レキオ島唄アッチャー

仲尾次家の歩み

仲尾次家の「系統の歩み」を比嘉朝進著『士族門中家譜』から紹介する。

 <1世思嘉那
 1782年、台風や干ばつで上納米が欠乏、国庫の銀子が不足し、王子らが薩摩へ赴く旅費に支障をきたした。思嘉那(68歳)は銅銭16万貫文(かんもん)をもって国用に応じた。尚穆(ぼく)王は志を褒め、新家譜を与えた。
 また、1789年、徳川家斉就位に慶賀使者(96人)を遣わす費用が足りず、再び銅銭18万貫文を献じて国用に備えた。これで譜代(元来の士)に引き立てられた。享年77歳。>
 省略
 <5世 仲尾次親雲上政隆
 今帰仁間切中城地頭、那覇総横目(目付)、那覇船改め奉行(検査長)。1825年の干ばつで餓死者が続出。3千貫文を寄付し、1838年尚育王即位には国費不足のところ、銀1万貫文を無利息で貸与した。
 家譜は1854年で途切れているが、実は禁令の一向宗信者ということで、石垣島へ流罪となった。島では、台風でこわれた宮良橋(橋長50m)を私費を投じて再建。地元役人一同の放免嘆願書が王府を動かして放免。>

 仲尾次家は、干ばつによる飢饉の際や国庫の銀子不足、大和への旅費の不足などの際に、資金を寄付したり、無利息で貸与するなどした。
 本来は百姓(平民)は系図を持たない無系であるが、王府から家譜を与えられ、さらに譜代(元来の士)に引き立てられたという。

 政隆の先祖は、薩摩からきた中村宇兵衛だというが、宇兵衛もそのスーツは京都にあるという。「東本願寺沖縄別院」HPから紹介する。
 <(政隆は)那覇泉崎に生まれる。その先祖は、京都から薩摩の久志浦に移住したといわれ、代々真宗の門徒であった。4代前の中村宇兵衛が薩摩から琉球に移り住み、琉球の妻との聞に5男をもうけ、その長子が仲尾次家を称した。政隆は若くして官職につき、大和横目、那覇総横目などの要職を歴任している。そして官職の身でありながら、当時琉球で禁制となっていた真宗をひそかに信仰していた。さらに政隆は自身の信仰だけに留まらず、念仏講を結成し那覇の遊郭で遊女たちを中心に積極的に布教活動に取組んだ。
 しかし、信者が増え次第に人目につくようになり、1853年政敵によって密告され、信徒らとともに拘留され取調べをうける。結果、政隆は八重山へ無期の流刑、他の信徒もそれぞれ処罰された。配流地の石垣島では、流人の身で宮良橋を再建し、その功により赦免され11 年ぶりに那覇に帰された。享年62歳。伊波普猷(いはふゆう)は、その著書のなかで「仲尾次政隆は近代沖縄の宗教的偉人」 (『浄土真宗沖縄開教前史ー仲尾次政隆と其背景』より)と評している>。
 これによると、京都から薩摩に移り住んだ先祖は、代々真宗の門徒だったという。政隆が浄土真宗の門徒だったというのは、偶然のことではなく、先祖からの長い系譜があったことがうかがえる。

 八重山民謡で歌われた仲尾次政隆について見てきたが、政隆という人物像だけでなく、彼の家系から、当時の時代背景とさまざまな事情がわかってとても興味が尽きない。
 終わり
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按司には二通りの意味がある、その4

 古代部落マキョから、中世農村部落への変化――佐敷間切に見る
 稲村賢敷氏は、沖縄への鍛冶と鉄器の伝来は農耕業の発達を促し、社会の富が著しく増大するようになった。そして古代社会が、比較的急速に中世的農耕社会へと発達するようになると、新しい社会の支配者として、按司という勢力が現われたとのべている。
 その具体例の一つとして、尚思紹一党が根拠地とした佐敷間切(現南城市)の歴史的な変化を考察している。

 アツメクダと按司の支配
 <尚思紹一党の人々は伊是名島から移って、この豊穣なる佐敷平野に彼等の根拠地を定めるようになると、先ず最初に南方丘陵上にある古代部落マキョに居住する人びとを麓の平野に移して農耕民として定住させ、平地の開拓に当らしめて富国の方策を講ずることから始めたのではなかろうか。…
 尚思紹一党の人々に就いては、前項手登根の大比屋に就いて述べたように、日琉支(日本・琉球・中国)の間に交通、貿易して物資の交流に携わっていた人々であるから、古代部落マキョの居住者に農耕に必要なる器具を給与して、山麓にある広い平地の開拓に当らしめる。則ち原始社会から中世農耕社会への変化があったのではなかろうか。
 これは唯に与那嶺村のアツメクダ則ち古代部落の統合ばかりではない。佐敷地方に於いても、イズミクダの居住者は是を麓の平地に移して農耕民として生産業に従事せしめると共に、その古代部落の原位置は山上に在って要害の地であり、且つイズミクダという名称に依っても知られるように、水利にも恵まれた所であるために、此処に佐敷城を築いて彼等の根拠地としたものであろう。…
 注1・沖縄一千年史には手登根の大比屋は佐銘川大主の子にして、支那(中国)交通の功労者として歌われし人なり。
 注2・アツメクダとは、数個の古代部落クダを一つに纏めたという意味をもつもの。>
               佐敷グスク跡
佐敷グスク跡
 佐銘川大主は伊平屋島を逃れて佐敷に来て、大城按司の娘と結婚した。その息子が、尚思紹である。手登根の大比屋も佐銘川大主の子となれば、尚思紹とは兄弟となる。
 手登根の大比屋は、尚巴志にとっては叔父にあたる。日本・琉球・中国の間で交貿に携わっていたとすれば、尚巴志がヤマトから鉄器を買い領民に与え たという伝承の背景も、この手登根の大比屋が関わっていたのだろうか。


 <こうした佐敷地方に於ける、古代部落マキョから、中世農村部落への発達は、尚思紹一党の人々がこの地に彼等の根拠地を定めたことと密接な関係があるものと思われる。こうして尚思紹は此の地方で苗代大比屋(なえしろうぷひや)として尊敬された。大比屋は由来記に大ヒヤとも記されていて、古代部落の後期頃、マキョを代表した人物の称号として多く記されている名称である。…
 尚思紹の子尚巴志は始めて佐敷按司と称した人であって、是の頃から東部島尻に於ける尚巴志一党の勢力が強大になったように思われる。
 尚思紹から、その子尚巴志に至る頃(14世紀後半から15世紀の初め迄)、日本では足利義満が金閣を造営して栄華を極めた頃で、茶の湯の流行にともなって青磁類が珍重された。義満は又琉球に対する関心も深く、兵庫には琉球奉行を置いて琉球貿易を管理させた。こうした当時の日琉間に於ける貿易と、琉球の各地の遺跡から出土する多量の青磁磁片とを関係づけて考えるならば、当時日流支間に於いて物資の交流が盛んに行なわれていた事を知ることが出来よう。

 これはまた、沖縄側としては、鉄製器具の輸入であって、農耕のために必要なる鉄製の農機具が汎く普及するようになって、これまでマキョと称する血族部落内で、狩猟、漁猟を主として生活していた人々は、かなり急速に原始社会から農耕社会へと発達を遂げるようになり又一面に於いては武器の輸入又は製作もあって、これ迄各地に割拠していた弱小勢力は次第に強大なる勢力に合併されて、尚巴志の三山統一が割合に早く完成したのである。
 こうした佐敷半島内に於いて起った、古代社会から中世農耕社会への変化は、大小遅速の相違は地方に依っていろいろあったものと思われるが、沖縄本島内の他の地方に於いても起ったものと思われる(『沖縄の古代部落マキョの研究』)。>

  これらを見ると、尚巴志が佐敷で勢力を伸長した背景に、中国や大和との交易、鉄製農具や武器の輸入や製作、農耕社会の急速な発展などがあったことがうかがえる。

追記
 鍛冶の伝来と按司
 これまで紹介したことと重なる部分もあるが、稲村賢敷氏は、沖縄への鍛冶の伝来と按司の出現の関係についてのべている。その部分をついでに紹介しておく。 
 <鍛冶の渡来は農耕業の発達となり社会の富が著しく増大するようになった。こうして沖縄に於ける原始社会が、比較的急速に中世的農耕社会として発達するようになると、この新しい社会の支配者として、按司という勢力が現われて、古代部落のマキョの中にも次第に浸透していったようである。…
 古代部落マキョの生活は、その名称マキョにも示されているように血統を同じくする人々に依って出来た血族部落の生活である。マキョ又はマキウは、真人(マキウ)であって「まひと」とも称し、同一血統の出身者であるという意味である。従って其の組織又は支配する力となったものは血統であって、一族の始祖又はその継承者がこの同族部落の中心となって是を指導し、支配した。是を一般に根神(ネガミ)と称している。そしてこの血統部落は前に調べた通り、多くは山上にある狭隘なる地に設けられ、居住者は狩猟、漁猟が主な生業であったから、後世見られるような物質力を背景とする按司が現われる社会までには至らなかったのである(『沖縄の古代部落マキョの研究』)。>
 終わり
 

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按司には二通りの意味がある、その3

  按司の名称の由来
 稲村賢敷氏は、さらに按司の名称のもともとの由来についても考察している。
<沖縄諸島住民の始祖が、悠久の昔、この島々に来て居住した時、同一血族の人々だけで部落を作って生活した、というよりも寧ろ一人の母性から生まれ、そして育てられた人々が、マキョ又はコダと称する同族部落を作って生活した、是等の部落の中では「イチフク(一腹)マク」と称する部落の名称も、今まで残っている所もある。是うした部落では始祖又は其の継承者は絶対的権力者であって生んで下さった始祖は、生命の主(ヌシ又はアルズ)という意味で、マキョの居住者は是の絶対者に対して「アルズ」則ち所有者又は主人という意味の名称で呼んだものと思われる。基督教徒が教祖キリストに対して「吾が主」と称するのと、略近い意味を持った言葉であって、「アルズ」は後に詰まって「アズ」と称するようになったが、是が氏族の始祖に対する按司(アズ)神という称号の始めの意味でもあると私は考えている。>

 稲村氏は、もともと按司(アズ)という言葉の意味は「アルズ」であって、同族部落マキョの始祖に対する名称として起こったものだと見る。
  しかし、その後の社会の発達の中で按司の意味、支配者の名称も変容するようになる。
 <後に13世紀の中頃、牧港附近に伊祖の「てだ」と称する勢力が起こった。この地方は早くから海外との交通が開けていて、金属器具も他の地方より早く伝来し、従って農耕社会の発達も早かった。この伊祖のてだの勢力も始めは同族部落の支配者として起こったものであろうと思うが、他の地方よりも早く農耕社会が発達したために、その勢力は強大となり、遂に近隣の諸部落をも兼併して大きくなった事と思われる。オモロ歌謡の中に、それを思せるものが2、3ある。
             伊祖城跡、うらそえナビから
                  伊祖城跡(「うらそえナビ」HPから)
 オモロ15巻ノ15
一、ゐそゐその、いしぐすく あまみきょの、たくだる、ぐすく、
又、ゐそゐその、かなぐすく、
 大意 伊祖の城は、アマミキョが造った勝れた城であるよ、という讃辞である。
 註 伊祖の城は牧港の南にある丘上にある城で、その南麓には浦添村伊祖の部落がある。城壁や後方にある物見台の築造に当っては、金属器具が使用された事は明らかで、伊祖のかなぐすくという名称も生じたものであろう。

 オモロ15巻ノ16
一、ゐそゐその、いしぐすく、 いよやに、おそて、ちょわれ
又、ゐそゐその、かなぐすく
 大意 伊祖の御城よ、弥々広く、長く支配して下さるようにとの意

 この「いよやに、おそて、ちょわれ」という言葉の意味は、血族部落の「主(アルズ)」が、その血族門中の者を率いる意味とは少し違うように思われる。この襲(おそ)いが次第に広く強くなって、浦襲(うらおそ)いとなり、百浦襲(ものうらおそ)いとなる。この「おそてちょわれ」という言葉には、血族部落の線を越えて、同一血族ではない近隣の多くの部落までも支配するようになった勢力が歌われているように思われる。

 然し是の伊祖の勢力に対しては「ゐそのてだ」と称していて、按司とは称しなかったのである。是は当時各地に血族の者だけの部落マキョが多く、その支配者は「アズ」と称していた為に、数個の血族部落を兼併して、広い地方に亘って領有していた支配者に対しては、アズの上のアズであって、是を「てだ」と称したものと思われる。この「てだ」の称号は太陽(日神)を意味し、太陽のように、広汎なる地方を支配する勢力に対する名称であって、血族部落の線を越えて他の血族をも兼併する支配者の意で、王に先行する称号である。後暫くすると各地に是の伊祖のてだと同じく、血族部落を兼併して広い地方を支配する勢力が数ヵ所に現れるようになり、「てだ(日神)」という称号は適当でないので、血族部落の支配者に対する按司という名称が、この新興勢力に対して通用するようになり、今帰仁按司、大里按司、勝連按司等の称号が称せられるようになったものであろうか。
         島添大里按司の墓、計画書
        島添大里按司の墓(南城市教育委員会「島添大里城跡保存管理計画書」から)
 則ち按司(アズ)という言葉の意味は「アルズ」であって、同族部落マキョの始祖に対する名称として起こったものであるが、後に古代史の末頃になって、金属器具の使用が次第に普及するようになり、農耕社会が発達するようになって、武力に依る支配者が各地方に現れるようになると、この新興勢力の支配者に対しても按司(アズ)という名称が使用されるようになったと私は解釈しているのである。>

  稲村氏は、農耕社会が発達するなかで、いくつかの「血族部落を兼併して広い地方を支配する勢力が数ヵ所に現れる」ようになり、「血族部落の支配者に対する按司という名称が、この新興勢力に対して通用する」ようになったとのべている。
按司の語源については、歴史家の比嘉春潮氏も同様の見解だという。
<比嘉春潮氏の著書「沖縄の歴史」にも、按司の語源は「アルズ」であるという事が述べられている。私もこの説に同意する。
 そして是の名称の起源に就いては、古代血族部落マキョの始祖に対して、マキョの総ての物が所有者であるという意味で、アルズ、又はウプアルズと称した事が始めであり、詰まってアズ、又はアズ神と称するようになり、中世以後武力を以て城廓を築き、住民を支配するようになって権力者に対しても、絶対的支配者の意味で按司という名称が使用されたものであろうと思われる。>

  稲村氏は、著書の最後のところで、按司の語源と変容について、次のようにまとめてのべている。
 <沖縄のマキョと称する血族の集団社会、それは私が本書に於いて沖縄島の各地に亘って調査した結果について述べたように狩猟、漁猟の自然の恩恵に依って生活していた社会であって、血族の宗家を中心として血族部落をつくり、其の宗家の継承者は根神(ネガミ)と称してマキョの始祖の母権を継承して絶対的の権威を以てマキョを指導していた。この根神のことを「ウプアルズ」又詰まって「アズ(按司)」と称したのであるが、マキョの後期になって新興勢力として、血族関係とは別の生産器具又は武力を有する勢力が興ってマキョを兼併して次第に強大なる勢力をつくるようになって、血族部落の根神に対する称号であったアズ(按司)という名称も、次第にこの新興勢力の首領に対する名称として使用されるようになり、原義の意味は次第に忘れられて、この第二次的の名称として固定して、アヂ(按司)といえば領主の事であるとして名称の意味が固定したように考えられる(『沖縄の古代部落マキョの研究』)。>

 稲村氏の見解について、他の歴史家の評価がどうなのかは知らないが、この見解によって、琉球の歴史の上での按司の由来と意味、その役割、領主ではない場合にもその名称使われることの説明としてとても説得力があると思う。

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按司には二通りの意味がある、その2。始祖

 始祖を意味する名称にも使われた「按司」
 稲村賢敷氏は、さらに以下のように議論を展開している。
 <然し斯かる按司とは全然その意味を異にしたもので、この上津覇の嶽の碑に記されているように、上津覇按司、又は大湾按司という場合の按司という名称は領主とか城主とかいう意味は全然なく、上津覇門中(大氏族)、大湾門中(小氏族)の始祖に対する名称として使用されている場合があるのである。>

 <私は国頭村字比地のウンジャミ祭を調査した時字比地の各氏族が、それぞれ別個に拝所をもちそして其の氏族の拝所の祭祀は、各氏族の人々だけで執行しているのを見て、この拝所の神は何と申し上げるかという事を尋ねたことがある。是の人々はそれぞれ拝所でアズ神(按司神)と称して祭祀を行なっているんだという答えであった。この場合のアズ神は一族門中の始祖に対する名称であって、かの上津覇ノ嶽に祭られている、上津覇按司、大湾按司という名称と全く同じ意味であって、一族の始祖に対する名称である。彼の中世以後になって新しく起こった武力を有し城を有し又は世襲的官僚化した意味の按司(アズ)とは全然別個の意味に使用されている事は明らかである。…
             沢岻按司墓
               浦添市沢岻にある沢岻按司墓
 同一氏族の始祖に対して、上津覇門中の人々は按司神(アズガム)と称しており、又国頭村字比地でも彼等の始祖に対して按司(アズ)神と称して居り、宮古池間島でも按司神という名称に敬称に当たる「大(ウプ)」を冠して大按司神(ウパアルズ)が詰まって「ウパルズ神」という名称を以って称しているのである。…
 則ち按司という名称の意味として、一氏族の始祖に対する名称として、池間島の「ウパルズ」、狩俣部落の「てだの大按司(ぷーず)」、沖縄島に於いては中城間切、津覇村では上津覇按司大湾按司等の名称があり、国頭間切比地村では按司神と称している。これ等の用例から見て、氏族の始祖に対して、「アズ」又は「ウプアズ」という称号が用いられた事が考えられる。(『沖縄の古代部落マキョの研究』)>
 
 このように稲村氏は、「一氏族の始祖に対する名称として」も按司、按司神と称したことが「按司」の起原であることを明らかにしている。私が前に見た拝所の按司の名もこのような意味で使われていたのだろう。

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按司には二通りの意味がある、その1

 「按司」には二通りの意味がある

 初めて沖縄の歴史を学ぶ人にとって、最初当惑する言葉に「按司」がある。日本史ではあまり聞かない概念だからだ。稲村賢敷著『沖縄の古代部落マキョの研究』を読んでいると、「按司(アジ)」という言葉には二通りの意味があると述べている。一般には地方を支配する豪族、領主の意味で使われている。
 しかし、以前に那覇市内の地域回りをしていて、拝所に「按司」の名札を見かけて、「こんな場所に按司の名があるのはなぜだろうか。これは領主的なものではなさそうだが?」と思ったことがある。稲村氏の著書を読んで、「なるほど二通りの意味があったのなら、納得できる」と感じた。それで、稲村氏の按司についての論考を紹介する。

 その前に、「ウィキペディア」は按司について次のように説明している。
 <歴史的には、按司は農耕社会が成立したグスク時代の12世紀頃から琉球諸島各地に現れた、グスク(城)を拠点とする地方豪族の首長やその家族など、貴人の称号として使われた。元来、琉球には、王号や王子号がなく、その代わりに按司の称号が用いられていたのである。按司は、他に「世の主」、「世主(せいしゅ)」などとも呼ばれていた。>
按司のそもそもの語源についてはふれていない。

 按司の二通りの意味とは
 次に稲村氏の著書から紹介する。
 <按司(アズ又はアンズと訓ず)という言葉の意味は二通りあるように思われる。
 一般には国頭按司、今帰仁按司、勝連按司、大里按司として使用されているように、一地方の領主に対する称号として用いられていて、中世以後各地に勢力家が輩出して、領地を有し、城郭を築き、家臣を養い、武力を以ってその勢力を守るようになった人々に対して按司(アズ又はアンズ)という称が用いられたようである。そして是等の按司は16世紀の始め頃、尚真王の時に、地方にある彼等の領地又は城郭を引き揚げて、首里に居住することになった。そして其の旧領地には按司掟(アジウッチ)と称する領主の代官に相当する役人が居住して、中央の命令に依って政治を行なうようになった。これを一般に尚真王の中央集権と称しているが、この首里に引き揚げてからの地も彼等はやはり前と同じように按司(あず)と称せられた。

 即ち廃藩置県当時まで存続していた30余ヶ所の按司家は是であって、勿論城もなく家臣もなく武力は全然ない官僚化した世襲的の称号であって、唯封禄を受ける権利と、元の領地に対して若干の世襲的権力を有したに過ぎない。即ち置県前まで称していた今帰仁按司、宜野湾按司、義村按司等というのは、こうした人々であって、中世期に於ける武力を有する按司とは、その実力に於いて大きな相違があったが、やはり世襲的名称として按司と称したのである。是等は按司という名称の一つの意味として解釈していいように思われる。
 こうした中世期以後、武力を有し家臣を有し城を有し領地を有する按司と称する人々、又その後継者に当る人々で、城もなく家臣もなく武力は全く失って一の官僚的存在になったが、世襲的に若干の権力を与えられていた人々に対しても是を按司と称した。
                      長嶺按司碑
                        長嶺按司之碑(豊見城市)

 按司が領主とは異なる意味でも使われた
 続いて稲村賢敷氏は、自分の調査結果に基づいて、「按司」が領主とか城主の意味とは異なる名称としても使われていることを明らかにする。
 中城村津覇に「上津覇ノ嶽」があり、そこの小祠の碑には「上津波按司御嶽」と記されている。「上津覇門中の人々が、彼等の始祖則ち津覇コダの部落を創始した元祖に対する名称として、特に注意すべきである」という。この碑には「大湾按司次男呉屋(以下不明)」とも記されており、「是は上津覇門中から分れた小氏族の開祖(則ち分家始祖)大湾按司の次男呉屋云々という意味であろう」という。
 <この碑に記された、上津覇按司、大湾按司という名称は、後世一般に称せられる領主又は城主に対する名称として使用する「按司」とは異なり、一族の始祖に対する名称として使用されたものである。この始祖に対する名称として「アズ」と称したのが按司(あじ)という名称の起原である>

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按司と鍛冶遺跡、その5

 沖縄の鍛冶は日本から伝来
 稲村賢敷氏は、琉球の古謡集「おもろさうし」や先島に伝わる古謡を見ると、沖縄の鍛冶は日本から伝来したものであることを物語っているとのべている。

 「鍛冶の伝来と鍛冶のオモロ」
 <鍛冶が日本から伝ったものである事は、充分に考えられる事である。これに就いては鍛冶のことを謡ったオモロがあるから、先ずこれに就いて調べることにしたい。

 久志村字久志のオモロ(略)
 <この中に謡われている鍛冶道具の名称に就いて調べて見たいと思うので紹介した訳である。次に鍛冶の道具の名称に就いて、日本語、国頭地方々言(前述のオモロに依る)宮古地方の方言(多良間島に伝わる鍛冶神の民謡)を対照して見ることにしたい。(写真)
 この鍛冶に使用する諸器具の名称が、日本、国頭、宮古を通じて、総て日本語の名称を使用しているという事は、鍛冶が日本から伝わったことを証する重要なる史料であると考えていいように思う。
               鍛冶道具の名称、稲村賢敷著

               

 多良間島に伝わる鍛冶神のニーリ(略)
 <この「ニーリ」には鍛冶の伝来に就いてはっきりと日本から伝来したことが歌われている事は注目すべきである。則ち鍛冶神は始めて日本島に生まれて、多くの鍛冶道具を造り、是に依って日本島を育て且つ教え、更にもっと弘く育てたいために、船を浮かべて、鍛冶道具を荷積みし、沖縄島に御出になり、沖縄の北から南に弘め、更に弘く育てたいために、船を浮かべて宮古島に御出になり、宮古島の北から南に弘め、更に弘く育てたいために、船を浮かべて多良間島に渡られたということを述べている。>
鍛冶神はさらに八重山にも渡り、最後は与那国島に渡ったとされる。これでけはっきりと鍛冶の伝来のルーツと経過を伝えた古謡があることはとても興味深い。

 <宮古で鍛冶を伝来した諸神は、
(1)友利村嶺間御嶽神名あまりほう泊主(倭神であると記されている)
(2)平良市船立御嶽神名金殿、しらくにやすつかさ、(久米島から渡来した)
(3)伊良部村長山御嶽神名倭神金殿神、
(4)伊良部村比屋地御嶽神名あからともがに(久米島から渡来した)
(5)多良間村運城御嶽神名うえぐすく金殿(やまと神、ニーリに謡われている神)
等の五箇所である。
 是等諸神はいずれも、神名を金殿と称し、「日本(やまと)又は北方(久米島)から渡来し」、農具を製作して島民に与えたので島民はその徳を讃え農業神として、御嶽を建てて御祭りしたと伝えられている。島立の神則ち祖先神とは別個であって、宮古島の開基と鍛冶の伝来とは別個で、時代の差違あることを物語っている。>
 以上、稲村賢敷著『沖縄の古代部落マキョの研究』からの紹介である。
 終わり

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按司と鍛冶遺跡、その5

 沖縄の鍛冶は日本から伝来
 稲村賢敷氏は、琉球の古謡集「おもろさうし」や先島に伝わる古謡を見ると、沖縄の鍛冶は日本から伝来したものであることを物語っているとのべている。
 「鍛冶の伝来と鍛冶のオモロ」
<鍛冶が日本から伝ったものである事は、充分に考えられる事である。これに就いては鍛冶のことを謡ったオモロがあるから、先ずこれに就いて調べることにしたい。
                  鍛冶道具の名称、稲村賢敷著
 久志村字久志のオモロ(略)
 <この中に謡われている鍛冶道具の名称に就いて調べて見たいと思うので紹介した訳である。次に鍛冶の道具の名称に就いて、日本語、国頭地方々言(前述のオモロに依る)宮古地方の方言(多良間島に伝わる鍛冶神の民謡)を対照して見ることにしたい。(写真)
この鍛冶に使用する諸器具の名称が、日本、国頭、宮古を通じて、総て日本語の名称を使用しているという事は、鍛冶が日本から伝わったことを証する重要なる史料であると考えていいように思う。>

 多良間島に伝わる鍛冶神のニーリ(略)
 <この「ニーリ」には鍛冶の伝来に就いてはっきりと日本から伝来したことが歌われている事は注目すべきである。則ち鍛冶神は始めて日本島に生まれて、多くの鍛冶道具を造り、是に依って日本島を育て且つ教え、更にもっと弘く育てたいために、船を浮かべて、鍛冶道具を荷積みし、沖縄島に御出になり、沖縄の北から南に弘め、更に弘く育てたいために、船を浮かべて宮古島に御出になり、宮古島の北から南に弘め、更に弘く育てたいために、船を浮かべて多良間島に渡られたということを述べている。>
鍛冶神はさらに八重山にも渡り、最後は与那国島に渡ったとされる。これでけはっきりと鍛冶の伝来のルーツと経過を伝えた古謡があることはとても興味深い。

 <宮古で鍛冶を伝来した諸神は、
 (1)友利村嶺間御嶽神名あまりほう泊主(倭神であると記されている)
 (2)平良市船立御嶽神名金殿、しらくにやすつかさ、(久米島から渡来した)
 (3)伊良部村長山御嶽神名倭神金殿神、
 (4)伊良部村比屋地御嶽神名あからともがに(久米島から渡来した)
 (5)多良間村運城御嶽神名うえぐすく金殿(やまと神、ニーリに謡われている神)
 等の五箇所である。
 是等諸神はいずれも、神名を金殿と称し、「日本(やまと)又は北方(久米島)から渡来し」、農具を製作して島民に与えたので島民はその徳を讃え農業神として、御嶽を建てて御祭りしたと伝えられている。島立の神則ち祖先神とは別個であって、宮古島の開基と鍛冶の伝来とは別個で、時代の差違あることを物語っている。>
 以上、稲村賢敷著『沖縄の古代部落マキョの研究』からの紹介である。
          終わり

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按司と鍛冶遺跡、その4

 按司と城下の鍛冶遺跡
 鍛冶遺跡のことを書いていたのに、「今帰仁系」のことに入り込み、話しが横道にそれてしまった。本題に戻る。
稲村賢敷氏は、鍛冶遺跡は、按司やグスクと密接な関係があるので、改めて各地の按司と城下にある鍛冶遺跡をまとめて記述している。先述したところと重なる部分もあるが、紹介しておきたい。
 <各地の強盛なる按司の城下には鍛冶遺跡がある。これは鍛冶をして武器を製作させたばかりではなく、主として農耕に必要なる生産器具を製作させた、尚巴志に関する逸話として武器を作るよりも農具を先に作れと言ったという話がある。これはよく当時の武将の気持を言い表わしているように思われる。
 
 次に各地にある鍛冶遺跡を記し、按司との関係を述べたいと思う。(年代不明)
 一、和解名の鍛冶遺跡
 南山城(注・糸満市の島尻大里城)の東北城外、和解名(ワダキナ)は俗説に依れば、源為朝が渡琉して、大里按司の妹と同棲していた旧跡であると伝えている。著者は和解名を数回に亘って調査した結果、同所を中心とした三反歩程の地域に亘り多量の青磁破片と、主として地域の東方から鉄滓の相当量を拾得した。
 是に依って考えると和解名の居住者は支那(中国)大陸に交通往来した者で、そして鍛冶であった事は間違いないと思う。…
和解名の鍛冶は主として南山王のために武器を製作し又附近の居住者のために農具を製作したものであろう。

 二、大里城下にある鍛冶跡
 大里城(注・南城市の島添大里城)外南方にあるカニマン墓と称する岩上墓の南方から少し許りの鉄滓を拾得した。カニマンという名称も鍛冶に対して称せられたようであるが、この鍛冶は大里城主のために武器を製作したものであろうが、あまり数量が多くなかったものと思われる。
                 IMG_3720.jpg
                           南山城跡
 三、内間カニマンの鍛冶跡
 那覇市北方、浦添村との境にある字内間の北方に鍛冶跡がある。この鍛冶は主として農具の製作に当ったようで、内間、安謝附近の田圃の開拓には功労があったものと考えられる。
 内間カニマンは内間グシク、又は掟カニマンと称しているから、彼自ら按司としての勢力を持っていたようであるが、強盛に至らずして浦添の配下になったものであろうと思う、しかし是の付近にあった多和田マキウ、シグルクコダの居住者は、この鍛冶の御蔭で早くから農耕生活にはいったものと思われる、これが恐らく字内間、字銘苅、字安謝の起原であろうと思われる。
 
 四、浦添城下の鍛冶遺跡
 浦添城の南麓、浦添小学校の北方にある大きな鍛冶跡である。鉄滓も相当に拾得される。崖下の洞窟は相当に広く、且つ湧水が流れて拾集には困難である。猶くわしい事はシーマ山の項を参照されたい。シーマ山中腹に居住していたシママキウの居住者は、この鍛冶の御蔭で早く鉄製農具を支給され、シーマ山の南麓に下って農耕生活をするようになった、これが浦添村字仲間の起原である。

 五、中城城下の鍛冶跡
 中城城下の正門の西方に鍛冶跡がある。少し許りの鉄滓を拾得したが直ぐ西方が崖になっているので拾得には困難である。この鍛冶も城主のために武器及び農具を製作したものと思われる。
 中城付近にあるキシマキウ、津覇コダ、富里マキウ、糸蒲門中の人々が、此の恩恵をうけて、早くから農耕生活にはいったことが考えられる。キシマキョの項に於いて述べたようにキシマキョの山岳上に生活していた古代人が、東方に向って山を下り、字当間、字奥間の部落を作って農耕生活をした事は口碑として伝えられているし、又津覇コダ、富里マキョ、糸蒲門中の人々が東麓の平地に下って字津覇の部落を作り、農耕民としての生活をしたことも口碑として残っている。
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                           中城城跡
 六、勝連城下の鍛冶遺跡
 勝連城の東麓にある南に向かった城門附近から、東に約80米程行くと、左手側に広大な鍛冶遺跡がある。南に向い間口焼く約10米、奥行3米位、洞窟の高さ2米程で、鍛冶跡として最も広大なるものである。鉄滓の出土も最も多く、おそらく数十年から百数十年の長期に亘って、武具、農具類の製作に当ったものと思われる。勝連鍛冶の後裔であると称する勝連村字南風原の仲間家には鍛冶の鞴を祭っている。同家の口碑に依れば先祖は勝連城内に居住していたと伝えていて、その居宅から東方に城内を通って鍛冶跡に通ずる通路もあるという話である。
 猶この字南風原の仲間家は、浦添村按司仲間の仲間家(浦添鍛冶の本家)とも関係があり、7年に1回宛は浦添仲間家の祭祀に参加しているという話であった。
 猶、浦添仲間家、勝連字南風原の仲間家、国頭村字奥間のアガリ家、浦添村字内間の鍛冶は皆カニマンと称し、浦添村字仲間家と関係があると称しているが、何れが鍛冶の宗家であるかは明らかではない。

 七、具志頭村ハナ城(グスク)城内の鍛冶
 この具志頭ハナ城城には鍛冶が居たという事が伝えられて居て、其のために城の別称をタダナ城(鞴のある城の意)とも称するという事である。又鍛冶が居たという証拠としては、城の城下町に当るナハ城部落の住民は、城内と交易をして、早くから農耕が発達し富裕で「とよむ玻名城(はなぐすく)」として知られていた事が、オモロ歌謡にも数首謡われている。城下の鍛冶が其の附近の居住者に対して大きな恩恵を与えたことは、ハナ城城(一名タダナ城)に於いて最も明らかである。
 玻名城タダナ城の年代に就いては、英祖王統第2代大成王の第2子が具志頭按司を命ぜられたという口碑があり、彼は具志頭按司として任地に下り、具志頭城を築造して、この玻名城タダナ城の勢力に備えたものと思われる。依ってタダナ城の年代は英祖王統第2代の頃と考えていいかと思われる。>

 <以上7ヶ所の鍛冶遺跡は、何れも城と関係があって、当時勢力のあった按司は遙々日本から鍛冶を招聘して、是を城内に置いて好遇し又黒鉄を買い入れて武器を製作し、傍ら農具を製作して城下の住民に分け与えて農耕を勧め、貢租を納めしめ、富国強兵の策を図ったものと思われる。この経済面、政治面の方策に成功した按司が則ち勝利者であって、堅固な城郭を築造し、多くの兵を養って、附近の弱小勢力を兼併して次第に大をなしたように思われる。

鍛冶跡がなくても、按司がその城下に農民を集めて、其の城下の富強を計ったことが伝説に依って伝えられている所がある。
1、尚巴志が其の城下の百姓に鉄製の農具を給与して、農耕を奨励したことは前述したとおりであるが、其の城下にはまだ鍛冶跡が見つかって居ない。
  然し尚巴志の居城から一里以内にあった古代部落は、皆麓の平地に下って農耕の生業を営み、農村として発達した。(あとは略)>
以上、稲村賢敷著『沖縄の古代部落マキョの研究』からの紹介である。

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按司と鍛冶遺跡、その3

 大里城附近のカニマン墓
 稲村賢敷氏の著書『沖縄の古代部落マキョの研究』では、南城市の島添大里城付近のカニマン墓についてもふれている。
<カニマン墓(大里)
 大里城の南方城外にある高さ20尺程、周囲50余尺の巨岩の頂上にある。巨岩の頂上は直系6尺程の凹所になっていて、此処には立派な彫琢された石を積んでボーンター型に造られた納骨所がある。中には屍体が葬られている事と思うがまだ発掘されていない。発掘したら埋葬の方法等も明らかになると思う。この墓はカニマン墓と称せられていて、大里城内に居住した鍛冶工の墓であると思う。
 私はこのカニマン墓の附近から少し許りの鉄滓を収得したから鍛冶工が居住していた事は確かである。>
                  カニマン御嶽、南城市教育委員会計画書
               カニマン御嶽(南城市教育委員会「島添大里城跡保存管理計画書」から)
 大里城址の西側には、カニマン御嶽がある。御嶽という名称だが、納骨されるお墓のようだ。
 「石灰岩の岩盤の上部に造られた拝所である。その形態は、円筒形を呈しており、上部に円形の屋根石が乗せられ、頂部には宝珠が置かれている」(南城市教育委員会「島添大里城跡保存管理計画書」)。
 稲村氏が言う「ボーンター型」のカニマン墓とは、この円筒形で屋根石が載せられた形のカニマン御嶽のことを指しているのではないだろうか。「ボーンター型」とは、墓の頂部が半円球の形をした大城按司の墓「ボントゥー墓」と同じ形のことだろう。写真で見る限り同形である。

 カニマン御嶽には、誰が祀られているだろうか。
 <島添大里グスク以前の城主の関係者が祀られているとか、島添大里グスクが滅ぼされた際の戦死者、または按司の家来で「金松」という人物が名前の由来ではないかともいわれているが、詳細は不明である(南城市教育委員会「島添大里城跡保存管理計画書」)。>

 ここには、奥間カンジャーの墓があるとも聞く。
 「奥間大親(中山王・察度の父)の父は奥間カンジャーと称し、中城間切奥間村から宜野湾間切真志喜村に移り住み、百名大主(ヒャクナウフヌシ)の十二男真志喜大神(マシキウフガミ)二代目真志喜五郎の養子になった。奥間カンジャーの墓は、大里城址西側の金満御嶽(カニマンウタキ)にある」(伊敷賢著『琉球王国の真実―琉球三山戦国時代の謎を解く』)。
 大里城址には何度も行ったが、残念ながらカニマン御嶽は見ていない。

 大里城跡を調べた方によると「主郭の広場からカニマン御嶽へと続く道の途中にある、石積みの墓(ウフウタキ)。奥の方にある小さな墓の石碑には、『奥間ハンジャナシー前之墓』と記されている」という(「沖縄島の写真『大里城址公園』HPから)。
 この「ウフウタキ」は「先の島添大里グスクの城主(今帰仁系)もしくはその家来の墓ともいわれているが詳細は不明である。今帰仁系の門中である宮城家が拝みに行っている」という(南城市教育委員会「島添大里城跡保存管理計画書」)。
                   奥間ハンジャナシー前之墓、計画書
              奥間ハンジャナシー前之墓(南城市教育委員会「島添大里城跡保存管理計画書」から)
 先の島添大里グスクの城主とは、「今帰仁系」とはどういうことだろうか。
 孫薇(スゥンウェー)氏=天津工業大学教授=の著作『中国から見た古琉球の世界』では、次のような記述がある。
 南城市大里西原のウフ殿内という神家の資料では、大里世主王と呼ばれる人物が、察度王、武寧王、山南王とともに祭られている。それによれば、今帰仁按司が「大里世主父」と記されている。
 <この「大里世主王」が「王」と呼ばれた時期は、だいたい1392年から20年も後のことだと推測できる>
 
 尚巴志が島添大里城を攻略したのが1402年(1403年とも)だが、その時の城主は、南山王となった汪応祖の弟の屋冨祖(やふそ)だったされる。その後、尚巴志は中山を攻略し、北山を滅ぼし、1429年に南山を攻めて琉球統一を果たした。「大里世主王」はこの尚巴志の支配下で大里世主王を名乗っていたのだろうか。しかし、北山王の攀安知(はんあんち)を滅ぼした後、今帰仁按司の子が大里世主王に就いていたのか、よくわからない。それとも時代が異なるのだろうか。

 また、この神家には今帰仁の山北王の側室として仕えた美女・志慶真乙樽(シケマウトゥダル)、今帰仁御神とも呼ばれた女性の絵がかけられており、「この今帰仁御神と呼ばれ、今帰仁城にいた王の側室の伝説を通じ、山北王とも呼ばれる今帰仁按司が、琉球国の北部今帰仁城から南部大里へと移動してきた歴史が見られた」(孫薇著同書)とのべている。
 
 志慶真乙樽は、今帰仁で帕尼芝が北山王となる前、「仲北山」の時代にいた人物である。今帰仁按司が「南部大里へと移動してきた」というのは、いったいどの時代なのか、よくわからない。ただし、時代が整合しないところはあるけれど、今帰仁按司が大里に移動して来て、その子が大里世主王を名乗っていたという伝承は、とても興味深いものがある。

 なお、古琉球の伝承を丹念に集めた伊敷賢氏は「1260(文応1)年、王になった英祖は5男を大里按司として南山領域の東大里城に(島添大里城のこと)送り込んだ」「英祖王5男・大里王子が『仲南山』初代となり2男1女を生み、長男は島尻世之主大里按司として『仲南山』二代目を継がせ、次男を東大里城主玉村按司に配して勢力拡大を進めた」としている(『琉球王国の真実―琉球三山戦国時代の謎を解く』)。

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按司と鍛冶遺跡、その2

 按司と関わりを持つ鍛冶
 稲村賢敷氏さらに、八重瀬町具志頭の玻名城グスクと住民との関係について具体的な事例を見ている。以下、稲村賢敷著『沖縄の古代部落マキョの研究』からの紹介である。
 <こうした関係は具志頭村はなぐすく城とその城下の玻名城村との間にも見られる。
 オモロ19巻ノ46(略) 
 オモロ19巻ノ48(略)
 是等のオモロに依って知られるように、当時鉄製農具が少なかった社会では、鍛冶に依って鉄製農具を与えられ、思うように耕作したいという欲求は非常に旺盛であって、鍛冶の勢力下に多数の農民が集まったことは充分に考えられることである。この鍛冶と農耕業の関係は沖縄の産業更に社会発達史上、重要な事項であって又史料も相当あるけれども、それが文献の上に記されている事が少ないために余り重要視されていない。
 沖縄の自然は鉄に恵まれていない。鉄の産出が全然ないという事は、又鍛冶技術が沖縄で起こったものではなく海外から伝来したものであるという事を示すものである。この鍛冶技術の伝来が後れた事が沖縄の産業及び社会の発達を後らしめた根本の原因であると私は考えている。>
 具志頭の玻名城グシクと鍛冶については、後からもう少し詳しくふれている。

 次に、那覇市小禄のカニマン墓について記している。小禄を前に歩いたとき「カニマン御嶽」があり、「金満ミテン」という石碑を見たことがある。
                金満ミテン006
                       小禄にある金満ミテンの碑
 <小禄カニマン墓
 小禄カニマンは鍛冶工であると云い伝えられ、小禄、豊見城地方の農業の発達に貢献した功績は大きく、今でもその子孫であると称する堀川鍛冶を中心として、毎年祭祀が施行されている。更に大里村字西原地方にも数個の岩上墓がある。>

 <小禄ノ嶽神名ミキョチャマベノ御イベ 小禄間切、小禄村(由来記)
 マキョの西方200米程行くと小禄カニマンの丘陵地になるが、此処には古くから鍛冶工が居住していたいという伝説があって、丘陵の中腹に東面して小禄カニマンの墓地がある。
 小禄カニマンの鍛冶跡を調べるために、この附近一帯捜したけれども遂に見つけることは出来なかった。このカニマン丘陵は小禄の墓地々帯になっていて…カニマンの鍛冶跡は早くから掘り壊されたものと思われる。多分この小禄カニマン墓地の南方斜面で、墓地から遠く離れない所に鍛冶跡があったものと思われる。彼は鉄製の農耕器具を製作して附近の住民に分け与えた伝説があり、附近に農民多く集まって農耕部落が起こったものであろう。 

 数百年を経て、この小禄カニマンの子孫は、カニマン丘陵の南方5,600米程離れた田原邑に移り、此所でカニマンの家業を世襲して鍛冶を営み、この地方の農耕業の発達に寄与した。この田原の居住地の東にある小丘上には小禄カニマンに対する小禄遥拝所が現在も残っている。…
 大嶺邑には農業神として土地君(トウテーク)の像が大戦前まで祭られていた。>

                 森口公園
                   拝所がある小禄の森口公園

  <宮古諸島では農業神として総て鍛冶神を祭っている。…
  小禄土地君(トウテーク)祠を建てて、支那(中国)から土地君の像を持ってきて祭るのもいいが、小禄カニマンが早く是の地に来て、鉄製農具を作り出してこの附近の農業の発達を促した功績は大きい。寧ろ事実上の農業神は、この小禄カニマン丘陵上に祭られている鍛冶工であり、又内間グシクの岩上墓に祭られている「チャヌチカニマン」であり、又天久ノ嶽西方崖上の鍛冶工であると言うことも出来るのである。>
 
 稲村氏は、鍛冶は、鉄製農具を作り、農業の発展を促したので、その功績は大きく、鍛冶工は崇拝を受け事実上の農業神であることを強調している。

 小禄のカニマンとは、中山王・察度の弟で、初めて中国・明に朝貢し交易をしたことで知られる泰期のことだとも言われる。泰期は奥間鍛冶屋の始祖であり、金満按司と呼ばれた。
 比嘉朝進氏は、察度が中山の拠点を浦添城から首里城に移したことに伴い、泰期も那覇に移ったと見る。

 「泰期は那覇港に近い小禄森口原の標高45㍍の丘に、小禄城を築いたといわれ、金満(カニマン)城ともよばれた。後(クシ)ヌ嶽は金満御嶽ともいゝ、泰期金満按司を祀る拝所といわれている。小禄城から南東に1㌔半の近距離にある南山系の豊見城城とは小競り合いがあったという」(比嘉朝進著『沖縄戦国時代の謎』)。
 泰期については、このブログの「奥間鍛冶屋の伝承をめぐって」で少し詳しく述べているので、関心のある方は読んでみてほしい。


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