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レキオ島唄アッチャー

沖縄への鉄器の伝来、その10

鉄と鍛冶を王府が管理した

琉球が統一されたあと、鉄と鍛冶は首里王府の管理のもとにあったようだ。

琉球王府には、行政機関として鍛冶奉行がおかれ、そのもとに鍛冶勢頭がいて各間切(今の町村)には鍛冶屋がおかれた。鉄材は王府の管理下にあった。

冊封使、陳侃使録に「炊事具や、農具に鉄材を使用する場合は、官に願い出て配給を受ける。違犯者は有罪」(訳文)(東恩納寛淳氏の「続植杖録」。城間武松著『鉄と琉球』から)とある。

「少ない鉄材を各地に配布する為、王府は行政上の制度として、鍛冶職を各間切に配置して(1668年)農具の製作修理に当たらせたのであろう」(『鉄と琉球』)。

 

 『琉球国由来記』によると、奉行1人、筆者1人、鉄勢頭1人をおいて、鍛冶職を管理したという。以下、城間武松著『鉄と琉球』から紹介する。

 <琉球藩時代の鍛冶奉行所(沖縄県史より)

 旧藩時代の鍛冶奉行所は、泊地頭の所轄になっていて、奉行は従4品の1名でその部下に、筆者7名、各技術担当者が4名、その下役が2名で、合計14名の構成であった。

 鍛冶職(各間切鍛冶職を配置)

 尚質王寛文8年(1668年)各間切に鉄匠を配置して農具を修理、製作などをさせた。球陽に「往昔の時より諸郡邑鉄匠を設くることなし、ただし諸郡邑の人民名毎に税米1升5合を出し、すなわち一半は公庫に収納し、一半は鉄匠に給与して以て農器を修理するの費に供す。この年に至り、其の税米を免除して毎諸郡邑、鉄匠1名を配置して以て農の器具を修造するの用にあてがう、而して其の鉄匠、工銭を得るといえどもなおまた公務を控算す」とある。


           
            鍛冶屋を主人公にした歌舞「金細工」
 

羽地仕置にみえる鍛冶職

 1669年(寛文9年)に羽地朝秀は農村の疲弊を救済する手段の一つとして鍛冶職の制度を改正したのである。…

「諸間切百姓の使用する鍬やへらの研ぎ賃として百姓1人につき米15合宛負担させ、半分は政府に、半分は鍛冶細工に納めていたが、百姓が負担に耐えかねるので、未(ひつじ)の春ごろ(寛文7年、1667年)から右の出米を免除し、諸間切に鍛冶細工1人を置いて夫引合(労賃)を定めておいた」…

 公立鍛冶細工の制度は近世まで継続したが、近世は各村に1人宛置き夫役を免除する外、村全体から年に6升の支給で農具は小修理の程度は無料であったが、地金などを持参する時には頼人から実費を取ることになっていた。>

 

 朝岡康二氏は、羽地仕置について次のようにのべている。

 <すなわち、当初は、年ごとに、百姓一人につき15合あて農具の修理代を取り、鍬へらを供与していたということなのであろう。…すなわち、ここに、領主が農具を独占的に支配し、それを貸し付けることで農民を支配した時代の名残をみることができる。このことは、領主の農民支配にとって、鍛冶屋の存在が必要不可欠の時代があったことを示しているのである。…

以上のことを敷衍していえば、向象賢(注・羽地朝秀)の改制は、単に諸間切に鍛冶をおいたと云うことではなく、新品を作る鍛冶と、専ら修理にあたる鍛冶とを制度的に分離し、後者を在村鍛冶として村役のひとつに固定した点に、すぐれて近世的な性格があったのではないかと考えることができる。(朝岡康二著「南西日本における鉄器加工技術の伝播・普及に関する民俗学的研究(その2)」、『沖縄県立芸術大学美術工芸学部紀要第2号 1898年』))>

 

鍛冶屋は移動する者と村に定住する者があった。

 <鍛冶屋は村から村へ移動して歩くものと、一定の村に安住する者とがあった。

 移動性の鍛冶屋は、村から村へ炉道具、材料などをもって移動し、一定の村に宿をとって注文をうけた。修理はじめ農具、生活用具を製作した。鍛冶屋のない部落に一定期間、出張所を設けるとか逆に、定着の鍛冶屋に寝泊まりで道具の修理にやってきたものである(福地曠昭著『沖縄の鍛冶屋』)。>

 

ついでに、沖縄本島の鍛冶はどのように存在していたのかを見ておきたい。

<戦前の沖縄では、那覇、泊、首里に鍛冶屋が集中していた。そのうち那覇の鍛冶屋は鍬つくる鍬鍛冶、荷馬車の鉄輪をはめる車鍛冶、船釘を鍛える釘鍛冶、砂糖鍋(角鍋)をつくる者、などであったという。

泊には刃物鍛冶が3軒ほどあり、鎌や包丁を作っていたが、彼らは首里から移住してきた者だという。…首里では山川、崎山あたりに刃物鍛冶が集中していたという話を聞く。…

鹿児島においては、前述のごとく、士族の生業のひとつに鍛冶(刃物鍛冶)が選ばれていたが、沖縄においても…刃物鍛冶は士族の職分であったかもしれ(ない)。(朝岡康二著「南西日本における鉄器加工技術の伝播・普及に関する民俗学的研究(その1)」、『沖縄県立芸術大学美術工芸学部紀要第2号 1898年』)>

 


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琉球の悲劇の文学者、平敷屋朝敏覚書、その5

 和歌に込められた思い

 朝敏にはたくさんの和歌があるが、そこには彼の思い、思想がにじみ出ているのでいくつか紹介したい。

「誰のほれ者の筆とやい書ちやが 酒や昔から恋の手引き」。

どこのバカ者が筆をとって書いたのか、酒は昔から恋の手引きであるのに、という意味だ。当時、禁酒という尚敬王の直筆の碑文に対して、朝敏が風刺したものという。

「四海波立てて 硯水なちも 思事やあまた 書きもならぬ」。

四方の海を波立つ海水をずべて硯の水にしても、なお思うことは多すぎてとても書きつくせないという意味である。それほど世のあり方に言いたいことが山積していたのだろうか。

 「乱れ髪さばく 世の中のさばき 引きがそこなたら あかもぬがぬ」。

乱れ髪のような世の中の乱れをきちんとさばかなければ、さばき損ねたらはかどらない、というような意味だろう。この時代、尚敬王の信任をうけていた蔡温の強引な政治に対する朝敏の批判が込められているようだ。

 「たとひなま死じも 誰がつれて行きゆが この世やみなちゅて 一人さらめ」。

たとえ今死んでも誰が死をともにしてくれるだろうか 政治が悪く世の中を闇にしているが 救済する者はいなく、自分一人で死んでいくだろう、という意味である。

 
 「赤木赤虫が蝶(はべる)なて飛ばば 平敷屋友寄の 遺念ともれ」。

 赤木の赤虫が蝶になって飛べば、朝敏、友寄の無念の魂の化身と思ってほしい、という意味だろう。処刑が決まった時に詠んだ和歌だという。その昔、蝶は死者の魂、化身と思われていた。彼の処刑の日には、ハンタン山の赤木に蝶が天をおおうくらいに、飛びまわったと伝えられる。平敷屋、友寄ら15人の無念の気持ちを思い浮かばせる歌である。

 朝敏の妻まなびの詠んだ和歌がある。妻は、朝敏が処刑されたあと、身分を士族から百姓に落とされ、娘とともに、高離島(いまの宮城島)に流されたという。

        朝敏妻の歌碑  
              朝敏の妻の歌碑(宮城島)

 「高離島や 物知らせどころ にや物知やべたん 渡ちたぼうれ」。

この島はさまざまなことを教え悟らせてくれたところ。離島の苦しみ、人の情けはもう十分に知ることができました。私の生まれ育った彼の地へ命あるうちに帰り付けることを願っていますというような意味であり、その思いを込めた歌だ。母とともに流された幼い長女は、栄養失調で間もなく亡くなった。まなびは、先島に流された男の子どもたちとは、ついに会う機会をえないままこの島で亡くなったという。

 こうした和歌を読んでも、感じるのは、朝敏の和歌にも、小説にも、組踊にも、彼が何を考え、何を思い、何を主張し、どのように生きたかったのか、その背景を貫いている赤い糸があることである。だから、組踊の作品だけを切り離して、他の者が創ったと考えるのは無理があるというか、朝敏だらこそ創作できたのだということがいっそうよくわかる。彼のその思うところを実践に移したことで、悲劇的な結末を迎え、自分の人生に幕を引く結果となった。


 この朝敏の悲劇は「当時の封建支配の原理道徳に背を向けようとする、人間としての優しさゆえの到達点であった」(朝敏の追悼碑文から)といえるだろう。組踊は、琉球王朝の時代は、首里王府の独占物であったが、明治維新とその後の廃藩置県によって、琉球王朝は解体され、地方へ、離島へと流れて行った士族たちによって、組踊などの芸能も広がっていった。村踊りなどで組踊が上演されるようになり、「手水の縁」もよく上演されたという。大正時代に一時、上演禁止になったことはあるが、再び上演を許され、沖縄民衆の熱い共感と支持を得たのである。今日でも人気の組踊の一つであり、高い評価をうけていること自体、その先駆性を示している。朝敏は、34歳の若さで短い生涯を終えたが、その作品は永遠の生命を得て生き続けているのである。

     終わり    沢村昭洋
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琉球の悲劇の文学者、平敷屋朝敏覚書、その4

 政治犯として処刑された平敷屋朝敏

 朝敏(34)は友寄安乗(57)らは、時の政治家・蔡温の政治に不満を抱いていた。薩摩の在番役人の川西平左衛門の館に再三にわたり、蔡温を批判する文書が投げ込まれた。蔡温が調査に乗り出し。やがてこの落書が友寄、朝敏らグループの行動として摘発され、15人全員が安謝港で処刑された。友寄、朝敏は「八付」(はりつけ)の刑に処せられた。はりつけの中でも、とくに重刑の罪人に適用される串刺しにより行われた。串刺しのなかでも、いろいろあり、朝敏はとがった木で体を貫いて殺す方法が60人によって行われたという。それでもなかなか落命しないので、最後は母とともに立ち会うことが許されていた長男・朝良がとどめを刺したと伝えられている。これは「平敷屋自治会のホームページ」で紹介されている。

 
 薩摩への告発の内容がどういうものであったのか、詳しい記録がまったく残されていないからわからない。だが平敷屋朝敏の系譜によれば、平敷屋は友寄と組み、「無筋の事申し立て」、つまりありもしない事をでっち上げ、薩摩役人に落書し「国家の難題なる儀」を相たくらんだ「悪逆無道の族者(やから)」だとして裁かれたという。落書の内容が時の政治に対する批判の内容であったことがうかがえる。朝敏らがなにを主張したのか、なぜかくも極刑にしょせられたのか、さまざまな見方がある。朝敏らは和文学を通したつながりであり、時の権力者、蔡温は、中国からの移住者の集う久米村の出身であることから、そこに対立の原因を見ようとする見解がある。

 「蔡温一派の漢学者は万事支那思想を鼓吹して漢学者勃興を即し⋯⋯随って漢学者は時を得て続々重要なる地位に推薦せられたが、国学を修めし平敷屋の一派は頭が上がらなかった」「支那思想の権化たる蔡温を排斥することは平敷屋等多年の間要望するとろこである」「藩庁を動かすは藩庁以上の大勢力に頼らざる可からずと」「彼等の眼は⋯⋯琉球政務の監督者に向かって注がれたのである」(真境名安興氏)
      朝敏処刑地の恵比寿神社の裏 
      朝敏の処刑地、恵比寿神社の裏    

 ただし、蔡温は「薩摩のおかげで今の琉球がある」というのが基本スタンスであり、この見方は少し違うようだ。別の角度の見解もある。
 「自国琉球の政治について薩摩側に密告、あるいはその権力を借りようとしたのが処刑の理由である」(山里永吉氏) 
「問題は平敷屋らが薩摩側の権力を引き出そうとしたことにある。批難した事実が単に和漢の思想の相異や王府の国内施策にかかることではなく対外の問題、つまり薩摩に対する姿勢のあり方が中傷されたのではあるまいか」(新里、田港、金城氏)。

 「新琉球王統史」を書いた与並岳生氏は、投書の内容は「蔡温が人の意見を聞き入れず、独断的に国政を進め、このためにさまざまな弊害を生み、王府重役たちの不信感も増大し、疑心暗鬼は渦巻、人心を撹乱し、このことは国政の停滞を招くものである」というものではなかったか。しかも蔡温には尚敬王がついているので打つ手がなく、薩摩の力を借りて蔡温を罷免してもらうことを狙っての投書だったと思われるという見解をのべている(「尚敬王の下」)。


 ちょっと独断過ぎるのでは、思う見解も中にはある。例えば「薩摩の非人間的な抑圧、不断の収奪から琉球を救うには社会状況を変革する必要があり⋯⋯政治行動を起こそうとしたのではなかろうか」という見方である(又吉洋士氏「平敷屋朝敏―琉球独立論の系譜」)。これは自己の「琉球独立論」の主張に無理やり引き付けようとする説で、説得力はない。薩摩の役人に抗議文を投げ入れて何かことが解決できるほど、薩摩の支配は甘くはない。それよりも、蔡温の悪行を薩摩に告発して、その力を借りようとしたと見る方が自然だろう。

 いずれにしても、薩摩に政治的な投書をしたことは、朝敏などのグループが当時の首里王府の政治、国王の信任の厚い蔡温の行う政治に対して批判をもち、それを告発することによって正すことを薩摩に期待したことは、確かなことだろう。ただし、期待に反して薩摩はこれを取り上げなかった。蔡温が極刑に処したことは、薩摩との相談があったのか、独自の判断なのかわからないが、蔡温の政治に対する根本的な批判や許しがたい反逆と映ったのだろう。それにしても、投書をしただけで、死刑とは極めて異例の処置である。

 朝敏が生きた社会はどのような時代だったのか。独立の王国だった琉球に薩摩が侵略してきたのが、1609年なので、それから100年余りたっている。薩摩は琉球の中国貿易に介入し、琉球全土の検地を行って、その支配と収奪を強めた。そのもとで、貧しい農民はさらに貧しくなり、子女を遊女に売ったり、富農の下男下女になる人も出た。士族も増え、よいポストは王族やその縁故者が優先されるので、職につけない貧しい士族が生まれた。また金持ちと貧乏人の格差は大きくなり、社会の矛盾は激しくなっていた時代だったという。朝敏の作品には、このような社会状況を反映しているし、彼の行動の背景ともなっているといえよう。

 
 ここで、朝敏を処刑した蔡温の名誉のためにひと言ふれておくと、蔡温は琉球王朝の時代に傑出した政治家として、有名な人物であることだ。14歳で王位をついだ尚敬王のもとで、中国からの留学帰りの蔡温は師となり、国師といわれる職につき、さらに、官僚トップの三司官までのぼりつめた。彼は窮乏化する農村では、百姓が都市に移ることを禁止し、完全に王府の統制のもとにおき、農業生産をあげるために全力をあげるようにさせた。荒れた山の植林と山林保護を重視し、治水や港湾整備など進めた。増加する士族の対策として、士族が商工業への転職を奨励し、那覇の商業の活性化をはかった。またウコンや黒砂糖の専売制度を強化して、王府の財政の立て直しをはかったという。また、中国からの帰化人の子孫といっても、彼は「薩摩のおかげで今の琉球がある」という立場で、薩摩の指導に従うことが発展の道であることを説いたのである。

 この蔡温の政治は、庶民からみれば厳しい締め付けと収奪の強化につながっただろう。平敷屋朝敏ら対立する人々からは、尚敬王に重用された蔡温の強引な政治は独善で横暴、傍若無人の振る舞いとして、映ったのだろう。


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琉球の悲劇の文学者、平敷屋朝敏覚書、その3

 組踊の中で「手水の縁」が占めている位置

 「手水の縁」が琉球の特有の芸術である組踊の中でも、出色の位置を占めている。それは、約60種類に分類される組踊を見れば明らかになる。當間一郎氏の「組踊研究」によれば、最も多いのは、仇討や戦さなどを扱った仇討ち物で30数種に及ぶ。親子や夫婦などの人間関係の深さ、厳しさ、世話物風が20数種に及ぶ。仇討、世話物で大半を占めるわけである。例えば組踊の創始者、玉城朝薫作の「二童敵討」は、アマオヘに攻め滅ぼされた護佐丸の息子二人が仇をうつという忠孝物語である。「執心鐘入」という作品は、大和の「道成寺」の琉球版のような話で、女の情念と道義の葛藤を描いている。多くの組踊には、忠義や孝行、義理などといった封建社会の道徳・倫理・思想が支配的なイデオロギーとして流れている。首里王府が管理する組踊であるから、ある意味では当然の結果ではあるのだろう。そのなかで「『手水の縁』は恋愛を主題とした唯一の組踊」(比嘉春潮氏)といわれる。純粋な恋愛物の組踊は、ほとんど他にない。しかも、士族と遊女というような関係ではなく、対等な若い男女の恋愛である。封建的な道徳・倫理のしがらみ、桎梏を打ち破って男女の恋愛の自由を成し遂げるという行為がどんなに時代を突き破って画期的な物語世界であり作品であるのが明らかとなる。

 この「手水の縁」が初演されたのは、一八六六年に中国から来た冊封使を歓待するためだったらしい。実に創作されてから一三〇数年ぶりとなる。これがいまのところ確認できる最古の上演だという。もう琉球王朝としては最後の国王の冊封の時である。朝敏が国家に対する反逆の政治犯であり、儒教道徳に反するような内容から、上演がされなかったといわれる。

當間氏も、この作品が、非公式な形で多くのファンをもち、「熱烈な愛は封建社会の若き男女を燃え上がらせるとともに、作品のとりこになったものが多かった」と指摘している。「この組踊は他の諸作と趣を異にし、男女の情事を描いたのだから、儒教主義の当時の人には表向きは好まれなかったが、その代り若い人々の血を躍らすものがある」とのべている。「男女の情事を忌憚なく写したということと罪人の作だということが、公の晴れの場所で演じられぬ原因となり」という。

 

 手水の縁」は朝敏の作ではないのか?

 組踊「手水の縁」の作者について、琉球大学の池宮正治氏は、これは平敷屋朝敏の作ではない、後世の作品ではないかという疑問を投げかけている。その理由は、組踊は冊封使を歓待するための芸能として出発し、王府から任命された踊奉行が作演出を行ったが、朝敏は踊奉行には任命されていないからだということだ。組踊は冊封使を歓待するための芸能であることは事実だ。といっても、初めて玉城朝薫が組踊を上演した冊封使歓待は1719年で、次に冊封使が来たのは1756年なので、この間、実に37年もたっている。朝薫によって創作された組踊という芸能をしっかり継承し、発展させていくには、この間に訓練し、上演することも必要だろう。冊封使が来ない間でも、王府のなかで上演される機会があったと考える方が自然だ。また、37年の間には、朝薫以外にも組踊を創作をする人物が現れたことも十分考えられる。平敷屋朝敏が踊奉行に任命されていなくても、才能豊かで文学作品を作っている朝敏が創作した可能性はありうるのではないか。

なにより大切なのは、この作品の内容の分析そのものが、作者が平敷屋であるのか否かという問題について回答を与えている、ということだ。

        朝敏の歌碑文
         平敷屋にある歌碑の碑文

  つまり、一つは「手水の縁」の主題が当時の琉球の組踊ばかりか文学全体のなかで占める特異な位置である。他に比類のない作品が他の人に簡単に書けるのか。しかも、当時の封建道徳と社会秩序を否定するような内実を持つ作品が容易に他の人物にかけるとは到底思えない。もう一つは、平敷屋朝敏の作品の流れの中での位置づけである。一連の作品集を読むと、一貫した流れがある。単に恋愛をテーマにしているとか、恋愛至上主義というレベルの問題ではなく、若い時代の「若草物語」「苔のした」にみられるような、この世では結ばれない二人が死出の旅にでる結末から、「萬歳」に見られるように、神の啓示、助けではあっても、封建的な義理、桎梏を乗り越えて結ばれるという画期的な結末に向かう。ここには一大飛躍の世界がある。そして「手水の縁」である。この流れの延長線に登場するのがこの作品である。ここには朝敏の赤い糸のような熱い問題意識とその発展がある。「手水の縁」のような、他に類を見ない作品が、他の作品とかけ離れて突然変異のように生まれるわけがない。そういう意味でも、朝敏だからこそ書けたのだということが、理解できる。

        
              

 さらに言えば、この作品が封建社会の道徳の否定であり、そこにはさらに当時の社会 秩序、政治に対する抵抗や異議申し立ての思いが込められていると見られる。首里王府に退出する組踊をそういう主題をもった内容とするのには、とっても勇気がいることだ。その後、朝敏が処刑になるような政治行動をとった勇気ある人間であり、政治的人間であったことからも、この作品が書けたのだろうと容易に納得がいくところである。

 池宮氏の所説にはすでに強い反論が出されている。「組踊を聴く」の著者、矢野輝雄氏は、冊封使が来た時だけではなく、組踊が上演されたことはあるし、「踊奉行以外のものが、組踊を作ることはあり得ないことではな(い)」という。朝敏を作者とする最大の理由として、その作品そのものの内容を分析している。「文体にみられる緊張感や和文学による修辞法などの多用も、他に類似を見出し得ない⋯⋯恋愛至上主義を謳いあげるところに主題がある。⋯⋯(玉城朝薫の「中城若松」など)模倣作という域を超えて、平敷屋朝敏独自の文学世界を打ち立てているのを見ることができる」。「和文学の影響を受けた強烈な作風こそ、他の作者たちの組踊作品と明瞭な一線を画するものと見るべきであり、その特異性こそ平敷屋朝敏作の可能性に導くものであろう」とのべている。このように、作品の内容をきちんと分析すれば、朝敏の作以外にはありえないという結論に達するのである。


 當間一郎氏は、「玉城朝薫は当時の思想背景のなかで登場人物を設定し、つねに首里王府というバックボーンとつなげていくという手法がどの作品にも投入されているのに対して、朝敏は、それを可能なかぎり払拭しようと努力して、わずかながら脱け出している」「朝薫の世界では考えられぬ思想といえよう」と指摘している。さらに「当時の社会にあって若き男女の愛をあつかい、それを破たんさせるのではなくて成就させていく構成にしたのは、あっぱれという他はない。このような結末にするのは、当時としてはたいへん度胸のいることで、ずいぶん思い切った作品を完成させてくれたのである」とのべている(「沖縄芸能論考」)。これはとりもなおさず、この作品が誰にでも書けるような内容ではなく、朝敏のような思想をもち、それを作品世界に投影し、しかも誰に気兼ねもせずに貫く勇気をもっていなければ到底書けない組踊であることを示しているのである。

 

 


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琉球の悲劇の文学者、平敷屋朝敏覚書、その2

 組踊手水の縁」の誕生

 平村の支配者の息子・山戸という若者が瀬長山で花見した帰り波平玉川で髪を洗っている美しい娘・玉津と出会う。玉津にひかれた山戸は、昔から男女の縁結びの行為といわれた手水で水を汲んでほしいと玉津に頼む。いったん断った玉津も山戸の熱い思いを受け入れる。二人は心が結ばれ、やがて忍びあう恋人になる。山戸は玉津の家に忍び込むが、門番に見つかってしまう。玉津の父親は、親の認めない恋に落ちた、娘を許すことができず家来に殺すことを命じる。いま処刑にされようとするその時、山戸が駆けつけて、玉津を助けてほしい。もしできないなら一緒に殺してほしいと命がけで訴える。二人の純粋な愛情に心うたれた家来は、二人を逃し、二人は結ばれる。

山戸が語るセリフにこうある。「いかな天竺の 鬼立の御門も 恋の道やれば 開きどしゆゆる」。どんな天竺の鬼といえども、命をかけた若い男女の恋の道はとどめられない、という意味だ。この組踊の主題が集約されたようなセリフである。

最初テレビで観た時に、二人の馴れ初めに戸惑いがあったが、最後まで観ると、これはすごい物語だと驚いた。琉球でも封建社会は、「士階級に恋愛の自由はなかった」のだ。「士にとって逢い話す自由も得られる異性は遊女だけであった。親の承認しない恋愛には女は足枷(あしかせ)をかけて圧服され、男は一門親類の訴えによって、平等所(裁判所)で遠島を申し渡された」(比嘉春潮氏)という時代だった。親が認めない恋愛は不義そのものであった。それが儒教の道徳であり、社会的な秩序でもあった。

    朝敏の瀬長島の歌碑
      瀬長島にある朝敏の歌碑
 それは、恋に落ちた二人が陥った危機になにより表れている。つまり、親の許さない不義をした彼女は、たんに無理やり引き離されるのでない。親によって斬り殺される。命を奪われるのである。恋をしただけで、自分の愛する娘まで殺さなければ親の世間体がない。そこに、この時代と封建社会の道徳支配の非情な貫徹をみることができる。

 山戸が自分の危険をかえりみず、命を賭して彼女を処刑から救い、自分たちの恋愛を成就させるというこの作品の内容は、いつくかの点で、同時代の組踊、文学とは次元を異にする画期性を有している。

 朝敏は、「手水の縁」を書き上げると尚敬王に差し出したが、封建的義理の否定が主題となっているため、王は非常に驚き、重大な問題として下臣に謀ったところ、秩序を乱す者として処刑と決定したが、彼の和文学の指導を受けたことのある一五人役の一人の多嘉良親方の弁明でやっと助かった、というといういきさつがあったとも伝えられる(玉栄清良著「組踊 手水の縁の研究」)。


 この「儒教道徳思想が最も忌み嫌い、法度とする恋愛を声高らかに唱えて、組踊化した朝敏の姿勢は、敬服に値するものである」と當間一郎氏は強調している。

なによりも、理不尽な道徳、倫理への抵抗である。そして、その道徳を基本的な支柱としている封建社会の秩序に対する否定につながる。その道徳と秩序とは、人間が本来的に持っている愛情、その一つである男女の恋愛という、もっとも豊かな人間感情を押し殺すことにたいする根本的な異議申し立てである。そこには、本来、誰も奪うことのできない人間の本性に対する自覚があるのではないか。自我への芽を見ることができる。「人間は誰でも恋愛の自由をもっているんだぞ!」という朝敏の叫びが聞こえてくるようだ。


 重要なことは、封建的な縛りを超えた男女の愛情を、この世では成就できないからと、死出の旅に出るとか、来世で成就するとかという現実逃避に終わらせていないことである。つまり二人の強い意志によって、封建道徳と秩序をも突き動かし、打ち破って恋愛を現世で成就させていることである。恋愛の自由に対する大らかな讃歌が読み取れる。この点で、近松門左衛門の心中物の浄瑠璃などでの限界をはるかに超えた地点に立っているといって過言ではない。ただし、あくまでも、その芸術的な完成度は無視して、その主題についてだけで言えばということではある。

このような封建社会の秩序をなす道徳にたいする挑戦とこれを乗り越えることを公然と主題にした作品世界を作り上げるということは、時の支配者に対する朝敏の感覚にも深いかかわりがあるだろう。首里王府とその支配に対する批判精神なしには書きえない内容である。ただし、組踊は国王に差し出しており、その限界を当然、認識した上での表現であることは言うまでもない。

 

 この作品にたいする評価から

この組踊に対して,識者はどう見ているのか。いくつか読んでみたが、必ずしも的確な評価と言えない批評がある。評価をしていても、「恋愛至上主義」という次元にとどまっている批評もある。もっとも的確だと思われるのは玉栄清良氏の著作である。そのなかの「平敷屋朝敏の文学」では次のようにのべている。

封建社会の支柱である道徳が見事に踏倒され、不義が堂々と通ったのである。こうして確立された人間性は封建社会の礎を激しくゆさぶったと言えよう⋯貨幣経済の発展は農民、貧窮武士の階層分解を押進めていた、必然的に“内面的抵抗”も高まっていた。それを圧迫する手段としての義理道徳は民衆の行動を厳しく監視し、間接には儒教によって彼らの内面まで強く拘束していた。そのような情況下にあって人間性をかくも強烈に押出した「手水の縁」は、日本の近代文学が未だ十分には果たし得ぬと思われる課題をすでに封建社会の梗塞のなかで達成して見せたことのなり、その文学的成果は琉球文学においては勿論、日本文学史上“特筆”に値すること、と言えるだろう。人間性に目覚め封建的義理を否定した者が、封建社会の象徴である王への忠誠を思うという矛盾は上演を考慮したための余儀ない虚構であったと思われる。

      安謝、朝敏処刑地の神社
       朝敏の処刑地だった神社
 「手水の縁」の文学的価値はその高度は写実主義にある⋯⋯天竺という神秘の世界(朱子学思想に立つ義理)の否定であり、人間の生の力の根源からの強い肯定であり、人間の自然な愛情は何よりも尊重されるのだという生の確かな思想が強く主張されている。

 井原西鶴や近松も義理と人情にはさまれて苦悩する人間は描いたが、義理を乗り越えて人間の自然の生の姿を歪めずに描くことはできなかった。彼らは心中する男女を描くことによって消極的な抗議にとどまった。悲劇の背後の歴史の本質には目が届かなかった。同時代の琉球の代表的作家も封建的秩序への疑問も弱く唯一人、朝敏が人間を“封建社会の本質において“とらえ、その矛盾の打破に進み出る人物を描いたことは驚くべき人間認識であり、“社会認識”であり、またそれの“文学的達成”であった。

 

この玉栄氏の主張に対して、これを批判する評者もいる。嘉味田宗栄氏は「平敷屋という人物の政治上の事実を、文学作品としての手水の縁に直結して混乱させている」「自我の確立、秩序への対決といった近代用語で形容するにふさわしい戯曲とは思えない」「近代的自我と恋の熱情をいっしょにする前に、古代から近代にかけての恋人たちの情熱の激しさを思いみるべきである」などと批判している。

これはいささか的外れではないか。平敷屋の政治行動と文学作品には、地下茎でつながっているものがある。自我など用語は近代用語ではあっても、その芽生えというべき意識を見るのは無理なこじつけではない。「古代から近代にかけての恋の情熱の激しさ」が、当時の儒教道徳を真っ向から否定する内容の組踊作品に仕上げて王府に提出することは、凡庸な文学者ができることではない。その証拠に、「手水の縁」のような戯曲・文学が他に類例がないことを見ても明らかではないだろうか。

 


 



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琉球の悲劇の文学者 平敷屋朝敏覚書 その1

 赤虫が蝶なて飛ばば遺念ともて

 ーー琉球の悲劇の文学者 平敷屋朝敏覚書ーー
 この文書は、2012年4月に、前の「ココログブログ」にアップしていた。7年余りたっているので、このブログにもう一度アップしておきたい。

 はじめに
 沖縄に移住してまだ1年足らずのうちに、NHK沖縄テレビで初めて組踊を観た。組踊は歌三線、演劇、踊りを総合した楽劇である。沖縄の誇りある伝統芸能として名高い。この時観た作品が「手水の縁」だった。その時に強い衝撃を受けた。作品内容はあとから紹介するが、最初に戸惑ったのは髪を洗っている女性を見染めて、水を汲んでほしいと頼み、断られるとその場で飛び込み死ぬとまで言うことのあまりの唐突さだった。しかし、そのストーリーは、親の許さない恋愛を死罪にするという封建的な義理、倫理を乗り越えて二人が結ばれるという内容だった。封建時代にこのような大胆な恋の物語は、大和の浄瑠璃にもない主題なのだ。すごい作者がいるものだと感心した。その名を平敷屋朝敏(へしきやちょうびん)という。しかも朝敏は、政治犯としてはり付けの処刑をされているという解説にまた驚いた。ただものではないことだけは確かだ。ただし、その解説では、この作品が本当に朝敏が書いたのかどうか、後年に他の人物によって書かれたのではないか、という説があるということだった。

この3つの点が強いインパクトをもち、記憶に残った。その後、機会を見ては、朝敏の関連する文献、資料を県立、市立図書館で探して読んでみた。読めば読むほど、彼が琉球王朝の時代を代表する文学者の一人であり、また歴史上も異色の悲劇の人物であることがわかった。沖縄では高い評価を受けていて、少なくない研究がある。もっともっと沖縄以外の人たちにも知ってほしい文学者であり、作品群だということを強く感じだ。この覚書は、こういう問題意識から、いまの時点で自分流に知り得たことをまとめたものである。まあ、興味がなければ意味のない文章であるが、少しでも読めるところがあれば眺めてほしい。それだけである。

 

朝敏の歩んだ道

平敷屋朝敏は、琉球が薩摩に侵略されてからおよそ90年以上たった1700年、首里金城村で生まれた。尚真王の嫡子、尚維衡の7代目の子孫にあたるといわれる。祖父は大宜味間切の総地頭で、父・朝文は勝連間切の総地頭という出自である。間切(まぎり)とは今の町村ほどの単位になる。琉球は、中国の文化の影響が強かったが、薩摩の支配下におかれた近世の琉球では、日本の和文学が推奨されていた。大和の文学に親しみ、教養を身に付けることは、首里の士族にとって大切な資格だったそうだ。首里王府に仕官する条件として重視されていた。朝敏は、8歳の頃から和語と和文学を学んだという。1718年、18歳でときの徳川幕府の八大将軍吉宗の慶賀のために派遣された慶賀使の越来王子に随行して江戸上りをしている。すでに王府の何らかの役職についていたのだろう。江戸上りは、大和の芸能、文学など文化に接せるまたとない機会である。江戸滞在中に仏教や和文学(源氏物語、伊勢物語、短歌)を学んだという。朝敏の文学は、擬古文で書かれた和文学であり、和文学への深い教養が素地になっている。といっても、擬古文はひらかなに漢字の当て字を使っているので、原文はとてもとても読みにくい。


 朝敏の生涯にとって、重要な出来事がその後、起きてくる。その文学的な形成の上でも、影響を与えることになる。というのは、21歳で結婚したが、首里城内の高貴な女性(時の尚敬王の王妃・思亀樽金といわれる)が密かに訪ねてきて、絹の上下衣を朝敏に贈ったという噂が広がった。彼は美男子で女性からとてももてたらしい。それが国王や著名な政治家・蔡温らの知るところとなり、朝敏はその責任を問われ、家屋敷を没収、職も失った。一家はあちこち転々とし、自分が脇地頭をつとめる勝連間切の平敷屋村に移り住んだ。やがて、嫌疑が晴れて朝敏は再び、職を得て首里に帰ってきた。その後、仕事のかたわら、創作を行ったという。朝敏を悲劇の文学者といったのは、この経歴ではない。1734年、当時、琉球を支配する薩摩が那覇に置いていた出先機関である在番奉行の横目、西川平左衛門宅に再三にわたって投書があった。内容は王府を風刺したものだったらしい。朝敏は、友寄安乗ら和文学の仲間とともに
15人が捕らえられる。当時の琉球の蔡温によってついに6月26日、安謝港で15人の若者らが処刑された。さらに朝敏の長男は多良間島、二男は与那国島、三男は水納島に島流しになったのである。朝敏の妻のまなびは、身分を百姓に落とされ、高離島に流されたという。幼い長女も母とともに流されたが、栄養失調で間もなく死に、島流しになった息子たちとはその後も会うこともできなかったそうだ。事件の真相は記録が残されていないためにわからないが、投書をしただけでこんなに集団処刑にあるのは、稀有のことである。

       瀬長島の歌碑  

     瀬長島にある朝敏の歌碑  

朝敏のいくつかの作品

 初期の作品に「若草物語」がある。大阪の住吉を舞台とした貧しい武士と遊女・若草の悲恋の物語である。金持ちの大名に連れて行かれた若草を奪い返そうとするが、取り返される。若草は、愛する人と別れ、生きがいのない日々を送り、物思いが積り死ぬ。彼もその後を追う。和歌を織り交ぜた小説世界は、「源氏物語」を意識しているようであるし、近松門左衛門の心中物を思わせる主題である。時代から言えば、すでに近松の浄瑠璃が人気をよんでいたので、接する機会はあっただろう。近松の何らかの影響があったと見る人もいる。

 
 「苔の下」という作品は、琉球の社会の現実の中に題材を求めている。琉歌の二大女流歌人である、遊女・よしやつると仲里按司をモデルとした悲恋の物語である。貧しい彼は、恋人を身請けできない。つるの義母は、お金持ちの黒雲に売り渡す。彼女は食事も湯水さえ飲まず死ぬ。彼もその後を追う。前作と同じ悲恋物であるが、薄幸の遊女や貧しい主人公への作者の同情がある。以上の
2作品は朝敏2728歳頃の作品という。よしやは「お金のために人の愛を破らないで下さい」と叫ぶ。男女の愛情が金の力でねじ曲げられることへの反発が根底に感じられる。

主題から言えば近松の何らかの影響があったかもしれないが、覚書の結論にかかわるが、朝敏のすごいところは、この近松的な悲恋を乗り越える作品世界を作りあげたことにある。当時、影響を受けたにせよ、それにとどまらない地平に立つことを意味する。

 

 「貧家記」は、首里を追われ、平敷屋で失意の生活を送った体験を日記風につづった物である。「あはれその畑打ち返す せなかより 流るる汗や 瀧つ白波」。働く農民を見て詠んだ和歌である。自分は貧しいがまだ安楽に暮らせるだけ農民より恵まれていると感じる。首里を追われた士族の貧しさと民・百姓の悲哀が映し出されている。そこには、この境遇を強いられているものとして、現実社会への厳しい目と弱者に対して注がれる愛情が感じ取られる。こうした体験を通して、政治に対する鋭い現実感覚が養われたのだろう。それは、たんに傍観者として見るだけではなく、後々の行動となって現われる。

     平敷屋朝敏の歌碑
     平敷屋にある朝敏の歌碑   

 朝敏は、脇地頭として在任中、この平敷屋に滞在した折に、農民の水不足を解消するために、用水池を掘り、その土を盛りつけてタキノー(小高い丘)を造ったと伝えられている。この地には、朝敏を偲んで1986年、歌碑と碑が建てられた。碑文には、次のように記されている。「朝敏は、薩摩支配下における苦難の時代に、士族という自らの自分におごることなく、農民を始めとした弱い立場の人たちに暖かい眼差を向けることの出来た、沖縄近世随一の文学者でありました。思えば、朝敏の憂き目は、当時の封建支配の原理道徳に背を向けようとする、人間としての優しさゆえの到達点であった、と言い得ることである」。


 「萬歳」という作品は、首里に帰ってきて数年後のものだ。安里の按司の息子・白太郎は勝連の浜川殿の真鍋樽金という姫君を一目見て恋に落ちるがすでに姫はある地頭の息子に嫁ぐことが決まった身。白太郎は海辺で自殺をはかり、倒れた彼を見つけた姫も身を投げようとする。その時、姫が御願(うがん)する御嶽(うたき)の神の化身が現れて二人を助け、二人はめでたく結ばれる。前の2作のように心中という絶望的な結末ではなく、それを乗り越える新たな境地が生まれている。「萬歳」というのは村々を回る乞食のことだ。、白太郎は「萬歳」から美しい姫のことを教えてもらったことからこの題名にしているが、「萬歳」はまた「ばんざーい」という愛が実った喜びの表現ともとれる。二重の意味を込めているのではないか。ここには自由な恋愛を縛り付けている自分の意思を無視した婚約という義理を神の啓示の形で真っ向から否定する姿勢がある。当時の人間をしばっていた義理、倫理を拒否し、個人の恋愛をなによりも優先し、それを成就させるというこの小説の主題は、封建社会の道徳に対する異議申し立ての姿勢がある。ここには、朝敏の思想的な大きな変化がある。又吉洋士氏は「現実と対決する姿勢がみられる」「彼は封建社会への批判を
<恋愛>という社会的な具体性をもっていないもので撃ち、後年それを現実的な社会批判として実行に移した」と述べている。(「平敷屋朝敏―琉球独立論の系譜」)。


 仲原裕氏は「平敷屋朝敏作品集」の解説でこう指摘している。「18世紀初頭の琉球の社会で最もみじめな存在は、貧士貧民殊にその婦女子であった。服従することを善とする考え方によれば、郭に売られた女は、義母の命にしたがって嫌いな男にでも買われてゆくことを善としなければならない。しかし、人間は、いくら封建社会であっても、好きなものは好き、嫌いなものは嫌いなのである。この封建的義理と人間的情愛の葛藤をテーマにし、人間を義理の犠牲から助けようとしたのが、平敷屋朝敏の作品であろう」「時の政治権力や金権に対するレジスタンスの心を作品にしたのではないかと思われる」。

 それをさらに大きく歩を進めたのが組踊「手水の縁」である。音楽、演劇、舞踊を総合した組踊は、今から290年ほど昔に誕生した。1719年9月、琉球国王を任命するため中国から国王の代理として来た冊封使を歓迎する重陽の宴で初めて上演された。組踊は冊封使を歓待するために創作されたという。その生みの親は、玉城朝薫といわれる。首里王府の踊り奉行に3度任命された。こういう役職が王府にあったことが、琉球ではいかに芸能を重視していたのかがうかがわれる。朝薫は、「二童敵討」「執心鐘入」など「五番」と呼ばれる五つの作品を創作し、いまでもよく上演される組踊の代表的な作品となっている。この朝薫より16年遅く生まれたのが平敷屋朝敏であった。


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