レキオ島唄アッチャー

中部に支配を広げた伊覇按司とその子孫、その2

 「ムートゥヤ・ナキジン(元は今帰仁)」
 伊覇按司系統の発展を、こんどは伊敷賢著『琉球王国の真実』から紹介しておきたい。
『具志川市誌』とは多少異なる伝承や初代伊覇按司の次男の息子で名高い護佐丸などについても記されているからである。

 伊覇村に逃げた今帰仁子
 <今帰仁按司丘春には仲宗根若按司のほかに名護按司・大宜味按司・先代大湾按司・先代山田按司の4名の息子がいて、「仲北山」落城後は方々に散って再起を待っていた。…
 1374(文中3)年、戦で深手を負った「仲北山」城主仲宗根若按司は、…息を引き取った。…父の遺体を葬ったあと、8男今帰仁子(ナチジンシー)は美里間切伊覇村に逃げた。…
 今帰仁子は美里大主(大里林昌公)に認められて婿となり、伊覇(伊波とも書く)城を築き初代伊覇按司となった。伊覇按司と妃・真鶴金の間には3男1女が生まれ、長男は伊覇按司2代目・次男は山田按司・三男は大湾按司となり「仲北山」の再興を誓い合っていた。伊覇按司の娘真鍋金は尚巴志に嫁ぎ、後の尚泰久王が生まれた。>
伊敷氏は、初代伊覇按司について、仲北山城主の仲宗根若按司の8男、今帰仁子が伊覇村に逃れ、美里大主に認められて 娘の婿となり、初代伊覇按司となってとしている。
            伊波城跡、うるま市HP  
                              伊波城跡(うるま市HPから)

    伊覇按司系統の発展 
 <「仲北山王」仲宗根若按司の息子の8男、今帰仁子は名護・読谷山経由で越来間切(後の美里間切)嘉手苅村に逃れ美里大主(ンザトゥウフヌシ、林昌公)の婿になり、長じて伊覇城を築き伊覇按司初代となった。伊覇按司の息子や孫たちは、読谷山間切や勝連間切など沖縄中部に城を築き勢力を広げていった。
 伊覇按司初代の長男は、伊覇按司二代目を継ぎ、次男山田按司は読谷山間切読谷山村(後に山田村になった)に山田城を築き、三男の大湾按司は読谷山間切大湾村に大城を築いた。>
 伊覇按司の息子や子孫は、読谷山間切や勝連間切など沖縄中部に勢力を広げたという。

 <(伊覇按司の)長女・真鍋金は尚巴志に嫁ぎ、越来王子(後の尚泰久王)を生んだ。伊覇按司初代には、他にも楚南按司など外子がいて、8人の息子がいたとされる。
 伊覇按司の次男の山田按司は、長男・伊寿留(イズルン)按司、次男・読谷山按司護佐丸(ゴサマル)盛春、三男・大城掟親雲上清信を生んだ。次男の護佐丸は父の跡を継いで読谷山按司になったが、座喜味城を築いた後に中城に移り中城按司になった。長男の伊寿留按司は中城山頂に伊舎堂村を創り護佐丸を補佐していたが、護佐丸が滅んだ後に百姓になり伊舎堂村も海岸近くに移動し、富豪の屋号伊寿留安里の祖になった。三男の大城掟は護佐丸滅亡後、中城間切大城村から那覇に移り住み金丸の革命を成功させた人物で、安里村を拝領し安里大親と名乗った人物である。それ以前の安里村は第一尚氏の領地であった。>

 <護佐丸は逆賊として成敗されたので、その一族は方々に隠れたが、第二尚氏になって政権に復活し、子孫の毛氏は沖縄各地に繁盛してその数は3万人ともいわれる。
 伊覇按司2代目は尚巴志の義兄弟となって北山攻めや南山攻めで活躍し、弟や息子たちを各地の城主として配置した。安慶名大川按司をはじめ幸地按司・勝連按司6代目・玉城按司・高瀬按司・瀬長按司などが、北山や南山滅亡後の新しい城主になった。>

 伊敷氏によれば、安慶名大川按司初代には4名の男子がいて、次男、屋良大川按司と「後南山」から逃げてきた兼城若按司の娘との間に生まれた子が、阿麻和利加那であるという。4男の喜屋武按司の子が鬼大城(ウニウーグスク)と呼ばれた越来親方賢勇で、後に阿麻和利を討伐した武人である。鬼大城と阿麻和利は、又従兄弟という関係に当るという。
 伊敷氏によれば、中城城と勝連城で対抗した護佐丸と阿麻和利も同じ伊覇按司系の一族となる。
 <「仲北山」の遺児の今帰仁子から広がった伊覇按司一族の発展は、尚巴志王と姻戚を結んだことにより発展し、沖縄中に子孫を残した。それで、後世の人は「ムートゥヤ・ナキジン(元は今帰仁)」というようになった…(『琉球王国の真実』)>



スポンサーサイト
沖縄の歴史 | コメント:0 | トラックバック:0 |

中部に支配を広げた伊覇按司とその子孫、その1

 金満按司が具志川に住んでいたことを書いたとき、父親である奥間大親系の勢力は伊覇按司に亡ぼされたことを紹介した。では、伊覇按司とはどのような人たちで、具志川を始め中部にどのように勢力を広めたのだろうか。

以下、伊覇按司系の治政(安慶名大川按司系)を主に『具志川市誌』から紹介する。

 伊覇按司
  <西暦1322年(注・1374年ともされる)怕尼芝(ハニジ)に亡ぼされた仲昔今帰仁按司の地方へ四散した子孫の一人は、遠く美里間切伊覇村(楚南村ともいう)に逃げ、伊覇村の女を妻にして、8男一女をもうけ、中南部地区の各城主に成功した。そのうち8男が初代伊覇按司である。安慶名大川城の築城は今より600年前であろう。初代伊覇按司は具志川地域更に勝連地域まで支配下に入れて按司を支配する世之主への欲望があった。そのために血縁である天願按司を先ず支配下においた。そして沖縄唯一の長い川天願川を背に田場平野を見下ろす安慶名お嶽に城を築き、5男を配し、初代安慶名大川按司とした。>

 怕尼芝に亡ぼされた仲昔今帰仁按司の子孫の一人が伊覇村に逃げ、伊覇村の女性を妻にして生まれた8男が初代伊覇按司だという。そこから伊覇按司系の勢力が広がる。


 <初代安慶名大川按司は3男を後天願按司として具志川地域の津口であり、要衝である具志川城に配し、4男を喜屋武城に配した。そして江州地区(江州村、宮里村、高江州村)を除く、具志川地域を支配したその後凡そ百
四十年間の治政であろうか。それらの廃城は地方の按司達が首里に移住したいわゆる尚真王世代弘治年間(西暦1488年―1508年)のことであろう。>


      
安慶名城跡、うるま市HP2

        安慶名城跡(うるま市HPから)

 江州按司の治政

 伊覇按司系統の支配
 <初代伊覇按司は天願城を支配下に入れ具志川地域に安慶名城を築き、東進への拠点とした。たまたま5代勝連按司の勢力衰頽するや、好機至れりと、5代勝連按司を打ち亡ぼし6男を配して6代勝連按司となす。然し乍らこの6代勝連按司は凡庸で無力であったため、元按司の旧臣浜川大主に亡ぼされて、伊覇系の勝連按司は一代でつきた。そして伊覇按司の東方への勢力範囲は具志川城、喜屋武城を前線とする具志川地域に止まったようである。(『具志川市誌』)>


 按司時代の末葉(第一尚氏時代)の具志川地域の各城主の政治姿勢

 <具志川地域の各城主は勝連城主と同盟を結び、中山の譜代城であった越来城、中城城及びその輩下の知花城、池原城、安谷屋城、新垣城に対抗していたといわれている。たとえ今帰仁城の出先である伊覇城の血縁であったとしても伊覇城の努力(ママ、「勢力」の誤りか)は中山に対しては弱かった。(以上『具志川市誌』)>
 勝連城をめぐっては、阿麻和利が10代目勝連城主望月按司を倒し、勝連按司11代目になったという。(伊敷賢著『琉球王国の真実』から)

 


沖縄の歴史 | コメント:0 | トラックバック:0 |

具志川にも住んでいた金満按司

 

 奥間大親とその子、泰期(金満按司)について、このブログでも書いてきた。『具志川市誌』を読んでいると、具志川にも足跡があることを知ったので、紹介しておきたい。

 喜屋武按司の系図

 『具志川市誌』によると、喜屋武城は奥間大親系が二代にわたり支配していたが、今帰仁系の伊覇按司に滅ぼされたという。

<資料一、二(注)から判断すると編者の推論であるが、喜屋武城は奥間大親系が二代にして伊覇按司に亡ぼされ、伊覇按司の次男を三代喜屋武按司となし、世子が無かったので、安慶名大川按司の三男が四代喜屋武按司となる。四代にして廃城となったとおもう。>

 注・その資料とは、次の系図である。

資料一「市内字仲嶺徳田家の家譜」は、奥間大親――五男喜屋武按司――喜屋武若按司となる。若按司のあと栄野比大屋子、大城賢勇と続くが、按司ではない。按司は二代で仲嶺按司に移っている。

 資料二「琉球祖先宝鑑」は、奥間大親の子は、察度王、天久按司、金満按司、喜屋武按司とされ、金満按司の下に五男我那覇親方、六男饒波親方の名がある。
              具志川市誌  


 金満按司については、以下のように記している。

 △豊見城村饒波村の饒波お嶽の上後方に金満お嶽があって、豊見城村字高安村及饒波村の祖先を祭っているとの事。金満お嶽の祭所を俗に金満御殿と言い、金満按司一家を奉祀している。金満按司とは泰期のことである。

金満按司に就いては、在所は宜野湾真志喜村の奥間と言う家で、この按司は唐、大和を往復せられ、金、銀、多く求めて国頭間切奥間村に治金(ママ)術を初めて伝えたといわれる。

又牧港附近を根拠として日本商船と交易して資産をつくりその郷党の間にも信望があったため、その子が饒波に養子に入ったのだろうという。

△金満按司は泰期のことで察度王世代に数回使節として渡明せる按司である。第1回の渡明は1372年で尚巴志が生まれた年である。

 △泰期は具志川市天願村にも一時期住いしたとのことであるが、それは金満按司となる以前であっただろうという。(首里長嶺将秀氏による) 

△島袋源一郎著沖縄の歴史P83に察度王、天願泰期(方言タイチ)を明に使いし臣と称して表貢を奉り云々とあって泰期が或期間天願村に住いしたことがあるとおもわれる。

 泰期が、ある時期に、天願村に住み、「天願泰期」と呼ばれていて、金満按司となる以前だったとしている。

                  泰期(3)  

                            読谷村残波岬にある泰期像

 伊敷賢氏も著書『琉球王国の真実』のなかで、奥間大親の子・泰期を「天願金満按司泰期」と呼んでいる。

 1438(永亭10)年、故郷伊是名島から宜名真村に逃げてきた24歳の松金(後の尚円王)を、奥間村の奥間カンジャーに助けられたという伝説が残っている。…

 言い伝えによると、奥間カンジャーの父親は小禄金満按司で、小禄金満按司の父は天願金満按司泰期であり、天願金満按司の父親は奥間大親である。奥間大親は天女(実は恵慈王の次女)との間に察度王を生んだ人であり、天願金満按司は察度王の腹違いの弟である。小禄金満按司は1405(応永12)年に従兄弟の武寧王が尚巴志に滅ぼされたので、息子の奥間カンジャーと共に、祖父の故郷の国頭間切奥間村に逃げたのであった。>

 
<中山察度王となると、泰期は側近として活躍し金満(カニマン)按司と呼ばれた。1378(天授4)年、察度王が明国に朝貢を始めると、泰期は使者となり明に渡航して宝物を持ち帰った。泰期は始め小禄間切小禄城主だったが、小禄城を息子の小禄金満按司に譲り、自らは天願按司(ティングァンアンジ)となり大和とも交易した。北谷金満按司も泰期の息子である。>

伊敷氏は、泰期は察度王の使者となり、明に渡航した。小禄城主だったが、のちに息子に譲り、天願按司となり、大和とも交易したとしている。確かに、泰期は中国、大和との交易で知られる。中国との交易には、西海岸が便利だが、大和との交易は東海岸の港が好適だ。泰期が天願按司になったのは、大和との交易のためだったのだろうか。そう考えれば、なぜ天願按司だったのか、その意義がよくわかる。交易品の中には、鉄器や鍛冶にかかわる物も含まれていたのだろう。

泰期は、国頭の奥間村で鍛冶屋を営み、奥間カンジャーの祖となった。

 

伊覇按司

始めのところで、奥間大親系が伊覇按司に亡ぼされたと書いたが、伊覇按司について簡略に説明する。詳しくは別途、改めて書くことにする。

14世紀、怕尼芝(ハニジ)に亡ぼされた「仲北山」城主の仲宗根若按司の8男・今帰仁子(ナチジンシー)が美里間切伊覇村に逃げてきて、美里按司の婿となり、初代伊覇按司となった。伊覇按司は、具志川地域、勝連地域に支配を広げたとされる。

 


沖縄の歴史 | コメント:0 | トラックバック:0 |

尚徳王の家族の伝説、その4

 尚徳王の次男も王位に就いた「中和」伝説

 

第一尚氏をめぐっては、尚徳王が最後の王ではなく、第二王子であった中和がわずか1年ほどであったが、王位を継いだという説もある。わがブログ「第一尚氏の最後の王は尚徳ではない」で紹介した。興味のある方はそちらを読んでほしい。

内田晶子・高瀬恭子・池谷望子著『アジアの海の古琉球―東南アジア・朝鮮・中国―』で高瀬恭子氏が「第一尚氏最後の王『中和』」と題して論述している。

 高瀬氏は「尚徳の死後、その第二王子の中和が僅か1年ほどではあったが王位にあった」ということを、同じ時代に書かれた『朝鮮王朝実録』によって検証している。


 琉球国の正史『中山正鑑』などでは、尚徳王は21歳で即位し、死去した時、数えの29歳で、残された子は1人で10歳未満の幼い子だったとされてきた。しかし、尚徳即位の1461年、琉球に滞在した朝鮮漂流民の肖得誠が帰国した際の取り調べで、尚徳は33歳で、子どもは15歳くらいの長子ほか4人いたと証言している。尚徳の年齢が12歳も差があり、子どもの年齢、数もまったく食い違っている。

朝鮮で編まれた申叔舟撰『海東諸国紀』では「成化7(1471)年の冬、琉球国王の使として禅僧の自端西堂が来朝した。自端の言うには、…尚徳の名は大家で、兄弟は無い。今の王の名は中和で、まだ号は無く16歳である。宗姓丹峯殿の主女を娶っている。王弟の名は於思で13歳、次弟は截渓といい10歳である。国王の居るところの地は中山といい、故に中山王と称している、と。」


 つまり、尚徳には4人の子がいたが、1470年に尚徳は既に死去していた。
長子は死没したのか、残された3人の子のうち、年長の中和が新王として即位していた、ということである。

もし中和が即位していたとしても、クーデターで第一尚氏の王統が倒され際、中和王はまだ即していない王子(次男)として王妃とともに殺されたのだろう。乳母と三男だけが逃げのびたという伝承につながっている。高瀬恭子氏著「第一尚氏最後の王『中和』」では、そこまでの論述はない。

いずれにしても、尚徳王とその子どもをめぐっては、まだまだ多くの謎がある。
   終わり

 



沖縄の歴史 | コメント:0 | トラックバック:0 |

尚徳王の家族の伝説、その3

屋比久大屋子の後裔には、雍氏の他に明氏など後世、第二尚氏政権に仕えた士族も多い、とされるが、その明氏の系譜が「ウィキペディア」にアップされているので、紹介しておきたい。


 首里王府に仕えた後裔、明氏

<明氏亀谷家(みんしかめやけ)は、照屋親雲上長太を元祖とする明氏安次冨家から分かれた琉球士族。門中の間では、琉球王国の第一尚氏王統第七代国王・尚徳王の三男・屋比久大屋子の流れを汲んでいると信じられている。
 尚徳王の世子・佐敷王子、次男・浦添王子は第二尚氏の尚円王への世替り(クーデターという説もある)の折、殺害された。三男はこのとき三歳、乳母に抱かれ先祖の地、佐敷に落ちのびたとされる。後に佐敷間切・屋比久の地頭となり、屋比久大屋子と称する。明氏はその後裔である。一世長太(照屋親雲上長太)は第二尚氏王朝・尚清王に仕える。二世長孫は長太の次男で、明氏の直系は、兄・上江洲親雲上長均の家系である明氏安次富家で、長孫は分家独立し、先祖の遺領、奄美阿鉄の地頭になり(阿手津親雲上)、かつ第一尚氏王朝以前(屋蔵大主、鮫川大主時代)の地である伊平屋島の按司掟に任じられた。また四世長頼(亀谷親雲上)の時、王孫の由緒をもって王府より王城の地首里移住を許される。これより、この子孫は首里士族としての道を歩む>


 この「ウィキペディア」の「
明氏亀谷家」の項に掲載されている比嘉朝進著『士族門中家譜』によれば、照屋親雲上長太は、屋比久四男である天久大屋子の長男とされる。つまり尚徳王からすれば、曽孫にあたることになる。だが、『明姓家譜(亀谷家)』では、長太は屋比久大屋子の四男とされていて、違いがある。いずれにしても、尚徳王の後裔であることは確かである。

 尚徳王の三男が落ち延びた先が佐敷というのは、尚巴志の発祥の地であるから合理性があるように思われる。この地なら安全に守られる環境があったのかもしれない。それにしても、第二尚氏のもとで、三男は追及されるのではなく、佐敷間切・屋比久の地頭となり、その後裔である照屋親雲上長太は尚清王に仕えたというは興味深い。首里王府もわりあい寛容だったのだろうか。







沖縄の歴史 | コメント:0 | トラックバック:0 |

尚徳王の家族の伝説、その2

 悲劇の尚徳王の三男の定住の地

 尚徳王の王子のなかで三男は逃れたのだろうか、うるま市具志川には次のような伝承がある。

<仲田家(当主徳田米忠氏)は尚徳王の第三子の末えいであるといわれ、かつて本市(旧具志川市、現うるまし具志川)の地頭代(明治21年~同22年)を務めた徳田吉太郎氏は尚徳王から20代目で、現当主徳田米忠氏は23代目にあたるとのことである。

 尚徳王(自西暦1461年至西暦1469年、在位9年、29才にて没す)は第一尚氏の最後の王であり、尚泰久王の第三子である。第二尚氏尚円に政権交代のクーデターによって久高島参詣の帰途海上で最期を遂げたと伝えられているが、王子3人のうち長男と次男は夭折し、三男は津堅島から与勝を経て美里の伊覇村に落ちのび、長じて伊覇村の若祝女を妻にむかえて、具志川間切上江洲村に定住し安謝名大主と名乗ったという。何故に伊覇村に隠れて若祝女を妻にむかえたか、伊覇村は尚徳王の父尚泰久王が越来王子時代に伊覇村の女との間にできたのが尚徳王という。それで尚徳王の三男にとって、伊覇村は祖母の地ということになる。しかし上江洲村に定住するようになった理由は知られていない。(『具志川市誌』)>

 具志川の伝承では、尚徳王の三男は、津堅島から伊覇村を経て上江洲村に定住したとされている。伊覇村は「尚徳王の三男にとって、伊覇村は祖母の地」となるからだという。

 

 尚徳王の王子たちの逃走

尚徳王の三男は、南城市佐敷に逃れたという伝承もある。伊敷賢氏著『琉球王国の真実――琉球三山戦国時代の謎を解く』から抜き書きして紹介する。

尚徳王の世子佐敷王子志義(しぎ、8歳)は、首里城内で異変が起こった時に首里城内真玉森(マダンムイ)に隠れていたが、改革派に見つかり母后や祖母とともに殺されてしまった。その時死体は崖から投げ捨てられ、夜になって王族の手で回収されたがくんだ(足のふくらはぎ)の一部が木にぶら下がって残された。それで、その崖はクンダグスク(膝城)といわれるようになったという。


 尚徳王の次男浦添王子(5歳)は、ヤカー(守役)に助けられて薩摩へ逃げたといわれる。別の説では、浦添王子は具志川間切栄野比(イヌビ)村に逃げ、成人して村の娘と男子2人が生まれ、長男は久米島仲里間切比屋定(ヒヤジョー)村に隠れ、次男は栄野比村に残った。


 尚徳王の三男屋比久大屋久(3歳)は、乳母とともに佐敷間切新里村に逃げたと伝えられていて、屋比久大屋子の孫は東風平親雲上(クチンラウヤクミー)興長で、雍(ヨウ)氏門中の祖である。屋比久大屋子の後裔には、雍氏の他に明(ミン)氏(名乗頭「長」)など後世、第二尚氏政権に仕えた士族も多い。しかし、第一尚氏の子孫は高級武官にはなれず、首里城の警護などの仕事に就いていた。

尚徳王の四男与那城(ユナグスク)王子(1歳)は真壁間切真栄平村に逃げ、成長して屋号謝名(喜納姓)の娘を妻にした。屋号謝名は察度王五男米須按司の子孫といわれ、謝名門中の元屋(ムートゥヤー)で真栄平村の国元になっている。



沖縄の歴史 | コメント:0 | トラックバック:0 |

尚徳王の家族の伝説、その1

尚徳王の家族の伝説

 

 琉球の第一尚氏の第7代目尚徳王は、クーデターによって王統は倒され、家臣だった金丸が即位し尚円王となり、第二尚氏の王統に取って代わられた。尚徳王の死とともに、王妃と乳母、王子も殺害された悲劇の王とその一族である。それだけに、尚徳王は生き延びて喜界島に遁れたという伝説を始め、王妃や王子たちをめぐっても、さまざまな伝説がある。

 尚徳王については、いろんな謎が多くて、とても興味をひかれるので、これまでも何回かわがブログでも書いたことがある。

今回は、王妃や王子をめぐる伝説の中からいくつか紹介しておきたい。 

 

クンダグスクの由来

 『具志川市誌』を読んでいると、次のような伝承が紹介されていた。

 <第一尚氏王統は764年にして滅亡するに至ったのであるが、尚徳王の死と共に国内に反乱が起って、危機にひんした王妃と乳母は王子を抱いて王城を脱出して、真玉城に隠れていたが追って来た反乱軍に殺害されて王城の崖下に葬られていた。
  その後この場所は至霊至明にして何事も願事をかなえて下さるという評判がでて、世間の人々も祈願のためにここを訪れるものが多くなってきたといわれているが、後世になって、真壁間切真栄平村の出身で屋号謝名の男子金城氏は首里のある某家に奉公していたが、或る日ふとしたことから事務上の手違いを起こして事故が発生し、やがて重罪に処せられるようになっていたので当人は心配のあまり、霊験あらたかといわれるこの場所を訪ずれてお祈りし、「神様お願いでございます。この私を憐れみ下さいまして、私の罪を死罪にならぬようにお救い下さい、若し私のお願いをかなえられましたら、あなた様のお骨を私の出身地にお移し申し上げて、子々孫々に至るまで祭祀の礼拝を必ず実行して崇拝申し上げます」と祈願したところ、霊験があらわれ、後日の裁判の結果、軽微な処置で済まされて命びろいをした。
 
 助命されたその人は大いに喜び、鄭重なお祭りをして、其の恩を感謝し、やがて深夜人が寝静まった頃、その死骸を盗み取り、自分の郷里である真壁間切真栄平村の宮里嶽の地内に埋葬奉安して、子孫代々にこれを伝えて崇拝するようになったとのことであるが、死骸を取り出すときに狼狽のためか、腓骨(クンダブニ)一本を取残したまゝになっていたゝめ、後世の人々はその腓骨を崇拝して礼拝するようになり、この場所を腓城(クンダグスク)と称するようになったとのことである。(『具志川市誌』)>

 
 謝名門中では毎年旧79日にはこの墓に祀る霊を慰めるため祭事をおこなっているという。この「クンダグスク」のグスクの意味は「城」ではなく「墓」を意味するそうだ。

 糸満市真栄平の宮里嶽にはまた行ったことがない。機会があれば訪ねてみたい。


沖縄の歴史 | コメント:0 | トラックバック:0 |

造船所をなぜ「スラ」と呼ぶのか、その2

 

谷川健一氏は、造船所を「スラ」と呼ぶ見解をのべるとともに、この立場から髙良倉吉氏の見解を批判している。

<髙良倉吉はこの言葉の由来について「『すら』は沖縄の古語で、鳥の巣を意味する。巣の中の卵を母鳥が温めてヒナにかえることを『すでる』と表現する。古琉球の人びとは、造船所を鳥の巣になぞらえ、母鳥たる人間の営みで船が仕上がることを、ヒナがかえり成長するイメージでとらえた。進水式は成長した若鳥が巣を飛び立つことであり、船は海走る鳥であった。このようなイメージが、造船所を鳥の巣になぞらえる独特の世界観を成立せしめたのである」とまことしやかに述べているが、髙良の解説は『おもろさうし辞典』(仲原善忠、外間守善著)及び伊波普猷解説に準拠したもので、この解説は誤っている。…鳥の巣とは関係ない。また修羅を仏教語に由来するという説があるが、それもまちがいである。シュラはソリと関係する言葉である、とするのが適当である。>

 

 

「林業の修羅」について、「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」は次のようにのべている。
<山腹の斜面を利用した一時的な木材搬出用の滑走路を修羅といい、集運材法の一つ。修羅には、勾配(こうばい)を利用して木材の自重により降下させる重力式がおもに使われるが、まれには畜類などで丸太修羅上を引く牽引(けんいん)式もある。現在では、集材機の発達によりみられなくなった。構造によって、土(ど)修羅、木(き)修羅、水(みず)修羅などに分けられる。土修羅は山腹の凹部をそのまま利用したもので、材木の損傷が大きく、用材搬出には適さない。木修羅はもっとも一般的なもので、丸太だけを使ったものと厚板を併用したいわゆる桟手(さで)がある。桟手はおもに木曽(きそ)地方で行われていた運搬装置である。普通は野良(のら)桟手と称し急勾配の斜面に架設され、木材の滑走面に厚板(野良板)を用いるのが基本であるが、野良板のかわりに小丸太を数本並べたり、切り取った木の板(粗朶(そだ))を編んだ桟手など地方によっていろいろみられる。また水修羅は、谷水をせき止めて材木の滑走に利用する運材法である。[松田昭二]日本大百科全書(ニッポニカ)の解説>
 
 やはり、谷川氏が造船所を「スラ」と呼ぶ由来についてのべていることは、妥当な見解だと思う。



沖縄の歴史 | コメント:0 | トラックバック:0 |

造船所を「スラ」と呼ぶのはなぜか、その1

 いまから十年余り前、初めて髙良倉吉氏(当時琉球大学教授)の講演を聞いたとき、「スラというところは造船所だった」と聞いたことがある。その時は、なぜ造船所を「スラ」と呼ぶのか、その由来は聞いた覚えがない。

 「スラ」という言葉には聞き覚えがあった。かつて郷里の高知県にいて、林業関係のことを見聞する機会があり、山から木材を切り出し、枕木のように並べた丸木の上を滑らせて運ぶところを「スラ(修羅)」と呼んでいたことを記憶していた。「造船所も陸地で造った船を丸木の上を滑らせて進水させるのでスラと呼んだのではないだろうか」と直感的に思った。ただ、沖縄関係の歴史や民俗関係の著作を読んでも、造船所をスラと呼ぶ納得のいく説明はお目にかからなかった。

                   IMG_2177.jpg 
                   「海の駅 あやはし館」に展示してある舟
 
  

たまたま谷川健一著『甦る海上の道・日本と琉球』を読んでいると、明快な説明がされていた。

<八重山にもマーラン船や地船の造船所があった。とくに船材に恵まれている西表島にはいくつか設けられていた。 造船所は「すら所」と呼ばれた>と述べた後。次のように解説していた。

 <「すら」は「シュラ」ともいう。「シュラ」は丸木を枕木のように並べて大石や船がその上を滑るようにしたもので、古墳を作るための岩をはこんだり、伐採した材木を山の下に降ろしたり、また船の進水に古代から使用されている。『綜合日本民俗語彙』は「スラ」の項に、浜に引上げる船の下に敷く棒を九州で「スラ」というとある。また「シュラ」について『北越雪譜』にみる修羅は大きな雪車(ソリ)のことであるとして、ソリ・シュラはもとは一つであったかと思われると注記している。浜辺にすえた新造の船を海岸から波打際まではこぶのに、丸太を使う、それがすら(シュラ)で、転じて造船所の意となったのである>


沖縄の歴史 | コメント:0 | トラックバック:0 |

歴史が今に生きている沖縄、海ヤカラ

「海ヤカラ」に歌われた美女
 糸満市を舞台にした民謡「海ヤカラ」には、男女のロマンスの伝承がある。この前、このブログでアップしているが、簡略にして再度、紹介しておきたい。 

 「海ヤカラ」は、海のつわものや英雄を意味し、船頭や船乗り、魚捕りの名人を指している。
 <糸満市真栄里(まえさと)に「ドンドンガマ」と呼ばれるガマ(洞窟)があった。
 そこによそから漂着した男が住み着いて、漁が巧みなことから村人は彼を「海やからー」と名付けた。そのうち、村一番の美女が「海やからー」に恋した。村の青年たちは嫉妬から「海やからー」を亡き者にしようと企むが、ことごとく失敗。それならばと、2人への面当てにはやり歌で恋路をバラしたのだとか。今に伝わるその俗謡の1節に、「誰がし名付きたが、ドンロンぬガマや 真栄里美童ぬ 忍び所」とある。
 ちなみに、「海やからー」に恋した娘とは、現在の仲間門中宗家で、ラジオパーソナリティー・玉城美香さんのお母さんの実家だということも判明!>
  「週刊レキオ 島ネタchosa班」(2016.1.7)から、かいつまんで紹介した。玉城美香さんは、たしかに糸満市出身。「ミーカー」の愛称で知られる人気パーソナリティーである。毎日、ROKラジオ「チャットステーション」で声が流れる。私がよく聞くのは、同局日曜日昼時の「nannbuアワー」である。

歴史的な人物や民謡に歌われた人たちの子孫がいまもたくさんいることを改めて感じた。沖縄は狭い島国であり、人々のかかわりが濃密である。その子孫も、大和のように各地に散らばっていくのではなく、大半は島に暮らすという環境がある。それに王府時代に士族は家譜を作成して王府に提出することが義務付けられていた。沖縄戦で焼けてなくなった家譜が多いと聞くが、残された家譜もある。男系の血縁組織である門中(ムンチュウ)も存在し、自分たちの祖先への関心も他府県以上に強い。
 こうした背景があり、歴史が生きていることを感じさせことが多いのだろう。
       終わり

沖縄の歴史 | コメント:0 | トラックバック:0 |
| ホーム |次のページ>>