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レキオ島唄アッチャー

時代を駆けた宿毛の人間群像、その9

 本山白雲(1871~1952)
 彫刻家。本名辰吉。明治4年(1871)9月1日宿毛村に生まれる。父茂武(伊賀氏家臣)の2男。
「幼少時、家の近くの城山墓地の地蔵堂で遊び、地蔵堂にある多くの地蔵の表情がそれぞれ違うことに気づき、立体造形に興味を持つ」(ウィキペディア)。
    本山白雲
                 本山白雲
 宿毛小学校高等科卒業の後、一時郷里の小学校代用教員を勤め、18歳の時上京、旧主伊賀陽太郎を頼り、伊賀の推薦で当時東京美術学校の主任教授であった高村光雲の門下生となる。光雲は辰吉の才能を見抜き、美術学校で彫塑を基礎から学ぶことを薦めた。明治23年(1890)、岩村通俊の援助を得て、東京美術学校彫刻本科に入る。卒業と共に同校講師となる。当時同校の彫刻はすべて木彫であったが、長沼守敬について洋風彫塑を学ぶ。同32年(1899)、板垣退助等の主唱によって故後藤象二郎の銅像建立の顕彰展があり、入選し、後藤象二郎像が東京の芝公園に建立された。その後、品川彌二郎の銅像が海軍省競技に当選以来、西郷従道、川村純義、東郷平八郎、松方正義、山縣有朋、伊藤博文などの銅像を制作、県内出身者では山内一豊、板垣退助、片岡健吉、山内容堂、中岡慎太郎、坂本龍馬、宿毛出身者では、岩村通俊、小野義真、林有造など政治家、軍人の銅像を次々と制作した。
 「維新の元勲の銅像で白雲の手にかからなかった者はほとんどないと言われ(る)…その後の第二次世界大戦時、多くの銅像が金属供出で撤去された(ウィキペディア)」。
 昭和19年(1944)、白雲は明治の元勲たちの石膏原型をすべて叩き割り、防空壕の傍らに穴を掘って埋めたという(同)。
 昭和27年2月18日没、82歳。

 北見志保子(1885~1955)
 歌人。本名を川島朝野といい、明治18年(1885)1月9日、宿毛村土居下川島享一郎の長女として生まれる。
 当時自由民権運動が広がり、一般の人々も大きな関心を持ち、運動に奔走する者が多かった。父の亨一郎もその一人で東奔西走し、遂に他郷で客死した。家庭は貧困に追いやられた。志保子は宿毛小学校から中村町実科女学校へ進み、宿毛小学校教員となる。
    北見志保子
                  北見志保子
 貧しかりし故里の家の庭桜かたむきし軒に散るはまぶしも
 人なみに学ばしめんと亡き母が売りしこの山うしろつつじ山
 後年になって、母を慕い母への心から感謝を詠っている。
 17歳のとき、文学修行の志を立てて上京。教師をするかたわら文学の道へ入る。在郷中より恋仲で、歌人として頭角を現していた橋田東声と大正2年(1913)結婚、橋田あさ子またはゆみゑの名で東声の主宰する『珊瑚礁』や『覇王樹』に歌作を発表、その他、山川朱美の筆名で小説を書き『朱実作品集』を出版したが作家としては成功しなかった。
大正11年(1922)浜忠次郎(のちの千代田生命社長)との恋愛問題がおこり東声と離婚、大正14年浜と結婚する。その後は短歌に専念、大正14年短歌誌『草の実』を同志と共に創刊、この頃より北見志保子の筆名を用いる。『月光』『花のかげ』等の歌集を出版、昭和24年(1949)著名女流歌人を網羅した「女人短歌会」を結成し、女流歌人育成にもつとめ歌誌『花宴』を主宰した。
 昭和28年歌碑「山河よ野よあたたかき故郷よ声あげて泣かむ長かりしかな」が母校宿毛小学校校庭に建てられ、その除幕式には歌友を多く連れて帰郷した。最後の歌集『珊瑚』を昭和30年出版し、その年5月4日病没、70歳。
 

 宿毛の誇るべき歴史
 宿毛が驚くほど多士済々の人材を生みだし、幕末から明治維新、その後の政治、社会、経済の発展のために、尽力してきたことがよくわかる。
 幕末から維新の時代に活躍した人たちを見ると、土佐藩の家老を領主とする土地だけに、坂本龍馬、中岡慎太郎らに共鳴し、その行動に参加し、さらに鳥羽伏見のたたかいをへて討幕の官軍に加わり、北陸・奥羽まで遠征するなど、明治新政府を打ち立てるまでの立場では共有していた。
 だが、明治政府の発足後は、情勢の変化の中で、進路は分かれて、政府側の行政の一線に立ち活動した人たち、例えば岩村兄弟などが幾人もいる。維新後は途中から藩閥政府に反対する行動をとった人たちも目立つ。朝鮮政策をめぐる対立後、西郷隆盛や板垣退助が下野して、藩閥政府に反対して自由と民権を求める運動に参加した林有造、大江卓、小野梓など。また近代化とともに始まった新たな事業に参画して経済人として活躍した人たちがいた。
 それぞれ進路は分かれていき、人と業績に対する評価はさまざまである。だが、幕末から、明治にかけて、政治、社会、経済、芸術などの分野で、歴史に足跡を残すような活躍をした人士であることには間違いない。これは、宿毛が誇るべき歴史だと改めて考える。。
 終わり    2022年6 月



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時代を駆け抜けた宿毛の人間群像、その8

 坂本嘉治馬(1866~1938)
 出版業。慶応(1866)2年3月22日、染物業・喜八の長男として宿毛村坂ノ下に生まれる。先祖は邑主安東家の馬廻り役を勤めたが、父の代には家が貧しく染物業を経営していたので、彼も父の業を助けて、18歳まで家業を援けたが、父母に内密に毎日小使銭や商品の利益の一部を5銭、19銭と貯えた。明治17年(1884)青雲の志止み難く、その金を旅費として上京を決行。船便のある宇和島に行く口実をつくり、宿毛を後にした。
 親に内緒で上京へ
 <宇和島の瀬戸熊と云う宿屋へ落付くと、偶然にも同郷の元の友人矢野寅一君に出会わした。この人は郷里での大きな酒屋の息子で、家は富んでいる上、当時神戸の親族の銀行に勤めておられて、いわゆる錦を着て帰るのであったが、「君は何処へ行くのか」と尋ねられたので、事情を話すと「旅費はいくら持っているか」との事であった。「7円持っている」と云うと、「それでは足りなかろう」と云って10円を投げ出してくれた時は非常に嬉しかったが、何だか夢のような気持がした。自分は3年もかかって、やっと7円貯めたのに、いきなり10円と云う大金を貰ったからである。
 矢野君と別れ、直ちに神戸行の汽船に乗込んで神戸に無事上陸し、もと郷里で材木商をしていた愛媛県人で兼池という人の息子で、自分と最も親しかった同姓武太郎という友人を尋ねて、2、3日そこに滞在し、それから構浜行の汽船に乗込み横浜に着いた(富山房発行の「冨山房50年」の中の坂本嘉治馬著「追憶70年」から)。>
 
 小野梓の書店で働く
 横浜から東京に来ると、直に父の恩人、酒井融翁を番町に尋ねた。
 身の振り方を依頼したところ、融は東洋館という書店を経営していた小野梓に託した。小野は喜んで東洋館に雇い入れた。嘉治馬は勤勉正直によく勤務したので、大いに梓の信用を得た。小野はいつも東洋館に来ると奥の日本座敷に机を構え、「国憲汎論」の著述をし、事務も取っていた。店員は6、7人いった。
 明治19年(1886)、小野梓は病でたおれた為、東洋館の経営に一頓挫を来たした。彼は郷党の先輩で、小野梓の義兄小野義真を訪ねて、その窮状を訴えて援助を求めた。小野義真は援助を快く承諾した。

 冨山房を創立
 東洋館は次第に経営が行きづまり、遂に解散に追い込まれた。彼は途方に暮れたが、ついに独立を決意した。小野義真からは初金200円の資本をえて明治19年冨山房を創立した。富山房の名は彼の先輩小野義真が命名したものである。
 明治36年(1903)、国民百科辞典を出版すると評判がよく、よい売れ行きであった。これによって経営の基礎は固まった。この間に冨山房は幾度もの火災にあったが、常に復興に努力して社運は益々盛大となった。長年の努力と研究の結果、各種の辞典、専門書、教科書、雑誌等多くを出版し名実共に大出版会社となる。日本家庭大百科辞典、大日本国語辞典、大言海、漢文大系 国民百科大辞典、大日本地名辞書など冨山房の出版物として多くの人々に利用されている。
          阪本嘉治馬   
               坂本嘉治馬 
   郷里のため巨額の寄贈
 嘉治馬は公共心に富み、種々の慈善事業に浄財を投じた。特に宿毛町の発展については、非常な関心を持ち、進学出来ない貧しい家庭の子弟には惜しげもなく学資を結与して勉学させた。郷里に私立坂本図書館を建設して地方文化の向上に尽力した。神社仏閣に多額の寄付をしたこと。郷里の学校や公共団体に多くの図書の寄贈等、郷土のために巨額の経費を投じた。昭和13年(1881)8月23日没、73歳。
 嘉治馬の没後、嗣子守正氏は父の遺志をつぎ、嘉治馬の所有していた(元小野十三郎邸跡)七百一坪と坂本図書館施設のいっさいを旧宿毛町に寄贈し、第二次大戦中、金参拾万円を寄贈して宿毛中学校(現高知県立宿毛高等学校)を設立した。
 冨山房は、現在、冨山房インターナショナルとして、4代目の坂本嘉廣氏が会長、坂本喜久子(喜杏)氏が社長を務めている。書籍・雑誌の出版をはじめ印刷、教科書・教材の編集、大学生・高校生の必需品の販売している。
 ジョン万次郎に関して、子孫の中濱博氏、中濱武彦氏、中濱京氏の著作ほか多数出版している。
 沖縄の2021年に沖縄タイムス社の文学賞を受賞した知人の作家、なかみや梁氏が書き上げた『ジョン万次郎 琉球上陸物語』を2022年3月11日、出版した。


 吉田茂(1878~1967)
 政治家。本籍東京。明治11年(1878)9月22日東京神田区駿河台に竹内綱の5男として生まれる。父親が反政府陰謀に加わった科で長崎で逮捕され「(母が)竹内の投獄後に東京へ出て竹内の親友、吉田健三の庇護のもとで茂を生んだ」(ウィキペディア)。
   吉田茂
                吉田茂
 注・吉田健三は、自由民権運動の高まりを見せていた当時、自由民権・国会開設派の牙城であった東京日日新聞の経営参画を通じ、板垣退助や後藤象二郎、竹内綱ら、自由党の面々と誼(よしみ)を通じて同党を経済的に支援した(同上)。
 明治14年(1881)、茂は吉田健三の養子となる。同20年養父死亡、吉田家を相続する。学習院を経て39年(1906)東京帝国大学法学部を卒業、その年外務省に入り領事館補として天津に在勤以後奉天、ロンドン、イタリアに駐在、45年(1912)安東領事、外務次官、駐伊・駐英大使を歴任。日本とドイツの防共協定、日独伊三国同盟に反対した。第二次大戦中、親英派と見られ、近衛文磨の和平工作に連座して憲兵隊に拘置された。
 戦後昭和20年(1945)東久邇内閣、弊原内閣の外務大臣、21年自由党総裁鳩山一郎の公職追放のあとを受けて自由党総裁になり、昭和21年5月第一次吉田内閣を組閣し、同29年第五次吉田内閣を総辞職するまで7年2か月、政権を担当して、戦後日本の政治に大きな足跡を残した。その間、占領軍と折衝して戦後処理および復興にあたり、サンフランシスコ講和条約を締結した。30年・33年・35年と高知県から立候補し衆議院議員に当選している。
 昭和42年(1967)10月20日、89歳で病没、著書『回想十年』

 林譲治(1889~1960)
 政治家。号寿雲、俳号鰌児(じょうじ)。明治22年(1889)3月24日宿毛村に林有造の2男として生まれる。六高を経て大正7年(1918)京都帝国大学独逸法律科を卒業、一時三菱倉庫株式会社にいたが、同12年(1923)宿毛町長(2回)となり、宿毛農会長、宿毛信用組合長を勤める。昭和2年(1927)高知県会議員となり、昭和3年第1回普通選挙に立候補したが落選、5年衆議院議員に当選、以来当選11回(途中翼賛選挙で一度落選)その間、文部大臣秘書官、農林参与官、内閣書記官長を勤める。
    林譲治   
                    林譲治 

 昭和23年(19484)第2次吉田内閣の厚生大臣、第3次では留任、25年国務大臣、副総理、26年衆議院議長、27年自由党幹事長になる。
 昭和35年(1960)4月5日病没、71歳。鰌児の号で俳句も詠み、句集『古袷』がある。

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時代を駆け抜けた宿毛の人間群像、その7

 小野梓(1852~1886)
 法学者、政治家。嘉永5年(1852)2月20日、宿毛の軽格武士の節吉の2男として生まれる。号東洋、木王生の筆名も用いている。9歳の時酒井南嶺の塾に入り、ついで文館・日新館に学ぶ。明治元年(1868)17歳のとき宿毛機勢隊に加わり北越に転戦した。土佐藩の藩邸の学校には入らず、幕府直轄の教育機関「昌平黌(しょうへいこう)」に入った。
  藩邸から憎まれ土佐に帰されたが、自由がないのは士分だから、平民なら自由に学べると考え、平民になろうと考えたという逸話がある。
 明治3年(1870)春、大阪に行き、同郷の小野義真の家をたずねた。義真は梓の心意気に感じ、彼を励ました。海外留学の志をいだき、義真の世話で、清国に行き、日本に帰ってから、米国に渡り、更にイギリス渡って経済や法律の勉強を学んだ。後に『国憲汎論』を著して英国主義の立憲政治を鼓吹し、また自主独立をとなえて東京專門学校を創立した基となったのである。
帰国の後、『羅馬律要』を飜訳出版し、名声は高くなった。明治9年(1876)から司法省に勤めたが、司法省でさえ、藩閥政治の旧弊を脱し切れず、他の各省の情実や因縁による政治の弊害は目を覆うものがあるので、それを除去するために、彼は会計検査院の設立を献言し実現。会計検査官に転じて活躍した。
 大隈重信が参議を辞職した際、彼と提携していた小野は会計検査官をやめた。30歳の時であった。小野は①改進党の結成。②東京専門学校の設立。③良書の普及を三大理想としていた。
 板垣退助らが自由党を結成すると、大隈重信らは改進党を結成するが、これを進言し、その準備工作をしたのは主に小野であった。
   小野梓
               小野梓
 改進党の宣言の中に、「急激の改革」を排し「我党は実に平和の手段によって我政治を改良し、順正の方便を以て前進しよう」とのべている。小野が明治14年(1881)12月16日に執筆した「何似結党」の文章の一部がそのまま採択されている。
立憲改進党の結成では、大隈を総理とし、小野は掌事の一人に選ばれた。
 改進党は結成され、各地に演説会を開いて、党勢はいやが上にもさかんとなった。改進党の真の結成者、真の推進者は小野であるといっても決して過言ではない。
 大隈は、私学をさかんにして自由の学府を盛り立て、学問の独立を計らねばならないとの考えを持ち、同意見の小野に学校設立の準備を一任。東京専門学校を設立した。
 校長には大隈の養子、大隈秀麿がなり、小野は、前島密、鳩山和夫、矢野文雄、島田三郎、北畠治房、沼間守一、牟田口元学、成島柳北等と共に議員となった。
 講師ではなかったけれども、校長の事務をとり、課外講演として、日本財政論や、国憲汎論を講義した。小野が勤王と立憲政治とを結びつけて論ずる時など、学生も泣き小野も泣くという、実に感動深い講義であったという。
こうして小野の尽力ででき上った東京専門学校が、後には早稲田大学となった。現在早稲田大学には、小野記念館があり、同校の実質的創立者として彼の功績をたたえている。

 小野は欧米に留学して、図書館の大切を知り、東京専門学校設立と共に、ここでも学校図書館を経営し、遂に全国でも有数の現在の早稲田大学図書館にまで発展する基盤をつくったのである。
 小野は、良書の普及のため、明治16年(1883)、神田区小川町10番地に東洋館書店を開業した。彼自身も生涯の大著述である国憲汎論をはじめ、数多くの論文や著書を出版した。東奔西走し、身体を害し、明治17年(1884)9月2度目の咯血があり、その後は活動も意にまかせず、東洋館書店も次第に経済的に行きづまって来た。
 明治16年、郷里宿毛から18歳の坂本嘉治馬が上京し東洋館書店で働くようになり、小野が病気で倒れてからは、1人で店を切りまわしていた坂本は、小野の死後、東洋館書店を引きつぎ、名も冨山房と改め、遂に小野の意志を立派に達成したのである。『条約改正論』『国憲汎論』等の著書がある。宿毛清宝寺の境内に大記念碑が建立されている。
 <短期間にこれだけの大偉業を達成した小野は、実に大努力家であり、至誠の人であった。しかもその間病魔と闘いながら多くの著書を出し、質量共に偉大な仕事をして、明治時代躍進の基礎を開いた功績は実に大といわなければならない。『宿毛人物史』>
 明治19年(1886)1月11日、小野は息を引き取った。年わずかに35歳。


 林包明(1858~1920)
 嘉永5年(1852)宿毛に生れた。父は邑主安東家(伊賀家)の家臣で包寿といい、祖父は林善次右衛門で、林有造の家系の本家筋にあたる。
 明治7年(1874)、高知立志社が設立され、その提唱によって8年2月には大阪で愛国社が結成された。自由民権運動は次第に活発になり、宿毛では林包明がこれに呼応して、浜田三孝等と協力して合立社をつくって、自由民権運動に参加した。
 間もなく愛国社は板垣の入閣のごたごたや、資金面で生きつまり自然解消のやむなきに至った。更に立志社も明治10年(1877)の土佐拳兵計画で、幹部のほとんどが獄につながれたので自由民権運動も中断の形になった。
 そこで板垣は11年4月、愛国社再興の趣意書を発表し、9月には大阪で各県代表が集まって会合が開かれた。この時、林包明は浜田三孝とともに、宿毛合立社を代表して参加している。
 11年7月、土佐国州会が設置され、2000戸に1人の割合で議員が選ばれることになったが、包明は第17大区の代表として、浜田三孝、山本秀孝等とともに選出された。
 13年(1880)3月の愛国社第4次大会にも、やはり宿毛の合立社250名の総代として参加し、その会で国会開設の請願書を提出している。その年11月10日には第2回期成同盟会を東京で開き、包明はこの会で起草委員に選ぱれて、国会期成同盟合議書を作成した。その後国会期成同盟は、大日本国会期成有志会と改称され、11月15日、沼間守一を中心とする一部が自由党を結成した。明治14年10月の大会には、有志会と自由党は手をとって新しく自由党を組織することを決議した。10月18日から創立総会が開かれ、全国から集った者78人、後藤象二郎が議長となり、盟約を作り役員を選出した。幹事に選ばれた林は、その幹事長となった。
 政府は、自由党の形勢をみて恐れて、11月18日、京橋区警察署が自由党幹事長の林包明を呼び出して詰問した。
 「自由党盟約第2章に、〝吾党は善良なる立憲政体を確立することに尽力すべし"といっているので、集会条例第3条によって届出認可を必要とするものに該当するのではないか」と弁解も聞かずに裁判所に告訴。裁判所は「集会条例による届出をおこたったのは不届に付き、罰金2円を申し付ける」として、林以下全幹事が罰せられた。
 明治15年(1882)には政府の弾圧は一層加わり、集会条例は更に強化せられて、「政治に関する事項を講義するため結社する者は、結社前その氏名、会則、会場および社員名簿を管理警察署に届け出で、その認可を受くべし」と言論の自由を抑圧した。
 その年の6月12日、臨時会議を終って、懇親会に移ろうとした矢先、京橋警察署から幹事が出頭せよとの命令がきた。そこで大石正巳が出頭すると「集会条例違反ではないか、なぜ認可を受けないのか。」というきつい詰問があった。
 27日には林幹事長が呼び出され、届出を強要された。彼は役員にはかって、致し方なく党の役員名簿をそえて、自由党の届出をした。自由党幹事長であった林には、政府の度々の弾圧があり、ついに明治15年8月には獄につながれることになった
 刑期を終えて出獄した林は、もっぱら著述に専念し、「社会哲学」等の数々の書を著している。
 明治18年(1885)には日本英学館を設けて子弟の教育に従事するとともに、19年、星享、山田泰造らと、「公論新報」を発行した。この年保安条例により東京退去を命ぜられたが、憲法発布の特赦によってゆるされた。
 大正9年(1920)6月17日、69歳で歿している。


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時代を駆け抜けた宿毛の人間群像、その6

 大江卓(1847~1921)
 政治家、実業家。幼名秀馬。元服後治一郎、号を元良、揚鶴といい僧籍に入って天也と称した。弘化4年(1847)9月25日幡多郡柏島(大月町)に生まれる。父は宿毛伊賀家の家臣斎原弘である。日新館に入り、学問、武術を学んだ。
慶応3年(1867)9月、砲術研究のため岩村通俊、高俊兄弟と共に、長崎にわたり、ここで海援隊の中島信行、石田栄吉、長崎商会の岩崎弥太郎等と交わった。
 大江はその後岩村高俊、中島信行とともに兵庫を経て京に入り、中岡慎太郎なきあとの陸援隊に入ったが、そこで紀州藩の三浦久太郎が新選組をそそのかせて、坂本、中岡を殺させたのだといううわさを耳にし、大江は、陸奥宗光、岩村高俊ら16名と共に三浦の宿に切り込んだが、三浦も用心のため新選組の土方歳三などをやとっていたので、大乱斗となり、双方に死傷者を出し、三浦に傷を負わせただけで、目的を達せずに引き上げた。
 大江たちが三浦を打ち損じた翌日、慶応3年12月8日に山内容堂が入京した。そしてその翌日9日には王政復古の大号令が発せられた。しかし京都ではいつ戦が始まるかもわからない状態である。紀州藩が徳川家に味方して起つことを抑えるため、高野山に兵をあげ牽制することになり、大江は岩村たち6、70名と共に高野山に向かった。
 高野では僧徒を説くとともに和歌山に書を送って軽挙をいましめた。万一の場合にそなえて錦旗を奉戴してくる任務が大江に下った。
 
 高野山で挙兵 
 慶応4年正月3日、錦旗並びに勅書を賜わったが、その時はすでに伏見鳥羽方面で戦端が開始されていた。大江は雇っていた出入の刀屋の為助に、錦旗と勅書を風呂敷に包んで背負わせて従者とし、自分は医者に変装して6日の早朝高野に到着し、錦旗は高野山にひるがり士気を鼓舞した。
 大江はさらに、単身和歌山に入り、紀州藩を説得して朝廷側に引き入れた。大江の働きにより、紀州藩は、大義を誤ることなく、維新の動乱を切りぬけたが、大江が後年、紀州藩と切っても切れぬ因縁を結んだ。
 大江は、高野山の挙兵によって、兵の組織的な団体訓練の重要性を痛感し、宿毛で洋式部隊を二中隊編成したことがある。宿毛で機勢隊が編成され宿毛を出発したのは7月14日であり、伊賀陽太郎も竹内綱、林有造等をつれて9月には江戸に出、更に荘内に進み、10月26日には再び江戸に帰った。

 明治3年(1870)、大江は官をやめて、兵庫の湊川付近に住んでいたとき、差別された部落住民の悲惨な姿をみて、同じ人間、同じ同胞が何故に平等な社会生活を営むことができないのか、と考え部落解放を決意し、部落の実態調査をはじめた。大江24歳の時である。
 大江はやがて自ら民部省の役人となり、部落住民の解放のために専念した。明治4年8月28日、差別で苦しめられてきた部落住民を平民と同等の権利を付与する太政官布告(解放令)が出された。封建的な身分差別は制度上なくなった。
明治4年10月28日、大江は、神奈川県令の陸奥宗光のもとで働くことになり、神奈川県七等出仕に就任した。次いで11 月には参事となり、明治5年7月には神奈川県権令に進んだ。
 明治5年(1872)6月5日、南米ペルーのマリア・ルーズ号という汽船が、横浜に入港してきた。船員はペルー人であるが、乗客はすべて清国人。労働移民として乗船したが、奴隷の待遇を受けていた。海に飛び込み逃亡した者が、同胞の救助を求めたことから、真相が明らかになった。外務卿・副島種臣の指導のもとに、大江は自から特設裁判所の裁判長となって、圧力をはねかえし、裁判を続行した結果、ついに清国人232名を解放し、無事に清国に送りとどけたのである。
また大江は、芸妓や娼妓が奴隷と同じ状態にあることを知り、その解放も行った。
 明治6年征韓論が破れ、板垣退助西郷隆盛たちが野に下った。当時大江は、陸奥宗光と親しく非征韓論者であった。大蔵省に入った大江は、明治8年に板垣にあって政治意見を交換して、先輩として尊敬するよう になった。
この年大江は後藤象二郎の二女早苗と結婚した。
    大江卓
                  大江卓 
  自由民権運動に参加
 明治7年(1874)に江藤新平は佐賀で乱を起し、明治10年になると西郷が鹿児島で兵をあげた。この報をうけて彼は、今こそ政府顚覆の好機であると考え、林有造等と共に同志を糾合して起たんと志した。大江は「これは天与の好機会である、この機会に後藤の窮地を救い、彼をして乾坤一擲の 大芝居を打たさなければならない。」と考えた。林は銃器、弾薬の入手に着手、大江は、後藤、板垣、陸奥等の間を往来して彼等をこの大芝居の役者たらしめようと奔走した。
 板垣、後藤、陸奥、林、大江、岩神昂が集まって協議した。民選議員設立の目的を達するため、木戸を説き、鹿児島征討の勅命を出させてもらう。表向きは鹿児島討伐の軍を組織するが、実際は大阪城と松山城をのっとり、西郷に呼応して政府に反旗をひるがえし、政府を顚覆させようというのであった。
 熊本城は薩摩軍に包囲され、政府は土佐兵を募集して鹿児島討伐にむかわせる考えとなり、中島信行、岩村通俊などのあっせんで、実行に着手するまでになった。だが、官軍はようやく熊本城と連絡がとれ、薩軍はやがて後退をはじめ、官軍の勢が盛んになると土佐挙兵は、いつの間にか消えてしまった。
 林は3000挺の銃器購入にあたっていたが、立志社の内部では、片岡健吉などを中心に、民選議院設立の建白をしようとの動きが強くなってきた。林は依然、挙兵を論じ、銃器購入が間にあわなければ、火縄銃を持ってでもことをあげようと論じた。しかし、立志社員たちは火縄銃では成功しない、上海からの鉄砲3000挺が来てからでないと挙兵できないと決め、ついに挙兵実行の機会を失ってしまった。
 この陰謀をかぎつけた政府は、大江、林など立志社の幹部ほとんどを逮捕した。林、大江両人は、累を後藤、板垣等に及ぼしてはならないと考え、判廷では自分達が中心で事を運んだと極力申し立てた。判決では林有造大江卓、岩神昂、藤好静が禁獄10年、池田応助、三浦介雄、陸奥宗光が同5年、中村貫一が3年、岡本健三郎が2年、山田平左衛門、林直 庸、竹内綱、谷重喜、岩崎長明、佐田家親、弘田伸武、野崎正朝が1年、片岡健吉は100日という判定であった。
林と大江は岩手の監獄に、陸奥と三浦は山形、藤と岩神は秋田、池田と中村は青森の監獄に送られた。大江は林とともに、7年間ここで過ごした。
 大江の入獄中後藤はその家族のために月々の生活費を送っていたが、大江に通知もせず、大江の妻早苗を後藤家に引きとってしまった。明治17 年(1884)仮出獄を許されて東京へ帰った大江は、はじめてこの事を知り、獄中生活以上に人生の苦痛を味わったのであった。
 
 岩手で衆議院議員に当選
 明治14年(1881)には自由党が生れ、15年には立憲改進党ができた。政府は集会条令をつくって、これらの政党運動に弾圧を加えたので、各地で騒動が相ついで起った。大江、林は自分等の獄中に居る間にできたこれらの政党を、一旦解散させ、新たに強い組織をつくることを計画した。板垣や後藤に働きかけついに後藤をして旧政党を合体して大同団結をつくりあげ、政府攻撃をはじめようとしたのである。
 しかし政府は、強引に後藤をして入閣させ、大同団結は空中分解となった。
 明治23年(1890)、第1回の衆議院議員の選挙がはじまり、大江は岩手の人々に推されて岩手第5区より立候補した。大岩手県民から少なからぬ信頼と尊敬をうけ、県民の一部から熱心に立侯補をすすめられたからである。見事に当選を勝ち取った。
 衆議院議長には中島信行がなり、大江は予算委員長に就任。委員長として、「民力休養(減税)、政費節減」の意見を尊重し、軍艦建造費など削減する軍縮予算案を査定し、可決させた。
 第2回選挙でも大江は、岩手から推されて立候補した。1回も選挙区へは入らず、理想選挙を主張して実行したが、今回は落選の憂目を見た。政界より足を洗い、実業界へ転出した。
 彼は東京株式取引所の頭取として腕をふるい、更に八重山鉱業株式会社を創立し、鉛管製造事業をもはじめた。帝国商業銀行や日本興業銀行の創立委員にもなって活躍した。巴石油会社をおこし、夕張炭鉱株式会社の創立にも力を尽した。
大江が提案した京釜鉄道は明治38年に開通した。大江は、竹内綱たちとともに設立委員の1人として、12年もの長い歳月朝鮮にてその業務に専念した。
 明治41年(1908)、ビルマを経て雲南に入り、未開の奥地を視察した。帰国した彼は老後を社会事業に尽そうと決心した。
 
 部落解放めざして
 大江は大正2年(1913)、被差別部落の改善融和を目的とする帝国公道会を設立を決意した。全力をそそぐためには、出家した。大正3年(1914)2月1日付で、「この度出家して妻子にも別れ、精進潔斎して、身を帝国公道会に委せ、細民千秋の冤をそそぎたい。」という意味の告別状を年来の知友に送り、名も天也と改め、僧籍に入った。
この時の心情を大江は後に左の如く語っている。部落住民に対して多くの同情者があるが、優越意識によって、臨んでいる。自分は、かかる階級的意識を捨てることが唯一の道であること考えた。仏道に入り、一切の俗縁を絶った。
大江は法衣をまとって全国を巡回し、全国に組織をつくり、400数十名の会員を集めた。こうして大正3年6月7日、帝国公道会の設立総会を開いたが、大江は座長として経過報告し、会長に板垣退助を選んだ。後には会長は大木遠吉となり、大江は副会長として、死ぬまでこの会のため力を尽した。
 「彼と行をともにした知人、友人は、ほとんど華族に列し、官界、財界で名をなしている。ひとり大江のみ無位無冠、ひたすら法衣をまとって全国を行脚し、部落解放に全力をうちこみ、差別のない、平和な日本を建設しようとしていたのであった。多難な一生ではあったが、また有意義な一生でもあったわけである」「彼が我が国の近代的ヒューマニズム の先駆者であった」(『宿毛人物史』)。
 著書に「鉄欐詩存」(1903)「楊鶴詩稿」(1906)「明星山房詩 鈔」(1908)などの漢詩集がある。大正10年(1821)9月12日病没、75歳


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時代を駆け抜けた宿毛の人間群像、その5

 岩村高俊(1845~1906)
 地方長官。男爵。通称精一郎、英俊の3男として宿毛に生まれる。長兄は通俊、次兄は林有造である。
藩校の文武館で蘭学や砲術を学ぶ。慶応3年(1867)京へ上り陸援隊に入る。郷里を出でて京都に行き、薩摩や長州の尊王派の志士と交わった。その年11月、坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺されたことに高俊は憤慨し復讐を考えた。犯人と噂された紀州和歌山藩の三浦久太郎を大江卓はじめ同志16人と共に、天満屋に襲ったが、警戒が極めて厳重で、傷づけただけに終わった。
 同年12月、高野山での挙兵に参加した。慶応4年正月に討幕軍の編制に当り、彼は東海道先鋒総督・岩介具定の輩下に属して江戸に向かった。その年の4月に監察使軍監を任じられ、信越奥羽各地に転戦した。特に長岡藩総督・河井継之助が固守していた長岡城を陥れた。その功によって禄200石を賜わった。
    岩村高俊
                 岩村高俊
 明治4年(1871)11月、宇都宮権参事、6年には神奈川県権参事となった。明治7年、兄の通俊は佐賀権令を去ると高俊が佐賀権令(今の県知事)に任命された。前参議の江藤新平が政府に反対する佐賀の乱を起した時は、この乱をいち早く平定することが出来た。
 さらに愛媛県令を命じられ、6年にわたり在任した。仕事の一つに、高知県との県境決定がある。藩政時代から土佐と伊予との国境にあいまいな所が多く、たびたび争いがあった。時々両国人の衝突事件が起きて、これが両国の悩みの種であった。
愛媛県令となった高俊は、この問題を解決するため、篠山(ささやま)は全部を愛媛県に、沖の島は全部を高知県に属せしむることにして問題が解決をみた。
 明治13年(1880)には内務卿書記官に、16年には石川県令、23年に愛知県知事等に歴任したが、病を得て一時退職した。快復後25年(1892)に貴族院議員に勅選され、その後28年には再び地方官に返り咲き、福岡県知事、30年(1897)には広島県知事を勤めた晩年は貴族院議員となった。
 39年(1906)1月2日、日本橋区日本橋病院において逝去した。享年62歳。

 酒井融(1840~1920)
 酒井融(とおる)は、拙児ともいい、天保11年(1840)8月22日、宿毛に生れた。父は俊拙である。青年の頃宿毛の家老の御典医・羽田文友について医学を学び、医名を有慶といった。明治元年戊辰の役には、宿毛の機勢隊の軍医として従軍し、北越に転戦して戦功を立てた。
 その後陸軍に入り主計将校となった。明治10年(1877)には、谷干城(高知県出身)が護る熊本城の主計主任として糧秣等を管理していたが、この年西南の役が起り、熊本城は薩軍によって包囲されてしまった。援軍は来らず、囲みは解けず、その上兵糧倉は焼け、兵糧は1日1日と残り少なくなっていった。兵糧の責任者である酒井は苦難にあった。おかゆをすすり、木の実、草の葉、死馬の肉やねずみまでも捕って食べるという状態となった。籠城は五十余日に至ったが、政府軍が薩軍を破り、西南戦争は終わった。
            酒井融
                酒井融
 その後、軍隊を退いて、会計検査官となって会計検査院に勤めた。会計検査院は同郷の小野梓の考えによって開設されたもので、藩閥政治の情実を会計検査によって防ごうとしたものであった。酒井がこの会計検査院に入ったのは、小野梓が大隈重信の下野に従って官を去った後のことである。
 明治16年(1883)の暮、宿毛から若き坂本嘉治馬が訪ねてきた。後の冨山房の社長である。嘉治馬の父は喜八という足軽で、戊辰の役に従軍の後、病に倒れた。当時軍医として共に従軍した酒井は、それを知り、1里近くもある坂本の家まで毎日毎日往診をし、そのおかげで喜八は一命をとりとめる事が出来た。喜八は、酒井を命の恩人だと人に語っていた。幼い時からこの話を聞かされていた嘉治馬は、青雲の志をいだいて無断で家をとび出し、酒井を頼ったのである。
 嘉治馬は酒井の世話で、当町小野梓が開店した東洋館書店へ勤めることになり、小野が病に倒れ死ぬと、小野の志をついで冨山房を起した。坂本にとって酒井は大恩人である。
 官を辞し郷里宿毛に帰っていたが、明治27年(1894)の日清戦役には、谷干城の推せんで第一軍糧餉部長(将官待遇)となった。戦後再び宿毛に帰り余生をおくった。
 大正9年(1920)8月30日没、81歳。



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時代を駆け抜けた宿毛の人間群像、その4

 林有造(1842~1921)
 政治家。幼名助次、包直ともいう。号は梅溪。天保13年(1842)8月17日、岩村英俊の2男として宿毛に生まれた。兄は岩村通俊、弟は岩村高俊である。林茂次平の養子となる。鳥羽伏見で徳川方に加担した松山、高松両藩に朝廷は討伐を土佐藩に命じた。土佐藩の松山征討軍に先立ち、林は斥候として松山に乗り込み、松山藩の動きなどをつぶさに調べて本藩に報告した。
その後、伊賀陽太郎のお供をして、竹内綱などと共に北越に転戦し功をあげた。
 明治3年(1870)8月、普仏戦争視察の官命が板垣退助の代わりに林を推薦。通弁として中浜万次郎を同伴、大山巌、品川弥二郎たちと横浜を出港、アメリカを経て英国に渡り、更にベルリン、パリを見学し、戦線を視察した。翌4年4月7日、無事に横浜港に帰着した。
 5月15日には高知藩小参事に任命され、11月には新県制によって30歳で参事(後の知事)に任官した。
  明治4年の暮、土佐、吾川、高岡の3郡の山間地帯を基盤として「油取り騒動」とよばれる一揆が起こった。兵を用いて鎮圧すべ きだという声を抑え、主謀者数名を捕え一般民衆の罪を問わず一揆が収まった。
 翌年(1872)10月、征韓論をめぐり、西郷・板垣らが参議を辞職すると同調して辞職した土佐出身の将校達は、山内容堂の墓前に参集し、南海義社を結成した。
 
 西郷を訪ねた
 明治7年(1874)1月、板垣の命をうけて林は鹿児島に西郷を訪ねた。
「薩摩一藩を以って天下を動かすに足るという目信は結構であるが、更に同志があるならばこれと結び、東西相応じて策の万全を期するのが一番よい。優柔不断の政に対して、板垣をはじめ土佐人士は袂を払って起つの気慨を有している。この際はよろしく薩土連合の勢力を以って政府に当るにしくはあるまい」と熱心に説いた。しかし西郷はついに明答を与えなかった。薩土連合の契約は成り立たなかったけれど、万一の場合、西郷は断然兵を挙げる意志のあることだけは確め得たのであった。
 それから佐賀で江藤新平に会った。江藤は、佐賀で憂国党が旗を挙げそうな形勢であるが、これを制することは難しい。「土佐もすぐ兵を挙げてもらいたい」といった。
 林は「土佐と薩摩が兵を動かすまでは自重し、憂国党の青年をおさえて、軽挙妄動することのないように注意されたい」と忠告した。しかしこの忠告は聞き入れられず、佐賀は遂に兵をあげたのであった。林はその帰路、神戸に上陸した時に江藤の挙兵を聞き、東京に着いた時はすでにそれが敗戦に終ったことを聞いたのであった。
 
 挙兵めざす
 林は西郷訪間のことを板垣に復命の後、7年の3月8日土佐に帰った。
 この年、林は、板垣、片岡健吉達と共に、高知に立志社を創立し、後進の指導をしながら、やがて次への飛躍の時期を待つことになった。明治10年(1877)、薩摩の私学校の生徒が火薬庫を攻撃し、北進して熊本城を包囲した。
 この薩軍の挙兵に呼応して、土佐でも挙兵をしようと、板垣邸に集って協議をした。そのほとんどは、板垣と共に辞職した将校連中であった。
 林は挙兵派の中心的人物で、さきに払い下げを受けていた白髪山の大森林を、政府に売り、その金でドイツのスナイドル銃3000挺を、上海のポルトガル人ローザーより買う任務を帯びて東西に奔走した。このドイツ銃が入手次第、兵を挙げようというのである。
 ドイツ銃購入の担当者は、岡本健三郎と中村貫一であり、岡本は竹内綱とはかってドイツ銃800挺を先ず購入した。
林が計画した土佐軍の出陣の方向は、2方面であった。1つは大阪城を攻めとってこれを根拠地とし、1つは松山城を攻撃して中国筋に進み、薩軍と合するというのであった。
 一方、立志社内では、言論によって政府を攻撃しようとの意見が強くなり、板垣、片岡などは建白書を提出した。立志社の動きに周到な警戒をしていた政府は、高知にある銃器弾薬を、10年6月6日、汽船に積んで大阪に引き上げた。
 14日には、立志社の藤好静と村松政克が捕縛された政府が特に目をつけていた。林は、銃器引き取りを促進させるため8日竹内綱の屋敷でローザーと会見しようと、人力車で宿を出たとたん、待ち伏せしていた警官に捕えられ、警視庁に留置された。 
この陰謀に加わった立志社の連中は殆んど逮捕され、東京臨時裁判所において玉乃正履、岩谷龍一の審問を受けることとなった。
林は、累を板垣、後藤に及ぼさないよう、自分達が首謀者であると言いきった。
    林有造
                          林有造
 岩手で入獄
 遂に板垣、後藤は1回の取り調べも受けなかった。しかし、林は禁獄10年の刑を言い渡され、大江卓と共に岩手の監獄に送られた。
 岩手県知事・島維精は、獄舎内では8畳の間を与え、小使1人をつけ、書物の出し入れは自由という手篤い厚遇を与えた。
維新以後、衰微していった宿毛の有志達は、獄中の林に宿毛振興策を問うてきた。林は熟慮の結果、次の3策を得ることができた。
① 宿毛と片島とを連絡させ新田50町歩を造る。
② 片島に汽船を航行させ運輸の便をよくさせる。
③ 東に路をつけ、有岡駅まで車を通行させる。
 この3策を実行すれば宿毛は発展することに間違いないと返信した。
 明治17年(1884)、仮出獄した林は、直ちに宿毛に帰り、3策を詳しく説明した。
 明治19年1月には、新田築造の許可を受け、現在の林新田ができた。
 明治20年(1887)、宿毛汽船会社を興し、宿毛-高知間を通わせた。宿毛丸は沈没する事態があったが、片島港は次第に発展した。東の道路も、市山峠を切り下げて車が通えるようにした。その後この道は県道に編入され、更に現在は国道56号線となって交通の便はますますよくなった。
 
 自由党から衆院議員に
 仮出獄した林は、政治運動にも力を入れた。明治20年、不平等条約の改正問題が起るとこれに反対して建白書を出し、そのため保安条例によって東京退去を命ぜられた。
 明治23年、第1回の衆議院議員選挙が行なわれた。高知県では第1区(土佐、長岡)から竹内綱、第2区(吾川、高岡、幡多)から片岡健吉林有造、第3区(香美、安芸)から植木枝盛が選出された。これら4名はいずれも自由党に属した。
 翌25年(1892)2月15日を期して第2回の総選挙が行なわれた。
 政府は、内務大臣品川弥二郎のもとで、選挙大干渉を行なったので紛争が各地に発生した。中でも高知県下では、干渉が最も露骨を極め、自由党と政府与党の国民党との抗争はついに流血の惨事をまねくに至った。
土佐には、自由党と対立する1つの政社があった。古勤王組という保守党で、各郡に散在する旧郷士を主要勢力として、土佐国民党と称していた。これらの人々は、一種の国家主義を信奉し、品川内相らの思想と一脈通ずるものがあり、自由党とは犬猿の間柄であった。
 
 選挙干渉とたたかう
 時の高知県知事は、鹿児島人の調所広丈(ずいしょひろたけ)で、警察部長は古垣兼成であった。第2区では白由党から片岡健吉林有造、国民党から片岡直温と安岡雄吉が立候補したので、その結果が最も重視せられ、高岡郡長には、鹿児島から呼び寄せた警部、中摩速衛を抜てきした。東西各地の警察官は、公然と有権者に向って国民党候補者への投票を呼びかけ、これに反対する者には「陛下の信任せられる政府に反対する議員は不忠である。これを選挙するのは不敬極まることだ」としかり、これに抗弁すれば直ちに暴漢が乱入して来て警官の命令だと称して半殺しの目にあわされた。
 選挙期日がせまると警官は制服を脱いで暴漢の中に加わり、時にはまた制服をつけて警察権をふりまわした。このように警察と一体となった国民党の乱暴に対して、自由党壮士もこれに対抗したので各地で大騒動が起った。
 このような選挙大千渉の結果、林有造片岡健吉は落選し、国民党の片岡直温と安岡雄吉が当選した。しかし各方面からの訴えがあり、それによって名古屋控訴院は、翌年4月、片岡百温と安岡雄吉両名の当選無効を宣告し、林有造と片岡健吉は晴れて当選し、再び議政壇上の人となることができたのである。
 明治31年(1898)、自由党と、改進党を改めた進歩党とが合同して憲政党を組織した。林はその総務委員に選ばれ、ついで大隈、板垣連合内閣ができると逓信大臣に任ぜられた。34年、伊藤博文が立憲政友会を組織すると、憲政党を解党して、その幹部は政友会に入り、林はその総務委員となった。この憲政党解党を、自由党の栄誉を忘れ、藩閥政権に身売りするものだと論じて反対する者もあったが、中でも幸徳秋水は「自由党を祭る文」を発表してその終末に血涙をそそいだのであった。
 やがて、伊藤博文が内閣を組織すると、林は農商務大臣となり、36年(1903)には、千葉県より立候補して衆議院議員となり、ついで片岡健吉と共に政友会を脱して無所属議員となった。こうして衆議院議員に前後8回当選し、その間2回大臣を務め、国政のため尽力したが、41年以来政界を去って郷里宿毛で郷土発展に尽くした。
 「明治維新以後、わが郷土宿毛からは、数多くの国家有為の人材が出ているが、終始宿毛発展のために力を尽した宿毛第一の人物は、何といっても林有造である」(『宿毛人物史』)
 大正10年(1921)12月29日病没、80歳。

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時代を駆け抜けた宿毛の人間群像、その3

 岩村通俊(1840~1915)
 政治家。男爵。幼名猪三郎、弥左衛、左内。号貫堂、俳号素水。英俊の長男として天保11年(1840)6月10日宿毛に生まれる。弟に林有造、岩村高俊がいる。
 幼い時、在郷の儒者酒井南嶺に学んだ。万延元年(1860)、土佐勤王党の武市瑞山が宿毛に来て同志を糾合したが、この時通俊は意気投合して将来を誓い合った。
 文久元年(1861)邑主安東(伊賀)氏理の側役となり、慶応元年(1865)には文武頭取、目付役となった。この年に長崎に行って安東家のために小銃若干を買って安東家の軍備の新編制につくした。明治元年(1868)4月仕置役となって上阪したが、ついで入京して親兵総取締となった。
 奥羽地方では、まだ佐幕派の諸藩は勤王軍に反抗していた。通俊は山内容堂公に従軍の許可を乞い、朝命をもって越後口に出征を命ぜられ、弟高俊とともに軍監となって出陣した。通俊は羽越各地に転戦して佐幕軍を破り12月には京都に凱旋し、総督仁和寺宮より賞として錦衣を賜わった。
   岩村通俊
     岩村通俊
  明治2年、新政府に登用せられ、聴訟司判事に任ぜられた。つづいて函館府権判事開拓判官になった。明治4年(1871)、札幌の開拓を命ぜられたが、当時札幌は未開の原野で、開墾は困難を極めたが、通俊は寝食を忘れて鋭意経営し、ようやく新市街形成の基礎を築いた。明治5年開拓大判官に進み、道内全域の開発に心血をそそいだので、道民からは開拓の父と称えられた。
明治6年7月、佐賀県権令に任ぜられたが、当時の佐賀県は廃藩後の土地還付について県民に不服が多く、小作人達は竹槍、むしろ旗をもって官に迫っている状況にあった。通俊は同県出身の大蔵卿大隈重信を訪れて、その了解を得て佐賀県におもむいた。就任の日に直ちに地主たちを召集し、相当の代償金を渡して彼等の納得を求め、一挙に土地還付の難問題を解決したので、政府当局はその敏腕に驚いた。
 通俊はその他の県政も積年の旧弊を改めたので、政府は益々通俊の手腕を認め、翌年1月には工部省出仕を命じて中央に呼びかえされた。通俊は後任の佐賀権令として弟の高俊を推薦したところ、政府はこれをいれて高俊を任命した。
高俊が佐賀権令に任命された時、前の参議、江藤新平が佐賀の乱をおこしたので、高俊はその鎮撫を命ぜられた。通俊はこれを知って、内務卿大久保利通に従って、佐賀におもむいた。そうして弟の高俊を助けてこの鎮撫にあたり、わずかの日数でこれをしずめて、佐賀の乱を終らせた。帰京後、命によって「西征始末」を書いた。この年7月には議官に任ぜられ、つづいて8月には判事となった。
 明けて明治9年(1876)には山口地方裁判所長に任命された。10月に前原一誠、奥平謙輔等が、政府に反抗して「萩の乱」を起したが、直ちに鎮定されて、皆捕らわれた。通俊は黙否権を使用する謙輔にむかって条理をつくして説得した。
翌日、謙輔の態度は一変して従順に事実を白状し、前原一誠も一切を白状したので、裁判はスムーズに進んで刑が決定した。首謀者前原一誠等8人を斬首、余党60余人を懲役に付し、その他2000余人は放免した。裁判を始めてからこの結審までわずかに7日間で終った。
 「山口裁判所・萩臨時裁判所(裁判所長・岩村通俊)にて弁明の機会が与えられぬまま関係者の判決が言い渡され(た)」という見解もある(ウィキペディア)。
  
 明治10年(1877)には西南戦争が起きた。通俊は当時鹿児島県令(今の県知事)の辞令を受けて海路鹿児島に赴任したが、鹿児島県内は砲煙弾雨がうずまいていた。通俊は従容としてことに当り、士民の宣撫や救護に全力をつくし、遂に大乱は鎮定した。城山で自害した西郷隆盛の屍を受け取り、浄明寺の域内に葬った。
 維新後の佐賀の乱、萩の乱、西南の役にすべてに通俊が関係していた。
 明治12年(1879)、彼は政府に請願して士族授産金10万円を受け取り、これによって各種の殖産事業を興し、戦後のいためられた鹿児島復興の基礎をたてた。
 元老院議官、会計検査院長等に栄進したが、明治15年(1882)に沖縄県令となった。当時、沖縄では、王府時代の土地・税制制度など古い制度が残り県民を苦しめていた。その中に、八重山諸島や宮古島の人頭税がある。しかし、政府は旧支配階級の反発を避けるため旧慣習を温存していた。
 前任の上杉茂憲県令は、県内をつぶさに視察し、住民の困窮と地方役人の怠慢を察知すると、上京して改革案を上申した。政府は、急激な改革を避けるという方針に反するとして上杉を転任させ、代わりに赴任したのが岩村だった。開明的な上杉県政を批判して旧慣温存を定着させたとされる。人頭税が廃止され、旧慣温存政策が終わったのは、明治36年(1903)のことだった。
岩村は、17年(1884)に司法大輔に昇任した。前に赴任していた北海道を巡視し、政府に対して北海道庁を置くことを建議した。明治19年に北海道庁が置かれ、初代長官に通俊が任命された。
 22年(1889)伊藤内閣のとき農商務大臣となり、ついで宮中顧問官、貴族院議員に勅選され、御料局長を兼ねた。
 大正4年(1915)2月20日、病没、76歳。『貫堂存稿』がある。


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時代を駆けた宿毛の人間群像、そ2

 竹内綱(1839~1922)

政治家・実業家。通称万次郎、諱は吉綱、号は武陵。天保10年(1839)12月26日宿毛に生まれる。父は庄右衛門梅仙、代々伊賀家の重臣であった。目付け役として、主家の財政再建に尽力した。

宿毛藩では、論争により重役すべてが交代し、竹内綱が若くして目付役となった。竹内綱は攘夷論には反対であったが、高知の攘夷派、佐幕派の2派の有力者についてその論を聞くため側用役岩村通俊と共に高知に行った。奉行職深尾鼎、目付役後藤象二郎、武市半平太を訪ねたが、後藤、武市2氏との会談で、攘夷論のよくないことを確認し、宿毛に帰ると領主にこのことを報告した。
   竹内綱
              竹内綱
 慶応2年(1866)7月3日、安満地浦(現在の大月町安満地港)に黒船が入港して、宿毛湾内はにわかに騒然となった。伊賀家では老役の羽田左膳と竹内に歩兵二箇小隊を率らせて安満地浦へ遣わした。彼等は漁舟十余隻に分乗してこれに向ったが、現場に到着して始めて黒船の実態を見て驚いた。いかなる方法をもってしても到底、彼等が全く歯の立たない巨大な存在であることを感得した。勝敗のあまりに明白なことを見きわめ、彼は厳重に兵に発砲を差し控えさせた上、単身、小舟に乗って黒船に漕ぎつけた。黒船に乗りこんで談判を試みたが言葉は全く通じない。その内黒船の士官が「和の英語箋」と云う書物を持ってあらわれたので、互にその本にある単語を指摘し合って、やっとのことで海岸測量のために寄港したこと、英国船であること、明7月5日午前中に出港すること、を確かめることが出来た。

竹内は船上で士官から洋酒を振舞われ、なごやかな空気の中の取り引きで帰って来たが、尊王攘夷にわいていた時代で、ざん言されてちっ居を命ぜられた。彼はいずれ切腹の命令が下るものと覚悟していたが、丁度その折、高知の宿毛屋敷留守居役から連絡があり、それによると、例の英国測量船は須崎の港にも入港したが土佐藩では、これに牛肉、雞卵等の食糧を贈ってこれを遇したとのことである。これによって幸いにも命はとりとめちっ居も解かれることになった。

慶応4年(1868)伊賀家の世子・陽太郎が京都に遊学することになると竹内は選ばれて、その補導役を仰せつかって近習、医者その他を随えて陽太郎の伴をした。彼は陽太郎の京都での生活の責任者として精勤を励んでいたが、その内陽太郎はにわかに奥羽征討軍に加わることになった。彼はよくこれを輔佐して二個小隊を率いて越後から出羽、庄内に入って奮戦した。凱旋後、功によって刀を賜ってその功を賞せられた。

明治2年(1869)には大阪府典事となり、ついで参事となった。同4年には大阪造幣寮が開設されたが、新政府はそのために政府要員をたびたび大阪に派遣して仕事に当らせた。大阪府参事竹内綱が伊藤博文と親交を結んだのはこうしたきっかけで、伊藤は当時政府の役人としてたびたび大阪に来ていて彼と知合ったわけである。竹内は伊藤に廃藩置県論を提示して多いに伊藤を啓蒙したと云う。

明治7年(1874)10月に大蔵省6等出仕に任ぜられたが、同8年12月に辞職して官界を去った。そうして後藤象二郎の経営する蓬萊社に入り、社長となって高島炭坑の経営に従事した。

明治10年、西南の役が起きると、林有造達は西郷隆盛に呼応して挙兵し、一挙に大阪鎮台を陥れる策を練った。この時彼は有造を援けて新型洋式小銃3000挺の入手に奔走した。これより先、明治7年の征台の役に外国より購入した小銃が不用になって目下、外国商人の手にある事を知った彼は、これに目をつけ800丁の鉄砲を手に入れた。しかしこの事が露顕してついにとらわれの身となり、林等は禁固10年の刑を云いわたされ、彼も禁固1年に処せられ新潟の監獄に服役した。

出獄の後は専ら板垣退助を助けて自由党の組織に従事した。明治23年(1890)、帝国議会が開設されると彼は高知県から選ばれて衆院議員になり、一時中央政界で活躍したが、明治29年(1896)、朝鮮に京釜鉄道が興るとその常務理事に送ばれて以来、実業界に転じた。明治40年(1907)京釜鉄道が国有となると、彼は東京に引き上げ、それからは首都の実業界で活躍している。

明治45年(1912)、高知市に三十余万円(現在の数億円)の富を投げ出して独力を以て私立高知工業学校を創設した。当時、高知県は、実業教育は全く他の県に立ち遅れていた。高知商業学校が高知市立として存在しているのと、県立では高知農林学校があるのみで、殊に多額の施設設備を必要とする工業教育については全く手をつけていない状態であった。

彼は工業立国化する日本の将来と郷土高知県の後進性を打破して、教育の機会均等を助ける意味から独力で工業学校を創設した。その後、その必要性が認められ、県立に移管され、今日の高知工業高等学校にまで発展したもので、彼が郷土の文化発展に貢献した功績は偉大なものである。
 大正11年1月9日84歳を以て東京の自邸において歿した。


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時代を駆け抜けた宿毛の人間群像、その1

  高知県宿毛市の幕末から維新にかけての歴史を見てきたが、特に目を引くのは、土佐の西端の宿毛から、激動の時代に、高い志しと熱い思いをもち、土佐にとどまらず日本の各地、さらには欧米にまで駆け抜けた人士を輩出してきたことである。
すでに書いた宿毛の歴史のなかで、それぞれ登場した方々ではあるが、必ずしもその人の全体像を明らかになってはいない。幸い『宿毛人物史』が発行され、宿毛市ホームページで公開されている。それぞれ人物像を知ると、驚くような活躍ぶりでとても興味深い。その人物像と業績について個人ごとに改めて見ておきたい。その多くは『宿毛市史』『宿毛人物史』からの紹介である。ただし、個人の業績の評価については、さまざまな角度の見方があるので、引用は事実関係だけにとどめたものもある。

 伊賀陽太郎(1851~1897)
 宿毛領主、諱は氏成。嘉永4年(1851)宿毛11代領主、山内氏理の嫡子として生まれた。
伊賀家はもと稲葉姓を名乗り、美濃の国(岐阜県)に住んでいた。先祖・郷氏が、山内一豊の姉・通を妻とし、これより安東姓を名乗る。その子、可氏は叔父・山内一豊に仕え、関ケ原の戦いに参加した。一豊の土佐入国に従い、宿毛に6200石を賜り移った。それ以来明治維新まで12代、260余年間、土佐西辺の鎮めとして続いて来た。土佐藩では山内姓を名乗っていたが、明治維新の際に旧姓の伊賀に改めた。
  伊賀陽太郎   
        伊賀陽太郎
 陽太郎は、幼少の頃から学を志し、慶応4年(1868)には京都に遊学した。この時、竹内綱が補導役として従った。先に京に出ていた岩村通俊は、陽太郎に会うと「今は正に維新前夜である。のんきに読書などで時を過ごしている時ではない。みずから戦場に臨まれて王事に力を尽くさなければならない時節だ。」と述べた。陽太郎は「それこそ我が意を得た言葉だ」とすぐにも東征の官軍に身を投じようとしたが補佐役の竹内綱は、邑主氏理の許可がないからと制止した。陽太郎は致し方なく、側役に藩主山内容堂を説かせて、この許可を得た。藩命を受けて、補佐役竹内綱、近習林有造など側近を率いて、北陸へ出陣した。
明治維新後、知識を世界から求める必要を痛感し、自費でイギリスに留学を志した。明治の始め、洋行熱は盛んだったが、その多くは1、2年の短い期間だった。陽太郎は10年にわたりイギリスにとどまり、政治、経済を学んだ。帰国すると、農商務省に入ったが短期間で退職した。
 彼は新日本の建設は先ず教育から、の信念に燃え、高等商業学校の教諭となった。だがいくばくもせず病気で退職した。宿毛に帰って塾を開いて青年の教育に当った。
明治30年(1897)5月3日、47歳で死去した。

 岩村英俊
 宿毛邑主・安東氏(後の伊賀氏)の臣である。岩村家は遠祖平教盛から出て、その子孫が土佐に逃がれた。後に俊忠の子俊重は長曽我部元親に仕えて香美郡岩村(現在の南国市)に移り住み、姓を岩村と改めた。
 山内一豊が入国し、俊重の孫、岩村俊顕は一豊の家老、安東節氏に仕えることになって、宿毛に移り住んだ。英俊は、槍術の達人で、和漢の学に通じ、文武両道に秀でていたので重く用いられた。10代氏固、11代氏理の2代に仕え、命を受けてたびたび上阪して財政の確立につとめた。嘉永元年(1848)には命によって江戸におもむいたが、その時もまた功により十石を加増された。
 激動の幕末、土佐西部の重鎮として尊王擁夷の大道を歩いた。維新の役はもとより、維新後においても、幾多の人傑を宿毛より出し、岩村一家からも通俊、有造(林)、高俊をはじめ歴史をかざる人物が生れたのである。
明治維新後は居を東京に移し、15年8月、79歳で没した。

小野義真(1839~1905)
 実業家。通称恭一郎、はじめ立田春江、後に立田強一郎といい、小野生駒ともいった。天保10年(1839)4月8日宿毛に生まれた。小野家は代々伊賀家に仕え、宿毛大庄屋を勤めた。 
 明治維新後、新政府に出仕して大蔵少丞となり、ついで土木頭となって大阪港の築港や淀川の改修等にその敏腕を振った。官吏として生きるよりも、身を転じて実業界に転じようと明治7年(1874)1月に官界から去った。
 退官後は三菱の顧問として岩崎弥太郎の補佐をした。弥太郎は彼を信頼し、重大事業はすべて彼の意見を聞いたという。三菱での彼の発案した事業で有名なのは小岩井農場の建設がある。岩手県盛岡市の郊外に2600余町歩の面積を持つこの農場は日本一の大農場といわれた。当時は農家で1,2頭のみ飼育している家庭畜産でしかなかったこの時代に、広茫たる原野に数千の南部馬を放牧して、わが国馬匹の改善と奨励につとめた。   
    小野義真

    小野義真

 明治10年(1877)西南戦争が起こると、弥太郎を説いて汽船を購入させ、東京より戦場への兵器弾薬食糧の輸送を全部一手に引受けさせ、ばく大な利益を得て、三菱会社の基礎はこの時に初めて定まったといわれている。
 明治5年東京横浜間に開通した汽車はその後西へ西へと歩を延ばしてはいるものの、東へは一歩も延びず、単に東海道線の建設に明けくれていた。このままでは全国に鉄道の普及するには何百年かかっても出来ないことに目をつけ、私設鉄道の設立を考え出したのが岩倉具視であった。岩倉に抜擢されて日本鉄道株式会社設立主任に就いた。この会社、東京、青森間に私設鉄道を建設することを目的としていた。
 設立には困難を極めたが、小野は日夜奔走し、政府に保護を願い、民間資本家を訪れて出資を乞うなど手をつくして、資本金1000万円(現在の数千億円)の大会社を設立することに成功した。

日本鉄道株式会社が設立されると、社長に就任、さっそく東北本線上野、青森間の鉄道建設工事を開始した。東北本線は東海道線、山陽線と共に本州を縦断する重要な大幹線の一つである。工事上幾多の難関はあったが、東北線は開通した。21年間社長の椅子に座って経営にあたった。政府は国策によって私設鉄道を買収して、わが国の鉄道をすべて国有化することになり、その第一に重要幹線東北本線の買収を開始した。彼は国策のよろしいことを認めて喜こんでこれに応じた。日本鉄道交通の発展に貢献した。明治38年(1905)5月9日没す、67歳。



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幕末・明治期に人材を輩出した宿毛市、その8

  選挙干渉
  第1回帝国議会は、明治23年(1890)11月25日に召集された。政府提出の予算案をめぐって、当初から与野党が厳しく対立した。これを調整するため議長中島信行、予算委員長大江卓、請願委員長片岡健吉ら9名で予算審査委員会をつくり交渉の結果、妥協案が賛成157、反対125で成立し解散を避けることができた。
 山県内閣はこの譲歩によって退陣し、松方正義が新内閣を組織して24年12月21日第2回議会が召集されたが、野党は政府の軍艦・製鋼所設立費の予算を否決し、政府攻撃を強化したので議会は12月25日解散となり、翌25年2月15日に第2回総選挙が施行されることになった。
 内務大臣品川弥次郎が中心となり、全国の選挙区で官憲が選挙干渉にのりだし、野党側もこれに対抗したので、いたる所で暴力と暴力の衝突が行われ、遂に各地で死傷者がでて我が国選挙史上に汚点を残した。

高知県では、その干渉が最も露骨になり、自由党と与党である国民党との抗争が激しかった。当時の高知県知事・調所(ずしょ)広丈も、警察部長・古垣兼成も鹿児島県人であり、最も激戦地であると予想される第2区高岡郡長には、同県人の中摩速衛を起用して、選挙干渉のために万全の備えをとったのである。高知県下の立候補者は第1区では前回の候補者竹内綱が実業会に入り辞退し、自由党(24年3月20日「立憲」をけずり自由党と改名)の武市安哉と国民派新階武雄、第2区では、自由党林有造・片岡健吉、国民派片岡直温・安岡雄吉が立ち、第3区では植木枝盛が1月25日病死したので西山志澄が枝盛の養嗣として植木氏を称して代わり、国民派弘田正郎と対立した。第1区と第3区とは自由党支持票が多数であることは前回の総選挙で明らかであるが、第2区の林・片岡を倒す事に政府側の目標がおかれ、したがって干渉が最も積極的に行われたのである。

各地の警察官は公然と有権者に向って、国民党候補者への投票をすすめ、抗弁する者には「陛下の信任せられる政府に反対する議員は不忠である。これを選挙することは不敬きわまることだ」と叱責し、国民党壮士の乱暴を見逃がしたりした。自由党壮士も又これに対抗し争いが各地でおこり、この為死傷者まで続出した。この頃は保安条例がしかれて、兇器を携行して通行することは禁止されていたが、この適用を受ける者は自由党員ばかりで、国民党員は兇器携帯が黙認されていたので自由党員は自衛上鍬の柄を杖として闘ったという。

 幡多郡下の状況
 このような選挙騒動は、第2区であった幡多郡下でも全く同様であった。宿毛等のようにこぞって自由党の所もあったが、両党とも中村で大集会を開催したり、各部落では大きな旗を作って宴会や集会、選挙応援、時には田植えにまで旗をたてて気勢を挙げた。当時郡下の状況を(橋田庫欣資料による)中村の桑原良樹談として次のように書いている。
 「国民党は百笑(どうめき)の宮崎嘉道が中心となり、…特に宿毛に対する本陣は押の川の押川光躬であった。自由党の方は、不破の人々や楠島の川村勇馬・川村泰渡、江の村の土居三白、上の土居の立石治内、有岡の熊岡泰次・橋田宇太郎・宗崎重寛、山田の江口準や宿毛の人々であった。中村の四万十川原で国民党は上に、自由党は下に集って大集会を開いて気勢をあげた。その時、西は宿毛より東は佐賀、北は川崎方面から壮士が集まって来た。自由党は赤い大きな旗を川原に立てた。国民党は、国民党と書いた旗を川原に立て、酒樽をわって酒を飲み、花火をあげ、大砲まで打って気勢をあげた。子供をつかまえても『自由か、国民か』と云って聞いたくらいであった。」
 各地の演説会では、ヤジ投石が行われ、23年11月には自由党の杉内清太郎が殺害されたのをはじめとして、25年の第2回選挙の時には川村勇馬襲撃事件、土居三白襲撃事件、立石治内襲撃事件等が次々に起った。

  宿毛で激しい争い
 宿毛の状況について『林有造伝』では「生活地獄」と題して次のように書かれている。「宿毛においては有造の出生地であり、しかも選挙地盤は幡多全域と吾川、高岡各1郡だから官憲と国民派は連絡をとって宿毛に大々的に圧迫を加えた。千余名の壮士と博徒を狩り出して宿毛の交通をしゃ断してしまった。こうして一方には自由党壮士の来援を遮り、他方では宿毛を中心として、選挙の妨害を行なったのである。
 この遮断の結果は宿毛全町民に大脅威を与えた。貨物の運搬が杜絶したので食粗の運搬ができなくなったのである。米に窮し、塩に窮した。ここにおいて自由党も百姓や有志を集めて国民派の包囲にあたらせたが、こうなると益々糧道は塞がるばかりで、15日の投票日が来るのを待ちかねた。国民派を駆逐する希望より米塩の補給を希求しはじめた。」

  こうした選挙干渉のもとでの自由党と国民派の激しい争いのなかで、宿毛では死亡事件が起きた。
 明治25年2月3日には国民党の菊地儀三郎が伊与野で鉄砲により射殺されるという事件が起きた。その前日、国民派の和田克次が同志である中村(現四万十市)の菊地儀三郎、武田利太郎を連れて橋上(現宿毛市)から夜半、宿毛に入り警戒線を突破して弘見(現大月町弘美)方面に向う途中、伊与野(現小筑紫町伊与野)で自由党壮士に襲撃され、儀三郎は即死、利太郎は重傷、和田は逃れる事ができた。
 選挙の前日、2月14日には中角村(現宿毛市中角)に国民党が来襲し、更に宿毛へ大勢で押しかけてくるとの情報があった。宿毛は総動員でこれを迎え撃つ準備をした。明けて15日の午前1時頃約一千名の国民党の壮士が銃や刀を持ち、巡査を先頭にして市山峠を越えて和田にやって来た。この混乱の時、和田村(現宿毛市和田)役場に入って来た細川速水郡書記は、役場の庭で自由党の壮士の為に切り殺された。
   林有造
     林有造

  不正選挙で提訴
 2月15日に選挙は終ったが、自由党も国民派も開票の結果が判明するまでは対峙の陣容を解かなかった。第2区の開票は須崎の高岡郡役所で行われた。
 開票所においても、幡多郡和田村の投票の中に、不正があるといいだし、自由党の立会人が躍起になって、不正のない理由を主張したけれど、官権が国民派の苦情を承認したので、和田投票所の投票が無効となってしまい、2月25日に再選挙を執行する事になった。
 開票の結果第1区の武市安哉、第3区の植木志澄は当選確定、問題の第2区で国民派の片岡直温が854票、安岡雄吉が844票で当選し、自由派は片岡健吉が771票、林有造が773票で落選した。片岡直温と安岡雄吉の当選は3月3日告示されたが、この開票に不正があったことが、片岡健吉と林有造の告訴によって暴露されたのである。
 まず高知県自由党の代言人(弁護士)および公証人一同が原告となって、第2区選挙長中摩速衛(高岡郡長)以下立会人を相手取り選挙長以下が、詐偽の行為があったことは、刑法第235条に該当するものとして、高知地方裁判所に告訴すると同時に、後日の証拠として投票用紙を厳重保管するよう提訴した。
 提訴の要点として原告片岡健吉は879票の得点あり、原告林有造は875票の得点あり、被告片岡直温が実際の得票746票の上に健吉の得票108を移して854票とし、被告安岡雄吉が実際得票742票の上に、有造の得票102票を移し844票として、当選を決定した事は不当であって、第1号から62号迄の証拠書類をもって実証するというのである。

  高知地方裁判所では、最初この提訴を受理して審議を進める模様だったから、自由派は公判の来るのを待っていた。しかし裁判所側は大審院や検事正に伺書を差出してこの指令を待つという態度だったから、ぐずぐずしていると当選無効提訴期限が切れるので、3月28日片岡健吉、林有造を原告、代言人山下重威・藤崎朋之・西原清東を代理人とし、片岡直温と安岡雄吉を被告として、大阪控訴院民事第2部長十時三郎に宛て選挙無効の裁判を求めた。

  片岡健吉
             片岡健吉
  
林有造・片岡健吉当選確定
 片岡健吉と林有造の告訴は大阪控訴院から大審院、更に名古屋控訴院に移されて審理の結果、明治26年(1893)4月6日に2人とも当選が認められた。国民派の片岡直温と安岡雄吉の2人はこれを不当として大審院に上告したが、6月6日上告の理由なしとして却下され、世論をわかした選挙干渉問題は厳しい世論と法の前に解決した。
 松方内閣の選挙干渉は、第3回臨時議会で問題化され、貴族院では緊急動議によって政府の反省を求める建議案を可決したが、衆議院は、河野広中の政府問責上奏案を否決した。内務大臣品川弥二郎は朝野の批判に耐えかねて、辞職していた。議会終了後、松方内閣は瓦解、伊藤博文による第2次伊藤内閣が組織されたのである。

この第2回選挙は、大きな禍根を残した。選挙後も敵味方の感情を捨て切れず、自由派は国民派を犬猫とののしり、国民派は自由派を国賊と呼んで、商取引きにおいても取引きをしなくなり、商売が不振になったりした。甚だしいのは親しい人であっても交際をしなくなって口さえきかなくなり、有志が何とか調停に乗りだしたがその有志もどちらかの党派に属しており、両派の反目を解決するにいたらなかった。4月上旬谷干城が高知までやって来て調停に乗リだした。谷はもともと国民派の巨頭であったが、選挙に対する態度は公平であったし、両派のおもだった有志と会見し、党派的感情にとらわれず調停に努力したので、反目もしだいに薄らぎ平常の取引きをするようになった。

以上で、幕末から明治にかけての宿毛の歴史の概略は終わる。資料について、ありがたいことに『宿毛市史』がインターネットで公開されていたので、とてもありがたかった。引用文献の記載のない場合は、ほとんど『宿毛市史』の要約によるものである。
  この後、宿毛の輩出した個々の人物について、個別に紹介する予定である。

終わり  2022年4月

 


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