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レキオ島唄アッチャー

倭寇は琉球船を襲わなかったのか、その22

  海賊が横行する背景
 最後に、中国で密貿易や海賊が横行した背景について見ておきたい。
 <密貿易に従事する人民の多かった東南沿海地区は、人口の多いわりに耕地が狭く、そのうえ封建地主の収奪や政府の搾取がきびしかったため、生活の苦しい農民・手工業者・小商人などは、海外へ出かけて密貿易することが、大切な生活手段になっていた(「明帝国の成立とアジアの国々」、『大明国と倭寇―海外視点・日本の歴史7』)。>
 海賊のリーダーの生い立ち、海賊になった経過を見ると、親の関係で初めから海賊になった例もある。だが、幼少時代に父母を亡くし、苦労し、困窮や飢餓のなかで海賊に身を投じたとか、海賊集団に襲撃拉致された、海賊鄭一に捕まり、家族全員が拉致されたなど、不幸な家庭環境や貧苦のなかでやむなく海賊になったり、拉致されて入ったなどの例が多い。
 <中国海賊の事蹟は…時の政府に反抗する勢力として、官制の史書に比較的多く記録されてきた。とりわけ明清時代においては海賊の記録は多く残された。これらの海賊の多くは当時の社会矛盾のなかで生活の糧を得る手段として海賊行為を行なったのであるが、海賊側からすれば、帆船を利用して漁師が獲物をとるように自然な最良の方法と見られたのであった。そして、清の海冠蔡牽が沿海航行の海船から一種の商税を徴収し、商税を収めた海船には襲撃を行なわなかったように時には民衆の側においても航海の安全を確保する必要から海賊と密接な関係にあったのであった(松浦章著『東アジア海域の海賊と琉球』)。>

 真栄平房昭氏は、東アジアの国家の枠を越えた交易のネットワークのなかで、海賊も「陰の主役」だったとして、海賊を生みだした背景について、次のような見解を示している。
 <国家の枠を越えた人間の移動と交易の連鎖がつくりだすネットワークの歴史は、国家が主導する公貿易の世界だけで完結したわけではない。むしろ、公貿易と緊張・対立闘係にあった私貿易(密貿易)の世界、それと深く関わった「海賊」勢力もまた束アジア海域史の舞台に登場した、いわば陰の主役であったといえる。海域に広がる通商・貿易ネットワークを撹乱し、また諸民族の対立や緊張をはらみつつ展開した海賊行為は、それを取り締まる国家の立場からすれば許し難い「不法行為」であった。
 しかし、沿海民の側に視点を反転すると、海賊行為を生み出す要因がその最しい生活環境に深く根ざしていた一面も見落とせない。すなわち、農耕地が乏しく慢性的な食料不足と貧困に悩まされ続けた福建・広東沿海では、伝統的に漁業や交易への指向が強く、飢鐘で逃散した農民が海賊に転化する流動的な状況が根強く存在したのである。
 沿海部の流民・飢民にすれば、生き残りをかけて海に出るしかない。飢謹による沿海民の窮乏化、つまり農村の矛盾が海上に押し出されて海賊を誘発した。海と陸の問題はけっして無関係でなく、むしろ内在的に連動したのである。それは陸上の農民一揆に対し、いわば「海民一揆」というべき性格をもっといえよう(真栄平房昭著「清代中國における海賊問題と琉球--海域史研究の一視点」)>。
    正殿
              焼ける前の首里城正殿 

   最後に松浦氏は、琉球国にとっての最大の倭寇被害は、萬歴37年(1609)3月の薩摩軍による琉球国の侵攻であったと指摘している(『東アジア海域の海賊と琉球』)。
 琉球国は明朝に出した「薩摩侵入の経過と進貢の継続を願う咨文」の中で、薩摩侵攻を「倭乱」と表現し、「(万歴37年)4月初一日に至りて倭寇中山の那覇港に突入す」と記している(『歴代宝案』)。
 狭い意味での倭寇の概念からは少し外れるかもしれないが、琉球にとって倭による災厄と言えば、薩摩による侵攻がもっとも大きな意味を持った。
 そういう意味では、豊臣秀吉朝鮮侵略や日本帝国による朝鮮侵略と併合も、朝鮮側にとっては「倭寇」「倭乱」と名付けられている。
 秀吉朝鮮出兵で7万人ともいわれる朝鮮人が日本へ強制的に連行された。朝鮮の陶工たちもたくさん連行されてきたことが知られる。
 また、日本帝国による朝鮮支配下のもとで、労働者や女性が強制連行されて、鉱山を始め劣悪な職場での強制労働や従軍慰安婦として沖縄を始め海外の戦地にまで配置された歴史がある。倭寇による住民の拉致よりはるかに大規模な掠奪だったといえるだろう。
今日でも、北朝鮮による拉致は、いまなお拉致された日本人は帰国できない状態が続いている。かつて、日本による侵略と掠奪、強制連行があったとしても許されない行為である。
 いかなる国であっても、他国への侵略と掠奪などの蛮行は、決して繰り返してはならない歴史として胸に刻む必要がある。
 終わり

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倭寇は琉球船を襲わなかったのか、その21

  清代海賊の頭目
 次に清代海賊の頭目を見ておきたい。

 蔡牽
 清代海賊集団の首領格として名がよく知られた蔡牽(さいけん)がいる。
 福建省同安県西浦郷に生まれで、幼い時、両親を亡くし、親類縁者もなく、苦労した。33歳頃に発生した連年の天災によって困窮し、海賊に身を投じたようである。
 <嘉慶の初めには100余隻の船を保有する海賊となり、彼の妻も勇ましい仲間であった。この蔡牽の海賊集団には朱濆や張保等も加わり、周辺の土盗(陸の盗賊)も呼応する状況であった。蔡牽は配下の者から「大出海」とよばれ、福建広東淅江の3省の沿海地区で被害を受けない地区は無いとまで言われた。…「大出海」とは帆船航海者にとって最大のリーダーを意味したのである((松浦章著『東アジア海域の海賊と琉球』)>
 <二百余艘を率いて東南沿海地域を掠奪するようになった。その大半は漁民や船夫などの沿海民で、男ばかりでなく婦女子も加わっていた。支援勢力まで含めると最盛期には約2万人を数え、1800(嘉慶5)年には台湾の拠点である鹿耳門を襲い、鹿港を占拠した(真栄平房昭著「清代中國における海賊問題と琉球--海域史研究の一視点」)>。
 19世紀末前後に福建から広東にかけての沿海海域には、多くの海賊が出没したが、特にその最大勢力の海賊は蔡牽だという。

 蔡牽の経済的基盤は何によったのか。
 「沿海航行の海船から商税を徴収していたのである。商税を収めた海船には襲撃を行なわなかったのであった。…海上貿易を行う商人にとって蔡牽等のグループに費用を出すことは、彼らにとって一種の生命保険であり、損害保険であった」(松浦章著『東アジア海域の海賊と琉球』)。
 清朝は海賊勢力の鎮圧にやっきとなり、福建水師提督李長庚に命じて新型砲艦を建造させ、海賊取り締まりを強化した。
 蔡牽の一派は一度、官軍との海戦に敗れたが、閩淅総督に賄賂を贈って台湾に逃れ、台湾の占拠を計画し城を攻め「鎮海王」を称した。
 蔡牽の討伐を狙った水軍は、蔡牽船団を追跡し、ついに船団を攻撃し四散した。蔡牽の本船を撃沈し、蔡牽と妻は水没したと報告文書には記されている。だが、「追い込まれた蔡牽は自船を爆破し、妻子や部下250名と共に自決した」ともされる(真栄平房昭著「清代中國における海賊問題と琉球--海域史研究の一視点」)。

 朱賁
 蔡牽に次ぐ海賊の首領が、福建広東沿海で掠奪をくりかえした朱賁(朱濆とも)である。数十般から百余艘の船団と4000人の配下を従えて「海南王」と称し、蔡牽の一派ともしばしば連合したことで知られる。
 <当時の海賊船のなかでも特に好まれた福建製ジャンクは、30門以上の大砲を搭載した頑丈な船であった。その連合勢力は最盛期には2000艘、そのうち200艘が外洋航海に参加した。これらの船は3、400人乗りで大砲2、30門を搭載でき、インド中国間を航行するイギリス船の規模に匹敵したともいわれる(真栄平房昭著「清代中國における海賊問題と琉球--海域史研究の一視点」)>。
         img266.jpg    
          蓬莱閣の水城、倭寇の襲来への防備(『大明国と倭寇―日本の歴史7』

  林発枝
 琉球国の進貢船を襲撃したリーダーとして林発枝がいる。
 彼は、浙江省温州府平陽懸の出身であり、幼少時代に父母を亡くし、他家に貰われて漁師となり漁撈活動に従事している際に、海賊集団に襲撃拉致されて海賊集団の一員となっていった。その仲間の中で頭角を現し海賊集団の大頭目となったという。
 <林發枝は両親を早くに失い苦労した経験があるものの漁猟活動中に海賊に拉致されその仲間に加わることになったと言う境遇であった。王添喜などの海賊も多くの場合、少年時代に家庭的な不幸が海賊に加わる契機となった事例は多い(松浦章著『東アジア海域の海賊と琉球』)>。
 林発枝の名は「琉球之一件」(薩摩藩より状況説明を求められた琉球王府の答申書)にも登場する。この記録には、福建海賊の動向やその統率者に関する興味ある情報が記されている。
 
 <林発枝は福州府長楽県出身の32歳で武勇に勝れ、「海上風雲之行成」を判断する航海・操船の知識に精通し、日頃は五色の旗で飾りたてた「大船」に釆り、酒宴や遊興にふけった。部下たちの人望も篤く「海帝」と称して尊敬されたという。
権力に逆らう海賊は農民一揆の指導者と同じく、支配者から「悪党」の烙印を押されがちである。しかし、海に生きる民の観点からすれば、林発枝らのような指導者のもとに結集した民間勢力は、いわば「海民一揆」的な性格をおびている。
ところで、「林発枝」の活動は日本でも評判となっていた。江南と長崎を往還する中国商船が海賊一味に狙われたからである。本草学者の佐藤成裕が著した日本側の記録によると、1795(寛政七)年ごろから淅江沿海では海賊の動きが活発化し、商船を襲った。その「大将」たる林発枝は「海上の王」と称し、手下は四千人に達したという(真栄平房昭著「清代中國における海賊問題と琉球--海域史研究の一視点」)>。
 林発枝の一味が、淅江省温州府平陽県の近海で琉球船を襲った事件についても「琉球之一件」は言及している。
 <往年の春、琉球の貢船、福州を発して海上に至て賊船に逢ひ、皆賊せられて琉球に帰る事ならずして、また福州に来りて、福州より送られ帰ると云。余、親しく見る一舟子、足の脛を鳥銃にて打貫かれたるあり。皆大に驚て此の難をのがれたり。
琉球の進貢船が帰国の途中、海賊に襲われて福州に再び引き返したのである。そのとき鍛砲で足を負傷した水夫がいたという話は、具体的で生々しい。
 清の官憲は、海賊の首領「林発枝」を指名手配し、「番銭(洋銀)三千文」という多額の懸賞金をかけた。また「手下之大将」たちにもランクに応じて賞金をかけ、町の七つの城門や役所の壁などに手配書を張り出したことが記録にみえる(同書)>。

 張初郎
 張初郎の本籍地は福建省漳州府の漳浦縣であり、彼は幼少の頃に養育されるべき親を失ったかして放蕩の身となった。その後も放蕩仲間との関係からか海賊行為を行なうようになっていったようである。
 張初郎も嘉慶年間の大海盗の蔡牽の場合と同様に、幼少期に扶養者が亡くなり、出奔して置き去りにされたかなどの理由で、孤独の身で生活の糧を得られる術を求めて海賊仲間に合流していったことが知られる。 
 <これらの海賊達が琉球国の進貢船のような大型船を襲撃する際には、上記の史料にも見られるように多くの海賊集団と徒党を組んで襲撃していたことが知られる。この方法は、琉球の進貢船に限られたことではなく、新調の官米を輸送する船舶を襲撃した場合も同様であることから、一般に徒党を組んで襲撃する方法を取っていたことは明らかで、単独行動は極めて稀であったかと思われる。(松浦章著『東アジア海域の海賊と琉球』)>。

 郭婆帯
 郭婆帯は広州府番禺県の人で、漁労活動で生活していた。15歳の頃に、海賊盗首鄭一によって家族全員が拉致され、鄭一の郎党と共に海賊行為を重ねていた。鄭一船団の一頭領となって商船を襲撃する生活を重ねていた。
 次第に海賊行為に嫌気がさし清への投降を考えるようになった。海賊仲間計479名を投降させた。投降に反対する張保仔の船団との戦闘で1000余人を溺死させ、300余名を生け捕りにした。他に投降する意志を持っていた集団とともに清に投降した。投降は合わせて5578人、婦女子は800余名、船舶は113隻、砲門は500余門にのぼった。
 彼は読書好きで、多くの書籍を蒐集して、海賊船に蓄書していた。「稀有な海賊であった」という。(松浦章著『東アジア海域の海賊と琉球』から要約)

 張保仔
 広東省新会江門の漁師の子。15歳の時に父親と漁をしていたところ、海賊鄭一に捕まり、配下に加えられた。頭角をあらわし一頭目となった。鄭一が死ぬとその妻石氏が海賊集団を分割し、一部を張保仔に委ねた。石氏は西洋人からチン夫人と知られた女海賊であった。
 張保仔は厳しい規律をつくり略奪した貨物は帳簿に記録し、私有を許さず、2割を分け前として分与し、8割は全体のものとして倉庫に保管された。襲撃した村落で婦女を掠奪することは許さなかった。
 商船を襲撃し勢力は強くなった。船は270隻、砲門は1000余門、部下は14000余人とも見られた。海賊船は清官憲の兵船を遙かに上回り、官憲を困らせた。
 商船や漁船が航行中に海賊に遭遇した際に、予め海賊に上納金を支払った証明書を見せれば危険がなかった。この納入金は海賊達にとって略奪以外の重要な財源の一部となった。(松浦章著『東アジア海域の海賊と琉球』から要約)
 <大変貧しい家の出であった張保仔は貧乏人には食料や金品を与え、子分には貧乏人からの略奪を禁じるなどした事から、庶民からは貧しい人を救済した義賊として人気があった。
 1810年、両広総督の百齢の海賊鎮圧策の前に降伏。海賊組織は解散させられたが、張保仔は武官として取り立てられ、1822年に没している。(ウィキペディア)>

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倭寇は琉球船を襲わなかったのか、その20

 海賊集団のリーダー群像
 倭寇や海賊集団の中には、名前がよく知られた首領格がいる。人物群像のなかから何人かを取り上げる。

 日本に逃れた倭寇の頭目・王直
 王直(注・おうちょく)は、現在の安徽省黄山市に生まれた。任侠の徒であったと言われ、青年の時に塩商を手がけるが失敗。明が海禁政策を行うなか葉宗満らと禁制品を商う密貿易に従事した。双嶼(リャンポー、浙江省寧波の沖合い)港を本拠地に活動していた許棟、李光頭の配下として東南アジアや日本の諸港と密貿易を行い、博多商人と交易して日本人との信任を得る(ウィキペディア)。
 <嘉靖19年(天文9、1540)に明朝の海禁政策がやや緩和された時期に、王直は同郷の仲間葉宗満等とともに広東に赴き、同地で大型海船を造船し、硫黄や絲綿などの当時輸出禁止であった貨物を積載して日本や暹羅(注・シャム)などの海外諸国に貿易に赴いたとされる。このような状況を5,6年続けているうちに、巨額の富を蓄財して外国人からは大いに信頼され、こののち王直は五峯船主と呼称されるようになったとされる(松浦章著『東アジア海域の海賊と琉球』)>。
 嘉靖26年(1547)淅江巡撫に任命された朱紈(注・しゅがん※)は、密貿易の取り締まりを強めた。
 王直らは密貿易をしていたものの、人命に損傷を加えたり、掠奪をおもな目的とする海賊ではなかった。この後、掠奪をともなう「海賊集団に変質していった」(松浦氏)。

 王直は、倭寇取り締まりを逃れて、日本の五島や平戸にも来ていた。
 <度重なる明の海禁政策を逃れ、1540年に日本の五島に来住し、松浦隆信に招かれて1542年に平戸に移った。地方官憲や郷紳(注・地方の実力者)らと通じ、養子や甥の王汝賢らを幹部に密貿易を拡大。 明の河川や沿岸地域に詳しいために倭寇の代表的な頭目となり、明の嘉靖32年(1553年)5月に37隻を率いて太倉、江陰、乍浦等を寇し、同年8月に金山衛、崇明に侵入した(ウィキペディア)>。
 注・朱紈は中国,明の海禁政策を強行した官僚。蘇州長洲県(江蘇省)の人。諸官を歴任し,1547年(嘉靖26)浙江巡撫に任じられると鋭意倭寇の取締りに当たり,海禁の実をあげた。しかし密貿易により重利を得ていた沿海地方の有力者はそれを行過ぎとし,中央の高官に画策して彼を弾劾させた。彼はこれに抗議し毒をあおいで憤死した(世界大百科事典第2版から要約)。
 朱紈の死後、倭寇の取締りは一時的に弱まった。 
 
 <1556年に王直は自分は倭寇ではないので恩赦を受けたいと願い出ており、その際に海禁政策の解除と自らの管理下での自由貿易を願い出た。しかし、明の倭寇の取り締まりは厳しくなり、1557年に王直は官位をちらつかされて、舟山列島の港に入港。明の中でも王直の処分については、意見が分かれたが、1559年12月に王直は捕らえられ、処刑された(「歴史キングダム」から)。>
 王直が処刑されて、その配下にあった三千人の大部分が壊滅したが、全滅はしていなかった。一部は明軍の攻撃から逃れたと見られる。
 <嘉靖37年(1558)と38年(1559)の二年間に倭寇が頻繁に温州に侵入していたことについては、当時倭寇の頭領であった王直が明王朝に捕らわれ、嘉靖38年(1559)に処刑されたからであることが知られる。王直が誅殺され、倭寇の集団を統率できる実力者がいなくなったことで、その残党が反乱を起こし、温州にも大きな影響をもたらした。王直が逮捕され処刑されたことが、倭寇が温州を頻繁に襲撃することを促したと推察される。また、地理的な要因から見れば、温州付近の沿海に散在している島々が基地として倭寇に使われていたことは明白である(呉 征濤著「嘉靖年間の温州における倭寇」)>。
 王直が倭寇のなかでどれほどの影響力を持っていたのかがうかがえる。

 王直は、種子島の鉄砲伝来にも関わりがあるという。
 <王直は…1543年(天文12)に種子島(たねがしま)に漂着して日本に初めて鉄砲を伝えたという外国船のなかの乗員の1人であり、五峰(ごほう)先生とよばれて尊敬を受けていた。彼は密貿易の調停者としての資格を備えた人物で、密貿易者の交易を保護代行したり、倉庫、売買の斡旋(あっせん)をしたりしたらしい。(日本大百科全書(ニッポニカ) >

 倭賊を糾合した徐海
 王直につぐ倭寇の頭目に徐海(じょかい)がいる。
 <1551年に日本に渡来し、叔父の徐惟学が大隅の某領主から数万両の銀を借りたときの人質となって、大隅にひき留められていた。中華僧として尊信をあつめた彼は、翌年大船を修理し、倭人を誘って烈港の密貿易に参加した。しかし、このときははからずも王直との間に不和となる事件が発生し、大隅に引き揚げてからは、王直に対立する別の勢力として活動した。嘉靖33年から34年、35年にかけ連年にわたり、倭人を誘って中国沿海地に出没し、大陸沿岸の柘林(しやりん)・乍浦(さほ)を前進基地にして、しきりに江蘇・淅江の諸州県を襲撃した。
 
 叔父の戦死の報に接した徐海は、その仇を報ずるために嘉靖35年(1556)3月、大隅の新五郎(辛五郎)と結び、種子島・薩摩・日向・和泉などの倭賊を糾合し、総勢5、6万人、船1000余艘でもって報復行動に出た。しかし途中で暴風雨にあい、徐海は2万人余りの部衆を引きつれ上陸した。…4月以後の桐郷県城の攻防戦で、淅直総督胡宗憲のたくみな離間策にかかり、各頭目は互いに疑心を強めて孤立し、…相次いで捕えられ、…徐海も同年8月24日、平湖県沈家荘で縛につき、淅江・江蘇を騒がせた諸海冠はことごとく討伐された。
 
 これら海冠の頭目は、前進基地を中国沿海地に設けて、その本拠地は日本におき、日本人を率いているところから倭寇とよばれているが、その構成人員は、大部分が中国人であって、真の倭はせいぜい1,2割にすぎなかった。(佐久間重男著「15~16世紀の大倭寇」、『大明国と倭寇―海外視点・日本の歴史』)>
    鄭成功の像
      鄭成功
 平戸で生まれた鄭成功
 日本の平戸で生まれ、近松門左衛門が題材として「国性爺合戦」(こくせんやかっせん)を戯曲化してよく知られるのが、鄭成功(ていせいこう)である。
 <鄭成功は中国人海商で平戸を根拠地として活動した鄭芝龍(ていしりゅう)を父に、平戸川内の田川マツを母に1624年平戸で生まれました。母マツが千里ヶ浜で貝拾いの時、にわかに産気づき千里ヶ浜の大石(千里ヶ浜の児誕石)にもたれて鄭成功は生まれたと伝えられています。

 父・芝龍は平戸老一官と称し、数千名の配下をもつ海商船団の頭領でしたが、後に明朝の招きに応じて帰順し明朝に仕えることになりました。その後鄭成功も7歳の時、芝龍の招きにより単身渡海すると、15歳で南京大学に入り学び、21歳の時には明王・隆武から明の皇帝の姓である「朱」を称することを許され、朱成功の名を賜ることになります(松浦史料博物館)。>
 明朝に仕えた父とその子成功は、その後まったく逆の道を歩むことになる。
 <満州民族が清を建て、明が滅びると、1646年に父の芝龍は明の抵抗運動に将来はないと清に降伏し、母は安平城で自殺した。成功は、「抗清復明」の抵抗を続けた。48年には日本に援兵を請う使者を送ったが、江戸幕府はこれを黙殺した。
 
 成功は、厦門(アモイ)、金門の両島に根拠を置き、10年間にわたり、福建、広東、浙江の沿海を経略し、さらに日本、ルソン、交趾(こうち、ベトナム北部)、シャム(タイ)や南洋方面と貿易して勢力を蓄えた。
 1653年には福建省海澄で清軍を破って延平郡王に封ぜられた。58年と翌59年に北伐軍を編成して、南京城を包囲した。しかし、内応と奇襲にあって厦門に退いた。
 1661年、清は福建、広東など沿海の5省に遷界令(せんかいれい)を実施した。沿海の住民を30里奥地に強制移住させ、沿海部を無人状態にしたという。
 <このころ大陸の敗兵で台湾に渡った者は2万人を超え、成功は台湾を攻略して基地にすることを決意した。同年2万5000の兵で台湾に行き、オランダ人が拠っていたゼーランディア城を落とし、台湾を占領してその経営にあたった。成功はさらにルソン島招諭の計画をたてたが果たすことなく、62年5月8日(陽暦6月23日)台湾で病死した。(田中健夫、「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」)>
 
 鄭成功は、台湾でいまも英雄視されている。「松浦史料博物館」では「平戸で生まれたアジアの英雄」と紹介している。
 鄭成功はこの経歴だけでは、琉球と関わりがないように見える。だが、彼の息子の配下によって、琉求船が襲撃されたことがある。
 <康熙12年(1673)3月に琉球から福建省に向かった琉球の朝貢船が…閩江河口を五虎門を目指していたところ浙江省の定海から来た賊船13艘の海賊に襲撃された。死者5名、負傷者24名の被害を受けた。この琉球船を襲撃したのは、台湾に拠った鄭錦舎即ち鄭成功の息子鄭経の配下である蕭啓の船であった。琉球船はこれより前の康熙9年(1670)とこの時と二度にわたって蕭啓の船によって襲撃されている。蕭啓等が狙ったのはもちろん琉球船の積み荷であることは歴然である。康熙9年の際は朝貢船2隻で「硫黄1萬2600斤、馬10疋、海螺穀参千個」等を積載していた。台湾の鄭氏にとって琉球船の積荷の火薬の材料となる硫黄は喉から手が出るほど渇望する物であったことは明らかであろう(松浦章著『東アジア海域の海賊と琉球』)

 倭寇の頭目たちのなかでは、取り締まりを逃れて日本に来たり、日本で生まれた者もいる。日本を拠点にし、日本の商人らとつながりをもち、倭人、倭賊を結集するなど日本との関わりは強い。時代によって倭寇の構成メンバーが日本人中心から中国人が多数になるという変化はあるが、倭寇という存在自体が、文字どおり日本起点の海賊であるから、中国人の頭目も日本との深い関わりがあるのであろう。

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倭寇は琉球船を襲わなかったのか、その19

 封舟が襲われた背景
 琉球へ冊封するために清朝から派遣された封舟も海賊から逃れられなかった。その理由として、松浦氏は次のように指摘している。
<福州から那覇への往路、那覇から福州への帰路には海盗の出没する頻度が極めて高い海域を航行しなければならなかったためである。
 ことに往航・帰航の中間点にほぼ位置する浙江省東南沿岸に浮かぶ島嶼部は海賊の住み家とする地点とも重なっていたことと無関係ではない。…清朝が入関まもなく台湾の鄭成功及び鄭氏勢力を孤立させるための遷界令(※)の施行以来、永らく統治から忘れ去られていた一帯の一つでもあった。そのため官憲の眼が行き届かない地域となっていたのであろう。陸地における各省に隣接して官憲の目から逃れやすい地と同様に官憲の眼が届かない地であったのである。
  それらの海域や島嶼部を根拠地として、嘉慶期の大海盗である蔡牽などを輩出することになったのである(同書)>。
 注・遷界令とは清王朝が実施した住民の強制移住政策のこと。

 47年間に60隻襲われる
 清前期には清朝と台湾鄭成功氏とが東シナ海・台湾海峡・南シナ海を介して海上抗争を繰り返していた。しかし康熙22年(1683)に台湾鄭氏が清に下ると、同海域は清朝の制圧下に置かれることになる。ところが、清朝の海上制圧力が軟化すると海上海賊・海盗が跋扈することになった。
 <乾隆18年(1753)より嘉慶4年(1799)までの47年間に淅江・福建海域において海賊・海盗船に襲撃された例は60を数える。…
 海盗による被害を受けた海域は淅江沿海が大部分を占めている。この海域で3隻、江南・江蘇船が2隻となり、被害を受けた全船舶に占める各船籍別による割合は福建船が65%を占め、淅江船が27%、廣東船が5%、江南・江蘇船が3%となり、その比率からも明らかなように福建船が群を抜いている(松浦章著『東アジア海域の海賊と琉球』)>。

 太平天国の情勢と海賊
 アヘン戦争終結後の、西洋列強の外圧が琉球にも押し寄せてくるようになった。
以下、真栄平房昭著「清代中國における海賊問題と琉球--海域史研究の一視点」)からの要約である。
当時、沿海の治安は悪くなる一方で、欧米商船もしばしば海賊に狙われたので、イギリス海軍は砲艦の威力をバックに警備体制を強化したが、外国船を狙う海賊が絶えなかった。
 1850年代には太平天国の乱によって、治安はますます悪化の一途をたどった。
 1853年には琉球の護送船2隻、接貢船1隻が海賊船団に襲われる事件があった。
 11月3日、福州近海の「南關・北關之沖」を接貢船航行中、海賊船6隻が突然姿を現し、大砲・鉄砲などで攻撃、海賊が琉球船に乗り込み、「上荷物・身廻荷・着物」等を掠奪した。さらに翌日にも別の賊船3隻に追跡されたが、順風に乗って逃げ切り、定海に入港した。翌日閩安鎮から来た警備の役人に、海賊の様子や被害状況などを説明した。
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              石垣島にある唐人墓
 護送船2隻も五虎門で海賊から砲撃を受けて船を乗っ取られた。「用心銀」や「身廻荷物」、簪(注・カンザシ)や着物まで奪い取られた。
 護送船は、琉球の石垣島に漂着したロバート・パウン号(※)の中国人苦力らを送還する船だった。
 注・1852年、中国のアモイで集められて400人余りの労働者「苦力」(クーリー)は米国商船ロバート・バウン号でカリフォルニアに送られる途中、あまりの暴行、虐待に耐え切れず決起して船長ら7人を打殺した。船は石垣島の崎枝沖で座礁し、380人が下船した。米英兵船が3回来島し、武装兵が上陸して捜索。中国人たちは銃撃や逮捕され、自殺者も出た。このとき琉球王府と八重山の政庁・蔵元は人道的に対応し、島民も同情して密かに食糧などを運び渡したという。交渉の結果、生存者172人を琉球の船で福建省に送還した。石垣島には唐人墓がある。

 護送船の船頭の従者として同乗した、那覇東村の大嶺筑登之親雲上が海賊に遭遇した状況を、次のように記録している。
 <私どもの船が錠海(福州府連江県の定海)に到着したところ、数隻の海賊船が接近し攻撃してきました。何とか防いでいましたが、ついに乗り込まれ、銀や個人の荷物、衣類、簪などを奪われてしまいました。海賊はいったん引き揚げるかに見えましたが、もう一度乗り込んできて錠の縄を切り落とし、勝手に船を動かしました。翌日、「銀をすべて差し出せ、隠しておくと船を焼き払うぞ」などといろいろ脅迫してきたので、護送船の乗組員は物陰に逃げ隠れました。終いには海賊たちが船頭を取り囲んでい交渉しましたが、言葉が通じないことに苛立って船頭を斬ろうとしたまさにそのとき、中国語に通じていた大嶺は、自分の主人が危機に瀕しているのを見て、覚悟を決めて飛び出していきました。大嶺は「あるだけの銀と品物はすべて渡しましょう」と持ちかけ、所持していた小判金二百六十両と品物を運んできて海賊に渡しました。ほかには銀も品物も一切ないことを強調したので、海賊は納得して引き揚げ、危難を切り抜けました(真栄平房昭論文)。>
 
 この海賊事件について王府の『球陽』に、「該賊、その勢力の微弱なるを見て、二隻に飛上り、防船の軍器及び公私の銀両・大小貨物・簪子・衣服・咨文(注・琉球の外交文書の一つ)等の項を掠奪す。その一隻帯ぶる所の咨文は、情を講じて取り回す」と記されている。咨文は後に回収した。
 福州五虎門の近海で海賊に襲われた琉球船3隻は、約7カ月後、翌年の6月3日にようやく那覇へ帰港した。

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倭寇は琉球船を襲わなかったのか、その18

 船の武装強化など対策打ち出す
 「艇盗の乱」の影響を蒙ることになった琉球王府は、船の武装強化をはかるとともに、対策を打ち出した。
 <『球陽」尚温王7(嘉慶6)年候によると、「本年、中華の海辺は多く賊船有り。今番、国使を接回するの船隻、旧例の人数を以てしては、賊を防ぐこと能はず。是れに由りて、才府1名・脇筆者1名・五主格の者12人を加添す」とある。すなわち海賊封策として、進貢・接貢船の搭乗員を新たに12名増員し、防備の強化をはかったのである。
 こうした海賊の跳梁に不安をつのらせた福建の地方官は、嘉慶14(1809)年琉球へ渡海を予定していた冊封船の航路を危ぶみ、護送の兵士100人の増員を提案した。久米村の『鄭氏家譜』に、「当分、蔡氏・朱氏之海賊致横行候儀ニ付、今般冊封頭号船二号船、為護迭商船壹艘、先例より相重兵百人乗付琉球江可差遣候」と記される。この「察(注・蔡)氏・朱氏」とは、すなわち蔡牽・朱賁の海賊一味を指しており、琉球でも警戒していた状況が知られる(真栄平房昭著「清代中國における海賊問題と琉球--海域史研究の一視点」)>。
 
 中国の冊封船も襲われた。
 琉球の国王認証のため、皇帝から派遣された冊封使の船も襲撃の対象だった。
 <1663(康熙2)年、康熙帝から琉球へ派遣された冊封使・張学礼は航海の途中、海賊と遭遇した。同年6月7日封舟が福建の海口を出て白洋に到ったところ、賊船1隻が現れた。これに対し、封舟の護迭をつとめる武官鄭洪は、部下の兵士たちを指揮し、大砲で賊船を打ち破り百余人を殺したという(『使琉球紀』)。
 一行は福州へ帰る途中、再び海賊に狙われた。康熙2年11月23日、淅江省寧波の定海、普陀山沖で賊船4隻と遭遇した際、封舟はすでに暴風で主帆柱(メインマスト)を失った状態であった。通事の謝必振らが言うには、「わが方の船は、帆も帆柱もありませんので、風をうけて敵と戦うことなどは全くできないのですが、いかがいたしましょうか」とたずねた。これに対し張学礼は、「何もしないで待っていることはない。すぐに各官に命じて、船内の各責任者を指揮し、兵員に弓矢・鉄砲・手槍で武装させ、その圧船石を持ち出して貯え、攻撃に備えよ」と命じた。「圧船石」とは船の安定を保つため船底に積んだバラスト用の石だが、これを甲板に運び上げ、敵に投げつける作戦である。

 そのとき幸いにも、にわかに雲霧がたちこめ、船をつつんだ。しばらくして霧が晴れると、賊船の姿は見えなくなっていた。その晩、福建の福寧に着くと、「この辺りはみな海賊の巣なので近づいてはなりません」という。夕暮れ時、遠くの島に火の光が見えかくれし、帆柱が林立しているのを見たが、用心して近づかなかった。翌日ようやく船は五虎門に到着した。
 17世紀後半、台湾を拠点に反清闘争を続ける鄭氏(注・鄭成功)一派の船団は、さかんに海賊活動を行った。明の復興をめざす鄭氏の政治的立場からすれば、清に朝貢を続ける琉球船は「敵方」とみなされたため、これを待ち伏せて襲撃したのである。
幕府は、西国大名に対する海防の強化とあわせて海賊取り締まりの強化を巌命した。その後、大陸沿岸における海賊の動きは鎮静化のきざしを見せたが、18世紀後竿から19世紀初めにかけて再び猛威をふるうことになる(真栄平房昭著「清代中國における海賊問題と琉球--海域史研究の一視点」(特集 アジア東方海域の近世)。>

 冊封使を襲った事例として、嘉靖5年(1556)に李鼎元副使として乗船した封舟を襲撃した海賊が知られる。
 <琉球国王尚穆の逝去によって孫の尚温を襲爵させるために翰林院修撰の趙文楷を正使として、内閣中書の李鼎元を副使として冊封に派遣することが決められた。
 封舟が浙江省東南沿海の南麑付近に来た時、霧がはれて船員達は喜び、数十隻の船が見えたので、迎えの護衛船だとして喜んだ。海賊船であることが明らかとなった。
         冊封儀式
    冊封使儀式の再現(2009年、首里城)   
    李鼎元は兵士に海賊船が300歩まで近づかない内は砲撃してはならないこと、80歩まで近づかない内は射撃してはならないこと、40歩まで近づかない内は矢を射てははらないことなどを命じた。そして、海賊船16隻が大声をあげ襲来してきたのであった。海賊船の1隻が300歩以内に来たので砲撃して4名を倒した。さらに100歩以内に来たので銃撃して6名を倒したため、海賊船は退却した。2隻目の海賊船が300歩以内に近づいたので砲撃して5名を倒した。さらに砲撃して4名を倒したので退却した。ところが3隻目の海賊船が風上に移動したので、封舟の砲門を舵の右舷側に打ち移し、連続して砲撃し、12名を死亡させ、主帆柱を炎上させたのであった。そうする内に、海賊船の中の、おそらく海賊の首領が搭乗していると思われる大型船が風上から攻めてきたのであった。そこで舵工に封舟を横に並ばせるようにして大砲を発射して海賊船に命中させた。硝煙の煙が一円にたちこめ、しばらく様子がわからない状態であった。煙が消えると海賊船は全て退却していたのであった(松浦章著『東アジア海域の海賊と琉球』)。>

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倭寇は琉球船を襲わなかったのか、その17

  海賊に団結して立ち向かう
 海賊に遭遇した琉球船の乗組員が団結して立ち向かい、報償をもらった事例もある。
 <乾隆60年6月、琉球の進貢船が福州へ渡航した際、すでに多数の「海賊」が出没するなかで商船の「五虎門出入」は途絶え、そのため福州は海上封鎖に近い状態に陥っていた。閩安鎮・水師管・遊撃陣など海防官筋からの情報によると、五虎門から竿塘(馬組島)近海はとりわけ危険な海域であった。中国人海賊のほか「番賊」(外国人)も参加した6、70艘の「賊船」が、竿塘に群集し、進貢船の「帰帆」を待ち受けていた。つまり、海賊船団が琉球船の帰りを狙って五虎門沖で待ち伏せていたのである。
 そこで福建の海防当局は、「賊人退治」が終了した後に護迭するから、2、3日出帆をさしひかえるよう命じた。5月22日に官船が竿塘に出撃し、賊船6艘のうち一般を拿捕したが、5艘は取り逃がした。6月2日琉球の進貢船・接貢船・楷船はようやく五虎門を出航したが、そのとき官船53艘が竿塘まで護迭にあたる物々しい警戒ぶりであった(真栄平房昭著「清代中國における海賊問題と琉球--海域史研究の一視点」)。>

 1796(嘉慶元)年、今度は福州行きの接貢船が襲われたが、乗組員たちは防戦につとめ危難を免れた。帰国の翌年、友寄筑登之親雲上が王府に提出した「言上寫」から、以下のような記事を引用している。
 <卯秋走接貢船、去年(嘉慶元年)唐土近く乗掛り候砌、賊船に逢い候慮、船中一統制力を蓋くして相防ぎ、賊人四人鉄砲にて射倒し、乗組の内手負これなく無難にて、那覇川へ乗戻候。御褒美として、才府以下佐事・加子共へ御国元(薩摩)より御米拝領仰せ付けられ候。
 海賊と遭遇した接貢船の乗組員たちは、一致団結して防戦につとめ、賊4名を鉄砲で撃ち倒し、無事に帰還した。このとき海賊の襲撃に敢然と立ち向かった乗組員の奮闘ぶりに対し、薩摩藩から報償米が給されたのである。これは琉球人のいわゆる「唐旅」の任務が、それだけ命がけだったことを逆に示すものである(同書)。>
    
 右の接貢船は、淅江省温州湾の東南海域を航行していた。この船には、当時28歳の小渡里之子親雲上(院世楽)という久米村出身の若者が乗っており、読書習礼のため福州に赴く途中、海賊に遭遇したのである。4月20日、那覇を出帆した接貢船は4月28日、温州沖の「北杞外洋」で一時停泊し、翌朝碇をあげ出帆の準備をしていた。そこへ7隻の賊船が急に姿をあらわした。琉球船と海賊との戦闘について、『阮氏家譜』は、次のように記している。
 <(嘉慶元年4月、1795)28日初更、北杞外洋に駛到し椗を抛つ。29日黎明椗を起こし、まさに駿行するの問、但だ船7隻の急に本船に向って駛せ来るを見るのみ。船上、皆、思えらく、兵船の来りて護るならんと。即刻、撃を擧げ、あしたくれ琉球船隻たるを通知す。はからずも彼の船、共に皆刀を抜き砲を放ち攻打、早(あした)より晩(くれ)に至るまで本船を囲繞して去らず。方(はじ)めて彼の船7隻は、すなわち賊船なるを知る。擧船の人数(乗員一同)、刀を奮い捍守し、或者は大砲を放ち、或者は小砲を放ち、各々軍器を持ちて動ぜず。数十次囲繞すと雖も、然かも員伴・水梢等、性命を惜しまず、火確(注・手投げ弾)をもって賊船に投げ、又、大砲・小砲を放つ。まさに相い戦うの間、大砲を放ち賊船にあたること再三次、只だ海賊4人砲にあたり、たちどころに倒るを見る。(琉球)船上、傷を受くる者無く、但だ本船の外面及び檣(帆柱)・蓬・桁・槓椇等、砲にあたるの痕有るのみ(同書)。>
  冊封使の琉球へ來る航路
          冊封使の琉球への航路(「『台海使槎録』の釣魚台は冊封使航路の尖閣諸島の魚釣島」から)
 <つまり、こちらへ接近してくる船団を見て琉球側はてっきり清の護送船だと思いこみ、「琉球船」だと名乗りをあげた。ところが、実は海賊だったのである。刀を振りかざし砲撃してきたのでそれと気づき、急いで戦闘準備を整えたのである。
 さらに、琉球の接貢船が巳午(南南東)に航路を転じると、賊船7隻は西へ去った。
 いったん帰国し、再び渡海すべし、と決まった。
 5月5日、那覇に帰港した接貢船は海賊に備えて武器を増強し、また左右の船べりを二尺ほど高くして防壁を補強し、同年10月2日、福州に向けて再び出港した。島影が見えると、乗組員たちは武器を手に厳重な警戒体制をとった。
 琉球船が「羅湖」の近くにさしかかったところ、賊船5隻に取り固まれ、大砲や鉄砲による攻撃をうけた。これに封し琉球側も応戦し、数回にわたり賊船に弾が命中した。荒波のため賊船は近づくことができず、琉球船はようやく難を逃れた10月14日夕刻定海に入港し、一行は22日福州柔遠駅に到着した(同書)。>

 民間船に及んだ海賊行為
 「艇盗の乱」における海賊活動は、琉球船の航海にも多大な影響を及ぼした。その影響は、琉球の民間船にも及んでいた。
 <前年、琉球国泊村の五端帆馬艦船(船頭佐久川ほか乗員21名)が八重山で年貢を積みこみ、那覇へ戻る途中で中国に漂流した。その際、賊船3隻から砲撃をうけ、海賊60余名が琉球船に飛び乗って来た。これに驚愕した琉球人(翁長)は足をすべらせ海中に転落死し、また桃林寺住持の弟子(僧走中) 1名が捕虜となった。やがて解放された琉球人たちは淅江省温州府にたどり着いた。海賊に襲われた琉球人一行は、積荷や衣類、簪まで奪われ、「乱髪異様」の風体であったため、温州府役人から安南海賊とまちがえられたのである。しかし、ようやく疑いは晴れ、福州へ護送された。>
 以上は、真栄平房昭著「清代中國における海賊問題と琉球--海域史研究の一視点(特集 アジア東方海域の近世)」から。

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倭寇は琉球船を襲わなかったのか、その16

  猛威をふるった艇盗の乱
 18世紀後半から19世紀初め、乾隆年間の末から嘉慶中期にかけて白蓮教徒の乱が起こり、海上では「艇盗の乱(ていとうのらん)」が猛威をふるった。
 「艇盗の乱」とは、18世紀末からほぼ20年間にわたり中国東南の浙江、福建広東の海上および沿岸を舞台に行われた海賊の反乱行動のこと。

 以下、真栄平房昭著「清代中國における海賊問題と琉球--海域史研究の一視点」からの要約である。
 <「艇盗の乱」の背景には頻発する凶作と飢餓があり、とくに東南沿海農村では困窮した多くの飢民・流民が海賊に身を投じ、民間商船や官の穀物輸送船などを襲う事件が続発していた。
 福建淅江の沿海における海賊事件をみると、1753(乾隆18)年から1799(嘉慶4)年までの47年間に60件の記録がある。海賊の被害に遭ったのは福建船が39隻と最も多く、全船舶の65パーセントを占めることが指摘されている。なお、海賊は船の積み荷を奪い取るだけでなく、身代金めあてに人質を連れ去ることもあった。たとえば、福建省海澄県の商船(船戸会徳合)は、1795(乾隆60)年5月に淅江省で海産物を購入した際、象山県三岳の外洋で賊船4隻に襲われ、乗員1名が拉致された。
 
 福建で地方官を歴任した陳盛韶の『問俗録』によると、福建沿岸には船着場が多く、風や波を避けることができるので、海賊が出没しやすい。こうした島々や入り江を本拠として、海賊が多く発生する。「北は淅江省から南は広東省まで、海賊が掠奪の機会をねらっており、多くは内海に沿って行動する。しかも、海に流れこむ細流が非常に多いので、魚介類の種類が豊富である。匪民(不法の民)は魚介類を獲ると称して管業許可証を受けとる。彼らは、利益があがれば漁業を行い、利盆があがらなくなると海賊行為をする」という。>
 このように漁民はときに応じて海賊に転化し、官民の馴れ合いがそれを容認していた。また、台湾沿岸でも海賊事件が日常的に発生したが、これはひとえに水師の責任であり、掠奪事件の実地調査・報告が遅れるのは地方官の責任であると、陳盛韶はきびしく指摘している。
 1794(乾隆59)年、淅江・福建・広東の各省では海賊対策の一環として、水師兵50名・千総一員を淅江定海の五奎山に駐留させ、沿海の巡哨を強化したが、海賊はいっこうに衰えず、数十隻の大船団を組み、官米輸送船を公然と襲うこともあった。

 生活苦が海賊を誘発
 こうした状況のもとで琉球船もやはり海賊に狙われたことを如実に示す興味深い史料があるとして、真栄平氏は「琉球之一件」と題する史料を紹介し、海賊の実態を具体的に明らかにしている。
 「琉球之一件」は、「艇盗の乱」が猛威をふるう同時代の状況が生々しく反映された一次史料である。
 1796(嘉慶元、寛政8年)年7月、「唐海賊相流布候次第」について薩摩藩より叙状況説明を求められた琉球王府の答申書として、神山親雲上(ぺーちん)ほか4人の連名で藩に提出されたこの文書は、福建沿海における海賊の発生について、次のように記している。
 <去々年・去年福州其外近国大凶年ニ而、買物甚高直ニ相成り、世上極々難儀、夫故去々秋之比より海賊差越、諸国往来之船段々相劫、至当年者猶又乱増、福寧・温州・興化・広東・厦門之洋面ニ賊船余多致横行、閒々粮米運送之官船をも相劫シ、且海辺之村々江乗寄せ、容姿美麗之女子又者兵具等奪取、段々世上之妨ニ相成申候由。

 乾隆59年(去々年)から翌60年に打ち続く大凶作によって商品価格が高騰し、「世上極々難儀」という深刻な事態を招いたことがわかる。そのため苦境に陥った民衆が諸国往来の船や官米輸送船を襲い、沿海地域から女性や武器などを掠め取った。
 つまり、凶作による生活難がこうした海賊行為を誘発したのである。
 沿海部の流民・飢民にすれば生き残りをかけて海に出るしかない。農業不振による沿海民の窮乏化、つまり農村問題が海上に押し出されるかたちで「海賊」が横行したのである。海と陸の社会現象はけっして無関係でなく、むしろ内在的に連動していたと言えよう。(真栄平房昭著「清代中國における海賊問題と琉球--海域史研究の一視点」)>
 
 次に、1795(乾隆60)年、淅江省温州府近海で発生した海賊事件について、具体的に検討したい(表1事例№3)。
 <「琉球之一件」によると、琉球船が「南龍と申す外山」で潮待ちのため停泊していたところ、5月3日早朝に「賊船」10艘が姿をあらわした。うち2艘の約7、80人が「太刀」をふりかざして琉球船に乗りこみ、積荷のほか銀の簪や衣類などを奪った。さらに船を乗っ取ろうとしたが、兵船数十艘が接近して来るのを見て海賊たちは慌てて本船に引き返し、現場から逃げ去ったという。「高宗実録」乾隆60年(注・1795)7月壬午條の記事によると、これらの「盗匪」は大胆で恐れを知らず、武器をもって官米輸迭船を襲い、また同じ一味が「琉球貨船」を掠奪したという(同書)。>

 海賊に掠奪された琉球船の主な貨物は、別表の通りである。
 「昆布・乾しナマコ・鰹節といった海産物が積み荷の大半を占めており、いずれも中国向けの交易品で海賊にとっては換金性の高い獲物であった。なお、附表に示した物品は主に個人貨物であるが、防護鎗20本・大小腰刀4本など海賊の襲撃に備えて携行した武具類が含まれていることに注意したい」(同書)。
 説明〈表2) 乾隆60年海賊に掠奪された琉球船の主な貨物。史料:『歴代宝案』第2集 巻83(真栄平氏著書から)
    海賊5
 
 1795(乾隆60)年琉球船が淅江省の温州府に漂着した際、海賊に狙われる事件があった。その詳しい経緯について、「琉球之一件」(原文省略)は次のように記している。
 <琉球と薩摩を往復する「楷船」が薩摩へ向かう途中、暴風に遭い温州府平陽県に漂着した。外洋で「賊船五艘」に取り囲まれて危難に陥ったが、たまたま巡航した警備の兵船のおかげで海賊船は「逃走」し、助かったのである。海賊の跳梁で海上交通に支障をきたし、翌年3月、ようやく琉球船は福州に送り届けられたが、五十艘もの官船が護衛にあたるなど物々しい警戒ぶりであった(同書)>。
        付表(海産物以外の被掠奪品)
      海賊4  
                         真栄平氏著書から
 このように、中国沿海の治安が悪化した乾隆60年、琉球国内の租税を運ぶ春立地船(乗員48名)が那覇から八重山へ帰る途中に漂流し、広東で海賊に襲われる事件が起こった(表1事例№4)。

 <「琉球之一件」及び『中山世譜』巻10の関係史料によると、琉球船は広東澳門の近海で賊船2隻に乗っ取られ、15、6歳の少年1名(西表仁屋)が拉致された。
 残る乗員はようやく澳門にたどり着き、現地の役所に保護されたが、そこで天然痘に感染して30名が死亡。生存者17名は福州へ護送されたが、さらに8名が琉球館で病死した。これは、海賊と流行病のダブルパンチを蒙った不運なケースである(同書)。>

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倭寇は琉球船を襲わなかったのか、その15

  海賊対策と武装強化
 琉球王府は海賊問題にどのように対応したのであろうか。
 真栄平房昭著「清代中國における海賊問題と琉球--海域史研究の一視点」から見てみる。
 そこで琉球船の防備体制にとって障害となったのが、日本の17世紀初め、幕府法令が薩摩藩を通じて琉球にも適用された結果、渡唐船は「刀・脇差・武具類」の搭載をいっさい禁じられた。
 <そのため、海賊に襲われた場合、いわば非武装の琉球船は抵抗できない状況に置かれた。海賊が出没する危険な海域を無防備のままで航行せざるを得なかったのである。その後、多数の死傷者が出た17世紀半ばの明清動乱期には一定の武装が許され、薩摩藩から貸与された鉄砲や刀剣などを搭載するようになった。つまり、琉球に適用されていた幕藩制国家の武器輸出禁令は、危険が差し迫った海賊対策のために事実上、緩和されたのである。
 
 朝貢船は比較的高価な貨物を積んでいるため、格好の標的として狙われやすい。海賊の手口は、琉球船の航路にあたる閩江入り口の五虎門、あるいは近くの島陰で待ち伏せ、漁船や商船を装って接近し、油断した隙に武器を手に乗り込み、積荷を掠奪することが多かった。さらに、こうした「待ち伏せ型」以外にも漂着船を襲うケースがあった。
 海防当局は巡視船を出して沿海警備をおこなったが、外洋での哨戒は天候・風向きに左右されるため十分に監視が行き届かず、不意に姿を現す賊船には対応できなかった。そこで自衛策として、不審な賊船の動きをいち早く察知し、追跡を振り切って、逃げるのが一番だが、もし船に乗り込まれた場合は必死に戦うしかない。
 
 ところが、薩摩藩の支配下において琉球士族層は日常的に「帯刀」する習慣がなく、弓矢・鉄砲の取り扱いにも慣れていない。このような状況を心配した政治家蔡温は、海賊に備えて鉄砲の射撃訓練をおこなうことが望ましい、と主張した。
1749(乾隆14)年、蔡温は次のような意見を述べている。「琉球は平和な国で、武道の入用は絶えて無い。だが、毎年中国へ渡航するので、もし海賊に遭ったときは槍・長刀・弓・鉄砲で防戦しなければならない。そこで、琉球の役人はみな日頃から武具の扱いを嗜むことが奉公のつとめであろう。もし差し支えなければ、日頃から鉄砲の稽古をさせたいと思う。渡唐役人は毎年三日間ほど練習しているが、それでは実戦の役に立たないと思われる」と(『独物語』)。
  
  • 蔡温 画像 に対する画像結果
     蔡温 
 このように蔡温は、鉄砲の射撃訓練を強化すべきだと考えたのである。先述したように、明清交替期には不穏な情勢が続き、1670年代は鄭氏の海賊が琉球船にも大きな脅威を与えた。こうした琉球をとりまく海域情勢に苦慮した向象賢(羽地朝秀)の時代に比べると、蔡温の時代における清朝の治安は回復し、海賊の危険はかなり弱まっていた。
 しかし、海賊がふたたび猛威をふるう時代の到来を予見するかのように、蔡温は琉球船の自衛対策論を唱え、鉄砲訓練の必要性を説いたのである。その意味で蔡温は、農政や山林政策の改革だけでなく、海洋事情や海賊問題にも目配りした先見性をもつリアリストであったといえる。>

 <渡唐船の武装をめぐる薩摩藩と王府のやりとりが、『琉球館文書』乾隆22(1757)年7月16日付の覚に記されている。渡唐船は海賊の襲撃に備えて、できるだけ多くの武器を搭載する必要があった。すなわち、劣悪な装備ではいざ実戦に役立たないからである。そこで王府は、謝恩使の迎接船・接貢船が海賊に襲われたときに武器がなくては困るので、「異風」(艦載砲か)3丁、20匁鉄砲1丁、5匁鉄砲25丁、弾薬などの提供を薩摩藩に求めた。これに対し藩では、異風砲の手持ちが少ないので大筒に代えてはどうかと、そっけない返事であった。
 そこで王府は次のように異風砲の搭載を訴えた。第一に、これが無いと福州での船改めや港出入りの「礼儀」に反すること、つまり礼砲発射の慣例である。第二に、ふつうの鉄砲では二十匁以上の弾丸は発射できず、海賊対策に役たないとの理由からである。なお、礼砲の件は大鉄砲でなんとか間に合わせるにしても、異風以外は賊船針策に役立たないから、今秋までにぜひ差し下してほしい、と嘆願した(真栄平房昭著「清代中國における海賊問題と琉球--海域史研究の一視点」>。
 
 進貢船に大砲・鉄砲・刀剣が搭載された事実は1762年、土佐藩領に漂着した琉球船乗組員らの証言にもとづく『大島筆記』(戸部良熙著)に、次のような記述がある。
「進貢船は矢倉を組立、狭間を明、帆も蒲葵(びろう)を用ゆ、飾り物数々あり。武器も砲(いしびや=石火矢)・鉄砲・槍・大刀・弓矢を備」とある。さらに「海賊の備には海防官・千総守備などありて、海賊を見掛れば、其まゝ退治するの官也」と記されている。
 進貢船は、各種の武器と体制を備え、海賊対策をしっかりととっていたことがわかる。
 進貢船に乗る要員は、事前に鉄砲稽古など訓練が行われていた。
 続きは第16回へ。



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倭寇は琉球船を襲わなかったのか、その14

 商船を奪って海賊行為も
 清代中国における山賊・海賊の横行によって、琉球国側が期待した品々の調達が困難であった。那覇から福州までの海域において海賊船の横行が見られるために、その防御策として火器などを事前に準備して渡海船に装備していたのである(松浦章著『東アジア海域の海賊と琉球)。以下、同書からの要約である。
 咸豊5年(1855)の文書に
 渡海船が海賊の襲撃を受け、積荷の荷物や衣類そして簪(かんざし)まで奪ったため、航行が困難となって琉球船福建省東北端の後述する沙埕に漂流するような事態となっていた。
 乾隆60年5月3日に、温州南麑山外洋において琉球貢船を襲撃した清の海賊の頭目は林發枝の盗船であったことが明らかである。
この時の船について『中山丗譜』巻10、尚穆王の条に
 4月28日に那覇を出帆したが、南風に遭遇して停泊していたところ小型帆船が10隻ばかり現れたので、蔡世彦はてっきり清朝水のパトロールの哨船と思っていたところ、いきなり2隻が琉球船に接近し、780人のものが乗船して襲撃してきたのである。海賊達は大型の武器などを使い蔡世彦も傷を受け、積んでいた衣類や貨物さらには小物の簪まで奪い取られたのであった。そして琉球船まで奪取しようとしていたその時、清朝水軍の哨船が数十隻あらわれたため、海賊達は海賊船に乗り移って洋上へ逃げ去ったのであった。
 
  福建省の海賊は商船を多用して襲撃している。しかし海賊が大型船舶を造船することは出来ないので、まず数十人が小型船に乗って、商船を襲撃して商船を奪い、奪取した商船で海賊行為をおこなっていたことがわかる。
 清官府は海賊被害を受けた琉球国の人々を福州の琉球館において安住させ、奪われた銀両を償い、さらに奪われた日用品や貨物もそれ相当の返還がはかられたのであった。
     進貢船ウィキペディア   
        進貢船の図(ウィキペディア)

 進貢船は「宝船
 <琉球の進貢船がこのような海賊に襲撃されたのにはそれだけの理由があった。たとえば、『高宗實録』巻1003、乾隆41年2月戌午(16日)の条に、
 論、據永徳奏、琉球貢船回國。兌買絲綢布匹等物、免過税銀、共千二百餘兩。似較向來為數過多。
とあるように、琉球の進貢船の帰帆には莫大な貨物が積まれていたからである。本来なら積載貨物に課税されるが清朝への朝貢船であるため免税扱いになっており、その免税の銀両だけでも千数百両にのぼっていたのである。進貢船の入港時が数百両であるのに、帰帆時は二千数百両以上にもなっていた。つまり、清代の海賊からすれば襲撃するのに充分な価値ある宝船だったのである。(松浦章著『東アジア海域の海賊と琉球)>
 進貢船は、海賊にとっては「価値ある宝船」だったという。琉球にとっては、それだけ危険をともなう航海だったとなる。琉球の時代、死ぬことを「唐旅する」といわれた。航海の遭難の危険とともに、海賊に襲撃される危険も伴っていたのである。
   第15回に続く。
 


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倭寇は琉球船を襲わなかったのか、その13

 代の海賊琉球船が襲われた
 倭寇による朝鮮や中国沿海地の襲撃は、明代末には終息した。代にも、海賊は活発に活動したが、明代の倭寇とは区別される。
「明代には倭寇の襲撃を受け、代には海賊に襲われている」(松浦章著『東アジア海域の海賊と琉球)。平和彦「近世中国の海盗と琉球船舶」から引用)とされる。
 倭寇は海賊の一種だが、松浦氏は、その違いを明確に規定していない。とりあえず海賊とは、日本人とはかかわりがなく、中国人を主体とする集団と見ておく。
 代における海賊は、中国では一般に海盗とか洋盗などと呼称される。
 
 代には、琉球船がしばしば海賊に襲われた。
 真栄平房昭氏が、代の海賊と琉球の関わりについて考察している。そこから要約して紹介する(「清代中國における海賊問題と琉球--海域史研究の一視点」)。真栄平氏は、旧字体を多用しているが、読みやすくするためできるだけ新字体に改めた。
 17世紀後期~18世紀中期にかけて 中国沿海における琉球船の海賊被害の状況を一覧表にまとめている。
 別表は『清代中琉関係檔案選編」・『清実録』をはじめとして、琉球王国の『歴代宝案」・『中山世譜」・『家譜」・『旧記雑録』(鹿児島史料)など、中国、琉球、日本の三ヶ国の史料をもとに抽出したデータを一覧化したものである。
   海賊1
             <表1>琉球船の海賊被害状況(真栄平房昭氏作成)
 
  これを見ると、15件の海賊事件を確認できる。
 <中国の政情不安定な時代には海賊が多く発生したこと。とくに明清交替後、沿海の治安が悪化したことにより、琉球の対清関係は一時は途絶状態に陥った。具体例を示すと、1654 (順治11)年、琉球では先に派遣した順治帝即位の慶賀使の帰国を迎える船を福州に派遣したが、海賊に阻まれて入港できず帰国した。翌年ふたたび迎接船を派遣したが、やはり海賊のため梅花津から引き返した(同書)。>
 琉球船が海賊に襲撃された場所を地域別にみると、福建の8件、淅江6件、広東1件となっている。
 船種別の被害状況をみると、進貢船・接貢船・護迭船など王府の官船だけでなく、民間の貨物船(馬艦船)も襲われた。また、八重山の年貢運迭船が漂流先の福建で海賊に身ぐるみ剥がされ、乗組員が拉致されたケースもある。
 1670(康熙9)年11月、琉球の進貢小唐船が福建沿海の海塘山で襲撃され、乗組員の大半が殺害された(表1№1)。 犯人が鄭氏(注・鄭成功)一味であると知った琉球王府は、薩摩藩を通じて幕府に訴えた。これを受けて長崎奉行は、長崎に来航した台湾を拠点とする鄭氏配下の東寧船(台湾船)を差し押さえ、賠償銀300貫を琉球側へ支払うよう命じた。つまり、台湾と琉球の海賊事件の処理に日本が一役買ったわけである。これは当時としては異例の海事紛争の賠償例として注目される。
 
 次に、1673(康熙12)年の海賊事件(表1№2) について詳しくみていこう。五虎門から約30キロほど離れた「竿塘」沖で、琉球の進貢船が13隻の賊船にとり固まれた。海賊たちは鉦や太鼓をいっせいに打ち鳴らし、雄叫びをあげながら弓矢・鉄砲を射かけてきた。これに対し、琉球船の乗組員たちも必死に防戦につとめ、朝から夕刻まで激戦が続いた末、賊船はようやく退去した。しかし、琉球側も死亡者6人、負傷者24人という被害を蒙り、程泰祚(名護親方程順則の父)も重傷を負い、福州で手当を受けている。
 この海戦で死亡した北京大筆者湧田親雲上の奮闘ぶりが、王府の正史『球陽』に、次のように記録されている。すなわち、湧田は先頭に立って乗組員を励まし、「防御の備えは充分だ、慌てるな。命を惜しむ臆病者は斬首する、みな武器をとって戦え」と、訓戒した。やがて賊船団は「砲声一響」を合図に琉球船に攻め寄せ、「火確」(注・手投げ弾)や「炮銃」(注・鉄砲)を雨のように浴びせかけた。
 
 これに対し、琉球人たちも勇をふるい、力を尽くして「血戦」した。そこで海賊船はようやく退去したが、なお再来をおそれた湧田親雲上は、船上で長刀をかまえて威勢を示した。そこへ海賊の鉄砲により腰を射抜かれ、死亡したという。 
 明清交替の余燼がくすぶる17世紀後半、台湾を拠点とする鄭氏勢力から琉球船は敵方のターゲットとみなされ、海賊の脅威にさらされた。台湾の鄭氏は、幕府の海賊禁止令を無視するかたちで海賊行為を続け、清の冊封体制下にあった琉球の朝貢船もしばしば被害を受けたのである。1683年、鄭氏はようやく清に降伏し、東アジア海域の武装勢力はひとまず鎮静化することになった。
 この項は、真栄平房昭著「清代中國における海賊問題と琉球--海域史研究の一視点」からの要約である。
 続きは第14回へ。
 


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