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奴隷解放のため闘った英雄ー「鬼谷子」(下)

 中国古代の奴隷制
 次に、中国の奴隷制度はどのように実態にあったのか、奴隷制度はいつまで存続したのか、見ていきたい。
 中国古代の奴隷制は、少なくとも中国の殷代に確立し、この時点で人口の5%が奴隷であったと推定される。殷は、戦争奴隷を労働力・軍事力の基盤として、また葬礼や祭祀における犠牲として、非常に盛んに利用していた。
 商(殷)までは奴隷制社会であったことは定説となっているが、いつまでが奴隷制時代であったかは諸説あり、奴隷制から封建制に変革されたとされる周の易姓革命、ないしは、殷ほどではないにせよ実質的には奴隷が生産力の主力となっていた春秋時代までが奴隷制時代と考えられる範疇として議論されている。いずれにせよ、中原とは文化の異なる民族(蛮夷戎狄)との戦争で捕虜とした奴隷が過酷な労役に就かされたと考えられている。
 中国の奴隷は、「大きな傾向は周より始まり、主人と奴隷との個人的依存関係は弱められ続け、基本的な観点では戦国時代から奴隷制度がなくなりはじめた」(ウィキペディア)。
 この戦国時代には奴隷制がなくなり始めたというから、変法を進める過程で奴隷制もなくなり始めたのだろう。ドラマの背景にはそんな歴史があるだろう。

 変法とは
 このドラマの重要なキーワードは「変法(へんぽう)」である。はじめは馴染めなかったが、重要な意味を持っているので、変法について見ておきたい。
 戦国時代変法として名高いのは、商鞅(しょうおう)の変法である。彼は数奇な運命をたどった人物である。鬼谷子による変法のことは、史料としては見つからない。もしかして、このドラマは、商鞅の変法が下地になっているのではないかと考える。
 商鞅の変法を見てみたい。
 商鞅(紀元前390年―紀元前338年)は、戦国時代国の政治家・将軍・法家・兵家。法家思想を基にの国政改革を進め、後のの天下統一の礎を築いたが、性急な改革から自身は周囲の恨みを買い、逃亡・挙兵するも軍に攻められ戦死した。
 第一次変法
 紀元前356年、の孝公は、公孫鞅(商鞅)に変法と呼ばれる国政改革を断行させた。これは第一次変法と呼ばれる。主な内容は以下の通り。
 例えば、戸籍を設け、民衆を五戸、十戸で一組に分ける。戦争での功績には爵位を以て報いる。男子は農業、女子は紡績などに励み、成績がよい者は税を免除。一家に二人以上の成人男子がいて分家しない者は、賦税が倍加する。遠縁の宗室や貴族でも、戦功のない者は爵位を降下する。法令を社会規範の要点とする。
 こうした変法も最初は成果が上がらないので、法を破った者は厳罰とした。
 その後、新法の効能が出始め、10年もすると田畑は見事に開墾され、兵士は精強になり、人民の暮らしは豊かになり、「変法」は成功を収める。
        変法すすめた商◆像  
          商鞅像
 第二次変法
 紀元前350年、は雍から咸陽へ遷都した。この年に公孫鞅(のちの商鞅)はさらに変法を行い、法家思想による君主独裁権の確立を狙った。
 父子兄弟が一つの家に住むことを禁じる(野蛮な風習を改める)。全国の集落を県に分け、それぞれに令(長官)、丞(補佐)を置き、中央集権化を徹底する。井田を廃し田地の区画整理を行う。度量衡の統一など。
 二度の変法によって秦はますます強大になった。功績により公孫鞅は商・於という土地に封ぜられ、商鞅と呼ばれる。商鞅は、強引に変法を断行した事により恨む人間を大量に作った。変法により君主の独裁権が確立されると旧来の貴族の権限が削られていくので商鞅を恨んでいた。
 紀元前338年、孝公が死去すると商鞅は都から逃亡したが、から追放され、封地に帰ったが、秦の討伐軍に攻められて戦死した。
 秦はそれまでは内陸奥地に起源を持ち、野蛮国と見なされてきた。商鞅により改革され、
秦の歴代君主は商鞅が死んだ後も商鞅の法を残した。
 商鞅より半世紀前、呉起も商鞅のように厳しい法を残したが、そちらは呉起の死後に廃止されている。秦がなどを破り、戦国時代を統一できたのは、商鞅の法があったためと言っても過言ではない。商鞅の言の通り「旧習に従わず王者となり、変えなかったものは滅んだ」のである(ウィキペディアを参考にした)。
 これによると、商鞅の変法は名高いけれど、での呉起による変法は、商鞅より半世紀も前ということになるので、中国での変法の先駆者は呉起ということになるのではないか。
 
 もう一度ドラマに戻る。
 王禅で変法を進める。王禅は諸侯をに呼びつけ、の新法発布に見届け役にした。奴隷解放の撤回はこれで不可能となる。王をねじ伏せ、諸侯を利用し、王禅は民の願いだった変法を孤独な戦いで天下の流れに変えたということで終わる。

 偉人を育成した鬼谷子
 王禅のその後と影響について触れておきたい。
 王禅は長年諸国を遊歴し、最後は山に隠居して鬼谷子を名乗った。
 鬼谷子は縦横家の始祖として龐涓(ほうけん、戦国時代の魏の武将)や孫臏(そんぴん、孫子の兵法で知られる孫武の子孫)だけでなく、歴史に名を残す大勢の偉人を育成した。
 秦の宰相として蘇秦(そしん)の合従策を連衡策で打ち破り、秦の拡大に貢献した張儀(ちょうぎ)、秦以外の国を同盟させ、強国・秦を押さえ込もうと諸国を遊説して合従を成立させた蘇秦、遠交近攻策(遠い国と親しくし近くの国を攻略する)を進言して秦の優勢を決定的なものとした范雎(はんしょ)、仁義と正道による兵法を説いた尉繚(うつりょう)なども弟子である。
 鬼谷子は民を襲う苦難の原因が、分断と戦乱にあると考えていた。
 そのため、太平を得るには中国統一しかないと考える。その思いは弟子に受け継がれ、ついには秦王 嬴政を支え天下統一を現実のものとする。
        王禅    
                                王禅(BS12から) 
  変法と奴隷解放が意味するのは
 ここからは、ドラマを見ての個人的な感想である。
 鬼谷子らによる変法と奴隷解放が重要なテーマとされていることから、「中国共産党の宣伝だ」という意見がある。でも、私にはそうは思えない。
 集まった奴隷、民衆を前に鬼谷子が「奴隷は解放された。もう自由だ。尊厳を取り戻せ」と叫ぶシーンは感動的である。
 このシーンを見た時、もしかして、現在の中国の現実を念頭においているのではないだろうか、との思いが頭をよぎった。
 中国の革命は、当初は社会主義によって人民を搾取と抑圧から解放することをめざしたはずである。だが、現実は社会主義とは無縁の強権支配にある。ウイグル自治区の人権侵害、香港での民主化の声の弾圧などを見ると、民衆は言論、集会、結社、出版などの自由も奪われている。これは、ウイグル自治区や香港だけの問題だろうか。中国でのあの天安門事件や人権派弁護士への人権侵害などをみても、習近平と政府への批判を含む言論の自由と人権が保障されているとはとても言えない。
 つまり、ドラマの奴隷解放の叫びを見ていると、強権的な国政の改革を行ない、自由と人権の確立、人間の尊厳を取り戻したいという民衆の願いが背景にあるのではないか。そんな思いがした。
 独裁的な政権下で、過去の時代を舞台にして、今日的な要求を代弁することは、映画や演劇、芸術の世界ではよくあることだ。
 まあ、自分だけの個人的な意見であるから、的外れかもしれない。でも、奴隷解放を叫び、民衆が歓喜するシーンは感動的であったことは確かである。
 終わり


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奴隷解放のため闘った英雄ー「鬼谷子」(上)

 中国の歴史ドラマでいま見ている「鬼谷子(きこくし)」は、古代の奴隷解放が一つの主題となっているのが意外だった。ギリシャなど古代の奴隷制はよく知られている。だが、中国古代の奴隷制と奴隷解放に尽くした人物がいたことは、まったく想像しなかった。
 主人公の鬼谷子は、必ずしも存在が確定した人物ではない。奴隷は存在しても彼が解放のために尽くしたことは、ドラマとしての創作だろう。だが、紀元前の時代を舞台にしてこんなテーマを盛り込んだドラマというのが面白いし、興味をひく。
  時代は中国の戦国時代。群雄割拠の乱世である。紀元前5世紀からによる統一の紀元前221年までが戦国時代とされる。古代王朝の周が首都を東方に移した東周の末期には、周の権力もなくなり、諸侯が中原の各地に割拠し「王」号を自称していた。
「鬼谷子」という著作は、諸子百家の一つで、中国の戦国時代に鬼谷(鬼谷子)によって書かれたとされる書。遊説の方法について書かれている。
 鬼谷子の「子」は孔子の子と同じ。陳(の地)の人である。専門といえば国際外交のような謀略である。学問というよりは、術のようなものに属していた。『史記』によると、鬼谷は縦横家(※)の蘇(そしん)と張儀(ちょうぎ)の師とされる。でも、鬼谷個人の伝はなく、その実在が疑われている。
 注・戦国時代に、巧みな弁舌と奇抜な発想で諸侯を説き伏せ、国と国を連合させるなどに奔走した策士。合従策の蘇、連衡策の張儀など。
     鬼谷子
                   ドラマ「鬼谷子」(BS12から) 
  奴隷を獲物に見立てて
 ドラマの一回目は、ショッキングなシーンが登場する。
 周王に各国の諸侯が付き従い、狩りが行われている。集められた10人ほどの奴隷たちは野に放たれ獲物とされる。「人間狩り」を行う。
 国の宰相・王錯(おうそ)は、奴隷を解放する「変法」(国政改革)を進め、民に慕われていた。しかし、変法を憎む王侯貴族らに殺され、一族も逆殺された。だが、赤子だった王禅(おうぜん)は侍女鍾萍(しょうへい)に救われ生き延びる。王禅がドラマの主役となる。王禅がのちに鬼谷子を名乗る。
 10年後、王錯の友・史太晧(したいこう)が王禅と鍾萍を尋ねてくる。史太晧は10年の間、探していた。
史太晧は王禅に父の仇を教え、「奴隷解放」の意志を継がせるべきと考えていた。王禅は「英雄となる運命にある」といい、王錯の墓に王禅を連れて行く。史太晧は、これは英雄の墓、奴隷と民の自由を求め殺された男、お前の父だと王禅に教えた。

 ドラマはその後、王禅をめぐる物語が展開されるが、省略する。
 に隣接するでは、元はにいた呉起(ごき)を王が起用する。呉起変法により「貴族の土地を農民に与え農地に、功を立てたものには爵位を、庶民だけでなく奴隷にも、変法により強大な軍を作る」と言う。王は七国の覇主の座を奪い返すため、呉起変法の権利を与える。
 変法は進められない、貴族の妨害に合うからである。王禅は、このまま呉起の変法を放置していれば、戦が起こりは危機に陥る。呉起を殺しての変法を阻むしかない。王禅は王に罷免された形をとり、に入り楚王と呉起にも近づく。
王禅は機会を伺い、仮面をかぶっている呉起を殺す。自分が仮面をつけ呉起になり替わる。そして楚の大王を巧みに騙して変法を認めさせる。そんなストーリーが展開される。

 呉起とはどのような人物か
 ここで興味深いのは呉起である。実在の人物、呉起はどのような人物だろうか。
 軍人、政治家、軍事思想家で、孫武、孫臏と並んで兵家の代表的人物とされる。
 魯の元公の嘉に仕えてその将軍となるが、讒言にあり、魏の文侯のもとに行く。文候は、歴代の君主の中でも1、2を争うほどの名君で、積極的に人材を集め、魏の国力を上昇させていた。文侯が呉起を任用するかどうかを家臣の李克に下問したところ、李克は「呉起は貪欲で好色ですが、軍事にかけては名将司馬穰苴も敵いません」と答え、文侯は呉起を任用する事に決めた。
 呉起は軍中にある時は兵士と同じ物を食べ、同じ所に寝て、兵士の中に傷が膿んだ者があると膿を自分の口で吸い出してやった。ある時に呉起が兵士の膿を吸い出してやると、その母が嘆き悲しんだ。将軍がじきじきにあんな事をやってくだされているのに、何故泣くのだと聞かれると「あの子の父親は将軍に膿を吸っていただいて、感激して命もいらずと敵に突撃し戦死しました。あの子もきっとそうなるだろうと嘆いていたのです」と答えたと言う。この逸話(「吮疽の仁」と呼ばれている)の示すように兵士たちは呉起の行動に感激し、呉起に信服して命も惜しまなかったため、この軍は圧倒的な強さを見せた。
 呉起は軍の指揮を執り、を討ち、5つの城を奪った。この功績により西河郡守に任じられ、・韓を牽制した。
     呉起、ウィキペディア
      呉起(ウィキペディアから)
   文侯が死に、子の武候が即位すると呉起を嫌う者が讒言し武侯の懸念は増大。呉起は楚に逃亡した。その際に「武侯様は奸臣の讒言を聞き、私を理解しない。西河はに取られるだろう」と言った。後にその通り、魏は秦に侵略され西河を奪われることになる。
楚では時の君主悼王に寵愛され、令尹(宰相)に抜擢され国政改革に乗り出す。法遵守の徹底・不要な官職の廃止などを行い、これにより浮いた国費で兵を養った。また領主の権利を三代で王に返上する法を定め、民衆、特に農民層を重視した政策を取った。これらにより富国強兵・王権強化を成し遂げ、楚は南の百越を平らげ、北は陳・蔡の二国を併合して三晋を撃破、西は秦を攻めるほどの強盛国家にした。
 権限を削られた貴族たちの強い恨みが呉起に向けられた。悼王が死去すると、反呉起派は呉起を殺害するために宮中に踏み込んだ。逃れられない事を悟ると呉起は悼王の死体に覆いかぶさり、遺体もろとも射抜かれて絶命した。
呉起の死により改革は不徹底に終わり、楚は元の門閥政治へと戻ってしまった。
この半世紀後、呉起と並び称される法家商鞅(しょうおう)が秦で法治主義を確立。結局商鞅も恨みを持つ者たちにより処刑されたが、秦はその後も法は残した。そして王と法の元に一体となった秦は着実に覇業を成し遂げていき、楚も滅ぼしたのとは対象的な結果となっている(ウィキペディアを参考にした)。
 
 ドラマに戻る。呉起を殺して呉起になり替わった王禅は、変法の必要性を大王に巧みに説き、認めさせる。だが、彼の主眼は奴隷解放だった。
 呉起の姿で変法を進める王禅は、城門の上に立ち、広場を埋めた奴隷たち、民衆に向かって、奴隷解放の発布を行った。
「爵位改革、土地を民に、奴隷制の廃止」「楚国の全ての奴隷たちは自由を手にする」「尊厳を取り戻そう」と叫ぶ。感動的な場面であった。
 奴隷解放は認めていない大王の怒りを買う。そんな話になっている。
 この王禅による呉起の殺害や奴隷解放の発布は、それ自体が史実ではなく創作の物語だろう。しかし、この古代の戦国時代に、変法と呼ばれる新しい法律の制定を軸とした国政改革が進められたことは、史実である。

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「独孤伽羅―皇后の願い」の面白さ、その4

 権勢を持った関隴集団
 北魏の時代は、各国境に匈奴・鮮卑系の名族を移り住ませ(鎮民)、軍政を行なわせ、防衛を行っていた。他の鎮は廃止されたが、武川鎮など六つの鎮は残された。北魏の漢化政策が進むにつれ六鎮の地位も下落し、不満を抱く者たちが反乱を起こす(六鎮の乱)。六鎮の乱は収められたが、軍閥の割拠状態となる。この戦乱を勝ち抜いた懐朔鎮出身の高歓と武川鎮出身の宇文泰がそれぞれ皇帝を擁立し、北魏は高歓の東魏と宇文泰の西魏に分裂した。宇文泰は武川鎮出身の者たちを集めて軍団を作り、西魏の支配集団を武川鎮出身の者で固めた。西魏の支配地は現在の陝西省と甘粛省であったので、このことから武川鎮軍閥のことを関隴(かんろう)集団(関隴貴族集団)とも呼んでいる。関は関中(陝西省)のことで、隴は隴西(ろうせい、甘粛省南東部)のことである(ウィキペディアを要約した)。
      ドラマ「武則天」
       武則天と高宗(ドラマ「武則天」画面から)
  北周末期より貴族化が進み、軍閥と呼ぶのはふさわしくないので、これ以降は関隴集団と呼びかえる。
 「隋演義」を見ていた時、関隴集団が王朝で大きな勢力を持っているのを見て、よく分からなかった。どういう集団でなぜ力を持っているのか気になっていた。
 楊堅が建てた隋の支配者集団は関隴系であり、関隴集団内では複雑な姻戚関係が結ばれていた。を建てた李淵は独孤信の娘、曼陀を母としており、いわば関隴系の中で最上級の血縁を持っていた。
 でも支配者集団は変わらずに関隴系であり続け、初の主要な地位を持った者たちには関隴系の者が多数を占めている。政権を握った関隴貴族集団は、自らの地位を確固たるものとするために貴族制の再編に取り組む。一等にの皇族の李氏、二等に独孤氏・竇氏・長孫氏の外戚を就け、関隴系こそが最高の家格であると「公認」させた。
 この関隴貴族集団の支配体制が覆される契機となったのは、武則天による科挙出身者の登用である。太宗死後、関隴系の領袖といえる長孫無忌が高宗を擁して専権を振るい、反対者を排除していた。武則天は高宗を自らの美貌で籠絡することにより、長孫無忌を追い落とした。
 
 武則天自身も関隴系の出身ではあるのだが、主流には遠かった。そこで武則天は権力を掌握するに当たって、関隴系が政権を握っていることに不満を持つ層を味方につけた。その中には性質の悪い者もかなりいたが、科挙出身者の能力がある者が武則天の周りに集まった。
 科挙は既に隋代から行われていたが、関隴系が支配する宮廷では、科挙出身者たちは高位の役職につけないことが多かった。武則天はそれらの者を積極的に登用し、自らの政権を固めていった。その後の玄宗の即位により、関隴体制が再び復活することになる。
 その後の安史の乱・牛李の党争などにより貴族の優位性が崩れ、科挙官僚の進出が目立つことになる。その後の黄巣の乱(中国語版)により、は大幅に国力を消耗し、関隴集団も姿を消すことになる(ウィキペディアから要約した)。
 三姉妹のことから大分、話が反れた。でも、三姉妹とも関隴集団の独孤信の娘であり、北周から隋、唐の3人の皇帝の皇后となり、関隴集団が隋、唐の政治の上で大きな影響力を持ったという点では、無関係というわけでもない。
6世紀から7世紀にかけてのこの時代の攻防に、このような「独孤の天下」と呼ばれるような背景や経緯があったことは、知らなかった。ドラマの原題は「独孤天下」という。この題の方がドラマのテーマにふさわしい。
 「独孤加羅」を通して、南北朝時代から隋、唐にかけての中国史を知るうえでも、とても興味深いドラマだった。
 終わり

追記
 ドラマは楊堅がいよいよ実権を握る局面になったが、武帝の後を継いだ宣帝は、まったく愚かで酷い皇帝のように描かれている。
 それにしても、北周の英明な武帝の息子にしても、隋朝を建てた楊堅の息子、楊勇、ましてや楊広・後の煬帝にしても、楊堅と伽羅の子とは思えない愚かで女好きで酷い皇帝だったと描かれている。なぜ、北周にしても隋にしても、後継ぎ皇帝はそろってこんな人物だったのか、と不思議に思える。
 だが、隋にしても唐にしても、姻戚関係にありながら前の皇帝の座を奪い取ったので、それを正当化するために、史書では愚かで酷い皇帝だった描き出したのではないか。一面的な皇帝像がつくられたのではないか。
 これは琉球王朝でも第一尚氏の第7代尚徳王は、金丸のクーデターで倒されて、第二尚氏がうち建てられたので、これを正当化するために、尚徳は酷い国王だったと史書に描かれた。実際の尚徳とはかけ離れている。これと同じことかも知れない。
 歴史的な人物の実像を見るためには、こうした面を割り引きしてみていくことが必要だろうと改めて思った。
 終わり
 




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「独孤伽羅―皇后の願い」の面白さ、その2

 宇文一門から皇帝を奪った楊堅
 楊堅について、見ておきたい。北周の大将軍、楊忠の息子である。
<578年、楊堅は長女の楊麗華を北周の宣帝の皇后として立てさせ、自身は上柱国(官職)・大司馬(官名)となって権力を振るった。…580年5月、揚州総管となるが、宣帝が死去したため、楊堅は静帝の下で左大丞相となり、北周の実権を掌握した。6月以降、尉遅迥(うっちけい)・司馬消難(しばしょうなん)・王謙(おうけん)らに反乱を起こされたが、楊堅はこれを武力で鎮圧した。9月には大丞相となり、12月には相国・総百揆・都督内外諸軍事・王に上った(ウィキペディア)。>
 楊堅の長女、楊麗華は北周の皇太子、宇文贇(うぶんいん)の皇太子妃となった。

 宇文贇は、皇太子の資質を疑問視される存在だった。武帝の教育は厳しく、杖で殴打するほどだった。武帝が亡くなると「ようやく死んだか」と叫んだといわれる。即位し宣帝となると、叔父の斉王宇文憲を無実の罪で処刑した。武帝時代の旧臣を粛清した。鞭打ちの罰を好み、後宮の紀妃さえ鞭の跡が残るほどだったとされる。悪評ばかりではなかった。武帝が仏教や道教を弾圧したが、これを緩めたという。一年足らずで、譲位し、579年7歳の長男が即位し静帝となった。
 翌581年2月、楊堅は静帝から禅譲させて皇帝に即位し、王朝を開いた。後には静帝を初めとする北周の皇族の宇文氏一門を皆殺しにした。
 朝の名前は、楊堅がかつて隨州の刺史に任じられたことが由来となった。
 ドラマでは、麗華は宇文護と独孤般若の子としているが、史実では、楊堅と伽羅の長女だから、「独孤の天下」は、三姉妹だけでなく、伽羅の娘も皇后になっている。独孤一門から4人が皇后になったことになる。
 楊堅は、伽羅の姉、般若が嫁ぎ、娘の麗華も嫁いだ姻戚関係にもある皇族、宇文氏一門から帝位を奪い取った。宇文邕が死んでわずか3年後のこと。宇文邕の男子や男の孫は皆殺しにされたという。帝位をめぐる争いは冷酷なものである。

 もう一度、伽羅に戻る。
 <楊堅が朝政を見るとき、皇后は宮官に皇帝の判断を報告させ、過失がある場合には遠慮なく諫めた。皇后の従兄弟の崔長仁が法を犯して斬罪となったとき、楊堅は皇后に遠慮して一命を許そうとした。しかし皇后は「国家のことは私に遠慮してはいけません」と言って崔長仁を法の通り処断させた。皇后の異母弟の独孤陀が猫鬼・巫蠱をもって皇后を呪詛したことがあった。皇后は3日断食し、「陀が政治をゆがめて民を害したのならば何も言いません。しかしわたし一身のことですので、あえて許していただきたい」と楊堅に言った。このため独孤陀は死一等を減じられた。このように皇后は政治に関わったので、宮中では楊堅と並んで「二聖」と称された(ウィキペディア)>。
   DSC_1161.jpg
          独孤伽羅(テレビ画面から)

 曼陀の子李淵がを倒す
 曼陀は、隴西(ろうせい)郡公の李昞(りへい)に嫁いだ。隴西郡は現在の甘粛省。西に新疆ウイグル自治区、北は内モンゴルと接する。かなれの遠隔地であった。ドラマでは、はじめ独孤家の娘は、伽羅が李澄と、曼陀が楊堅と結婚することになっていたが、曼陀が楊堅からの贈り物が見劣りすることで、李澄に乗り替えようとする。彼の寝所に忍び込んだが、そこで寝ていたのは父親の李昞だった。こんなすったもんだのあげく李昞と結婚することになる。
 李昞は、北周建国の際、功労があったとして李氏に贈られた「唐国公」の称号を受け継いでいた。
 ドラマでは、曼陀は自分の生む子を後継者にしたいので、李昞の長男李澄が後継者になるのを妨げるために策略を巡らせる。ドラマでは、ついに李澄を殺させる。曼陀は子どもを産む。それが自分の子であることを認めない李昞に無理矢理認めさせる。徹底して悪女に描かれている。曼陀は商売で金を儲けて、私兵まで持っていたという。
 独孤三姉妹は、いずれも政治的な感覚も鋭いものがあったようだ。


 李昞の4男で、曼陀との間に生まれた李淵(りえん)が跡を継いだ。この李淵がのちに唐を建国するが、この段階ではとても予想できないことである。
 「年老いて病となるが、性格が気難しく、李家の夫人たちはみな恐れて介護しようとしなかった。李淵の妻の竇夫人(竇皇后、とうこうごう)だけがつつましく独孤氏に孝事して、自分の着替えもせずに付き添った」(ウィキペディア)。曼陀には、こんなエピソードがあるらしい。
 李淵が後に唐を建国すると、曼陀は元貞皇后の諡号を贈られた。曼陀は、本来は皇太后になる立場だが、李淵は父の李昞を世祖元帝とし、母の曼陀を皇后として追尊した。
 李淵がの文帝(楊堅)の信任を得るきっかけとなったのは、独孤皇后(伽羅)が李淵の叔母にあたることによるという。文帝は、自分の死後、この李淵によって朝が倒されることになるとは、夢にも思わなかっただろう。

 皇帝でも一夫一妻を貫いた伽羅
 <皇后(伽羅)は読書を好み、古今の知識に通じた。生活は倹約を重んじて華美なものを好まなかった。また情愛深くもあり、大理が囚人に判決を下すたびに涙を流したり、また北周の阿史那皇后の菩提のために寺を建てさせたりもした。
 一方で嫉妬深くもあり、楊堅が後宮に他の女性を迎えることを許さなかった。しかしそれが悲運な女性である場合などは、容認するケースもあった。陳の後主の妹・宣華夫人などはその例である。また、結婚の時に自分以外の女に子を生ませぬよう、夫に約束させている。
 尉遅迥の孫娘を楊堅が寵愛したことを知ると、皇后はこの娘を密かに殺させた。楊堅は嘆き怒って、単騎で宮中を飛び出し、山谷の間に入った。高熲(こうけい)・楊素(ようそ)らが皇帝を追いかけて諫めると、楊堅は「わたしは貴くも天子になったのに、自由がない」と嘆息した。このとき高熲が「陛下は一婦人のために天下を軽んじられますな」と言った。楊堅は少し気が治まって、夜中に宮中に帰還した。皇后は泣いて高熲らに感謝した。しかし、のちに皇后は高熲が「一婦人」と言ったことを知り、また高熲の夫人の死後に側妾が高熲の子を産んだことを知ると、高熲を憎むようになった。
 皇后は諸王や朝士が側妾に子を産ませることを許さず、そうした者がいると必ず楊堅に勧めて排斥させた。皇太子の楊勇は色好みで、ときに太子妃の元氏が突然死したのを、皇后は太子の愛妾の雲氏が殺害したものと思いこんだ。このため皇后は高熲を追い落とし、楊勇を廃嫡して次男の楊広(煬帝)を太子に立てさせた(ウィキペディア)。>

 皇后伽羅は厳格に一夫一妻制を貫いたことで知られる。夫、楊堅だけでなく、側近まで側室に子を産ませることを許さなかったとは、長い中国皇帝に歴史でもほかにないのではないか。
 伽羅は楊堅よりかなれ年下のはずだが、このエピソードを読むと、楊堅を抑えるほどの力を持ち、政治にも相当関与したようだ。「二聖」とまで呼ばれていたとは、驚きである。
 独孤家の女性が強かったというだけでなく、6世紀のこの時代の女性は、皇后はただ皇帝に従属するだけでなく、強い発言力を持つ存在だったのだろうか。
 というのも、後の唐代には、武則天という女帝まで生みだした。日本でも、6世紀末から7世紀にかけて、飛鳥時代は女性が活躍し、女帝が次々誕生したことで知られる。

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「独孤伽羅―皇后の願い」の面白さ、その1

 「独孤伽羅―皇后の願い」の面白さ

中国の歴史ドラマをいくつか見てきて、いまはまっているのが、「独孤伽羅―皇后の願い」である。以前に「隋唐演義」を見ていたのが、このドラマは、隋による統一の前、南北朝の時代から始まるので興味があった。主役の独孤伽羅(どっこから)の夫、楊堅(ようけん)が、のちに隋を建国する歴史的な人物である。
 隋の前の時代は、ほとんど何も知らなかった。それに、皇后となった伽羅は、それまで皇帝は多数の側室をもつのが当たり前だったけれど、伽羅はそれを許さなかたことで有名である。同じ伽羅を描いた「独孤皇后」もあったが、放送が終了した。伽羅といっても、日本ではあまり知られていないが、中国ではとても人気のある存在のようだ。
 ドラマは、南北朝時代の末期、6世紀の北周が舞台。独孤家の長女の般若(はんじゃく)、次女の曼陀(ばんた)、三女の伽羅の三姉妹を軸に展開される。歴史ドラマでありながら、複雑な恋愛関係や姉妹の相克がからんだ愛憎の物語でもある。
   DSC_1159.jpg
                     テレビ画面から
独孤の天下」とは
 三姉妹の父親、独孤信(本名は如願)は、ルーツは中国の西魏の匈奴系。武川鎮軍閥の重鎮だった。かつて占いによる予言で、「帝星はいまだ明けず、独孤の天下となる」と出たことがあった。長女の般若は、この予言を実現することを使命としており、嫁いだ男を絶対に皇帝にすると高言する。実際に、般若北周の皇帝、宇文毓(明帝、うぶんいく)の皇后となる。伽羅は隋を建てた楊氏、曼陀は息子が唐を建てた李氏に嫁いでいる。予言通りである。
 鮮卑系の政治家に宇文泰(うぶんたい)がいる。西魏で執政の座にあり、北周の基礎を作った。三男で嫡長子の宇文覚(孝閔帝、うぶんかく)が、周公に封じられ北周を建てた。ただ、実権は従兄の宇文護(うぶんご)が補佐の形をとりながら専横した。宇文覚は宇文護の暗殺を謀るが、事前に計画が漏えいし、本人と重臣らは殺害された。この宇文護と恋仲だったのが独孤信の長女般若である。

 宇文護は先君の兄の宇文毓(明帝)を擁立した。般若はこの宇文毓に嫁いで皇后となる。ドラマでは伽羅を救うため宇文護と寝て、密かに宇文護の子どもを生む。それが麗華である。実際には、伽羅の子であったようだ。
 ドラマでは般若が皇帝以上に采配をふるい、皇帝は無能だったと描いている。だが、実際には明帝はなかなか見識があり、度量も優れていたので、宇文護が後難を恐れて毒殺した。般若は明帝のあとを追うように死去する。三姉妹が揃って皇后になる「独孤の天下」を見ることはできなかった。
 次に擁立されたのは弟の宇文邕(武帝、うぶんよう)であった。ドラマでは、伽羅を愛するが、結ばれない。これはあくまでドラマのこと。武帝も明晰な人物だったが、宇文護を恐れて自分では何も決められない無能な皇帝を演じた。それで油断した宇文護は、武帝の罠にはまって殺された。宇文護派は宮廷から一掃された。
 武帝は北斉を攻め、領土を拡大した。遠征途中で死去した。息子の宣帝は政治をないがしろにした。後で見るけれど、この後、楊堅が権力を握ることになる。
 
 次に伽羅を見てみたい。ドラマは、まだ隋の建国まで至っていないので、伽羅の全体像は見えていない。まだ美化されたような姿しか見えない。その実像を知りたい。
 <伽羅は北周の大司馬独孤信の七女として生まれた。母は崔氏。独孤信は楊堅を見込んで娘を嫁がせた。ときに14歳であった。580年、北周の宣帝が亡くなると、楊堅は禁中にあって国政を統轄した。伽羅は李円通を通じて「獣に乗っているときは、下りることはできません。しっかり勉めなさい」と楊堅に伝えさせた。581年、楊堅が帝位につき、隋を建てると、伽羅は皇后に立てられた(ウィキペディア)。>
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唐代を彩る人とその時代 玄宗皇帝と楊貴妃、その3

 玄宗に寵愛された楊貴妃

 楊貴妃は、姓は楊、名は玉環。貴妃は皇妃としての順位を表す称号である。世界三大美人の一人で古代中国の四大美人(西施・王昭君・貂蝉・楊貴妃)の一人とされる。才知があり琵琶を始めとした音楽や舞踊に多大な才能を有していたことでも知られる。
玄宗皇帝が寵愛しすぎたために安史の乱を引き起こしたと伝えられたため、傾国の美女と呼ばれる。」(ウィキペディアから)。
 だが、則天武后と違って「悪女」とは言われない。
 唐の9代目皇帝・玄宗は、皇后の王氏が子宝に恵まれず、玄宗に愛された数人の女性たちが男子をもうけていた。武恵妃は玄宗の寵愛を得た。男子を生んだが、則天武后の一族で、皇后の候補になったが反対が多かった。
 玄宗は、武恵妃が「皇太子たちが自分たち母子を殺害しようとしている」という訴えを信じて、「三皇子を廃し、武恵妃の生んだ寿王を皇太子に立てたい」と告げた。宰相の首席、張九齢が強く反対した。張は宰相を免職になった。
 開元25年(737)4月、三皇子は廃されのちに殺された。年長の皇子である忠王が皇太子に立てられた。後の粛宗である。12月、武恵妃は亡くなった。玄宗は、これを悼んで皇后に追封したという。
 
 玄宗は、宦官の高力士に命じ、武恵妃に代わる女性を探させることにした。「絶世の美人」として報告があったのは、玄宗の18番目の皇子、寿王の妃、楊玉環であった。
 玄宗は寿王に納得させ、新しい嫁を世話する一方、楊玉環をいったん出家させ、女道士とした。その後、彼女が玄宗の女官になることを願い出たという形にして後宮に入れた。玄宗と楊玉環は、親子ほど年齢は離れている。いったん出家させるという遠回りをしたとしても、皇帝が自分の息子の妃を奪い取ったことには変わりはない。
 天宝4戴(745)、彼女は皇后に準じる女官の地位、貴妃に任命され、楊貴妃と呼ばれた。
 楊玉環が貴妃の位に立てられると、彼女の一族の人々、いわゆる外戚も多くの特権が与えられ、政治上でも強力な発言権をもつようになった。
 楊貴妃には3人姉妹がいて、それぞれに崔(さい)・裴(はい)・柳(りゅう)という家に嫁いでいたが、玄宗は彼女らに臣下の妻に与えられる称号としては最高の「国夫人」に封じた。
また従兄の楊国忠は、宰相にまで登りつめた。
 
 楊貴妃をめぐるエピソードは数々伝えられている。
 <玄宗が遊幸する時は楊貴妃が付いていかない日はなく、彼女が馬に乗ろうとする時には高力士が手綱をとり鞭を渡した。彼女の院には絹織りの工人が700名もおり、他に装飾品を作成する工人が別に数百人いた。権勢にあやかろうと様々な献上物を争って贈られ、特に珍しいものを贈った地方官はそのために昇進した。>
 <751年(天宝10載)、安禄山が入朝した時、安禄山を大きなおしめで包んだ上で女官に輿に担がせて、「安禄山を湯船で洗う」と述べて玄宗を喜ばせた。しかしその後も安禄山と食事をともにして夜通し宮中に入れたため醜聞が流れたという。(ウィキペディアから)>
 
 楊貴妃は果物のレイシ(ライチ)を好み、嶺南(広東・広西・海南省など)から都の長安まで早馬で運ばせたと伝えられる。
<レイシの産地は長安から遠く離れた南方です。しかもレイシは摘んでから一週間も経てば味も香りも落ちてしまうのです。楊貴妃の口に新鮮で香り高い生のレイシ届けるため、何千キロの道を途中何度も交代しながら全速力で馬を走らせ、その途中で民衆を踏みつけようが、田畑を荒らそうがおかまいなしだったと言います(中国語スプリクト)>。
 レイシは沖縄でも産している。6月中頃からがシーズンらしい。いまでは宅配で全国に発送している。たしか食べたことがあり、そんなに美味しい果物とも思えない。中国人はとくにレイシが好きな果物で、レイシを食べないと食事を終えた気がしないそうだ。
 玄宗と楊貴妃をめぐるエピソードの続きである。
 <嶺南から献上された白い鸚鵡に「雪衣女」という名をつけ、人の声を完全に使えたため「多心経」をおぼえさせたが、ある日、鷹につかまれて殺されたので埋めて鸚鵡塚と名付けた話がある。また、安禄山に楊貴妃自身からも多くの贈り物を贈っている。
 755年(天宝14載)、6月の彼女の誕生日に玄宗は華清宮に赴き、長生殿において新曲を演奏し、ちょうど南海からライチが届いたため「茘枝香」と名付けた。この時、随従の臣下からの歓喜の声が山々に響いたと伝えられる。
また玄宗との酒のたけなわに、玄宗が宦官を百余人、楊貴妃が宮女を百余人率いて、後宮において両陣に分かれて戦争ごっこを行った。これを「風流陣」と呼んで、敗者は大きな牛角の杯で酒を飲み談笑したという説話が残っており、これは後に画題にもなっている。(ウィキペディアから)>
 太宗と則天武后の場合は、則天武后が太宗の死後、皇后からさらに皇帝にまで登りつめ、権力をふるった。だが、楊貴妃の場合はそのような政治へのかかわりはない。だが、玄宗が楊貴妃を寵愛したことから、唐の政治にも大きな影響が出た。
      楊貴妃 
                        浮世絵に描かれた楊貴妃
 玄宗は楊貴妃にのめり込み、楊貴妃の親族など側近に政治を任せるようになった。
 752年(天宝11載)、李林甫の死後、楊国忠は唐の大権を握った。この頃、楊銛と秦国夫人は死去するが、韓国夫人・虢国夫人を 含めた楊一族の横暴は激しくなっていった。また楊国忠は専横を行った上で外征に失敗して大勢の死者を出し、安禄山との対立を深めたため、楊一族は多くの恨みを買うこととなった。…
 楊一族は唐の皇室と数々の縁戚関係を結ぶが、安禄山との亀裂は決定的になってきた。(ウィキペディアから)>
 
 哀れな楊貴妃の最後
 すでに玄宗のところで、楊貴妃の最後について書いたが、もう一度、振り返っておきたい。
 755年、楊国忠と激しく対立してきた安禄山が反乱を起こし、洛陽を陥れた。玄宗は首都長安を抜け出し、蜀地方(四川省)逃れることを決めた。長安から西へ50キロばかりにある馬嵬(ばかい)の宿場に到着した。ここで悲劇が起きた。乱の原因となった楊国忠を憎んでいた兵士たちは、たまたまチベットの使者がやってきて国忠に食糧を要求しているところを見た兵士が「謀反の相談をしているぞ」と叫び、逃げる国忠を斬り殺した。そばにいた彼の息子と、楊貴妃の姉2人も殺された。
 
 兵士たちが宿場をとりかこんだ。玄宗は解散を命じたが、兵士たちは動かない。
 陳玄礼が言った。「貴妃さまのおいのちを」。 玄宗は「貴妃は国忠の謀反にかかわりない」 高力士が「貴妃さまには罪はない。しかし兵士たちは国忠を殺してしまった以上、貴妃さまが陛下のおそばにいたのでは、安心できないでしょう」と決断を求めた。玄宗も貴妃を殺さない限り事態の収拾は不可能と判断。高力士に命じ、しめ殺させた。このとき38歳。玄宗とともにいたのは16年であった。(『人物 中国の歴史』)
 <『楊太真外伝』によると、楊貴妃は「国の恩に確かにそむいたので、死んでも恨まない。最後に仏を拝ませて欲しい」と言い残し、高力士によって縊死(縄で首を捻られて殺される)させられた。この時、南方から献上のライチが届いたので、玄宗はこれを見て改めて嘆いたと伝えられる。陳玄礼らによってその死は確認され、死体は郊外に埋められた。さらに安禄山は楊貴妃の死を聞き、数日も泣いたと伝えられる。(ウィキペディアから)>
 
 楊貴妃はどのように評価されているのか。
 楊貴妃について、国を傾けた「尤物」(美女をあらわすが、男を惑わし道を誤らせる存在という意味合いが強い)という評価がある。でも、それは惑わされた男の方の責任ではないだろうか。
 <楊貴妃の死後、唐王朝はその勢いを取り戻すことがなかったため、盛唐の時代を象徴する存在である意味合いが強いとされる。…現代では、楊貴妃自身は政治にあまり介入しておらず、土木工事など大規模な贅沢、他の后妃への迫害などほとんどなく、玄宗や楊国忠ら一族との連帯責任以外はあまり問えないと評されることが多い。(ウィキペディアから)
 
 <安史の乱が起きたのは、玄宗が楊貴妃に溺れて政務を顧みなくなったために唐の屋台骨がきしみ始めたからでした。
 確かに彼女が一因ではありますが、あくまで彼女はそこに存在し、玄宗の妃であっただけで、彼女は政情に介入はしていないのです。
 打算的に彼女に近づいた安禄山でさえ、彼女の死に数日間も涙を流したといいますし、彼女は美しさだけでなくその性格も「できた」女性だったのではないでしょうか。
 彼女の行動について、悪評は史実には残されていません。それが何よりも証拠だと思います(「tabiyori」HP)>
楊貴妃が美しいゆえに、玄宗に寵愛され、彼女の一族が重用されて唐の政治に携わったことから、楊国忠と安禄山の対立を招き、さらに「安史の乱」を引き起こした。それから楊貴妃の死という悲劇にまで至った。則天武后とは大きな違いがある。唐の時代を生きた悲劇のヒロインである。
 終わり

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唐代を彩る人とその時代 玄宗皇帝と楊貴妃、その2

 安禄山の登場 
 <政務に倦んだ玄宗に代わって政治を運営したのは、宰相李林甫である。李林甫は政治能力は高いが、その性格は悪辣な面があると評され、政敵を策略により次々と失脚させている。李林甫の死後に実権を掌握したのは、楊貴妃の親族楊国忠と塞外の胡出身の安禄山である。両者は権力の掌握に直結する玄宗夫妻の寵愛をめぐって激しく争った(ウィキペディアから)>
 安禄山は、父は胡人、母は突厥人(トルコ民族の一派)。安禄山は、節度使の一人、張守珪の部下だった。開元24年、契丹の討伐で大敗を喫して逃げ帰った。幼年、安禄山を囚人として長安に護送した。玄宗は、死罪は免じ、官職は剥奪し、もう一度チャンスを与えた。
 その後めざましく出世した。
 
 自分の子どもができなかった楊貴妃に願い出て、彼女の養子になることが許可された。元来は、後宮は皇帝以外、男子禁制の場所である。その後宮にも、自由に出入りを許された。
 楊貴妃との間におかしな噂が立ったが、奇妙なことに玄宗は一向に気にとめなかった。(『人物 中国の歴史』から要約)。
天宝11年に李林甫が死んで、政治は楊国忠の独り舞台となる。政治の基本を知らず、施策の挙措が定まらなかった楊国忠の手で、政治は見るも哀れなほどに荒廃する。いや、自分が火傷するとも知らずに、枯草の山で火遊びするようなことを平然と行なった。…愚かにも、安禄山に叛乱を嗾(けし)かけて、謀反を起こすように仕向けた。
 
 安禄山から上奏文が届いた。馬匹を貢献(献納)したい、という主旨であった。
 ――上等な駿馬3千余頭を選び出し、朝廷に貢献することにした。その輸送で、馬一頭に執鞍の兵を2人、輸送体に将24名を付ける。沿路の州府や県庁に、軍粮と馬草の供給を受ける必要がある。指示と手配をお願いいたすーーという内容である。
 総計で万余の軍勢となる。紛れもなく、それは長安への平和進駐を意図した先遣部隊の派遣であった。「謀反を企んでいることは疑いない」と楊国忠が進言した。玄宗は、安禄山を信じて様子を見ることにした。
 
 時の朝廷には、謀反を起こした安禄山を鎮圧する戦備がなかったばかりか、それと戦う軍隊すらなかった。唐代の皇帝たちは、立派なご先祖さまが、鞏固な王朝の基礎を築いてくれたお陰で、ほとんど軍隊に頼らずとも世を収めることが出来た。いや、正規軍を持たず、軍権を握った強力な将軍を存在させないことが、軍の叛乱による王朝の崩壊を免れて、しかも養兵による財政的な圧迫から解放されるーーという計算された深謀遠慮の恩恵に浴してきたのである。
 王朝が建設された初期には「府兵制」があり、それを統括する「折衝府」が存在した。…いつしか兵営が空っぽになり、折衝府には、統轄すべき府兵がいなくなるという事態が生じた。(『隋唐演義』から要約)。
 玄宗は毎年、楊貴妃らを伴って滞在する温泉地、華清宮の離宮で待っているから出てこいと命じた。不安を感じた安禄山は11月、楊国忠討伐をスローガンとして、20万の将兵を率いて、范陽(北京)より南下し、東都洛陽をめざして進軍を開始した。挙兵後わずか30日余りで洛陽を陥れた(『人物 中国の歴史』)。
 
 天宝15戴(756)元旦、安禄山は落陽で帝位につき、大燕皇帝を僭称した。
 6月官軍の完敗。首都の長安は風前のともしびである。御前会議で張国忠は蜀(四川省)への避難を提案した。
玄宗は長安を抜け出し蜀地方へ出奔することに決め、楊貴妃・楊国忠・高力士・李亨らが同行することになった。
 しかし馬嵬(現在の陝西省咸陽市興平市)に至ると、乱の原因となった楊国忠を強く憎んでいた陳玄礼と兵士達は楊国忠と韓国夫人たちを殺害した。さらに陳玄礼らは玄宗に対して、「賊の本」として楊貴妃を殺害することを要求した。玄宗は「楊貴妃は深宮にいて、楊国忠の謀反とは関係がない」と言ってかばったが、高力士の進言によりやむなく楊貴妃に自殺を命ずることを決意した。(ウィキペディアから)>
 
 玄宗は長安を出るにあたって、皇太子に2千人の兵士を与え抗戦にあたるよう命じた。その際、帝位を皇太子に譲ると伝えさせた。霊武に到着して皇太子は群臣たちの推挙を受けて帝位についた。これが粛宗であり年号は至徳と改元された。45年にわたる玄宗の治世は終わりを告げた。
     安禄山 
      安禄山
 洛陽城に入った時の安禄山は、ほとんど失明同然になっていた。精神的に錯乱に陥る時があり、四六時中、手に鞭を握っていた。最大の被害者は、身辺の面倒を見ていた内監の李猪児と、寵臣の厳荘と、そして太子の安慶緒である。安禄山には愛妃段氏の生んだ子供がいた。太子の慶緒は廃嫡される危険があり、その恐怖に怯えていた。厳荘は慶緒が即位すれば、朝廷の実権を握ることができる。父を殺す勇気がなければ、万に一つも救われるチャンスはない、とけしかけた。(「隋唐演義」からの要約)。 
757年正月、洛陽の安禄山は次男安慶緒に殺された。これ以後、反乱側の内紛と自壊が進むことになる。安禄山の右腕史思明が安慶緒を殺して大燕皇帝を称し、その史思明も761年3月に長男史朝義に殺されてしまう。この間…官軍は、長安を奪回し、洛陽をも回復した。763年1月、史朝義は部下の裏切りによって自滅し、ここに7年にもおよんだ大乱は終息した。
 
 大反乱は、唐代社会に大きな影響を与えた。戦乱によって多数の流民がうみだされ、本貫地をはなれた客戸の増加にいっそうの拍車がかかった。激増する客戸の多くは武周期ころから成長しつつある新興の地主層の下に佃戸として吸収され、あるいは節度使の下で傭兵となっていく。乱勃発直前の755年における戸数は891万4709戸・5291万9309口という唐代での最大戸口数に達したが、乱終息後の764年には293万3135戸・1692万386口にしかすぎず、3分の1という激減を示している。…乱によって膨大な流民がうみだされたことが直接的な背景としてある。
 「安禄山によって引きおこされ史思明が引き継いだ安史の乱は、太平の世を謳歌する唐朝中央に大きな衝撃を与えた。この大乱によって唐代の極盛期は終止符をうたれ、乱中に新設されるようになった内地節度使の地方軍閥化が進行するなかで中央集権体制は大きく後退し、唐の国勢はもっぱら下降線をたどることになる」
(『中国史 2』)。

 新帝の粛宗は、次第に勢力を回復し、至徳2戴(757)10月に長安が奪回された。玄宗が長安に帰還したのは12月だった。
 玄宗が長安に帰り着いた。かつて粛宗が行宮を設けた鳳翔に到着した時に、警備隊が手にしていた武器を、その府庫に格納させた。
 玄宗は以前にも増して楊貴妃の面影ばかりを慕う毎日であった。上元元年(760)、粛宗の側近が玄宗を西宮に軟禁状態においた。玄宗は上元2年(761)4月、78歳の生涯を閉じた。その数日後に、父を追うようにして子の粛宗が薨る。52歳であった。

 安禄山は後世にどのような評価を受けているのだろうか。
 <『新唐書』では、「安禄山は、夷奴餓俘でありながら、天子から恩幸を借りて、天下を乱した。臣下でありながら、君に反した結果、子に殺されてしまった。事はよく巡るもので、天道のしかるものである」と評価され、『旧唐書』、『資治通鑑』でも、随所にその狡猾さ、残忍さ、忘恩を罵る言葉で満ちている。彼の事績をつづった『安禄山事迹』でも、彼の才知を認める表現を含みながらも、大きくは異ならない。

 しかし、彼の配下であった後に唐に降伏して魏博節度使となった田承嗣が、安禄山・安慶緒・史思明・史朝義を「四聖」として祀っている。また、長慶年間に幽州において、史思明とともに「二聖」として祀られていた事実も存在する。
現代の研究家からは、古典的な評価を否定できないとしながらも、そのたくましさ、不幸な生い立ち、巧みな世渡りと機転、鮮やかな昇進ぶりなどを肯定的に評価されることも多い。反乱についても、民族闘争的な一面も指摘されている。また、商業を重視していた記録など、ソグド人や遊牧民族によくみられる文化や思想を持ち、漢民族と異なる点も注目されている(ウィキペディアから)。
 


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唐代を彩る人とその時代 玄宗皇帝と楊貴妃、その1

 太宗と則天武后について書いたが、朝といえば、これより少し後に登場する玄宗皇帝と楊貴妃の物語が有名である。すでに紹介したテレビドラマ「隋演義」は、の建国で終わっているが、原作本は、玄宗と楊貴妃の物語を描いて、玄宗の死で終わっている。の時代を語るなら玄宗と楊貴妃も語らないと物足りない気がする。それで、ことのついでに書いておきたい。
 
 玄宗皇帝
 第2代太宗の死後、政情不安定の時代が続いた。則天武后が退位して、中宗が復位しが復活したが、皇后の葦氏が実質的に政治を左右するようになった。娘の安楽公主と共謀して、こともあろうに夫である中宗を殺そうと計画した。
牡丹観賞の宴で出された中宗の好物、飴入りの焼き菓子に秘伝の毒が入っていて、死去した。
 その後に皇太子の李重茂が帝位についた。則天武后の子、李旦が邪魔だと暗殺計画が練られた。これを察知した李旦の三男、李隆基が挙兵した。葦后、安楽公主は斬り殺された。李旦が帝位についた。睿宗である。妹の太平公主が政治の実権を握ろうとした。睿宗は即した翌年、太平公主の反対をおしきり、帝位を皇太子に譲り、引退を宣言した。
 年号が太極から延和と改まった712年8月、皇太子が新皇帝に即位した。玄宗である。28歳。
 太平公主は側近と謀議し、713年玄宗を倒すクーデターを計画したが、これを知った玄宗は謀議に参加した官僚たちを斬り捨て、太平公主には死を賜わった。
 
 713年12月、年号は先天から開元に改められ、この後、45年間が玄宗の在位期間である。
 則天武后の末期から玄宗即位に至るほぼ7年にわたる宮廷内は、葦后・安楽公主・太平公主ら女性の実力者たちのかもし出した奢侈なムードにながれ、綱紀が乱れに乱れていた。玄宗は即位の当初、奢侈の禁止令を勅令で公布して贅沢を戒め、綱紀の粛正をはかり、内政の充実に力を注いだ。
 玄宗の治世のうち、前半期にあたる開元20年過ぎ頃までは、「玄宗は政治の改革に意欲をもやし、政務に精励した、『開元の治』といわれる時代が出現する」(『人物 中国の歴史』)
 <713年に始まる開元(かいげん)時代(~742)は、太宗の貞観の治(じょうがんのち)を手本とし、後世開元の治と称せられる。玄宗は、貞観時代の房玄齢(ぼうげんれい)・杜如晦(とじょかい)に比せられる名宰相姚崇(ようすう)・宋璟(そうえい)を信任して政治に励み、奢侈(しゃし)を禁じ、儒学を重んじ、密奏制度をやめ、冗官(じょうかん)や偽濫僧(ぎらんそう)(国家非公認の僧)を整理するなど、前代の悪弊を除き、公正な政治の再建に努めた。玄宗が自ら『孝経』に注を施したことは有名である。対外的にも、突厥(とっけつ)を圧服し、契丹(きったん)・奚(けい)両民族を帰順させるなど北辺の平和維持に成功、経済・文化の発展と相まって輝かしい平和と繁栄の時代が現出した。(「日本大百科全書」)>

 玄宗の出現によって、の国運は一気に開花したかに見えたけれど、なお社会問題があった。
 人民支配を支えてきた均田制がスムーズに施行されず、農民たちは生活苦から流民になったりし税収が少なくなった。兵農一致を建て前とし、均田制と一体であった府兵制が、農民減少により負担が増加し、大量の傭兵が行われた。異民族の侵入にそなえて辺境に軍鎮がおかれ、統轄司令官として節度使が任地で兵士を募集することが許されたので、次第に強力な軍閥を形成するようになる(『人物 中国の歴史』から)。

 <開元後半期から次の天宝期(742~756)にかけて、律令政治は法的に整備される一方、官制・財政・兵制などあらゆる面で空洞化した。玄宗自身の政治姿勢も崩れ、李林甫(りりんぽ)などの寵臣を宰相としてこれに政治をゆだね、高力士らの宦官(かんがん)を重用した。精神面でも、儒教的理念から離れて道教の放逸な世界に傾倒し、公私の莫大(ばくだい)な費用の捻出(ねんしゅつ)のために民衆の収奪を事とする財務官僚を信任した。皇后王氏から武恵妃に心を移し、武氏の死後は息子の寿王から妃楊太真(ようたいしん)を奪って貴妃とした。白楽天の「長恨歌(ちょうごんか)」が歌うように、楊貴妃との愛欲の世界の陰には帝国の危機が進行していた。(「日本大百科全書」)>
        玄宗皇帝 
                                   玄宗皇帝
 玄宗をめぐる女性についてもう少し見ておきたい。
 玄宗の皇后の王氏は、子宝に恵まれず、玄宗に愛された数人の女性たちが男子をもうけていた。武恵妃という新しい愛人ができた。則天武后の一族で、男子を生んだ。皇后の候補になったが反対が多かった。「皇太子たちが自分たち母子を殺害しようとしている」との武恵妃の訴えを信じて、「三皇子を廃し、武恵妃の生んだ寿王を皇太子に立てたい」と告げた。宰相の首席、張九齢が強く反対した。張は宰相を免職になった。
 
 開元25年(737)4月、三皇子は廃されのちに殺された。年長の皇子である忠王が皇太子に立てられた。後の粛宗である。12月、武恵妃は亡くなった。
 武恵妃が死に玄宗は、宦官の高力士に命じ、武恵妃に代わる女性を探させることにした。「絶世の美人」として報告があったのは、玄宗の18番目の皇子、寿王の妃、楊玉環であった。
玄宗は寿王に納得させ、新しい嫁を世話する一方、楊玉環をいったん出家させ、女道士とした。その後、彼女が玄宗の女官になることを願い出たという形にして後宮に入れた。
 天宝三戴(744)12月、玄宗60歳、楊玉環26歳のときである。翌年8月、彼女は皇后に準じる女官の地位、貴妃に任命され、楊貴妃と呼ばれた。楊貴妃は、やがて「国を傾ける」ようになる。
 彼女の一族の人びと、外戚が多くの特権が与えられ、政治上でも強力な発言権をもつようになった(『人物 中国の歴史』から)。
 
 「武則天の場合には太宗の死により慣例にしたがって出家させられたのであるのにたいし、楊貴妃の場合には寿王とは生きながらの離別であり、玄宗のやりかたは高宗より背徳の度合はより強い」とされる。
「楊貴妃をえた玄宗はひたすら彼女に溺れていった。…政治に精勤した開元期の玄宗の姿にかわって、政治に倦(う)んでもっぱら華清宮で楊貴妃との生活に没入する姿だけがめにつくようになる」
 「玄宗の楊貴妃への寵愛が深まるにつれ、楊氏一族への玄宗の私的恩寵(おんちょう)が過大におよぼされるようになった」
楊氏一族の栄達を代表するのが楊国忠で、楊貴妃の再従兄(またいとこ)にあたる。若い時期には酒と賭博に身をもちくずし、一族のきらわれものであった。楊貴妃の後宮入りで昇進のチャンスをつかみ、宰相となった(『中国史 2』)。
 


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唐代を彩る人とその時代 太宗と則天武后、その5

 太后の治世が始まる
 廃帝のあとは弟の李旦を皇帝に立てた。即位式はあげず、任命書を読み上げただけ。政務はすべて太后が執ったから、実質的には最初から廃帝であったも同然。これより皇帝あって皇帝なき太后の治世が始まる。
 揚州の李敬業が武氏討伐の義兵を挙げた。洛陽・長安に進撃せず、金陵(南京)に退いて太后の大軍に撃破された。太后の悪業は覆いようもなく、人心を弾圧するために、密告・偵察・拷問・虐殺という一連の刑獄制度が組織化された。
 武后が政に与った高宗の治世34年間には13回、改元した。高宗没後の太后治世の15年間には、16回も改元した。
 載初元年(690)新しい周の王朝を建て太后が皇帝となるよう請願が出された。9月9日、朝を廃して新王朝を周と称し、年号も天授と改めた。12日には聖神皇帝の称号を受けて女帝となった((『人物 中国の歴史』から要約)。
 
 譲位を迫られる
 晩年に至った武則天は、80歳近くでも、20歳代の若い張易之・張昌宗兄弟を寵愛した。醜聞が広がることを恐れて、それをごまかすため新しい官署まで設置した。これを控鶴府(こうかくふ)と呼び、そこに張兄弟をはじめ若者たちが集り「倒錯した性愛の殿堂と化した」(『人物 中国の歴史』)。
 これを見かねて武則天を諫める朝臣が現れると、これを失脚させた。だが、逆に朝臣たちの反感を強め、張一派は孤立していった。
 武則天は、病床に臥せがちとなっても、皇位継承が決まっていなかった。
 実子の皇子旦は高宗との子であり、王朝の復活となるので、武一門の甥に帝位を譲ろうとしていた。狄仁傑は、甥ではなく「皇子哲か旦を皇太子に立てるべき」と説いた。則天もこの意見を受け入れ、廃帝中宗(皇子哲)を再び皇太子に立てた。
 宰相の張柬之は実力行使を決意した。
 長安5年(705)1月、皇太子哲を連れ出したうえで、則天の臥す長生殿に押し入り、張兄弟を斬った。武則天に則天大聖皇帝の尊称を奉ることを約束して位を退かせた。これにより中宗は復位し、国号もに戻ることになった。
 11月、世を去った則天は、皇帝としてではなく、高宗の皇后として葬られることを願い、高宗の眠る乾陵に合葬された。
     ドラマ「武則天」 
        ドラマ「武則天」から。左が武后、右が高宗
 
 則天武后への客観的な評価
 武則天みずからが皇后から皇帝となり強大な権力の頂点にたつために、我が子でさえ平然と犠牲にするなど残虐は殺戮を繰り返し、権謀術数をほしいままにしてきた。といっても、権力の座についてからの政治は、必ずしも悪政とはいえない。客観的な評価が必要である。
 <武皇后は自身に対する有力貴族(関隴貴族集団)の積極的支持がないと自覚していたため、自身の権力を支える人材を非貴族層から積極的に登用した。この時期に登用された人材としては、狄仁傑・姚崇・宋璟・張説などがいる。
 武則天は狄仁傑を宰相として用い、その的確な諫言を聞き入れ、国内外において発生する難題の処理に当たり、成功を収めた。また、治世後半期には姚崇・宋璟などの実力を見抜いてこれを要職に抜擢した。後にこの2名は玄宗の時代に開元の治を支える名臣と称される人物である。武則天の治世の後半は、狄仁傑らの推挙により数多の有能な官吏を登用したこともあり、宗室の混乱とは裏腹に政権の基盤は盤石なものとなっていった(ウィキペディアから)。>

 <武則天にたいする悪評はかなり一面的であり、やはり当時の歴史的情勢のなかで評価が必要である。
 皇后冊立に反対したのは伝統ある有力貴族(武川軍閥集団)、門閥貴族勢力が中心であり、賛成派は門閥的背景を持たない新興の官僚層が中心で、科挙の厳しい試練に勝ち残り、のちに武后の賢才主義による人材登用策で台頭する勢力である。
 「つまり貴族制社会の閉鎖性を打破して新風を吹きこもうとしたのが武后であり、新興の科挙官僚の中堅クラスが武后実権期に頭角をあらわし、ついで武周政権を支えたのである。このように武周期は貴族制社会にひとつの大きな転機をもたらした時代と位置づけることができる」(『中国史 2』)>
 <武后は、内廷と外廷との間に、けじめをつけていた。外廷のことでは、なにごとによらず狄仁傑の建言に従った。
つまり武后は人を見る目があり、政治の機微を弁えている。そして狄仁傑は、筋道を通すことでは一歩も引き退がらなかった。武后が内廷を乱しながら、しかも武后に阿(おもね)る数多くの佞臣(ねいしん)がいたにも拘らず、政治が究極的に混乱を免れたのは、優秀な人材が宰相に任じられていたからである。同時に宰相権が尊重されていたからであった。(『隋演義』)>
 <中国史の中から、「出世物語」を拾い出すとすれば、その筆頭のヒロインは、間違いなく則天武后である。…その出世物語が、天下の女性を勇気づけて、「男性本位」の社会通念を破り、逆に「女性上位」の信念を植え付けた功徳は大きい(『隋演義』)。>
 
 則天武后は、伝統的な儒教より仏教を重視したという。
<帝室を老子の末裔と称し「道先仏後」だった王朝と異なり、武則天は仏教を重んじ、朝廷での席次を「仏先道後」に改めた。諸寺の造営、寄進を盛んに行った他、自らを弥勒菩薩の生まれ変わりと称し、このことを記したとする『大雲経』を創り、これを納める「大雲経寺」を全国の各州に造らせた。(ウィキペディアから)>
 武則天が、太宗と高宗という親子の後宮となったことに非難がある。だが、北方遊牧民では通常の風習だという。
「太宗・高宗の父子二帝の後宮に身をおいたことも儒教倫理からすればきわめて背徳の行為であるとする批難も強い」「北方遊牧民族においては一般的な風習であり、唐室李氏の北族出自説のひとつの論拠とされる」(『中国史 2』)。
 <長年の課題であった高句麗を滅ぼし、唐の安定化に寄与した事実は見逃せない功績であるが、それは高宗がまだ重篤に陥っていなかった668年のことである。また、彼女が権力を握っている間には農民反乱は一度も起きておらず、貞観の末より戸数が減らなかったことから、民衆の生活はそれなりに安定していたと見る向きもある。加えて、彼女の人材登用能力が後の歴史家も認めざるをえないほどに飛びぬけていたことは事実であり、彼女の登用した数々の人材が玄宗時代の開元の治を導いたことも特筆に値する。歴史上にもわずかながら、…肯定的な評価を下した者も存在した(ウィキペディアから)。>
 



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唐代を彩る人とその時代 太宗と則天武后、その4

 則天武后
  次にテレビドラマでも主役として描かれている「則天武后」について、見ていきたい。呂后(漢皇帝の劉邦の妻)、西太后(清の咸豊帝の側妃)とともに、中国の三代悪女にあげられる。ただ、長い中国王朝史上、女性で皇帝にまで登りつめたのは則天武后ただ一人である。良くも悪くも稀有な存在である。
 <武照(後の則天武后)は州都督である武士彠(ブシカク)の子として、代々資産家である家に生まれます。上流階級の家に生まれた武照は英才教育を受けて育ち、十四歳での皇帝太宗の後宮に入りました。
 朝の制度では后が一人のほか、妃が四人、昭儀が九人、婕妤が九人、美人が四人、才人が五人、そしてその下にそれぞれ二十七人から成る侍女がおり、これを総称して後宮といいました。この後宮は皆、皇帝と寝所をともにすることが可能でした。武照は後宮の一人となりましたが、序列としては低い才人の一人にすぎず扱いとしては女官のようなもので、もっとも大事な仕事は皇帝の寝具を交換することでした。
 武照は美しく聡明でありながら、皇帝太宗の寵愛を受けることはありませんでした。(「悪女列伝」HPから)>

 ドラマでは、太宗が武才人を寵愛したように描かれているが、実際はどうもそうではなかったようだ。
 「武才人も太宗のお召しを受ける機会はあったはずだが、好みにあわなかったのか、太宗が崩ずるまで才人の地位のままであった」(『人物 中国の歴史』)。
 その背景の一つに、不気味な流言の騒ぎがある。
 <ほどなく宮廷に「三代にして、女王昌」「李に代わり武が栄える」との流言が蔓延るようになると、これを「武照の聡明さが朝に災禍をもたらす」との意ではないかと疑い恐れた太宗は、次第に武照を遠ざけていった。途中、李君羨という武将が「武が栄える」の「武」ではないかと疑惑を持たれ処刑された事件があったが、太宗は李君羨の処刑後もなお武照と距離を置き続けた。こうした状況下で、太宗の子である李治(後の高宗)が武照を見出すこととなった。太宗に殺害されることを恐れた武照は、李治を籠絡したとおぼしく、李治は妄信的に武照を寵愛するようになる(ウィキペディアから)。>
 そういえば、武才人は太宗との間に子どもはいない。武才人を寵愛した李治、のちの高宗との間には子どもがいる。太宗との関係を反映しているのかもしれない。
     武則天 
        武則天
 武才人の誘惑が太宗の命取りになったという話もある。
<武才人が夜な夜な誘ったのも、思えば運の尽きであった。過度の愉悦が死に至る道であるからである。「いかがわしげな道士の調合した怪しげな「金石」――紛い物の「金丹」を飲んだのが、それこそ命取りとなる」(『隋演義』)
実際に「不老長寿のために金丹薬を多量に服用し、長生をえるどころか逆に命を縮めて53歳で没した」とされている(『中国史 2』)。
 太宗の後継者として李治が選ばれた経過をもう一度振り返っておく。
 <「はじめ長子の承乾が皇太子に立てられたが、第4子李泰とのあいだが不和になり、ついには承乾の謀叛事件にまで発展したので、太宗は断乎として皇太子を廃し、承乾と泰とを共に流罪に処した。そのあとで、功臣の進言もあり、太宗は苦慮の末に室の前途に無用の波瀾を起こさぬよう、兄よりも人物の劣る李治を皇太子に立てなければならなかった。この李治が唐の第三代皇帝であり、後の武照の夫となった高宗である」。
 貞観23年(649)太宗が崩じ、他の宮女たちと共に長安の感業寺という尼寺に出家した。以前から誘惑ともいえる巧妙な手管で皇太子李治と通じ、尼寺に入ってからも、秘密裏にその関係が続いていたようで、高宗との間に男の子をもうけていた。父と息子とに通じていたわけで、近親相姦として非難される。
 高宗の皇后王氏には子女がなく地位に不安があった。ライバルを押さえるため武照を後宮に入れて力を借りることを思いついた。髪が伸びると武照を後宮に入れた。武照が高宗の心を独占し、皇后の影が薄くなった。皇后の地位から見て第6位、昭儀に躍進した(『人物 中国の歴史』抜き書き)。>

 <昭儀は高宗との間で女児も分娩した。子のない王皇后は昭儀の留守に嬰児を抱いて寝かせて立ち去った。昭儀が室に戻り、訪れた高宗に見せるために抱きあげると嬰児は死んでいた。容疑は王皇后にかけられた。史書では実際の下手人は実母の武照としている。それ以後も繰り返される武照の肉親謀殺の犠牲者第1号であった(『人物 中国の歴史』から要約)>。
嬰児殺しは、武照が仕組んだ罠だったという。
「じつはこれは、武照が十分計算してしくんだ罠であった。武照は皇后が部屋を出ていくと、隣室からそっともどり、自分の娘を絞め殺した。そのあと布団を上にかけ、だれにも気づかれないように外に出た。そして、あたかも王氏が、皇帝と武照の関係を憎むあまり、その子に手をだした、と解釈されるように仕向けた(講談社学術文庫『則天武后』から)。

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