レキオ島唄アッチャー

沖縄戦の戦跡を訪ねて、南風原病院壕

 沖縄陸軍病院南風原壕群20号
 南風原町にある陸軍病院壕が一般公開されたので見学に行った。もう6年ほど前だろう。
 壕は手掘りの横穴壕で、クチャ土(泥岩)のため坑木がはめられ、狭い通路と二段ベッドがあった。ベッドは重症患者が寝かされ、壕内は血・膿・ウジの臭いと、唸り・叫び声が充満したという。当時の壕内の様子が再現されているが、壕内に充満した強烈な臭いだけは再現できないとのことだった。
 沖縄陸軍病院は、第32軍の陸軍病院として編成された。野戦築城部隊の指導の横穴壕が造られた。米軍の艦砲射撃が始まった1945年3月下旬、陸軍病院は使っていた南風原国民学校が焼け、各壕へ移った。
 軍医、看護婦、衛生兵ら約350人に加え、沖縄師範学校女子部・県立第一高等女学校の生徒(ひめゆり学徒隊)222人が教師18人に引率され、看護補助要員として動員された。
                       沖縄陸軍病院南風原壕群20号

 4月1日に米軍上陸後、外傷患者の激増に対応するため、外科を第一外科、内科を第二外科、伝染病科を第三外科へと改めた。5月下旬、第32軍司令部は摩文仁へ撤去を決定し、陸軍病院に撤去命令が出された。その際、重症患者に青酸カリが配られ、自決の強制が行われた。
 「こりゃ毒や」。第一外科に収容されていた第62師団(石3592)所属の岡襄さん(当時21歳)=京都府=は指を突っ込んで今飲んだミルクをはき出した。迫撃砲の破片が尻に食い込み、動けない状態だった。毒だと気づき、「殺される」と思った瞬間、これまで動けなかった体で立っていた。「琉球新報」が発行した「沖縄戦新聞」1945年5月27日付は、このような証言を伝えている。「南風原陸軍病院壕趾」の碑文には「重症患者二千余名自決の地」と刻まれている。
 南風原町は、1990年、戦争の悲惨さを伝える証として、第一外科壕群・第二外科壕群を町の文化財に指定した。2007年6月から、南風原壕群20号が一般公開された。

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生島ヒロシさんが登場したサプライズライブ

 沖縄唯一のGSバンド、SSカンパニーのベースギターリスト、ピロちゃんのバースデイライブが、那覇市内のライブハウス「アパッチギャング」であった。
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 RBCの番組「団塊花盛り」でGSコーナーを担当する箕田和男さんが、おりしも来沖中の生島ヒロシさんを伴って来店した。生島さんは、毎朝5時30分から1時間、「おはよう一直線」という番組をやっている。
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 サプライズでさっそく舞台にあがり、GSナンバーを3曲歌った。子どもの頃、GSを聞いていた世代とのこと。「長い髪の少女」「思いでの渚」など披露。歌詞の分からないところは、SSリーダーの瀬底正真さんが、耳元で教える。生島さんはCDも3曲出しているくらい。声はよい。ノリノリで楽しそうに歌った。
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 生島さんはことし63歳らしい。「ヒロシです」という芸人ヒロシの売り文句は、生島さんの名前からきているそうだ。
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 早朝番組を担当しているので、夜更かしはしないのだろう。一部で帰った。ビールも飲まずジュースだった。健康に気を付けているはず。宮城県気仙沼の出身で妹さんとその夫を大震災で失ったそうだ。
 「沖縄大好き」「ナンクルナイサ―という言葉が大好き」と話す。とても気さくな人だ。 
 この日のライブの主役は、ベースのピロちゃん。ライブの常連さんからたくさんのプレゼントをもらって、とても嬉しそうだった。
 スペシャル・サプライズ付きの楽しいライブだった。
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沖縄戦の戦跡を訪ねて、旧海軍司令部壕

 旧海軍司令部壕
 那覇市小禄と豊見城市にまたがって旧海軍司令部壕がある。沖縄戦のさい、海軍の沖縄方面根拠地隊司令官だった大田實中将が、米軍の進攻を受けて自決したのが、1945年6月13日だった。海軍司令部壕の最期である。日本軍の組織的抵抗が終わった日とされる6月23日より10日前である。
 この旧海軍司令部壕には、もう6年ほど前に行った。小高い山頂部に、地下壕が掘られて、そこに海軍司令部があった。
                        壕内
                        写真は、壕の内部
 最初にガマ(洞窟)を模して造られた資料館に入った。沖縄戦の経過や約四〇〇〇人が立てこもった壕での、司令部と兵士の悲惨な最期を示す展示物を見る。その後、緩いスロープを降りていくと、中はアリの巣のように壕が張り巡らされている。
 壕の中は狭い。作戦会議室、暗号室、司令官室、医療室、一般兵士が牛詰めにされ、立ったまま眠った部屋などがある。最期に自決した時の手りゅう弾の跡が壁に残り生々しい。これほどのトンネルの壕を掘るだけでも、軍民の苦労はどれほどであったのか。その上、追い詰められて、無謀な斬り込みを繰り返し「玉砕」する兵士⋯⋯。こんな戦争を絶対に繰り返してはならないとの思いを新たにする。
                       大田實司令官の電文
                    大田司令官の電文  
 ただ、兵士も沖縄県民も勇敢に戦ったという大田実司令官の報告が掲げられ、軍が英霊扱いされている感じがしてならない。それが気掛かりだ。後日知ったことだが、大田司令官の息子が、この旧海軍壕跡を訪ねて「この壕の目的は何だ、反戦恒久平和を祈念するとあるが、訪れる観光客が本当に戦争の無意味さ、非人間性を知る手助けになるのか、次から次へと湧く疑問に私はいらだった」と疑問をもったそうだ。

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沖縄戦の戦跡を訪ねて、弁ケ岳にも壕跡

 首里の弁ケ岳にも壕跡
 弁ケ岳は、沖縄戦では、第32軍の司令部のあった首里城に近い高地なので、激戦の地だった。
 1945年4月1日、本島の読谷から北谷にかけての海岸から上陸した米軍は、南下してきた。
 中部戦線で2か月近く激しい戦闘が続き、米軍は首里城に迫る。
 日本軍司令部は、1945年5月27日、首里城から南部へ撤退した。                        
                      
 米軍は全戦線にわたり攻撃を強化する。5月28日には「石嶺、辨ケ岳正面は米軍と接戦しながらも陣地を保持した」が、「辨ケ岳、石嶺高地、大名高地方面も三十日攻撃を受けわが残置部隊は奮戦したが、米軍は逐次滲透して来た」。防衛庁の『戦史』でも、このように記されている。
                       img_1896_2[1]

 弁ケ岳は、古くからの拝所「弁ケ嶽」がある。一般に「ビンヌウタキ」(弁ヌ御獄)と呼ばれる。峰全体がご神体とされていた。戦前までは、琉球松などの大木が茂っていたそうだ。弁ケ嶽には、戦争の痕跡、戦跡がいくつかある。
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 石門の前に、灯篭が二つあるが、銃弾の跡のような、小さな窪みがある。灯篭そのものも、なぜか欠けている。
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 石門の左横に、旧日本軍の洞窟陣地がある。コンクリート造りで、ポッカリと入口が開いている。中は深いのだろうか。何も囲いはない。コンクリート壁には、やはり銃弾の跡だろうか、いくつも痕跡が残されている。
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 弁ケ岳の壕跡をブログで前に紹介した時、知人のTさんが、訪ねて行ったところ、草木が茂って場所がわからなかったという。それを聞いて自分で行ってみたが、前はすぐ見つかったのにやっぱり、分からなかった。不思議なほどだ。

 石門の背後の山にも登ってみた。
 山頂には、三角点とともに拝所がある。これも何を祀っているのか分からない。 山頂からの眺めは抜群だ。西方を見ると、首里城が、真正面に見える。北方を見ると、中城方面から与勝半島の方まで、見渡せる。軍事的に要衝だったことがわかる。以前、テレビで弁ケ岳の戦跡が紹介されていたのを見た記憶がある。何か説明するものがあればよいのに、と思ったことだった。

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沖縄戦の戦跡を訪ねて、首里城の第32軍司令部壕

 首里城の第32軍司令部壕
 沖縄戦の第32軍司令部壕跡を見た。首里城に何回も行っていながら、まだ見ていなかった。
 説明板が設置されているのは第一坑道入り口のある場所。世界遺産の園比屋武御嶽(ソノヒャンウタキ)石門の裏手になる。
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 第32軍は、1944年3月に創設され、同年12月から、多くの学徒や住民を動員して司令部壕の構築が進められた。
 司令部壕は、首里城の地下に張り巡らされている。南北400㍍、総延長1キロメートルに及ぶ。壕内は5つの坑道で結ばれていた。
 坑道入り口は鉄柵で封鎖されている。中をのぞくと通路の壁しか見えなかった。           
 1945年3月、空爆が激しくなると、第32軍司令部は地下壕へ移動した。「司令部壕内には、牛島満司令官、長勇参謀長をはじめ総勢1000人余の将兵や県出身の軍属、学徒、女性軍属などが雑居していました」と説明板に書かれている。 しかし、県が設置した検討委員会の答申では、女性軍属の後に「慰安婦」の記述があった。また「司令部壕周辺では、日本軍に『スパイ視』された沖縄住民の虐殺なども起こりました」との説明もあった。いずれもバッサリと削除されてしまった。
 検討委員会の委員への相談もなく、一方的に削除し、委員が抗議して話し合うことになっていたのに、面談予定の前日に削除した説明板を、また一方的に設置した。
 説明板は、第32軍の創設、司令部壕内の様子、司令部の南部撤退を説明している。日本軍司令部は、1945年5月22日、南部摩文仁への撤退を決定した。「本土決戦を遅らせるための沖縄を『捨て石』にした持久作戦をとるためでした」。
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 5月27日夜、本格的な撤退が始まった。「司令部撤退にともなう軍民混在の逃避行のなかで、多くの将兵の住民が命を落とすことになってしまいました」と説明している。
 これも翻訳文では「捨て石」と南部撤退で犠牲者が増えたことの説明が削除されているという。近くにもう一つ、坑道入り口らしきものがあった。
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 「慰安婦」や「住民虐殺」は、日本軍の本質、沖縄戦の特質を語るのに欠かせない。いずれも壕内にいた多くの将兵や学徒などの証言で確認されている事実である。説明板は、2012年春に設置されたばかりだが、説明板の記述を答申通りに戻すことはすぐにでもできること。ぜひ改正してほしい。

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沖縄戦の戦跡を訪ねて、陸軍病院山城本部壕

沖縄陸軍病院山城本部壕

 「魂魄の塔」のすぐ近くに、沖縄陸軍病院山城本部壕がある。こちらの壕にはまだ行ったことがなかった。「魂魄の塔」を訪れた際、初めて山城本部壕に行ってみた。
 陸軍病院は、南風原にあったが米軍が進攻してきたため、糸満市山城に移り、こちらの壕が本部壕となった。1945年6月14日、米軍の直撃弾を受けて病院長、衛生兵、ひめゆり学徒らが死亡した。病院本部の機能は壊滅状態となり、翌日、伊原第一外科壕や伊原第三外科壕などに分散し移ったが、そこも激しい攻撃にさらされた。多くのひめゆり学徒らは、砲弾に倒れ、痛ましい自決に追い込まれた。
                     沖縄陸軍病院の塔

 壕の入り口を降りていくと、おりしも遺骨や遺品を掘っている人がいた。ボランティアで50年余、遺骨や遺品の収集をしている那覇市の国吉勇さんだった。詳しく説明をしてくれ、壕に入るのになんの準備もしていなかったので、懐中電灯も貸してくれた。
 茶碗やお皿など陶磁器の破片もたくさん並べてあった。壕は、入り口は大きいが、奥行きはそれほどない。奥には水がたまっているので、意外に狭い空間だ。でもたくさん医者やひめゆり学徒、傷病兵らがいたという。
 つい最近も、この壕で不発弾が見つかったばかりだ。危ないから閉鎖されているかも、と心配したが閉鎖はされていない。修学旅行生らもよく訪れている壕である。
                       陸軍病院山城本部壕

 国吉さんは、車の中にこれまで集めた遺骨や遺品、兵器類や活動の様子を誰にもすぐ分かるように大きな写真のファイルを作っている。それを見せてくれて、説明してくれた。
 砲弾の破片の実物があった。「持って見て」というので、手にしたら、とてつもなく重い。こんな砲弾が降りそそいだのだ。「鉄の暴風」といわれるのを、ささやかながら実感した。
壕の入り口の塔がある場所は広場になっていて、歌碑もあった。長田紀春詠、宮里宏書で2005年に建てられたという。
 戦後66年たっても、沖縄は、まだおびただしい遺骨が地中に眠っている。不発弾も毎日のように見つかる。大和の高校生が座間味島で不発弾を拾って飛行機に乗って持ち帰ろうとして騒ぎになった。
 戦跡を歩いたり、遺骨収集、不発弾の発見などニュースを見るたびに、沖縄ではまだ戦争が終わっていないことを痛感する。

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沖縄戦の戦跡を訪ねて、魂魄の塔

 沖縄戦の戦跡を訪ねて
 
先の大戦で唯一、住民を巻き込んだ地上戦が行われた沖縄は、いたるところに戦跡がある。まだ歩いたのはごく一部だ。すでに「ココログ・ブログ」でもアップしていた。ブログを引っ越したので、まだ書いていなかった戦跡を含めて、「沖縄戦の戦跡を訪ねて」として、アップしたい。

 最初の慰霊の塔「魂魄の塔」
6月23日は、沖縄戦の組織的な戦闘が終わった日で「慰霊の日」とされている。当日は、糸満市の平和祈念公園で、沖縄全戦没者追悼式が開かれる。23日は、交通渋滞になるので、前日の22日、糸満市の戦跡を訪ねた。
 戦後、散乱していた遺骨を収拾して祀った最初の慰霊の塔といわれる「魂魄の塔」に行き、哀悼の意をささげた。もう家族連れでたくさんの人たちが訪れていた。
                      魂魄の塔

 線香といっても沖縄の平香と着火ライターは持参していたので、お花売りのおばあさんから1束300円の花を買い手向けた。この時期、風が強いのでマッチでは火がつかない。平香は火が付きにくい。みんな新聞紙などに火をつけてから平香につける。もう何年も来ているので、要領がわかってきた。来ている人は家族連れ。料理や果物、餅、お酒などお供えしている。もう順番待ちの状態だった。23日は、朝からこの塔にはたくさんの人が来るだろう。
 糸満市の米須、山城などこの辺りは、文字通りの激戦の地であり、道路や畑の中、周辺のいたるところに遺骨が散乱していたそうだ。
 戦後、私の住む地域である真和志(マワシ)地区の住民が、この地に収容移住を許された。村民と地域住民の協力によって遺骨を集めて祀ったのが魂魄の塔である。3万5千余柱という沖縄で一番多く祀った無名の戦死者の塔だった。その後、1979年に摩文仁の丘に国立沖縄戦没者墓苑が完成し、遺骨は分散して安置したとのことである。
 当時、遺骨の収集と納骨堂をつくることに尽力した真和志の金城和信村長の銅像が建てられている。

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尚泰久王の墓を訪ねる

 百十踏揚の墓を紹介したので、この近くにある父、尚泰久王の墓について、前の「ココログ・ブログ」でアップしていた文章を再アップする。
 琉球を統一した尚巴志の王統の第6代尚泰久王の陵墓が南城市玉城(タマグスク)富里の南城市役所近くにある。第一尚氏の王統は、7代64年で終わった。
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     写真は尚泰久王のお墓への入り口である。

  このあたりは、車でよく走ったが、由緒ある尚泰久のお墓があるのを知ったのは最近のことだ。尚泰久は、1454年に即位したが、琉球王統の歴史のなかでも、有名な事件が起きた。
 当時はまだ、中城城主に護佐丸(ゴサマル)や勝連城主に阿麻和利(アマワリ)が割拠していた。護佐丸の娘が尚泰久の王妃になり、尚泰久の娘が阿麻和利の妃になるという姻戚関係で結ばれていた。
 阿麻和利が、護佐丸は王府への反逆を企んでいると告げ、王の命を受けて阿麻和利は護佐丸を討った。その阿麻和利はまた、王府への謀反を起こそうとしていると、妃が勝連城から逃れて国王に告げ、国王軍が阿麻和利を討った。
 護佐丸・阿麻和利の乱と呼ばれる。国王にも並ぶような勢力をもった2人の按司は、これで一挙に消えうせた。

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 また、尚泰久は伊是名島出身で百姓上がりの金丸を家来とし、国王になると金丸は王の側近となった。尚泰久の死後、7代目の尚徳王になると、金丸はクーデターによって、第一尚氏の王統を倒し、尚円王として即位した。第二尚氏の始まりである。

 というわけで、尚泰久は金丸を重用したことで、不本意にも第一尚氏の王統を滅ぼす要因をみずからつくった。金丸・尚円王は、本来は尚泰久にはとっても恩義があるはずだと思う。でも、尚泰久が死に、その子の代になると王統を倒したのだから、権力争いの世界は、冷徹なものである。
 尚泰久の陵墓は、うるま市石川の伊波按司とともに祀られていたが、安次嶺家が当山に移し管理しているという(「月代の神々」)。
                  尚泰久王の墓
              お墓の左側が尚泰久、右側が長男、安次富加那志之墓である。
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 この陵墓は、大きな岩山の洞窟を利用した墓である。昔のお墓は、こういう岩山を利用したものが多い。



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百十踏揚の墓を訪ねる

 百十踏揚の墓
 琉球王府の時代、数奇な生涯をおくった王女、百十踏揚(モモトフミアガル)の墓が南城市玉城冨里にある。近くに行ったついでに訪れた。
 南城市役所の東側にある陸上競技場の山手側にある。案内表示もあるのでわかりやすい。
説明坂には次のように記されている。
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「尚泰久の長女で勝連按司阿麻和利の妃であったが、阿麻和利が倒された後、鬼大城(ウニウフグスク)といわれた越来城主の大城賢雄に嫁いだ。大城賢雄が尚円王に敗れた後は、弟の三津葉多武喜と玉城字當山の大川グスクで共に暮らしたといわれている。
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 百十踏揚の墓は、西ヒチ森の大岩に安置されていたが、1962年頃に中学校校舎建設のために陸上競技場東側にある仲栄眞腹門中墓の側に三津葉多武喜とともに安置されている」
 百十踏揚は、第一尚氏王統の第6代、尚泰久王の娘。勝連城主の阿麻和利に嫁いだ。当時の琉球では、まだ有力な按司(豪族)が各地に割拠していた。尚泰久の王妃の父、中城按司・護佐丸と勝連按司・阿麻和利が大きな勢力を有していた。
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 1458年、阿麻和利が護佐丸は謀反を企んでいると王府に讒言し、阿麻和利と王府軍に攻められて護佐丸は自刃する。その阿麻和利が王府を攻めようとしていると、妃の百十踏揚とその従臣、鬼大城が勝連を逃れて、首里王府に告げたため、阿麻和利は鬼大城を総大将とする王府軍に討たれた。夫が亡くなった百十踏揚は、越来按司(鬼大城)と結婚した。しかし、尚泰久の死後、第7代、尚徳が王位を継ぐと、尚泰久の側近だった金丸が1470年、クーデターを起こして王位に就いた。その際、鬼大城は攻め滅ぼされた。鬼大城が亡くなったあとは、弟とともに玉城で暮らしたという。
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 琉球は、3つの小国に分かれていたのを、尚巴志(ショウハシ)が統一したが、第一尚氏の王統はまだ安定していなくて、金丸により第二尚氏の王統に替わる。そんな変動期に、時代にほんろうされたのが、王妃百十踏揚だったといえるだろう。
 石段を登っていくと、墓がある。大きな岩山を利用した墓だ。手前のお墓は、説明はないが、仲栄眞腹門中墓のようだ。右側にある少し小さい墓に「尚泰久王 次男三津葉多武喜、長女百十踏揚按司加那志」の石碑がある。もともとは玉城中学校の場所にあったのをこちらに移した。中学校敷地には、「百十踏揚墓跡地」の碑が建っているという。今回は見過ごした。
 仲村顕氏が「琉球新報」に連載中の「眠れる先人たち、墓所にたずねる琉球・沖縄史」(2014年2月28日付け)によれば、王府の史書類には「三津葉多武喜」なる人物を見出すことはできないそうだ。ただ、王府の史書に名前がないから実在しないとはならない。登場しないのは何らかの理由があるからだろう。
 それにしても、この墓のある玉城富里は、第一尚氏にゆかりのある土地だ。このお墓の少し南に行くと、踏揚の父、尚泰久の墓がある。尚泰久の墓のすぐ東側には、「第一尚氏世禮腹門中墓」と記された立派なお墓もある。第一尚氏の王統でどういう関係にある人物の門中(男系の血縁組織)かはわからない。

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与那嶺新クラッシックギターリサイタルを聴く

 今帰仁村在住のクラッシックギターリストの与那嶺新さんのリサイタルが、首里のアルテ赤田ギャラリ-ホールで開かれたので聴きに行った。
 彼は2001年から東京・関東でクラッシックギターを習い、2012年に郷里の今帰仁に帰ってきた。昨年、ツレが恩納村でフォーク歌手のふーみさんのBGМライブに行っていて、そこに来ていた与那嶺さんのギターを聴き、知り合った。演奏する場を探しているとのことで、アルテを紹介し、私たちも毎月出ているアルテ・ミュージック・ファクトリーに何回か出演。そして、今回アルテ赤田ホールでリサイタルを開くことになった。
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 リサイタルは第1部、バッハの「アンダンテ」からオペラ「椿姫」をギター演奏用に作編曲した「椿姫幻想曲」など有名作曲家の曲をギターで演奏した。第2部は、クラッシックギターのために作曲された「11月のある日」「大聖堂」「トッカータ・イン・ブルー」など演奏した。
 実に繊細で、かつ優美に、ときにリズミカルに演奏する。与那嶺さんの息遣いも聞こえる。演奏しながら、歌っている。とても思いのこもった演奏だった。
 沖縄在住のクラッシックギターリストとしては、トップクラスの実力の持ち主らしい。でも、プロではないし、プロになるつもりもないという。
 会場には、今帰仁からお母さんとそのお仲間を含め、たくさんの人が聴きに来た。3日後には、またアルテギターサークルの演奏会にゲストとして出演してくれるという。クラッシックギターの素晴らしさを実感させてくれtた。
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