fc2ブログ

レキオ島唄アッチャー

知念にある組踊「手水の縁」の歌碑

知念にある組踊「手水の縁」の歌碑

 

     知念岬 
                     知念岬

 ドライブで知念岬に行った帰り、331号線を西に向かって走っていると、道路脇に歌碑があった。何の歌碑か分からないまま、車を止めてみると、組踊「手水の縁」の歌碑だった。

         歌碑の説明

 「手水の縁」の歌碑は、豊見城市瀬長島にもある。

 波平大主の息子・山戸(やまとぅー)が瀬長山での花見の帰り道、波平玉川で髪を洗う女性・玉津(たまちぃー)に一目惚れして、川の水を手で汲んで飲ませてほしいと頼んだのが縁で、恋に落ちる。親の意に背いた恋愛は許されず、娘を処刑しようとするとき、山戸が駆け付け、身代わりになると願い出て、斬ろうとした役人は二人を逃がして、結ばれるというストーリである。


 組踊と言えば、中国から国王の認証のため琉球に来た冊封使(さっぽうし)をもてなすために創作された歌舞劇である。忠孝、仇討ちなどのテーマが多い時、自由恋愛を歌いあげた唯一の組踊である。
 王府時代の封建的な秩序、道徳に反する勇気ある組踊である。

作者の平敷屋朝敏は、政治犯として処刑されたことで知られる。
         DSC_0667.jpg

  なぜ、知念に歌碑が?と思ったが、玉津は知念山口の出身で、処刑されそうになったのが、知念の浜だったという。

知念はそういうこの組踊と深いつながりのある土地だったのだ。
 

 歌碑は二つあり、説明板がある。

 「結でおく契り この世ぢやでともな 変るなやう互に あの世までめ」

 歌意「結ばれ二人の契りは、この世だけのものではない。心変わりしないで、あの世までも結ばれている」

              手水の縁歌碑  
  「くらさらぬ 忍で来やる 御門に出ぢめしやうれ 思ひ語ら」

 歌意「思いが募っても暮らすことはできない。忍んで行きますから、門の前まで出てきて下さい、つのる思いを語りましょう」         
          歌碑1
 


スポンサーサイト



島唄 | コメント:0 | トラックバック:0 |

「かにくばた」の異名同曲がいくつもある、「にんぐるまーと」

「にんぐるまーと」

 さて、「高離節」「かにくばた」とソックリであるもう一つの曲、「にんぐるまーと」を見てみたい。これも、RBCの「民謡で今日拝なびら」で上原直彦氏が紹介するまで聞いたことがなかった。沖縄民謡のいくつか
の工工四(楽譜)、歌詞集をめくってもほとんど紹介されていない。
 上原氏は、「歌詞は即興で歌うのをよしとするので、歌う人によって歌詞が異なり、決まったものはない」と述べていた。唄者によっていろんな歌詞があるのだろう。
 やっと歌詞が掲載された本を見つけた。滝原康盛編『沖縄の民謡』である。ここでは滝原氏の著作から紹介する。
 

1、打ち鳴らし鳴らしヨ 四ツ竹(ゆちだき)は ヘイサー スーリ 四ツ竹は鳴らし
 ハヤシ サーハラユイサー クラユイサーッサ

ウショーニショーヌ ニングルマートゥ

マトゥヨー シタリヌヨーンゾ  (ハヤシは以下同じ)

   鳴らす四ツ竹ぬ 音の秀(しゅ)らさ

2、若さ一時(ひととち)ぬ 通い路ぬ空や 暗(やみ)ぬさく坂(ひら)ん車とぅ原(ばる)

3、若さたるがきて 何時(いち)ん花むとな 思ゆらん風ぬ 吹かばちゃすが

     
  「糸満ヤカラーズ」の歌う「にんぐるまーと」。8番目に入っている。

 
1番の歌詞は、古典音楽の舞踊でよく使われる「踊いクワディーサー節」の歌詞と似ている。滝原氏の紹介する歌詞は、動画をアップした「糸満ヤカラーズ」が歌っている歌詞である。

滝原氏は『正調琉球民謡 八重山・宮古篇』にも同曲名、歌詞のこの曲を掲載し、この曲を「八重山・宮古」の民謡と分類している。

 仲宗根幸市氏は、宮古の「かにくばた」が沖縄の「にんぐるまーと」と異名同曲。(『琉球列島島うた紀行 第二集八重山諸島 宮古諸島』)とのべ、やはり「にんぐるまーと」は沖縄本島の歌であるとしている。

 上原直彦氏も沖縄本島で歌われる「遊び歌」であると断言している。
滝原氏の紹介する歌詞を見ても、宮古島言葉は見られない。沖縄本島の言葉と思われる。


 「にんぐる」は、『沖縄語辞典』では「懇(ねんご)ろ 情人」、「琉球語音声データベース」でも「情婦または情夫」と説明している。
やはり日本語の「ねんごろ(懇ろ)」からきていると思われる。沖縄では「情夫、情婦、愛人」という意味で使われるようだ。

 遊び歌で歌詞は即興で歌い、決まったものはないとすれば、この曲がもともとの古い元歌とは思えない。「高離節」か「かにくばた」が先にあって、そのテンポの良い前奏、旋律が遊び歌に向いている上、囃子がとても面白いので、歌詞を変えて「にんぐるまーと」として歌われるようになったのではないか。私の勝手な推測であるが、そんな気がする。

 

 以上、あれこれと書いてきたけれども、似た曲があるからと元歌はどれかばかり詮索するのは野暮なことかもしれない。民謡が島から島へ伝えられ、変容しながら、それぞれの場所で住民に歌い継がれるのが、そもそも民謡の姿であるからだ。

    終わり

 

 


島唄 | コメント:0 | トラックバック:0 |

「かにくばた」の異名同曲がいくつもある、「高離節」


「高離(たかはなり)節」

 琉球古典音楽に「高離節」がある。RBCの「民謡で今日拝なびら」で
上原直彦氏が紹介するまで聞いた記憶がない。初めて聞くと、宮古民謡の「
かにくばた」にそっくりなのでビックリした。この曲は民謡としても歌わ
れており、こちらは歌詞が
6番くらいまである。『野村流工工四拾遺』から
歌詞を紹介する。



 高離島や物知せ所 にや物知やべたん 渡ちたばうれ

 かすみ立つ山や 梅の花盛り 風にさそはれる匂のしほらしや

歌意

高離島(現在の宮城島)はものを教えてくれるところ もう十分解りま
したから
 島を渡らせてください

霞がたつ山は梅の花が満開である 風に誘われて花の匂いが香しい


      朝敏妻の歌碑   
                 宮城島にある平敷屋朝敏の妻・真亀が詠んだ琉歌の歌碑

 工工四では、歌の間に「シタリヌヨゥ ンゾゥ」「ハーイヤ マタ
 
シタリヌヨゥ ンゾゥ」といった囃子が入る。これについて、「此の囃子は
原本にはないが俗間に流布されているもので参考のために記す」と注記され
ている。

 歌の舞台は与勝半島沖に浮かぶ宮城島である。いまは海中道路と橋で4つ
の島がつながっているが、昔は離島だった。宮城島の眺めのよい場所に歌碑
が建立されている
 この歌は、18世紀に薩摩に首里王府を告発する投書をしたことで、政治
犯として処刑された悲劇の文学者、平敷屋朝敏の妻である真亀(マガミ)が、
士族から百姓に落とされ、流刑にされた宮城島で詠んだ琉歌である。
 夫が悲憤の死を遂げ、島流しにあう辛さ、寂しさに耐えながら、故郷への
思いを募らせ、「生まれ育った地に命あるうちに帰りつけますように」とい
う真亀の心情が込められている。
 朝敏が安謝港で処刑されたのは1734年である。真亀がこの琉歌を読んだの
はその何年か後だろう。「高離節」は18世紀に創られたとすれば、それほど
古い時代の古謡ではない。
沖縄の歴史と民謡に詳しいTさんは「高離節は、朝敏の妻が詠んだ悲しい歌
であるにもかかわらず、テンポのよい曲ですよね」と指摘する。
 確かに、島流しにされた辛さ、故郷への切ない思いなど込められている歌
なのに、曲の前奏、旋律とも明るくテンポがよいのでなんかミスマッチの感
じがしないでもない。軽快な曲調だからなのか、エイサーでも使われている。
 宮古民謡の「かにくばた」と前奏と旋律はほぼ同じである。ただし、曲のテ
ンポは「かにくばた」の方が早くてノリがよい。大きな違いは、囃子が「かに
くばた」で歌われる「サーハラユイサー クラユイサーッサ ウショーニシ
ョーヌ ニングルマートゥ マトゥヨー」という面白い囃子とはまったく異な
ることだ。この囃子は、「高離節」の歌の内容にも合わないから当然のこと
だろう。

 「高離節」と「かにくばた」は、どちらが元歌であるかはわからないが、
本島と宮古島の交流の中で伝えられ、影響を与えて曲ができたことは確かだ
ろう。

    
     「高離れ節」を踊る呉屋青年会のエイサー
  




島唄 | コメント:0 | トラックバック:0 |

「かにくばた」の異名同曲がいくつもある。宮古の「東川根盛加後」

 宮古の「東川根盛加後」に似ている

 
ところが、ここで注目されるのは、与那国の「亀久畑節」は、奇妙なこ
とにその歌詞が宮古島のもう一つ別の民謡と似ていることである。
 仲宗根幸市氏によれば、娘が男性に「家まで送ってください」と誘い、
男性が「もう自分はここで帰る」といいつつ、女性の情熱と才知でついに、
女性の家まで送らされ、寝床まで誘われるとういうこの歌の後半は「宮古
民謡の『東川根盛加後(あがずかーにむずかぐす)』と一部内容が似てい
る(『琉球列島島うた紀行 <第二集>八重山諸島 宮古諸島』)」という。



 「東川根盛加後(あがずかーにむずかぐす)」の歌詞も是非知りたいと
ころだ。幸い、仲曽根氏の著書に歌詞と解説が掲載されている。

「71番まで歌詞のある長編のクイチャーあーぐ。東川根盛加後のクイ
チャーをみに行った女性が、途中で美男子の若按司に会い、あれこれ理由
をつけて「私を家まで送れこむって」とアタック。そして、家の門まで、
家の仲間で誘い込む内容。」

「この長編のクイチャーあやぐの後編は、与那国の「かみんぐ畑ドゥン
タ」と酷似している。…宮古のクイチャーあやぐが祭りをみに行く途中出
会った男を誘う内容なのに対し、与那国のドゥンタは、田草とりの帰路意
中の男性を誘い込むのである」

 なるほど、男性に送らせて家に誘い込む物語の構図はソックリである。


 宮古の「東川根盛加後」は歌詞が71番まである長編の曲とすれば、
歌詞が4分の1ほどしかない短い与那国の曲が元歌として影響をあたえ
たとはとても思えない。逆に宮古の長編の面白い恋愛物語が、与那国に
伝えられ、一部が「亀久畑節」の歌詞に取り入れられたと見るのが自然
ではないだろうか。

亀久畑節」の旋律は「東川根盛加後」とは似ていない。ということは、
旋律はもともと与那国で歌われていたものに、宮古の「東川根盛加後」の
歌詞が面白いので、そのエキスを取り入れたということだろうか。もし、
宮古の「かにくばた」が元歌で与那国にそれが伝わったのなら、旋律も歌
詞もそのまま歌えばよい。旋律はそのままで、歌詞だけ別の「東川根盛加
後」を取り入れるということは通常、考えにくい。このことを見ても、宮
古の「かにくばた」が元歌で与那国に伝わり「亀久畑節」になったとは考


えづらい。

    東崎(与那国町HP)  
          東崎(与那国町HPから)                               
 
 かつては宮古の管轄だった与那国島

 さて、与那国島宮古島は、遠く離れているのに、石垣島などを介さず
に直接に影響を及ぼすような関係にあったのだろうか。実は離れていても、
古くから密接な関係があった。

かつて、与那国島宮古島の管轄で、多良間島は八重山の管轄だった。
宮古島は琉球国が形成される
14世紀ごろには、既に主として東南アジア方
面との貿易を運営し、与那国島を貿易の中継地としていた。

1500年に、首里王府に反乱を起こした石垣島のオヤケアカハチを、宮古
仲宗根豊見親の先導する王府軍が征討した後、1501-1503年頃
に地理的に不合理として両島の管轄を交換したという。

1522年には、与那国島の首長だった鬼虎が首里王府に従わず、王府の命
で宮古の仲宗根豊見親(空広)軍により討伐されたが、鬼虎は、もともと
宮古島の出身ともいわれる。興味のある方は、このブログで「与那国島
かつて宮古島に属していた」をアップしているので、そちらも読んでいた
だきたい。


 このように深い関係にあり、人の交流があったのだから、文化の面でも
民謡が島から島へ伝わり、影響を与えたことは容易に想像できる。文化的
には先進地だった宮古島から与那国島に伝わったのか、逆に宮古人が与那
国の歌を持ち帰り、取り入れたのか。むしろ相互に影響し合ったのかもし
れない。

これまでの検討を踏まえて、与那国の「亀久畑」と宮古の「かにくばた」
とは、前奏、囃子までソックリではないが、何等かの影響下で歌われるよ
うになった相関関係のある曲ではないか、というのが私なり結論である。

もしそうなれば、すでに異名同曲とされる宮古の「かにくばた」と本島
の「高離節」「にんぐるまーと」に加えて、与那国の「亀久畑」までなん
らかの糸でつながることになる。


島唄 | コメント:0 | トラックバック:0 |

「かにくばた」の異名同曲がいくつもある。与那国の「亀久畑節」

 与那国の「亀久畑節

 次に八重山古典民謡の「亀久畑節(かみくばたぶし)」を取り上げたい。
これは、RBCの「民謡で今日拝なびら」では取り上げていない。しかし、
前から「八重山古典民謡工工四」を見ていて、宮古民謡の「かにくばた
と同じ曲名なので、これは偶然の一致とは思えない。どちらかが影響を与
えて生まれた曲ではないのかと気になっていた。

 今回、「かにくばた」の類似曲として3曲が比較されていたが、もう一
歩踏み込んで、八重山民謡のこの曲を紹介しておきたい。

与那国島を発祥の地とする歌であるが、石垣風の歌い方では歌詞も旋
律も例によって相当に変わっている」。當山善堂著『精選八重山古典民謡
集』(三)はこのようにのべている。當山氏はこの曲の特徴について「八
重山音階の変型」としている。
                     

 

この曲の歌詞を當山氏は12番まで、喜舎場永珣著『八重山古謡』(下)
16番まで紹介している。歌詞は、両者によって順番と内容が多少異同が
ある。歌詞の全部は長いので抜粋する。
當山本を基本にし、喜舎場本か
ら多少補った。

1、亀久畑 ういみぐち 登りょうり

 (カミングバタ、ウイミグチに登って)

  注・喜舎場本の歌意―亀久畑に田草取りに行って 南方の小高い所に
 登って見たら

4、女童(みやらび)ば 愛しゃーすば 巻き来(きょー)り

 (女の子を、好きな娘を連れてきて)

5、片手しや 田草取り 此ぬ手しや 首抱き

 (片方の手では田草を取り もう一方の手では可愛い娘の首を抱き)

8、夜やなり 日や暮りてぃ あばとぁぬ

(夜になり日が暮れてしまった なんと心細く怖いことよ)

9、くいてぃ迄 かたんぐや迄 我(ぱぬ)送り

 (クイティまで、カタングヤまで 私を送ってちょうだい)

10、貴女(んだ)ま行(ひ)り ばぬま行るん 女童

 (貴女はもう帰りなさい、私ももう帰るから娘さん)

最後は喜舎場本から。

16、ンドゥティマディン ニザシキマディン バヌウグリ

 (戸口までも 寝座敷までお出でよと手を取って離さない 二人寝床で
 恋の夢を結んだ)
 

 當山氏の解説を紹介する。

<若夏のある日、恋し合っている島仲村の男性と比川村の女性が二人
で仲良く田んぼの草取りをしている場面から物語は始まる。「片手では
田草を取り、もう一方の手では彼女の首を抱いて」のくだりは、恋する
男女の健康的な姿が目に浮かび、微笑ましくもあれば気恥ずかしくもあ
り、田草取りはちゃんと出来たのであろうかと気になる描写ではある。

 それはさておき、いつの間にか日が暮れあたりは薄暗くなってきた。
そこで、娘は「アバツァヌ!(わたし怖いわ、どうしましょう?!)」
と男にすり寄って、自分を家の近くまで送ってくれるよう頼む。女は次
から次へと送り先を延ばし、ついに自分の寝所まで男を誘い込むという
筋書きである。>

 <カミクバタ=田んぼの地名で、「亀久畑」の字を当てる。地元本
(福里武市・宮良保全・冨里康子共著『声楽譜附 与那国民謡工工四』)
では「カミングバタ」。元来は畑地であった所の一部を田んぼにしたの
だが、この歌では古い呼び名を用いているようである。>

 喜舎場氏は、曲名を「カミングバタドゥンタ」(与那国)としている。
「ドゥンタ」とは「ユンタ」のことである。

 <亀久田は島仲部落の南方にある田圃である。恋女は比川部落の者で、
そこは田圃からは東
3キロぐらいのところにある。男は島仲の者で、二
人は遠路を通って恋愛をしていた。田圃は祖納部落から約
35キロほど
にあった名高い沃田であった。最初は畑であったが、のちに田圃に開田
したと古老は伝えているという(『八重山古謡』(下))。>

 喜舎場氏は、「昭和16年(1941)に亀久田の観光を試みたが、その周
辺の景色は何となく詩情をそそる風光明媚な所であった」(同書)という。

                       ティンダバナ(与那国町HP)

                              ティンダバナ(与那国町HPから)
この曲は、入口は亀久畑という田畠の草取りの情景から始まるが、若い男
女の恋模様が物語のように歌われている。

喜舎場氏は次のように解説している。

<当時の風習として二人切りの田草取りはいたって稀れであったとこ
ろから考えても、水も漏らさぬ二人仲であったように考えられる。なお
原歌の中にも「片手で恋女の首を抱き片手で田草を取った」と謠ったと
ころから察しても、そんな田草取りはほんの稀れである。この古謠は性
の自由解放を赤裸々に歌ってある恋愛詩である(『八重山古謡』(下))>。

田畑での恋愛模様をおおらかに歌う曲想は、八重山古典民謡のとって
も面白いところである。

 

与那国のこの曲は、歌の旋律、流れは宮古民謡の「かにくばた」にかな
れ似ている。しかし、大きな違いは、宮古の曲の際立った特徴がみられな
いことである。その一つは、うたもち(前奏)がまったく異なり似ていな
いこと。もう一つは、囃子が与那国の曲は「サースリ」という単純にすぎ
ず、宮古の曲のような「ニングルマトゥマトゥヨー」
という面白い囃子と
はまるで異なることである。

加えて、宮古の曲はとてもテンポが軽快であるが、与那国の曲はもっと
ゆったりしている。この曲はもともと、三線なしで歌われていて、のちに
三線で歌うようになったのだろう。だから前奏はあとから付けられたのか
もしれない。

 といっても、与那国と宮古の両曲は、曲名は同じであり、歌の旋律も似
ている。しかも注目すべきは「田畑で女性を抱く」という興味深い情景の
歌詞が両曲とも入っていることである。これは偶然の一致とは思えない。
与那国と宮古のどちらが先かはわからないが、何らかの影響を及ぼして生
まれた曲ではないだろうか。

 
 宮古の「かにくばた」が与那国に伝わったとしたら、前奏から始まる軽
快なテンポ、面白い囃子も取り入れるだろう。わざわざテンポを遅らせ、
前奏を変え、囃子を切り捨てるだろうか。疑問がわく。沖縄民謡の伝わり
方を見ると、八重山民謡には、早弾きの宮古のクイチャーや奄美諸島の六
調はそのまま伝わっている。八重山民謡の「鳩間節」「川平節」などは本
島で早弾き曲にされている。そんな事例を見ると、与那国島の「亀久畑節
の方が古くからあり、宮古に伝わり、前奏や曲のテンポ、囃子など編曲さ
れたのではないか、と思いたくなる。


 


島唄 | コメント:0 | トラックバック:0 |

「かにくばた」の異名同曲がいくつもある。宮古民謡の「かにくばた」

 宮古民謡の「かにくばた」
 この曲を初めて知ったのは、沖縄に移住してまだ間もない頃だった。宮
古島出身の唄者「Hirara(ひらら)」さんが歌っていた宮古の泡盛「菊之
露」のコマーシャルが、テレビでよく流れていた。日本人離れしたお顔立
ちの彼女が歌うこの曲は、とても沖縄民謡の感じがしなかった。工工四
(楽譜)を見て確かに宮古民謡だとわかった次第。
 この曲は次のような意味がある。 
「新しく村建をする為野原地から狩俣大浦に移動を余儀無くさせられた子
供達に対し親が開墾地の麦の様に勢いよく栄えよ家近くの豆の莢(さや)
のように栄えに栄えよと励まし将来の幸福を祈念する歌である」(平良重
信著『解説付 宮古民謡集』)。
                    
       029_20180123224610c5e.jpg 
        宮古出身のHiraraさん(「真和志まつりで」)
    解説では、「かにくばた」は「兼久畑」の漢字が当てられ、人名として
いる。
 歌詞と歌意の内容を紹介する。6番までは国吉源次版宮古民謡工工四か
ら、7,8番は平良重信著『解説付 宮古民謡集』から。砂川国夫氏のブロ
グ「宮古民謡解説集」も参考にさせていただいた。

1、かにくばたよ 抱きみいぶす 乙女小(ブナリヤガマ)
 (かにくばたとは美人の女性のこと 抱いて見たい女性)
 ヤイサースウーリヌ乙女小
 (ハヤシ)サーハラユイサ クラユイサーサ
 ウッショーシショーヌ ニングルマトゥマトゥヨー
 (ハヤシは以下省略)
2、あらすぬ麦だきよ むとういかぎ 乙女小
 (良い土地に実る麦のように すごく良い嫁になるだろう)
  ヤイサースウーリヌ乙女小
3、野原土地ぬ豆だきよ 家近(ヤッカ)ふぬサヤぬ如(ニヤ)ん
 (その土地に実る豆のように 家の近くの土地に実る豆のように)
  ヤイサースウーリヌサヤぬ如ん
4、後ゆかよ 行末(スウラ)ゆか吾等(バンタ)がむてい
 (ゆくゆくは大変幸せになるのは 私達である)
  ヤイサースウーリヌ吾等がむてい
5、女子(ブナリャウワ)うばよかぐうんな乗(ヌウ)し 大浦(ウプラ)
  んかい
 (女の子が産まれたらかごに乗せて 大浦村あたりまで遊びに連れて行
  きたい)
  ヤイサースウーリヌ大浦んかい
6、男子(ビキリャウワ)ばよ 建馬(タティンマ)乗し 狩俣(カズマタ)
  んかい
 (男の子が産まれたら素晴らしい馬に乗せて 狩俣村あたりに連れて行
  きたい)
  ヤイサースウーリヌ狩俣んかい   
7、夜なびすういばが母(ンマ)よ 夜詰(ユヅミ)すうい生しやるうや
 (夜中まで添いうた私の母よ 夜詰めで添うた生みの親よ)
  ヤイサースウーリヌ生まれるなしゃやるが
8、男子(ビキリヤウォ)ぬよ 夜ぱでや酒ど飲む
 (男の子の 夜出歩きしたら 酒を飲む)
  ヤイサースウーリヌ酒ど飲む

 この曲の解釈を巡っては、解説者によって多少理解の違いがある。
 国吉源次版「かにくばた」(兼久畑)の解説は、<「かにくばた」とは女
性の名である。絶世の美女であったらしく、彼女と一緒になることができ
れば、家庭隆盛、幸せになるだろうと願う男心を歌っている。>とのべて
いる。上原直彦氏もほぼこれと同様な解釈をしていた。
 ここには、平良重信氏が述べたような、開拓地に移住させられる子ども
たちの様子はまったく見られない。
 宮古民謡の唄者であり、ブログで宮古民謡の解説集を書いている砂川国
夫氏は、次のように解釈している。
 <宮古の新しい地への開拓の為に強制的に移動させられた子供達に対し
てその子たちの親達が別れの寂しさを感じながらも新しい地で頑張って 道
を切り開いて言って欲しいと願いを込めて出来たといわれています。 この
歌が出来た当時は子供も立派な労働力として扱われていたので 新しい地を
開拓するのにふさわしい人材だったのでしょう。>
 ここには、「絶世の美女」だとか、女性との恋模様の要素はまったくない。
 平良氏の解釈に近いのではないか。
 在沖宮古民謡協会発行『宮古民謡工工四』の「かにくばた(其の一)」
(「兼久畑(其の二)」もある)の解説も、平良重信本とほぼ同じ内容である。
     
  宮古島のネーネーズの歌う「かにくばた」。アカペラで歌っている

 『琉球列島島うた紀行』を書いた仲宗根幸市氏は、「かにくばた」は、
別名「にんぐるま」と呼ばれているとして、次のように解釈している。
 <開墾地の繁栄を祈願する親心と、ユーモラスな男女の交換歌(クイチ
ャー)。別名「にんぐるま」ともいう。軽快な旋律は集団演舞に向き、特
に囃子が面白い。沖縄の「にんぐるまーと」と異名同曲。歌の囃子に「ニ
ングルマート」とうたわれることから名付けられているようだ(『琉球列
島島うた紀行 <第二集>八重山諸島 宮古諸島』)>。
 私見をのべるほどの見識はないけれど、国吉氏の解説のような美女の憧
れる男心を歌っただけの曲とは思えない。確かに最初の歌詞で、「かにく
ばたよ 抱きみいぶす」と歌い、「抱いてみたい女性」と出てくるので、
恋模様の曲かと錯覚しやすい。それに囃子でも「にんぐるま」が印象的に
繰り返されるので余計にそんな感じになる。
 だが、そもそも「かにくばた」とは「兼久畑」とも書かれるように、女
性の名前らしくない。
「兼久」とは沖縄語では「海岸に近い砂地」(『「沖縄語辞』)という意
味がある。兼久の地名はとても多い、「前兼久」(恩納村)「大兼久」
(大宜味村)などもある。それに「畑」までついているのでなおさら女性
の名前らしくない。寡聞にして女性の名前でこんな名前は聞いたことがない。

 それに、次回に取り上げる八重山民謡の「亀久畑(かみくばた)節」は、
宮古民謡の「かにくばた」とは「亀久」か「兼久」の違いはあるが、曲名
でみればほぼ同じと見てよい。八重山民謡の「亀久畑」は、与那国島の地
名である。
 仮に人名だとしても、歌の歌詞全体を見ると、平良氏や砂川氏らがのべ
ているような、開拓地に移住する子どもたちへの親の願いが込められた曲
という解釈に共感を覚える。
 とくに、意味が分かりにくい最後の7,8番の歌詞について砂川氏は次の
ように解釈している。
7、夜なびすいがばが母よ夜詰みすうい生しゃやるが
 (夜中まで添い寝してくれた私の母よ 移住する前の日まで夜通し
  付き添ってくれた生みの母よ)
  ユイサースゥリーヌ生まれるなしゃやるが
8、男子(びきりゃうぉ)よ 夜ぱずでぃや酒どぅ飲む
 (男の子は 夜外に出れば酒を飲む そうじゃないと強制的に
  移住させられた気持ちが発散出来ない)
  ユイサースゥリーヌ酒どぅ飲む

 「宮古の悲しい歴史が垣間見える曲です。
 でも、曲調はアップテンポでまるで新天地での期待が感じられる様な曲
調です」(ブログ「宮古民謡解説集」)。
 この砂川氏の解説に魅かれるものがある。
 砂川氏によれば、「宮古民謡の三線の旋律は琉球古典音楽がベース」だ
とのこと。
<古くからある宮古民謡は楽器を使わず無伴奏のアカペラで歌い継がれて
きました。宮古民謡に三線の演奏が加わったのは1950年代頃と言われ、
長い歴史の中ではつい最近の話です。…三線の伴奏を初めて作ったのは、
古堅宗雄、友利明令、平良恵清の3人の共作によるものでした。
 古堅宗雄は鍛冶屋を営みながら琉球古典音楽を学んでおり、…伴奏をつ
けるにあたり、琉球古典を参考に要素を随所に取り入れて作り上げていっ
たそうです(ブログ「砂川国夫宮古民謡解説集」)>。

 砂川さんの指摘のように、宮古民謡が三線で演奏されるようになったの
は戦後のことだとすれば、「かにくばた」の特徴あるうたもち(前奏)は
もともとあったのではなく、三線で弾くようになってからつけられたのか。
沖縄本島の異名同曲と見られる「高離節」は、琉球古典音楽として三線で
演奏されて歌われていたのだろうから、「高離節」が影響を与えたのか。
 それとも、宮古の「かにくばた」が三線なしのアカペラで古くから歌わ
れていて、それが本島で三線演奏用に整えられ、その旋律に「高離節」の
琉歌をのせて歌うようになり、それが宮古に反作用し、前奏のついた三線
曲として「かにくばた」となったのだろうか。
 いずれにしても本島と宮古島の文化的な相互作用のなかで異名同曲が生
れたのだろう。


島唄 | コメント:0 | トラックバック:0 |

「カニクバタ」は異名同曲がいくつもある

  琉球放送(RBC)の人気長寿番組「民謡で今日拝なびら」で年末の
2017年12月27日、興味深い放送がされた。番組に「にんぐるまー
と」という曲のリクエストがあった。上原直彦氏は、これをきっかけに、
この曲が宮古島と沖縄本島で歌われる3曲の旋律がとても似ているといっ
て、3曲を比較して流してくれた。

 「にんぐるまーと」は、沖縄本島で歌われる「遊び歌」で、歌詞は即
興で歌うのをよしとするので、歌う人によって歌詞が異なり、決まった
ものはないという。

 「にんぐる」は、日本語の「ねんごろ(懇ろ)」からきていると思われ
る。「ねんごろ」は、「大切、丁寧、睦まじくする様」をいうので、「男女
が情を通じる、愛人」という感じではないかと話した。


 「帽子くまー」というアダン葉の帽子を編む情景を歌った曲では、「に
んぐる小(ぐゎー)どぅ すんなあ」(愛人になるか)と歌う。同曲中で
妻は「とぅじ」と言っており、「にんぐる」は妻とは異なる「愛人」を意
味しているようだ。

 伊江島の歌「ましゅんく節」でも「ヨーテ なにんぐるにんぐるにんぐ
るにんぐる 抱ちょて」と歌う。『由絃会教本の解説』では「めいめいの
愛人、恋仲同士が向き合って」と説明している。

 与那国島を代表する名曲「ドゥナンスンカニ」でも、「なんたはままでぃ
んや とぅじにうくらりてぃ やてぃくあがりざき にんぐるぬ たまち」
(波多浜までは妻に送られて 屋手久(地名)東崎は彼女の持ち分だ=「与
那国島の自然と伝統文化」HPから)と歌われており、「にんぐる」の言葉
は、与那国まで使われたことが分かる。


 上原氏は、宮古民謡の「かにくばた」がとてもメロディが似ているとの
べ、放送ではまず国吉源次さんの歌で「かにくばた」を流した。

 次に、「にんぐるまーと」を嘉手苅林昌さんの歌う50年ほど前のレコー
ドを流した。メロディは本当によく似ている。曲の旋律が似ているだけで
はなく、決定的なのは、軽快で特色ある「歌持ち」(前奏)がソックリで
あること。さらに、「にんぐるまーと」の題名が入った特異な長い囃子が
ほぼ同じである。これは、まさしく異名同曲というべき存在である。


      
      「民謡で今日拝なびら」2017年12月27日放送

 上原氏は、「どちらが先なのか詮議できないが、メロディは沖縄的(沖縄本
島的)、琉球旋法である」と言う。民謡のはやり歌は、宮古と沖縄本島は交流
があるから「ごっちゃになったのだろう」とものべていた。

 注・琉球旋法
 通常、琉球音階と同じ意味で使われるようだ。
 琉球音階はよくレとラを除いたド・ミ・ファ・ソ・シ・ドの5音で構成さ
れると聞く。でも「沖縄において伝統的にもっとも多く使われてきた音階
は、この5音にレを加えたド・レ・ミ・ファ・ソ・シ・ドの6音で構成され、
山内盛彬により嬰陰旋法と呼ばれている音階」(ウィキペディア「琉球音
階」)だという。

 

 ラジオ番組では最後に、松田弘一さんの歌う「高離節」を流した。こちら
は、「かにくばた」「にんぐるまーと」ほどには弾まないが、特色ある前奏
の旋律も歌の旋律もよく似ている。やはりほとんど異名同曲と言ってよいと
思う。

 上原氏は触れなかったが、実は八重山古典民謡にも宮古の「かにくばた」
(兼久畑)と同じ曲名の歌がある。これはどう見たらよいのだろうか。それ
を含めて、次回から、曲名ごとにもう少し踏み込んで見てみたい。



島唄 | コメント:0 | トラックバック:0 |

「あやぐ節」の不思議、その2

 「あやぐ節」の歌詞の紹介の続きである。
4、沖縄いもらば 沖縄の主 落平(うてぃんだ)の水に あみさますなよ 我んたが
 香ぬ 美童匂の 落てがすゆら
 (沖縄に帰られたら(行かれれば)沖縄の旦那様 落平の水で浴びないで下さい 
 私の匂い、愛しい匂いを何時までも持っていて、他の人に移さないで下さい)
 これは宮古からまだ船出する前に、本島に行っても私の匂いを落とさないで、
と願う女性の気持ちが歌われている。由絃会教本は「沖縄いもらば」を「沖縄
に帰られたら」と訳しているので、男性は沖縄本島からやってきたことになる。
宮古島在住なら「沖縄に行かれれば」となるだろう。落平とは湧水で知られており、
昔は対岸の那覇から水桶を積んだ伝馬船が来て、飲み水を汲んで運んでいたそ
うだ。
 <宮古島から本島に旅していけば、浮気をしないか心配だったのだろう。「落平
の水」にかけて、「私の匂いを落とさないで、浮気しないで」と諭したのではないだ
ろうか。(島袋盛敏、翁長俊郎著『標音評釈琉歌全集』)>
       IMG_6189 (2)

5、宮古から 船出ち 渡地の前の浜に すいぐはいくまち
(宮古から船を出して 渡地の前の浜に直ぐに着くほど、順風で平穏な船旅である)
 5番の歌詞の理解もいろいろな解釈がある。この解説では、平穏な船旅のことだ
と解釈している。通常は「宮古から船を出して 渡地の前の浜に すぐ走り込ませた」
と解説されることが多いのではないか。
渡地に走り込んで来ると、そこには…渡地小女郎波枕(遊女)たちが待ち受けてい
る。それで船頭衆は渡地に向かうときは元気が出て、他の方向に行くときよりも倍の
力を出して、舟足を急がせるのであった。そして海の男達は手荒く小女郎たちを愛撫
するのであった(『標音評釈琉歌全集』)>
 かなれ露骨な表現で、船が渡地に急ぐ意味を評釈している。ただし、歌詞には、遊
郭、遊女のことは出てこない。
 留意する必要があるのは、この渡地には宮古蔵と呼ばれる施設があったことであ
る。宮古蔵とは「宮古、八重山の貢物をつかさどった機関」。貢布、特産品の貢物を
扱った。「王府の各機関に納入するさいの窓口業務的な性格の機関であったよう
だ」。また、「貢使の宿館的な機能ももっていたらしい」(『沖縄大百科事典』)。
                  明治初年の那覇 
 宮古から本島に向かう船といえば、貢納物の運搬が重要な任務の一つだった
はずだ。まずは宮古蔵に貢布や特産品の貢物を納入することが優先するだろう。
宮古蔵が宿館的な役割もあれば、必ずしも遊郭に急ぐという意味とは限らない。
 この曲の一貫したテーマが、宮古島の女性が船出する男性への思いを歌って
いることからみれば、5番だけ、男性が遊郭に行きたいので船を急がせたという
意味では歌全体の整合性がないことになる。
 由絃会の工工四(楽譜)集の旧版では、「宮古から 船出ち…」が4番になり、
「沖縄いもらば…」が5番にあった。
 でも、「沖縄いもらば」は、宮古島から船出する前の場面を歌った歌詞である。
「宮古から 船出ち」の歌詞は、船が那覇に着く情景が描かれている。そうなれば、
やはり「沖縄いもらば…」が先になるという判断があって、新版では入れ替えたの
ではないだろうか。

6、鳴かぬ烏の 声聞きば 生まれぬ先からの 縁がやたら
(鳴かないカラスの声を聞いたので あなたとは生まれる前からの縁があったの
でしょうか)
 女性と男性が深い縁で結ばれた仲であることが歌われている。
 かつて、歌詞の誤った解釈や曲全体について理解が不足していたので、歌詞に
ちぐはぐな印象があった。だが、こうして見てくると宮古島から船出する男性に対
する女性の深い愛情が歌われていて、歌全体にそのテーマが貫かれていること
がわかる。この曲を歌う時にも、これまでよりも気持ちを込めて歌えそうだ。



島唄 | コメント:0 | トラックバック:0 |

「あやぐ節」の不思議、その1

  「あやぐ節」 の不思議
 この曲は、宮古島の伝統歌謡の「あやぐ」(「美しい言葉」の意味)を題名として
いて、宮古の歌かと思うと、宮古の工工四(楽譜)には掲載されていない。主に
沖縄本島で歌われている。歌詞を見ると、一つ一つの歌詞の意味は理解できる
が、全体の構成とその意味について、いまいちよく分からないところがあった。先
日、民謡仲間のTさんと話している時、「由絃会の歌詞集の古いものと新しいも
のを比べると、4番と5番んの歌詞の順序が入れ替わっているのはなぜだろうか」
と議論になった。順序を変えた理由を推察してみると、この曲の構成と意味につ
いて理解が深まった。知っている人は知っているだろうが、知らない人は知らない
ことではないかと思い、現在の理解の到達点を記しておきたい。
 この曲がちょっとややこしいのは、歌の舞台や基本的な構成、歌詞の解釈につ
いて、研究者によって様々な解釈があることだ。たとえば、仲宗根幸市氏は<「あ
やぐ節」は宮古から旅してきた船乗りと遊女との問答歌(『琉球列島島うた紀行 
三集沖縄本島周辺離島那覇・南部』)>とのべている。つまり、歌の舞台は那覇
であり、宮古の船乗りと那覇の遊女との関係を描いた歌だと理解している。


 沖縄民謡を解説しているサイト「たるーの島唄まじめな研究」は次のように解説
している。
 <「沖縄ぬ主」つまり沖縄から来た役人または船員の男性と、宮古島の「みやら
び」(娘)たちとの熱い恋の思いを歌ったものである。>
 ここでは、歌の舞台は宮古島であり、沖縄から来た男性と宮古の女性の恋とい
う理解である。宮古島を舞台とした場合でも、男性も宮古島の船乗りや役人で、
宮古の女性と恋仲にあるという見方もあるだろう。

 私も当初、仲宗根氏の解説も読み、この曲の最初に、薩摩藩の在番奉行所を意
味する「仮屋」が出てくるし、他に那覇の地名も登場するので、沖縄本島を舞台と
する曲だと勘違いをしていた。
でもT氏との共通の理解は、歌の舞台は宮古島であり、宮古から船旅に出る男性
と女性の恋歌ということである。しかも、男性を思う女性の立場から歌われている。
 この男性が、宮古島在住者で用務があって那覇に行くのか、沖縄本島から宮古
に来た男性が那覇に帰るのかで歌詞の理解が変わってくる。歌詞と歌意の紹介は、
由絃会の教本によるが、この教本は、2番では「沖縄では短い滞在で帰って来て下
さい」と願いながら、4番では「沖縄に帰っても」とのべ、本島からやって来た男性の
ように表現している。矛盾する解釈ではなかろうか。
    
 「あやぐ節」の歌詞を改めて紹介する。
1,道の美らさや 仮屋の前 あやぐの美らさや 宮古のあやぐ (囃子は省略)
 (道が美しいのは仮屋の前 歌の美しいのは宮古のあやぐである)
 1番はあくまで宮古のあやぐの美しさを仮屋の前の道の美しさと対比して強調し
ているだけであり、あくまで主役は宮古のあやぐである。
2,手拭の長さや なぎ長さ 庭に植てるガジマル木の 葉の長さ
(沖縄での滞在は手拭の長さでは長すぎる せめて庭のガジュマル木の葉のよう
に、短い滞在で帰って来てください)
 この2番の歌詞は、文言だけ見ると意味が分かりにくい。だが、この解説のように
意訳すれば船出する男性への女性の思いが表されている。
3、うばが家と ばんたが宿と 隣やれば 今日も見り 明日も見り かなし里よ
(あなたの家と私の家が 隣同士であれば 毎日逢うことができるのに 愛しい人よ)
 3番は、男性の家と女性の家が隣同士ならよいのに、ということは、互いの家は
離れていることが前提となっている。
仲宗根説のように、宮古から那覇に来た舟乗りと遊女の仲を歌っていると見るなら、
3番の歌詞の意味が分からない。宮古島を舞台と見れば、歌詞の意味が理解しや
すい。
 次の4番と5番の歌詞が、由絃会の工工四(楽譜)の旧版と新版で入れ替わって
いる。


島唄 | コメント:0 | トラックバック:0 |

浜千鳥節の歌碑を訪ねる

 浜千鳥節の歌碑がうるま市の赤野の浜にあるというので訪ねた。田場のサンエ
ーの前を通り県道8号線の金武湾入口という交差点に、歌碑の案内標柱がある。
そこから入り具志川小学校の前を通り、海岸沿いを左に進むと歌碑が見えてきた。
 歌碑の表には「♪旅や浜宿り 草の葉と枕 寝ても忘ららぬ 我親のおそば」、
裏には「たびやはまやどぅい くさぬふぁどぅまくら にてぃんわすぃららん わやぬ
うすば」と一番の歌詞が刻まれている。
 歌意は「旅は浜辺に宿って、草の葉を枕にして寝る 寝ても覚めても忘れられな
いのは親の側で暮らしたことだ」。

 この曲の説明板に歌の由来が書かれている。
<今から約220年前の1800年頃、第2尚氏17代尚灝王(しょうこうおう)の時代、
伊波筑登之親雲上は王府の出納係をしていたが、職務上で誤りを犯したと勘違
いをし、お咎めを恐れ親兄弟の元を逃げるようにして首里を後にした。後にたどり
着いたのが赤野の浜であったといわれている。伊波はそこに留まり草の葉を枕に
野宿をしていたが、情けない姿に郷愁感・寂莫感(?)にさいなまれ遠く離れた愛し
い人や親兄弟を思う気持ちは募るばかりであった。浜辺で泣く千鳥の声に一層郷
愁を誘われて詠んだ詩が浜千鳥だといわれている。>
        浜千鳥
 この歌詞と旋律が相まって、郷愁の気持ちがよく表現されている名曲である。舞
踊曲としてよく使われる。
 歌詞は4番まであるが、「2番以降は、踊りの振付けのため作られたもの」(説明板)
といわれている。
 
 この曲を歌う時いつも疑問に思うことがある。それは4番の歌詞である。
「♪柴木植て置かば しばしばといもり 真竹植て置かば またもいもれ忍ば」
(柴木を植えておくので しばしばおいでください 真竹を植えておくので またおいで
下さい)。この歌詞は「由絃會」の工工四から。
 最後の「またもいもれ忍ば」とあるが、工工四(楽譜)によっては「またもいもれ」や
「いもれ忍ば」としたものもある。問題は、この部分を歌う時、私が所属するサークル
でも、唄者の録音を聞いても、多くの場合、「またも」は省略して「いもれ忍ば」と歌う
ことである。
      浜千鳥節  
 しかし、4番の歌詞は「柴木植て置かば しばしば」と意識して掛け言葉を使って作ら
れている。その後の歌詞も「真竹」と「またも」と同じように掛け言葉で作られている。
だから、「またも」を飛ばして「いもれ忍ば」だけを歌うと、掛け言葉の面白さを無視す
ることになる。それに琉歌は八八八六の字数で詠われるのに、最後が「またもいもれ
忍ば」だと9字にもなり、字余りもはなはだしい。
 そんなわけで自分が歌う時は、最後は「またもいもれ」と歌うことにしている。
 
 余談。交差点の「金武湾入口」の名称であるが、金武湾とは勝連半島や海中道路
でつながる島々と金武岬に囲まれた大きな湾である。うるま市の東側に広がるこの
湾のことしか頭に浮かばなかった。だが、「金武湾」という地名があったことを最近
知った。沖縄戦の後に、すぐ地元に帰ることができない人たちが作った戦後居留地
として「金武湾」という地域があったそうだ。映画館もあったという。「金武湾」にはそ
んな歴史がある。
 「金武湾月夜」という曲もあるが、これは月に照らされた金武湾の美しさを歌った
情け歌である。


島唄 | コメント:0 | トラックバック:0 |
| ホーム |次のページ>>