レキオ島唄アッチャー

「志魯・布里の乱」がなかった?、その3

存在感を示していた王弟

兄と甥が争いともに倒れたので、王位が転がり込んできた尚泰久は、なぜか尚金福の在位中からとても存在感を示していたという。内田晶子・高瀬恭子・池谷望子著『アジアの海の古琉球―東南アジア・朝鮮・中国―』の中の高瀬恭子著「『志魯(しろ)・布里(ふり)の乱』とは」から紹介する

 

<ところで、尚金福の在位中の記録に、琉球国で際立った活躍をしている王弟がいる。それは…『朝鮮王朝実録』[72]端宗元(景泰41453)年5月丁卯の条にある。ここで琉球国王使道安は、万年と丁録が臥蛇島に漂着した時(景泰元年)「琉球国の王弟が兵を領して岐浦島(喜界島)を征してこれを見、買(ママ)って国王に献じた」と語っている。

また漂流民は、尚金福に対する冊封使が琉球に来た時、「中山王の弟が軍士を率い、旗・太鼓・雨傘(絹傘をさすか)を備えて郊に出迎し、殿内に入って宴慰した」と述べている。

これらの記事は、軍を掌握し、国家儀礼の先頭に立つ、堂々たる王弟の姿を示している。…

これらの王弟の名は記されていないが、この王弟は尚泰久であったに違いない。明皇帝に奉った奉文に記される王弟布里とは、尚泰久によって創出された人物であろう。>

 

論文は、尚泰久の奏文をもとに記された『明実録』とそれを基にした『中山沿革志』を事実と信じて蔡温が「志魯・布里の乱」を書き加えたものにすぎないとする。

<「志魯・布里の乱」と呼ばれてきたものは、「尚泰久の乱」と呼ばれるべきものであって、尚泰久が倒した相手は、尚金福の世子、もしくは尚金福本人であったと思われる。>

 

尚泰久が尚金福の在位していた当時から、すでに「軍を掌握し、国家儀礼の先頭に立つ」ほどの存在であれば、布里が尚泰久の兄であっても、尚泰久を抜きにして、世子の志魯と争うこともなんかおかしなことだ。しかも、争った二人がともに死去して、傍観していた泰久に王位が転がり込んできたというのも、余りにも出来過ぎた感があることは確かである。実際には、「尚泰久の乱」と呼ばれるべきものだ、という推理はかなれリアリティがありそうだ。

とはいえ、「志魯・布里の乱」といわれるものは存在しなかった、尚泰久の奉文が事実にもとづかない虚構の記述である、という根拠は必ずしも明示されていない。布里が、存在もしない尚泰久が創出した人物に過ぎないということも、根拠は不明である。

布里といえば、その墓が南城市に近くにある。

    布里の墓、「らしいね💛南城市」HP
                    布里の墓(「らしいね♡南城市HPから
「(志魯・布里)
両者とも戦死という説や、布里は生きて城外に逃れたという説もあるが、いずれにしろ尚布里は王座につかず、58歳で亡くなり、第一尚氏発祥の地に近いこの場所に葬られたと伝えられている。」(南城市観光ポータルサイト「らしいね♡南城市HP

この墓の存在はどう考えればよいのだろうか。

「軍を掌握し、国家儀礼の先頭に立つ、堂々たる王弟の姿」は本当に尚泰久であったのだろうか。もしかすると、それは布里だった可能性はないだろうか。「堂々たる王弟の姿」が布里だとすれば、世子の志魯と争ったこともありうる話となる。

この「志魯・布里の乱はなかった」という論考は、どうもこの後「首里城は炎上したか」の項で見る問題とかかわりがあるようだ。尚泰久の上奉文が、他にも王位を継承するために、創作されたとみられる重大な問題があるからだ。次に「首里城は炎上したか」の論考を見ておきたい。



スポンサーサイト
沖縄の歴史 | コメント:0 | トラックバック:0 |

「志魯・布里の乱」がなかった?その2

『中山世鑑』には記述がない

高瀬恭子氏は、汪楫の『中山沿革志』は明宮廷の秘録『明実録』を基にまとめたものだという。

では「志魯・布里の乱」に関する『明実録』の記述はどうなっているのだろうか。内田晶子・高瀬恭子・池谷望子著『アジアの海の古琉球―東南アジア・朝鮮・中国―』の中の高瀬恭子著「『志魯(しろ)・布里(ふり)の乱』とは」から紹介の続きである

 

<琉球国の国事を掌る王弟尚泰久が使を遣わして朝貢した。そして(以下のように)奏した。「長兄の国王金福が薨じ、次兄の布里と姪(甥に同じ)の志魯が争立し、府庫を焚焼し、両人とも傷つきともに死にました。原(もと)賜わった鍍金銀印は鎔壊して無くなって了いました。今、本国の臣民は、国事を権(かり)に行うよう臣(尚泰久)を推しております。鋳して(前のに)換えて、国民を鎮める(印を)賜わらんことを乞います」。所管の役所に命じてこれに支給し、使臣に宴と鈔幣等の物を与えた。>

<『明実録』の記事の大半は、尚泰久が奉った奉文の引用である。「掌国事王弟」と称してはいるものの、琉球国内では既に国王であり、この翌々年には冊封されている。王位継承を巡る内乱における第三者として上奏している尚泰久であるが、実は内訌の当事者であり、まさにその勝者であったという可能性は決して否定できないのである。…

第一尚氏の思紹が武寧を滅ぼし、その世子として武寧の死を報告したり、第二尚氏を開いた金丸が、尚徳の子を殺害して後、尚徳の世子を名乗って請封した場合も同様である。また前述したように、『蔡温本世譜』より古い『世鑑』『蔡鐸本世譜』に、志魯も布里もその名すら記していない。>

 

つまり、この「志魯・布里の乱」を初めて記した『蔡温本世譜』の記述は、もとをたどれば、尚泰久の奉文がもとになっているという。

それにしても不思議なのは、たとえ『中山世鑑』(1650年編纂)が尚泰久の即位より200年ほど後世の編纂で、『蔡鐸本世譜』はさらにその後であるとはいえ、まったく記述がないことである。




    第一尚氏系図
 


 『中山世鑑』の記事から第一尚氏の系譜を図示すると「布里も志魯も出てこない」という。原田禹雄訳注『汪楫 冊封琉球使禄三篇』の「中山沿革志」註によれば、国王初代は尚巴志で、
4代目尚金福は尚巴志の子、5代目尚泰久はその子となっている。

『中山世譜』になると、初代は思紹となり、尚巴志の子として、尚忠、尚金福、布里、尚泰久と並ぶ。布里は尚泰久の兄とされている。

 

王位を巡って尚金福の世子と王の弟、布里が争い、首里城まで焼け落ち、両人とも亡くなり尚泰久が即位したなら、王府にとって特記される重大な出来事である。蔡温が『中山沿革志』をもとにしたとはいえ、その原資料は尚泰久の奉文である。第一尚氏から第二尚氏に王統が替わったにしても、首里王府の中でなぜ歴史として伝承されていなかったのだろうか。

ただし、羽地朝秀編纂の『中山世鑑』は、第二尚氏で輝かしい事績をあげた尚真王について、なぜかほとんど記載せず無視をするという奇妙な編集をしている。だから、必ずしも全般にわたり網羅されてなくても不思議ではないのかもしれない。


沖縄の歴史 | コメント:0 | トラックバック:0 |

「志魯(しろ)・布里(ふり)の乱」がなかった?,その1

第一尚氏の5代目、尚金福が亡くなった時、その後継を世子と王の弟が争った「志魯(しろ)・布里(ふり)の乱」は有名である。だが、「第一尚氏最後の王『中和』」の著者、高瀬恭子氏はこの定説に疑問をていしている。

内田晶子・高瀬恭子・池谷望子著『アジアの海の古琉球―東南アジア・朝鮮・中国―』の中の高瀬恭子著「『志魯(しろ)・布里(ふり)の乱』とは」から紹介する


 「尚泰久の乱」と呼ぶべきもの?
 <第一尚氏第5代国王の尚金福が、景泰4(
1453)年に死去し、世子の志魯が即位しようとした時、尚金福の弟の布里がそれに異を唱え、両者が兵を交えて王位を争い、城は焼け落ち、志魯も布里も共に死に、残った尚金福のもう一人の弟の尚泰久が王位に即いた、という記事が、蔡温重修の『中山世譜』(以下『蔡温本世譜』と略称)に見られ、琉球史では疑う余地のない史実となっている。しかし、これは本当に史実といえるのだろうか。

世に「志魯・布里の乱」と呼ばれるこの内訌は、当時の同時代史料と後世の編纂史料とを厳密に検討した結果では、「尚泰久の乱」と呼ぶべきものと思われる。>

琉球王府の正史である4つの史書のうち、「志魯・布里の乱」について記すのは『蔡温本世譜』と『球陽』で、『蔡温本世譜』よりも前に編まれた『中山世鑑』、蔡鐸重修の『中山世譜』には、「志魯・布里の乱」についてはもちろん、志魯も布里もその名前すら記されていない。


  
尚泰久王の墓
 
              尚泰久の墓
 では何故『蔡温本世譜』に突然この記事が現れたのであろうか、として高瀬氏は以下のようにのべている。

<蔡温自身がその序文に記すところによると、尚敬王冊封のために1719年に来琉した徐葆光から、尚貞王の冊封使汪楫(おうしゅう)が著した『中山沿革志』その他の冊封使録を入手してこれを精読した結果『世鑑』の誤りや欠落を知り、これを正すことを志したという。>

『中山沿革志』を見ると、尚泰久の条の冒頭に次のように記している。

「金福が卒してのち、王の弟の布里は、王の子の志魯と王位を争い、府庫を焼きはらい、双方とも傷ついて、ともに絶命した。賜与された鍍金の銀印もまた溶解してしまった。国の人々は、尚泰久を推挙して、国政を代行させた。



 景泰5年(
1454)泰久はこのことを上奏し、同時に印を鋳造して頒賜されるように願った。所司(注・礼部の鋳印局である)に命じてこれをたまわった。やがてまた、使をつかわして入貢した。その表には『琉球国掌国事王弟尚泰久云々』と自称していた。景帝は命じて、勅と鈔幣(※)とをもってかえらせ王弟にたまわった」(原田禹雄訳注『汪楫 冊封琉球使禄三篇』の「中山沿革志」から)

※鈔(紙幣)と幣(儀礼に用いる絹織物)


沖縄の歴史 | コメント:0 | トラックバック:0 |

第一尚氏の最後の王は尚徳ではない、その4

歪曲された歴史
 中国からの冊封使、
汪楫(おうしゅう)著『中山沿革志』の矛盾した記述について書いた。もっとも『中山沿革志』が出されたのは康熙231684)年だから、尚円即位から200年余りも後になる。

 
高瀬恭子氏は『アジアの海の古琉球―東南アジア・朝鮮・中国―』の論文は次のように述べている。

<『世鑑』以下の琉球国の正史は、すべて17世紀以降に第二尚氏王統の治世の下で書かれたものである。

君主は天の命によってその位に即くが、天の命は人心のおもむくところに従う、という中国の易姓革命思想を受容した琉球においては、正史はその文脈に沿って記される。

第一尚氏王統が天命を失うに足る十分な理由をもって尚徳は描かれ、天命を受けるにふさわしい徳と人望を備えた人物として金丸は讃えられる。

『世鑑』以下が記す尚徳の悪逆非道ぶりや、尚円が王位に推挙されるに至るストーリーは、それを念頭に読まねばならない。


 ところで、正史から中和の存在が抹消されて了ったのは何故であろうか。尚徳在位中から権力闘争が、尚徳死後に顕在化してクーデターとなったものの、のちに正史を編む際に、即位まもない青年国王を廃する正当な理由づけが困難なために、全てを尚徳に帰し、中和の存在は無かったことにしたかったのではないか。そのため、世子は幼く、国王尚徳は年若いことにしたものと思われる。

尚徳が、成化5年4月22日に死去し、その後時を経ず金丸が王位に即した、と記しながら、『世鑑』、両『世譜』、『球陽』などは、すべて尚円の即位年を成化6年としている。これは両『世譜』が通常の新王の即位年を前王の死去の翌年としていること(『世鑑』は年を記さず)を踏襲したものであろうが、この場合は極めて奇妙なことである。両『世譜』ですら武寧の滅んだ永楽4年と同年を思紹の即位年としているのである。尚円の即位年の成化6年は中和を滅ぼした年であり、これこそ語るに落ちたということであろう。>

 

066.jpg

               尚徳王時代に金丸が隠遁していた内間御殿の説明板

 これまで、王位にある尚徳が死去したあと、金丸が推挙され王位に就いたとされていたが、もしかして実際は尚徳が殺されたのかもしれないと勝手に想像を巡らせていたが、中和が王位に就いていたのが事実とすれば、尚徳は殺されたのではないことは確かである。

尚徳が死去したとき、「世子将に立つ。群臣之を殺す。国人金丸を推戴す。君と為す」と正史は記している。しかし、本来、尚徳の死後、中和が16歳で第8代王に即位したのなら、仮に尚徳の治政が悪かったとしても、即位したばかりの中和を「悪逆非道」と非難できない。「幼い」から後継者にふさわしくないとも言えない。高瀬氏の指摘の通り、若い国王を倒す大義名分がない。


 そのために、尚徳の年齢を12歳も若くし、世子も幼い子とすることにより、尚徳による悪政を廃するために、幼子は犠牲にして王位にふさわしい金丸を推挙したという筋書きがつくられたのかもしれない。

このクーデターの正当化のためには、中和の生命を奪っただけではなく、第8代国王としての存在そのものを歴史から抹殺したかったのだろうか。王位に就いた中和王を殺したのが事実なら、尚円の即位も、国王を殺して王位を奪うという血に塗られたクーデターだったことなる。


沖縄の歴史 | コメント:0 | トラックバック:0 |

第一尚氏の最後の王は尚徳ではない、その3

「中和を倒したクーデター」

第一尚氏の最後の国王が、尚徳ではなく、その子の中和が即位していたとすれば、「実際の権力交替はどのように行われたのであろうか」。内田晶子・高瀬恭子・池谷望子著『アジアの海の古琉球―東南アジア・朝鮮・中国―』の中の高瀬恭子著「第一尚氏最後の王『中和』」は、次のようにのべている。



 <尚徳が死去したのは、『世鑑』の記すように、成化
5(注・1469)422日ごろであったと思われるが、尚徳の享年は41であった。直ちに3人の遺子のうち最年長の16歳であった中和が位を継いだ。 

中和は、前述したように朝鮮に遣使したり、明へ父尚徳の名で朝貢使節を送ったりした。父の名を用いたのは、この頃琉球は年に1回もしくは2回の朝貢を行なっていたが、国王の死去した後もその国王の名で朝貢し、1年余りは経って喪が明けてから死去を報告して請封するのが例であったからである。

ところが、成化6年にクーデターは起こった。金丸が王位に即き、中和および2人の弟は殺害され、第一尚氏王統は断絶した。


003.jpg 
             尚徳王御陵跡
           
 このクーデターの時期は、成化6年4月1日より後、9月7日より前、おそらく7、8月頃であったかと思われる。4月1日とは、中和が朝鮮への使者に持たせるべく用意した前述の『歴代宝案』の文書の日付であり、9月7日とは、金丸が尚徳の世子尚円を名乗って明に請封の使者を遣わした際の文書(『歴代宝案』
[23-04][28-04])の日付である。

さてこの請封の際に用いられた2通の文書は、冒頭に明記して派遣の主旨を示す文言が、請封とはなっておらず、「謝恩の為」となっている。中和が謝恩の進貢のために用意していた文書を、クーデターに成功した金丸が急拠用いたのかもしれない。

また尚徳の世子尚円と名乗ったのは、武寧(注・察度王統)を滅ぼして新王朝を建てた思紹(注・尚巴志の父)が、中山王武寧の世子を名乗って請封したのにならったもので、速やかに王位の承認を得たかったためである。金丸にとって自らの体制の確立と権威づけのために、早急に明の冊封を受けることが何より必要だったのである。>

 

改めて、汪楫(おうしゅう)著『中山沿革志』を読んでみた。なんとも奇妙な記述となっている。「成化6年(1470)、尚徳が卒(しゅつ)した。尚円は、みずから世子と称した」と記す。一方で「円は伊平(屋)の人である。…父は里主」とし、「尚徳に不義の行いが多く、国の人たちは、みなそれをうらんでいた。徳が卒したので、円を奉じて王にしようとのぞんだ。円は『(尚徳の)世子がおられるのに、どうしてあえて王位を私できようか』と言ったが、国の人たちは、遂に共に世子を殺した」と記す。「世子を殺した」というのは、重大な事件であるが、その是非は問わない。しかもその上で「父の尚徳の薨去を報じ、王位の継承を願いでた」と書いている。同じ「尚円」の項の中で、まったく矛盾することを平気で記している。

明は、尚徳の死に際して政変があり、世子を殺して、金丸が即位したことが知っていながら、尚徳の世子を名乗る尚円を中山王として認証したということだろうか。


沖縄の歴史 | コメント:0 | トラックバック:0 |

第一尚氏の最後の王は尚徳ではない、その2

禅僧が「今の王の名は中和」と証言

この琉球の正史とは異なる尚徳王とその子どもについて証言は、漂流民の証言だけではない。しかも、尚徳の後継王の名前まで明記された史料がある。高瀬恭子氏は、『アジアの海の古琉球―東南アジア・朝鮮・中国―』の論文で、次のようにのべている。

<肖得誠らの見聞と符合する史料がもう一つ存在する。朝鮮でほぼこの時期に編まれた申叔舟撰『海東諸国紀』の次の記事である。

「成化7(1471)年の冬、琉球国王の使として禅僧の自端西堂が来朝した。自端の言うには、尚巴志より上代はよくわからない。尚は姓で巴志は号、名は億載である。尚金福の名は金皇聖、尚泰久の名は真物という。尚徳の名は大家で、兄弟は無い。今の王の名は中和で、まだ号は無く16歳である。宗姓丹峯殿の主女を娶っている。王弟の名は於思で13歳、次弟は截渓といい10歳である。国王の居るところの地は中山といい、故に中山王と称している、と。」>



 <ところでこの自端が国王の使として琉球を出発したのは、成化6(
1470)年であったようである。即ち肖得誠らが尚徳やその王子たちを見た天順5(1461)年の9年後のことである。

自端の言う16歳の中和、13歳と10歳の2人の弟は、肖得誠らの見た尚徳の4人の子のうちの幼い3人であろう。長子は死没したのであろうか。

この全く関係のない2人、自端と肖得誠の証言に尚徳の複数の子どもたちが登場し、しかも年齢的に整合していることは、その史料の語ることが事実であることを示している。そしてその事実とは、尚徳が天順5(1461)年に33歳で、4人の子があったこと、成化6(1470)年に尚徳は既に死去しており、残された3人の子のうち、年長の中和が新王として即位していた、ということである。

尚徳が成化5年に29歳で死去し、幼い世子1人が残されたという『世鑑』などの記事は、クーデターによって新王統を樹立した第二尚氏が、自らのために都合良く事実を改竄したものであろう。>

 

IMG_4214.jpg 

               首里城の歓會門
  国王の年齢と子どもの数や年齢は、王府の歴史を見る上でとても重要な事柄である。琉球に滞在した朝鮮漂流民の
肖得誠の証言と禅僧の自端西堂の報告で、尚徳王の年齢と子どもの数と年齢が、王府の『中山世鑑』など正史の記述とまったく異なることは、正史記述が疑わしいことを示している。漂流民は証言に際して、なにも偽る必要がないことである。自端の報告は同時代の証言であり、その両者の証言が一致していることは、真実性が高いことを示している。

これまで第一尚氏の8代目「中和」の存在が正当に評価されないばかりか、無視をされてきたのはなぜだろうか。

 

この禅僧の自端西堂らが「琉球国使を騙(かた)る偽使である」という説があるという。自端は日本の禅僧だが、琉球を訪れたところ琉球国王が人物を見込んで、成化3(1467)年に朝鮮に遣使し、成化7(1471)年に再び遣わした。当時、琉球は朝鮮の政情を把握し、交易の実を挙げるための業務は日本人に依存していたという。

「成化6年に尚徳の名で発出された文書も、使者の1人も変更になったものの、自端らはまぎれもない琉球国王使であった」と高瀬氏はのべている。


沖縄の歴史 | コメント:0 | トラックバック:0 |

第一尚氏の最後の王は尚徳ではない、その1

琉球が3つの小国に分かれていた三山時代に琉球を統一した尚巴志が打ち立てた第一尚氏の王統は、第7代の尚徳をもって終わったというのが、琉球史の定説とされる。しかし、どうもそうではない。尚徳の子どもが8代目国王を継いでいたという見解があることを最近知った。

内田晶子・高瀬恭子・池谷望子著『アジアの海の古琉球―東南アジア・朝鮮・中国―』を読んだ。その中で高瀬恭子氏が「第一尚氏最後の王『中和』」と題して論述している。

 著者の3人は、琉球王府時代の外交文書を収録した『歴代宝案』の第1集、『明実録』の琉球国関連史料、『朝鮮王朝実録』のうち中国では明代に当たる部分の琉球国関連史料を、読み下し文とし注解を付して世に送ってきた方々である。

 

朝鮮漂流民の証言
 
  高瀬氏著「第一尚氏最後の王『中和』」から要約して紹介する。

高瀬氏は「尚徳の死後、その第二王子の中和が僅か1年ほどではあったが王位にあった」ということを、同じ時代に書かれた『朝鮮王朝実録』によって検証してゆく。

尚徳は即位の後、君主としての徳を修めず暴虐無道で民をしいたげ、朝貢しなくなった喜界島に親征し、その後驕慢ますます激しく、国政は乱れ、遂に在位9年にして死去した。その時法司(注・三司官)は、残された幼い世子を立てようとしたが、国人が反対し、世子は殺害され、固辞する御鎖側官金丸が推挙され、尚徳の世子尚円として明に請封し、第二尚氏が始まった。

この所伝は、琉球国の正史『中山正鑑』などによるものであり、実際のところは金丸のクーデターであった、というのが現在の定説となっている。



        
001.jpg
                       尚徳王御陵跡(那覇市識名)

 ここで問題としたいのは、尚徳が成化5(
1469)年に死去した時、数えの29歳で、残された1人の幼い世子が殺害されたとする点である。

ちなみに『中山世鑑』は世子の年齢について「世子ハ未ダ十歳ニ満タズ、七八歳ノ間」「幼稚ノ世子」と記し、『蔡鐸本世譜』は「幼稚之世子」を乳母が「擁抱」して逃れたとし、『蔡温本世譜』は「時世子幼冲」で、王妃と乳母が世子を「擁着」して隠れたと記している。


 <ところが、宮古島に漂着して、天順5(
1461)年の4月から7月まで琉球の王宮に留まり、その年の12月に琉球国の使者に伴われて朝鮮に帰国した漂流民肖得誠らは、朝鮮当局の取り調べに際し、次のように述べているのである。

「(一、)国王の年は33歳である。一、国王には子が4人ある。長子は15ばかりで、ほかは皆幼い。長子の外出の際は、軍士十余人がつき従う。王子たちは国王とは共に住まず、別の所に居る」。

漂流民の滞在した天順5(1461)年は、『世鑑』などに、21歳で尚徳が即位したと記されている年で、漂流民の供述とは大きく異なっている。



 同じ取り調べの中で肖得誠らは、王宮の南の回廊わきの部屋に住み、日々国王のお目通りを賜わり、手厚い供応を受けていた、と述べている。つまり彼らは王宮で、つぶさに国王を実見する機会を持っていたのである。国王と王子たちについて彼らの語るところをもう少し辿ってみよう。

「国王が現在居住する宮城の南に旧宮がある。その層閣や城郭のさまは、普段住んでいる宮と同じである。時々往来し、23日あるいは45日、旧宮に逗留する。国王が外出する時は、軍士役300余人が甲(よろい)を付け騎馬で侍衛する。手にする武器は、弓矢や槍や剣で、鉤(かぎ)のような形のものもある。軍士らは国王の前後に列をなしてゆく。国王はある時は轎(かご)に乗り、ある時は馬に乗る。侍衛の軍士は歌を唄うが,その節廻しは朝鮮の農民が歌う俗謡のようである。年少の3人の王子は前方を、長子は後方から国王に付き従う」。>

 

これまで『中山世鑑』では、尚徳が21歳で即位し、死去したのは数え29歳で、残された子は1人で10歳未満の幼い子だったとされてきたが、尚徳即位の1461年、琉球に滞在した朝鮮漂流民の肖得誠が帰国した際の取り調べで、尚徳は33歳で、子どもは15歳くらいの長子ほか4人いたと証言している。尚徳の年齢が12歳も差があり、子どもの年齢、数もまったく食い違っている。これは何を意味するのだろうか。

高瀬氏は「その記述のうちの幾つかは、のちの第二尚氏時代の王府の記録である『琉球国由来記』や16世紀以降の冊封使の記録とも一致し、漂流民の見聞の信憑性を証している」とする。









沖縄の歴史 | コメント:0 | トラックバック:0 |

仲尾次家の歩み

仲尾次家の「系統の歩み」を比嘉朝進著『士族門中家譜』から紹介する。

 <1世思嘉那
 1782年、台風や干ばつで上納米が欠乏、国庫の銀子が不足し、王子らが薩摩へ赴く旅費に支障をきたした。思嘉那(68歳)は銅銭16万貫文(かんもん)をもって国用に応じた。尚穆(ぼく)王は志を褒め、新家譜を与えた。
 また、1789年、徳川家斉就位に慶賀使者(96人)を遣わす費用が足りず、再び銅銭18万貫文を献じて国用に備えた。これで譜代(元来の士)に引き立てられた。享年77歳。>
 省略
 <5世 仲尾次親雲上政隆
 今帰仁間切中城地頭、那覇総横目(目付)、那覇船改め奉行(検査長)。1825年の干ばつで餓死者が続出。3千貫文を寄付し、1838年尚育王即位には国費不足のところ、銀1万貫文を無利息で貸与した。
 家譜は1854年で途切れているが、実は禁令の一向宗信者ということで、石垣島へ流罪となった。島では、台風でこわれた宮良橋(橋長50m)を私費を投じて再建。地元役人一同の放免嘆願書が王府を動かして放免。>

 仲尾次家は、干ばつによる飢饉の際や国庫の銀子不足、大和への旅費の不足などの際に、資金を寄付したり、無利息で貸与するなどした。
 本来は百姓(平民)は系図を持たない無系であるが、王府から家譜を与えられ、さらに譜代(元来の士)に引き立てられたという。

 政隆の先祖は、薩摩からきた中村宇兵衛だというが、宇兵衛もそのスーツは京都にあるという。「東本願寺沖縄別院」HPから紹介する。
 <(政隆は)那覇泉崎に生まれる。その先祖は、京都から薩摩の久志浦に移住したといわれ、代々真宗の門徒であった。4代前の中村宇兵衛が薩摩から琉球に移り住み、琉球の妻との聞に5男をもうけ、その長子が仲尾次家を称した。政隆は若くして官職につき、大和横目、那覇総横目などの要職を歴任している。そして官職の身でありながら、当時琉球で禁制となっていた真宗をひそかに信仰していた。さらに政隆は自身の信仰だけに留まらず、念仏講を結成し那覇の遊郭で遊女たちを中心に積極的に布教活動に取組んだ。
 しかし、信者が増え次第に人目につくようになり、1853年政敵によって密告され、信徒らとともに拘留され取調べをうける。結果、政隆は八重山へ無期の流刑、他の信徒もそれぞれ処罰された。配流地の石垣島では、流人の身で宮良橋を再建し、その功により赦免され11 年ぶりに那覇に帰された。享年62歳。伊波普猷(いはふゆう)は、その著書のなかで「仲尾次政隆は近代沖縄の宗教的偉人」 (『浄土真宗沖縄開教前史ー仲尾次政隆と其背景』より)と評している>。
 これによると、京都から薩摩に移り住んだ先祖は、代々真宗の門徒だったという。政隆が浄土真宗の門徒だったというのは、偶然のことではなく、先祖からの長い系譜があったことがうかがえる。

 八重山民謡で歌われた仲尾次政隆について見てきたが、政隆という人物像だけでなく、彼の家系から、当時の時代背景とさまざまな事情がわかってとても興味が尽きない。
 終わり
沖縄の歴史 | コメント:0 | トラックバック:0 |

按司には二通りの意味がある、その4

 古代部落マキョから、中世農村部落への変化――佐敷間切に見る
 稲村賢敷氏は、沖縄への鍛冶と鉄器の伝来は農耕業の発達を促し、社会の富が著しく増大するようになった。そして古代社会が、比較的急速に中世的農耕社会へと発達するようになると、新しい社会の支配者として、按司という勢力が現われたとのべている。
 その具体例の一つとして、尚思紹一党が根拠地とした佐敷間切(現南城市)の歴史的な変化を考察している。

 アツメクダと按司の支配
 <尚思紹一党の人々は伊是名島から移って、この豊穣なる佐敷平野に彼等の根拠地を定めるようになると、先ず最初に南方丘陵上にある古代部落マキョに居住する人びとを麓の平野に移して農耕民として定住させ、平地の開拓に当らしめて富国の方策を講ずることから始めたのではなかろうか。…
 尚思紹一党の人々に就いては、前項手登根の大比屋に就いて述べたように、日琉支(日本・琉球・中国)の間に交通、貿易して物資の交流に携わっていた人々であるから、古代部落マキョの居住者に農耕に必要なる器具を給与して、山麓にある広い平地の開拓に当らしめる。則ち原始社会から中世農耕社会への変化があったのではなかろうか。
 これは唯に与那嶺村のアツメクダ則ち古代部落の統合ばかりではない。佐敷地方に於いても、イズミクダの居住者は是を麓の平地に移して農耕民として生産業に従事せしめると共に、その古代部落の原位置は山上に在って要害の地であり、且つイズミクダという名称に依っても知られるように、水利にも恵まれた所であるために、此処に佐敷城を築いて彼等の根拠地としたものであろう。…
 注1・沖縄一千年史には手登根の大比屋は佐銘川大主の子にして、支那(中国)交通の功労者として歌われし人なり。
 注2・アツメクダとは、数個の古代部落クダを一つに纏めたという意味をもつもの。>
               佐敷グスク跡
佐敷グスク跡
 佐銘川大主は伊平屋島を逃れて佐敷に来て、大城按司の娘と結婚した。その息子が、尚思紹である。手登根の大比屋も佐銘川大主の子となれば、尚思紹とは兄弟となる。
 手登根の大比屋は、尚巴志にとっては叔父にあたる。日本・琉球・中国の間で交貿に携わっていたとすれば、尚巴志がヤマトから鉄器を買い領民に与え たという伝承の背景も、この手登根の大比屋が関わっていたのだろうか。


 <こうした佐敷地方に於ける、古代部落マキョから、中世農村部落への発達は、尚思紹一党の人々がこの地に彼等の根拠地を定めたことと密接な関係があるものと思われる。こうして尚思紹は此の地方で苗代大比屋(なえしろうぷひや)として尊敬された。大比屋は由来記に大ヒヤとも記されていて、古代部落の後期頃、マキョを代表した人物の称号として多く記されている名称である。…
 尚思紹の子尚巴志は始めて佐敷按司と称した人であって、是の頃から東部島尻に於ける尚巴志一党の勢力が強大になったように思われる。
 尚思紹から、その子尚巴志に至る頃(14世紀後半から15世紀の初め迄)、日本では足利義満が金閣を造営して栄華を極めた頃で、茶の湯の流行にともなって青磁類が珍重された。義満は又琉球に対する関心も深く、兵庫には琉球奉行を置いて琉球貿易を管理させた。こうした当時の日琉間に於ける貿易と、琉球の各地の遺跡から出土する多量の青磁磁片とを関係づけて考えるならば、当時日流支間に於いて物資の交流が盛んに行なわれていた事を知ることが出来よう。

 これはまた、沖縄側としては、鉄製器具の輸入であって、農耕のために必要なる鉄製の農機具が汎く普及するようになって、これまでマキョと称する血族部落内で、狩猟、漁猟を主として生活していた人々は、かなり急速に原始社会から農耕社会へと発達を遂げるようになり又一面に於いては武器の輸入又は製作もあって、これ迄各地に割拠していた弱小勢力は次第に強大なる勢力に合併されて、尚巴志の三山統一が割合に早く完成したのである。
 こうした佐敷半島内に於いて起った、古代社会から中世農耕社会への変化は、大小遅速の相違は地方に依っていろいろあったものと思われるが、沖縄本島内の他の地方に於いても起ったものと思われる(『沖縄の古代部落マキョの研究』)。>

  これらを見ると、尚巴志が佐敷で勢力を伸長した背景に、中国や大和との交易、鉄製農具や武器の輸入や製作、農耕社会の急速な発展などがあったことがうかがえる。

追記
 鍛冶の伝来と按司
 これまで紹介したことと重なる部分もあるが、稲村賢敷氏は、沖縄への鍛冶の伝来と按司の出現の関係についてのべている。その部分をついでに紹介しておく。 
 <鍛冶の渡来は農耕業の発達となり社会の富が著しく増大するようになった。こうして沖縄に於ける原始社会が、比較的急速に中世的農耕社会として発達するようになると、この新しい社会の支配者として、按司という勢力が現われて、古代部落のマキョの中にも次第に浸透していったようである。…
 古代部落マキョの生活は、その名称マキョにも示されているように血統を同じくする人々に依って出来た血族部落の生活である。マキョ又はマキウは、真人(マキウ)であって「まひと」とも称し、同一血統の出身者であるという意味である。従って其の組織又は支配する力となったものは血統であって、一族の始祖又はその継承者がこの同族部落の中心となって是を指導し、支配した。是を一般に根神(ネガミ)と称している。そしてこの血統部落は前に調べた通り、多くは山上にある狭隘なる地に設けられ、居住者は狩猟、漁猟が主な生業であったから、後世見られるような物質力を背景とする按司が現われる社会までには至らなかったのである(『沖縄の古代部落マキョの研究』)。>
 終わり
 

沖縄の歴史 | コメント:0 | トラックバック:0 |

按司には二通りの意味がある、その3

  按司の名称の由来
 稲村賢敷氏は、さらに按司の名称のもともとの由来についても考察している。
<沖縄諸島住民の始祖が、悠久の昔、この島々に来て居住した時、同一血族の人々だけで部落を作って生活した、というよりも寧ろ一人の母性から生まれ、そして育てられた人々が、マキョ又はコダと称する同族部落を作って生活した、是等の部落の中では「イチフク(一腹)マク」と称する部落の名称も、今まで残っている所もある。是うした部落では始祖又は其の継承者は絶対的権力者であって生んで下さった始祖は、生命の主(ヌシ又はアルズ)という意味で、マキョの居住者は是の絶対者に対して「アルズ」則ち所有者又は主人という意味の名称で呼んだものと思われる。基督教徒が教祖キリストに対して「吾が主」と称するのと、略近い意味を持った言葉であって、「アルズ」は後に詰まって「アズ」と称するようになったが、是が氏族の始祖に対する按司(アズ)神という称号の始めの意味でもあると私は考えている。>

 稲村氏は、もともと按司(アズ)という言葉の意味は「アルズ」であって、同族部落マキョの始祖に対する名称として起こったものだと見る。
  しかし、その後の社会の発達の中で按司の意味、支配者の名称も変容するようになる。
 <後に13世紀の中頃、牧港附近に伊祖の「てだ」と称する勢力が起こった。この地方は早くから海外との交通が開けていて、金属器具も他の地方より早く伝来し、従って農耕社会の発達も早かった。この伊祖のてだの勢力も始めは同族部落の支配者として起こったものであろうと思うが、他の地方よりも早く農耕社会が発達したために、その勢力は強大となり、遂に近隣の諸部落をも兼併して大きくなった事と思われる。オモロ歌謡の中に、それを思せるものが2、3ある。
             伊祖城跡、うらそえナビから
                  伊祖城跡(「うらそえナビ」HPから)
 オモロ15巻ノ15
一、ゐそゐその、いしぐすく あまみきょの、たくだる、ぐすく、
又、ゐそゐその、かなぐすく、
 大意 伊祖の城は、アマミキョが造った勝れた城であるよ、という讃辞である。
 註 伊祖の城は牧港の南にある丘上にある城で、その南麓には浦添村伊祖の部落がある。城壁や後方にある物見台の築造に当っては、金属器具が使用された事は明らかで、伊祖のかなぐすくという名称も生じたものであろう。

 オモロ15巻ノ16
一、ゐそゐその、いしぐすく、 いよやに、おそて、ちょわれ
又、ゐそゐその、かなぐすく
 大意 伊祖の御城よ、弥々広く、長く支配して下さるようにとの意

 この「いよやに、おそて、ちょわれ」という言葉の意味は、血族部落の「主(アルズ)」が、その血族門中の者を率いる意味とは少し違うように思われる。この襲(おそ)いが次第に広く強くなって、浦襲(うらおそ)いとなり、百浦襲(ものうらおそ)いとなる。この「おそてちょわれ」という言葉には、血族部落の線を越えて、同一血族ではない近隣の多くの部落までも支配するようになった勢力が歌われているように思われる。

 然し是の伊祖の勢力に対しては「ゐそのてだ」と称していて、按司とは称しなかったのである。是は当時各地に血族の者だけの部落マキョが多く、その支配者は「アズ」と称していた為に、数個の血族部落を兼併して、広い地方に亘って領有していた支配者に対しては、アズの上のアズであって、是を「てだ」と称したものと思われる。この「てだ」の称号は太陽(日神)を意味し、太陽のように、広汎なる地方を支配する勢力に対する名称であって、血族部落の線を越えて他の血族をも兼併する支配者の意で、王に先行する称号である。後暫くすると各地に是の伊祖のてだと同じく、血族部落を兼併して広い地方を支配する勢力が数ヵ所に現れるようになり、「てだ(日神)」という称号は適当でないので、血族部落の支配者に対する按司という名称が、この新興勢力に対して通用するようになり、今帰仁按司、大里按司、勝連按司等の称号が称せられるようになったものであろうか。
         島添大里按司の墓、計画書
        島添大里按司の墓(南城市教育委員会「島添大里城跡保存管理計画書」から)
 則ち按司(アズ)という言葉の意味は「アルズ」であって、同族部落マキョの始祖に対する名称として起こったものであるが、後に古代史の末頃になって、金属器具の使用が次第に普及するようになり、農耕社会が発達するようになって、武力に依る支配者が各地方に現れるようになると、この新興勢力の支配者に対しても按司(アズ)という名称が使用されるようになったと私は解釈しているのである。>

  稲村氏は、農耕社会が発達するなかで、いくつかの「血族部落を兼併して広い地方を支配する勢力が数ヵ所に現れる」ようになり、「血族部落の支配者に対する按司という名称が、この新興勢力に対して通用する」ようになったとのべている。
按司の語源については、歴史家の比嘉春潮氏も同様の見解だという。
<比嘉春潮氏の著書「沖縄の歴史」にも、按司の語源は「アルズ」であるという事が述べられている。私もこの説に同意する。
 そして是の名称の起源に就いては、古代血族部落マキョの始祖に対して、マキョの総ての物が所有者であるという意味で、アルズ、又はウプアルズと称した事が始めであり、詰まってアズ、又はアズ神と称するようになり、中世以後武力を以て城廓を築き、住民を支配するようになって権力者に対しても、絶対的支配者の意味で按司という名称が使用されたものであろうと思われる。>

  稲村氏は、著書の最後のところで、按司の語源と変容について、次のようにまとめてのべている。
 <沖縄のマキョと称する血族の集団社会、それは私が本書に於いて沖縄島の各地に亘って調査した結果について述べたように狩猟、漁猟の自然の恩恵に依って生活していた社会であって、血族の宗家を中心として血族部落をつくり、其の宗家の継承者は根神(ネガミ)と称してマキョの始祖の母権を継承して絶対的の権威を以てマキョを指導していた。この根神のことを「ウプアルズ」又詰まって「アズ(按司)」と称したのであるが、マキョの後期になって新興勢力として、血族関係とは別の生産器具又は武力を有する勢力が興ってマキョを兼併して次第に強大なる勢力をつくるようになって、血族部落の根神に対する称号であったアズ(按司)という名称も、次第にこの新興勢力の首領に対する名称として使用されるようになり、原義の意味は次第に忘れられて、この第二次的の名称として固定して、アヂ(按司)といえば領主の事であるとして名称の意味が固定したように考えられる(『沖縄の古代部落マキョの研究』)。>

 稲村氏の見解について、他の歴史家の評価がどうなのかは知らないが、この見解によって、琉球の歴史の上での按司の由来と意味、その役割、領主ではない場合にもその名称使われることの説明としてとても説得力があると思う。

沖縄の歴史 | コメント:0 | トラックバック:0 |
| ホーム |次のページ>>