな表情と親しみやすさから、ミルク様のほっぺた、耳、肘、手のひらが囃子として歌いこまれるようになったのだろうか。これはなんの根拠もない私の思い付きに過ぎない。

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変容する琉球民謡、八重山から本島へ。「豊穣の世」

 「豊穣の世」には多彩な表現がある
 八重山古典民謡の中には「豊穣の世」「恵みに満ちた理想的な世」を表す言葉として「弥勒世・神ぬ世・昔世・天世・大宅世」などがよく用いられるが、「鶴亀節」にはこれらの用語がすべて出てくる。沖縄本島では、通常は「世果報(ユガフー)」がよく用いられる。でも、八重山は実に多彩な表現があるのに驚く。
 「鶴亀節」では、「弥勒世ば給られ」「昔世ば給られ」「神ぬ世ば給られ」「大宅世ば給られ」「昔世ぬ巡りょうーり」「天世ぬ巡りょうーり」などと歌われている。「弥勒世(ミルクユー)」は、「理想的な豊穣の世」のこと。弥勒神が降りてきて五穀豊穣と平和な世をもたらすことを意味する。ただ、沖縄では「仏教と固有信仰が習合して『弥勒神』と想念されている」(當山氏著書)という。

 「昔世(ムカシゥユー)」は「平和で豊かな理想郷」、「神ぬ世(カンヌユー)」は「恵みに満ちた豊かな世」で「昔世」とは同義の対語となっている。
 「大宅世(ウヤキユー)」の大宅は「金持ち・富んだ家」のことで、大邸宅に住むほど裕福な世のこと。川平村に伝わる「鶴亀節」の原歌では、「大宅世」ではなく「富貴世(ウヤキユ)ば給られ」となっているが「大宅世」と同じ意味らしい。
 「天世(アーマンユー)」は「歓びに満ちた豊かな世」の意味。「歓世・甘世・海人世・余万世」などの表記もあるそうだ。「鶴亀節」の原歌では、「歓ん世(アマンユ)ぬ巡りより」となっているそうで、「喜びに満ちた幸福な世が巡ってきた」という意味である。
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 つまり「弥勒世・神ぬ世・昔世・天世・大宅世」などは、表現が異なるけれど、そこに込められた人々の願いは共通している。つまり、平和で豊かな理想的な世の中が訪れて、人々が平和で豊かに楽しく暮らせることを求めるものである。
 なぜ「恵みに満ちた理想的な世」を表す言葉として、これほど多彩な表現があるのだろうか。これはやはり、人頭税の重圧のなかで呻吟する日々の暮らしのなかで、なによりも課せられた年貢を滞りなく納めること、そのために豊年満作、五穀豊穣が欠かせない。それに、余剰の米や粟が収穫できれば、貧しい中でも暮らしは楽になる。豊かな世の中への願いが強かったことの表れではないだろうか。

 少し、不思議に思うのは、人間の変わらない願望としては、豊年だけでなく、健康と長寿、家庭円満、子孫の繁栄、無病息災などは欠かせない。でも、「鶴亀節」に歌われる「恵みに満ちた理想的な世」には、人間個人の健康と長寿、子孫繁栄などはどうも見当たらない。
 逆に、人頭税下では、人口が増えれば年貢も増えることを恐れて、赤子を埋め殺したなど、悲しい人口調節の伝承がある。往時の庶民にとって、五穀豊穣や豊かな世の中の訪れることが、なににもまして優先する願望だったことの表れだろうか。
 「弥勒世・神ぬ世・昔世・天世・大宅世」などが表現された曲を歌うたびに、この歌に込められた庶民の思いが感じられる。

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梅雨前線が消えた!?

 5月6日から梅雨入りした沖縄は、毎日、うっとうしい雨模様が続いた。沖縄では、梅雨のことを小満芒種(ス-マンボースー)と呼ぶ。
 ところが14日からカラッと晴れ渡り、青空が広がった。それも1日ではなく、1週間ほど好天が続くという予報だ。つい2,3日前までの週間予報では、傘マークが毎日並ぶ予報だったのに、急転して、晴れマークがならぶ予報となった。
 なんでも、大陸から高気圧が張り出し、梅雨前線が消えたとか。ほんとかいな、と眉に唾する。
 でも、この晴れマークの並ぶ予報を見ると、梅雨の中休みにしては長すぎる。5月に晴れると、まだ太陽は真夏のようには厳しくない。最高気温が今日も25度で、暑くない。湿度も下がって、とてもさわやかな気候だ。
 例年だと、5月に梅雨入りしてから、こんな好天が続くことは、あまり経験がない。5月に晴れればこんなにもさわやかな気候なのかと、妙に感心する。
 まあ、まだ梅雨は半分も過ぎていない。また、梅雨空が戻ってくるだろう。
 
                  月桃3
 月桃が咲き乱れている。梅雨時の花だ。真っ白で可憐な花だけれど、梅雨どきといえば、69年前には、沖縄戦ですべての県民が地獄のような体験を強いられた時だ。戦場をさまよう先々に、月桃が咲き乱れていた。体験者にとっては、美しい月桃の花も、悲惨な体験をよみがえらせる花だと聞く。
 梅雨になり、月桃を見ると、われわれのような沖縄戦を知らないヤマトンチュ―も、69年前に思いをはせる花である。
追記。
 夜が明けると、もう天気予報が変わっている!
 なんと、晴れ予報が、曇り時々雨。しかも、週間予報でも、晴れマークの横に傘マークがついている。これではやっぱり梅雨前線は消えていない。まあ、梅雨時に、晴れマークが並ぶのでは、水不足も心配されるから、いいけどね。

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変容する琉球民謡、八重山から本島へ。「鶴亀節」

 「鶴亀節」(チュルカメブシ)
 次は「鶴亀節」。石垣島の川平村を発祥の地とする歌である。本島でこの民謡を歌うときに、「目出度節」と同じような印象がある。おめでたい光景が歌われるけれど、あまりリアリティーがないなあ。そんな曲だという印象をもっていた。しかし、八重山古典民謡の歌詞を見ると、その内容はまるっきり違う。この曲は、一名「川平鶴亀節」とも称されている。
 歌意は通常歌うのは次の通り。
 ♪川平村に豊穣の世を賜った ※鶴と亀が舞い遊ぶ
♪平和で豊かな世(昔世)を賜り 恵み豊かな世(神ぬ世)を賜った ※以下同じ
♪現在の与人(ユンチュ)役人が来られてから 以前の村とは違いより豊かになったよ
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                       川平湾
内容は共通しているが、次の歌詞もある。
♪川平村の与人(ユンチュ)役人のお蔭で 川平村の目差(メザシ)役人のご尽力により
 豊かな世を賜り 豊穣の世を賜った
♪平和で豊かな世がめぐってきて 歓びに満ちた世がめぐってきた 川平村に 豊穣の世を賜った
♪平和で豊かな世を賜り 恵み豊かな世を賜った
♪現在の与人役人が来られてから 以前の村とは違いより豊かになったよ
 八重山の古典民謡には、自分の村を自慢する、役人を褒め称える歌が数多くあるが、この歌はその系列に属するもの。平和で豊かな世 歓びに満ちた世がめぐってきたことを大いに喜びあう内容だ。
 「弥勒世(豊かで平和な世)を言祝ぐ村びとの晴ればれとした姿と善政を施した村の長への讃辞を、長寿と吉祥の象徴である鶴と亀の舞い遊ぶ様子に重ね合わせる形で描写している」(當山善堂著『精選八重山古典民謡集』)
 私個人の感想としては、人頭税にあえぎ、苦しめられた百姓たちが、豊穣の世になったことを喜ぶのは自然である。といっても、村役人の尽力のお蔭だとか、役人に感謝する内容になっているのは、少し不自然な感じがする。役人に気を使って、こういう文言が入ったのだろうか。それとも、八重山では、三線をたしなむ役人が古い民謡を編曲したり、補作する例が多いので、この「鶴亀節」にもそういう手が入っているのだろうか。
               
 本島で歌われる「鶴亀節」は次の歌詞で歌われる。
 ♪千年を経た松の木の緑葉の下で ※鶴と亀が舞い遊ぶ
 ♪亀が歌を歌えば鶴は舞い踊る ※以下同じ
 ♪若松の緑を床の間に飾って 
 ♪枝を見れば白銀だが真は黄金
 本島の歌詞は、元歌の「鶴と亀が舞い遊ぶ」という囃子の部分はそのまま取り入れているが、その外はまったく別の歌詞になっている。「目出度節」と同じように、めでたい情景や事柄を並べているだけだ。なぜめでたいのか、豊穣の世、平和で豊かな世が訪れたという言葉もない。
 そこには重い人頭税にあえぎながら懸命に働く庶民の苦労と豊年への喜びと感謝など、元歌に込められた要素は完全に消え去っている。
 最初、この曲を聞いたとき、鶴亀といえば、なにか大和文化の影響なのかという印象があった。でも、鶴亀を長寿や吉兆の象徴とみるのは、本来は中国文化の影響であるから、沖縄で歌われても、なにも不思議はない。
 ただ、「目出度節」と同様に、本島の「鶴亀節」も、歌っていると、なんかおめでたい気分がする名曲であることに変わりはない。

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変容する琉球民謡、八重山から本島へ。「目出度節」

 「目出度節」(メデタイブシ)
 お祝いの曲には、八重山古典民謡を元歌とした曲が多い。たとえば「目出度節」。石垣島宮良村を発祥の地とする歌である。宮良与人(ユンチュ、村長)を拝命した大浜用登氏が、その4年後の1843年8月に「宮良村結願祭のときに、記念として作歌作曲されたと、同家に保管されている記録にある」(喜舎場永珣著『八重山民謡誌』)という。
 祝儀歌を代表する曲として、地元以外でも広く愛唱されている。
 本島で歌われる「目出度節」は、歌詞が見事に換骨奪胎されている。「めでたい」という祝い歌の形は残っているが、中身はほとんど別である。そのすり替わり方が、とても興味深い。本島で歌われているのは、次のような歌詞である。
 「♪今日(キユヌ)ぬふくらしゃや むぬにたとららん 上下ん揃(スル)て
 踊り遊しば めでたいめでたい スリスリめでたいめでたい」
 ♪今日の誇らしさは何に例えようか 身分の上の者も下の者もみんな揃って踊り遊ぼう。
 こんな歌意である。このあとも、「心を合わせて願ったことがかない お互いに打ち解けて遊ぶうれしさよ」「千年を経た松の緑葉の下で 亀が唄を唄えば 鶴は舞い踊る」というふうな、めでたいことのオンパレードである。
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                               祭りのときは「目出度節」がよく演奏される
 ただし、歌詞をよく見ると、なんでめでたいのか、その理由らしきものは見当たらない。「願いがかなった」ということぐらいだ。それも抽象的だ。
 でも八重山で歌われる「目出度節」は違う。なぜ、めでたいのでお祝いするのかが明確である。歌意だけを紹介する(『精選八重山古典民謡集』)。
 「♪今年植え付けた稲粟は豊作である なんと心楽しいことよ   ※めでたいめでたい」
 「♪年貢・上納は不足なく 納めることが出来た なんと喜ばしいことよ ※以下同じ」
 「♪年貢を納め余剰の米や粟が大量にあるので 酒や神酒を醸造した」
 「♪今日も明日も遊び楽しむ嬉しさよ あそこに3,4人  ここに5,6人と賑やかに」
 「♪楽しみや歓びの極みに踊り楽しもう 揺るぎのない豊穣の世が 宮良村に訪れるように」
 歌意にみるように、作った稲粟が豊作で、年貢・上納を不足なく納めたことを喜ぶ気持ちが込められている。
 「往時の人々にとって年貢を無事に納めるというということは、現代の私たちが想像する以上に大きな喜びであったであろう。その上、造り立ての新酒をまず神々に捧げ神人交歓の宴を催すことは、豊穣・豊作を象徴する至上の喜びであったと思われる」(當山善堂著『精選八重山古典民謡集』)
                   
                      動画は「繁盛節」「目出度節」「祝節」の3曲が入っている

 これは、人間の頭割りで税金を課す前近代的な人頭税のもとで、重い搾取を受けてきた農民にとって、年貢を完納できるかどうかは、百姓にとって一大事であった。だから、豊作で年貢を完納できれば、豊年祭を盛大に祝う。余剰の米粟で酒をつくる。神様にも来年の豊作を願って神酒をささげただろう。みんな歌い踊り遊ぶ姿が目に見えるようである。
 舞い踊るのも神への奉納の意味がある。「揺るぎのない豊穣の世」が訪れるようにという願いも、心からの叫びである。八重山のこの曲は、庶民の日々の暮らしの営みから生れた曲なので、豊作への祈りと年貢完納の喜び、祝いの気持ちが沸き立つようだ。
 しかし、本島の「目出度節」になると、宮廷芸能家らによって、編曲され、改作されたのだろうか。豊作の喜びはない。重税を納める苦労を知らない立場の者にとっては、もはや元歌のような内容はあえて必要がないのだろう。元歌の神髄はバッサリ捨象されている。ただ、祝いの中身抜きに「めでたい、めでたい」という歌詞になっている。といっても、本島の「目出度節」も、とても軽快で、うきうきとした喜びの気分にあふれた曲であることには変わりない。


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