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国境の島・与那国島、徴税はゆるかったのか

徴税がゆるかったのか

 『与那国島―町史第三巻~歴史編~』の北條芳隆著「与那国のあけぼの」もうひとつの注目したのは、「人頭税時代と呼ばれた近世の段階において、琉球王府と島人との間には、微妙な駆け引きが存在した可能性を示唆する」という指摘である。
この時代の与那国島民は、稲籾と布の納税義務を負い、その他野菜などの現物を村詰めの役人に納め用役に従事することなどが義務づけられていた。伝承にあるとおり、石垣島に駐留する王府側の役人を渡海させ徴税にあたらせたことも古文書類から確認できる。

 「その際に島人は、実際に租税の収奪を回避し台湾島民との交易や交換に投入するという行為に及んだのか、あるいは仮想的な願望を説話に託して語る創作的な物語であったのか、そのどちらが実態であったのかについては、内容の性格上、確かめようがない。人減らしの悲劇を今に伝えるクブラバリ伝説や人升田伝説など、ここに引用した伝承の内容と正反対の伝説が残された事実も考慮すべきであろう」とのべている。
 人頭税のもとでも、米や贅沢品の酒などを貯蔵し、台湾島民との交易もしていたというのは、住民が余剰の農産物を持っていたことがうかがえる。

 与那国島は、「水に比較的恵まれ、田をつくりやすいという、恵まれた自然条件」があった(宮良作著『国境の島 与那国島誌』)という。
 北條氏は、先の伝承が「単に近世琉球王府に対する面従腹背精神の発露」といったものではなく、王府側が「徹底した徴税は控えた可能性が高い」と見ている。
 たとえば、琉球王府側から与那国島に向けて発せられた諸施策の一端を示す『翁長親方八重山島規模帳』には次のような事例がある。

 「与那国島の島民が稲の不作を申し立て、二、三年の年貢の徴収が滞ったことや、その対策として講じられた指示の内容が採録されている。その際、不作で納税が滞るような場合には、村詰めの役人が石垣島まで渡海して詳細な経過報告をさせるように、と指示するに留まった。現実に徴税体制の強化が講じられた形跡は認められないのである。
 徴税が王府側の財政の根幹であれば、本来、こうした租税の未収状態は放置されるべき性格のものではないはずである。しかし現実は異なっていた。要するに琉球王府側も、与那国島民に対して徹底した徴税は控えた可能性が高いとみるべきであり、別の個所ではこの島への漂流船に対する救済を怠らないよう相応の食糧備蓄を、と促す記事もあるので、本島に対する施策のありようは、むしろ領海・領域の保全に重点が置かれたものであった可能性すらある」。

 この点については、はたしてそうなのか、少し疑問がある。与那国島は多良間島と同じように、両先島における特別行政区だったという。他の島とは、多少の相違があるかもしれない。しかし、国境の島といえども、王府の徴税はそんなに甘くない。定額人頭税が行われていた八重山諸島では、不作であっても定められた人頭税は納めなければならない。「不作で納税が滞る」場合は詳細な報告をさせたということは、当然、人頭税が免除されたわけではない。未納分を取り立てるためであろう。
                        クブラバリ
クブラバリ
 王府時代に不作で納税できなければ、借金をしてでも納める、借金がかさめば家財の売払い、身売り、夜逃げ、債務奴隷(宮古島の名子=ナグ=など)になるといったことが、どこでも起きていた。
池間栄三著『与那国の歴史』は次のようにのべている。
  「人頭税の苦難は他殺及び自殺を出し、或は脱島逃亡者を出して、八重山の人口は年々減っていった」。与那国島には、苦痛に耐えかねて、南方にハイ・ドゥナン(南与那国)と言う楽土があると妄信して、その島を求めて脱島したという口碑がある。
 
 役人による不正も横行して百姓を苦しめた。
 「1659年に交付された定額人頭税は役人の私腹を肥やすに最適であった」。人頭税のために八重山の人口は年々減少し、総納税額も減ってきた。そのために人頭に対する定率を廃止、八重山全体を単位とした税額に定め、それを更に人頭に割当てることに改めた。
「国庫の収入は一定したが、無知な百姓は役人の好餌となった。当時の与那国島の役人は石垣島に巣を構えていた士族の出身で独占していたのである。その役人のほとんどが税の負担軽減や免税を種にして、無知な百姓を相手に不正を行い、公然と人権を侵害していたと伝えられる。その役人達の仇名をダマ・ヒルミ(八重山の蟹)と言っていた」
 
 定額人頭税では、王府に納める税額は一定だが、百姓には人頭で税額を割り当てるので、納税人口が増えれば、集まる税額は増えて、役人が不正をしやすかったということだろう。
「当時の村番所は税の取り立てと百姓を呼び出して苛める所であった」ともいう証言もある(前掲書)。とても王府が徴税強化を控えたとは思えない。
 この問題は、別途もう少し検討することとしたい。
 

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国境の島・与那国島、台湾との交流の伝承

 国境の島・与那国島

 興味深い台湾との交流の伝承
 与那国町の発刊した『与那国島―町史第三巻~歴史編~』を読んでいると興味深いところがいくつかあった。町史は「黒潮の衝撃波 西の国境 どぅなんの足跡」の副題が付けられている。
 もっとも興味を引かれたのは、琉球王府から廃藩置県後も残った人頭税時代(一六三七年から一九〇三年まで)に、与那国島に役人が送られてきたとき予想もしない対応についてである。
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 北條芳隆著「与那国のあけぼの」は、文化人類学者の安渓游地氏が与那国島に残る人頭税時代の伝承を聞き取ったものとして、採録された全文を紹介している。
  「与那国島の東の端の岬には、島にやってくる船を見張る番人がいつも置かれていて、船を見つけると島の中央にある部落まで早馬を走らせ知らせた。特に石垣島からの役人がやってくるときには大変だった。島には米や酒といった贅沢品を貯蔵する蔵があったが、そこに大量の物資があることを発見されないように急いで隠さなければならなかったからである。狭い島の中に隠しても発見されるので、役人の船が着くまでの短い時間のうちに、かねて準備してある舟にこれらの物資を積み込んで、とりあえず西の洋上にこぎ出すのである。行く先は、与那国島と台湾の中間にある、両島の共通の漁場だった。目的地に着くと与那国島の舟は白い旗と赤い旗を掲げた。白い旗は助けを求めるしるし、赤い旗は緊急を知らせるものだった。
 
  台湾から漁にきた舟がこれを見つけると、いったん台湾に戻って食糧と炊事用具を積み込み、与那国島の舟の救援にかけつけてくれる。天気が悪いときなど台湾の舟と出会て安定させ、それからは毎日、ともに米のご飯を食べ、酒を飲み、言葉は通じないがそれぞれの島の歌と踊りで交流する海上のお祭りが続いた。石垣島からの役人の与那国島訪問が終わるとこの祭りも終わりとなった。台湾の舟との別れにあたって交換した着物を長く記念に保管している家も与那国島にはある」(注1安渓游地「隣り合う島々の交流の記憶―琉球弧の物々交換経済を中心に」)
 以上が島に伝わる伝承である。
 
  北條氏は、この伝承は、おそらく島詰の役人を含めた全島民が、琉球王府側に対する租税や貢納をどう位置づけたのかをよく物語っており、「与那国島の歴史を考える上でまことに示唆深い」。そして、強く印象づけられるのは、「台湾の島民との密接な交流である」という。
  なにしろ台湾島の東海岸と与那国島との距離は、わずか20キロメートルしかない。これは、与那国島から石垣島までの距離と等しい。
                  与那国島地図
さらに本伝承の舞台背景に注目する。「与那国島民と台湾島民の間では、一定の海域が共同の漁場であると相互に了解されており、そこでの遭遇は、交易や交換の絶好の機会でもあった」という。海の上には、国境の壁はない。与那国と台湾の島民は、古くからこうした交流を続けてきたのだろう。

与那国島には、人頭税の過酷さを物語る伝承が残されている。岩の割れ目を妊婦に飛び越えさせて、飛び越えられないものは、割れ目に落ちで死んだ(クブラバリ伝説)。号令をかけて住民を田んぼに集合させ、遅れて入れないものは殺された(人升田伝説)。人口が増えることによって、年貢が重くなることを避けるための人口調節があったという悲しすぎる伝承である。
  これらは、厳密にいえば、確かな史実とはいえないらしい。ただ、そんな伝説が長年にわたり島民のなかで伝えられ、受け継がれてきたということは、人頭税がいかに島民の苦しめたのか、その反映があるだろうか。

 役人が来島する際に、貯蔵物資を舟で積み出したという伝承には、不思議なところがある。貯蔵していた米や酒を役人の目から逃れることだけが目的なら、なにも台湾との中間点まで行って、助けを求める旗を掲げて台湾の舟を呼び寄せる必要はない。わざわざ呼び寄せたのは、舟上でお祭りをするためでもないだろう。貯蔵物資を使って着物など必要な品物と交易をすることが狙いだったのだろうか。舟に積み込んだ物資は、すべて飲み食いと交易に消費したのだろうか。
  もしも、交易が主目的なら、役人が来るときでなくても、他の時期に出て行ってもよさそうなものだ。役人が来るときに、舟で積み出したのは、やはり貯蔵物資の摘発を逃れることが主目的だと思う。物資の一部を交易などに使っても、残りの物資はもう一度与那国島に持ち帰り、貯蔵したのではないだろうか。伝承が持つ意味を考えると、そのように理解するのがもっとも合理的ではないかと思う。
 いずれにしても、この伝承には、台湾に近い与那国島ならではの島民のたくましさ、巧みな知恵の発露があると思う。

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セロリは好き、嫌い?

 沖縄のJA真和志の農協まつりに22日に行った。
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野菜が安く販売されている。セロリ、サラダ菜、ニンジン、ブロッコリーなど買った。セロリは、東京にいる時は、一枚単位でしか売ってなかった。
 でも、沖縄では農産物直売所はどこでも、大きな株で、それも150円とか格安で販売している。
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0 セロリの栽培は、沖縄戦のあと、アメリカ占領時代に、アメリカ―食べたことから、沖縄でよくつくられるようになったようだ。
 戦後、セロリを栽培する際に、ウチナーンチュは人糞の肥料を使っていた。それをアメリカ―は驚いて、不衛生だと決めつけ、使わせないようにしたという話を聞いたことがある。
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一株買うと、多いので、早速、セロリの漬物を作った。前に、「花と食のフェスティバル」で教えてもらった。セロリの筋を取り、薄切りにして、少し塩をかけた後、漬物用の酢につけるだけ。鷹の爪を少し入れる。酢は「らっきょう酢」を使っている。
 先日、飲み放題、フード付きのあるライブに持って行った。幸いとても好評だった。
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 ところが、親しいライブ仲間はそろって、「えっ、セロリは苦手。ほとんど食べない」「食わず嫌いかもしれないけど、食べない」「前に炒め物に使ったら子供が食べなかったから」などという答えが返ってきた。「沖縄ではこんなに大きな株で売られているから、みんな食べていると思ったのに、意外だね」と話した。
 でも、「嫌い」という人たちが、一口食べると「これ美味しい」「こうして食べるとセロリ美味しい」「ご飯が欲しくなる」とみんな食べてくれた。いやはや、沖縄のセロリ事情は様々である。

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昔の面影残す今帰仁の馬場跡

 昔の面影残す仲原馬場跡
 今泊の集落から東に車で走ると、仲原馬場がある。県内各地にあった馬場がもうほとんどその姿をとどめていないなか、こちらの仲原馬場は広い馬場と松並木がそびえて、昔の面影を残していることで、史跡になっている。
説明坂は、次のように紹介している。
沖縄には昔から各地に馬場があり、農村における民俗行事や畜産奨励のための競馬などに利用されてきました。しかし、ほかの馬場は去る沖縄戦で破壊されたり、あるいは高地や宅地になったりして元の形を失っており、昔から有名な仲原馬場だけが往時の面影を残しています。
仲原馬場は幅約30㍍、長さ約250㍍の長方形になっています。その両側は約1㍍の高さに土を盛り上げ前面に石を積み、上部は芝生で被われた観覧席になっています。

 観覧席の枝振りの美しいリュウキュウマツ(琉球松)は、陽光をさえぎって快い憩いの場をつくり、また戦前まではアブシバレーのウマハラセー(競馬)の際に馬の係留にも利用されたりしました。
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 私が訪れたとき、なぜか馬場跡はたくさんの車の駐車場と化していた。たぶん、近くで建設工事が盛んにおこなわれていたので、関係者が車を止めているのではないか。それでも、空高く伸びた琉球松の並木や、両側の石積み観覧席など、他では見ることができない。ンマハラセー盛んだった往時をしのばせる。
 今帰仁では、この仲原馬場と今泊の馬場はとても有名だったらしい。当時のウマハラセーは、どのように行われていたのだろうか。その模様を表現する文章がある。『今泊誌』の新城紀秀氏「アブシバレーの思い出」である。
アブシバレーとは、旧暦4月の中旬ごろに行われる。畦の雑草を刈り取り、農作物につく害虫(バッタやネズミ)を捕えてきて、海や川に流し、豊作祈願をする行事のこと。
 新城氏の文章から紹介したい。
 アブシバレーはアブシの草をはらって鼠やバッタを駆除し、それらを「イヒャドゥ」に流す行事をし、おひるから村中一斉休業!仕事は絶対にまかりならぬ、きびしい「物忌み」が守られていた。…
今泊馬うい(馬場)の「馬揃り」は仲原馬ういのようなはなやかさはなかったが、今帰仁、本部をひっくるめた一大イベントであった。
 朱塗りの鞍に赤や黄の布で飾りたてた馬、馬乗袴に身をかため、白ハチマキをきりっとしめた騎手の姿はまことにりりしくあこがれの的で子供心をゆさぶった。中でも上謝名の豪傑ブッセーカナヤッチーの勇姿などは一きわ目だつ存在で、今尚脳裏にやきついている。床の間に拝まれる三国志をいろどる関羽将軍に生きうつしであったと思う。

 蔡温も見た親泊競馬
 琉球王朝、尚敬王の三司官として敏腕をふるった蔡温(サイオン)は若い頃、馬で山原の一人旅をしているが、たまたま親泊で馬パラシーのすばらしさに深い感懐を数行の詩に託している。
 1710年の秋で、280年の昔、蔡温29才の若かりし時である。
 戯馬台即興(親泊にて)
「戯馬台前会萬人 西風吹起馬蹄塵 群英従此決勝負 恍似楚王破大秦」
大意は次の通り。「親泊馬ういは黒山のような人があつまっている。ミーニシが吹いて、馬がかけ去ったあとは塵がもうもうとたちこめている。馬スーブ(勝負)に命運をかけた名騎手共が今か今かとまなじりを決した斗志満々の馬上の姿こそ、強国秦を破った楚の豪勇項羽の姿をほうふつさせるものではないか」
                    img_1642[1]
   写真は琉球放送のテレビ画面から
「馬パラシー」というのは、全速力で飛ぶようにかける競馬の「うまかけ」の「かきばい」とは全く趣を異にするもので、コトコト走る「ゐしばい」で馬の「パイ美(デュ)らさ」を見るものである。
 しかし、最後のウンヂミを飾る「ぶり馬」は出場すべての馬が一斉に駆け出して壮観で、方々から口笛も聞こえ、もうもうと立ちこめる砂ぼこりは人馬をかくした。
 馬はほとんど与那嶺から「あがり方」で、地元のシマの馬を見ることの出来なかったのは物足りない思いがした。「草かやー」の「ンジャックヮ」をもてるようなウェーキヤー(裕福な家)でないと飛行機馬小(マーグヮー)のような名馬を飼えなかった故であろうか。
 蔡温時代からいわゆる黒山のような人は、①馬を見る人、②騎手の見事な手綱さばきに「シッタイヒャー(よくやった)」とヤグイ(気合)をかける人、③晴着をきて見られにくるアングヮーター(お姉さんたち)、④うの目たかの目で馬を見ないで女ばかり見てまわるニーセーター(若者たち)、⑤人垣の後ろでガチマヤー(食いしん坊)だけしてまわるワシタワラバーター(子どもたち)と、「遊びに美らさや、人数(ニンズ)のしなわい(遊びが楽しいのは人数が揃ってこそ)」
であった。
 クワディーサーの下にはにわか市場が立ち並び、でかい角のはえた二銭のトグチテンプラ(天ぷら)、タンナハクルー(黒糖を使った菓子)、三銭の揚げ豆腐、ビービンサー、鉄砲、と平素見られぬもので子供の好奇心をそそった。
 
 今帰仁村仲尾次の古老、渡名喜長栄さんは、梅崎晴光著『消えた琉球競馬』で、インタビューに応じて、今帰仁の競馬の思い出を次のように語っている。
「アブシバレーの旧暦4月15日がナーブル・ンマウィー(仲原馬場)、16日がウェルメー・ンマウィー(親泊馬場)。同じ馬が馬場を替えて二日連続で走っていました。この二日間はアブシバレーで農家が休みだから村中から馬場に集まったものです。村の者が一堂に会したのは競馬の時だけでした」
「二頭による一騎打ちの競争でね。一人の審判があらかじめ同じような実力の馬同士を組み合わせておくのです。30~40頭出場したので15~20組の競争でした。宮古馬はとてもおとなしくて力がありましたが、どの馬も布や花を耳の下に飾り付けて、それは綺麗だったですよ」。
 これらを読むと、ンマハラセー(競馬)がいかに人々にとっての楽しみだったのか、そのにぎわう情景が目に浮かぶようだ。


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今帰仁の今泊を歩く、その3

 今泊の神ハサギ
 今帰仁城跡は、由緒ある歴史的な場所であると同時に、「今泊の人々にとって信仰の対象の地」でもある。なにしろ城跡には、「カナヒャブの御イベ」「今帰仁里主所火の神」はじめいくつもの拝所がある。グスクの前面にもさまざまな拝所がある。
 戦前は、県外や国外に旅行するときは、住民は出る前に「旅立御願(ウガン)」をし、帰郷したら「解き御願」をした。毎年、城跡の清掃も欠かさず、参詣道路も整備した。
 今帰仁城跡は、カンヒザクラの名所となっているが、これも今泊の住民が、城内や沿道に植樹したものである。
 今泊の集落の中には、いくつかの拝所がある。見たのは二つのハサギである。神ハサギとは、祭祀をとりおこなう拝殿のような建物である。通常「アサギ」と呼ばれることが多い。山原地方はとても多い。
 今泊は、旧今帰仁ムラの「ハサギングヮー」と旧親泊ムラの「フプハサギ」がある。集落は合併をして一つになったけれど、神ハサギは合併せずに二つとも存在している。
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 公民館前にあるのが、親泊ムラの「フプハサギ」。「大きいハサギ」を意味する。もともとは、親泊集落の住民が祭祀を行っていた(写真)。

 屋根は低く、4本柱で支えている。元々は茅葺の屋根だった。いま柱はコンクリート、セメント瓦葺きである。地域によっては、いまでも茅葺き屋根のアサギもある。
 「ハサギの歴史は古く琉球の時代にさかのぼります。『琉球国由来記』(1713年)にはハサギのことが記載されています。明治36年以前に創設されたムラでは、ハサギを設け、神人を置いて、祭祀をおこなわなければならないように制度化されていたようです」(「今帰仁城を学ぶ会」公式サイトの「ハンタ道を歩く」から)
 
 もう一つの「ハサギングヮー」(写真)のある場所がよくわからない。犬の散歩をしていたおじいさんに尋ねた「それは、この向こう、すぐだよ。こちらにくれば見えるよ。そう。その道の向こう側だから」と親切に教えてくれた。
 馬場跡の大道から左に少し入ったら、左手に公園があり、すぐわかった。旧今帰仁ムラの「ハサギングヮー」は、「小さいハサギ」を意味する。旧今帰仁ムラの神ハサギだから、もっと離れた場所にあるのかと、思い込んでいた。でも、海沿いに移転して合併したのだから、近くにあっても不思議はない。
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 「ハサギングヮー」も、「フプハサギ」とほぼ同じ格好の建物だ。 
旧今帰仁、旧親泊の神ハサギとも、祭祀は今帰仁ノロ(ヌルドゥルチ)の管轄だとのこと。

 御嶽がないのはなぜか
 今泊集落で不思議なのは、神ハサギなどはあるが、沖縄の集落にはたいてい存在する御嶽(ウタキ)が見当たらないことだ。ハサギは拝殿にあたるが、神が来訪する聖域が御嶽だ。だから御嶽があって、ハサギがあるのが通常の姿だろう。今泊にはなぜ御嶽がないのだろうか。
 著名な民俗学者の仲松弥秀氏は次のような見解をのべている。
「(今帰仁城は)中城グスクと同様、グスク内には御嶽があって今帰仁村と親泊村が祭祀し、又、志慶真村の御嶽も(グスク内に)存在する。御嶽の所在からすれば、当然このグスク近傍に三ケ村落があったということになる。
 ところが、今帰仁、親泊の両村落は、グスクから下った海岸べりにあって、双方併合して今泊となり、志慶真村は諸喜田村一つになって諸志となっている。しかし、三ケ村落とも現在地には御嶽がない。御嶽が現在地には無く、グスク内に在るとするならば、いよいよこの三ケ村落は今帰仁グスク近傍にあったはずだと考えない訳にはいかない。
 この考えが間違っていないことは、ノロ(神女)火神の所在で一層証拠づけている。
 グスク正門の前面台地面は畑地となっているが、森地になっている処もある。その森中に今帰仁ノロ火神、地頭代火神、トモノカネ火神、それに阿応理屋恵(アオリヤエ)火神がある。これらの火神が在るということは、そこに村落があったという証になる。
                    今帰仁城跡 (2)
                    今帰仁城跡にある「火ぬ神」
 今帰仁城跡の中にある火神
  ところで、阿応理屋恵というのは、その地方一帯のノロの上位にあって、王府と特別につながっている貴神女であり、トモノカネノロは今帰仁ノロの次位の神女をなし、親泊村の出自である。
 これらの材料、即ち、御嶽、神女(ノロ)火神の所在が揃っている以上、グスク前面に今帰仁村、その横隣りのトモノカネノロ火神祠のある付近に親泊村が在ったことが確実となる」
 仲松氏によれば、今帰仁と親泊の御嶽は、グスク内にあるとのこと。旧集落もグスク近傍にあったことを示している。そういう意味でも、今帰仁城跡内にある拝所とその下方にある拝所は、いまでも今泊の住民にとって大切な信仰の場所であることがよくわかる。

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今帰仁の今泊を歩く、その2

今帰仁城の城下村だった
今泊の成り立ちについて、見ておきたい。
古くは今帰仁と親泊の二つの集落だった。二つの集落は合併して両方の名前から一字とって今泊と名付けられたそうだ。両集落とも、昔はグスク直下にあったけれど、海沿いの現在の土地に移転したと聞く。

  今帰仁城跡は、なぜか北の東シナ海に向かって築城されている。城跡から眺めると、緩やかな斜面を下った先の海辺に今泊の集落はある。移転される前は、山腹の傾斜地にあったという。それはなぜだろうか。
民俗学者の仲松弥秀さんによると、沖縄の古い村は傾斜地に立地していたらしい。
古い村は、山や丘の斜面に立地した。傾斜地に立地している理由は、排水のことを考慮してのことらしい。沖縄の土壌は、多くが粘土層である。傾斜地以外は湿土の状態をなし、飲料水として使用できる水が皆無といってよい。海岸べりの砂浜は、排水は良好であるが、飲料水には欠けている、村落立地には不適当な場所であったと思われる。
 「このような種々の条件からして、沖縄の古代の村は低地にでは無く傾斜地、平坦地形とみられる場所でも僅かの傾斜地を利用して村落が形成されたということができよう」(仲松弥秀著『古層の村 沖縄民俗文化論』)。
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 かつて城跡の直下にあった集落は、今帰仁城とは深いかかわりがあった。
 今帰仁城は、琉球が3つの小国に分かれていた「三山時代」、北部(山原)一帯を治めていた北山王の居城として13世紀末ころに築城されたようだ。琉球を統一した中山の尚巴志によって、15世紀初頭に滅ぼされた。 それ以降、首里王府は今帰仁城に監守を派遣した。
 今帰仁城は、北山王の居城だっただけでなく、琉球統一後も、北部全体を統括する「北山監守」が居住していた。だから、1609年に薩摩藩が琉球に侵攻した際、今帰仁城が焼き打ちされた歴史がある。監守制度は1665年まで続いた。だから、今帰仁城は数百年にわたり、長く北部の山原全体の政治的、文化的な拠点となっていた。
 
 グスク直下にあった集落が、海岸近くに移動してからは、城内に居住していた北山監守(今帰仁按司)も城外に移り住んだ。監守一族が首里に引き揚げると、「今帰仁城は、政治的・軍事的機能を持った施設から、祭祀の場もしくは信仰の中核へと変貌していった」(高橋誠一著「琉球今帰仁城周辺の集落とその移動」)。
 今泊は現在、今帰仁村の西端に位置する一集落だけれど、本来、「北山」と呼ばれた山原地方全体を支配する今帰仁城の膝元の城下村だった。そんな由緒ある集落である。

 「1609年の薩摩藩による琉球侵攻以後、今泊集落は作られました。薩摩軍によって焼き打ちに合った今帰仁城下の今帰仁ムラと親泊ムラが、海沿いのこの場所へ移転してできた集落です。この時期は琉球史と日本史の交差する時期でもあり、歴史を示す集落だと思います」。「今帰仁城を学ぶ会」公式サイトの「ハンタ道を歩く」は、このように紹介している。
今帰仁と親泊のもともとの集落は、グスク直下にあったというが、不思議なのは親泊の名称である。親泊(エードゥマイ)という名前の「泊」は、港のことだから、親泊とは「大きな港」という意味になる。グスク下にあった集落になぜ港を意味する名称がついたのだろうか。疑問が残る。
 
 興味深いのは、現在の今泊の付近には、トーシンダ(唐船田)という地名やトーシングムイ(唐舟小堀)と呼ばれるところもあることだ。古くは海で船が出入りするような地であったと推測される。
グスク直下にあった集落から「すでに存在していた海岸部の親泊の地に移動してきた家屋群が、親泊の名称に包摂されていったと考える方が、常識的であろうと思われる」と、高橋誠一氏は「琉球今帰仁城周辺の集落とその移動」で指摘している。

  近代に二つの集落が合併
今帰仁と親泊の二つの集落が、海辺近くに移転してきたのは、17世紀のころと見られているが、合併して今泊となったのは、近代になってからだ。
                   今帰仁城跡
       今帰仁城の美しい城壁。海岸近くに今泊集落がある
『今泊誌』には合併の経緯が紹介されている。
 今泊は「イェードゥメー」と呼ばれ、明治36年(1903)までは今帰仁村と親泊村は別々に存在し、同年に合併し今泊となった村である。しかし、3年後の明治39年に分離し、昭和47年(1972)にふたたび合併し現在に至る。
 明治36年に合併しながら、すぐに分離したのはなぜだろうか。今帰仁ムラは面積が広く人口が少ない。一方の親泊は、面積は小さいが人口は多い。そのために、税金や夫(ブー)作業などの負担が一方にかぶさってくるため不平等が生じてくる。それが原因のようだ。
 
 今帰仁城の城下村のようだといっても、首里城のあった首里の地域とは異なる。首里は、士族が住む城下町だった。でも、今泊は士族が少なかったからだ。
 1903年『区間切島本籍人員族及棄児』によれば、人口に占める士族割合は、今帰仁間切全体が23・1%だったのに対し、今泊はわずか5・7%に過ぎない。今泊は人口が多いけれど、平民が大半を占める集落だった。税金の負担は重かっただろう。


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今帰仁の今泊を歩く、その1

今帰仁の今泊を歩く
 
フクギ並木が美しい

 今帰仁村の世界遺産、今帰仁城跡のふもとにあたる海沿いの集落が今泊(イマドマリ)である。今帰仁城跡にはたびたび行ったが、今泊集落は一度も入らないままだった。
今泊の集落に入ると、集落は格子状に家々が立ち並び、細い路地が伸びている。
 昔ながらの古民家とコンクリート造りの家が混在しているが、家の周りにぐるりとフクギ(福木)が取り巻いている。高さが7、8㍍くらいはあるだろう。
なかには高さ十数㍍、幹の周囲2㍍の大木もあるそうだ。戸数300を超える今泊の屋敷全体ではその数は、万近くに達するという。集落全体を包み込んでいるようだ。
フクギ並木と言えば、本部町の備瀬(ビセ)集落が有名だが、今泊も負けないほどの並木が残る。
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 この集落は、東シナ海に面していて、海からの北風は強そうだ。これだけの高さがあり、常緑の並木で屋敷をかこっていれば、寒い北風も、台風の被害も相当防げる。夏は、木陰をつくるので涼しいはずだ。
 『今泊誌』によれば、福木は、防風、防潮、防火林として重宝がられた。年中緑葉を茂らせ、集落全体の気温を和らげ、空気を清浄し、鳥類を招く役割もある。
 木の雌株には黄色く熟した果実ができるが、こうもりの好物。樹皮は古くから、織物の黄色の染料を採る材料として利用された。
 沖縄戦のさいは、米軍によってすっかり焼き払われたが、大部分が不死鳥のように生きのびた。用材に事欠いた当時、いくらか切り倒し、家屋の建築資材に利用した。 
すでにフクギのない家も見られるが、依然として今泊は「フクギの里」であることにかわりはない。

マーウイ(馬追い)を楽しんだ馬場跡
今泊の集落の中央部を東西に大きな道路「プゥミチ(大道)」が伸びている。集落内は、細い路地が縦横に走っているが、ここだけはけた違いに広い。
「マーウイ(馬追い)」とも呼ばれ、もともとは馬場として住民になじまれてきた。馬場跡は、幅は8―11㍍、長さは250㍍ほどあるだろうか。沖縄はかつて、琉球競馬(ンマハラセー)が盛んだった。競馬にしては少し短くないか、との疑問が出る。だが、走りの速さを競うのではなく、走りの美しさを競う琉球競馬なら、これくらいの長さがあれば十分だったのだろう。
琉球競馬は、小柄な沖縄在来馬が、スピードではなく、走る足並みの美しさを競った。馬具に華麗な装飾を施し、それも加点の対象だった。世界でも類を見ない美技を競う自のスタイルだ。琉球王朝の時代から戦前まで300年にわたり、受け継がれていた。県内各地に馬場があった。その数は150を超えていた。
 梅崎春光著『消えた琉球競馬』に詳しく書かれている。琉球競馬についてはすでにブログで書いたので、そちらを参考にしてほしい。
今泊の馬場の歴史は古い。1710年に、琉球王府で名高い政治家、「蔡温(サイオン)が山原(ヤンバル)を巡回した時、親泊(現在は今泊)の馬場を詠んだ漢詩「戯馬台即興(親泊にて)」がある。310年以上前の今泊の馬うい(馬場)と競馬を楽しむ人々の姿が、眼前に浮かび上がってくるようよう漢詩だ。それは別途、紹介する。
今泊の大道は集落の真っただ中に位置しており、住民のさまざまな行事にも欠かせない役割を果たしてきた。戦前のアブシバレー(畦払い)と呼ばれる雑草を刈り害虫を払う行事、昔から集落に伝わる豊年祭の舞台ともなった。

フパルシの老巨木
馬場跡の中央部に公民館があり、その前にフパルシの老巨木がある。県指定の天然記念物である。和名はコバテイシ、沖縄では通称クファデサーと呼ばれる。高さ18㍍、胸高周囲4・5㍍ある。樹齢は推定300~400年ともいわれるだけあって、巨木の胴体はもう空洞化してきている。横に伸びた枝を支えるために、電柱のような支え柱が3本立てられている。
「字民とフパルシ」という説明坂がある。
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 戦前は現存するフパルシの根元に接してもう一本のフパルシがあった。現存するものを「ミー(雌)フパルシ」、もう一本を「ウー(雄)フパルシ」と呼んでいた。フパルシとその周辺は、子どもたちの格好の遊び場だった。
夏から秋にかけて、たくさんの実がなった。その実は甘酸っぱい味がするし、中の種子は落花生のような香りがあるようで、子どもたちは競ってその実を求めた。
 この老大木は、集落のど真ん中に根を張り、枝を伸ばし、幾世代もの子どもたちのよい遊び相手になり、集落の重要行事の舞台背景をなして、その存在を誇ってきたという。この集落のシンボルのような存在なんだろう。 
 古来名木として
「親泊のくふぁでさや 枝持ちの美らしさや わやくみの妻の 身持ち美らしさや」
と歌われ、以前はこの樹の下で豊年踊りや競馬が行われ、また、区民の習合の場になってきました、と記されている。
 

 「豊年口説」の歌碑
 巨木のそばに歌碑がある。「豊年口説(クドゥチ)抜粋」だという。
 馬場跡は、今泊で大きな行事、豊年祭の会場となっている。伝統を持つ今泊の豊年祭は、5年に一度、旧暦8月に行われているが、「豊年口説」は舞台の一番初めて演じられる祝儀舞踊「長者の大主」の中で歌われる曲だという。
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原文は抜粋でもあるし、読みにくい。大意を紹介する。
 「北山城(今帰仁城)の御ひざ元のめでたい所、そこは、常盤なる松の木が緑を湛え、鷺と烏が巣を作っている。そして四方の畑には一杯作物が実っている。人も鳥もおおらかに暮らしている…」
歌意は、ネット「沖縄の古典文学(琉歌編)」(引用文献は「沖縄文学碑めぐり」垣花武信・東江八十郎著)から紹介した。
  
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