レキオ島唄アッチャー

歴史が今に生きている沖縄、第一尚氏の末裔

 第一尚氏の末裔
 金丸に倒された第一尚氏の末裔と自称する方に、前にお会いしたことがある。
 沖縄ジョン万次郎会の定期総会で会ったSさんという女性は、沖縄にきて39年になる人だった。栃木県の出身だという。だが、意外にも「私のもともとの姓は尚なんです。それも第二尚氏ではなく、第一尚氏の子孫にあたるそうです」と語る。
 金丸が尚円王になったあと 第一尚氏の子孫が迫害を恐れて逃げたことは予想される。でも、栃木に子孫がいたとは、にわかには信じがたい。ただ、ご本人は、自分が沖縄に移り住んだこと自体に、強い縁を感じていた。琉球を統一した尚巴志は、もともと祖父は伊平屋島から本島の佐敷に移ってきたという。Sさんの娘さんが、伊平屋島に行ったところ、どこからか「よく来てくれた」というような声が聞こえたともいう。第一尚氏の子孫を裏付ける史料はなさそうだ。
 
                           佐敷、尚巴志の碑  
         佐敷上城跡にたつ尚巴志の碑
 ただ、クーデターで倒された第一尚氏最後の尚徳王の子どもは、3人が殺されたが、3男は乳母に抱かれて先祖の地、佐敷に落ちのびたとされる。後に屋比久(ヤビク)の地頭になり、屋比久大屋子と称したとのこと。しかも、その子孫は、王府から首里移住を許され、首里士族としての道を歩んだといわれる。ということは、廃藩置県の後、その子孫のなかから、上京して大学に学んだり、就職して、首都圏やなかには栃木県に住んだ人がいても不思議ではないかもしれない。
 まあこんな具合に、歴史上も重要な人物の子孫を名乗る人に、意外なところで出会うところが、沖縄ならではである。歴史がいまも生きていることを感じるのだ。




 第一尚氏といえば、尚巴志(ショウハシ)が開いた王統の一族が、現在も先祖を供養する「隠れ御清明(カクリウシーミー)」を秋に行っているという。これは「週刊レキオ」が2011年10月11日付けで報じたものである。

 尚巴志ゆかりの南城市佐敷の佐敷上城跡で、尚巴志長男系統の子孫の門中によって密かに行われてきた。門中(ムンチュウ)とは男系の血縁組織である。もう500年以上続いているというからすごい。

 「王統が変わった際『第一尚氏狩り』のような、前王統の血縁を排除せよというおふれが出され、清明祭で集まっている一門が狙われました。そのため、時期をずらしてひっそりと清明祭をし、御先祖様の前で一族の結束を固め、供養してきたといわれています」と門中代表の宮城春子さん(このとき75歳)。

 王統が変わったあと「当時は名前を変えたり、読谷や国頭に逃げたり、血筋を隠さないと命がなかったので必死だったんです。この風潮は明治時代になるまで続いたようです」(宮城さん)。だから文献にも残されていないそうだ。以上「週刊レキオ」から。

 



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歴史が今に生きている沖縄、尚円の血筋

 尚円王の血筋にあたる普久原恒勇氏


「芭蕉布」をはじめ戦後の沖縄民謡のヒットメーカーである普久原恒勇(フクハラツネオ)さんは、先祖は伊是名島(イゼナジマ)の出だという。伊是名島といえば、琉球を統一した第一尚氏の王統を倒して、第二尚氏の王統を開いた金丸、のちの尚円王の出身地である。

 普久原恒勇さんは、この尚円王の血筋にあたるという。彼へのインタビューをまとめた『芭蕉布 普久原恒勇が語る沖縄・島の音と光』でそのことを語っている。
 正確には、尚円の直系ではなく、その弟にあたる尚宣威(ショウセンイ)の子孫だという。

「普久原門中(ムンチュウ、男系血縁組織)というのは毎年、伊是名島にお祈りしに渡ります。わたしも行ったことがあります。普久原というのは尚宣威の子孫だと聞かされてはいるんですが、ま、ほんとかどうかわかりませんけれども、みながそう言っているからそうだろうと、思っております」。

 普久原さんには、史曲「尚円」がある。まだ聴いたことがない。この曲は、同じ伊是名島出身の木版画家の名嘉睦稔(ナカボクネン)さんにたいして「伊是名のために何か書きたいね。君は銅像も作ったらしいからそれと一緒に曲を書きましょう」と話した。ちょうど村の方でも普久原さんに何か書いてもらえないか打ち合わせをしていたようで、書くことになったという。当初は、普通の歌を作ろうとしたけれど、「どうせなら器楽曲を書かせてほしいと、初めて自分から進んで書いたものが≪尚円≫です」と話している。
                        IMG_4021_20171011110114b0b.jpg
              玉陵。尚宣威は入れられなかった


  普久原さんの先祖にあたる尚宣威は、不運な国王である。兄の尚円王が亡くなったとき、息子の尚真はまだ11歳と幼かったので、尚円の弟が推されて即位した。しかし、わずか半年で王座を追われた。尚真の母であるオギヤカの策略があったのではないと見られている。尚真は11歳で即位し、幼い息子に代わりオギヤカが権力をほしいままにしたと伝えられる。

 尚宣威は退位後わずか半年で48歳で急死した。尚真王が建てた陵墓、玉陵(タマウドゥン)には、歴代国王が葬られているが、尚宣威は葬られていない。
 それはともかく、よく知られた作曲家が、尚円王の血筋にあたるという話を本人が話しているのを読んで、驚いたのである。

 尚円王といえば、伊是名島出身のシンガーソングライター、伊禮俊一さんも、その子孫だという。子孫だというなにか史料があるのだろうか、そのあたりはよくわからない。

 もともとは百姓だった金丸(尚円王)は、水田の水を盗んだと疑われ、島を出て本島に逃れたと伝えられる。いまでは伊是名島の誇りであり、銅像も建立されている。

 


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歴史が今に生きている沖縄、平敷屋朝敏

 平敷屋朝敏ゆかりの方からメール
 組踊「手水の縁」の作者で、政治犯として蔡温に処刑された平敷屋朝敏のことをアップしたところ、朝敏の母方祖父、屋良宣易(ヤラセンエキ)の末裔にあたるという宜野座村のYさんからメールをいただいた。
屋良宣易については、よく知らなかったが、和文学者であり、朝敏はその薫陶を受けたという。和文学者というだけでなく、王府の評定所右筆、尚純公の教育係、首里城の瓦修復奉行など三司官の下で政治にも深くかかわりがあったという。
 朝敏らが王府批判と見られる落書を薩摩在番所横目宅に行い、罪を問われた事件では、朝敏、宣蕃らとともに安謝港で処刑されたことが、家譜に残されているそうである。
         平敷屋朝敏の歌碑 
         うるま市平敷屋に建てられている朝敏の歌碑
  
 「手水の縁」は、親が認めない恋愛を不義とする封建的な道徳、秩序のもとで、恋に落ちた二人が命を賭して彼女を処刑から救い、恋愛を成就させる物語である。王府時代の組踊は、敵討ち物をはじめ忠孝節義を主題とする作品がほとんどであるなかで、次元を異にする画期的な作品であった。

Yさんは、朝敏の母方祖父の末裔という立場で、その「功績を後世に伝えていくのが使命」だとのべている。
 こういう朝敏にゆかりの方から、メールをいただくとは予想もしていなかったので、うれしいかぎりである。これからも、時代を先取りした朝敏とその作品は、時代の発展とともに、より親しまれ、高い評価を受けるだろうと思う。

   朝敏について詳しくは、ブログで「赤虫が蝶なて飛ばば遺念ともてーー琉球の悲劇の文学者 平敷屋朝敏覚書」など何回も書いたので見ていただきたい。

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歴史が今に生きている沖縄、汀間当

歴史がいまも生きている沖縄
 沖縄では、琉球の歴史や沖縄民謡に登場する人物の子孫というか血筋をひく人たちが、いろんな分野で活動していることに驚くことがしばしばある。前にわがブログで何回か、アップしたことがあるけれど、改めてまとめておきたい。

 「汀間当」に登場する役人神谷
 名護市の東海岸にある汀間を舞台にした民謡「汀間当」(ティーマトウ)は、役人と村娘の恋唄として、よく演奏される。琉球王府の時代、神谷親雲上(ペーチン)厚詮が、王府の御用品を収納する役人・請人(ウキニン)として、久志間切(クシマギリ、いまの町村にあたる)汀間村に派遣された。
 村の美人、丸目加那(マルミカナ)と恋仲になり、夜ごと浜に降りて逢引していた。それを、村の青年たちが見ていて、はやし立てる様子が歌われている民謡である。

                     IMG_5879.jpg
                        神谷幸一氏
 
 ところが、請人・神谷の子孫にあたる人がいた。それも沖縄民謡界の重鎮である神谷幸一氏だという。これは「琉球新報」2012年12月21日付、小浜司氏が書いた「島唄を歩く、花咲く島のダンディー神谷幸一」で、紹介している。小浜氏に、請人・神谷との関わりを聞かれて、神谷氏は次のように答えている。
 「幼い時、祖父がそんなことをつぶやいていたのを覚えている。先祖御願(ウガン)に首里へ行く時もあったし、系図調べたら7代目にあたるかな。最近の話だけど、汀間(名護市)の神あしゃぎを改築して、落成式に我々メンバーが呼ばれて嘉例(カリー)つけることができた。せっかくだから戦前の部落の井戸跡を拝まねばと、ごちそうも準備した。不思議なことに、土砂に埋まって跡形も無いはずの井戸がすぐに発見できた。それを見たユタ(注・巫女)が驚いて、この人(神谷厚詮)が降りてきて、「ありがとう」と言っている、首里まで来てくれた、丸目加那に向けて「やっとここに来てくれたんだ」と伝えているよ、と言われた」
 系図まで調べたというので、神谷幸一氏が「汀間当」の請人・神谷の子孫にあたるのは間違いないようだ。
 
 「♪汀間当安部境ぬ 河ぬ下ぬ浜下りて 汀間ぬ 丸目加那と請人神谷と
  恋の話 ふんぬかな ひゃ誠かや」
  (汀間と安部の境、井戸の下、浜に下りて汀間の 丸目加那と請人神谷との
  恋の話 本当かな 真実かな)
 歌は4番まで続く。二人の逢引は村の青年に暴露される。はやし立てられていたたまれなくなった神谷は、首里に帰っていく。年が明け4,5,6月頃になれば呼びに来るから待っていてくれ、と言うが、迎えはない。
 「残された丸目加那は涙にくれて、ついに首里まで上ったが、神谷が家族と暮らす現実に落胆し帰郷。そんな彼女を村はあたたかく迎えた」と小浜氏は書いている。
 神谷幸一といえば、小浜氏が「花咲く島のダンディー」と評しているように、民謡界でもイケメンであり、歌の上手さも抜群である。請人・神谷も、女性にもてるタイプのダンディーだったのだろうか。
 それはともかく、古い民謡で歌われている人物と出来事は、根拠のない絵空事ではない。ほとんどが実在の人たちであり、現実の出来事が歌となって残されている。そのことを改めて痛感する。しかも、その人たちの血を受け継いだ子孫が、いまも現存している。
 それも神谷幸一氏のように、民謡界の名高い唄者であることに、驚いた。歴史は生きているのである。


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「琉球併合」と明治期沖縄県政、その2

松田道之を琉球に派遣
もう一度、講演の要旨に戻る。

 1873年外務卿副島種臣と伊地知貞馨が日清両属体制と国内制度の現状維持を約束したが、1874年、琉球藩を内務省の管理下に置く。

 
 補注 「琉球問題はもはや対外問題でなく、内治問題と考えたからである。そして内務卿大久保利通の処分案にもとづき、琉球を処分することにした」

 「大久保は翌75年(明治8)正月、使いの上京を命じた。沖縄からは三司官池城親方・与那覇親方らが上京した。使節が内務省に出頭すると、内務大丞松田道之が応接して、()謝恩(注・台湾出兵)のための藩主の上京、()清国との進貢関係の清算、()鎮台分営の設置、()藩政改革、などを申し入れた。これに対し池城らは大いに驚いて、…事が重大で,帰藩の上、藩主の意向をきかねば返答できないものもあると固執したので、政府はこれを容れて一応帰藩せしめた」(宮城栄昌著『沖縄の歴史』

 

 1875(明治7)年、松田道之を琉球に派遣。政府命令として①清国への朝貢及び慶賀使派遣の禁止②冊封使受け入れの禁止③明治元号の使用④日本の刑法定律の使用⑤藩政改革⑥学事修行などに10名程度状況⑦福州の琉球館廃止⑧謝恩使尚泰の上京⑨鎮台分営の設置、を伝達した。

 従来の琉中関係の廃絶と中央集権国家体制への琉球編入に向かう。

 首里王府は1875年、④⑥⑨を「遵奉」するが、その他の清国との関係、琉球の国体に関する項目は認めないという対応をとる。
 首里・那覇の士族層が反発し、騒乱状態になる。首里王府内部で三派が形成される。

 ・遵奉派=日本専属として琉球「王国」の存続を主張

 ・条件付遵奉派=政府に直接請願した上で遵奉することを主張

 ・遵奉反対派=日清両属に基づく「王国」存続を主張

     清国に密航して琉球救国を請願する「脱清人」の活動が起こる。

                           036.jpg 
                                  首里城正殿 
 
 琉球併合を強行

松田道之は1878(明治11)年11月、「琉球藩処分案」を立案して内務卿伊藤博文に提出する。18791月、松田は首里城にて清国関係の断絶と裁判権の内務省移管など求める。琉球は提出期限の延期を求めた。

 同年2月、伊藤博文上申の「琉球処分案」が明治政府内で承認され、3月松田が琉球出張を命じられる。

 327日、松田が首里城にて「廃藩置県」に関する文書を読み上げた。首里城明け渡し、尚泰は東京居住へ。県庁を当初、首里に置く考えだったが、士族が多いことを考慮して那覇に置くことにする。

 
 補注 廃琉の令達について、もう少し補足しておく。

「松田は警察官160人、歩兵役400人と同行して、325日那覇につき、27日首里城にのりこみ、今帰仁藩主代理に廃藩置県の達書を朗読して手交した。実に疾風迅雷のやり方で、一瞬のうちに幾百年かにわたって尚家に握られていた統治権が取り上げられて、明治政府の手にうつった。

 松田は土地と人民及び一切の書類の引渡しと、尚泰の東京居住を命じ、警官と軍隊を要地に配して、不測の事態にそなえた。」(宮城栄昌著『沖縄の歴史』)

 

 1879(明治12)年、駐日清国行使・何如璋が、琉球は清国の属邦であり、自主の国である、琉球は日清両属体制にあると抗議、廃琉処分の撤回を求める。
 外務卿寺島宗則は、琉球と薩摩との歴史的関係を指摘し反駁した。

 1880(明治13)年の日清交渉では、日本側は奄美・沖縄島を日本領、宮古・八重山諸島を清国領とする二分割案を主張。清国は奄美を日本領、沖縄島の独立と琉球王国の復活、宮古・八重山諸島を清国領とすることを主張した。
 琉球の二分割案で両国が合意したが、正式調印はされなかった。

 清国は、日本商人の活動による経済的混乱を回避するために正式調印を保留した。清国内における琉球複国運動も一定の影響を与えた。


補注 日清交渉は、「日清修好条約を改正して、日本を欧米諸国なみに最恵国待遇にしてもらうことを条件に、清国と分島問題を討議すること」としていた(宮城栄昌著『沖縄の歴史』)。

講演は、初代県令鍋島直彬の県政、第2代県令上杉茂憲の県政、那覇における寄留商人の活動、奈良原県政と土地整理事業・杣山問題、謝花昇の運動について及んだ。興味深い論点もあるが、長くなるので割愛する。

 
 講演の最後に次のようなまとめがされた。

「琉球併合」は、琉球側の請願を無視した、明治政府による一方的な「領土併合」の過程である。「琉球併合」後においても琉球側は清国で救国運動を展開した。明治期沖縄県政では、旧慣温存政策が展開されつつも、政策遂行の円滑化や経済的利権の獲得などが意図された。

  終わり    (文責・沢村昭洋)


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「琉球併合」と明治期沖縄県政、その1

「琉球併合」と明治期沖縄県政

 

 沖縄県民カレッジ美ら島沖縄学講座3回目として先頃、「『琉球併合』と明治期沖縄県政」があった。講師は、川島淳氏(公益財団法人沖縄県文化振興会 公文書専門員)。

 講師は「琉球処分」という用語ではなく「琉球併合」と題していた。1872(明治5)年の琉球藩の設置、1879(明治12)年の沖縄県設置、翌年の日清両国の分島問題まで、明治政府による一連の政治過程を、明治政府による琉球当局の意見を無視した一方的な「領土併合」とする。

 

以下、講座の概略を記す。筆者の勝手な要約である。

琉球王国は、明・清の冊封(さっぽう)を受ける一方で、薩摩藩の支配下に置かれた。

 1871年、廃藩置県による薩摩藩廃止で琉球王国を鹿児島県の管理下に置いた。琉球は、清国との冊封関係と従来通りの旧薩摩藩=鹿児島県との関係維持を要望した。

 1872(明治5)年、維新慶賀使の派遣を求められ派遣した。

天皇は尚泰を琉球藩王として華族にする。 

 同年、琉球藩は外務省の管理。在番奉行所を廃止し外務省出張所を設置する。

1873年、琉球藩が各国と締結した条約の原本の提出を求められ、回避しようとするが外務省に移管させられた。

 
 
1871年、宮古島船が那覇からの帰路、遭難し台湾に漂着、66人中54人が殺害される事件が発生した。
 
1874(明治7)年、台湾出兵を政府は中止決定したが、西郷従道は独断で出兵し、台湾南部を制圧した。清国が台湾は「化外の民」としたことで出兵を正当化、清に賠償金を支払わせる。琉球の日本帰属が決定されたわけではない。

                      IMG_4216.jpg 
                                    守礼の門
 
 補注 この問題はその後の展開に大きな影響があったと思われるので、他の資料から追加して紹介しておきたい。

仲里譲著『琉球処分の全貌』から

 「政府は琉球藩に対して国王を華族にするとともに藩主と叙した。これを国内法上の第一歩となし、続いて生蕃による台湾征討に対する清国との外交交渉を重ねて、遂に台湾遠征を行って目的を達した。即ち清国との講話(ママ、和)条約(互換條款)を結んで10万テールの賠償金を獲得してその一部は遺族に支給された。

 以上の経過をみると、政府は琉球藩の問題を処理する環境が整ったと判断したものと思われる」


 新城俊昭著『琉球・沖縄史』から

 イギリスの調停で、清国に50万両の賠償金を支払わせることで和議を成立させ、「台湾の生蕃が日本国属民を殺害したので、日本国政府はこの罪を咎めてかれらを征伐した…」という事態収拾のための条文を交わすことに成功した。

 ここにいう「日本国属民」とは琉球人のことで、政府は清国から琉球人が日本人であるという言質を引き出したのである。また、これによって、その領土も必然的に日本の一部であるという解釈もなりたった。…琉球が日本の領土であることを清国政府に認めさせることに成功したのである。


 宮城栄昌著『沖縄の歴史』から

 日清両国の協定は「条文中には日本の出兵を『義挙』とみとめ、また『ここに台湾の生蕃、かつて日本国属民に対し、みだりに害を加えたるにより』との文章があった。これは沖縄人を日本国民と、公法上に明文化した最初のもので、日本の征台の目的は十分に達成することができた。これで琉球の廃藩置県はさらに一歩前進した」 

 
 以上のように、台湾遭難事件は、冊封関係にあった清国に、琉球人は「日本国属民」、つまり琉球は日本の支配下にあると認めさせ、琉球併合への重要な転機になったのではないだろうか。


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お墓と琉球王権について講演を聞く

 県民カレッジ美ら島沖縄学講座」の第2回目として7月6日、安里進氏(沖縄県立芸術大学附属研究所客員研究員)の「お墓と琉球王権のグスク・王陵(王墓)の意外な関係」と題する講座があり、聞きに行った。場所は那覇市旭町の南部合同庁舎。

 安里氏の講座のポイントを記しておきたい。

沖縄にはさまざまな墓がある。建物形の墓や崖に穴を掘った墓、中国伝来の亀甲墓など。沖縄の墓の特徴は①自然の洞窟を利用した墓、人工的に洞窟を掘った墓②建物形の墓③漆喰で白化粧すること。なぜ、洞窟か、なぜ建物形か、なぜ白化粧か、その謎を解くカギは「琉球の王陵」にある。


 沖縄の墓のモデルは王の墓である。

    各王統が新型式の王陵を造営した。

    英祖王統は人工洞穴内に建物・木槨墓、初期浦添ようどれ第一尚氏王統は洞穴の墓口をふさぐ掘込墓、ようどれ改修➡第二尚氏王統は外観建物形の破風墓。墓表を白化粧、首里玉御殿(玉陵、たまうどぅん)、➡第二尚氏、平地式破風墓、白化粧、伊是名玉御殿。

(察度王統の墓は不明。浦添ようどれを使ったのかもしれない)

    王陵は、洞穴墓から建物形へ、漆喰白化粧へと発達した。

    士族や庶民も、王陵をモデルに墓をつくった。

亀甲墓は、1680年代に、中国が明から清へ代わる混乱の際、琉球に逃げて来た人たちが亀甲墓を伝えた。                    浦添ようどれ                                           
          浦添ようどれ

琉球王陵のモデルは首里城正殿である。

    浦添ようどれの墓室には首里城正殿がある。

    首里玉陵は首里城正殿をモデルにした。

    王の棺(厨子)のモデルはグスクや首里城の正殿。

    首里城正殿の形が変わると、厨子や墓の形も変わる。

    正殿に唐破風が登場すると亀甲墓・厨子にも唐破風が登場する。
(唐破風は、唐の名がついていても中国にはない)

              IMG_4021.jpg

           首里玉御殿(玉陵)
王の墓はなぜ漆喰で白化粧したのだろうか。

    琉球の王陵は漆喰白化粧されていた。 

 浦添ようどれは、墓も石垣の囲いも白、墓庭は白い石粉を敷く。墓室表も漆喰で白化粧されていた。
 首里玉陵も白化粧されていた。伊是名玉御殿も白。石垣囲いも墓室も墓庭も墓室内も白くしていた。

    王宮(首里城正殿など)は赤く塗られ、王陵は白化粧した。

    ニライ・カナイには、太陽神(王)が生れる「でたがあな」(太陽の穴)がある。
穴から生まれた太陽神は、西に沈んだ後、地底の穴を通り「太陽の穴」から再生すると考えられた。

    琉球王権がイメージしたニライ・カナイは、太陽神がすむ光り輝く白い世界と考えた。

            いぜな島観光協会玉御殿  
               伊是名玉御殿(いぜな島観光協会HPから)

安里氏の講演は、勝手に要約するとこんな内容だった。東京からの移住者にとって、沖縄のお墓はいろいろな形があり、大和とはとても異なる特徴があり、興味深く見ていたが、王権のグスク・王陵との関係が深いことは初めて知った。白化粧の背景にある古琉球の王権思想についても、とても興味深く聞いた。

浦添ようどれ、首里玉陵、伊是名玉御殿など王陵を調査されてきた安里氏ならではの研究成果だと思う。

安里氏の講演のもとになった論文の一つ、「琉球王国の陵墓制」は、ネットでも「関西大学学術リポジトリ」で読むことができる。参考までに。 

 


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首里城は炎上したか、その4

印と詔勅を奉安する場所は


 高瀬氏は、さらに、府庫の火災で大切な鍍金銀印が溶解したというのも事実なのかと疑問視する。内田晶子・高瀬恭子・池谷望子著『アジアの海の古琉球―東南アジア・朝鮮・中国―』の中の高瀬恭子著「首里城の炎上したか」からの続きである。

<尚泰久は、鍍金銀印が府庫焚焼により鎔壊した、と明皇帝に奉上したが、印は本当に府庫に蔵されていたのだろうか。府庫とは国家が財物・兵器などを収蔵するくらであることは、冒頭に見たところであるが、内乱の前に琉球国の府庫には、印は収められていなかったようなのである。

(朝鮮漂流民の)万年は王の信頼が篤く、「鉄物(かなもの)・緞子(どんす)・香木・銅銭所蔵の庫」の看守人となった。この庫は、出入りする者を衣服を脱がせて検査するほど厳重に管理されており、貴重品を収める府庫というべきものであったろう。しかしこの収蔵品に印はあげられていない。



 一方梁成は、王の居る閣の上層に珍宝を蔵した、と述べている。琉球国にとって何よりの珍宝とは、明より賜わった印や詔勅であろう。冊封使の来琉のたびに、冊封の詔や勅を「宝」として国に留めることを願い出て、従来それが許された証拠として、過去に授かった詔勅を金櫃(かねびつ)ごと持ち出してきて冊封使に示しているのは、陳侃・郭汝霖をはじめとする明代冊封使の示すところである。

首里城正殿御差床(うさすか)、首里城公園HPから 
        首里城正殿御差床(うさすか)、首里城公園HPから
                     
 真栄平房敬は『首里城物語』の中で、中国皇帝からの詔勅は、琉球処分の時まで、首里城の
2階に格護されていた、と記している。…

印は詔勅にも増して貴重なものであり、かけがえのない唯一の品である。琉球国王の権威の象徴であり、根拠でもある。印は詔勅よりもさらに鄭重に国王の身辺において厳重に保管されていたはずである。印が詔勅と共に正殿に奉置されていた可能性は大きいが、正殿から距離を置く府庫などに収納されていたとは考えられない。

その府庫の焚焼により印が鎔壊した、と称する尚泰久の上奏は明らかに欺瞞である。さきに筆者が、府庫の焚焼自体も疑問であるとした所以である。

乱の際、尚金福あるいは尚金福の世子が印を持ち出したために、これを入手できなかった尚泰久は、明に対する証明として、紛失や破損ではなく絶対的な消滅である鎔壊を申し立てねばならず、そのために府庫が焚焼したと称するしかなかったのである。国王として近い将来、冊封使を迎える身として、正殿が焚焼したという明白な欺瞞は許されなかったからである。>

 

以上で、高瀬氏の論考の紹介を終わる。
 明皇帝から賜わった最重要ともいえる印を、府庫に保管していたというのも、奇妙なことである。詔勅はじめ珍宝は正殿の上層に保管していたのなら、なによりの宝である印は正殿に保管されていたと見るのが常識だろう。確かに、印は府庫に保管していて府庫が焼けて溶解したというのは、なんだか怪しい話である。



 この府庫の火災で印が溶解したというのが創作だとすれば、尚泰久の「志魯・布里の乱」で2人とも死亡したので推挙されたという尚泰久の上奏の内容自体が、史実であるのかどうか疑わしくなってくるのはもっともである。

ただし、まだ論理的な推論であって、府庫の火災がなかったことが立証されたわけではない。さらに「志魯・布里の乱」はなかったという根拠にもなりえない。

これまで紹介してきた第一尚氏最後の王や尚泰久にまつわるこれらの問題は、とても興味深い視点による歴史の再検討であると思う。琉球史のうえでこれまで定説のように思われてきたことも、本当に史実であるのかどうか、史料を吟味し再検討することは、とても重要な課題であることは確かである。今後の研究動向について注視していきたい。

終わり


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首里城は炎上したか、その3

三層の正殿は常に建っていた

高瀬恭子氏は、首里城炎上はなかったことを、別の角度から論証する。内田晶子・高瀬恭子・池谷望子著『アジアの海の古琉球―東南アジア・朝鮮・中国―』の中の高瀬恭子著「首里城の炎上したか」からの続きである。

<現に蔡温自身が撰した『蔡温本世譜』には、尚泰久が広厳・普門・天龍三寺を建てたこと、多くの巨鐘を鋳造させたこと、末吉山熊野権現社を創建したことは記されるが、王城を再建したとの記述は全くない。「満城火起」って首里城が全焼したとすれば、即位した尚泰久がまず着手せねばならなかったのは、城の再建だったはずである。そして王城再建についての記述がないのは『球陽』も同じであり、琉球国王府の編集になる地誌『琉球国由来記』(1713年成立)や、『琉球国旧記』(1731年成立)も同様である。
 

           正殿

                                                     首里城正殿
 

しかも同時代の記録に、この乱の前と後との王城についての記載があるが、城の様子は前と後とで全く変わらないようなのである。…

景泰7(尚泰久王3・1456)年2月に久米島に漂着した梁成と高石寿は、1ヶ月後に本島に送られ、その1ヶ月後からほぼ4年余を王城で暮らし、天順5(尚徳王元・1461)年5月末には朝鮮に帰国している。

梁成らが王城で暮らすようになった尚泰久王即位3年の王城はどんな風であったろうか。「王城はおおむね三重で、外城に倉庫や厩がある。中城には侍衛の軍二百余が居る。内城に二、三の層閣があり、おおよそ勤政殿のようである」…

仮に正殿だけでも、再建するとすれば材料の調達からはじまって、建築・内装の完了までには、3年では到底不可能であろう。しかも「満城」とあれば、その建造物は少なくない数である。

その上、この記録した梁成らは…3年前に大規模な火災があったとしたら、その痕跡を見逃すことはなく、また火災についての伝聞も記したであろうし、何よりも新装成った新正殿であったとすれば、それに言及しないはずはない。正殿は炎上しなかったものと思われる。>

確かに、首里城を再建したとすれば、一大事業であるから、寺院の創建以上にまず記録する事績であろう。



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首里城は炎上したか、その2

府庫の火災も疑わしい

焼けたのは府庫であり、首里城の炎上は、蔡温による脚色である、その府庫の火災も疑わしいという。
  内田晶子・高瀬恭子・池谷望子著『アジアの海の古琉球―東南アジア・朝鮮・中国―』の中の高瀬恭子著「首里城の炎上したか」からの続きである。

<それでは『中山沿革志』のいうように府庫のみであるにせよ火災はあったのだろうか。実はこの「府庫焚焼」も事実かどうかは疑問なのである。「志魯・布里の乱」で述べたように、『中山沿革志』のこの文は『明実録』の景泰52月己亥の条に引用された尚泰久の奏文に依拠している(注は省略)。そしてこの奏文を奉った目的は、明から賜わった鍍金銀印が失われたので、再び賜わりたいということである。


奉神門

                              首里城の奉神門
 
 

鍍金銀印、即ち琉球国中山王の印は、明が琉球国を外藩国として承認し、その国王を封じた証であり、国家の基本に関わる重要な品である。しかもこの印は、明皇帝に奉る表奉文をはじめ、明に提出する正式文書には必須のものであった。

尚泰久が尚金福あるいは尚金福の世子を倒して王位に即いたとしても、その時鍍金銀印を手に入れることができなかったとしたらどうだろうか。洪武161383)年察度の時に与えられ、第一尚氏が察度王統を滅ぼした時にもその王印を入手することで、王位の正統性を明に対して示すことができた王印を、この時入手できなかったとしたら。

おそらくそこで考えられた口実が、府庫焚焼による鎔壊だったのであろう。したがって府庫焚焼自体、極めて疑わしいのだが、その検証は後に廻して、今は蔡温の創作である「満城火起」が絶対に否定されねばならないという点について、更に検証を進めてゆこう。>

 



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