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レキオ島唄アッチャー

『ジョン万次郎琉球上陸物語』はどのようにして生まれたのか、その2

 琉球王府の古文書を探して
 和田さん、宮城さんは、土佐人漂着のことを記した琉球王府の古文書があることを聞き、 沖縄県立図書館に駆け付けた。そこで対応してくれたのが万次郎ファンだという職員だっ た。「その史料はこちらにはないです。琉球大学にあります」と教えてくれた。2 人は、琉 球大学図書館に向かった。ここで上陸記録が記載されている「尚家文書」(尚家継承古文書) と呼ばれる古文書を見つけることができた。当然、楷書や活字ではない。達筆な毛筆で記されており、漢文や毛筆文を読みこなす素養はない。だが、見つけてコピーした文書「尚家文書492号」は、土佐人漂着についての記録であった。中国の大清咸豊元年、日本では嘉永4年(1851)正月3日付の文書など古記録を入手した。問題はその解読である。
       IMG_5428_202206152233063a9.jpg
           大度海岸のサシチン浜に上陸した万次郎ら(上陸記念碑のイラストから) 

 和田さんは、知人で高知ジョン会事務局長をしていた高知市在住のS氏に LINE で 送付して、解読を依頼した。すると、活字化して現代語に訳して送り返してくれた。 このなかに、正月3日付で、上陸した万次郎が最初に連れていかれた摩文仁間切(まぶにまぎり)の番所役人3人から首里王府への報告文書がある。そこには「本日午後2時頃、乗員3人の異国の伝馬船(ボート)一艘が当間切の小渡浜に漂着したので経緯を尋ねたところ、 やまとの言葉で『我々は土佐国の者で、昨日午後2時頃に外国船からボートを卸して到着した』というおおよそは了解できました。まず早急にこの件を報告します」(引用は栗野慎一 郎訳から)と記されていた。
 ここで厄介な問題があった。それは、「本日午後2時頃」という記述である。午後2時に 上陸したという意味なのだろうか。いや、それはあり得ない。朝の上陸であるはずだ。仮に、 「本日午後2時頃」という言葉が、漂着時間であるなら「漂着した。」で区切られていなけ ればならない。しかし、文章は区切りなしに「漂着したので経過を尋ねた…」と続く。そして最後に「まず早急に報告します」という文章につながっている。つまり、「午後2時」 は漂着時間ではなく、「午後2時」に「報告します」という王府への報告時間ではないかと読み取れる。
 そこで、古文書の解読に詳しい、浦添市立図書館沖縄学研究室嘱託で歴史家K氏を訪問した。栗野氏は、早くから尚家文書に「土佐人漂着日記」と呼ばれる文書が存在することに注目していた。数年前からこれら尚家文書を研究し、翻刻作業や研究成果を沖縄ジョン万次郎会で報告しておられた。 和田さん、宮城さんは、K氏を再三訪れて「土佐人漂着日記」の翻刻状況など伺うとともに、入手した尚家文書をどう読めばよいのか、その解釈を尋ねた。 すると、K氏も午後2時が、漂着時間ではなく、報告時間を意味するという理解であった。いよいよ、万次郎らの上陸は午後2時ではなく、朝であることを確信した。二人は、沖縄の海上保安庁を訪ねて、万次郎上陸当時の潮の満ち引きの時間など確認した。
   
   「上陸は午前8時」と長崎奉行所文書に明記
 一方、和田さんが投げかけた上陸時間の疑問を聞いた沢村は、自分でもまずは万次郎ら を取り調べした薩摩、長崎、土佐の古記録にあたってみる必要があると考え、これらの古文書を収録 した『中浜万次郎集成』を借り出して改めて詳細に読み調べてみた。 そこで確認したのは、万次郎らは薩摩、長崎、土佐のいずれの取り調べの際にも、上陸し たのは「朝」であることを共通して証言していた。一方、取り調べ記録には、「午後上陸」とか「八ツ時上陸」(午後2時)という証言はまったくない。そればかりか、長崎奉行牧志摩守取調記録(上)は「翌三日明ケ方風雨静ニ相成、同所濱邉ニ人家相見、朝五ツ時頃漕付上陸いたし候處」と記していた。つまり、3日朝風も静かになり、浜辺に人家を見つけたので、朝「五ツ時頃(午前8時)漕ぎつけ上陸した」と上陸時間を明確にのべていた。これによって、いくら古文書が写本であっても、すべての古文書の証言が朝の上陸と明記していることは、真実の記録であることが裏付けられた。 和田さんに長崎奉行所の「五ツ時(午前8時)上陸」と明記した文書をLINEで送ると、 「これだ!これを探していた。やっぱり自分が主張した朝の上陸が正しいことがはっきりした」と手をたたいて喜んだ。
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『ジョン万次郎琉球上陸物語』はどのようにして生まれたのか、その1

 なかみや梁(本名・宮城稔)著『ジョン万次郎琉球上陸物語』が2022年3月10日、 東京の冨山房インターナショナルから出版された。 万次郎が14歳で出漁して遭難。無人島に漂着した後、米国の捕鯨船に救助されて、日本人として初めてアメリカに渡り、1851年、10年ぶりに帰国の途に着いた。漁師仲間と3人で最初に上陸したのが琉球の現在糸満市の大度海岸だった。現豊見城市翁長で半年間過ごし、薩摩、長崎を経て52年、土佐に帰り着いた。
 万次郎についてその生涯を描いた伝記、万次郎の功績などについての著作はたくさん出 版されている。沖縄でも島袋良徳氏、長田亮一氏らが万次郎の生涯を描いている。ただ琉球 での半年間に焦点を当てて、その行動や心情を、大胆な推理を交えて描いた感動の物語は、 なかみや氏の作品が初めてである。
               ジョン万次郎琉球上陸物語写真
    

 この著作が出版に至るまでには、奇跡的なストーリーがあり、それ自体が一遍のドラマ である。あたかも万次郎がグソー(天国)で応援してくれていたのではないかと思われるほ どであった。
 糸満市では2018年2月、万次郎の上陸記念碑を大度海岸に建立しよう永年の願望と 運動が実り、土佐の方角を指さした万次郎の銅像が建立された。台座には万次郎の漂流から 琉球上陸までの経過をわかりやすいイラストで描いた説明板が取り付けられた立派な記念碑である。
  
 この運動を牽引してきたのが、高知出身で糸満市在住の和田達雄氏だった。現在、琉球万次郎会副会長である。当初、万次郎について一応の知識は持っていたが、2011年、東京 から糸満市米須に移住して、ある人からの紹介で島袋良徳氏の『ジョン万次郎物語』を読ん で、改めて万次郎の先駆性や偉大さ知り、「郷里高知の出身でこんなすごい人がいたんだ」 と感銘を受けた。和田氏は、沖縄の復帰前から通信機器の販売の仕事で那覇市に赴任していた。沖縄で知り合ったのが宮城稔さんである。それ以来友人として付き合ってきた仲である。 宮城さんは、文学愛好家が集う「南涛文学会」のメンバーとして、同人誌「南涛文学」で 「山北の賦」「ヤードゥイ村」「落城」「平敷屋朝敏物語」など小説や戯曲を数多く発表して きた。「ノブちゃんのひとり旅」で第39回琉球新報短編小説賞佳作。2020年には「ばばこの蜜蜂」で「沖縄タイムス」の沖縄新文学賞を受賞してきた。とくに歴史に題材をとった作品を好んでいた。
 和田氏は、古い友人の宮城さんに対して、万次郎の琉球上陸と滞在について、小説で書けないだろうか、と打診した。それは8年ほど前になる。 宮城氏は、「万次郎が琉球に上陸したとしても、半年間、豊見城市翁長の高安家で囲われて暮らしただけで何も行動を起こしたわけではなく、史料も乏しいなかで、とても小説にはならないよ」 と断っていた。
そんな宮城さんが、万次郎の小説を書く創作意欲がわいてくるのには、そのきっかけと条 件を必要としていた。

 はじまりは万次郎の上陸時間への疑問
 和田氏は、上陸記念碑の建立をすすめる過程で、一つの疑問が生まれた。それは、万次郎ら3人が琉球の大度海岸、当時の小渡浜に漂着して上陸した時間である。1851年旧暦1月3日の朝のはずだが、朝ではなく午後2時頃だとする説が権威を持ち、定説化されつ つあった。というのも、万次郎の3代目にあたる中浜明氏は、薩摩や長崎、土佐での万次郎 取り調べ記録では、3日朝上陸したと記載されていたので、それに沿って記述していた。
          IMG_5442_20220622151837c83.jpg
           ジョン万次郎上陸記念碑前に立つ和田達雄さん
 と ころが、万次郎4代目にあたる中濱博氏は、取り調べ記録は写本であり、そのまま信用でき ないとして、独自に当時の船の入港記録、海岸に広がるサンゴの岩礁、上陸時の潮の満ち引きなどを検証した結果、大度海岸は岩礁が広がり干潮でなければ上陸できない、当時の潮の満ち引きは3日朝は満潮であり上陸できない。干潮時間は午後2時であるとして、朝上陸説を訂正し、午後2時上陸と記述した。『中浜万次郎集成』を編集し、みずから執筆もした万次 郎研究者の川澄哲夫氏も、博氏と同様の見解を表明した。沖縄県内の研究者の間でも、午後 2 時上陸説が研究成果として影響力を持ってきた。
 しかも、偶然にも万次郎の漂着時の対応など記録した琉球王府の古文書でも、「午後 2 時に、小渡浜に漂着したので経過を聞いた…王府に連絡する」という意味の記述があり、表面的に読むと、あたかも午後 2 時に上陸したかのように解釈できる。そのため、中濱博氏らは、この文書の記録を万次郎らの上陸は午後 2 時であるという見解を裏付ける証拠として採用してきた。
 和田さんが疑問に思ったのは、若い時から大度海岸に行き海によく潜っていた。移住してきたのが大度海岸に近い米須であり、この海岸の状況と潮の満ち引きなど知り尽くしていた。その経験から、岩礁が広がる大度海岸(小渡浜)は、干潮時にはボートで上陸地点のサシチン浜に漕ぎつけることはできない。満潮時こそボートで漕ぎつけることができる。 万次郎らの上陸は 3 日朝でなければおかしい。午後 2 時の上陸はありえないのではないか。
 
 また、万次郎らが上陸後、摩文仁間切(まぶにまぎり、今の町村にあたる)の番所に行き、調べを受けて那覇に向けて出発したのは午後4 時である。言葉も不自由ななかで、事情を聴取し、持っていた70余点にのぼる持ち物を記録し、食事もして、わずか 2 時間で出発することはとても無理である。この点からも朝に上陸 していたとみるべきだと考えた。
 この上陸時間についての疑問は、私も和田さんから聞かされた。だが、当初はそれほどこだわる問題なのか、と軽く思っていた。しかし、万次郎らが10年ぶりに帰国して、海外事情や技術の進歩などにとどまらず、当時、世界でも最先端のアメリカンデモクラシーの思想 と政治制度を、当時の封建的な幕府による支配下、外国との窓を閉ざす鎖国日本に持ち帰ったことは、当時の幕末の志士たちに大きなインパクトを与え、その後の日本の開国、明治維新、さらには自由民権運動にまで影響を与えたことを考えれば、琉球の大度海岸への一歩は、新しい日本へ向かった歴史的な一歩である。その一歩を正確にすることは、とても意義のあることだと考えるに至った。
   続く



 

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元が来襲した瑠求は沖縄か、その10

 布甲があった琉求はどこか
 問題は、隋の朱寛が訪れて「布甲」を持ち帰ったという「琉求」とは、台湾か沖縄かである。「布甲」はそれを考える材料を提供している。
 南西諸島は、屋久島から琉球列島まで、島々がつらなり、古代からさまざまな交流があったと見られる。
<倭はゴホウラガイやイモガイなどの貝殻を盛んに南西諸島に求めたが、従来、その「貝の道」は7 世紀ごろに衰退したのではないかといわれていた。しかし、7 世紀にはゴホウラガイ・イモガイにかわってヤコウガイが「貝の道」の主役となっていった可能性が浮上してきたのである。(田中史生氏論文)>

 「夷邪久」の布甲が琉求にあったことは、やはり交易があったことを物語っている。
 ただことはそれほど単純ではない。『隋書』の「夷邪久国」(「掖玖」)はどこの島なのかについて、屋久島で確定しているわけではない。これがどの島なのかによって、「流求」との関係もまた変わってくる。
 7世紀当時、南西諸島の情報が中国や倭国(日本)にどれほど伝わっていたのだろうか。遣隋使が派遣されていたことからも、両国にもそれなりの認識があっただろう。でも、南西諸島の個々の島の実情について詳細な認識があったとは思えない。
 <この時代は前掲の『隋書』の例のとおり琉球弧から台湾に至るまで未開の先史時代であるうえ、日本・中国いずれからも文献のみに表れた絶海の辺境の地であった。古代から日本と関係の深かった多禰(種子島屋久島)は別として特定の島に同定する事は困難を伴う。そのような前提の上で、例えば「夷邪久」は屋久島の事とも、南島全般を指すともされるし、また掖玖に複数の漢字が当てられており、古代日本で琉球弧全般の交易品である「ヤコウ貝」のことを「ヤク貝」と後世に読んでいる事から、初めは掖玖(ヤク)が必ずしも特定の島の事ではなく複数の島々あるいは南島全般を指す言葉として用いられたとも考えられる。奄美(アマミ)に関しても、「あまみ」に複数の漢字が当てられている記載があることから、同様の事が言える。(ウィキペディア)>
 7世紀から300年近く続いた唐の歴史書である『新唐書』東夷伝日本には,「其の東海島中に又、邪古・波邪・多尼の三小王有」とある。この地名は、屋久島、隼人国、種子島などを想起させる。琉球列島と見られる記述はない。
<『続日本紀』には、698年(文武天皇2年)に朝廷の命により、務広弐文忌寸博士が南島(なんとう)(原文表記は南嶋)に派遣されたとある。このときの文忌寸博士の任務は掖玖、多褹、菴美の朝貢関係を確認することにあり、699年(文武天皇3年)に多褹・掖玖・菴美・度感など島々から朝廷に来貢があり位階を授けたと記載がある。南島の献上宝物を伊勢神宮および諸神社に奉納したとの記載もある。また、これ以降、朝廷は多褹に国司を派遣するとともに、球美や信覚にも服属を求める使者を派遣している。(ウィキペディア)>
    南西諸島
      南西諸島
 多褹(種子島)が名前がよく登場するが、「古代においては、事実大隅諸島の中心は種子島であった」「種子島は、南海交易の一つのセンターとして、古代交易者たちが活発に出入りする場所であった」(布施克彦著『海の古代史―幻の古代交易者を追って』)との見方がある。 
 沖縄と見られる地名が『続日本紀』に初めて登場するのは和銅7(714)年12月の条である。
 「和銅七年(七一四)十二月戊午(甲寅朔五)》十二月戊午。少初位下太朝臣遠建治等、率南嶋奄美・信覚及球美等嶋人五十二人。至自南嶋。」
 太朝臣遠建治らが、奄美・信覚・球美などの島民52人を率いて南島から来朝したとある
 信覚は、現在の石垣島、球美は現在の久米島と見られる。
 
 霊亀1年(715)1月には、南島から来朝し方物を貢いだとある。
 「霊亀元年(七一五)正月甲申朔 霊亀元年春正月甲申朔。天皇御大極殿受朝。皇太子始加礼服拝朝。陸奥・出羽蝦夷并南嶋奄美。夜久。度感。信覚。球美等、来朝。各貢方物。其儀。朱雀門左右。陣列皷吹・騎兵。元会之日。用鉦鼓、自是始矣。是日。東方慶雲見。遠江国献白狐。丹波国献白鴿。」
 <715年(元明天皇霊亀元年)には南島奄美・夜久・度感・信覚・球美等から来朝し方物を貢上したという記載があり、このとき、天皇は大極殿(平城京)で正月の朝賀を受けられ、皇太子が礼服を着して拝朝を行い、朱雀門で鉦鼓と笛で騎兵が左右に整列して陣し朝賀の儀を行ったと記載がある。このとき蝦夷の人々も来朝し、蝦夷と南島の人々に位階を授けたとある。他にも720年(元正天皇養老4年)に南島人232人に位を授け、また727年(聖武天皇神亀4年)に南島人132人に位階を授けた、などの記載がある。(ウィキペディア)>
 
 このなかで、信覚、球美のほかの地名は、種子島屋久島・奄美大島・徳之島に当たるとされるが、「度感」を吐噶喇列島と見る説もある。
 ここで「方物を貢上」という記述も注目される。「朝貢する物品の徴発と運搬は、それを可能とする社会組織が生成されていなければ不可能」であり、8世紀の南島社会は、「地域によっては原始(平等)社会を脱し、階級社会以前の階層社会へ以降する段階にあったのではないか」という見解を鈴木靖民氏はのべている(山里純一著『古代日本と南島の交流』)
 大和朝廷が南島への使節派遣や南島からの来朝など南島との関係をきずいたのは、遣唐使の派遣との関わりがあるという。
 「文武2年(698)頃には大宝律令完成を契機とした遣唐使の派遣は当然政治日程にのぼっていたとみられる。大宝の遣唐使は、  従来の新羅を経由した航路をとらず、南島を経由する新航路で入唐する初の試みが検討されていた。そのためには南島の島々に寄港できるよう万全の対策をとっておく必要があった」(山里著書)
 一つ不思議なのは、古代の石垣島は、沖縄本島や宮古島より文化的には未発達だったといわれるのに、石垣島、久米島が沖縄本島を差し置いて、先に大和朝廷に方物を貢上するということは、ありえるだろうか。発音的には、石垣島や久米島と似ているので、比定されるが、にわかに断定できない気がする。

 布甲を持ち帰ったのは台湾ではない
 隋の時代、「琉求」とは、台湾と南西諸島を含む呼称であったが、それはあくまで中国側の認識である。倭国(日本)が「夷邪久国」と呼ぶ地域が南西諸島全体であったしても、台湾は入っていないだろう。
夷邪久国」がもし屋久島であれば、屋久島ではすでに、布甲を必要とする部族間の対立と戦闘があったことを意味する。社会の発達段階がすでにそこまで至っていのだろうか。
 『隋書』では、琉求には「刀・矟・弓・箭・剣・鈹(かわ)の属あるも、其の処、鉄少なく、刃は皆薄小」とある
矟(ほこ、さく)は武器の一種。長柄のほこ。箭(せん、や)は弓の弦 につがえ射るもの。鈹(かわ)は長い矛の一種である。
夷邪久国」が琉球(沖縄)である場合、鉄は少ないのに各種の武器がある。布甲があっても不思議ではない。
「夷邪久国」が屋久島か、それとも南西諸島の総称のいずれであっても、隋が侵攻した琉求は、台湾ではないと見ることができるのではないか。それは、「夷邪久国」が屋久島だとすれば、屋久島の布甲が沖縄に伝わったことは十分ありうる。だが、台湾までは伝わっていない可能性が高い。南西諸島と台湾との交流はまだなかったはずである。

 「夷邪久国」が南西諸島の総体であれば、「夷邪久国」には沖縄が入るから、布甲が伝わった琉求は、沖縄となる。
考えて見れば、琉求から持ち帰った布甲を小野妹子と見られる遣隋使が見て、「夷邪久国のもの」と言ったということは、隋が行った琉求が台湾なら、夷邪久国は台湾ということになる。だが、遣隋使が台湾のことを知っているはずがない。仮に夷邪久国が南西諸島としても、この当時、布甲が台湾に渡るはずがない。だから、夷邪久国は台湾ではなく、夷邪久国は南西諸島ということになり、琉求は沖縄だという根拠となる。
 この隋の朱寛が持ち帰った夷邪久国の布甲についての記述は、隋が侵攻した「琉求」は台湾ではなく、沖縄であることを端的に示していると考える。
 終わり
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元が来襲した瑠求は沖縄か、その9

『隋書』に記された「夷邪久国」
                  
 隋が侵攻したのは「琉求」はどこなのかをめぐり、 『隋書』東夷伝琉求国には注目される記述がある。
 大業元年,海師何蠻等,每春秋二時,天清風靜,東望依希,似有煙霧之氣,亦不知幾千里。三年,煬帝令羽騎尉朱寬入海求訪異俗,何蠻言之,遂與蠻俱往,因到流求國。言不相通,掠一人而返。明年,帝復令寬慰撫之,流求不從,寬取其布甲而還。時倭國使來朝,見之曰:「此夷邪久國人所用也。」
 
 琉求から持ち帰った布甲
 <隋の煬帝は、大業3(607)年に朱寛を琉求国に派遣したが、言語が全く通じないため、「一人」を連行して帰国した。翌(608)年、再度朱寛を派遣したが、「琉求国」側が従わず、止むを得ず「布甲」を取って帰国したという。「布甲」とは、植物繊維を編んで甲をなしたものと考えられ、布製の鎧のようなものと想像される((東恩納寛惇『琉球の歴史』)。たまたま訪問していた「倭国使」にこの「布甲」に就いて尋ねたところ、「此夷邪久国人所用也」という返答が見られたと伝える。(略)>

 『隋書』の記述について考察している後藤芳春氏は、このように解説している(論文 『隋書』に記された「夷邪久国」)。
 これによると、煬帝が朱寛を派遣したが琉求国は従わないため、「布甲」を取って帰国した。たまたま唐に来ていた倭国(日本)の使者に尋ねると「布甲」は「此夷邪久国人所用也」と答えたという。「邪久国」とはどこなのか。語音では屋久島と見られそうだ。だが、「屋久島に限定されず、屋久島を含む大隅半島以南の島々を漠然と指した用語であったとみるべきだろう」((山里純一著『古代日本と南島の交流』)
     南西諸島
                     南西諸島
  仮に屋久島とした場合、7世紀に布製の甲(防護用武具)があったこと、それが琉求国にまで伝わっていたことになる。倭国の使者が、これを見て屋久島のものと答えているのが注目される。
 日本側の史書では、「夷邪久国」は見当たらず、「掖玖」のことではないかと見られる。

 日本史料で南西諸島のことは、『日本書紀』推古24 (618)年に初めて登場する。
 「廿四年春正月、桃李實之。三月、掖玖人三口歸化。夏五月、夜勾人七口來之。秋七月、亦掖玖人廿口來之。先後幷卅人、皆安置於朴井、未及還皆死焉。秋七月、新羅遣奈末竹世士貢佛像。」
3 月に3人、5 月に7人、7 月に20人、合わせて30人の掖玖人が来朝したので、朴井(えのい)に安置したが、帰還しないうちにみんな死亡したとある。朴井とは、「現在の奈良市あるいは大阪府岸和田市付近ではないかとみられている」(山里純一著『古代日本と南島の交流』)
 この「掖玖」が「夷邪久」と同一ではないかと見られる。
 <この倭国使が、遣隋使の小野妹子一行を指すことは間違いない。倭国使の言葉を筆記したとみられる「夷邪久」は「掖玖」の音によるとみられ、推古期の遣隋使の中に掖玖の「布甲」に関する知識を持つ者がいたということになる。したがって、倭国は「掖玖」に対する認識を、掖玖人来航初見記事を遡り少なくとも7 世紀初頭頃には持っていたことが確認できる。(田中史生著「7~11 世紀の奄美・沖縄諸島と国際社会― 交流が生み出す地域―)>。
 当時、隋に滞在していた倭国使とは、あの遣隋使の小野妹子一行とはビックリである。遣隋使が、南島の「夷邪久」に対する認識を持っており、その風俗まで知っていたことになる。
 


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元が来襲した瑠求は沖縄か、その8

 琉求が見えるのか?
 
隋書』の琉求国の記述で、中国から琉求が見えると書いているから、沖縄ではないという見解がある。『隋書』は次のように記している。
「大業年,海師何蠻等,每春秋二時,天清風靜,東望依希,似有煙霧之氣,亦不知幾千里。三年,煬帝令羽騎尉朱寬入海求訪異俗,何蠻言之,遂與蠻俱往,因到流求國。言不相通,掠一人而返」
意訳すると次のような意味である。
「大業年、海師何蛮等、春秋の天清く風静かなる時に、東を望むとかすかに、煙霧のようなものが見える。幾千里なるかを知らない。 3年、煬帝、羽騎尉朱寛をして船で異俗を来訪せしむ。蛮と一緒に往き、琉求国に到った。言葉が相通じないので、一人で掠して返った」。
 
 これについて、原田禹雄氏は次のように解説している。
<「春秋の良く晴れた日に、東方に、もやもやしたものが見えます」という海軍の報告で、軍人を派遣したのが、琉求発見のきっかけであった。>
「沖縄は中国から肉眼では絶対に見えない。沖縄は、琉求国ではあり得ない」(原田禹雄著『琉球と中国―忘れられた冊封使』)。こう断定している。
 これによると、琉求が見えたとしているが、「もやもやしたものが見えます」というだけで、琉求が見えたとは書いていない。しかも、その距離が「幾千里あるか知らない」という。すでに触れたように台湾海峡は130kmくらいの距離であり、それほどの遠距離ではない。沖縄本島はその6倍くらい遠いので、「幾千里あるか知らない」という表現が相応しい。
また、これが「琉求発見のきっかけ」しているが、もし琉求=台湾なら、中国が台湾を「発見」したのは隋代だろうか。中国に近くて大きな島で高い山もある台湾は、もっと早くから中国では知られていたのではないか。隋代の「発見」では遅すぎる。

 「三国志」の「呉書呉主伝」(孫権)には、次のような記述がある。
「二年春正月、魏作合肥新城。詔、立都講祭酒、以教學諸子。遣將軍衞溫諸葛直、將甲士萬人、浮海、求夷洲及亶洲」
 孫権は、黄龍2年(西暦230年)に衛温(えいおん)と諸葛直(しょかつちょく)ら2名の将軍に兵1万人を率いて、夷洲及亶洲へ遠征するように命じた、と記す。
夷洲と亶洲について、いろいろの説もあるけれど台湾と日本と思われる。とすれば、すでに隋より400年近く前に、台湾に遠征していたことになる。
だが、琉求(沖縄)であれば、隋の遠征によって「発見した」ということもうなづける。

 『三国志』呉書呉主伝には、もう一つ注目される記述がある。
 <『三国志』呉書呉主伝には魏の黄龍2年(230)、三国(魏・呉・蜀―来間)の呉が会稽東冶の東方海上にある夷州・澶州を征討したことを伝える。/呉書は遠方の澶州には至ることができず、夷州の数千人を捕虜として帰還した。ここでの夷州はのちの台湾、澶州はのちの済州島(あるいは種子島)にあたる。この時従軍した沈瑩の実録に基づく地誌と考えられる「臨海水士志」(略)によれば、夷州は臨海郡(現在の浙江省臨海)の東南2000里にあり、《土地に雪霜無く、草木死せず、四面は是れ山。山夷集まりて居する所なり》という(略)。「夷州」すなわち台湾は、雪が降らず、霜も降りず、草木は年中青く、山ばかりの地形で、「山夷」すなわち狩猟民族が住んでいる所である、ということである。(来間泰男著『<琉求国>と<南島>』、田中聡著「蝦夷と隼人・南島の社会」からの引用)>
 三国志の時代、夷州(台湾)についての記述は、短い文章であっても、台湾の特徴がよく表れている。とくに「山ばかりの地形」は特徴的である。
 台湾と沖縄は風俗的に似ているところがあっても、自然の情景は、高い山がある台湾と珊瑚礁に囲まれた沖縄島では大きく異なる。
 もし、隋代に侵攻した琉求が台湾なら、「山ばかりの地形」など台湾であること端的に示す記述があるはずである。だが、『隋書』には「土多山洞」とあるけれども、これは山が多いではなく、山の洞窟が多いということだろう。洞窟が多いのは、沖縄島に当てはまる。
隋書』には、台湾なら不可欠の「山ばかりの地形」という記述がないということは、隋が行った琉求は、台湾ではない、沖縄島であることを示しているのではないか。

 琉求は階級社会
 琉求が沖縄か台湾かを見る上でネックは、『隋書』に描かれた琉求の社会の様相がこれまでの定説と相違することである。
 <『隋書』の語るところによれば、琉求には王、小王、鳥了師といった「統率者」が存在し、また臨時の課税や刑罰が行われていた。したがって当時の南島、少なくとも沖縄本島の社会は原始社会を脱し階級社会に入っていたことが知られる」(山里純一著『古代日本と南島の交流』)。
 
 沖縄と台湾の先史時代の考古学上の常識では、未だ階級社会には到達していないと見られる。でも、隋による実際の見聞によればその段階を脱しているから不思議だ。
<沖縄考古学の時代区分によれば、この時期は自然物採集経済に依存する先史時代末期に相当すると言われており、現在までの発掘調査では身分階層を裏付ける遺物や遺跡は皆無に等しい。それでは琉求=台湾説では7世紀初めの台湾に上記のような社会を想定しうるかというと、恐らく沖縄以上に乖離は大きいと言わざるを得ない。(山里純一著『古代日本と南島の交流』)。
 山里氏は「8世紀段階には身分階層が存在した可能性はきわめて高い」がさらに溯らせることができるかどうかは、現在の史料では判断できないとしながら、「7世紀初頭まで溯らせて考えうる余地を残しておきたい」(同)とのべている。

『隋書』の記述が確かな事実であれば、それが沖縄であるか台湾であるかを別にして、琉求国がすでにそういう社会発展段階にきていたことを示している。
  しかし、記述をすべて見聞による事実とみてよいのか疑問もある。それは、稲作の移入や鉄器の伝来などを見ても、これまでの考古学の常識からみて早すぎる。
  隋が琉求に来た際、強い抵抗にあっており、実際には詳細に調査する余裕はなかったのではないか。伝聞の誤りや、他国の風聞の混入、編者の解釈や想像がはいていることは否めないとの見解もある(松本雅明著『沖縄の歴史と文化』)。
 今後、考古学による遺物や遺跡の発掘が待たれる。

  隋が来た琉求をめぐる研究の流れ
  隋が来た琉求は沖縄か台湾かを巡って、近年の研究者の見解を来間泰男氏が整理をされている(『<琉求国>と<南島>―古代の日本史と沖縄史』の「琉求国は沖縄のことか」)。研究の流れを見るために紹介しておきたい。
 琉求=沖縄説の肯定派と否定派として次の名前を上げている。
肯定派――比嘉春潮、松本雅明、梁嘉彬、上原兼善、村井章介、田仲健夫、森浩一、山里純一、田中聡、安里進、中村明蔵、
否定派――髙良倉吉、真栄平房昭、田中史生
 それぞれの論拠を紹介しながら、「多くの論者が、今なお『決着がついていない』と断っている」けれども、否定論は3人に過ぎず、「圧倒的少数である」と指摘。これらの検討を踏まえたうえで「私(来間)は肯定論を支持する」と表明している。
 学問研究は多数決では決まるものではないことは当然であるが、近年の研究の流れとして、琉求=沖縄説が大勢となっていることは確かである。

 このブログに、「『隋唐演義』が面白い」のなかで、「隋がわざわざ危険をおかして渡海して侵攻しても、隋にとって得るものはない」「侵攻したのは台湾と思えて仕方ない」と書いた。これは訂正しておきたい。
 中国では、天命を受けた天子=皇帝が国を統治するばかりでなく、近隣の諸国に使いを遣り、朝貢して皇帝の臣下となることを求めた。朝貢が中国皇帝の徳を示すこととも見られた。隋、が琉求に来たのも、小さな島に侵略して植民地のように直接支配して富を収奪するためではないだろう。それは、琉球が明や清との冊封体制に入ったその後の歴史が証明している。明や清に朝貢すれば、貢物の何倍もの品々を下賜された。さらに貿易を許されて、朝貢貿易によって琉球は多大な利益を得ていた。
そう考えれば、隋が琉求(沖縄)に来たのも不思議ではない。
 以上、これまでモンゴル帝国と琉球はあまり関わりないかと思っていたが、クビライの末裔の渡来やの襲来など、さまざまな関わりがあったことがわかり、興味がつきない。

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元が来襲した瑠求は沖縄か、その7

  隋が来たのも沖縄だったかも
 元の来襲が琉球(沖縄)であることが明確になれば、それより600年くらい前に隋が侵攻した「琉求」も、台湾ではなく、沖縄だった可能性が高くなるのではないだろうか。
隋書』には、「琉求」の社会と風物、民俗など詳しく記述しているが、それらは沖縄と合致するところもあれば、台湾ではないかと見られるカ所もある。そのため、沖縄か台湾かを判断する決め手にはならない。
 最も重要な判断材料は、やはり「琉求」の位置についての記述だろう。『隋書』には、「建安郡(現在の福建省)の東・水行5日」と記されている。方角から言えば、東といえば東南の台湾よりは、沖縄が合致する。
 
 船で行けば5日という距離は、やはり台湾はそんなにかからない。台湾は一昼夜ほどの行程だといわれので、これでは近すぎる。
琉求の位置についてのもう一つの手がかりは、「義安浮海擊之。至高華嶼,又東行二日至𪓟鼊嶼,又一日便至流求」という記述である。原田禹雄氏の訳文では「義安から高華嶼へゆき、東へ二日で𪓟鼊嶼、さらに一日で琉求」となる。義安とは現在の広東省潮州にあたる。
 高華嶼と𪓟鼊嶼の位置は現在では分からない。伊波普猷は𪓟鼊嶼を久米島だと主張した。「島の形が亀に似ている」というのが根拠だった。原田氏は、亀に似た島は、中国沿岸、澎湖諸島、台湾の西海岸に「いくらでもある」と伊波説には否定的である。
出航してから目印となる高華嶼と𪓟鼊嶼を、中国と台湾の間にある澎湖諸島に比定する見解もある。しかし、方角はあくまで「建安郡(福建省)の東」に進むとされており、澎湖諸島では方角も、距離的にも異なり、無理があるのではないか。
 
 仮に高華嶼が澎湖諸島としても、𪓟鼊嶼はさらに東へ2日間も要する。台湾海峡は、琉球列島のように島々が列状に並んでいない。澎湖諸島を過ぎればすぐに台湾である。高華嶼から𪓟鼊嶼へは「東へ2日」も離れている。琉求へはさらに1日行くことになる。これでは、澎湖諸島と台湾付近ではおさまらないのではないか。
 台湾に渡航するのには、澎湖諸島を経由すればすぐに台湾である。

 琉求が沖縄の場合、出航して船で順調に東に進み、高華嶼に至れば、それは尖閣諸島か八重山諸島と見ることもできる。そこからさらに2日で𪓟鼊嶼に至れば、それを伊波普猷のいうように久米島と見ることもありうるのではないか。さらに1日で琉求に至る。このような、島々を経て行くという経路自体が、琉求は台湾ではなく沖縄だということを示しているのではないだろうか。

    東シナ海と周辺の地理(ウィキペディア)
           東シナ海とその周辺(ウィキペディアから)

   高華嶼は台湾としながら、琉求は先島であるという見解がある。
「中国南方の広東省潮安付近の港から出て、最初に着いた高華嶼とは高雄、嘉義という地名のある台湾でしょう」「義安から出港して台湾南部(高華嶼)に着く。それから南の岬を回り、台湾の太平洋岸を北上し、北端に近い宜蘭のあたりから東の太洋に乗り出して、水行二日で石垣島(ケキ嶼、クヘキ嶼のことか?)に至る。それからまた東へ一日の航海で波羅檀洞(平良)のある宮古島(夷邪久、ミャーク、流求)です。」「建安郡(福建省福州付近)の東、水行五日という流求国の王の居住地は、沖縄本島ではなく先島諸島の宮古島であり、ハラタン洞というのは、現在の平良(ヒララ)市に当たるようです」(「古代史レポート 中国、朝鮮史から見える日本」)。
           「古代史レポート」ヵら

 この「古代史レポート」は、隋が来た琉求国の王の居住地は宮古島という見解である。
 この結論は別にして、義安を出て着く高華嶼を台湾南部、𪓟鼊嶼を石垣島と見るのは興味深い。
 私の個人的見解では、宮古島は元の第1回の瑠求派遣の際、瑠求に至る前に上陸したのが宮古島という可能性があるのではないだろうか。宮古島であれば、「低い島」であり、それなりの住民がいて、200人規模の元軍にたいしても対処できると思われるからだ。
        
 『隋書』は外夷列伝だけでなく、陳稜伝にも、義安を出て琉求を攻撃したという記述がある。
 『隋書』陳稜伝は次のように記している。
 「煬帝即位,授驃騎將軍。大業三年,拜武賁郎將。後三歲,與朝請大夫張鎮周發東陽兵萬餘人,自義安汎海,擊流求國,月餘而至。流求人初見船艦,以為商旅,往往詣軍中貿易。稜率衆登岸,遣鎮周為先鋒。其主歡斯渴剌兜遣兵拒戰,鎮周頻擊破之。」
 以下は意訳である。
「604年、煬帝が即位すると、陳稜は驃騎将軍に任ぜられた。607年、武賁郎将となった。610年、朝請大夫の張鎮周とともに東陽の兵一万人あまりを集め、義安から海に出て、流求国を攻撃した。一カ月余りで琉求国に至る。陳稜は軍を率いて海岸に上陸し、張鎮周を先鋒とした。流求国主の歓斯渇剌兜が兵を率いて迎撃した。張鎮周がこれを撃破した。」
 このあと、都において王は数千人の民衆を率いて抵抗したが、陳稜の軍は棚に追い詰めこれを斬殺したことなど記している。
ここでは、琉球に一カ月を要したとある。これは、台湾ではないことは明瞭である。かといって沖縄でも、長すぎる。これには次のような解釈がある。
「和田清氏は琉求の海浜に着いたことではなく、幾度か転戦して王城に入った時までのことかと推測している」(山里純一著『古代日本と南島の交流』)
 『隋書』は一方で琉求国には5日間で着くとしており、一カ月で至るというのは、矛盾している。だから、一カ月を単純な琉求までの旅程と見ることは出来ない。この文章は、確かに「義安から海に出て、一カ月で琉求国に至る」とは書いていない。「流求国を攻撃した。一カ月余りで琉求国に至る」とのべ、攻撃したことが先に書かれている。だから、琉求に上陸したが、琉求側が抵抗したため、撃破するのに時間を要し、王城に入ったのが、義安を出てから一カ月後という解釈は妥当である。

 5日で沖縄に来ることは可能
 「冊封使緑」を精力的に訳している原田禹雄氏は、『隋書』が琉求の位置について記す「建安郡の東、水行5日」について、 「建安の故治から水行5日であれば、閩江口がせいぜいである」としてこの琉求が沖縄ではない根拠としている。
 5日かけて閩江の河口まで、海にも出ていないとしている。果たしてそうなのだろうか。
 福州から沖縄に来る場合、歴代の「冊封使録」を見れば、10日以上かかった場合がよくあるので、5日ぐらいでは無理だろうと思いがちである。それだけで沖縄ではないと否定する方もいる。
 
 徐葆光の『中山伝信録』には、1534年から1683年まで7回の「歴次の封舟渡海日期」という記録がある。それによると、明、清の冊封使の渡航記録によれば、 最長は張学礼の19日、最短は汪楫の3日、平均11.7日を要している。船が無風・逆風・台風などのため進むことができなかった日数や沖縄本島の北方海域に流されて、那覇に引返すのに要した日数が含まれている。それを差引くと、「すべて実日数水行四~五日で福州と琉球間を航行している」(増田修氏「『隋書』にみえる流求国――建安郡の東・水行五日にして至る海島」)という。
 順調に来れば4~5日間で航行していることになる。
 1756年の尚穆王の冊封以後の到達日数を見てみた。尚穆王の際は5日で久米島に着いたが、その後台風にあい、さらに20日余りを経て那覇港に着いた。
 尚温王の際は、5日間。尚灝王の際は6日間。尚育王の際は、9日間。尚泰王の際は、12日間かかった。
やはり順調に航海すれば5~6日間で到着している。
 この冊封使の渡航の実際を見れば、『隋書』の琉求まで「水行5日」という行程は、けっしていい加減なものではない。かなれ正確であることがわかる。
 少なくとも、方角も行程の日数も合致しているのなら、琉求は台湾ではなく沖縄と判断することも可能ではないだろうか。

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元が来襲した瑠求は沖縄か、その6

 瑠求への行程の疑問
史』の記述でもう一つ、悩ましい問題がある。それは、中国を出港してからその日のうちに「低い島」に上陸したことである。この部分は台湾なら理解できるが、沖縄だと早すぎることになるからだ。ただし、瑠求国には至っていないことは確かである。
 やはりの船は与那国島か八重山諸島、もしくは宮古島まで含めて先島諸島のどこかの「低い島」に上陸したのではないだろうか。

 冊封使の航海記録によれば、福州から沖縄本島まで最短3日間で到着している事例がある(あとから詳述する)。この場合は、先島を1、2日で通過したことになる。気象条件に恵まれて、順調に航海すれば、予想以上に早い時間で先島のどこかの島に到着できた可能性はあるのではないか。
 の第1回目の瑠求への派遣は、往復4日間の行程である。沖縄本島では無理だが、上陸地が先島であれば、4日という短い行程でも往復は不可能ではないだろう。実際にが第1回目に来たのが、この行程であるからである。

 沖縄には、の襲来にかかわる伝説がある。 
 「糸満市では、昔、トーンチュー(軍)が攻めてきて村が全部焼き払われたという伝説が残されていたし、糸満と久米島では、元軍の軍艦が錨として使用していたという中国産加工石が発見されている」(伊敷賢著『琉求王国の真実――琉球三山戦国時代の謎を解く』)

 興味深いのは宮古島にも、元寇にかかわる伝説があることだ。
 <宮古列島の水納島(みんなじま)に『百合若大臣(ゆりわかでーず)の伝説』があり、戦前の『尋常小学校の国語読本』にも取り上げられていた。外国(元)から攻めてきた大軍と戦った百合若が、船で寝ている間に家来に逃げられ沖縄の水納島に漂着し、帰りを待つ妻が鷹を使って百合若に通信し、めでたく国に帰ることができ、悪い家来も成敗したという物語が残っている>(同書)。

 百合若伝説は日本各地に伝わり、沖縄から北海道まで広く分布している。
 大分の百合若伝説は、要旨次のような物語である。
 左大臣・公光の子の百合若は、弓に長けた勇武の若者となり、豊後の国司に任じられる。蒙古の大軍討伐を命じられた百合若は、対馬沖で対決し、蒙古の大軍を打ち破る。戦いに勝った後、別府太郎ら部下に裏切られ玄海島に置いて行かれる。別府太郎らは帰国後、天子に百合若は病没したという虚偽の報告をして豊後の国司の知行を得た。百合若の死を信じられぬ春日姫は、手紙を鷹の緑丸の脚に結びつけて放す。百合若は、漁船に便乗し、豊後に帰還すると正体を隠して「苔丸」と名乗り、別府太郎のもとに仕える。正月の弓始めの式で、自分を裏切った太郎を射抜き、復讐を果たす。その後百合若は春日姫と涙の再会を果たし、国司の位も取り戻した(「ウィキペディア」から)。  これは元が宮古島に来た話ではないが、こんな伝説がること不思議である。
    西平安名崎
       宮古島

 琉球が台湾から沖縄になぜ急変したのか?
 台湾説への最も素朴で重要な疑問は、隋と元が来襲したのは台湾で、明が入貢を要請したのは沖縄ということがありうるかである。
 元が瑠求に2回目に来たのは1297年である。明の洪武帝が琉球に使者楊載を送り、中山王察度が要請に応えて朝貢したのは1372年。わずか75年後である。
 もし、隋や元が来襲した琉求・瑠求が台湾なら、なぜ75年後に明が使節を派遣する時、台湾に行かないのか。
 台湾の歴史を見ると、17世紀初めまでは「先史及び原住民時代」と呼ばれており、独自の国家形成には至っていない。台湾は中国には早くから認識されていたが、元代に澎湖諸島に巡検司が設置され福建省泉州府に隷属したのが、確実な記録という。台湾本島は、船舶の一時的な寄港地、倭寇の根拠地という位置づけが明代まで続いたという(ウィキペディアを参考にした)。つまり台湾には入貢を要請していない。

 一度も派遣したことのない「未知」のはずの沖縄になぜ朝貢を促すために来たのか。とても不可解である。歴史的には、短い年月で外国に関する認識が急変したのだろうか。

 冊封使は一貫して琉球を認識
「冊封使録」を読むと、瑠求を訪れる冊封使は、『隋書』『元史』の琉球についての記述を自分が派遣される琉球を同一の国(島)として、一貫した認識をもっている。隋代、元代に派遣し琉球は台湾で、現在は沖縄に変わったという認識は見られない。
 確かに、琉球の呼称は、元代は台湾と南西諸島を含み、明代は沖縄と台湾は区別し、台湾は小琉球と呼んでいる。それは、あくまで呼称の問題である。
  琉球の察度中山王が泰期を明に派遣したあと、明の太祖は「瑠求の字を改めて琉球と日う」とのべている(『球陽』)。ここには、朝貢してきた琉球(沖縄)と瑠求は、同一の国(島)であるという認識が示されているのではないだろうか。
   琉球の察度王が泰期を明に派遣したあと、明の太祖は「瑠求の字を改めて琉球と日う」とのべている(『球陽』)。ここには、朝貢してきた琉球(沖縄)と瑠求は、同一の国(島)であるという認識が示されているのではないだろうか。

 実際に琉球に渡航する際、台湾と沖縄では、方角と距離、台風の時期や風と波、黒潮の有無など航海の条件に大きな違いがある。元代には名称が区別されていなかったとしても、台湾や沖縄本島についての確かな情報と認識が必要である。 
 元代と言えば、すでに、隋、唐の時代から日本の遣隋使、遣唐使が中国に渡っていた。薩摩から南西諸島を経由して行く南島路もあったとされる。宋の時代には、宋の商人が東アジア各地に出かけていた。琉球と宋の商人が直接貿易したという証拠はないが、「考古学的な遺跡から、実際には宋は直接、琉球と交易していたのではないかという仮説もある」(「沖縄大辞典」)という。ということは、元代には琉球(沖縄)について地理的な詳しい情報が中国に伝わっていたと考えられる。
 それなのに、瑠求・琉球に行くと言って台湾に行くだろうか。そう考えれば、隋、元、明のいずれの時代も、訪れた琉球は、沖縄だったと考える方が合理的ではないだろうか。
 続きは7回へ。
 








         
                

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元が来襲した瑠求は沖縄か、その5

 なぜ台湾と見られる記述が登場したのか
 14世紀になって『隋書』にはない「琉球国は彭湖と煙火相い望む」という記述が、突如として表れる。「琉求国の相対的な位置をしぼりこもうとする意志がみえる」(原田禹雄著『冊封使録からみた琉球』)という見解もあるが、そうとは思えない。
最初に登場するのは、元の延祐四(1317)年に成ったという『文献通考』(馬端臨撰)という文献である。古代から南宋の寧宗の開禧3年(1207年)に至る歴代の制度の沿革を記した中国の政書である。
文献通考』は、「琉球国居海岛,在泉州之东,有岛曰彭湖,烟火相望,水行五日而至」と記している。
なぜか、『隋書』の記述に「有岛曰彭湖,烟火相望」という事項が加えられている。これは、『隋書』の記述とは矛盾している。筆者の馬端臨が琉求に来て見聞したものではない。だが、この文献がその後の史書などに大きな影響を与えた。
 『文献通考』が出されたあとに編纂された宋の歴史を書いた『宋史』流求国伝(1345年完成)は、「流求国は泉州の東に在りて、海東に有り。彭湖にて烟火相い望むと曰う」として、『文献通考』にそった内容で書かれている。『宋史』は、元代に編纂された宋の正史である。
 『元史』は明の1369年(洪武3年)に成立したとされる。『元史』の記述は、その前に出された『宋史』などの文献を参考にしているとみるのが自然である。
 
『元史』は沖縄と台湾を混同
 『隋書』『北史』『諸蕃志』にはなかった「彭湖にて烟火相い望む」という矛盾する記述が、なぜ琉求、瑠求の位置として書き込まれるようになったのだろうか。そこには、琉求(沖縄)と台湾を混同して書かれた疑いがある。
 歴史家の梁嘉彬氏は、自著『琉球及東南諸海島与中国』で、琉求=台湾説を逐一批判して、その誤りが『文献通考』に起因することを指摘した。
 <『隋書』琉求伝の各種の記事はすべて沖縄のことであるとする。また隋代の琉求は疑いなく沖縄であるが、それが台湾と混同されるようになったのは、宋の馬端臨の『文献通考』に始まり、以後、『宋史』『元史』と誤りを重ねてきた結果であるとし、それらを用いて『隋書』琉求伝の記事を解釈することの危険性を指摘している(山里純一著『古代日本と南島の交流』)>
増田修氏は、この梁嘉彬氏の研究を踏まえて、なぜ台湾との混同が生まれたのかを解明している(「『隋書』にみえる流求国――建安郡の東・水行五日にして至る海島」)。これを参考にさせていただいた。ただし、増田氏とは結論部分が異なっているが、研究された成果は貴重である。
 
 先に見た『文献通考』が「琉球国は彭湖と煙火相い望むとし、流求と台湾を混同した最初の文献となった」(増田氏)。
 馬端臨は、『文献通考』の琉求を書くにあたって、『北史』流求国伝と『諸蕃志』の流求国条と毗舍耶国条( ひさやこく、琉球付近の島々を拠点としていた)の記述を交ぜ合わせたのではないかという。
 『北史』は、南北朝時代(439年―589年)の北朝について書かれた歴史書。『諸蕃志』 (しょばんし)は、南宋時代に成立した地誌である。
 『北史』流求国伝は『流求国居海島、当建安郡東、水行五日而至」、『諸蕃志』流求国条は「流求国当泉州之東、舟行約五六日程」と記している。注意すべきは、『諸蕃志』では琉求国に続いて「毗舍耶(びさや)国」について「泉(泉州)有海島、曰彭湖、隷晋江県、与其国密邇(きわめてちかし)、煙火相望」と記していることである。
     宜野湾市HPから    
     琉球列島と台湾の位置。宜野湾市HPから
 毗舍耶国とはどこを指すのだろうか。増田修氏は、「彭湖と煙火相い望むのであるから、当然台湾をさしている」と指摘する。「福建沿岸の民衆は台湾南部を毗舍耶、中原の漢族は台湾北部を小琉球と呼んでいる」(ウィキペディア)という。フィリピンという説もあるが、澎湖と向き合っているとすれば、やはり台湾と見られる。
 問題は『文献通考』琉球条についての記述は、『諸蕃志』の毗舍耶国についての記述を取り込んで書いたとしか思えないことである。
 『文献通考』は琉球国について「琉球国居海島、在泉州之東、有島彭湖、煙火相望、水行五日而至」と記している。それまでの『隋書』『北史』『諸蕃志』などの文献にはまったくなかったことが盛り込まれている。
 <『文献通考』琉球条は、『北史』流求国伝の引用からはじまるが、それに加えて、琉球は彭湖と煙火相い望むとしている。そして、『北史』の引用部分につづけて、琉球国の旁には毗舍耶国があるとし、琉球条に付加しているのである。したがって、毗舍耶国条は、別条として立てていない(増田氏)。>
 
 つまり、琉求国と毗舍耶国について二つの文章をまぜあわせて『文献通考』琉球条の「琉球国居海島、在泉州之東、有島彭湖、煙火相望、水行五日而至」ができたという。
 本来、澎湖島から「煙火相望」するのは毗舍耶国であったのに、琉球と混ぜ合わせたために、「煙火相望」するのは琉球であるかのような記述となり、誤解を生むことになった。
 馬端臨の『文献通考』に続いて、流求と台湾を混同した文献が、つぎつぎとあらわれた(増田修氏)。『宋史』もその一つである。
 冊封使録の現代語訳を精力的に出版されている原田禹雄氏も、『冊封使録からみた琉球』のなかで、『宋史』の琉求国について同様の指摘をされている。
 <『諸蕃志』では、琉求は、澎湖諸島の東のあたりに固定されてゆく。『諸蕃志』自体は
・琉求の近傍には、毗舍耶・談馬顔などの国がある。
・澎湖と毗舍耶とは近く、煙火が互いに望める。
と書いているのだが、『文献通考』では、琉求と澎湖が、煙火を相い望むこととなり、『宋史』へとつながっていく。>
 『宋史』琉求国も「琉求国は、泉州の東にある。澎湖という海島があるが、(琉求と)烟火を互に望める」と記している。
 つまり『諸蕃志』では、澎湖と「煙火が互いに望める」位置にあるのは琉求ではなく、近傍にある毗舍耶であると記されていたのに、『文献通考』『宋史』では、澎湖と琉求が「煙火が互いに望める」位置あると混同して記したことになる。
 原田氏は、せっかく『諸蕃志』から『文献通考』への重要な記述の変化を指摘しながら、『宋史』琉求国が澎湖と「煙火が互いに望める」という記述を是認し「この琉求と沖縄とは、何の関係もない」という結論に導いている。残念なことである。

 『中山世譜』も混同した
 混同と言えば、『中山世譜』も『宋史』の台湾と思われる事項を琉球として書いたものがある。
 『中山世譜』は<淳熙年間、琉求常に数百輩を率いて、猝(にわか)に泉州の水澳頭等の村に至り、肆行殺掠(しこうさつりゃく)すると云う。>と記している。これは『宋史』琉求伝の引用だという。
 与並岳生氏は『新編琉球三国志上』で、この記述を引用した上で「当時の琉球に、そのような力があったとは思われない。…”台湾=琉求”の者たちだったのではないだろうか」と疑問を投げかけている。
 『宋史』琉求伝を読むと、「旁有毗舍邪国(びさやこく)…淳熙间,国之酋豪尝率数百辈猝至泉之水沃、围头等村,肆行杀掠」と記している。琉求のそばにある毗舍邪国が、泉州を襲い肆行殺掠したという意味である。『元史』外夷伝には「瑠求は,外国で最も小さく危険な者である」記されており、やはり『宋史』の泉州襲撃を瑠求と見なした記述と思われる。
 ところが、『宋史』琉求伝が参考にしたと思われる『諸蕃志』は、琉求国と毗舍邪国は別項で書かれて、泉州襲撃についても毗舍邪国として書いている。だが、『宋史』は毗舍邪国を別項として立てないで、「琉求」の項目のなかに、毗舍邪国を含めている。だから、『中山世譜』は、「旁有毗舍邪国」とあっても、「そばに毗舍邪国がある」という説明の後は、再び琉求についての記述と誤解して、書かれたものと考えられる。
 
 話はもとに戻る。流求と台湾を混同した『文献通考』『宋史』などの文献の記述が、『元史』に受け継がれているとすれば、瑠求の位置を示す情報としては、混同した部分は除外して考える必要があるのではないか。
 史書の中に矛盾した記述が出てくる場合、すべて鵜呑みにする必要はない。それぞれ吟味してみることが大切である。「彭湖と煙火相い望む」という台湾と混同した部分を除外すれば、そのほかの記述は、大きな矛盾は解消され、瑠求が沖縄であることで明確になるのではないか。
 田中聡氏は『隋書』の琉求について、次のような注目すべき指摘をしている。
 <琉求の比定にあたって、「毗舍耶」関連記事が付加される12世紀末以降の史料を根拠とすべきではなく、あくまで『隋書』琉求伝の記事のみに判断材料を求めるべきであると述べた上で、中国からみた琉求の方角と、航海に要する日数の問題について独自の解釈を示し、琉求が後世一貫してリュウキュウと呼称された沖縄島であると主張する(山里純一毗舍耶)>
 これは『元史』瑠求についても同じことが言える。やはり隋代、元代、明代、清代を通じて、「リュウキュウ」と呼ばれる国は沖縄島であるという田中氏の考察に共感する。
 
 『明史』『清史稿』の記述では
 もう一つ史料として追加して見ておきたいのは、琉球が明によって冊封を受けるようになってからの『明史』『清史稿』の琉球について記述がどうなっているのかである。
 『明史』は「琉球は南東の海に位置する」と記す。『清史稿』でも「琉球は福建省泉州府の東海中にある」と記す。いずれも、琉球の位置について簡略に記し、他の余分な説明はない。つまり、『文献通考』以来、『宋史』『元史』に受け継がれてきた「瑠求は澎湖諸島と向き合っている」という説明は消えている。これは、実際に冊封関係にある琉球が、「澎湖と向き合っている」という記述が間違っているから、削除されたのではないだろうか。
 これは、元代の瑠求は台湾、明代の琉球は沖縄ということではない。それはもともと「琉球が南東の海に位置する」という記述と「澎湖と向き合う」という説明は矛盾極まりなく、どちらから間違った記述であったからである。後者の説明が消えたことは、こちらが過ちであったことを示しているといえるだろう。



       
                 





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元が来襲した瑠求は沖縄か、その4

「瑠求と相対する」とは
 瑠求は台湾だとする人たちの最も大きな根拠として、『元史』外夷列伝の中に「澎湖の島々は、瑠求と相対する。天気がよければ煙のようにかすかに見え、何千里も離れています。」という記述をあげる。澎湖と相対するのは沖縄ではありえないとなる。
 確かに、澎湖島と相対するといえば台湾である。一方では、『元史』は、「瑠求は南海の東にある」「何千里も離れている」とも述べており、台湾なら方角は東ではなく東南である。「何千里も離れている」なら、澎湖島と相対しかすかにでも見えるだろうか。矛盾する内容が平然と書かれていることになる。
 
 『元史』には、瑠求の位置、方位と距離など重要な問題について、このような矛盾する記述が存在するのはなぜだろうか。その謎を解くカギは、『元史』編纂にあたり利用したと思われる文献に潜んでいる。
 中国の正史は、前に書かれた史書など文献の情報を参考にして記述されることが通例である。元の前に琉球に来たと言えば隋である。『元史』の検討の前に、『隋書』の記述を見ておきたい。
 『隋書』は、流求国伝の冒頭で「流求國,居海島之中,當建安郡東,水行五日而至」(「流求国は海島の中に居す。建安郡の東に当り、水行五日にして至る」という方位と行程を記している。さらに「「義安浮海擊之。至高華嶼,又東行二日至𪓟鼊嶼,又一日便至流求」(義安から高華嶼へゆき、東へ二日で𪓟鼊嶼、さらに一日で琉求=原田禹雄氏の現代語訳)という行程も記されている。
 注・義安は「現在の広東省潮州」(増田修氏)
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     台湾地図。左側に少し離れてある島が澎湖諸島
     
 福建省から「水行五日にして至る」という旅程は、台湾だと一昼夜で行けるほどの距離であり、当てはまらない。あとから検討するけれど、「水行5日」は沖縄に当てはまる。

 留意すべきは、台湾説の根拠となる「澎湖諸島と相対する」という記述がないことである。
隋書』は、607年、実際に琉求に軍を派遣した上で書かれたものである。唐代に編纂されたといっても、わずか30年ほど後であり、琉求についての生々しい記憶が伝えられ、記録が残されていただろう。だから、方位と行程についての記述は信憑性が高いのではないか。もし、琉求が「澎湖諸島と相対」しているなら、琉求の位置を示す重要な情報であり、真っ先にそのことを記すだろう。だが、まったくそのような記述がないことは、もともと「「澎湖諸島と相対する」」ような位置にはなかったことの例証ではないだろうか。

 改めて、中国の史書、文献を調べてみると、唐代に編纂された『隋書』(初版発行、636年)だけでなく、その後、編纂された南北朝の時代、北朝について書かれた歴史書『北史』659年初版発行)にも、琉求国についての項目があるが、「流求國,居海島,當建安郡東。水行五日而至。」と記し、『隋書』とほぼ同じ記述である。時代が500年以上、後になった南宋時代に成立した地誌『諸蕃志』(しょばんし、1225年)も、「流求國當泉州之東,舟行約五六日程」とのべ、方位と旅程を記しているだけである。
 <『隋書』およびそれにつづく『北史』『通典』『太平御覧』『太平寰宇記』『冊府元亀』(宋・王欽若等撰、大中祥符六年・一〇一三)『通志』(南宋・鄭椎撰、一一〇四~一一六〇)の流求国に関する記事には、「有島曰彭湖、煙火相望」という文字は存在しないし、その内容も『隋書』と基本的に同じである。(増田修氏著「『隋書』にみえる流求国――建安郡の東・水行五日にして至る海島」>
 少なくても13世紀の『諸蕃志』までの文献は、『隋書』と同様の記述がされ、やはり「澎湖諸島と相対する」との記述がない。だから、琉求の位置についての記述に矛盾はないことは注目される。


  
     

    
 


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元が来襲した瑠求は沖縄か、その3

 『元史』の黒水溝はどこか
 次に検討すべきは、黒水溝が台湾海峡にもあったとすれば、『元史』外夷列伝で書かれた「落漈」(黒水溝)は台湾海峡であるのか、東シナ海を北上する黒潮であるのかという問題である。
 黒水溝が台湾海峡にもあったとしても、即、元が来襲したのは瑠求(沖縄)ではなく、台湾だったと結論が導かれるわけではない。元が東シナ海の黒潮を越えて瑠求(沖縄)に来た可能性が否定されたわけではない。
 『元史』外国列伝の冒頭部分を意訳する。
 <瑠求は南海の東にある。 漳、泉、興、福四州の境界である澎湖の島々は、瑠求と相対する。 天気がよければ煙のようにかすかに見え、何千里も離れています。 西と南の海岸は水であり、澎湖は徐々に低くなり、瑠求の近くに落漈((らくさい)がある、落ち込んだ水は戻ってこない。 西岸の漁船が澎湖の下で、台風が襲い、漂流し落漈に流されると、百に一つも帰って来ない。 瑠求は、外国で最も小さく危険な者である。>
 「漈」とは「海底の裂けて深くなったところ」という意味がある。だから、川の水のように流れる海流を見て、海底の裂け目にでも落ち込むではないかと恐れのだろう。
 
 『元史』のこの記述で留意すべきは、瑠求が台湾に該当するものと沖縄に該当するものが混在していることである。
 「瑠求は南海の東にある」というのは、台湾なら「南海の東」というより南東に近いだろう。それに、台湾ならわざわざ「南海の東」というだろうか。はるか南の海の東方にあるという表現は、台湾より沖縄に当てはまるのではないか。
 澎湖諸島が瑠求と相対し、天気が良ければ見えるというのは台湾に当てはまる。台湾海峡はもっとも狭いところで130キロメートル。台湾から澎湖諸島まで50キロある。与那国島と台湾は111キロあり、よく晴れた日に与那国から台湾が見えるという。これより半分の距離だから澎湖からは当然見える。
 ところが、瑠求は天気がよければ見えると言いながら、何千里も離れているというのは、矛盾している。何千里も離れているという記述を検討してみる
 ここで中国の里程をみると、古代は1里は400㍍だった。現在は1里は500㍍である。数千里とは漠然とした表現であるが、短く見て仮に1000里だとしても、500キロの距離になるになる。多く見て5000里とすれば、なんと2500キロになる。那覇市と福州市の間の距離は836キロである。
 当然、実測した距離ではないので、「数千里」とは遠い距離の代名詞であろう。
 台湾は沖縄より古くから中国との接触があり、早くから距離感は認識されていただろう。何千里という表現は台湾ぐらいの距離では相応しくないだろう。沖縄のようにはるか遠方にあることを表現したとみるのが妥当である。
            
 「落漈」について、原田禹雄氏は「黒潮」と訳しているが、黒潮とは限らないようだ。中国でいう「黒水溝」と見る方がよいかもしれない。「黒水溝」については、先に見たように台湾海峡にもあるとすれば、瑠求のそばに「黒水溝」があるという記述は、瑠求が台湾か沖縄かを決める根拠にはならないことになる。
 『元史』が「落漈」を澎湖諸島と関係づけて説明しているところを見ると、この場合は、台湾海峡の可能性がある。
 しかし、瑠求の説明の記述には、台湾に該当する表現と沖縄に当てはまる表現が混在していることをみると、沖縄の可能性も否定できない。
 原田禹雄氏は、落漈を黒潮と訳したうえで、黒潮が歴代冊封使も恐れたとのべている。
 <中国人は黒潮を「黒溝」とも「落漈」といって非常に恐れた。『元史』外国列伝に「瑠求のあたりに落漈があり、台風で落漈に漂流すると百に一も帰れない」とあって、歴代の天使もおそれていた。…閩の海と、琉球の海の境(つまり郊)に、黒水溝があり、滄溟とも東溟ともいう、というのが中国人の考えであったようだ。(現代語訳『汪楫 使琉球雑録』の訳注)>
 原田氏は、落漈を台湾海峡の黒水溝ではなく、東シナ海を流れる黒潮とみている。その上で、黒潮が「閩の海と、琉球の海の境」としており、この琉球は台湾ではなく沖縄と理解される。
 私は黒潮を越えて中国に渡航したことはないが、福州に行ったことがある髙良倉吉氏によると、「黒潮は本当に真っ黒な海なんですよ」という。以前、講演で聞いたことがある。流れが速く黒い海とすれば、冊封使が恐れたのもうなづける。
 琉球に来る歴代の冊封使は、『隋書』『元史』の琉球についての記述を読んでいるだろう。渡航するにあたっては、『隋書』『元史』の琉求・瑠求が台湾と思わず、沖縄だと理解し、黒潮のことを熟知していたはずである。
 私は、歴代冊封使が黒潮を越えて渡航してきたように、『元史』でいう「落漈」は東シナ海を流れる黒潮を指しており、瑠求は沖縄だという印象を持つ。

 元の大軍に対抗できないのか 
ここで、瑠求=台湾説の人たちが主張している根拠について見ておきたい。
 一つは、すでに触れたことであるが、『中山世譜』は蔡温があとから中国側の史書を見て加筆したから信用できなということである。これは、『元史』『中山沿革志』で書かれた瑠求が沖縄であることが判明すれば、蔡温の加筆は適切だったことになる。

次に、小国・琉球は元の大軍に対抗できるはずがないという方がいる。しかし、『元史』によると第一回目の派遣は、瑠求(この場合、沖縄本島)には至らず、どこかの離島に船十一隻、二百人余りで上陸した。その時、争いになり3人が死亡して引き上げている。二回目に来た際の人員数は不明であるが、大軍という記述もない。だから、もともと元が大軍で来襲したかどうかは不明である。
 それに、古今の合戦の歴史を見ると、兵力の数だけでは決しないことは常識である。実際に、元は日本に二度、ベトナムには三度遠征したが失敗し撤退した。元の兵力の数も不明である上に、単純に兵力の比較だけで瑠求が沖縄ではないと否定することはできない。
    浦添ようどれ
       英祖王を葬る浦添ようどれ
 
 往復の行程が短すぎるのか?
 新屋敷幸繁氏は、瑠求への往復日数が短すぎることを理由に沖縄説を否定している。
第1回目の派遣について、次のように指摘する。
「3月29日に福州を出て、瑠求国に渡って澎湖に帰った4月2日までの日数がわずか4日間にすぎない。しかも島人と戦いを交えたりしている日を1日に計算したら3日間である。福州、たとい澎湖からでも3日で沖縄島まで往復が出来るということは考えられない」(『新講沖縄1千年史』)。
 これは「福州から最低5日を要する沖縄本島」(同書)への往復を考えれば当然の疑問である。だが、福州を出航して、巳の刻に真東に見えた低い島は、楊祥は瑠求国だといったが、もう一人の将軍は「わからない」とのべ同意していない。だから、瑠求だと確認しないまま上陸したものである。結果としても、一つの島には上陸したが、瑠求には至らなかったのである。
 福州を出て、あまり長時間を要せずに、「低い島」が見えたということは、先島のどこかの島に上陸した可能性がある。それも西表島や石垣島は山があり「低い島」ではない。それ以外の離島ではないだろうか。そうなれば、4日間の短い日数でも往復は不可能ではない。
 2回目の来襲は、どれくらいの日数を要したのか、どれくらいの兵力で来たのか、詳細は明らかではない。そう考えれば、第1回目の往復日数だけで、瑠求=沖縄説を否定する根拠とはならないと考える。
『隋書』でいう琉求までは「水行五日にして至る」という旅程については、あとから検討する。
 






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