fc2ブログ

レキオ島唄アッチャー

自由民権運動の起源は中浜万次郎にあり、その14

 憲法の誕生
 1945年8月14日、日本はポツダム宣言を受諾し、国家を民主的な改革の義務を負いました。連合国最高司令部(GHQ)は憲法改正に関して示唆し、日本政府は同年10月、松本烝治国務相を長に据えた憲法問題調査委員会(松本委員会)をスタートさせた。しかし、明らかになった憲法試案は「あまりに保守的、現状維持的なものに過ぎない」日本の民主化にはふさわしくないと厳しい批判を浴びた。GHQが独自に憲法草案を作ることになった。
 政府側が秘密裏に改正草案作りを進めていたころ、民間有識者のあいだでも憲法改正草案の作成が進行し、1945年末から翌春にかけて次々と公表された。その代表例が、1945年12月26日に発表された 憲法研究会の「憲法草案要綱」であった。
 <これは、天皇の権限を国家的儀礼のみに限定し、主権在民、生存権、男女平等など、のちの日本国憲法の根幹となる基本原則を先取りするものであった。その内容には、GHQ内部で憲法改正の予備的研究を進めていたスタッフも強い関心を寄せた(国立国会図書館「日本国憲法の誕生」)。>
 
 憲法研究会の鈴木安蔵は、昭和11年(1936)年に自由民権運動の資料調査のため高知を訪れ、植木枝盛について研究していた。
 「憲法草案要綱」について、鈴木は、起草の際の参考資料に関して「明治15年に草案された植木枝盛の『東洋大日本国国憲按』や土佐立志社の『日本憲法見込案』など、日本最初の民主主義的結社 の母体たる人々の書いたものを初めとして、私擬憲法時代といわれる明治初期、真に大弾圧に抗して情熱を傾けて書かれた20余の草案を参考にした」(12月29日、毎日新聞記者の質問に対して)と述べている。
 GHQ草案の作成にあたって中心的な役割を担ったのがラウエル陸軍中佐だった。なかでもとりわけ注目したのは憲法研究会案であり、ラウエルがこれに綿密な検討を加え、その所見をまとめた(「私的グループによる憲法改正草案(憲法研究会案)に対する所見」 1946年1月11日。「日本国憲法の誕生」から)。
 <彼は、憲法研究会案の諸条項は「民主主義的で、賛成できる」とし、かつ国民主権主義や国民投票制度などの規定については「いちじるしく自由主義的」と評価している。憲法研究会案とGHQ草案との近似性は早くから指摘されていたが、1959(昭和34)年にこの文書の存在が明らかになったことで、憲法研究会案がGHQ草案作成に大きな影響を与えていたことが確認された。(「日本国憲法の誕生」)>。
    憲法9条の碑
    憲法の9条「戦争の放棄」を刻んだ碑(石垣島)
   国民主権、労働者保護など彼が評価した項目の大部分をGHQ草案に採用した。
GHQがこうした憲法草案を作成した背景には、日本の敗戦・占領を規定したポツダム宣言がある。その第10項には、「日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障碍ヲ除去スベシ」とある、とうたっていた。
注目されるのは、「日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向」とのべていることである。これは自由民権運動から憲法草案、それらを参考にした憲法研究会案に示されたように、日本国民の間に流れている民主主義の傾向、伝統があり、日本政府がそれを復活強化することをポツダム宣言は強調している。
 GHQ草案を受けて作られた日本政府の現憲法は、アメリカのたんなる押し付けの憲法ではないことがここでも裏付けられる。
<日本国憲法には民権期私擬憲法草案と一致している条項が多く、「特に植木枝盛の憲法草案と憲法草案の形をとらない同人の著作中に見られる立法思想には、日本国憲法の重要事項と一致するものがすこぶる多い」(家永三郎著『歴史のなかの憲法』)ことが、土佐自由民権の今日における最大の意義である。>
 外崎光弘氏はこう強調している(『土佐の自由民権』)。
 
「アジアで最初の国会開設を求める国民的な運動が、日本の各地から、草の根から湧きおこった。それは数十万の人びとを新しい結社に参加させ、請願や建白書に署名させ、数百万の一般民衆をその渦中にまきこんだ。私はそれを日本の民衆史上、空前のこと、画期的なことであったと考える」
 先ごろ、亡くなった色川大吉氏はこのように強調している(『自由民権』)
 自由民権運動は、人間の根源的な要求に根差しており、軍国主義により窒息させられたかに見える時代にも、国民の間で脈々と受け継がれてきた。自由民権に代表される社会の進歩と変革を願う運動は、どんな暴力的な権力支配によっても決して消し去ることはできない。軍国主義が崩壊した戦後、国民のあいだで平和で自由な民主主義日本を求める運動が澎湃として起きたことにも表れている。
 21世紀の現在も、現憲法の九条改悪による戦争の肯定や、国民の自由と人権を制限しようという時代逆行の改悪の動きが強まるなかで、自由民権運動は、決して過去の歴史で終わらない今日的な意義をもっていることを指摘しておきたい。
  終わり   2022年1月        沢村昭洋


スポンサーサイト



日本の歴史 | コメント:0 | トラックバック:0 |

自由民権運動の起源は中浜万次郎にあり、その13

 自由党の終焉
 選挙干渉に対する高知の抵抗は「民権派の最後のたたかいであった」(外崎光弘氏)。この後、自由民権は終焉への道をたどる。
  政府と自由党、立憲改進党が海軍の軍艦建造費などで対立を深める中、明治26年(1893)2月、明治天皇が「和衷協同の詔勅」を出し、自由党は妥協に応じた。28年(1895)11月22日には、自由党は伊藤内閣との提携を発表した。
 29年(1896)4月14日、板垣は第二次伊藤内閣の内務大臣に就任した。
 時局風刺の雑誌『団団珍聞』では風刺画「棟梁の出世、自由の死亡」のなかで痛烈に批判した。
 第3次伊藤内閣は、板垣、大隈に入閣を求め自由党・進歩党(首領大隈重信)の協力を打診したが、辞退した。
 明治31年(1898)6月22日、派閥政府の専制政治を倒すためとして、自由党と進歩党が合同し、憲政党が誕生する。
 6月24日、伊藤内閣が崩壊し30日、日本最初の政党内閣、第一次大隈重信内閣、いわゆる隈板(わいはん)内閣が成立した。首相に大隈、内務大臣に板垣が就任する。板垣は大隈の専断に激怒し、辞任した。隈板内閣はわずか4カ月で終焉した。
 明治33年(1900)9月13日、憲政党は解党し、伊藤博文を総裁とする立憲政友会が成立した。
 <立志社→海南自由党→海南倶楽部→海南社→自由党高知支部→憲政党高知支部→立憲政友会高知支部と改称しながら生き抜いてきた土佐民権派は、「自由党」の死に続いて死去した。立志社創立からかぞえて28年の生涯だった(外崎光弘著『土佐の自由民権』)。>
  板垣退助
       板垣退助 
  高知県出身の思想家で社会主義者の幸徳秋水は「自由党を祭る文」を執筆し、憲政党解党によって自由党以来の光栄ある歴史が抹殺されたと批判した(『万朝報』1900年8月30日)。
 自由民権論の理論的指導者として活躍した中江兆民は、次のようにのべている。
「維新革命後民権史の発展」を見るに、「言論、出版、集会、結社の自由」は、「実に民権論者主張の生命なりき」であるが、人民にとって「言論、出版、集会、結社の自由」はない。「明治民権論者の主張は、未成品として吾人に遺されたる也、故に其を完成するは吾人の責任に非ずや」と主張している(「平民新聞」の後継紙「社会新聞」41年1月26日号、外崎光弘著『土佐の自由民権』から)。
 人民にとっての自由民権はまだ「未成品」であると、その達成を後世の人たちに託した。
 <自由民権運動が敗北し、日清・日露戦争を通じて日本資本主義が成立・発展してゆくと、貧富の差など社会格差が激しくなり、「社会問題」「労働問題」が表面化します。自由民権運動は、言論・集会・結社の自由などの自然権確立を主張しましたが、次の時代には、これに加えて労働基本権や社会保障など社会権確立が切実な要求となりました。それを担ったのは、労働者をはじめとする新しい勢力でした。そこには当然、自由民権運動の精神がひきつがれていたのです。(公文豪著『土佐の自由民権運動入門』)>

 自由民権の歴史的な意義
 最後に自由民権運動は、歴史的にどのような意義をもったのか、見ておきたい。
 「わが国の歴史上に、もしこの運動がなかったとしたら、1890年(明治23)という早い時期に国会が開設されることはありえなかっただろう。また仮に政治変革としての直接の効果は乏しかったのとしても、この運動がもった文化運動、思想運動としての意義を消し去ることはできない。日本人民はこの運動を通じての広義の政治学習によって、はじめて国民としての政治的開眼をとげ、近代社会運動の活力をふるい起こし得たからである。」(色川大吉著『自由民権』)。
 自由民権運動が求めた日本の自由と民主主義の願いは、明治政府による帝国議会の設置や大日本国憲法の施行で終わることなく、日本の人民のなかでその魂は、受け継がれ発展していった。
 1910年から1920年代にかけて、起った大正デモクラシーにも影響を与えている。政治の上では普通選挙権の実現を求める普選運動、言論、集会、結社の自由を求める運動、社会的には、男女平等、団結権、ストライキ権を求める労働運動、農民運動、文化面では自由教育や大学の自治を求める運動、さらに社会変革をめざす社会主義の運動も起きた。この大正デモクラシーは、自由民権運動の遺産の上に発展した。
 さらに自由民権と大正デモクラシーの遺産は、戦後民主主義の形成に受け継がれていく。
 太平洋戦争の敗北により天皇制軍国主義が崩壊し、戦後、平和と民主主義を保障する現憲法が生まれたのは、たんにアメリカが推し付けたというものではない。そこには自由民権運動で作られた憲法草案の内容が反映されているという。

日本の歴史 | コメント:0 | トラックバック:0 |

自由民権運動の起源は中浜万次郎にあり、その12

 自由民権運動は続く
 土佐では自由党解党後も民権運動は続いていた。演説会が続けられ、県会においても民権派議員の活躍は続いていた。
  物部川の堤防決壊の修理費を36か村の土地と家屋に賦課するという知事の提案に農民が反対し、明治19年(1886)12月27日、3000人が県庁におしかけ、28日は農民2000人が香美郡役所を包囲し、なだれ込む事件が発生した。物部川堤防事件は、「民権期最大の農民闘争」となった(公文豪著「物部川堤防事件――高知県における民権期最大の農民闘争」、外崎光弘著『土佐の自由民権』から)。
 この翌月、イギリスの貨物船が沈没し、西洋人乗組員は全員助ける一方、日本人乗客25人全員とインド人火夫らが溺死する事件が起きた。英領事館の海事審判が船長らを全員無罪にしたため、不当な裁判への批判が沸き上がった。「当時、政府は交渉を進めていた条約案の屈辱的な内容が暴露され、反政府感情が高まり、沈滞していた自由民権運動はたちまち高揚しはじめた」(外崎同書)
 土佐の民権派は、明治20年(1887)9月下旬、租税軽減、言論・集会の自由、外交失策の挽回の三大事件建白書を政府へ提出することを決めた。この建白書は、「生きて奴隷の民たらんよりは死して自由の鬼たらん」という有名な言葉で結ばれていた。土佐の山野をゆすがす大闘争に発展した。
 運動は、全国に燃えひろがり、建白書を懐に東京へ集まる者が数知れない状態となった。
 政府は建白運動の高まりを前に、民衆への威嚇につとめたが、効果はなく、政府は、12月25日、ついに官報号外をもって「保安条例」を発布。まれにみる弾圧を開始した。(公文豪著『土佐の自由民権運動入門』から)。
 IMG_5579_2021112516450020e.jpg
     高知市にある「自由民権記念館」
 
 総選挙で自由党系第一党に
 明治22年(1889)2月11日、大日本帝国憲法が発布され、翌年11月29日施行された。
 公布された憲法は、天皇主権を宣言し、強大な大権を設けた。国民の基本的人権は「臣民の権利」として、ほとんどが法律の範囲内に限定されていた。中江兆民は「下らない憲法」と批判し、直ちに憲法の改正が必要とした。
 23年(1890)1月3日、板垣は愛国公党大意(趣意書)を発表した。
 5月5日、愛国公党創立大会が東京で開催され、板垣が会長に就任した。愛国公党は5カ条の政綱を掲げた。施政はなるべき干渉を省くこと、地方分権、対等外交、防御を主とした兵備、財政は節制を旨とし、経費は民力に適応すること、である。
 同年7月1日、第1回総選挙が実施された。
 選挙結果を踏まえて、大同倶楽部、愛国公党、再興自由党、九州同志会の自由党系4派は解散して合同を決議、9月15日、立憲自由党が結成された。結成後も、4派の流れは残り、自由党の派閥を形成していく。第1回帝国議会では130名を占めて第1党となった。
 明治24年(1891)第一議会では、山県有朋内閣が提出した予算案に対し、立憲自由党・立憲改進党の「民党」が「民力休養」(地租軽減)・「政費節減」を要求して対立する。ところが、2月20日、大成会の天野若円が提案した大日本帝国憲法第67条に関わる予算削減について、審議の前に政府の了承を得るという提案を巡って、党内の大勢は反対だったが、竹内綱などの一部議員(土佐派、旧愛国党系)が賛成した。これは「土佐派の裏切り」と呼ばれた。
 政府との妥協に応じた背景には、第一議会を無事に終了させたいという板垣らの意向があったとみられる。動議に賛成し立憲自由党を脱党した24名と5名を加えて自由倶楽部を結成した。

 大規模な選挙干渉
 明治25年(1892)の第2回総選挙が行われた。内務大臣品川弥次郎によって選挙干渉が指令された。全国で死者25人、負傷者388人を数えるほど、憲政史上に例を見ない選挙干渉が行われた。
 自由民権運動の盛んな高知県はその焦点とされ、干渉のために措置がとられた。高知県知事には調所(ずしょ)広丈、警察部長には古垣兼成、激戦地と予想される第2区高岡郡の郡長には中摩速衛を起用した。いずれも鹿児島県人だった。
 調所は、「県庁は飽迄強硬主義を採り、一歩も民党の輩に譲らざる決心なり(原文カタカナ)」と訓示した。そして警官が干渉の先頭に立ったから県内は無法状態と化した。死者10名・負傷者66名(実際の死傷者は100名をこえ)・破壊された家屋は90戸に達した。
 ここで聞き覚えのある調所という名前に出会った。調所は珍しい苗字である。薩摩藩の家老だった調所広郷が有名である。広郷は開明派の藩主・島津斉彬と対立関係にあった。密貿易の責任を問われ、自殺した。広郷の3男として生まれたのが広丈である。戊辰戦争に従事し、札幌県令、元老院議官、鳥取県知事、高知県知事などを歴任している。広丈は自由民権を弾圧する役割を果たす知事だったのである。

 激戦地の第2区で自由党の領袖・林有造と片岡健吉を倒すことに政府側の目標がおかれ、干渉も露骨をきわめた。特に高岡郡佐川と須崎、吾川郡伊野では自由、国民両派の勢力が激突し、流血の惨事をまねいた。ことに斗賀野の集団闘争では警察官が参加、自由派を殺傷する事件さえ発生した。
 高岡郡尾川村では、駐在巡査が吏党候補(政府支持党)へ投票するよう勧誘し、それが不当な干渉と抗議されると、佐川分署長が暴漢4人をひきつれて来て、有権者を殴打し、さらに佐川分署に拘留するという干渉事件が発生した。
 こうした干渉のもと、2区では自由派の林有造、片岡健吉はいったん落選とされたが、開票に不正があったと提訴した結果、明治26年4月6日に2人とも当選が認められた。高知では、1、2、3区で自由党が完勝した。県民の中での自由民権運動への根強い支持と期待の広がりを示している。

日本の歴史 | コメント:0 | トラックバック:0 |

自由民権運動の起源は中浜万次郎にあり、その11

 自由民権運動の弾圧と抵抗
 明治14年(1881)の政変後、政府は弾圧を強化したが、民権派はこれに屈することなくそのたたかいを続けた。
 新聞の発行停止、禁止や国家の安全を妨害する演説の中止、集会の解散を命じた。
<土佐の民権派は、集会条例による弾圧をさけるため様々な工夫をこらしました。政談演説会に代えて各地で「自由懇親会」を開いたのもそのひとつです。懇親会は会費制の集まりですから警察署へ届ける必要はなく、警察官の監視もありません。料亭や河原などで、酒をくみ交わし、料理に舌鼓をうちながら、自由に演説することができました。
 新聞は、発行停止のたびに編集人が投獄されるので、奇人として有名な市原真影のように、もっぱら投獄されることを仕事とする「仮編集人」をかまえて対処しています(公文豪著『土佐の自由民権運動入門』)。>

 「板垣死すとも自由は死せず」
 そんな中で起きたのが東海地方遊説中の自由党総理板垣退助の襲撃だった。明治15年(1882)4月6日、岐阜県厚見郡富茂登村(ふもとむら、現岐阜市)の神道中教院で開かれた自由党懇親会における演説を終って、庭へ出たところを相原尚褧(なおぶみ)に刺された。この時叫んだとつたえられている「板垣死すとも自由は死せず」は、自由民権史上もっとも輝かしい台詞として今日につたえられている。
 この発言をめぐって諸説がある。
「遭難事件の1年半前からすでに、同様の発言を繰り返していたのである。つまり、とっさの事態でも自由主義に命をかける決意があったからこそ発言できたのだ」(中元崇智著『板垣退助』)。 
 「つね日ごろ刺客の危険におびやかされていた彼が、たえずこのことばを周辺の人びとに語っていたからにちがいない」(外崎光弘著『土佐の自由民権』)。
 「日本の時代史22 自由民権と近代社会」から (2) 
板垣退助遭難の図」(『日本の時代史22 自由民権と近代社会』から)  
 自由民権運動の退潮
 遭難の板垣は軽傷で生命に別条なく、板垣は「自由の泰斗」等と呼ばれ、政治的は評価を高めた。しかし、ここを頂点に自由民権運動の退潮がはじまった。事件の2カ月後、政府は自由民権運動の高揚を警戒し、集会条例を改正し、集会への弾圧と政党活動への規制を強めた。
 さらに、突如持ち上がったのが、板垣の外遊問題である。政府による自由党の切り崩し、分断を狙った策略だった。これは党員大きな衝撃を与えた。とくに旅費の出所に疑惑があったため、馬場辰猪・大石正巳・末広重恭・田口卯吉ら幹部党員はこれに反対した。旅費の「洋銀二万ドル」は三井銀行から出させる代わりに、三井銀行の15年度限りの陸軍省との契約を18年まで延長させた。歴史家の服部之総は「板垣の代わりに自由が死んだ」と表現した。
 15年(1882)11月11日、板垣はヨーロッパに向けて横浜から出港した。
「板垣外遊問題は、政府の自由党分裂工作であったのであり、この分裂工作がなかば奏功して、自由党に内訌がおこり、板垣は運動戦線を離脱して外遊し、さらには自由党と改進党との確執が深まり、反政府戦線はとうてい不可能となった。 かくて自由党分裂のきざしがここにあらわれ、この間に、自由民根運動は地方において激化していったのである」(松岡八郎著「自由党の解党」、東洋大学雑誌「東洋法学」)。

 激化事件と自由党解散
 松方デフレ政策による米価や繭価格の下落と増税は農村の窮乏化をもたらした。政府への不満、批判が高まるもとで、各地で自由党急進派による激化事件が頻発した。
 明治14年(1881)には秋田事件が起きていたが、明治15年末には福島事件が発生した。三島通庸(大久保利通の直系)は、東日本における自由民権運動の中心的拠点たる福島県の県令を命ぜられた。道路開設を企て、住民に多額の負担額と労役、徴税を押しつけた。三島は旧会津士族からなる帝政党をつくり、民権家を襲わせた。三島の暴政に憤激する千数百人の農民が、総代を逮捕した喜多方警察署に押し掛けたが、鎮圧された。この決起に直接関係がなかった河野広中らが逮捕され、一連の弾圧で約2000人が逮捕された。「福島事件は、自由党に表現される全人民と絶対主義政府との最初の激突であった」(松岡八郎著「自由党の解党」)。
 16年(1883)3月には、北陸一帯に地盤をもつ自由党の北陸七州自由党懇親会が開かれたが、政府の密偵の通報により、数十人が逮捕され内乱陰謀の刑に処す北陸事件が起きた。
 
 板垣らは7ヶ月の外遊を終って、明治16年6月22日帰国した。外遊の成果として、従来よりも一層急進的な自由主義の立場にたって政府と対立していくだろうと期待された。だが政府と対決ではなくて、欧米先進国と対等となるための方策としての「上下親睦」「共同一致」という立場であった。さらに板垣は解党論さえほのめかしたりした。自由党内部に動揺がおこった。なおまた資金の不足は、運動を沈滞にみちびく傾向にあった(松岡論文)。
 板垣は帰国後、資金募集計画を発案して、新たな党活動に乗り出した。しかし、板垣や幹部が各地を遊説し資金募集を呼び掛けてもわずかしか集まらず失敗に終わった。
 密偵報告書には、「高知自由党が15年春以来甚だ衰頽を極め、板垣の洋行が決定して以来、ますます党勢は減縮し、ほとんど『流離解散の景状を来し』…少しも回復のようすがない、と報告している」(外崎光弘著『土佐の自由民権』)。

 各地で激化事件は、続発していく。
 明治17年(1884)4月には群馬事件が勃発した。高崎の有信社を中心とした群馬県の自由党は、中山道鉄道開通式に臨席する政府高官らの乗る列車を襲撃しようとして。開通式は延期されたが、陣場ケ原に集合し、農民が賃借関係にある生産会社の頭取宅を焼き払った。指導者は捕えられ、凶徒聚集罪などで処罰された。
 9月には、加波山事件が勃発した。栃木県令を兼任する福島県令三島通庸に怨恨をいだいていた河野広体らは、栃木県人鯉沼九八郎らと謀って、栃木県庁落成式の際、三島や政府高官を爆殺しようと狙った。だが、爆弾製造中に誤爆し、計画が明らかになると、同志16名が茨城県の加波山で挙兵した。「圧政政府転覆」等の旗を掲げ、町屋警察分署などを襲った。その後、解散したが、あいついで自由党幹部、民権家が逮捕された。7名の死刑など厳しい判決が下された。
 この加波山挙兵の報が自由党に伝わると、党首脳部は非常に驚き、動揺した。10月初旬板垣を中心とする党首脳部は解党を決意し、自由新聞は論調を一変して、解党の語をさけつつ、解党のやむをえないことを一般党員に承服させるための社説を連続して掲載するにいたる。
 10月29日、「結党成立の大旗を掲げたる第三週期の記念日、大阪にて大会を聞き、全国からの代表者百余名集合のもとに、万場一致をもって、解党を決議するにいたった。自由党は、3年の短い生命を終ったのである(松岡八郎著「自由党の解党」)
       
   
  解党大会の際に発せられた「解党大意」は、政府の圧迫による活動の困難と党内統制の不可能を解党理由としている。
 解党決議の翌々日には、秩父事件が始まった。養蚕製紙が盛んだった埼玉県秩父郡では、深刻な不況で農民の生活は窮迫し、高利の借金の返済ができず、破産、逃亡も続出した。負債の延納、雑税の減少など求めて農民が蜂起した。埼玉・群馬・長野県の農民が参加し、その数は約1万人といわれた。高崎鎮台兵、警察隊の攻撃を受け壊滅した。事件後、約1万4千人が処罰された。自由民権史上、最も大規模な激化事件となった。

 自由党の解党は要因として、外崎光弘氏は次のように指摘している。
 ①農村の不況が生活は逼迫し、民権運動に大きな打撃を与えた②政府の弾圧が強化され、民権運動の合法的発展がほとんど不可能になった。③地方行政を通じて地区別の抑圧政策が進められた。④教育を通じて国民思想を反民主主義の方向に統制しようとする措置が推進された。⑤自由党と改進党との軋轢があった。「農民の窮乏を背景とする急進派の武装蜂起への動きが、党主流派を恐怖させ、ついに解党にいたった」(『土佐の自由民権』)と指摘している。
 
 松岡八郎氏は、次のように指摘している。
 <自由党解党の直接原因は、板垣を中心とする党首脳部が、地方における激化諸事件の発生のために、党の統制を維持していくことを不可能と感じ、また急進グループの行動に責任を負えなくなったと考えたことによるのである。…間接的原因とは、第一に政府の弾圧政策であり、第二に十五、六年の交よりとくに進行しはじめた経済的不況が生みだした農民騒擾をあげることができる(「自由党の解党」」)>。

日本の歴史 | コメント:0 | トラックバック:0 |

自由民権運動の起源は中浜万次郎にあり、その10

 自由民権運動の全国的展開
 明治11年(1878)4月、立志社は「愛国社再興趣意書」を発表した。全国的な結社の連合である愛国社の再興に乗り出した。9月、愛国社再興大会が大阪で開かれた。
 愛国社は13年(1880)3月15日には、愛国社第4回大会を開会した。同日、愛国社加入の結社だけでなく、未加入の結社も多数参加し、愛国社とは別に国会期成同盟を結成した。
国会期成同盟は、天皇に国会開設の願望書を提出することを決めた。
国会期成同盟は同年4月17日、片岡健吉、河野広中が「国会を開設する允可(いんか)を上願する書」を提出した。政府はこれを拒否した。
「79年11月の愛国社第3回大会を劃期に、運動は量的にと同時に質的に発展をしはじめます。国会開設要望書に多数人民の署名を集めて天皇に提出するという大衆的な運動方針をとることをきめ、翌年3月の第4回大会には、2府22県8万7千人の署名をあつめます。『自由党史』は8万7千余人と記していますが、下山三郎さんの研究によれば、実数はもっと多く約10万、それにこの前後各地でおこなわれた国会開設要求の署名をあわせると、20数万の人が組織されたと推定されています。もはや士族中心の運動ではなく、封建的な意識にもとづく運動でもありません。豪農(地主ですがまだ農業経営から遊離していない)・自作農・商工業者を含めた国民的な運動へと進みつつあったと見ることができる(『遠山茂樹著作集第3巻 自由民権運動とその思想』)。
自由民権運動の全国的な広がりと盛り上がりがうかがえる。
 「全国的な民権結社結成の背景には、各地の地租改正への反対・軽減運動は民会・府県会での活動を通じて成長した豪農や農民層の活動があった。彼らは結社を結成し、学習・教育活動や演説会を開催したのである」(中元崇智著『板垣退助』)。
     「日本の時代史22 自由民権と近代社会」から
     民権家の集会(『日本の時代史22 自由民権と近代社会』から) 
  明治14年政変と自由党結成
 自由民権運動が盛り上がるなかで、政府は明治14年(1881)10月、10年後の23年(1890)を期して国会を開設し,その前に憲法制定を行うという詔書を公にした。そして、プロイセン的な欽定憲法の制定にのりだした。伊藤博文井上馨を中心とする薩長藩閥政権を確立し、明治14年政変と呼ばれる。
 政府は、国会開設を求める声に押されて、10年先の国会開設を約束せざるをえなくなったが、これによって民心をそらせ、自由民権運動の抑え込みを企図するものだった。
 国会開設の詔勅が出た上は期成同盟の存続はその意味がなく、民権派は国会開設に対応し、政党の結成に向かうことになる。
「政府が国会開設の期日を明示するという勇断に出たことは、自由民権派の予測をこえていたと思われます。…ともかくも自由民権派は国会開設の約束をたたかいとりました。そこで国会に備えて自由党・立憲改進党などの政党を結成しました。国民が綱領をもつ恒常的かつ全国的な政党組織をはじめてもったことは、大きな進歩でした」(遠山茂樹著『自由民権運動とその思想』)。

 明治14年(1881)9月には全国から民権家が東京に参集し、10月2日、国会期成同盟会を大日本自由政党結成会に変更した。5日には自由党組織原案が起草された。29日、本部役員選挙で、板垣を総理にするなど役員を選出して、自由党は成立した。自由の拡充、権利の確保、幸福の増進、社会の改良を目的に掲げていた。
 土佐では海南自由党が結成され、下部組織がたちまち県内で成立した。わが郷里の佐川では、海南自由党佐川組合が成立した。
自由党は、その底辺たる地方組織は、全府県にわたっていた。全国の地方政社ないし支部の熱烈な支持をうけていたのである。登録された正式党員数も結成当初の百人台から1882年(明治15)の600人台、83年(明治16)の1000余人、84年(明治17)の2200余人へと急速な拡大をとげていた(党員の実数はその数倍とみられる。『自由党史』は「20万の党衆」と表現している)。そして全国単一の民主主義政党として、機関紙『自由新聞』を発刊し、格調の高い民権論に立って根本的に政治批判を行なうと共に、全国民にむかって活発な組織活動をくりひろげたのである。
 「このように、一時的なテロや一揆などの暴力手段によってではなく、長期間にわたって言論を武器に、一定の民主的運動方針をかかげ、大衆を政治の舞台に登場させ、持続的な政治運動を展開するという、まったく新しい近代的な統一運動体が、わが国の歴史上ここにはじめて出現したのである」(『遠山茂樹著作集第3巻 自由民権運動とその思想』)。

日本の歴史 | コメント:0 | トラックバック:0 |

自由民権運動の起源は中浜万次郎にあり、その9

 「自由は土佐の山間より出ず」
 板垣退助は長期的な民権論高揚の取り組みとして新聞、演説、そして教育を重視しており、建白書が提出された明治10年(1877)6月以降、本格的に展開されていった。
 言論活動の中心にあったのが、植木枝盛である。その雑誌として『海南新誌』と『土曜雑誌』が創刊された。『海南新誌』は、発刊の趣旨で「民権大に興り自主竝に長し天下の人称して自由は土佐の山間より発したりと云うことあるに至れは吾党の雑誌も亦始て空しからさるに帰すると為んのみ」と書いた。「自由は土佐の山間より」の語句は、いまでも高知県民の誇りとなっている。
 立志社は市内の寄席や劇場、寺などを会場に毎夜のように政談演説会を開いた。演説会は大盛況で、入場者2000人、劇場外には入場できない2000人であふれかえったこともある。自由民権思想を庶民にわかりやすく伝えるため「民権歌謡」が歌われ、少し遅れて「民権踊り」も踊られ、評判になったという(公文豪著『土佐の自由民権運動入門』から)。
    IMG_5580_202111251645019b3.jpg  
   「自由は土佐の山間より」(自由民権記念館)  
 民権期には、立志社をはじめおびただしい民権結社が作られていた。
 土佐で活動した有力な民権結社では、嶽洋社、回天社、有信社、発陽社、修立社、共行社がある。その他にも佐川の南山社、宿毛の共立社など知られる。
 国会開設の要求とともに、地方自治権を確立しようとする運動が発展した。「民権派は、小区会から大区会・州会・県会と積み上げ、ついには国会を実現するという構想をこめていった」(外崎光弘著『土佐の自由民権』)
 高知県内で7年に民会が組織された。明治8年(1875)春に全県を17大区105小区に編成替えした。9年4月には「公選民会を更張する告諭」が出され、民会を県会・大区会・小区会の3種とした。高知県会の前に土佐州会を組織したが、民会の発展を恐れた政府は解散を命じた。民権派は改称して存続を謀ったがこれも禁止され、民会は消滅した。
 政府は、地方官会議が上申した府県会と区会法案を制定しなかったが、高知県は、高知県民会議事章程を作り、民会を県会と大区会と小区会の三種を設け、議員はすべて公選とした。

  婦人参政権
                  「自由民権記念館」展示から
   初めての女性参政権
 この設置された小区会では、選挙できるのは地区の戸主であり、女性や雇人など選挙権がないなどの限界をもっていた。
この不当な女性の参政権差別に対して、特筆される女性のたたかいがある。明治11年(1878)、現在の高知市唐人町に住む楠瀬喜多が戸主として投票しようとしたら拒絶された。喜多は、納税の義務は女性も男性と同じであるのに不公平であり、納税の義務はないと抗議した。この時は投票できなかったが、1880年、政府が区町村会法を発布し、選挙規則制定が各区町村会で認められたため、高知市の上町の町議会は日本で初めて、戸主に限って女性参政権を認めた。その後、隣の小高坂村でも同様に認められた。喜多は、立志社の演説会にも参加し、「民権ばあさん」と呼ばれたという。
 県内各地に民権派が広く根を張り活動するとともに、民衆の側から地方自治の確立する運動が広がり、女性の参政権獲得も実現したことは注目される。
            
 立志社の憲法草案
 立志社では、二つの憲法草案が作成された(明治14年起草開始)。植木枝盛は「東洋大日本国々憲案」を起草した。草案は、日本の立法の権は「人民全体に属す」と人民主権を宣言。思想・信仰・発言・議論・出版・集会・結社などの自由の権利を保障した。とくに、注目されるのは、人民の抵抗権・革命権を盛り込んでいることである。これは現憲法にもない条項である。
国会は、上流者による上院のごときもうけず、人民が選んだ民選議院だけの一院制とする。政府官吏を除く男女を問わずすべての国民に選挙権、被選挙権を与える。連邦国家制による徹底した地方自治を規定した。
 この植木草案は、審査委員会で採択されず、これを改稿した「日本憲法見込案」が作成された。北川貞彦が起草したと見られている。北川案は、植木と同じ人民主権をとっているが、人権保障が不十分など、植木草案より後退した面がある。ただ、皇帝が憲法を遵守せず、人民の権利を抑圧する時は、人民の投票によって「廃立の権」を行うことができるとして、皇帝のリコール権を与えていることは注目される。
 立志社 の憲法草案は「当時土佐でたたかわれていた、民権運動の切実な要求の結晶だった」(外崎光弘著『土佐の自由民権』)
    植木枝盛
                植木枝盛(自由民権記念館展示から)
 憲法草案の創造とその思想
 この時代、全国で数多くの憲法諸構想が生まれた。
「維新期から大日本帝国憲法発布までの期間に起草され、憲法という体裁を整えていなくても、少なくとも、オリジナルな国家構想というものを集計すると90を超える」(新井勝紘編『自由民権と近代社会』)
自主憲法のなかで、高く評価されているものに五日市憲法草案がある。東京都五日市町(現あきる野市)の土蔵で発見された。民権家千葉卓三郎らによって起草された。「現存する40数種類の私擬憲法のなかでも出色の内容をもつものと高く評価されている」(『日本大百科全書』)。その特徴は立憲君主制、議院内閣制、三権分立を採用している憲法草案であることだ。
 自由民権期に出された私擬憲法草案は、共和制ではなく、天皇制のもとで憲法制定と国会開設をはかる「君民同治」が多い。「天皇制は自由民権運動のアキレス腱」という指摘もある。
 
 ここで自由民権と共和制の関係を少し見ておきたい。
 自由民権派が天皇制を擁護したのは、幕末の討幕運動からの経過があると考えられる。
 「幕末に尊王論が一定の積極的意味をもったのは、幕府専制に反対し仁政と人心協和を求めるシンボルという役割を、新しく担ぎだされた故に天皇がもつことができたからである」(『遠山茂樹著作集第3巻 自由民権運動とその思想』) 
 自由党は運動面では、共和制ではなく立憲君主制を目標とした。
 ただし、「自由党の理論的指導者は、共和制が原理的には最善の政体であり、立憲君主制共和制に進化するのは歴史の法則であり、人民の革命の挙は正当であり、国家社会を進歩せしむる役割をもつであることを新聞・著書に公然と発言した。しかし同時に国民の政治意識の発達の程度からして、現時の日本では立憲君主制が適当であるとのべ、その実現のために、天皇・政府の戒心と協力を求めた」(『遠山茂樹著作集第3巻 自由民権運動とその思想』)。
 
 自由民権派の私擬憲法のなかで、天皇制の廃立がありうることを打ち出したのが、岩手出身の自由民権家の小田為綱が明治13、14年に作成した「憲法草稿評林」である。
 「皇帝憲法ヲ遵守セズ、暴威ヲ以テ人民ノ権利ヲ圧抑スル時ハ、人民ハ全国総員投票ノ多数ヲ以テ、廃立ノ権ヲ行フコトヲ得ルコト」。天皇が憲法を守らず、人民の権利を抑圧するときは、人民一般の総員投票でその天皇を引退させることができるという。
<1880年代の自由民権期の憲法草案全体を通観すると、君民同治の国家体制を描いたものが圧倒的に多いが、中には前述したような、日本の近代は、人民の権利を固守するために時代や世紀を越えた先駆的ともいえる条文を生みだしたことを忘れてはならないだろう(新井勝紘編『自由民権と近代社会』)>。

日本の歴史 | コメント:0 | トラックバック:0 |

自由民権運動の起源は中浜万次郎にあり、その8

  挙兵の動きを排し言論貫く
 薩摩で西郷隆盛が兵を挙げると、立志社内部でも西南戦争に乗じて挙兵しようとする動きがあった。
<東京において西南動揺の報を得た板垣退助は(1877年)2月14日離京、神戸を経由して同28日高知に帰郷、立志社幹部との間に対策が協議された。板垣も西郷も、その反政府的な立場は共通するが、西郷は板垣の自由民権論を理解せず、板垣は西郷の保守的思想には共鳴できない。したがって「政府を助けて西郷を討つのも本意ならず、西郷に応じて政府を討つのも本望ならず。自主自重、形勢を察して進退を決する」ことを板垣は考えていたのである。…
 挙兵論に対抗して建白論を固持したのは片岡健吉であった。京都に設けられた行材所に出頭、この機会に乗じて民選議院開設のことを訴えようというのである。板垣はまずその説を賛成した(平尾道雄著『自由民権の系譜』)>。
林有造や大江卓が元老院議官の陸奥宗光らと共謀して挙兵を企てたとされて、林をはじめとする首謀者や片岡健吉ら幹部が逮捕された。「立志社の獄」と呼ばれた。
 
 挙兵を画策したのは、林有造その他東京、大阪など県外居住者の企図であり、「板垣を頂点とする土佐在住の立志社員の挙兵行動は見当たらない」(外崎光弘著『土佐の自由民権』)。
 片岡健吉が逮捕されたとき、激昂した立志社員が腕力によって片岡を実力で奪還しようとした時、板垣が説得し立志社全体がそれに服した。これも「彼等が挙兵の計画を持っていなかったことの証左とすることができよう」(同)。
     西郷隆盛終焉の地の碑、かごしま市観光ナビ
                       西郷隆盛終焉之地の碑(かごしま市観光ナビ)
 西郷らの挙兵について、板垣が語った言葉として『東京曙新聞』(明治10年6月20日付)が伝えている。
 「今回の挙たるや大義を失ひ名分を誤り実に賊中の賊なる者にして前の江藤前原が輩より数等の下級に位せり」と断じ、「僅に自己の私憤を発洩せんとして人を損じ財を費し而して逆賊の臭名を万戴に流すとは吁何の心ぞや」と嘆いて見せた。…板垣は、「腕力ヲ以テ大政府ニ抗スル無益ナリ」として、「正道ヲ以テ民権ヲ主張」すると語っている(小川原正道著『西南戦争と自由民権』から) 
 「かくして板垣は挙兵論を放棄し、自主独立の人民の気風を育てるべく、新聞発行、建白提出、演説開催、教育再興を説き、それは民権運動の基本路線を形成していった」(同書)。
 「(明治)10年の立志社建白(国会開設建白)は、佐賀の乱から西南の役に至る、士族層の反動的な反政府運動とははっきりと異なる、自由民権運動独自のコースを決定したという意義をもった」(『遠山茂樹著作集第3巻 自由民権運動とその思想』)
 遠山氏は、佐賀や薩摩などの挙兵は「反動的な反政府運動」と指摘している。
 土佐の自由民権運動が「民権の思想のない暴挙」の道に陥らず、「正道を以て民権を主張」することを貫いたことにより、日本社会の未来につながる進歩的な運動となった。

 なぜ、立志社が西郷軍に呼応する挙兵策をしりぞけることができたのか。
 <「江藤新平一の舞をなし、西郷近日二の舞をなせり、三の舞を立志社に為さしめんと欲して釣出すも、今度豈(あに)舞出でんや」(原文カタカナ)と、政府の挑発に乗ってはならないという、立志社派の自戒や、諸々の要因が考えられるたが、その本質的原因は、立志社が政治変革の新しい方策自由民権運動を確信をもって把握していたためにちがいない。…立志社には自由民権の大道が開けていたのである(外崎光弘著『土佐の自由民権』)>。
「政治変革の新しい方策自由民権運動」は、武力による「反動的な反政府運動」とは対極にある。
識者のなかには、板垣退助が第一段階は建白書の提出と言論による議会開設、第二段階を挙兵路線としていたが、西郷軍が敗色濃厚になったため建白書提出の道に戻ったという説がある。
 
 これだと、挙兵路線をとっていたが、形勢が悪いので挙兵はあきらめ、言論路線をとったという、風見鶏のような判断となる。とても表面的な見方ではないだろうか。西郷らの敗北の結果といえば、板垣ら土佐の民権派は武力挙兵には展望がない、言論路線をとることに確信を深めたのは確かだろう。
 政治変革の旗印もなく「私憤」にかられた西郷らの挙兵とは違い、土佐の自由民権は、明確な政治的な目的をもち、民主主義社会として日本の未来を開こうとする運動である。本来、国会開設と選挙による議員の選出などを求める運動は、暴力、武力ではなく国民世論を訴える言論によってたたかうということが大道である。武力によって国会開設を求めるというのは、自由民権とは対立することになるのではないか。
 そういう意味では、土佐の自由民権運動が武力を排して、言論を通じて政府に迫るという路線をとったことは、偶然的なものではない。
 自由民権という目的と運動が、本来言論により目的達成を追求する必然性をもっていた。そこに本質的な意義があるのではないだろうか。

 薩摩と土佐の根本的な違いがなぜ生まれたのか。そこには、アメリカから土佐に帰国したジョン万次郎が、日本の他藩に先駆けて、アメリカ・デモクラシーという進歩的な思想と政治制度を実体験に基づく情報として伝えたことが、土佐で幕末・維新で活躍した志士たちに、強いインパクトを与えたこと。それが、その後の自由民権の運動に発展し、さらには板垣ら幹部が挙兵論に陥らず、言論による自由と民権の獲得という大道に進むことにつながったのではないだろうか。

日本の歴史 | コメント:0 | トラックバック:0 |

自由民権運動の起源は中浜万次郎にあり、その7

 相次ぐ士族反乱
 明治政府による廃藩置県、徴兵令の施行、華士族の特権だった禄を取り上げる秩禄処分などの政策により、封建的な特権を失った士族の政府への不満が高まった。
 江藤新平が明治7年(1874年)佐賀の乱を起こした。政府により鎮圧され、江藤は全軍を解散し、佐賀を脱出した。誤りを後悔した江藤は、鹿児島へ潜入して西郷隆盛に面会を求めたが拒絶された。江藤は逮捕され、処刑された。
 9年(1876)には、熊本県で敬神党(新風連)の反乱、福岡県では秋月藩士の宮崎車之助を中心とする秋月の乱、山口県では萩の乱と反乱が続いた。
 西郷隆盛は、鹿児島で私学校を創設し、銃隊学校と砲隊学校とを付属させ、県内136の分校を置き、幼少年を集めて軍事・思想教育をほどこした。県内の租税は中央に上げなかった。士族は刀をさし、銃器と弾薬をもち訓練されていた。
「事実上中央政府から独立した、薩摩・大隅の2国と日向の一部を領土とする一個の地方軍閥政権であった」(井上清著『明治維新』)。
 
 西南戦争
 西郷は、佐賀の乱や熊本、秋月、萩の乱の際も、自重して呼応しなかった。しかし、明治10年に入ると、西郷の力をもってしても、もはや一党をおさえることはできなくなった。しかも大久保独裁の中央政府は、私学校党をたくみに徴発した。
明治10年2月15日、西郷は1万3,000人の士族兵を率いて、九州の政府軍の拠点熊本元鎮台の攻略をめざして鹿児島を出発し、西南戦争が勃発した。
 九州各地で西郷軍と連結して蜂起したもの、全国各地からはせ参じたものを合わせて、西郷軍のもっとも多いときは、約4万2千人に達したが、熊本鎮台を攻略できずに苦戦しているうちに、本州から派遣されてきた征討軍に3月20日田原坂で破れた。そして政府軍は4月15日に西郷軍の包囲を破って熊本城に入城した。これ以降敗退を続けた西郷軍は9月1日ようやく郷里鹿児島に帰って城山にこもったが、征討軍に包囲され、9月24日西郷が自刃して西南戦争は終わった(外崎光弘著『土佐の自由民権』から)。
     1西郷隆盛
                    西郷隆盛 
  土佐と薩摩で異なった進路
 土佐から興った自由民権運動の高揚と鹿児島での西郷らによる武力による挙兵を見る時、板垣退助と西郷隆盛は、同じ時に下野して郷里に帰ったが、その後の進路は、政治的な行動の目的から手段まで決定的な違いがある。
<明治維新から7年、明治6年の政変が終わった頃、政府を去って反政府勢力を形成した鹿児島や高知の士族たちには、二つの道が用意されていた。ひとつは、言論活動を活発にし、演説を展開し、新聞・雑誌を刊行し、建白書を提出し、教育をさかんにしていこうという言論路線であり、もうひとつは、政府の権力者を暗殺し、あるいは政府そのものを、武力をもって転覆してしまおうという武力路線であった。五箇条の誓文に「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ」とあるように、言論路線は世論に基づく統治を宣言した明治政府にとって、否定しがたい理論的根拠を有しており、彼等がさかんに議会の開設を目指したことも、「広ク会議ヲ興シ」という一節から、これも否定しがたい正当性を有していた(小川原正道著『西南戦争と自由民権』から)。>
   
 武装蜂起した鹿児島でも、自由民権を唱える人びとも存在した。
<福沢諭吉が薩摩士族は議会を設立して自治を展開すべだと主張しており、実際に西南戦争前夜には、福沢の門下生が鹿児島に帰郷し、武装路線の放棄と議会開設を訴えた。田中直哉や柏田盛文などがこれである。田中や柏田は、西郷隆盛暗殺計画の容疑者として薩軍側に逮捕され、のちに釈放されると、鹿児島県下での民権運動の推進に取り組み、自由党系の九州改進党の鹿児島県会議員として活躍する。しかし、鹿児島の民権運動は、その担い手がかつて武装路線をとったことから政府の警戒を呼び、弾圧されていく。鹿児島の政府系団体・郷友会の圧力を受けて九州改進党は解党し、田中は精神を病んで自殺した(『西南戦争と自由民権』小川原正道著から)。>
 注・西郷暗殺計画は、西郷が設立した私学校が県政への影響力を強めているため政府は薩摩出身の警察官を密偵のため派遣した。私学校党が60余名を捕え拷問の結果、帰省の目的が西郷暗殺であると自白したとされる事件。

「大義」の旗印がない西南戦争
多大な犠牲をともなった西南戦争に大義はあったのだろうか。
<西郷は、決して内戦を望んでいなかった。しかし、担ぎ上げられた彼は、武力蜂起を「追認した」のである。
 西郷は軍を率いて東上するにあたり、「今般政府へ尋問の筋これあり」から始まる文書を、鹿児島県令・大山綱良(つなよし、1825ー1877)に提出した。この「尋問」をどう解釈するかは多少意見がわかれるが、経緯を踏まえて考えれば「西郷暗殺の密命について問い質したい」との意味になるだろう。それが正しければ、西郷は立ち上がるに当たって、政治的な意見を一切発していないということになる。つまり、「大義」なき戦争である。これはほかの士族反乱と比較しても、明らかに異質だった((大阪学院大学経済学部教授 森田健司著「西郷隆盛にまつわる『虚』と『実』」)。>
 <この西南戦争は、多くの場合、西郷本人の人生の一部として記され、被害の深刻さが問われることは極めて少ない。しかし、本来はこの戦争で1万3000もの人命が失われたことを、一番に知るべきだろう。犠牲者の多くは、前途有望な青年だった。なお、この1万3000という犠牲者数は、戊辰(ぼしん)戦争におけるそれとほぼ同じである。しかも、西南戦争は、新政府と旧幕府の戦いとして誰もが「大義」が理解できていた戊辰戦争と違い、特に一般の庶民にとっては「意味のわからない戦い」だった。しかし、そうであっても、戦争である以上は多くの兵士に加え、荷物を運ぶ軍夫や食糧が必要となる。政府軍、西郷軍とも、軍夫や食糧を戦況に応じて現地で集めていた。特に、形勢が悪くなってからの西郷軍は、強制的にそれらを集め、対価を払わないことも多かった。また、戦略として多くの村々は焼き払われ、何の罪もない人々が焼き出され、死傷した(同論文)。>
 
 森田氏は、西南戦争に大義がなかったこと、それにより多大な犠牲が生みだされたと指摘している。
大久保政権の独裁政治に抵抗して立ち上がった西郷は、いまでもとても人気があることは確かである。「大義があった」という見解もある。
 西郷の上京は、即挙兵ではなかった。挙兵になったのは、陸軍大将名義で薩軍上京の目的を通知してあったにもかかわらず、県境を越えた時点で、熊本鎮台兵が攻撃を加えたから応戦・開戦になった。だから薩軍の「大義が明確」だという意見がある。
 ここで「薩軍に大義がある」というのは、政府側が先に攻撃し応戦したから正当である、ということだろう。しかし、武装して上京するとなれば、それ自体が挙兵を意味する。薩軍が挙兵し熊本鎮台に向かうことは、当然、戦闘が想定される行動ではないか。西郷自身が、もし鎮台兵が上京を遮るなら「打ちて通るべし」との指示を与えていた。
 大久保の独裁的な政治が不当だというなら、それに代わる政治変革の目的、計画があったのかと言えば、残念ながら見当たらない。
 土佐の自由民権派の新聞は「西郷の挙兵を民権思想を欠いた暴挙」と批判した。
 ここに、西南戦争と土佐の自由民権運動との根本的な違いがある。
 

日本の歴史 | コメント:0 | トラックバック:0 |

自由民権運動の起源は中浜万次郎にあり、その6

 民選議院設立の建白
 明治4年(1871)、廃藩置県が実施され、板垣は明治政府の参議に就任した。
明治6年(1873)、西郷隆盛の朝鮮派遣を巡る政府内部での意見の対立から、西郷と板垣、後藤象二郎、福島種臣、江藤新平が参議を辞し、政府を退いた。
 板垣はともに野に下った副島・江藤・後藤と相談し、人民が挙国一致の精神を発揮し、国家民生の隆昌をはかるためには、公議世論の制度を確立し、人民が国家と憂戚を共にする道を開かなければならないということになった。ロンドンから帰った古沢迂郎と小室信夫から見聞を聞き、その結果民選議院設立の建白と政党を結成して世論の喚起をはかることを決し、幸福安全社(愛国公党の前身)を設置した。
 7年(1874)1月12日、愛国公党を結成。本誓書名の式を行った。署名したのは副島、後藤、板垣、江藤、由利、小室、岡本、古沢、奥宮の9人である。うち5人が土佐出身である。古沢が起草した「本誓」は4項目からなる。それは、天がすべての人民に平等を与えた通義権理(天賦人権の意味)がある。これを保全する道は、徹底的に公論公議をつらぬくこと。人民の自主自由・独立不覊(どくりつふき)を実現するなどを宣言している
 
 民選議院設立建白書を17日、左院に提出した。それは自由民権の出発点になった。
 建言の冒頭は、今日の政権は天皇にあるのでもなく、人民にあるのでもなく、専制政府の官僚の手中にあることを指摘し、その失政により国家は瓦解の状勢にあると断じ、これを改める道は天下の公議(世論)を張る(さかんにする)ことであり、これは民選議院を開設することによってのみ実現できる。そうすることによってはじめて官僚の専権を制限でき、上下人民の安全幸福が確保できると主張する。そして予想される時期尚早を口実とする民選議院反対論を封殺するための反論を展開した、2400字をこえる歴史的文章であった。
「陰謀や暗殺や武力によって政敵を倒すのではなく、世論を高めることによって、権力を奪取しようとするこの愛国公党の結成と民選議院設立の建言は、わが国の歴史上画期的事件であった」(この項、外崎光広著『土佐の自由民権』)。
       片岡健吉
                            片岡健吉
 立志社の設立
 民選議院設立の建言だけでは薩摩・長州藩出身者による専制政府を倒し、立憲政体を実現できないことを知った愛国公党の指導者たちは、郷里に帰って世論を喚起し、人民の勢力を強大にし、政社を起こし、これを合同して全国的大政党を組織することを決意した。帰国した板垣は片岡・林有造・谷重喜らと7年(1874)立志社を設立し、その趣意書を公表した(同書)
 趣意書は、結社の必要な理由を次のように説明している。
 封建制の廃止、四民(士農工商)平等によって人民の自主の道を開こうとしているが、今や人民全体が知識気風を喪失しようとしている。士族は農工商を軽んじることなく、農工商は士族の困窮に乗じてこれを抑えたりすることなく、救済につとめ、互いに相友愛し相資助しあうことによって、国家人民の福祉が実現できる。
 立志社は当初は、士族救済の授産という性格をもつ結社であったが、立志学舎を設立し、英語教育や近代政治思想を基調とした教育も実施した。自由民権運動をすすめる結社となっていく。立志社は、イギリスのサミュエル・スマイルズ著『西国立志編 原名自助論』から採った名称だという。

 明治8年(1875年)、大坂で高知をはじめ四国、九州、中国、北陸など各地の結社が集い、全国的な民権結社・愛国社が結成された。しかし、大久保利通、木戸孝允、板垣退助の三者会議が大阪で開かれ、板垣がいったん参議に復帰したことから、いったん消滅した。
 10年(1877)6月9日には、立志社総代の片岡健吉は京都行在所に出頭して、天皇に捧呈する立志社建白書を提出したが、建白書がつき返された。
 建白書は政府の失政を次のように批判している。
 五か条の誓文を実行しない、言論を抑えている。国政を統一管理する秩序がない。中央政府の集権が過ぎる。立憲政体を起さずに専制政体のもとで徴兵制を強行している。独断で税金を徴収するため、人民は苛酷な税金にたえることができない、など8項目である。
 そして、八つの失政は政府が専制を尊んで公議をしりぞけ、大政が秩序を失い綱紀紊乱のためであることは明らかであるとして、「民選議院を設立し立憲政体の基礎を確立し人民をして政権に参与せしめ其天稟の権利を暢達せしめは人民自ら奮起して国家の安危に任し仮令政府の公議を取らさることを欲する」と強調している。
 立志社は却下された建白書を印刷して広く配布した。言論活動により結集した人民の力によって、近代国家を実現するという立志社建白の理念は、全国の不平士族や薩摩・長州閥の政府に反感をもっていた人びとに、新しい進路をさし示したものであった。
 「この建白書が要求した憲法制定・国会開設・租税の軽減・不平等条約改正・地方自治・特定業者に対する保護政策の廃止などは、これ以降の全国的自由民権運動の基本的要求となったことからも明らかなように、自由民権史上画期的文書であった(外崎光弘著『土佐の自由民権』)。
 ここで租税軽減を掲げていることについて、ふれておきたい。
 政府は明治6年(1873)7月、地租改正条例を布告した。これは、所有地の100分の3を地租(税額)と定め、豊作・凶作にかかわらず税額の増減は一切おこなわないというもの。しかも地価を決定するのは政府の権限だった。
「建白書」の中で、専制政治の政府は人民を奴僕(ぬぼく、しもべ)のようにみなし、独断で税金を徴収する、人民は過酷な税金にたえることができないと主張している。
 過酷な税率に対しては「地租軽減の要求は自由民権運動の最大の闘争目標になった…条例公布以降、農民の騒擾が全国的に続発していた(同書)」

日本の歴史 | コメント:0 | トラックバック:0 |

自由民権運動の起源は中浜万次郎にあり、その5

 土佐藩藩政改革
 土佐藩では、後藤象二郎の大政奉還の提案に、前藩主の山内容堂(豊信)が土佐藩論とすることを認め、幕府に政権返上を建白した。「この後藤の大政奉還論の背後には,いわゆる〈船中八策〉(坂本竜馬が後藤と上京の途次立案し,1867年6月15日綱領化された)にみられる政治綱領があった(「世界大百科事典第2版)」。
 徳川慶喜は天皇に大政奉還を願い出るが、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允や公卿の岩倉具視らは、慶喜を排除し王政復古の大号令を発した。鎌倉幕府以来、650年以上続いた武家政権は終わり、天皇の下に新政府が発足した。明治元年、政府の基本方針として「五箇条の御誓文」を発表した。

 維新後、明治3年(1870)10月、板垣退助は高知藩大参事に就任した。同年11月、高知藩の知藩事山内豊範の名前で藩政改革に関する伺書を明治政府に提出することになる。
 それは当時、全国でも先進的な改革であり、自由民権の萌芽と見なしても間違いではないだろう。
 土佐藩で、中浜万次郎のアメリカ見聞に関心をよせた一人に吉田東洋がいる。吉田は、階級制の整理や文武芸世襲の廃止など藩政改革を進めたが、それゆえ暗殺されることになる。
 吉田は、文久2年(1862)、藩校「致道館」を開校した。同年3月11日、万次郎から学んだ細川潤次郎を蕃書教授に任命した。和漢の学や史学とならんで、はじめて洋学が正課に組み入れられた。また、薩摩の「集成館」を模範にしたとされる「開成館」には、中浜万次郎の門下生、立花鼎之進が勤務した。致道館や開成館では英学教育も行われていた。洋学の伝習が取り組まれた。
 <明治3年7月には海外留学生として真辺戒作、馬場辰猪、国沢新九郎、深尾具作、松井正水を英京ロンドンに送り出した。このほか中江篤助(兆民)や古沢迂郎(滋)、小野梓のように政府資金やその他の援助で海外に遊学した例も見られるし、西洋への関心は年を遂うて昂揚していった形跡がある。このような洋学伝習の中から欧米先進諸国の政治組織や社会思想が汲みとられ、それが自由民権の系譜に織りこまれていることを考えよう(平尾道雄著『自由民権の系譜』)>。
    1板垣退助
                   板垣退助 
 高知藩大参事に就任した板垣は、権大参事福岡孝弟とともに藩政改革を推進した。「改革の方向はひたすら民主化にむけられていた」(同書)。
  明治3年(1870)11月7日、「人民平均の理」を布告することを太政官に具申。許可を得て12月、山内豊範の名で全国に先駆けて「人民平均の理」を布告した。
 藩庁論告には、次のような見解が述べられている。
 「今藩今日大改革の令を発するは固より朝旨を遵奉し、王政の一端を提起せんと欲すればなり。故に主として士族文武常職の責を広く民庶に推亘し、人間は階級によらず貴重の霊物なるを知らしめ、人々をして自由の権を与へ、悉皆其の志望を遂げしむる庶幾するのみ」「民の富強は政府の富強、民の貧弱は即ち政府の貧弱、所謂民あって然る後政府立ち、政府立て然る後民其の生を遂ぐるを要するのみ」。
 <階級や職種によらず、人間を人間として自覚させ、自由を享受させることが王政の主旨だというのである。人間尊重の思想がその底にうかがわれ、ほのかに西洋的な天賦人権論のにおいが流れているではないか。天賦人権論は近世の自由主義的な政治社会を建設するために大きな役割を果たしたもの…
 論告は「民の富強はすなわち政府の富強、民の貧弱はすなわち政府の貧弱、いはゆる民あって然かる後政府立ち、政府立って然かる後民その生を遂ぐるのみ」と結んでいるが、これは儒教の王道政治の理想とするところであった。これを要するに、東洋的な王道政治と西洋的な民主主義との調和をもとめて新日本の方向を定め、まずこれを高知の藩政改革に試みようとしたのである(『自由民権の系譜』)。>

 藩政改革にあたった板垣退助には、興味深いエピソードがある。
 戊辰戦争では新政府軍で活躍した板垣が、会津若松城下に入った時のことである。
 会津攻めの際、会津で国に殉ずる者は士族だけで、庶民はみんな逃避したのを見て、上下が隔離し苦楽を共にしないからだと感じ、封建制度を否定するに至ったという。
 これが、史実である否かは判然としないが、そういうエピソードが生れること自体が、板垣のその後の思想と行動と結びついているからだろう。 
 明治政府に提出した藩政改革では、藩の議会として議事院を開設、上院には士族の代表、下院には平民の代表をあてる。「人民平均」の主旨により士族による文武の職の独占を停止する、役人・軍人は卒(下級武士)・平民から抜擢することなどをうたっていた。明治政府は、高知藩のみの実行を許可した。藩は改革令を布告し、旧来の士族の特権・格式の規定を廃止した。
 まだ士族と平民の区別は残っているが、「人民平均」の理念は、先駆的である。この改革は、彦根藩などで高く評価され、こうした改革が各地で実施されていくことになった。「近世来の身分制度を変革した先進的な藩政改革であった」「自由民権運動を開始した転機」(中元崇智著『板垣退助』)とされる。

日本の歴史 | コメント:0 | トラックバック:0 |
| ホーム |次のページ>>