レキオ島唄アッチャー

「かにくばた」の異名同曲、歌詞は別の曲と類似する「亀久畑節」

 宮古の「東川根盛加後」に似ている

 
ところが、ここで注目されるのは、与那国の「亀久畑節」は、奇妙なことにその歌詞が宮古島のもう一つ別の民謡と似ていることである。
 仲宗根幸市氏によれば、娘が男性に「家まで送ってください」と誘い、男性が「もう自分はここで帰る」といいつつ、女性の情熱と才知でついに、女性の家まで送らされ、寝床まで誘われるとういうこの歌の後半は「宮古民謡の『東川根盛加後(あがずかーにむずかぐす)』と一部内容が似ている(『琉球列島島うた紀行 <第二集>八重山諸島 宮古諸島』)」という。

「東川根盛加後(あがずかーにむずかぐす)」の歌詞も是非知りたいところだ。幸い、仲曽根氏の著書に歌詞と解説が掲載されている。

「71番まで歌詞のある長編のクイチャーあーぐ。東川根盛加後のクイチャーをみに行った女性が、途中で美男子の若按司に会い、あれこれ理由をつけて「私を家まで送れこむって」とアタック。そして、家の門まで、家の仲間で誘い込む内容。」

「この長編のクイチャーあやぐの後編は、与那国の「かみんぐ畑ドゥンタ」と酷似している。…宮古のクイチャーあやぐが祭りをみに行く途中出会った男を誘う内容なのに対し、与那国のドゥンタは、田草とりの帰路意中の男性を誘い込むのである」
 なるほど、男性に送らせて家に誘い込む物語の構図はソックリである。


 宮古の「東川根盛加後」は歌詞が71番まである長編の曲とすれば、歌詞が4分の1ほどしかない短い与那国の曲が元歌として影響をあたえたとはとても思えない。逆に宮古の長編の面白い恋愛物語が、与那国に伝えられ、一部が「亀久畑節」の歌詞に取り入れられたと見るのが自然ではないだろうか。

「亀久畑節」の旋律は「東川根盛加後」とは似ていない。ということは、旋律はもともと与那国で歌われていたものに、宮古の「東川根盛加後」の歌詞が面白いので、そのエキスを取り入れたということだろうか。もし、宮古の「かにくばた」が元歌で与那国にそれが伝わったのなら、旋律も歌詞もそのまま歌えばよい。旋律はそのままで、歌詞だけ別の「東川根盛加後」を取り入れるということは通常、考えにくい。このことを見ても、宮古の「かにくばた」が元歌で与那国に伝わり「亀久畑節」になったとは考えづらい。

    東崎(与那国町HP)  
          東崎(与那国町HPから)                               
 
 かつては宮古の管轄だった与那国島

 さて、与那国島と宮古島は、遠く離れているのに、石垣島などを介さずに直接に影響を及ぼすような関係にあったのだろうか。実は離れていても、古くから密接な関係があった。

かつて、与那国島は宮古島の管轄で、多良間島は八重山の管轄だった。宮古島は琉球国が形成される14世紀ごろには、既に主として東南アジア方面との貿易を運営し、与那国島を貿易の中継地としていた。

1500年に、首里王府に反乱を起こした石垣島のオヤケアカハチを、宮古の仲宗根豊見親の先導する王府軍が征討した後、1501-1503年頃に地理的に不合理として両島の管轄を交換したという。

1522年には、与那国島の首長だった鬼虎が首里王府に従わず、王府の命で宮古の仲宗根豊見親(空広)軍により討伐されたが、鬼虎は、もともと宮古島の出身ともいわれる。興味のある方は、このブログで「与那国島はかつて宮古島に属していた」をアップしているので、そちらも読んでいただきたい。


 このように深い関係にあり、人の交流があったのだから、文化の面でも民謡が島から島へ伝わり、影響を与えたことは容易に想像できる。文化的には先進地だった宮古島から与那国島に伝わったのか、逆に宮古人が与那国の歌を持ち帰り、取り入れたのか。むしろ相互に影響し合ったのかもしれない。

これまでの検討を踏まえて、与那国の「亀久畑」と宮古の「かにくばた」とは、前奏、囃子までソックリではないが、何等かの影響下で歌われるようになった相関関係のある曲ではないか、というのが私なり結論である。

もしそうなれば、すでに異名同曲とされる宮古の「かにくばた」と本島の「高離節」「にんぐるまーと」に加えて、与那国の「亀久畑」までなんらかの糸でつながることになる。


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「かにくばた」の異名同曲がいくつもある。与那国の「亀久畑節」

 与那国の「亀久畑節」

 次に八重山古典民謡の「亀久畑節(かみくばたぶし)」を取り上げたい。これは、RBCの「民謡で今日拝なびら」では取り上げていない。しかし、前から「八重山古典民謡工工四」を見ていて、宮古民謡の「かにくばた」と同じ曲名なので、これは偶然の一致とは思えない。どちらかが影響を与えて生まれた曲ではないのかと気になっていた。

 今回、「かにくばた」の類似曲として3曲が比較されていたが、もう一歩踏み込んで、八重山民謡のこの曲を紹介しておきたい。

「与那国島を発祥の地とする歌であるが、石垣風の歌い方では歌詞も旋律も例によって相当に変わっている」。當山善堂著『精選八重山古典民謡集』(三)はこのようにのべている。當山氏はこの曲の特徴について「八重山音階の変型」としている。
                     

 

この曲の歌詞を當山氏は12番まで、喜舎場永珣著『八重山古謡』(下)は16番まで紹介している。歌詞は、両者によって順番と内容が多少異同がある。歌詞の全部は長いので抜粋する。當山本を基本にし、喜舎場本から多少補った。

1、亀久畑 ういみぐち 登りょうり

 (カミングバタ、ウイミグチに登って)

  注・喜舎場本の歌意―亀久畑に田草取りに行って 南方の小高い所に 登って見たら

4、女童(みやらび)ば 愛しゃーすば 巻き来(きょー)り

 (女の子を、好きな娘を連れてきて)

5、片手しや 田草取り 此ぬ手しや 首抱き

 (片方の手では田草を取り もう一方の手では可愛い娘の首を抱き)

8、夜やなり 日や暮りてぃ あばとぁぬ

(夜になり日が暮れてしまった なんと心細く怖いことよ)

9、くいてぃ迄 かたんぐや迄 我(ぱぬ)送り

 (クイティまで、カタングヤまで 私を送ってちょうだい)

10、貴女(んだ)ま行(ひ)り ばぬま行るん 女童

 (貴女はもう帰りなさい、私ももう帰るから娘さん)

最後は喜舎場本から。

16、ンドゥティマディン ニザシキマディン バヌウグリ

 (戸口までも 寝座敷までお出でよと手を取って離さない 二人寝床で恋の夢を結んだ)

 當山氏の解説を紹介する。

<若夏のある日、恋し合っている島仲村の男性と比川村の女性が二人で仲良く田んぼの草取りをしている場面から物語は始まる。「片手では田草を取り、もう一方の手では彼女の首を抱いて」のくだりは、恋する男女の健康的な姿が目に浮かび、微笑ましくもあれば気恥ずかしくもあり、田草取りはちゃんと出来たのであろうかと気になる描写ではある。

 それはさておき、いつの間にか日が暮れあたりは薄暗くなってきた。そこで、娘は「アバツァヌ!(わたし怖いわ、どうしましょう?!)」と男にすり寄って、自分を家の近くまで送ってくれるよう頼む。女は次から次へと送り先を延ばし、ついに自分の寝所まで男を誘い込むという筋書きである。>

 <カミクバタ=田んぼの地名で、「亀久畑」の字を当てる。地元本(福里武市・宮良保全・冨里康子共著『声楽譜附 与那国民謡工工四』)では「カミングバタ」。元来は畑地であった所の一部を田んぼにしたのだが、この歌では古い呼び名を用いているようである。>

 

 喜舎場氏は、曲名を「カミングバタドゥンタ」(与那国)としている。「ドゥンタ」とは「ユンタ」のことである。

 <亀久田は島仲部落の南方にある田圃である。恋女は比川部落の者で、そこは田圃からは東3キロぐらいのところにある。男は島仲の者で、二人は遠路を通って恋愛をしていた。田圃は祖納部落から約35キロほどにあった名高い沃田であった。最初は畑であったが、のちに田圃に開田したと古老は伝えているという(『八重山古謡』(下))。>

 喜舎場氏は、「昭和16年(1941)に亀久田の観光を試みたが、その周辺の景色は何となく詩情をそそる風光明媚な所であった」(同書)という。

                       ティンダバナ(与那国町HP)

                              ティンダバナ(与那国町HPから)
この曲は、入口は亀久畑という田畠の草取りの情景から始まるが、若い男女の恋模様が物語のように歌われている。

喜舎場氏は次のように解説している。

<当時の風習として二人切りの田草取りはいたって稀れであったところから考えても、水も漏らさぬ二人仲であったように考えられる。なお原歌の中にも「片手で恋女の首を抱き片手で田草を取った」と謠ったところから察しても、そんな田草取りはほんの稀れである。この古謠は性の自由解放を赤裸々に歌ってある恋愛詩である(『八重山古謡』(下))>。

田畑での恋愛模様をおおらかに歌う曲想は、八重山古典民謡のとっても面白いところである。

 

与那国のこの曲は、歌の旋律、流れは宮古民謡の「かにくばた」にかなれ似ている。しかし、大きな違いは、宮古の曲の際立った特徴がみられないことである。その一つは、うたもち(前奏)がまったく異なり似ていないこと。もう一つは、囃子が与那国の曲は「サースリ」という単純にすぎず、宮古の曲のような「ニングルマトゥマトゥヨー」という面白い囃子とはまるで異なることである。

加えて、宮古の曲はとてもテンポが軽快であるが、与那国の曲はもっとゆったりしている。この曲はもともと、三線なしで歌われていて、のちに三線で歌うようになったのだろう。だから前奏はあとから付けられたのかもしれない。

 といっても、与那国と宮古の両曲は、曲名は同じであり、歌の旋律も似ている。しかも注目すべきは「田畑で女性を抱く」という興味深い情景の歌詞が両曲とも入っていることである。これは偶然の一致とは思えない。与那国と宮古のどちらが先かはわからないが、何らかの影響を及ぼして生まれた曲ではないだろうか。

 
 宮古の「かにくばた」が与那国に伝わったとしたら、前奏から始まる軽快なテンポ、面白い囃子も取り入れるだろう。わざわざテンポを遅らせ、前奏を変え、囃子を切り捨てるだろうか。疑問がわく。沖縄民謡の伝わり方を見ると、八重山民謡には、早弾きの宮古のクイチャーや奄美諸島の六調はそのまま伝わっている。八重山民謡の「鳩間節」「川平節」などは本島で早弾き曲にされている。そんな事例を見ると、与那国島の「亀久畑節」の方が古くからあり、宮古に伝わり、前奏や曲のテンポ、囃子など編曲されたのではないか、と思いたくなる。


 


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「かにくばた」の異名同曲がいくつもある。宮古民謡の「かにくばた」

 宮古民謡の「かにくばた」
 この曲を初めて知ったのは、沖縄に移住してまだ間もない頃だった。宮古島出身の唄者「Hirara(ひらら)」さんが歌っていた宮古の泡盛「菊之露」のコマーシャルが、テレビでよく流れていた。日本人離れしたお顔立ちの彼女が歌うこの曲は、とても沖縄民謡の感じがしなかった。工工四(楽譜)を見て確かに宮古民謡だとわかった次第。
 この曲は次のような意味がある。 
「新しく村建をする為野原地から狩俣大浦に移動を余儀無くさせられた子供達に対し親が開墾地の麦の様に勢いよく栄えよ家近くの豆の莢(さや)のように栄えに栄えよと励まし将来の幸福を祈念する歌である」(平良重信著『解説付 宮古民謡集』)。
                    
       029_20180123224610c5e.jpg 
        宮古出身のHiraraさん(「真和志まつりで」)
    解説では、「かにくばた」は「兼久畑」の漢字が当てられ、人名としている。
 歌詞と歌意の内容を紹介する。6番までは国吉源次版宮古民謡工工四から、7,8番は平良重信著『解説付 宮古民謡集』から。砂川国夫氏のブログ「宮古民謡解説集」も参考にさせていただいた。

1、かにくばたよ 抱きみいぶす 乙女小(ブナリヤガマ)
 (かにくばたとは美人の女性のこと 抱いて見たい女性)
 ヤイサースウーリヌ乙女小
 (ハヤシ)サーハラユイサ クラユイサーサ
 ウッショーシショーヌ ニングルマトゥマトゥヨー
 (ハヤシは以下省略)
2、あらすぬ麦だきよ むとういかぎ 乙女小
 (良い土地に実る麦のように すごく良い嫁になるだろう)
  ヤイサースウーリヌ乙女小
3、野原土地ぬ豆だきよ 家近(ヤッカ)ふぬサヤぬ如(ニヤ)ん
 (その土地に実る豆のように 家の近くの土地に実る豆のように)
  ヤイサースウーリヌサヤぬ如ん
4、後ゆかよ 行末(スウラ)ゆか吾等(バンタ)がむてい
 (ゆくゆくは大変幸せになるのは 私達である)
  ヤイサースウーリヌ吾等がむてい
5、女子(ブナリャウワ)うばよかぐうんな乗(ヌウ)し 大浦(ウプラ)んかい
 (女の子が産まれたらかごに乗せて 大浦村あたりまで遊びに連れて行きたい)
  ヤイサースウーリヌ大浦んかい
6、男子(ビキリャウワ)ばよ 建馬(タティンマ)乗し 狩俣(カズマタ)んかい
 (男の子が産まれたら素晴らしい馬に乗せて 狩俣村あたりに連れて行きたい)
  ヤイサースウーリヌ狩俣んかい
7、夜なびすういばが母(ンマ)よ 夜詰(ユヅミ)すうい生しやるうや
 (夜中まで添いうた私の母よ 夜詰めで添うた生みの親よ)
  ヤイサースウーリヌ生まれるなしゃやるが
8、男子(ビキリヤウォ)ぬよ 夜ぱでや酒ど飲む
 (男の子の 夜出歩きしたら 酒を飲む)
  ヤイサースウーリヌ酒ど飲む

 この曲の解釈を巡っては、解説者によって多少理解の違いがある。
 国吉源次版「かにくばた」(兼久畑)の解説は、<「かにくばた」とは女性の名である。絶世の美女であったらしく、彼女と一緒になることができれば、家庭隆盛、幸せになるだろうと願う男心を歌っている。>とのべている。上原直彦氏もほぼこれと同様な解釈をしていた。
 ここには、平良重信氏が述べたような、開拓地に移住させられる子どもたちの様子はまったく見られない。
 宮古民謡の唄者であり、ブログで宮古民謡の解説集を書いている砂川国夫氏は、次のように解釈している。
 <宮古の新しい地への開拓の為に強制的に移動させられた子供達に対してその子たちの親達が別れの寂しさを感じながらも新しい地で頑張って 道を切り開いて言って欲しいと願いを込めて出来たといわれています。 この歌が出来た当時は子供も立派な労働力として扱われていたので 新しい地を開拓するのにふさわしい人材だったのでしょう。>
 ここには、「絶世の美女」だとか、女性との恋模様の要素はまったくない。
 平良氏の解釈に近いのではないか。
 在沖宮古民謡協会発行『宮古民謡工工四』の「かにくばた(其の一)」(「兼久畑(其の二)」もある)の解説も、平良重信本とほぼ同じ内容である。
     
        宮古島のネーネーズの歌う「かにくばた」。アカペラで歌っている

 『琉球列島島うた紀行』を書いた仲宗根幸市氏は、「かにくばた」は、別名「にんぐるま」と呼ばれているとして、次のように解釈している。
 <開墾地の繁栄を祈願する親心と、ユーモラスな男女の交換歌(クイチャー)。別名「にんぐるま」ともいう。軽快な旋律は集団演舞に向き、特に囃子が面白い。沖縄の「にんぐるまーと」と異名同曲。歌の囃子に「ニングルマート」とうたわれることから名付けられているようだ(『琉球列島島うた紀行 <第二集>八重山諸島 宮古諸島』)>。
 私見をのべるほどの見識はないけれど、国吉氏の解説のような美女の憧れる男心を歌っただけの曲とは思えない。確かに最初の歌詞で、「かにくばたよ 抱きみいぶす」と歌い、「抱いてみたい女性」と出てくるので、恋模様の曲かと錯覚しやすい。それに囃子でも「にんぐるま」が印象的に繰り返されるので余計にそんな感じになる。
 だが、そもそも「かにくばた」とは「兼久畑」とも書かれるように、女性の名前らしくない。
「兼久」とは沖縄語では「海岸に近い砂地」(『「沖縄語辞』)という意味がある。兼久の地名はとても多い、「前兼久」(恩納村)「大兼久」(大宜味村)などもある。それに「畑」までついているのでなおさら女性の名前らしくない。寡聞にして女性の名前でこんな名前は聞いたことがない。

 それに、次回に取り上げる八重山民謡の「亀久畑(かみくばた)節」は、宮古民謡の「かにくばた」とは「亀久」か「兼久」の違いはあるが、曲名でみればほぼ同じと見てよい。八重山民謡の「亀久畑」は、与那国島の地名である。
 仮に人名だとしても、歌の歌詞全体を見ると、平良氏や砂川氏らがのべているような、開拓地に移住する子どもたちへの親の願いが込められた曲という解釈に共感を覚える。
 とくに、意味が分かりにくい最後の7,8番の歌詞について砂川氏は次のように解釈している。
7、夜なびすいがばが母よ夜詰みすうい生しゃやるが
 (夜中まで添い寝してくれた私の母よ 移住する前の日まで夜通し
  付き添ってくれた生みの母よ)
  ユイサースゥリーヌ生まれるなしゃやるが
8、男子(びきりゃうぉ)よ 夜ぱずでぃや酒どぅ飲む
 (男の子は 夜外に出れば酒を飲む そうじゃないと強制的に
  移住させられた気持ちが発散出来ない)
  ユイサースゥリーヌ酒どぅ飲む

 「宮古の悲しい歴史が垣間見える曲です。
 でも、曲調はアップテンポでまるで新天地での期待が感じられる様な曲調です」(ブログ「宮古民謡解説集」)。
 この砂川氏の解説に魅かれるものがある。
 砂川氏によれば、「宮古民謡の三線の旋律は琉球古典音楽がベース」だとのこと。
<古くからある宮古民謡は楽器を使わず無伴奏のアカペラで歌い継がれてきました。宮古民謡に三線の演奏が加わったのは1950年代頃と言われ、長い歴史の中ではつい最近の話です。…三線の伴奏を初めて作ったのは、古堅宗雄、友利明令、平良恵清の3人の共作によるものでした。
 古堅宗雄は鍛冶屋を営みながら琉球古典音楽を学んでおり、…伴奏をつけるにあたり、琉球古典を参考に要素を随所に取り入れて作り上げていったそうです(ブログ「砂川国夫宮古民謡解説集」)>。
 砂川さんの指摘のように、宮古民謡が三線で演奏されるようになったのは戦後のことだとすれば、「かにくばた」の特徴あるうたもち(前奏)はもともとあったのではなく、三線で弾くようになってからつけられたのか。沖縄本島の異名同曲と見られる「高離節」は、琉球古典音楽として三線で演奏されて歌われていたのだろうから、「高離節」が影響を与えたのか。
 それとも、宮古の「かにくばた」が三線なしのアカペラで古くから歌われていて、それが本島で三線演奏用に整えられ、その旋律に「高離節」の琉歌をのせて歌うようになり、それが宮古に反作用し、前奏のついた三線曲として「かにくばた」となったのだろうか。
 いずれにしても本島と宮古島の文化的な相互作用のなかで異名同曲が生れたのだろう。


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「カニクバタ」は異名同曲がいくつもある

  琉球放送(RBC)の人気長寿番組「民謡で今日拝なびら」で年末の2017年12月27日、興味深い放送がされた。番組に「にんぐるまーと」という曲のリクエストがあった。上原直彦氏は、これをきっかけに、この曲が宮古島と沖縄本島で歌われる3曲の旋律がとても似ているといって、3曲を比較して流してくれた。

 「にんぐるまーと」は、沖縄本島で歌われる「遊び歌」で、歌詞は即興で歌うのをよしとするので、歌う人によって歌詞が異なり、決まったものはないという。

 「にんぐる」は、日本語の「ねんごろ(懇ろ)」からきていると思われる。「ねんごろ」は、「大切、丁寧、睦まじくする様」をいうので、「男女が情を通じる、愛人」という感じではないかと話した。



 「帽子くまー」というアダン葉の帽子を編む情景を歌った曲では、「にんぐる小(ぐゎー)どぅ すんなあ」(愛人になるか)と歌う。同曲中で妻は「とぅじ」と言っており、「にんぐる」は妻とは異なる「愛人」を意味しているようだ。

 伊江島の歌「ましゅんく節」でも「ヨーテ なにんぐるにんぐるにんぐるにんぐる 抱ちょて」と歌う。『由絃会教本の解説』では「めいめいの愛人、恋仲同士が向き合って」と説明している。

 与那国島を代表する名曲「ドゥナンスンカニ」でも、「なんたはままでぃんや とぅじにうくらりてぃ やてぃくあがりざき にんぐるぬ たまち」(波多浜までは妻に送られて 屋手久(地名)東崎は彼女の持ち分だ=「与那国島の自然と伝統文化」HPから)と歌われており、「にんぐる」の言葉は、与那国まで使われたことが分かる。


 上原氏は、宮古民謡の「かにくばた」がとてもメロディが似ているとのべ、放送ではまず国吉源次さんの歌で「かにくばた」を流した。

 次に、「にんぐるまーと」を嘉手苅林昌さんの歌う50年ほど前のレコードを流した。メロディは本当によく似ている。曲の旋律が似ているだけではなく、決定的なのは、軽快で特色ある「歌持ち」(前奏)がソックリであること。さらに、「にんぐるまーと」の題名が入った特異な長い囃子がほぼ同じである。これは、まさしく異名同曲というべき存在である。


      
      「民謡で今日拝なびら」2017年12月27日放送

 上原氏は、「どちらが先なのか詮議できないが、メロディは沖縄的(沖縄本島的)、琉球旋法である」と言う。民謡のはやり歌は、宮古と沖縄本島は交流があるから「ごっちゃになったのだろう」とものべていた。

 注・琉球旋法
 通常、琉球音階と同じ意味で使われるようだ。
 琉球音階はよくレとラを除いたド・ミ・ファ・ソ・シ・ドの5音で構成されると聞く。でも「沖縄において伝統的にもっとも多く使われてきた音階は、この5音にレを加えたド・レ・ミ・ファ・ソ・シ・ドの6音で構成され、山内盛彬により嬰陰旋法と呼ばれている音階」(ウィキペディア「琉球音階」)だという。

 

 ラジオ番組では最後に、松田弘一さんの歌う「高離節」を流した。こちらは、「かにくばた」「にんぐるまーと」ほどには弾まないが、特色ある前奏の旋律も歌の旋律もよく似ている。やはりほとんど異名同曲と言ってよいと思う。

 上原氏は触れなかったが、実は八重山古典民謡にも宮古の「かにくばた」(兼久畑)と同じ曲名の歌がある。これはどう見たらよいのだろうか。それを含めて、次回から、曲名ごとにもう少し踏み込んで見てみたい。



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「西武門節」の謎、その3。人力車

 

  沖縄民謡「西武門節」の中で歌われる「車乗っていもり」の車とは何か、についてアップした。人力車ではないかという説について、那覇と首里をつなぐ道路は、かなれきつい坂道であり、人力車での通行は無理ではないかと書いた。その後、沖縄の歴史と民謡に詳しいTさんとお会いする機会があった。Tさんは、大正時代の人力車の通行についての貴重な資料、写真を提供してくれた。

 結論から言うと、人力車は那覇と首里の間を走っていた。坂道であることには変わりないが、坂道であっても、それに相応しい知恵と労力で走らせていたという。


 本題に入る前に、人力車はいったいいつごろから沖縄に登場したのだろうか。

「まず知事の専用車として、明治191886)年に1台入ってきた。それが同261893)年には、300台近くの人力車が稼働している。人力車は、那覇市内の人員輸送の中心的役割を果した。街の広さが人間にとって無理のない走行距離であることにあいまって、比較的高低差の少ない地形が起因したものと思われる。…最盛期には2000台近くが那覇の街を走っていたという」「大正3年に電車が開通したあとも、運賃の安さなどから人力車の人気は衰えず」(『目で見る那覇・浦添の100年』)。

 人力車がとても活躍したことがわかる。この記述は、首里と合併する前の旧那覇市内のことが中心になっている。街が広くなくて走行距離が比較的短いこと、坂道が少ない地形であったこと、それが人力車の増加した要因だと見ている。

那覇と首里の間を往来する交通を考えると、事情は異なって来る。那覇―首里間は、いまのモノレールでみると県庁前駅から首里駅までは7㌖近くある。人力車としては走行距離がかなれ長い。しかも大道からは坂道が続く。

 それでも、人力車は走っていた。

 首里観音堂下から那覇の大道に下りてくる道路は、S字形に曲がっていた。S字形にカーブしていれば坂道は少し緩やかになるだろう。

 この坂道に沿って大正31914)年、電車の高架軌道が敷設された。

 この那覇―首里間の人力車通行を証明する意外なエピソードと写真があった。

 大正101921)年33日、昭和天皇がまだ皇太子だった頃、訪欧旅行(英、仏、白、蘭)に出かけた。お召艦は「香取」で、艦長は沖縄出身の漢那憲和大佐だった。この途次の36日、艦隊は沖縄の中城湾に仮泊し、皇太子は軽便鉄道で与那原から那覇駅へ、那覇駅からは人力車で県庁に寄り、さらに首里まで行った。


 県当局は当初、那覇から首里へは電車に乗って行く予定で、準備していたが、それでは沿道に集まる県民がその姿を拝めないと、数日前になってにわかに人力車に変更することになった。急いで鹿児島から空気入りのゴムタイヤの人力車を輸入した。以上は、琉球新報社編『写真集 むかし沖縄』をもとにして紹介した。

              img142.jpg

 この写真集には、3枚の人力車の写真が掲載されている。最初は、皇太子が人力車に乗っている姿が鮮明に写っている。
 真ん中の写真は、人力車を連ねて坂道を上っている。「松川あたりを後押し車夫に助けられながら上っていく」との説明がある。

 きつい坂道なので曳き手車夫一人だけでは人力車が上ることは無理ではないかと思ったが、なんと後ろから押す「後押し車夫」がいたという。ここに坂道を上がる秘密があった。

           人力車(2)
   その下の写真は「ハンタン山付近を行く皇太子と閑院宮」と説明されている。こちらの写真は、人力車の曳き手車夫と後押し車夫の姿が鮮明に写されている。

                 人力車 (3)

 もう一つの資料『激動の記録 那覇百年のあゆみー琉球処分から交通方法変更までー』には、首里・観音堂付近から松川・大道そして遥に那覇方面を望む「真和志風景 大正初期」と題した写真がある。大道・松川方面から緩くカーブした道路を人力車が車列を連ねて登っていく様子が写されている。やはり、曳き手車夫と後押し車夫らしき姿が見える。
  時代は「大正初期」とされているが、どういう人たちの車列なのか説明はない。だが、これだけの車列が続くのは、相当な賓客であるだろう。もしかしたら皇太子が那覇から首里に向かった時の写真かもしれないと推測した。といっても皇太子が沖縄に来たのは大正
10年というので、大正初期ではない。では、いったい誰なのか、疑問は残る。ただ、大正時代に人力車が那覇から首里に向かい坂道を登っていた明確な証拠写真であることには違いない。

                             
             
                 
 
          「那覇百年のあゆみ」 
 

                  写真に白い線が入ったので、少し修整した
 

 では、「西武門節」で歌われる「車乗ていもり」とは、「人力車に乗って来てね」という意味だったのかといえば、それはまた別の問題だろう。 というのは、大正3年から電車が走っていた。皇太子も最初は電車で首里に行く予定だったことを見ても、すでに那覇―首里間の公共交通として電車が重要な交通手段だった。旧那覇市内ならいざしらず、人力車としては遠い首里から那覇の辻まで、電車があるのに、あえて人力車で行ったとはどうも思えない。そう考えれば、やはり「西武門節」の歌詞は、「車乗ていもり」ではなく、「電車乗ていもり」が元々の歌詞だったと考えた方が自然ではないだろうか。これが私なりの結論である。


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「西武門節」の謎、その2.電車は走っていた

  次の問題は、この曲が生れた当時、電車が走っていたのかどうかである。
 戦前の那覇市の路面電車について「ウィキペディア」に記事が掲載されていた。

 路面電車が走っていた 
 路面電車は、1914年(大正3年)5月にまず大門前(戦前那覇の中心地)― 首里間(5.7km)が開業した。その後、1917年(大正6年)9月に大門前 - 通堂間(1.2km)が開業した。大門前 - 首里間の開業2年目からは当初見込み並みの輸送人員を確保し、沖縄電気の直営化後は比較的安定した経営を続けていたが、1929年(昭和4年)1月に並行するバス路線が開設されると輸送人員は急速に減少。1931年(昭和6年)には車両を増備して増発を行うなど積極的な対抗策がとられたものの減少に歯止めがかからず、1932年(昭和7年)に軌道事業からの撤退を決定。翌1933年(昭和8年)3月に全線の休止が許可され、同年3月16日に西武門 ―通堂間が休止、続いて同年3月20日には残る西武門―首里間も休止となり、同年8月12日に全線が正式に廃止された。
                        おきなわの路面電車
      沖縄の路面電車について書かれた本の表紙
 では「西武門節」が作られたのはいつか。「1934(昭和9)年レコーディングした」(「琉球新報」2003年3月1日 00:00 )とされる。
 つまり、路面電車は「西武門節」が生まれるはるか前から運行されていたことになる。だから、歌詞は当初「車」ではなく「電車」だった可能性が強い。
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                            泊高矼の鉄橋を通過する電車(『激動の記録 那覇百年のあゆみ』)

 ただ、この曲がレコーディングされた1934年の前年には、電車は廃止されたという。でも、レコード化される前に、すでにこの歌はかなれ流行っていたと見られる。だから「西武門節」が歌われ始めた当時、電車はまだ走っていた。
 この曲がヒットし歌い継がれていく中で、もう電車は廃止されたので「電車乗ていもり」と歌うのは現実的ではなくなり、「車」に変わっていったのかもしれない。私のもっている工工四(楽譜)はすべて「車」になっているし、ネットで掲載されている歌詞もすべて「車」である。
 
 それでも、歌詞は「車」に変わったとはいえ、戦前、大正から昭和の初めにどれほど車、タクシーが走っていたのだろうか。
 ブログ「沖縄大辞典」によると、沖縄で初めて旅客輸送のタクシー業務を始めたのは名護出身でアメリカにいた山入端(やまのは)隣次郎。大正6年、三台のT型フォードを輸入し、乗り合い自動車事業を開始した。しかし、運賃が人力車は那覇市内なら、どこでも10銭の時代に隣次郎の自動車は奥武山の風月楼から、若狭あたりまでで50銭もとった。コストが高く事業はふるわなかったそうである。
 もしかして、那覇ー首里間、電車と並行してバス路線が開設され、電車が廃止に追い込まれたとなると、「車」とは「路線バス」だった可能性もあるのではないか。そんなことも考えてみた。


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「西武門節」の謎、その1。「車乗ていもり」とは?

 「車乗ていもり」とは?
 沖縄民謡の名曲に「西武門節」(ニシンジョウブシ)がある。沖縄に移住してすぐに聴きおぼえた曲の一つである。川田松夫さん(1903~1981年)が作詞した。旋律は民謡「ヨーテー節」がもとになっている。
 西武門は遊郭として知られる那覇市辻の入り口である。歌は、辻で遊んで帰ろうとする首里の男性客と見送る遊女の掛け合いの内容になっている。
               辻の遊郭 
                      大正時代の 辻の遊郭(『激動の記録 那覇百年のあゆみ』)


(女)今日や首里登て 何時やめーが里前
 (今日は首里に登って 次はいつお出でになるの、貴方)
(男)面影と連れて 忍で来さ無蔵よ
 (面影とともに忍んで来るよ 愛しい貴女よ
(女)またいめね里前 車乗ていもりヨ 我身や西武門に 御待ちさびら
 (また来られる時は 車に乗って来てください 私は西武門でお待ちしています)
                    008_20171213105449727.jpg  
       坂道を登っていくと首里観音堂がある

   問題は、「車乗ていもり」のくだりである。この曲を知った時は、時代はかなれ昔だから、「車」といっても自動車はまだ普及していないはずだ。人力車のことだろうと思っていた。実際、この歌詞の車は「人力車」と解説している人もいる。
 首里と那覇間は徒歩や馬車、人力車などで行き来されていた(「まな兵衛雑記帳」HPから)>ともされている。
 
 
といっても昔の那覇と首里を結ぶメイン道路、安里交差点から首里城方面に向かう県道29号線は急勾配の坂道である。人力車でこの急坂を登るのは、とても無理ではないだろうか。旧那覇地区や首里地区では人力車が走っていたと聞くが、首里と那覇を往復する交通手段にはなりえないのではないだろう。人力車が無理となればこの「車乗ていもり」とは何を意味しているのだろうか。疑問を抱いたままだった。

 そんなとき偶然、カラオケで「西武門節」を歌ってみた。カラオケの歌詞はこの部分が「車」ではなく「電車」になっているではないか。驚いた。戦前、那覇と首里を結ぶ路面電車があったことは聞いていたが、この曲ができた時、電車があったのだろうか。それも疑問だった。
 沖縄の歴史や芸能に詳しいTさんに会ったさい、この疑問を率直に尋ねてみた。
 Tさん曰く。「電車でいいかもしれませんね。西武門には電車の駅があったんです。だから遊女が『西武門までお供します』と歌うのは、電車の西武門の駅までお供するという意味だと思いますよ」とのことだった。ちなみにTさんは、数十年前に川田さん本人にお会いしたことがあるという。


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「海ヤカラ」をめぐる伝承、その2

 「海ヤカラ」に歌われた女性の家系は、いまも継承され、思わぬ方がその末裔であることを知った。
 「週刊レキオ 島ネタchosa班」(201617日付)には次の記述がある。
ちなみに、「海やからー」に恋した娘とは、現在の仲間門中宗家で、ラジオパーソナリティー・玉城美香さんのお母さんの実家だということも判明!>
 美香さんは、毎日ラジオで声が流れる人気パーソナリティーで、糸満市在住でもある。歌に出てくる美女が実家の先祖にあたるとはビックリ。
 沖縄では、歴史上の人物や歌に登場する人たちも、その子孫が身近に存在することがしばしばである。その事はこのブログでも「歴史がいまも生きている沖縄」と題して書いたことがある。
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                                 糸満の白銀堂 

 「海ヤカラ」の歌の舞台となった糸満市真栄里の「ドンドンガマ」
がある場所は、いま「ロンドン杜公園」となっている。この「ロンドン」と名付けられていることをめぐって、いろんな噂話が飛び交っている。
 外国8が漂着してガマに住み着いた、イギリス人なので「ロンドンガマ」と呼ばれた。8人の男だからエイトマンと呼ばれ、それが訛って「糸満」という地名になった。糸満の人は、イギリス人の血が混じっているので美人が多い……。
 これらの話しは、とても信じがたい。
 イギリスなど外国人が琉球に漂着した場合、ただちに王府に連絡がいって対応することになっていた。外国人への対応は、王府にとって重要な外交問題であるからだ。糸満市大度海岸に上陸したジョン万次郎の場合でも明らかだ(このブログで何度かアップしている)。もし漂着が事実なら公的な記録が残っているはず。外国人が8人も集団で上陸して住み着いて、王府が何も知らなかったということはありえないだろう。しかし、寡聞にしてそんな記録の存在は聞いたことがない。


 エイトマンから「糸満」の名前になったというのも出来過ぎた話ではないか。発音が似ているから生まれた語呂合わせの感じがする。糸満の地名の由来はもっと別にあるはずだ。糸満といえば漁師、「海人(ウミンチュ)」の土地だった。
「魚を取る人」を意味する「イヲトリアマベ」が「イユ・トゥイ・アマミ」「イトウマン」そして「イトマン」に変化したとする説、「魚の集まる所」と意味の「イジュマル」が「イチュマン」「イトマン」に変化したとする説などがあります>


 琉球朝日放送「地デジカ地名辞典」は、糸満の地名はこのように魚と関係があるとする。漢字の「糸満」は18世紀の書物に初めて登場したそうである。こちらの方がより説得力がある。

 
糸満に美人が多いのは事実らしい。でもイギリス人の漂着が史実でなければ、イギリス人との混血というのはありえない話しとなる。
 ではなぜ「ロンドン杜公園」などという名称があるのだろうか。同「週刊レキオ」が調査結果について書いている。

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                                                糸満港の旧正月風景
 糸満市の担当者に「
4号ロンドン杜公園はイギリスのロンドンと関わりがあるのか」と尋ねたところ「それは全く違うと思いますね」と教育委員会生涯学習課・主幹兼文化振興係長の加島由美子さんはあっさりと否定したという。加島さんは、「ロンドン杜公園」という名称の背景には、先に書いた「海ヤカラ」と村の美女とのロマンスの伝承があり、「海ヤカラ」の俗謡の1節に、「誰がし名付きたが、ドンロンぬガマや 真栄里美童ぬ 忍び所」とあると紹介している
 ここでは「ドンドン」ではなく「ドンロン」と記している。
「ロンドン」説について、「糸満市史」では次のように記述されているそうだ。
「ロンドンガマ」なのか、「ドンドンガマ」なのか、実際の歌では呼称に差異が生じている。糸満では地域によって、だ行とら行を混同する傾向にあるそうで、はやしやすいのは「ロンドン」よりも「ドンロン」だったのだろうと解釈しています。
「ドンドンガマ」がいつの間にかゴロが似ているので「ロンドンガマ」に変化したのではないかとのことだ

以上、「週刊レキオ 島ネタchosa班」(201617日付)から紹介した。

 つまり、ロンドンの名前の由来としてイギリス人の漂着ということは、史実としてはまったく確認されていないことである。「ドンドンガマ」「ドンロンガマ」がいつの間にか「ロンドンガマ」に変化し、「ロンドン」の語感からイギリスを連想し、いつのまにかイギリス人の漂着説が生れた一種の都市伝説ではないだろうか。私はそんな風に思えてならない。




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「海ヤカラ」をめぐる伝承、その1

「海ヤカラ」をめぐる伝承

  

 糸満市を舞台にした民謡に「海ヤカラ」がある。なかなか面白い男女の恋模様が歌われている。

 「ヤカラ(輩)」とは、強い者、働き者という意味がある。海に生きる強い者、海の勇者を意味する。
    
1、誰(タ)がし名付(ナヂ)きたが ドンドンぬガマや
  遊(アシ)び 美童(ミヤラビ)ぬ 忍(シヌ)び所(ドクル)
  ※海ヤカラ ドンドン スーリ エイスーリ(以下囃子は省略)
 〔誰が名付けたか、ドンドン(洞窟)は、毛遊びの若者達が、忍んで来る処〕

2、ドンドンガマ通(カユ)てぃ 忍でぃ来(チ)ゃさ我(ワ)んね
  出(イン)ぢみそりヤカラ 語てぃ遊ば
 〔ドンドン洞窟に通い、忍んで来たよ、私の為に出てきておくれ勇者よ
 語り遊ぼう〕

3、海ヤカラに惚(フ)りてぃ 食(カ)むる物(ムヌ)食(カ)まん
  道端に泊(トゥ)まてぃ 親(ウヤ)ぬ哀(アワ)り
〔海の勇者に惚れて、食べる物も無く、道端に泊まり、親は哀れに思うだろう〕

4、成(ナ)てぃん成らりらん ぬちんぬかりらん
  如何(イチャ)さびが里前(サトメ) 後ぬ事や

 〔どうすることもできず、抜けることもできず、どうしてくれますか
愛しい貴方よ〕

5、海ヤカラに惚(フ)りて 夜(ユ)ぬ明(ア)きせ知らん
  如何(イチャ)し親(ウヤ)加那志(ガナシ)御返事(クヒジ)さびが
 〔海輩に惚れて、夜が明けるまで一緒に居た、どうやって親に報告しよう

6、我(ワ)んや海ヤカラ 無蔵(ンゾ)や恋(クイ)ヤカラ
  二人(フタイ)押(ウ)し連(チ)りて 親(ウヤ)に語ら
 〔我は海の勇者、愛しき君は恋の勇者、二人揃って、親に話そう〕


  歌詞は手元にある工工四(楽譜)から、歌意は沖縄県広報誌「美ら島沖縄」「民謡とわらべうたでめぐる ふるさと唄紀行」から紹介した。
      

   園田青年会のエイサー「海ヤカラ」
この曲には次のような伝承がある。以下県広報誌から。

<明るく華やかなこの曲は、歌詞を替えて大衆芝居の挿入歌として使われたり、久米島町兼城の獅子舞や各地のエイサーなどに幅広く使われています。

 「海やから」は、海のつわものや英雄を意味し、船頭や船乗り、魚捕りの名人を指しています。

この唄には、糸満市真栄里(まえさと)に今も残る洞窟「ドンドンガマ」の伝説が付随しています。昔、魚捕りのうまいよそ者の青年が、真栄里部落のドンドンガマをねぐらに漁をして暮らしていました。その青年(海やから)に部落の美しいと評判の娘が惚れこみ、洞窟で夜な夜なあい引きを重ねていました。おもしろくないのは同じ部落の青年たち。娘を奪われた嫉妬のあまり、海やからを亡き者にしようと暴力を振るったり、海で溺れさせようとします。しかし海やからは強く、たくらみはことごとく失敗。最後の手段として、恋仲を皮肉をこめて唄うことしかできませんでした。その唄が「海やから」だとされています。>

 村の美女がよそ者に惚れて、それを嫉んだ村の若者がはやし立てるという民謡は、「汀間当(ティーマトゥ)」をはじめいくつもある。その一つである。




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変容する琉球民謡、番外編。「古見ぬ浦ぬブナレーマ」

 「古見ぬ浦ぬブナレーマ」と「無情の月」

 

 八重山民謡の「古見ぬ浦ぬブナレーマ」を先日、ラジオで初めて聞いた。その出だしの前奏と歌い始めを聞いたとき、「これは、本島民謡の『無情の月』とそっくりだ!」と直感した。勿論、細部は異なるし、囃子なども八重山民謡らしいので、趣はかなれ異なるかもしれない。しかし、「無情の月」の出だしは、他の民謡とは違う特色があるので、これだけ似ているとなれば、歌詞を変えた替え歌ではないとしても、「古見ぬ浦ぬブナレーマ」が本島民謡に影響を与えたのかもしれない。
  そんなことで、二つの曲を紹介して比べてみたい。

 この「無情の月」は、知名定男が歌った「おぼろ月」、普久原朝喜作曲の「あこがれの唄」とそっくりである。

 

「古見ぬ浦ぬブナレーマ」

 まずは「古見ぬ浦ぬブナレーマ」を當山善堂著『精選八重山古典民謡集』から紹介する。
 古見は西表島にある。18世紀半ばの古見は、人口700人以上を数える大きい村だったそうである

1、古見ぬ浦ぬ シタリヤゥイサ ぶなれーま ヒヤシタリ イラヤゥイユバナヲル
2、美与底ぬ(以下囃子略) 女童

3、うりぅじぅんぬ なるだる 若夏(バガナチゥ)どぅ 行くだる
4、自分(ナラ)―上納布(カナイ) 取り持ち 十尋布(トゥイルヌヌ)抱き持ち

5、前ぬ浜 走(パ)り下(ウ)れー 寄合浜(ユライパマ)跳(トウ)ばしゃ来(キー)

6、自分(ナラ)舟ば 押しゅ下(ラ)し 艫高(トゥムダカ)ば 引(ヒ)ちゅ下(ラ)し

7 自分―上納布 取り載せー 十尋布抱き乗せー

8、大石垣(ウフイシャギゥ)走り行き 親島(ウヤジゥマ)ん 飛ばしゃ来

9、如何どぅ何処 舟着き 美崎前どぅ 舟着き

10、何処どぅ何処 宿取りぅ 蔵ぬ前どぅ 宿取りぅ

11、調び座ん 行り入り 長蔵ん 入り入り

12、調ぎ主ん しぅされーて 纏み主ん 奉いしー

13、大蔵ぬ 戻りぅんや 沖縄町屋ん 入り入り

14、びぅー折り土瓶 祖母土産 まーらんぷぞー 祖父土産

         
         大底朝要さんの歌う「古見ぬ浦ぬぶなれーま~とーすい」

 この曲は、西表島の古見から、人頭税で織った布を上納するために、石垣島に渡る様子を描いている。

「♪古見村のブナレーマは美与底(ミヨシク、古見の異称)の乙女だった 初夏になったので 貢ぎ布を取り持って 前の浜に走り下りて 自分の舟を押し出して 貢ぎ布を取り載せて 蔵元のある石垣島に走り下り 役人様のいる親島に飛ばしてき」(要約)

織った布を石垣島に舟で運び、海岸の仮小屋で泊まり、蔵元へ納めた。「この間、役人にたいしての世話役を強制的にさせられて帰るという習慣であった」と伝えられる(喜舎場永珣著『八重山の古謡』)。

 織りあげた布を検査する際に、役人が職権をカサにきて、目を付けた女性を自分のものにするという、横暴が絶えなかった。

 

 「無情の月」

 まずは「無情の月」から見てみたい。この曲は、旋律は普久原朝喜さんの「あこがれの唄」とほぼ同じである。歌詞の内容は、同じ普久原作「無情の唄」ととても主題と構図がに似ている。

 「無情の月」の歌詞と歌意を紹介する。
♪千里陸道や 思れ自由なゆい 一里船道や 自由ぬならん
 千里の道も陸路であれば行こうと思えば行ける。でも海を隔てた船路は、一里であっても自由に行けない
♪我肝ひしひしと 干瀬打ちゅる波や 情思無蔵が 思みど増しゅる
  私の心をひしひしと干瀬を打つ波は 愛した貴女への思いが強くなる
♪貫ちたみて置ちょて 知らさなや里に 玉切りて居てど 袖ぬ涙 
 彼のために「貫花」を作ったことを知らせたい。でも貫花は悲しいことに切れてしまった、袖に涙するばかりだ。

♪我身に幸しぬ 光ねんあしが 無情に照る月や 光りまさて
  私自身に幸せの光はないのであるが 無情に照る月は光強くなって

    
      玉城一美さんが歌う「無情の月」。この番組の1曲目に流れている


 思いあった二人が引き裂かれ、彼ははるか遠くにいて結ばれない。悲恋の曲である。なぜ引き裂かれたのかは描かれていない。

 そういえば、普久原朝喜さんの名曲「無情の唄」と発想がとても似ている。愛し合う男女が引き裂かれ、女性は故郷に、男性は海を隔てた遠くにいる。思いあってもままならない恋路である、朝夕袖を濡らし暮らす辛さよ、一人月に向かって泣いている。「浮世 無情なむん」と繰り返す。
 こんな内容だ。表立って、戦争のことは出ていないが、実は出征して引き裂かれた男女を歌っているそうだ。「秘められた非戦の歌」といわれる。
 「無情の月」も、愛し合う二人が、海を隔てた引き裂かれた悲運と離れても慕う心を歌っている。「袖を濡らす」「月に向かって泣く」というのも同じである。


 「あこがれの唄」
 「無情の月」と旋律がそっくりな「あこがれの唄」は、悲恋の歌ではなく、戦争のあと、日本と引き裂かれた沖縄の現実が歌われている。

 普久原朝喜作詞・作曲の「あこがれの唄」の歌詞と歌意を紹介する。

     
        知名定男さんが歌う「あこがれの唄」
行ちぶさや大和 住みぶさや都 あさましや沖縄 変わいはてぃてぃ
 変わいはてぃてぃ
 行ってみたいな大和 住んでみたいな都 哀れな沖縄 変わり果ててしまって

大和世に変てぃ アメリカ世なてぃん ぬがし我が生活(くらし)
 楽んならん 楽んならん
 日本統治の世に変わって アメリカの世になっても どうして私たちの暮らしは楽にならないのだろうか

戦場ぬ後や かにんちりなさや 見るん聞く物や 涙びけい 涙びけい
 戦場の後は こんなにも情けないものか 見るもの聞くもの 涙がでるばかり
自由に我ん渡す 舟はらちたぼり 若さある内に 急じ行かな 急じ行かな
 自由に私を乗せてくれる 舟を走らせて下さい 急いで行かなければ

 
 戦争で廃虚と化した沖縄で、米軍支配のもとで生きる人々の苦難と哀れな姿、そんな現実からの救いを求める心情が込められた歌である。

他にもそっくりな曲がある。

      
        知名定男さんが歌う「おぼろ月」。この番組の3曲目に流されている
 知名定男作詞編曲による「おぼろ月」。この曲は、別れた彼女への愛しい思いを歌う。契りまで交わしていたのに去って行った女性を恨む歌詞である。

 盛和子さんの歌う「母の志情(シナサキ)」も同じ旋律である。それだけこの曲のメロディーが愛されているということなのだろう。
 終わり              文責・沢村昭洋


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