レキオ島唄アッチャー

首里城は炎上したか、その4

印と詔勅を奉安する場所は


 高瀬氏は、さらに、府庫の火災で大切な鍍金銀印が溶解したというのも事実なのかと疑問視する。内田晶子・高瀬恭子・池谷望子著『アジアの海の古琉球―東南アジア・朝鮮・中国―』の中の高瀬恭子著「首里城の炎上したか」からの続きである。

<尚泰久は、鍍金銀印が府庫焚焼により鎔壊した、と明皇帝に奉上したが、印は本当に府庫に蔵されていたのだろうか。府庫とは国家が財物・兵器などを収蔵するくらであることは、冒頭に見たところであるが、内乱の前に琉球国の府庫には、印は収められていなかったようなのである。

(朝鮮漂流民の)万年は王の信頼が篤く、「鉄物(かなもの)・緞子(どんす)・香木・銅銭所蔵の庫」の看守人となった。この庫は、出入りする者を衣服を脱がせて検査するほど厳重に管理されており、貴重品を収める府庫というべきものであったろう。しかしこの収蔵品に印はあげられていない。



 一方梁成は、王の居る閣の上層に珍宝を蔵した、と述べている。琉球国にとって何よりの珍宝とは、明より賜わった印や詔勅であろう。冊封使の来琉のたびに、冊封の詔や勅を「宝」として国に留めることを願い出て、従来それが許された証拠として、過去に授かった詔勅を金櫃(かねびつ)ごと持ち出してきて冊封使に示しているのは、陳侃・郭汝霖をはじめとする明代冊封使の示すところである。

首里城正殿御差床(うさすか)、首里城公園HPから 
        首里城正殿御差床(うさすか)、首里城公園HPから
                     
 真栄平房敬は『首里城物語』の中で、中国皇帝からの詔勅は、琉球処分の時まで、首里城の
2階に格護されていた、と記している。…

印は詔勅にも増して貴重なものであり、かけがえのない唯一の品である。琉球国王の権威の象徴であり、根拠でもある。印は詔勅よりもさらに鄭重に国王の身辺において厳重に保管されていたはずである。印が詔勅と共に正殿に奉置されていた可能性は大きいが、正殿から距離を置く府庫などに収納されていたとは考えられない。

その府庫の焚焼により印が鎔壊した、と称する尚泰久の上奏は明らかに欺瞞である。さきに筆者が、府庫の焚焼自体も疑問であるとした所以である。

乱の際、尚金福あるいは尚金福の世子が印を持ち出したために、これを入手できなかった尚泰久は、明に対する証明として、紛失や破損ではなく絶対的な消滅である鎔壊を申し立てねばならず、そのために府庫が焚焼したと称するしかなかったのである。国王として近い将来、冊封使を迎える身として、正殿が焚焼したという明白な欺瞞は許されなかったからである。>

 

以上で、高瀬氏の論考の紹介を終わる。
 明皇帝から賜わった最重要ともいえる印を、府庫に保管していたというのも、奇妙なことである。詔勅はじめ珍宝は正殿の上層に保管していたのなら、なによりの宝である印は正殿に保管されていたと見るのが常識だろう。確かに、印は府庫に保管していて府庫が焼けて溶解したというのは、なんだか怪しい話である。



 この府庫の火災で印が溶解したというのが創作だとすれば、尚泰久の「志魯・布里の乱」で2人とも死亡したので推挙されたという尚泰久の上奏の内容自体が、史実であるのかどうか疑わしくなってくるのはもっともである。

ただし、まだ論理的な推論であって、府庫の火災がなかったことが立証されたわけではない。さらに「志魯・布里の乱」はなかったという根拠にもなりえない。

これまで紹介してきた第一尚氏最後の王や尚泰久にまつわるこれらの問題は、とても興味深い視点による歴史の再検討であると思う。琉球史のうえでこれまで定説のように思われてきたことも、本当に史実であるのかどうか、史料を吟味し再検討することは、とても重要な課題であることは確かである。今後の研究動向について注視していきたい。

終わり


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首里城は炎上したか、その3

三層の正殿は常に建っていた

高瀬恭子氏は、首里城炎上はなかったことを、別の角度から論証する。内田晶子・高瀬恭子・池谷望子著『アジアの海の古琉球―東南アジア・朝鮮・中国―』の中の高瀬恭子著「首里城の炎上したか」からの続きである。

<現に蔡温自身が撰した『蔡温本世譜』には、尚泰久が広厳・普門・天龍三寺を建てたこと、多くの巨鐘を鋳造させたこと、末吉山熊野権現社を創建したことは記されるが、王城を再建したとの記述は全くない。「満城火起」って首里城が全焼したとすれば、即位した尚泰久がまず着手せねばならなかったのは、城の再建だったはずである。そして王城再建についての記述がないのは『球陽』も同じであり、琉球国王府の編集になる地誌『琉球国由来記』(1713年成立)や、『琉球国旧記』(1731年成立)も同様である。
 

           正殿

                                                     首里城正殿
 

しかも同時代の記録に、この乱の前と後との王城についての記載があるが、城の様子は前と後とで全く変わらないようなのである。…

景泰7(尚泰久王3・1456)年2月に久米島に漂着した梁成と高石寿は、1ヶ月後に本島に送られ、その1ヶ月後からほぼ4年余を王城で暮らし、天順5(尚徳王元・1461)年5月末には朝鮮に帰国している。

梁成らが王城で暮らすようになった尚泰久王即位3年の王城はどんな風であったろうか。「王城はおおむね三重で、外城に倉庫や厩がある。中城には侍衛の軍二百余が居る。内城に二、三の層閣があり、おおよそ勤政殿のようである」…

仮に正殿だけでも、再建するとすれば材料の調達からはじまって、建築・内装の完了までには、3年では到底不可能であろう。しかも「満城」とあれば、その建造物は少なくない数である。

その上、この記録した梁成らは…3年前に大規模な火災があったとしたら、その痕跡を見逃すことはなく、また火災についての伝聞も記したであろうし、何よりも新装成った新正殿であったとすれば、それに言及しないはずはない。正殿は炎上しなかったものと思われる。>

確かに、首里城を再建したとすれば、一大事業であるから、寺院の創建以上にまず記録する事績であろう。



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首里城は炎上したか、その2

府庫の火災も疑わしい

焼けたのは府庫であり、首里城の炎上は、蔡温による脚色である、その府庫の火災も疑わしいという。
  内田晶子・高瀬恭子・池谷望子著『アジアの海の古琉球―東南アジア・朝鮮・中国―』の中の高瀬恭子著「首里城の炎上したか」からの続きである。

<それでは『中山沿革志』のいうように府庫のみであるにせよ火災はあったのだろうか。実はこの「府庫焚焼」も事実かどうかは疑問なのである。「志魯・布里の乱」で述べたように、『中山沿革志』のこの文は『明実録』の景泰52月己亥の条に引用された尚泰久の奏文に依拠している(注は省略)。そしてこの奏文を奉った目的は、明から賜わった鍍金銀印が失われたので、再び賜わりたいということである。


奉神門

                              首里城の奉神門
 
 

鍍金銀印、即ち琉球国中山王の印は、明が琉球国を外藩国として承認し、その国王を封じた証であり、国家の基本に関わる重要な品である。しかもこの印は、明皇帝に奉る表奉文をはじめ、明に提出する正式文書には必須のものであった。

尚泰久が尚金福あるいは尚金福の世子を倒して王位に即いたとしても、その時鍍金銀印を手に入れることができなかったとしたらどうだろうか。洪武161383)年察度の時に与えられ、第一尚氏が察度王統を滅ぼした時にもその王印を入手することで、王位の正統性を明に対して示すことができた王印を、この時入手できなかったとしたら。

おそらくそこで考えられた口実が、府庫焚焼による鎔壊だったのであろう。したがって府庫焚焼自体、極めて疑わしいのだが、その検証は後に廻して、今は蔡温の創作である「満城火起」が絶対に否定されねばならないという点について、更に検証を進めてゆこう。>

 



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首里城は炎上したか、その1

「志魯・布里の乱」で炎上?

景泰4(1453)年、尚金福の死後、王位継承をめぐって世子志魯と布里が争い、双方とも死亡したうえ首里城が炎上した、という琉球史の定説がある。それに疑問を投げかけたのが、内田晶子・高瀬恭子・池谷望子著『アジアの海の古琉球―東南アジア・朝鮮・中国―』の中の高瀬恭子著「首里城の炎上したか」である。次のようにのべている。

<首里城が炎上したというのは『蔡温本世譜』の記述が根拠となっている。ここでもう一度その記述を見てみよう。

「景泰4年癸酉の年(1453)尚金福王が薨じて、世子の志魯が位に即こうとした。当時王弟布里の威勢が甚だ盛んであった。そこで『吾は尚巴志王の子である。父と兄の業を継承して位に即くべきである』と言った。志魯は怒って『汝は王弟であって世子ではない。どうして兄王の業を妄りに奪うことができようか』と言った。布里は大いに怒って、兵を発して攻撃した。志魯もまた兵を擁して拒(ふせ)ぎ戦い、両軍入り乱れて殺しあった。満城に火が起こり府庫が焚焼した。布里と志魯は二人共傷つき共に死んだ。朝廷が賜わった鍍金銀印も鎔壊するに至った。国人は議して、王弟尚泰久を推して大位に就かしめた」とあり、原文は次のようである。(省略)

 IMG_4152.jpg


                               首里城正殿

  蔡温が参照した『中山沿革志』の方はどうだろうか。

「金福が既に死に、其の弟布里と其の子志魯が争って立ち、府庫に焚焼し、両方とも傷つき共に死んだ。賜うところ鍍金銀印も鎔壊した。国人は尚泰久を推して権(かり)に国事をとらせた」(原文省略)。

となっており、焼けたのは府庫のみである。府庫とは諸橋轍次著『大漢和辞典』によれば、「(国家が)文書や貨財器物等を入れるくら」とある。また『漢語大詞典』によれば「国家が財物・兵甲(武器)を貯蔵する場所」とある。

この府庫と特定した焚焼を、蔡温は「満城火起」と変更した。これだけではなく、蔡温は全体として話をドラマチックに仕立てており、この4字も単なる言葉の綾だったのだろうが、これが挿入されたのが正史である『蔡温本世譜』であったため、これ以降の琉球史においては、景泰4(1453)年に首里城が満城炎上したことが史実となってしまったのである。>



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「志魯・布里の乱」がなかった?、その3

存在感を示していた王弟

兄と甥が争いともに倒れたので、王位が転がり込んできた尚泰久は、なぜか尚金福の在位中からとても存在感を示していたという。内田晶子・高瀬恭子・池谷望子著『アジアの海の古琉球―東南アジア・朝鮮・中国―』の中の高瀬恭子著「『志魯(しろ)・布里(ふり)の乱』とは」から紹介する

 

<ところで、尚金福の在位中の記録に、琉球国で際立った活躍をしている王弟がいる。それは…『朝鮮王朝実録』[72]端宗元(景泰41453)年5月丁卯の条にある。ここで琉球国王使道安は、万年と丁録が臥蛇島に漂着した時(景泰元年)「琉球国の王弟が兵を領して岐浦島(喜界島)を征してこれを見、買(ママ)って国王に献じた」と語っている。

また漂流民は、尚金福に対する冊封使が琉球に来た時、「中山王の弟が軍士を率い、旗・太鼓・雨傘(絹傘をさすか)を備えて郊に出迎し、殿内に入って宴慰した」と述べている。

これらの記事は、軍を掌握し、国家儀礼の先頭に立つ、堂々たる王弟の姿を示している。…

これらの王弟の名は記されていないが、この王弟は尚泰久であったに違いない。明皇帝に奉った奉文に記される王弟布里とは、尚泰久によって創出された人物であろう。>

 

論文は、尚泰久の奏文をもとに記された『明実録』とそれを基にした『中山沿革志』を事実と信じて蔡温が「志魯・布里の乱」を書き加えたものにすぎないとする。

<「志魯・布里の乱」と呼ばれてきたものは、「尚泰久の乱」と呼ばれるべきものであって、尚泰久が倒した相手は、尚金福の世子、もしくは尚金福本人であったと思われる。>

 

尚泰久が尚金福の在位していた当時から、すでに「軍を掌握し、国家儀礼の先頭に立つ」ほどの存在であれば、布里が尚泰久の兄であっても、尚泰久を抜きにして、世子の志魯と争うこともなんかおかしなことだ。しかも、争った二人がともに死去して、傍観していた泰久に王位が転がり込んできたというのも、余りにも出来過ぎた感があることは確かである。実際には、「尚泰久の乱」と呼ばれるべきものだ、という推理はかなれリアリティがありそうだ。

とはいえ、「志魯・布里の乱」といわれるものは存在しなかった、尚泰久の奉文が事実にもとづかない虚構の記述である、という根拠は必ずしも明示されていない。布里が、存在もしない尚泰久が創出した人物に過ぎないということも、根拠は不明である。

布里といえば、その墓が南城市に近くにある。

    布里の墓、「らしいね💛南城市」HP
                    布里の墓(「らしいね♡南城市HPから
「(志魯・布里)
両者とも戦死という説や、布里は生きて城外に逃れたという説もあるが、いずれにしろ尚布里は王座につかず、58歳で亡くなり、第一尚氏発祥の地に近いこの場所に葬られたと伝えられている。」(南城市観光ポータルサイト「らしいね♡南城市HP

この墓の存在はどう考えればよいのだろうか。

「軍を掌握し、国家儀礼の先頭に立つ、堂々たる王弟の姿」は本当に尚泰久であったのだろうか。もしかすると、それは布里だった可能性はないだろうか。「堂々たる王弟の姿」が布里だとすれば、世子の志魯と争ったこともありうる話となる。

この「志魯・布里の乱はなかった」という論考は、どうもこの後「首里城は炎上したか」の項で見る問題とかかわりがあるようだ。尚泰久の上奉文が、他にも王位を継承するために、創作されたとみられる重大な問題があるからだ。次に「首里城は炎上したか」の論考を見ておきたい。



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「志魯・布里の乱」がなかった?その2

『中山世鑑』には記述がない

高瀬恭子氏は、汪楫の『中山沿革志』は明宮廷の秘録『明実録』を基にまとめたものだという。

では「志魯・布里の乱」に関する『明実録』の記述はどうなっているのだろうか。内田晶子・高瀬恭子・池谷望子著『アジアの海の古琉球―東南アジア・朝鮮・中国―』の中の高瀬恭子著「『志魯(しろ)・布里(ふり)の乱』とは」から紹介の続きである

 

<琉球国の国事を掌る王弟尚泰久が使を遣わして朝貢した。そして(以下のように)奏した。「長兄の国王金福が薨じ、次兄の布里と姪(甥に同じ)の志魯が争立し、府庫を焚焼し、両人とも傷つきともに死にました。原(もと)賜わった鍍金銀印は鎔壊して無くなって了いました。今、本国の臣民は、国事を権(かり)に行うよう臣(尚泰久)を推しております。鋳して(前のに)換えて、国民を鎮める(印を)賜わらんことを乞います」。所管の役所に命じてこれに支給し、使臣に宴と鈔幣等の物を与えた。>

<『明実録』の記事の大半は、尚泰久が奉った奉文の引用である。「掌国事王弟」と称してはいるものの、琉球国内では既に国王であり、この翌々年には冊封されている。王位継承を巡る内乱における第三者として上奏している尚泰久であるが、実は内訌の当事者であり、まさにその勝者であったという可能性は決して否定できないのである。…

第一尚氏の思紹が武寧を滅ぼし、その世子として武寧の死を報告したり、第二尚氏を開いた金丸が、尚徳の子を殺害して後、尚徳の世子を名乗って請封した場合も同様である。また前述したように、『蔡温本世譜』より古い『世鑑』『蔡鐸本世譜』に、志魯も布里もその名すら記していない。>

 

つまり、この「志魯・布里の乱」を初めて記した『蔡温本世譜』の記述は、もとをたどれば、尚泰久の奉文がもとになっているという。

それにしても不思議なのは、たとえ『中山世鑑』(1650年編纂)が尚泰久の即位より200年ほど後世の編纂で、『蔡鐸本世譜』はさらにその後であるとはいえ、まったく記述がないことである。




    第一尚氏系図
 


 『中山世鑑』の記事から第一尚氏の系譜を図示すると「布里も志魯も出てこない」という。原田禹雄訳注『汪楫 冊封琉球使禄三篇』の「中山沿革志」註によれば、国王初代は尚巴志で、
4代目尚金福は尚巴志の子、5代目尚泰久はその子となっている。

『中山世譜』になると、初代は思紹となり、尚巴志の子として、尚忠、尚金福、布里、尚泰久と並ぶ。布里は尚泰久の兄とされている。

 

王位を巡って尚金福の世子と王の弟、布里が争い、首里城まで焼け落ち、両人とも亡くなり尚泰久が即位したなら、王府にとって特記される重大な出来事である。蔡温が『中山沿革志』をもとにしたとはいえ、その原資料は尚泰久の奉文である。第一尚氏から第二尚氏に王統が替わったにしても、首里王府の中でなぜ歴史として伝承されていなかったのだろうか。

ただし、羽地朝秀編纂の『中山世鑑』は、第二尚氏で輝かしい事績をあげた尚真王について、なぜかほとんど記載せず無視をするという奇妙な編集をしている。だから、必ずしも全般にわたり網羅されてなくても不思議ではないのかもしれない。


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「志魯(しろ)・布里(ふり)の乱」がなかった?,その1

第一尚氏の5代目、尚金福が亡くなった時、その後継を世子と王の弟が争った「志魯(しろ)・布里(ふり)の乱」は有名である。だが、「第一尚氏最後の王『中和』」の著者、高瀬恭子氏はこの定説に疑問をていしている。

内田晶子・高瀬恭子・池谷望子著『アジアの海の古琉球―東南アジア・朝鮮・中国―』の中の高瀬恭子著「『志魯(しろ)・布里(ふり)の乱』とは」から紹介する


 「尚泰久の乱」と呼ぶべきもの?
 <第一尚氏第5代国王の尚金福が、景泰4(
1453)年に死去し、世子の志魯が即位しようとした時、尚金福の弟の布里がそれに異を唱え、両者が兵を交えて王位を争い、城は焼け落ち、志魯も布里も共に死に、残った尚金福のもう一人の弟の尚泰久が王位に即いた、という記事が、蔡温重修の『中山世譜』(以下『蔡温本世譜』と略称)に見られ、琉球史では疑う余地のない史実となっている。しかし、これは本当に史実といえるのだろうか。

世に「志魯・布里の乱」と呼ばれるこの内訌は、当時の同時代史料と後世の編纂史料とを厳密に検討した結果では、「尚泰久の乱」と呼ぶべきものと思われる。>

琉球王府の正史である4つの史書のうち、「志魯・布里の乱」について記すのは『蔡温本世譜』と『球陽』で、『蔡温本世譜』よりも前に編まれた『中山世鑑』、蔡鐸重修の『中山世譜』には、「志魯・布里の乱」についてはもちろん、志魯も布里もその名前すら記されていない。


  
尚泰久王の墓
 
              尚泰久の墓
 では何故『蔡温本世譜』に突然この記事が現れたのであろうか、として高瀬氏は以下のようにのべている。

<蔡温自身がその序文に記すところによると、尚敬王冊封のために1719年に来琉した徐葆光から、尚貞王の冊封使汪楫(おうしゅう)が著した『中山沿革志』その他の冊封使録を入手してこれを精読した結果『世鑑』の誤りや欠落を知り、これを正すことを志したという。>

『中山沿革志』を見ると、尚泰久の条の冒頭に次のように記している。

「金福が卒してのち、王の弟の布里は、王の子の志魯と王位を争い、府庫を焼きはらい、双方とも傷ついて、ともに絶命した。賜与された鍍金の銀印もまた溶解してしまった。国の人々は、尚泰久を推挙して、国政を代行させた。



 景泰5年(
1454)泰久はこのことを上奏し、同時に印を鋳造して頒賜されるように願った。所司(注・礼部の鋳印局である)に命じてこれをたまわった。やがてまた、使をつかわして入貢した。その表には『琉球国掌国事王弟尚泰久云々』と自称していた。景帝は命じて、勅と鈔幣(※)とをもってかえらせ王弟にたまわった」(原田禹雄訳注『汪楫 冊封琉球使禄三篇』の「中山沿革志」から)

※鈔(紙幣)と幣(儀礼に用いる絹織物)


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第一尚氏の最後の王は尚徳ではない、その4

歪曲された歴史
 中国からの冊封使、
汪楫(おうしゅう)著『中山沿革志』の矛盾した記述について書いた。もっとも『中山沿革志』が出されたのは康熙231684)年だから、尚円即位から200年余りも後になる。

 
高瀬恭子氏は『アジアの海の古琉球―東南アジア・朝鮮・中国―』の論文は次のように述べている。

<『世鑑』以下の琉球国の正史は、すべて17世紀以降に第二尚氏王統の治世の下で書かれたものである。

君主は天の命によってその位に即くが、天の命は人心のおもむくところに従う、という中国の易姓革命思想を受容した琉球においては、正史はその文脈に沿って記される。

第一尚氏王統が天命を失うに足る十分な理由をもって尚徳は描かれ、天命を受けるにふさわしい徳と人望を備えた人物として金丸は讃えられる。

『世鑑』以下が記す尚徳の悪逆非道ぶりや、尚円が王位に推挙されるに至るストーリーは、それを念頭に読まねばならない。


 ところで、正史から中和の存在が抹消されて了ったのは何故であろうか。尚徳在位中から権力闘争が、尚徳死後に顕在化してクーデターとなったものの、のちに正史を編む際に、即位まもない青年国王を廃する正当な理由づけが困難なために、全てを尚徳に帰し、中和の存在は無かったことにしたかったのではないか。そのため、世子は幼く、国王尚徳は年若いことにしたものと思われる。

尚徳が、成化5年4月22日に死去し、その後時を経ず金丸が王位に即した、と記しながら、『世鑑』、両『世譜』、『球陽』などは、すべて尚円の即位年を成化6年としている。これは両『世譜』が通常の新王の即位年を前王の死去の翌年としていること(『世鑑』は年を記さず)を踏襲したものであろうが、この場合は極めて奇妙なことである。両『世譜』ですら武寧の滅んだ永楽4年と同年を思紹の即位年としているのである。尚円の即位年の成化6年は中和を滅ぼした年であり、これこそ語るに落ちたということであろう。>

 

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               尚徳王時代に金丸が隠遁していた内間御殿の説明板

 これまで、王位にある尚徳が死去したあと、金丸が推挙され王位に就いたとされていたが、もしかして実際は尚徳が殺されたのかもしれないと勝手に想像を巡らせていたが、中和が王位に就いていたのが事実とすれば、尚徳は殺されたのではないことは確かである。

尚徳が死去したとき、「世子将に立つ。群臣之を殺す。国人金丸を推戴す。君と為す」と正史は記している。しかし、本来、尚徳の死後、中和が16歳で第8代王に即位したのなら、仮に尚徳の治政が悪かったとしても、即位したばかりの中和を「悪逆非道」と非難できない。「幼い」から後継者にふさわしくないとも言えない。高瀬氏の指摘の通り、若い国王を倒す大義名分がない。


 そのために、尚徳の年齢を12歳も若くし、世子も幼い子とすることにより、尚徳による悪政を廃するために、幼子は犠牲にして王位にふさわしい金丸を推挙したという筋書きがつくられたのかもしれない。

このクーデターの正当化のためには、中和の生命を奪っただけではなく、第8代国王としての存在そのものを歴史から抹殺したかったのだろうか。王位に就いた中和王を殺したのが事実なら、尚円の即位も、国王を殺して王位を奪うという血に塗られたクーデターだったことなる。


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第一尚氏の最後の王は尚徳ではない、その3

「中和を倒したクーデター」

第一尚氏の最後の国王が、尚徳ではなく、その子の中和が即位していたとすれば、「実際の権力交替はどのように行われたのであろうか」。内田晶子・高瀬恭子・池谷望子著『アジアの海の古琉球―東南アジア・朝鮮・中国―』の中の高瀬恭子著「第一尚氏最後の王『中和』」は、次のようにのべている。



 <尚徳が死去したのは、『世鑑』の記すように、成化
5(注・1469)422日ごろであったと思われるが、尚徳の享年は41であった。直ちに3人の遺子のうち最年長の16歳であった中和が位を継いだ。 

中和は、前述したように朝鮮に遣使したり、明へ父尚徳の名で朝貢使節を送ったりした。父の名を用いたのは、この頃琉球は年に1回もしくは2回の朝貢を行なっていたが、国王の死去した後もその国王の名で朝貢し、1年余りは経って喪が明けてから死去を報告して請封するのが例であったからである。

ところが、成化6年にクーデターは起こった。金丸が王位に即き、中和および2人の弟は殺害され、第一尚氏王統は断絶した。


003.jpg 
             尚徳王御陵跡
           
 このクーデターの時期は、成化6年4月1日より後、9月7日より前、おそらく7、8月頃であったかと思われる。4月1日とは、中和が朝鮮への使者に持たせるべく用意した前述の『歴代宝案』の文書の日付であり、9月7日とは、金丸が尚徳の世子尚円を名乗って明に請封の使者を遣わした際の文書(『歴代宝案』
[23-04][28-04])の日付である。

さてこの請封の際に用いられた2通の文書は、冒頭に明記して派遣の主旨を示す文言が、請封とはなっておらず、「謝恩の為」となっている。中和が謝恩の進貢のために用意していた文書を、クーデターに成功した金丸が急拠用いたのかもしれない。

また尚徳の世子尚円と名乗ったのは、武寧(注・察度王統)を滅ぼして新王朝を建てた思紹(注・尚巴志の父)が、中山王武寧の世子を名乗って請封したのにならったもので、速やかに王位の承認を得たかったためである。金丸にとって自らの体制の確立と権威づけのために、早急に明の冊封を受けることが何より必要だったのである。>

 

改めて、汪楫(おうしゅう)著『中山沿革志』を読んでみた。なんとも奇妙な記述となっている。「成化6年(1470)、尚徳が卒(しゅつ)した。尚円は、みずから世子と称した」と記す。一方で「円は伊平(屋)の人である。…父は里主」とし、「尚徳に不義の行いが多く、国の人たちは、みなそれをうらんでいた。徳が卒したので、円を奉じて王にしようとのぞんだ。円は『(尚徳の)世子がおられるのに、どうしてあえて王位を私できようか』と言ったが、国の人たちは、遂に共に世子を殺した」と記す。「世子を殺した」というのは、重大な事件であるが、その是非は問わない。しかもその上で「父の尚徳の薨去を報じ、王位の継承を願いでた」と書いている。同じ「尚円」の項の中で、まったく矛盾することを平気で記している。

明は、尚徳の死に際して政変があり、世子を殺して、金丸が即位したことが知っていながら、尚徳の世子を名乗る尚円を中山王として認証したということだろうか。


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第一尚氏の最後の王は尚徳ではない、その2

禅僧が「今の王の名は中和」と証言

この琉球の正史とは異なる尚徳王とその子どもについて証言は、漂流民の証言だけではない。しかも、尚徳の後継王の名前まで明記された史料がある。高瀬恭子氏は、『アジアの海の古琉球―東南アジア・朝鮮・中国―』の論文で、次のようにのべている。

<肖得誠らの見聞と符合する史料がもう一つ存在する。朝鮮でほぼこの時期に編まれた申叔舟撰『海東諸国紀』の次の記事である。

「成化7(1471)年の冬、琉球国王の使として禅僧の自端西堂が来朝した。自端の言うには、尚巴志より上代はよくわからない。尚は姓で巴志は号、名は億載である。尚金福の名は金皇聖、尚泰久の名は真物という。尚徳の名は大家で、兄弟は無い。今の王の名は中和で、まだ号は無く16歳である。宗姓丹峯殿の主女を娶っている。王弟の名は於思で13歳、次弟は截渓といい10歳である。国王の居るところの地は中山といい、故に中山王と称している、と。」>



 <ところでこの自端が国王の使として琉球を出発したのは、成化6(
1470)年であったようである。即ち肖得誠らが尚徳やその王子たちを見た天順5(1461)年の9年後のことである。

自端の言う16歳の中和、13歳と10歳の2人の弟は、肖得誠らの見た尚徳の4人の子のうちの幼い3人であろう。長子は死没したのであろうか。

この全く関係のない2人、自端と肖得誠の証言に尚徳の複数の子どもたちが登場し、しかも年齢的に整合していることは、その史料の語ることが事実であることを示している。そしてその事実とは、尚徳が天順5(1461)年に33歳で、4人の子があったこと、成化6(1470)年に尚徳は既に死去しており、残された3人の子のうち、年長の中和が新王として即位していた、ということである。

尚徳が成化5年に29歳で死去し、幼い世子1人が残されたという『世鑑』などの記事は、クーデターによって新王統を樹立した第二尚氏が、自らのために都合良く事実を改竄したものであろう。>

 

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               首里城の歓會門
  国王の年齢と子どもの数や年齢は、王府の歴史を見る上でとても重要な事柄である。琉球に滞在した朝鮮漂流民の
肖得誠の証言と禅僧の自端西堂の報告で、尚徳王の年齢と子どもの数と年齢が、王府の『中山世鑑』など正史の記述とまったく異なることは、正史記述が疑わしいことを示している。漂流民は証言に際して、なにも偽る必要がないことである。自端の報告は同時代の証言であり、その両者の証言が一致していることは、真実性が高いことを示している。

これまで第一尚氏の8代目「中和」の存在が正当に評価されないばかりか、無視をされてきたのはなぜだろうか。

 

この禅僧の自端西堂らが「琉球国使を騙(かた)る偽使である」という説があるという。自端は日本の禅僧だが、琉球を訪れたところ琉球国王が人物を見込んで、成化3(1467)年に朝鮮に遣使し、成化7(1471)年に再び遣わした。当時、琉球は朝鮮の政情を把握し、交易の実を挙げるための業務は日本人に依存していたという。

「成化6年に尚徳の名で発出された文書も、使者の1人も変更になったものの、自端らはまぎれもない琉球国王使であった」と高瀬氏はのべている。


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