fc2ブログ

レキオ島唄アッチャー

エイサーと念仏歌の系譜、その6

 琉球弧に広がる念仏歌
 念仏歌は、沖縄本島と八重山諸島だけでなく、宮古島や奄美諸島にも広がっている。
 宮古島には、「えみじゅが実」という念仏歌があり、伊良部島には「孝行ねんぶつ」がある。典型的な念仏歌は「孝行ねんぶつ」である。やはり、親の御恩を山の高さ、海の深さにたとえ、夜寝るとき母の懐の中、濡れる方には母親が寝る、昼は父の足の上と恩の尊さを歌う。これほど親に思われても、親を拝もうと島々巡っても似ている者はいない、父、母を呼べども声するのは山彦だけ、「親の御恩はまだ知らん」と歌う。「継母念仏」と同系の歌である。
    
 奄美の念仏歌
 奄美諸島では、「念仏歌が伝承されるのは沖永良部島のみである」(酒井正子著『奄美歌掛けのディアローグーあそび・ウワサ・死』)。
 徳之島には「継母(まんま)念仏」がある。酒井氏は「徳之島には関連事象が多くみられる」が、「死者儀礼には関係せず、芸能として『聞かせる』歌になっている」(同書)という。とても長いのであらすじだけ見ておく。
 3つの頃母を亡くし、5つの頃母を思い、7つになって母を探して歩いたが、母を見た人は一人もいない、継母が据えてくれる膳は割れ膳、食器は欠け、箸は焼き切れた箸。泣く泣く海に下り、白髪の老人に話すと、お前の母がいるところは、石門、金門(墓の入口)にいるだろう、細い管の穴から声を交わし水を飲ませ、牛を借りるから家にお供しましょうというが、お供はできない石になり、土になった、あの世は恐ろしいよ、朝と宵に茶を供えておくれ、お前が作っている作物を守ってあげよう(『南島歌謡大成 Ⅴ奄美編』)。
 「島内各地に知られ、人気ある口説の一つである。文句は、沖縄のキョーラダにある『マンマ念仏』と同系統のもので、おそらくそれが奄美へも入ったものである」(同書)
 この歌詞には、親を探すだけではなく、継母に冷たくされ、親のいるところを教えてもらい、あの世にいるから朝晩お茶を供えて供養してくれというところまで、話が完結している。論理的な展開がきちんとしている。
 ほかの念仏歌では、南風原町喜屋武の「継母念仏」は、継母は登場するが親を探し回っても見つけられない。同系列の八重山の「無蔵念仏節」は、「継母」は登場しないし、父も母も探してもいないままで終わる。徳之島の「継母念仏」に比べると途中で切れた感がある。
    IMG_7246_202010170945451fd.jpg 
          沖永良部島

 沖永良部島には、33回忌送りの「ミンブチ(念仏)」という歌がある。
 「33回忌は、《念仏》を歌いカネ・太鼓で囃しながら、にぎやかに墓まで死者の霊を送ってゆくことで知られる」(酒井正子著『奄美歌掛けのディアローグーあそび・ウワサ・死』)。
 知名町瀬利覚(せりかく)の念仏歌は、「みんぶち『桜ぬだんじ』」という。
 南阿弥陀仏で始まり、桜の男児は母に捨てられ(死なれて)、布葺き館(墓)に送られて、御肉は野原の土となり、御骨は岩屋の石となる、と歌う(あらすじ)。
 
 「みんぶち(道行の唄)『五つ頃』」は、次のような歌詞である(あらすじ)。
 やはり南阿弥陀仏で始まる。五つ頃、親に捨てられ、七つ頃親を思い出し、里々探したけれど親に似た人はいない、浜に下りて母さんと叫んだけれど千鳥の鳴き声ばかり、昔御主の前(むかしうしゅぬめー、大翁)に逢って親のことを語った、竹管を切りつめて右の袖に隠し、一目拝んで、どうしたの母さん、家に戻ろう、父さんは継母を娶ったのでつきあいできない、お前一人寿命を長くしておくから、蝶が来たら母と受けとって、夏の雨、冬の雪霜は愛しい母さんの涙と思って、7月の盆踊りを祭ってくれ、後生の御門は石の門、閻魔王の門は金門、開けてみれば、わが親は見えるだろうか。
 念仏説教の一種で、「沖永良部島の各集落で伝承されて、歌詞は各々異なる」という。
 沖永良部島では、念仏は「特別の歌」という観念がある。「普段歌う歌ではない」「歌うとへんな気持ちになる」「一旦歌い出したら止まってはいけない「間違うと歌った人に返ってくる」などと言われているそうだ(酒井正子著)」。
八重山でも、念仏歌はお盆の時以外は歌ってはいけないといわれていることと重なるところがある。単なる芸能として歌三線を楽しむ曲ではない念仏歌の由来があるからだろう。


スポンサーサイト



沖縄の民謡 | コメント:0 | トラックバック:0 |

エイサーと念仏歌の系譜、その5

 なぜ親を探すのか
 少し留意を要するのは、念仏歌は親の恩と共に、親がいまはいなくて、子どもが母を探すという話になっていることである。
 「継親念仏」では「国中を巡っても 私の母に似た人は一人も出逢えず 長者の大主よ 母に逢わせてくれ」(具志頭村安里のエイサー歌)と歌う。八重山でも「国(村)の浦々を探しても 我が親に似た人は見られない」(「無蔵念仏節」)と歌う。あとから見るが、奄美諸島の徳之島にも「継母口説」があり、やはり「7つになった頃 母を探して しま(部落)のしまじまを 母を探して歩いたが 私の母を見た人は一人もいないよ」と歌う。
 父母への恩徳だけでなく、なぜ子どもが亡き親を探すのか。
 
 個人的な感想だが、子どもを大切に育ててくれた親への恩は、父母が生きている時は当たり前のように思ってあまり感謝することがない。亡くなってから親の有難味がよくわかる。しかし、恩返しをしたくても、もう親はいない。そんな後悔の念を持つことが多いだろう。いなくなった親、亡き親を探すという話を通して、親の尊さや恩徳への感謝の気持ちを持つことの大切さ、亡くなった親への供養の大事さを伝えるものではないだろうか。
 池宮正治氏は、次のように指摘している。
 「親が子をいつくしむ心はたとえようもなく深いこと、その親の愛(恩)も親が死なないと悟らないことなどを言って、親への孝養を説いたように理解されている」(「沖縄の人形芝居」)。
 「継親念仏」の物語の展開が、最後の母への供養の大切さに収れんされる構成となっている。

 アンガマで歌われる念仏歌
 八重山諸島の各島には念仏系歌謡が伝承され、念仏歌が死者の霊を慰める力をもっていると信じられ、一応のまとまった詞形を今なお残している。『南島歌謡大成 Ⅳ八重山編』の「念仏歌謡」の項には、24曲収集されている。「7月念仏」は石垣島大浜村(旧)、鳩間島、小浜島、竹富島、黒島にある。「無蔵念仏」も、小浜島、竹富島にある。他にも「孝行念仏」(竹富)、「親の御恩(波照間島)」「親の御恩念仏」(与那国島)などいかにも念仏歌らしい題名である。
 念仏歌が歌われるのは旧盆である。八重山の旧盆といえば、エイサーではなく、アンガマで知られる。
八重山のアンガマといっても、離島や農村の「平民集落」で行われるものと石垣四箇の「士族地域」でおこなわれるものに分けられる。前者が古い形である。
     DSCF0285[1]  
           石垣島のアンガマ
  <石垣四箇のアンガマでは、一団が太鼓と三味線に合わせてムラ内の各家に赴き、一同が着席すると座開きとして「無蔵念仏」を歌い、踊り手も手拍子で合わせる。アンガマの中では面を付けたウシュマイ(爺)とンミ(婆)が見守る観客と裏声を使って問答を行なう(久万田晋著『沖縄の民俗芸能論』)>
 八重山の離島でも、念仏の歌と踊りが盛んなのは小浜島の念仏歌だという。
 小浜島の旧盆では、先祖供養として念仏経文や念踊りが演じられる。念仏系の曲目として「七月念仏」「無蔵念仏」「ちゅんじゅんながり」「みんまん念仏」「平良とどろき」「大和ぬやまさじ」「いらんぞーさ」「うむいぬやーむとぅ」「んまなます」「まかしょ」「やらまーる」があり、「ひとつの島にこれほどの念仏系歌謡が伝承されていることは琉球弧の島々の中でも特異なことである」(同書)


 八重山に念仏歌を伝えた人物
 念仏歌が八重山にどのようにして伝わったのか。そこには二つの伝承がある。
 「王府の八重山支配の中で、首里の文化を八重山に伝えたのは主に公務で八重山と首里を往復した士族たちだった。彼らは八重山各地に役人として赴任したので、さまざまな首里の文化を八重山各地に伝えた(古谷野洋子著『八重山の念仏者、その受容と葬送の変容』)」
 一人は、宮良親雲上長重。1647年に八重山最高位の役職である「頭職Jを拝命した人物である。「順治14年(1657) に公用で沖縄島に赴いた宮良長重が念仏を稽古して伝えたという」(「山陽姓家譜」)「宮良長重によって招来された念仏は、浄土系念仏と考えられ、伝来の初期には講による布教がなされ、政策的配慮をも加味しながら各離島にまで広がり、念仏者は公的なものとして部落に存在することとなり、葬式に参加したという」。(新城敏男論文引用、古谷野洋子著から)
 宮良長重の伝えたのは、首里のチョンダラー系統のものではなく、袋中上人の系統を引く浄土宗念仏であったことがわかる。
 
 もう一つは、宮良善勝によるものである。
 「登野城村の宮良善勝が公用で首里王府に出仕した際、首里郊外のアンニャ村にいってチョンダラーから盆行事に歌う浄土宗の教えの道を説いた念仏を稽古して、これを少々改良改曲してつたえたのが八重山の無蔵念仏であるという」(喜舎場永珣論文引用、古谷野洋子著から)。
 首里で念仏を習ったのが、アンニャ村のチョンダラーだと述べていることについて、少し補足する。
浄土宗の袋中上人が渡来して、仏経文句を俗にやわらげて那覇の人民に伝えたことが念仏のはじめであるとされているが、「実際に庶民に念仏を広めたのは、ニンブ一、ニンブツァ、ニンプチャー(念仏者)、チョンダラーと呼ばれた人々であった」という。
彼らは首里の行脚(あんにゃ)村に住み、門付け芸人でもあり人形芝居とともに「万歳系のチョンダラー芸能を携えて行脚していた…普段はムヌクーヤー(物乞者)であった。ところがひとたび葬式があると、那覇・首里は言うに及ばず、近隣の村々まで出かけて行った」(池宮正治著『沖縄の遊行芸』)。
 
 宮良長重宮良善勝は年代的にどちらが古いのかわからない。袋中上人が滞在し浄土宗を伝えたのは、1603年から3年間である。宮良長重が沖縄に来たのはその50年ほど後であるから、念仏は広まっていたことになる。
 ただし、宮良善勝の話はとても具体的で、リアリティーがある。「アンニャ村にいってチョンダラーから盆行事に歌う浄土宗の教えの道を説いた念仏を稽古」して編曲したのが「無蔵念仏」というからである。
 袋中上人の系統を引く念仏歌とチョンダラーから学んだ念仏歌という少し違いはあったかもしれないが、その後歌い継がれ、各離島、地域に広がる中で、念仏歌として区別なく伝承されていったのだろう。
 現在は、エイサーの代表的な曲となっている「仲順流れ節」と八重山の「無蔵念仏節」が似ているのは、結局、念仏歌という共通の土台があることが伺える。
 八重山、沖縄、沖永良部島の念仏歌の旋律の比較分析を行った酒井正子氏は、念仏歌の旋律は、一つの定型があるという。
 <琉球弧の念仏歌の資料を見ると、確かに旋律の定型性は著しい。「民謡大観」八重山・沖縄・奄美各篇に楽譜が示されている12曲(エイサー歌の念仏歌3曲を含む)のうち、小浜島の《みんまま念仏》を除けば他はすべて同系旋律で、ヴァリアンテは粟国島の《7月念仏》1曲のみである。ただし、沖縄地域と八重山地域では楽曲の構成が基本的に異なる(『奄美歌掛けのディアローグ』)>と指摘している。



沖縄の民謡 | コメント:0 | トラックバック:0 |

エイサーと念仏歌の系譜、その4

 山より高く、海より深い親の恩
 現在、エイサーで歌われる「仲順流れ」には、仲順大主の逸話だけでなく、親の恩徳を強調する歌詞がある。これは、もともと念仏歌の「親の御恩」で歌われた内容である。
 旧具志頭村(現八重瀬町)安里のエイサー歌「親ぬぐうん」(親ぬ御恩)を訳文で紹介する。
 親の御恩は深いもの 父御の御恩は山より高い 母御の御恩は海より深い 山の高さが測られようか 海の深さが分かろうか 昼は父上のももの上に 羽織の端であおがれて 夜は母上の懐に抱かれ 七重八重の衣裳の中に 汚いものを母が片付け 食べさせたり抱き上げたりも母親が 片腰が濡れたら腰の真上に 腰が濡れたら胸に抱かれて これほど親に愛されて 今では縁も切れてしまい 陽が上れば門に出て待ち 陽が下がれば庭に待ち これほど待っても待ちきれず あしじが白浜を通り過ぎて けわしい山を分けて行き 今こそ父御のはかじとる(不詳) あかぶち(不詳)仮屋に宿を借りて 夜中に一目だけ見て 父御よ母御よ叫んで 目をさまして探ると空の席 再び精霊に迷わされ これから戻って家に着き 父の遺品を拡げ 母御の遺品を投げ出して これを見て涙を止められようか 見る人聞く人微笑を浮かべ 行く人来る人涙を流して これを見て涙をおしぬぐって
(『南島歌謡大成沖縄篇Ⅰ(下)』)。 
  国場念仏エイサー1 
    国場念仏エイサー(第47回青年ふるさとエイサー祭り)
 父母にとても大事にされ育てられながら、いまはその親の姿はない、待っても現れない、険しい山を分け入り探してもいない、形見の遺品を並べて涙を流す。これは、他の地域の「親ぬ御恩」と共通する歌詞である。
これとそっくりなのが八重山の「無蔵念仏節」である。曲の旋律は「仲順流れ」と似ているが、歌詞はまったく異なる。大浜安伴編著『八重山古典民謡工工四』から紹介する。
1、親(うや)ぬヤゥ 御恩(うぐぬ)は深きむぬ 父御(ちちぐ)ぬ 御恩は山高さ 
  母御(ふぁふぁぐ)ぬ 御恩は海深さ
 (親の恩は深きもの、父の恩は山よりも高く、母の恩は海よりも深いものである〕
2、山ぬヤゥ 高さやさわかりん 海ぬヤゥ 深さんさわかりる 昼やヤゥ 
  父御ぬ足が上(うい)
 (山の高さは、測ることができる、海の深さも測ることができる 昼は父上の脚の上に)
3、扇子(おーじ)ぬヤゥ 風(かじ)にヤゥあおがりてぃ 夜(ゆる)やヤゥ 
 母御ぬ懐(ふとぅくる)に 十重(とぅやい)む二十重(はたい)む 衣装が内(ウチ)
 (扇の風であおいでもらい、夜は母上の懐に、十重、二十重の着物にくるまれて)
4、ぬりるヤゥ 方(かた)には母ゆくてぃ 乾くヤゥ 方には子(クワ)寝(二)してぃ
 諸共(むるとぅむ)ぬりりば 胸(むに)が上
 (濡れた所に母上が寝て、乾いた所に子供は寝かせ、ともに濡れると母の胸の上に)
5、くり程(ふどぅ)親にヤゥ 思(うむ)わりてぃ 年やヤゥ 十二十歳(とぅーはたち) 
 なゆりどぅむ 親ぬヤゥ 御恩は未(マ)だ知らん
 (これほど親に大切に思われ、年は二十歳になるが、親の恩はまだ知らない)
 
 このあとまだ、次のような歌詞が続く。訳文で書く(『南島歌謡大成Ⅳ八重山編』、竹富島)。
太陽がのぼったら門に立ち 太陽が沈んだら辻に立ち 我が親を待っても待ちかねて 島の様々を巡っても 国(村)の浦々を探しても 我が親に似た人は見られない さるかき山を踏み分けて あさぎの浜まで参っても 青苔の生えた山剣 青苔の見える墓印 その夜は野原の墓地に泊まり 夜中の夢の夢様に 二人の親の夢を見て 飛び起きて探ると父はなし 寝覚めに探ると母はなし 父を呼び母を呼び声を出すと 声のあるのは山の響き あんな響きに賺(すか)されて それから同じ道を戻って行き これから我が宿に帰って行き 父御の形見を取って開き 母御の形見を取って並べ これを見て涙は止まらない (涙は)両袖を濡らし腕に流れ 見る人聞く人哀れであるよ 南無阿弥陀仏
 
 無蔵とは女性のことをさすが、ここではとくに母親を意味しているのではないか。
 大切に育ててくれた両親への深い感謝の気持ちが歌われている。これほど大切にされながら、まだ両親への恩返しはできないままであることへの自戒の念が込められている。両親への感謝の歌であり、教訓歌の面もある。
 「親の御恩」は、「かならずしも仏教だけでなく、儒教的な孝養の思想をも含み持っている…民間の人たちを教化するために、俗耳に入りやすいように、こうした和讃(あるいは琉讃)の形をとったものと思われる」(池宮正治著『沖縄の游行芸』)
注・和讃とは、日本語の仏教讃歌の一つ。仏の功徳や仏法をたたえ、祖師・高僧の行跡を述べた叙事歌謡である(ブリタニカ国際大百科事典から)
 歌詞の中でも、注目したのは、乾いたところに子を寝かせ、濡れたところに母が寝るというところだ。八重山民謡でこれ見た時、なぜ寝床が濡れるのだろうかと思った。実はこれも、そのもとは中国の経典にある。
 父母への恩に報いることを説いた「父母恩重経(ぶもおんじゅうきょう)」である。「父母の恩が重く尊いことは、天が終わりがないように広大である」と説く。そして、父母に10種の恩徳があるとする。その中の5に「廻乾就湿(かいかんじつしつ)の恩」がある(意訳)。
 「水のようにつめたい霜降る夜も、氷のように寒い雪の朝も、乾いた所に子を寝かせ、おねしょで湿った所に自ら寝る」。
 6には「洗濯不浄(せんかんふじょう)」がある(意訳)。
 「子がふところや衣服に尿するも、自ら手にて洗いすすぎ、穢れをいとわない」。
 これを読むと「おねしょで湿る」ということらしい。それなら分かる気がする。
 
 「父母恩重経」は「偽経」だとされる。「偽経」とは、インドなどの原典を漢訳したものではなく、中国でつくられた経典である。だから儒教など中国思想が持ち込まれているという。お盆の由来である盂蘭盆会経もその一つである。やはりインドに原典は存在しないとされる。
 そういえば、「長者の流れ」に取り入れられた『二十四孝』も、親への孝行が優れた人物を集めたものであり、そこには儒教の考えを反映している。


沖縄の民謡 | コメント:0 | トラックバック:0 |

エイサーと念仏歌の系譜、その3

 なぜお盆に親の恩を歌うのか
 ここで、お盆にはなぜ親の恩を歌うのかについて触れておきたい。お盆の由来をみておく必要がある。以前に、ブログで書いたことがあるのでそこから紹介する。
 お盆(盂蘭盆=うらぼん)の由来は、中国で作られた盂蘭盆経(うらぼんきょう)にある。これは、釈迦の十大弟子の一人、目連尊者と亡き母親との物語である。目連は父母の恩に報いようと思うが、亡き母は飢餓に苦しむ餓鬼道(がきどう)に堕ちている。ご飯を供養してもすぐ火炎となり食べられない。釈迦に救いを求めると、釈迦は、犯した罪の根が深いので、多くの僧の修行の最終日の7月15日にご馳走をお供えすれば救われると話された。そして母は餓鬼道から逃れたという。
 釈迦はまた、孝心の誠を尽くし、7月15日に盂蘭盆の供養をささげれば、いま健在の父母の寿命は100年伸び、7世の父母も餓鬼道から救われる、毎年盂蘭盆会を営むことをすすめた。
 このように、お盆は現在ある父母、亡くなった先祖・7世の父母にその恩徳を感謝する日というのが、そもそもの由来となった。
 盂蘭盆経の教えは中国に広がり、7世紀には日本でも盂蘭盆会が営まれた記録がある。琉球ではいつから営まれるようになったのかはまだよくわからない。
 17世紀に琉球に来た浄土宗の袋中上人は、布教をするさい、お盆の由来である「盂蘭盆経」の教えを分かりやすくして念仏歌をつくったと考えられている。それが「継母念仏(ままうやにんぶち)」だという。「仲順流れ」などエイサー曲の原型がここにありそうだ。
     国場念仏エイサー 
           那覇市国場の念仏エイサー(第47回青年ふるさとエイサー祭り)

 親への感謝説く「継母念仏
 次に親への恩を歌う「継母念仏」(ままうやにんぶち)を見てみたい。「継親念仏」(ままうやにんぶち)とも言うところもある。
継母念仏」は、母親と先祖への感謝を分かりやすく説くため作られた念仏歌である。
 南風原(はえばる)町喜屋武(きゃん)のエイサー歌には「継母念仏」が残っている。長いので、原文ではなく、口語訳で紹介する。
 昔は、旧盆には6つの念仏歌が歌われていたそうだ。「継母念仏」「親ぬ遺言」「天地の世界」「大和の山伏」「仲順流れ」「親の御菩薩」だが、いまでは「継母念仏」しか残っていないという。
①3歳の頃には親を失って、5歳になったので親を思い出して、
 7歳になったので、親を探しに
②国中いたるところをめぐっても、わが親の姿はおがまれない、昔の長者に会ったので
③大主様、大主様、ちょっと待って下さい 
 子どもよ、なんで私を呼び止めるのか 子どもが呼び止めるとはただ事ではない
④お前のお母様はそう簡単には会えないよ、
 7月の七夕と中の10日には、あの世の七門が開くので
⑤阿弥陀七門が開くから、竹の管を沢山準備して、右の袖で顔を押し隠して
⑥左の袖で顔を押しはろうて、この竹穴から一目拝んだら、
 なんで母親上はこんなところにおられるのか
⑦わが子よ、なんでここに来たのだ、最近は親が妻をめとって
 継母にうつつして、我が身は苦しい
⑧我が身の命がもちません、私も母上と一緒になりたい、
 どうして愛しい子よそういうのか
⑨お前だけを跡継ぎにと産んであるのに、そういって授けてある、
 折り目折り目に湯水も供えてくれ
⑩正月には水のお初、7月にはお茶のお初、甘藷、なすびは飾り物
⑪茗荷(ミョウガ)やそんがん、飾り物、あの世の宝はみんぬくだよ、
 この後何をするかと思えば
⑫後生の剣の山を登るとき、これを撒いて渡るのだ、冬の霜立ちをただの雨と思うな
⑬愛おしい母上と涙と思え、蜻蛉(アケズ)が飛び回ったら母上と思え、
 蝶(ハベル)が飛び回ったら受け取れよ、
 南無阿弥陀仏は、弥陀仏 四八流れの念仏は、親の供養となる
(「南部広域市町村圏事務組合HP」から。少し手直しした。)
 
 母親を幼くして亡くして、父が後妻をめとり、後妻にうつつを抜かして子どもは冷たくされ、「我が身の命が持たない」という。母親を探しに行く。そして、最後には父母の恩への感謝と念仏による供養が歌われている。
「後生」は死後の世、来世を意味する。7月15日に盂蘭盆の供養をささげれば餓鬼道(がきどう)に堕ちている亡き母が救われるという。お盆の由来である盂蘭盆経(うらぼんきょう)の教えにつながっている。

 首里アンニャ(行脚)村に住んでいたというチョンダラー(京太郎)の伝承する念仏歌「継親念仏」を訳文で紹介する。喜屋武エイサー歌の「継母念仏」と大筋では同じである。
 3つの頃には親を(あの世に)戻して 5つの年には親思て 7つの年には親を探し求めて 国々様々廻れども 我が親に似る人拝まれぬ それから戻って元に着く 昔の大主前(爺さん)に行き会いて まず待って下されよ爺さんよ イャヨメの(不明)幼子が我を止める 我れがよしなにすることなれば 国々様々巡っても 我が親に似る人拝見できない どうか爺さんよ見せ給え 幼し童に頼まれて 汝が親常(まど)には拝まれぬ 7月7夕の中の10日 後生世の七紋(注・あの世とこの世の門)の開く時 管串沢山に切りためて 右の御袖にも押し籠めて 左の御袖にも押し隠して(注・糸を巻く管グシを左右の袖にたくさん貯めて) 管串の目(孔)から一目拝見し 面影心に溜め拝んで どうして母さんはそこに居られるのか どうして愛し子はここに来ているのか 最近父御が継母を婚めて 継母の母さんと交際が出来ない 内にし暗がりにしていなさる 悪欲段々(さまざま)に謀んでいなさる 我れも母さんと一道(一緒に)なろう どうして愛し子はそう言ってくれるのか お前一人(だけでも)この世界に立ててきた 元の屋形に押し戻って 茶湯湯の初々も祭ってくれ 物の初々も供えてくれ 蜻蛉(かげろう)になって来て受け取るよ 蝶になって来れば親と思え 夏の夏雨も(ただの)雨とと思うな 冬の霜掛けも(ただの)霜と思うな 朝夕母さんが涙と思え 親の意見事(教訓)はこれ程ぞ これ聞き識れ初の子よ ンー南無阿弥陀仏や阿弥仏 常に何事も物は親の為にぞなる
 (久万田晋著『沖縄の民俗芸能論―神祭り、臼太鼓からエイサーまで』から)
 
 前半では、母を探し求めて諸国を巡り、「亡母に会う特別の方法を教えてくれる大主前(老爺)の存在も重要である。この世とあの世(後生)を繋ぐ存在であり、後述する八重山のアンガマにおけるウシュメーとも存在のイメージが重なると思われる」(同書)
 「チョンダラーの伝える『継親念仏』は、沖縄において祖先供養・儀礼の始まりを説く起源説話としての性格に留まらず、日本中世の説話や物語と共通の性格を有する物語歌謡であると位置づけることができよう」(同書)
 久万田氏は、やはり沖縄だけでなく「日本中世の説話や物語と共通の性格を有する物語歌謡」と指摘している。
 



沖縄の民謡 | コメント:0 | トラックバック:0 |

エイサーと念仏歌の系譜、その2

  「長者の流れ」が変化したのか
 「仲順流れ」はもともと「長者の流れ」だった。それが変化したものではないかと言われる。
 伊礼信二郎氏が、明治28(1895)年発行した『念仏集』には、念仏歌謡13編が収められている。それは「山伏の流」「親の御恩」「継親念仏」「天神世界」「梅のだんぎ」「あの経」「春咲花」「ちやうしやの流」「歌念仏」「親の御菩提」「親念仏」「十時念仏」「拾三仏」である。
 これで「ちやうしやの流」は、「ちやうしや」とは「長者」のこと。歌い始めは「ちやうしやの流の七なかり おひてのちやうしやのいと草や 金のはやしの七はやし 銀のおもての七表…」とある。これは「仲順流れや七流れ 黄金のはやしや七はやし」という「仲順流れ」の歌い出しと似ている。それに、貧者の子どもが鍬を持ち野原を掘ると玉の金箱を掘り出す、箱を明ければ万貫の黄金が出て来るという話が展開する。これは、仲順大主の逸話とは少し異なるが、黄金を掘り出すという点では共通性がある。
「仲順流れ」は、この念仏歌が変化したものではないだろうか。
 具志頭村(現八重瀬町)安里のエイサー歌には、袋中上人が伝えた念仏エイサーが残っているという。
 念仏歌を初めて琉球に伝えたのは、中国へ渡ろうとして1603年、来琉した袋中上人であるとされる。
 『琉球国由来記』には「本国念仏者、万歴年間、尚寧王世代、袋中上人ト云ウ伝僧渡来シテ、仏経文句ヲ俗ニヤワラゲテ、初メテ那覇ノ人民ニ伝フ、是念仏ノ始也」とある。
 浄土宗の教えを分かりやすくして那覇の人民に伝えたという。
 
 民俗芸能研究者の宜保栄治郎さんはつぎのように指摘している。
 <長年、袋中上人が伝えた念仏エイサーがどこかに残っていないかと探し回った結果、八重瀬町安里に伝わっていることを突き止めました。 安里にはエイサー歌の「継親念仏」「親のご菩提」「親のご恩」「仲順流れ」「庭念仏」など、数十行からなる念仏歌が残っています。この歌と踊り方こそ袋中上人が「念仏を和らげて、人民に教えた」とする証拠です。(「週刊レキオ」「島ネタCHOSA班」2016年08月11日)>
 
 安里には「長者流れ」(ちょんぢょんながれ)がある。ここでは、仲順大主という名前はまったく登場しないで、この仲順大主にあたるところはすべて「長者」「長者大主」となっている。訳文で簡略に紹介する。
長者の流れは七流れ 黄金の流れの七流れ 年取ってしまった長者の計りごと 息子3人産んだけど 息子の本心を調べてみよう 長男息子よ 長者は老齢でどうしようもない 子はすてて私に乳を飲ませてくれ わが子は花のように咲きでる身だ 捨てるわけにはいかない 次男は長者よ死なば死ね 3男は親は二度とは拝めない わが子はすてて乳をあげよう 3本小松の下に掘って葬っておけ 3鍬振り下せば黄金の手箱が 銀の小判が拝見されて 長男、次男息子よ この様を見ろ 十代百代まで語り継がれるだろう 南無阿弥陀仏(『南島歌謡大成沖縄篇Ⅰ(下)』)
 これは、すべて仲順大主の逸話と同じである。それならもともとこの孝行逸話は、仲順大主固有のものではなく、長者の逸話だったのだろう。
      
 八重山にも念仏歌「ちゅんじゅんながり」がある。小浜島の歌詞は「すんざーぬながりぬ 七ながり」と始まり、31番まである。歌詞である長者の逸話は、ほとんど同一である。黄金を見つける場所が、池を掘り、底を浚い、池の底を見ると「白銀(なんじゃ)の宝が拝まれる 黄金(こがね)の箱が拝まれる」となっているのが異なるだけだ。 
 <八重山の『念仏歌』には「ちやうじやの流」とあり、「チョンジョンナガリー」ではない。「長者の流れ」だったのではないかと思う。宮良氏(宮良当壮)もそのように見ている。それが「仲順流れ」になったについては、それなりに理由があろう。音の似かよりにひかれて、この高名の仲順大主を長者とみなすようになったのだろうか(池宮正治著『沖縄の人形芝居』)。>
<この「仲順流れ」は、そのもとは「長者の流れ」(カッコ内は省略)であって、これが本来の呼称である。長者とは、長寿に恵まれた者にも、大金持ちにも言うもので、「長者の流れ」の長者はその二つを兼ねている。長者が、音の近よりもあって、「仲順」伝説と習合し、「子供の肝」タイプの説話をも取り込んだのである(池宮正治著『沖縄の游行芸』)>

 ルーツは中国の孝行譚
 「長者の流れ」が本来の呼称であると断定している。「長者の流れ」は、もともと沖縄の伝承があるのではなく、そのもとになる孝行譚がある。中国の「二十四孝」の「郭巨」の物語に由来すると池宮正治氏は指摘する。
 儒教の考えを重んじる中国で、孝行が優れた人物として24人を取り上げたのが『二十四孝』である。
 そのうち、郭巨(かくきょ)は、貧しさのため母が食を減らすのを見かね、一子を埋めようと地を掘ったところ、「天、孝子郭巨に賜う」と書いた黄金の釜を発見したという。(デジタル大辞典の解説)
 また、唐夫人(とうふじん)が、夫の母、姑に歯がないので乳を与えて孝行したという孝行譚がある。
 「子供の肝」は、父親が3人の子ども夫婦の孝心を試すため、孫の生肝を食べさせよという。2人の兄夫婦は断るが3男夫婦が承知し、子を殺す前に穴を掘ると金塊が出たという話である。これも仲順大主の逸話とそっくりである。
 池宮氏は、この「二十四孝(郭巨)」に「子供の肝」「二十四孝(唐夫人)」が合わさり「長者の流れ(尊者の流れ)」となり、それに「仲順大主伝説」が加わり「仲順流れ」となったと見ている。
 仲順大主が長者と呼ばれていたのだろうか。それに、長者と仲順は音読みが似ているので、長者という一般的な呼び名から仲順大主名に作り替えられたのだろうか。

 留意すべきは、古い念仏歌とみられる「長者の流れ」の中には、通常のエイサー曲「仲順流れ」にある「親の御恩」の要素がまったくないことである。これは、もともと「長者の流れ」には、なかった要素があとから付け加えられてものと見られる。 
 もう一つ、「仲順流れ」は「継母念仏」と同じ歌とされていたり、簡略化されたものという見方があることだ。でも、「仲順流れ」や「長者の流れ」と「継母念仏」は、もともと別の念仏歌である。親の御恩や孝行がテーマであるとしても、その内容はまったく異なるので、異名同曲と見ることはできない。簡略化されたものともいえない。


沖縄の民謡 | コメント:0 | トラックバック:0 |

エイサーと念仏歌の系譜、その1

 今年は、コロナ禍のもとで、沖縄の伝統ある綱引きやハーレーなどの行事、さまざまな祭りが中止や延期を余儀なくされた。その一つが、旧盆の際の地域青年会によるエイサーの道ジュネーも中止になったことだ。
 旧盆の間、先祖供養の意味を込めて「仲順流れ」(「仲順流り」が正確かもしれないが便宜上、この曲名に統一した)、「久高マンジュー主」などエイサーの曲を演奏した。併せて、日頃ほとんど縁のない八重山民謡の「無蔵念仏節」(んぞうねんぶつぃぶし)「念仏口説」(ねんぶつくどぅち)も練習してみた。八重山のこの曲は、旧盆の時以外は演奏してはいけないという。練習もダメらしいが、旧盆中だからわが先祖への供養を兼ねて練習してみた。
 演奏してみると、「無蔵念仏節」は、沖縄本島の「仲順流れ」に旋律が似ている。歌詞も少し似たところがある。これは、明らかに本島から八重山に伝わったと思われる。念仏歌は85調で歌うのが通常だという。
 聞くところによると、念仏歌は沖縄本島だけではなく、琉球弧に広がっている。この際、エイサーで歌われる曲と念仏歌謡について、学んでおきたい。

 エイサーで歌われる「仲順流れ」
 はじめに沖縄エイサーの代表的な曲「仲順流れ」を見てみたい。手元にある工工四(楽譜)では、次のような歌詞である。やはり85調である。
 仲順流れや七流れ 黄金のはやしや七はやし
 (仲順の川の流れは七流れ 黄金の林や七林)。
 仲順大主(ちゅんじゅんうふしゅ)や 果報な者 産し子(なしぐゎ)や三人
 産し出ぢゃち
 (仲順大主は幸せ者だ 可愛い子どもを3人産み育てた)。
 アケズ(蜻蛉)の飛ばば 親と思り ハベル(蝶)の飛ばば 母と思り
 (トンボが飛べば親と思いなさい 蝶々が飛べば母を思いなさい)
 父御(グ)の御恩や 山高し 母御の御恩や 海深し
 (父上のご恩は山のように高い 母上のご恩は海のように深い) 
 他にも次のような歌詞もある。
 生まれてぃ五歳(いちち)にゃ 母戻もどち 七歳(ななち)ぬ年にゃ 覚び出んじゃち
 (生うまれて 五歳で母を失ない 七歳で母を思い出し)
 国々様々 巡たんてん 我親に似る人 一人ん居らん
 (国々方々を巡っても わが母に似る人は 一人もいない)

 この歌詞以外に手元にないが、実際はもっと長いのかもしれない。
この歌詞は、二つの要素が入っている。一つは、仲順大主の伝承にかかわる内容である。もう一つは、個別の伝承とは関係のない親の恩への感謝である。
 北中城村仲順には「仲順大主」(ちゅんじゅんうふしゅ)の伝説があり、墓と歌碑がある。
    仲順大主墓 
           仲順大主の墓
 「琉球の最初の王は、源為朝の子と言われる舜天王と言われる。舜天王の孫に当たる義本王の代に、日照りと長雨が続いたために、徳がないとして王位を追われる。仲順大主は、その義本王の子孫と言われ、沖縄本島中頭郡中城の仲順に住んだと伝えられる長者。仲順大主を祀る御嶽が仲順にあり、位牌は仲順の安里家に祀られている」(遠藤庄治著「沖縄の口承文学における伝説の位置」)。
 伝承によれば、仲順大主は、とても徳の高い長者とされる。
大主とは、地域を支配者である按司(あじ)の家来の中の頭職のことをいう。仲順大主をめぐって次のような逸話が伝えられている。

 学者だった仲順大主は、妻を早く亡くした。3人の子どもがいた。財産を一番親思いの息子に譲りたいと思い、3人の息子を呼んだ。「私は年老いて物が食べられない。お前の嫁の乳を飲ませてくれ、子は捨ててくれ」と言った。長男も次男も「頭がおかしくなったのか、子は宝ではないか。それはできない」と断り出ていった。
 三男は「子どもはまた産めばよいが、親は一人しかいない。子を捨てて乳をあげましょう」と同意した。大主は「息子よ、子を捨てるなら東の森の三本松の下に三尺穴を掘って埋めよ」と言った。
 三男が、涙を流しながら穴を掘っていると、鍬の先に堅いものが当たった。小さなカメが出てきた。中には金が詰まっていた。大主が埋めたカメだ。大主は「ひどいことを言ってすまなかった。黄金はお前にやる」と言った。その後、仲良く暮らしたというお話である。 

 親への孝行の大切さ諭した内容である。親への孝養の徳を説くのが趣旨であるとしても、子を捨てよと息子に迫るのはちょっと残酷すぎる。沖縄では、子どもは宝であるというのは、現在でも共通認識である。沖縄に限らないかもしれないが。だから、この逸話について、次のような意見がある。
 <それが肉親としての普遍的な愛情によらず、上からの過酷な要求が下を犠牲にする形で展開されたために、きわめて人間的な反応をした嫁が退けられ、非人間的な盲従タイプの嫁が選ばれることになる。孝養の徳目だけが前面に打ち出され、子は金にも玉にもかえがたいという親の愛情が、長者にも嫁にも希薄になっている。極端に強調された孝養観ではあろうが、封建制下のいびつな人間性を見る思いである。(池宮正治著「沖縄の人形芝居」)>
 


沖縄の民謡 | コメント:0 | トラックバック:0 |

「スーリ東節」と「胡蝶の唄」は類似曲、その2

 次に「スーリ東節」を見てみたい。
 1、スーリー東(あがり)うち向(ん)かてぃ飛ぶる綾蝶(あやはべる)
 すーりさーさー しゅらさ はいや(以後、囃子は省略)
 (東に向かって飛ぶ美しい蝶よ)
2、スーリー先(ま)じゆ待てぃ蝶 伝(いや)い伝い我ね頼ま
 (しばらく待て蝶よ 伝言を頼みたい)
3、スーリ東 明がりば 墨習(しみなれ)が行ちゅん
 (東が明るくなったので 勉強しに学校へ行こう)
4、スーリ東 頭結(かしらゆ)うてぃ給れ 我親加那志(わうやがなし)
 (髪を結ってください 私の両親様)
5、スーリ東 立雲や世果報(ゆがふ)しにゆくゆい
 (東に立つ雲は 豊年を準備しており)
6、スーリ東 遊びしにゆくゆる 二十歳美童(はたちみやらび)
 (遊びを準備している 二十歳の娘さん)
7、スーリ 何がし綾蝶 紅葉に宿る
 (どうして美しい蝶は 紅葉した葉に止まるのか)
8、スーリ東 頼む花ぬ上や 嵐やたみ
 (頼りにする花の上は 嵐であったのか?)
9、スーリ 無蔵(んぞ)や牡丹花 我身や綾蝶
 (彼女は牡丹花 私は美しい蝶だよ)
10、スーリ 花ぬゆらりゆみ 我が忍で行ちゅさ
 (花が寄ることはできまい 私が忍んで行くよ)
11、スーリ 花に来て止まる 春ぬ綾蝶
 (花に来て止まる 春の美しい蝶よ)
12、スーリ 我肝(わちむ)うみとぅまり 無蔵が心
 (私の心留めておけ 彼女の心)
注・歌詞と訳文は「たるーの島唄まじめ研究」を参考にした。
     
 この曲と「胡蝶の唄」を比較してみると、女性は花、男性は蝶に例えているのは同じ。さらに、「花が寄ることはできない あなたが忍んで来てください」という例えも共通している。いずれも、元々の琉歌があり、それを歌詞に使ったのではないだろうか。
 
 「蝶小節
 「スーリ東節」と類似する曲に、琉球古典音楽の「蝶小節」(はべるぐあーぶし)  がある。次のような歌詞である。
 あがりうちむかて とびゅる綾蝶(あやはべる) 先づよ待て蝶 いやりわないたのま
 (東の方へ向かって飛び立って行く美しい蝶よ。ちょっと待ってくれ。ことづてをあなたに頼みたいから)
 注・勝連繁雄著『歌三線の世界』から(野村流工工四)。 
 
 「安冨祖流工工四」では、上記の歌に加えて次の歌もあるという。
 (すり)東り立雲や世果報しにゆくゆい(すり)遊しにゆくゆる二十才美童達
 (東の立ち雲は豊年満作を準備しており 遊びを準備する二十歳娘)
 注・「たるーの島唄まじめ研究」から。
     
 この二つの琉歌を見ると、「スーリ東節」の歌詞と内容が共通している。
 王府時代の曲として、「蝶」の名がつく曲はいくつもあるという。現存する最古の工工四(楽譜)とされる『屋比久工工四』には、「小蝶節」「蝶節」「矢蝶節」などがある。しかもややこしいことに、王府時代と現在では曲名の混乱があるという。
 <現在の工工四で「綾蝶節」とあるのは『屋比久工工四』の「小蝶節」(こはべるぶし)に当たり、「蝶小節」(はべるぐゎぶし)とあるのは「綾蝶節」に当たっていて、節名の混乱が起こっているのである(勝連繁雄著『歌三線の世界』)>
 <野村流古典音楽保存会工工四下巻本にある「一揚調の蝶小節」にあたるのは、『屋比久工工四』で「綾蝶節」とあるものであろう。…
 『屋比久工工四』の「綾蝶節」は、現在一般に「スーリ東節」と称している曲にあたるものだとおもうが、…野村安趙の『御拝領工工四』には、「綾蝶節」とともにすでに「蝶小節」の節名が見える。>

 つまり、古典音楽で現在「蝶小節」と呼んでいる曲は、『屋比久工工四』で「綾蝶節」とされている曲であり、それはエイサー曲として知られる「スーリ東(あがり)節」にあたるものだという。

 勝連氏は、「綾蝶節」(あやはべるぶし)を別に紹介したうえで、次のように指摘している。
 <『屋比久工工四』の「綾蝶節」と現在の「綾蝶節」とは旋律が全く違っているが、『屋比久工工四』の「小蝶節」と現在の「綾蝶節」と呼んでいる節とは、譜の類似性が非常に強い。>
 改めて、古典音楽の「綾蝶節」は、「スーリ東節」とは違う旋律であり、「蝶小節」が「スーリ東節」と類似の曲ということ。さらに、八重山民謡の「胡蝶の唄」「はべる節」とも類似の曲ということになる。
 ちなみに、「蝶小節」は、「一揚調とあるが、現在は一揚調にしてこの曲を演奏することはない」(同)という。しかし、八重山の「胡蝶の唄」は一揚調である。これは、古い一揚調の「蝶小節」が八重山に伝わり、そのまま一揚調で演奏する形を残しているということなのだろうか。

 国立国会図書館および歴史的音源配信提供参加館に「蝶小節」が収録されている。ところが、「鹿児島県 蝶小節」というタイトルになっている。1951年8月発売のコロンビアのレーベルで、作詞・作曲・編曲・実演家は、歌と三味線 川田松夫(沖縄県真和志村出身) 筝 儀間タケ(同) 太鼓 川田朝子(同)となっている。沖縄出身の川田さんだから、演奏したのは琉球古典音楽の「蝶小節」だと思うけれど、なぜ鹿児島県の歌になっているのだろうか。

 川田松夫は、戦争中、家族とともに鹿児島、宮崎に疎開していた。「疎開先の家でも唄・三線の音が消えたことはありませんでした」(川田松夫の3女、川田功子の証言)。鹿児島にいる時に収録されたのだろうか。
 奄美民謡にも「綾蝶節」がある。坪山豊さんの作曲と言うから戦後つくられた新しい島唄といわれる。動画を見る限り、奄美の民謡と言うより歌謡曲のような雰囲気のある歌である。大和に憧れてシマを捨てて海を越えて飛んでいく蝶 戻って来いよと歌う。沖縄の「蝶小節」などとは無関係のようだ。
花と蝶を男女の恋話に例えた歌は、森進一のヒット曲「花と蝶」が有名だ。「花が女か男が蝶か 蝶のくちづけうけながら 花が散るとき蝶が死ぬ」と歌う。

 以上、「胡蝶の唄」「スーリ東節」「蝶小節」を見てきた。この3曲は、旋律が似ていることや歌詞も「花と蝶」を題材にして似た歌詞であることから、互いに影響を受けて作られた曲だといえよう。ただ、どれが元歌なのかはいまいちよく分からない。年代的には古典音楽の「蝶小節」が古いのかと思う。ただ、「スーリ東節」は、歌詞がひとつの物語のようになっていて、あまり替え歌という感じがしない。
 この3曲の場合、旋律、歌詞の共通性があるので、元歌、替え歌の関係ではないかもしれない。あまり、どれが元歌なのかという詮索をするよりも、それぞれの歌を楽しめばよいということだろう。
 終わり


沖縄の民謡 | コメント:0 | トラックバック:0 |

「スーリ東節」と「胡蝶の唄」は類似曲

「スーリ東節」と「胡蝶の唄」は類似曲
  琉球放送のラジオ番組「民謡で今日拝なびら」を聞いていると、パーソナリティーの1人である若手民謡歌手のホープ、仲宗根創さんが、エイサー曲として知られている「スーリ東節」と八重山の「はべる節」は、もとは同じ曲だと言って、ナマ唄で歌ってくれた。
 そして「八重山の歌ですが、歌詞は琉歌です」と話した。「はべる節」と聞いた時、「あれっ、これは胡蝶の唄ではないか」と思った。あとで知ったが、「はべる節」と「胡蝶の唄」は同じ曲らしい。
 手元にある大浜安伴著『八重山古典民謡工工四』を見ると、たしかに歌詞は琉歌である。八重山民謡の歌詞は、多くは琉歌ではなく、歌詞の字数が揃えられていない。一番の歌詞を覚えても、2,3番と字数がバラバラで、歌詞をどのように旋律にのせればよいのか、とまどうことがしばしばである。
 ラジオでは、このあと「スーリ東節」をエイサーの実演の音源で流して聞き比べができた。なるほど、テンポは速弾きとエイサーのテンポで少し異なるが、旋律は似ている。とくに「スリサーサー シュラサ ハイヤ」という囃子は同じである。
 あとから見るけれど、沖縄本島の琉球古典音楽にも類似曲がある。これまで「琉球民謡の変容」で取り上げた曲は、八重山から沖縄本島に伝わり歌われたり、編曲し、歌詞もまったく変わって歌われている例が多かった。
 今回は、どうも八重山から伝わったのではなく、沖縄本島から伝わったのではないだろうか。
 それぞれの曲を見ていきたい。
      
 胡蝶の唄(こちょうぬうた)
 最初は、八重山民謡の「胡蝶の唄」を見ておきたい。八重山民謡では、珍しい一揚曲である。一揚げは他には「揚古見ぬ浦節」があるくらいだ。あとから紹介する琉球古典音楽の「蝶小節」も一揚調とされている。
 「胡蝶の唄」の歌詞は次の通り。
1、初春になりば押す風ん涼(しだ)しゃ 露受きてぃ咲ちゅる花ぬ 花ぬ美らさ 
 スリサーサー シュラサ ハイヤ(囃子は以下省略)
 (初春になったのでそよ風も涼しい 露を受けて咲いている花が美しい)
2、我んや花やとてぃ里前(さとぅめー)綾はびる 花ぬ寄らりゆみ里前 いもり忍ば
 (私は花、あなたは美しい蝶 花が寄ることはできない あなたが忍んで来てください) 
3、花にたわむりてぃ遊ぶ綾はびる 互に肝内(ちむうち)や 他所ぬ知ゆみ
 (花にたわむれて遊ぶ美しい蝶 互いの心のうちを 他人は知らない)
4、あん美(ちゅ)らさ 咲ちゅる花に肝(ちむ)引かり いちまでぃん 
 あかん別り苦しゃ
 (あのように美しく咲く花に心を引かれ いつまでも離れがたく別れは辛い)
5、花や咲ちしりてぃ黄葉(ちば)になるまでぃん 変わるなよ互に 元ぬ元ぬ心
 (花は咲き揃って 枯れ落ちるまでも 変わるなよ互いに もとの心を)
 注・この曲の作詞編曲は大浜安伴氏。最後の琉歌だけ「伊野波節」の琉歌である。
 歌詞の訳文は、「たるーの島唄まじめ研究」を参考にした。

 この曲は「八重山古典民謡工工四 下巻」にある。作詞と編曲は、大浜安伴と記されている。編曲とあるので、元唄があって、それをすこし作り変えたということだろうが、
 どこをどうかえたのか不明。いつごろ作られた曲なのかも不明。
 石垣島出身の唄者、新良幸人が歌っている動画がYouTubeにあるが、ここでは「パピル節」として歌っている。これは「胡蝶の唄」と同曲だと思う。

沖縄の民謡 | コメント:0 | トラックバック:0 |

「瓦屋節」由来をめぐってーー島袋盛敏氏の疑問、その3

瓦屋節」の由来の地はどこか
 「瓦屋節」に歌われた悲恋物語の舞台はどこなのか。夫ある人妻を見染めて妻にしたのは誰なのか。すでに見たように、主に二つの説がある。
 一つは、国場で瓦を焼いた渡嘉敷三良(トカシキサンラー)。もう一つは、涌田村で陶器を焼いた張献功(チョウケンコウ)である。結論からいえば、悲歌の舞台は国場ではないか、と私は思う。
 その理由は簡単である。
 その1。「瓦屋節」と歌われる通り、窯があっても、陶器ではなく、瓦を焼いていたことが第一条件となる。涌田村では瓦を焼いたのではない。
 (注) かつて涌田窯でも瓦生産がされていたことがあるという(小田静夫著『壺屋焼が語る琉球外史』)。けれどもこれは、朝鮮陶工の張献功が琉球に来る前である。だから、「瓦屋節」で歌われた瓦焼き職人を張献功とする説は、やはり成り立たないことに変わりない。
  IMG_4293.jpg
       墓のそばにある説明板

 瓦は、すでに16世紀に渡嘉敷三良によって製造が始まっていた。その数十年後に琉球に来た朝鮮陶工が伝えたのは、陶器であり、瓦ではない。歌の題名も「瓦屋」とされているし、故郷を眺めた場所も「瓦屋の頂」とされている。涌田村が舞台なら、もっと別の内容の琉歌となるはずである。
 その2。見染められた夫と子どものある女性は、豊見城の出身だと伝えられる。瓦屋の頂に登って真南の故郷を眺め、愛しい彼への思いを募らせたと歌われる。涌田村は、窯があったのは現在の県庁所在地付近だという。調査によって平窯が発掘されている。でも、この辺りは平地である。豊見城の方面を眺めるような見晴らしのよい場所ではない。遠方を眺めるには、かなれ遠くまで出かけなければならない。
 それに比べて、国場は、瓦を焼く窯のあったという真玉橋の北東側は、高台になっている。国場川と漫湖が眼前に広がり、豊見城はその対岸にあたる。とても展望がよいので、瓦屋原と呼ばれた土地に立てば、この悲歌に歌われた情景が目に浮かぶ。
 その3。国場には、いまも渡嘉敷家があり、子孫の方が住んでいる。「字国場では、今日でも唐大主(トウウフシュ)として敬われています」(墓の案内板)といわれる。国場には長い歴史が刻まれている。
 瓦屋原(カラヤーバル)と呼ばれる地があり、この付近は、瓦が焼かれていたので、昔は畑を深耕すると、黒い瓦片が出土したといわれる。
 その4。文献史料からみても、『琉球国旧記』は、瓦焼きの始まりは渡嘉敷三良であり、琉球に住み着き、国場に窯をつくった。妻を娶り子供も生まれ、子孫が王府の瓦奉行についたことまで明らかにしている。
 それに比べて、張献功は『琉球国旧記』でも、琉球に住み着き、製陶法を伝授し、子孫は製陶業を営んでいることは明記しているが、
肝心の妻子のことや瓦との関係など書かれていない。張献功以外に朝鮮から渡来して瓦を焼いた人物がいる可能性がゼロではない。だが、もしそういう人物がいたのなら、瓦屋節の歌に残るくらいだから何らかの史料、伝承があるはずだ。でも、それがないことから、朝鮮人陶工とは、張献功しか考えられない。
  以上のことから、「瓦屋節」の舞台は、国場だと結論付けたい。
           IMG_4289.jpg
    瓦屋節歌碑を説明する石碑

 付けたり。
 沖縄民謡だけでなく琉球古典音楽も学ぶようになって、瓦屋節を歌う機会ができた。だがとても違和感がある。それは、舞踊曲「瓦屋節之踊」として、「ナカラタ節」「瓦屋節」「ショウンガナイ節」と3曲がセットになっている。ところが、舞踊曲として歌う場合は、瓦屋節の元の琉歌ではなく、瓦となんの関係もない歌詞に変えていることだ。他の二曲も同じである。「15夜の満月だから美しい月を眺めよう」。こんな歌詞である。舞踊曲はこうなるもの、といわれればそれまで。だが、瓦屋節の踊りといいながら、月眺めがテーマなら、曲名は何の意味もないことになる。この曲を歌うたびに、なにか寂しい気持ちになる。
民謡の「瓦屋情話」は、瓦屋節の元歌を取り入れた新しい民謡であるが、瓦屋に嫁がされた女性の立場から描かれており、その心情が伝わってくる。歌うたびに、国場の渡嘉敷三良のことが思い浮かぶ。

 本題に戻る。瓦屋節の由来についての島袋盛敏氏の疑問は、とても正当なものだった。その疑問は、琉球に初めて瓦焼きを伝えた国場の渡嘉敷三良が瓦屋節の由来であることによって解決すると考える。



沖縄の民謡 | コメント:0 | トラックバック:0 |

「瓦屋節」由来をめぐってーー島袋盛敏氏の疑問、その2

 瓦焼きを伝えた渡嘉敷三良の墓

 渡嘉敷三良(トカシキサンラー)の墓は、那覇市牧志の緑ヶ丘公園の一角にある。公園は国際通り裏のパラダイス通りから行ける。といっても、場所がわからないままだった。公園の未整備地区は、古い墓地になっている。ナイクブ古墓群発掘調査が行われている。作業をしている人に「渡嘉敷三良の墓はどちらですか」と尋ねたが「わからない。事務所があるからそちらで聞いてくれ」という。
 そばにある事務所を訪ねた。「ずいぶん古い墓ですね」と聞くと、「こちらのお墓は、300年くらい前から戦後もまだ使っていました」という。三良の墓の場所をすぐに教えてくれた。
 墓は緑ヶ丘公園の整備が済んだ地域の端にある。小山のような琉球石灰岩を掘り抜いて造られており、石積みの墓より古い形のものらしい。入り口に次のような説明文が設置されている。
 「渡嘉敷三良は、16世紀に中国からやってきた瓦づくりの職人でした。永住して妻を迎え国場村に住み、その近くに窯を設けて瓦を焼きました。字国場では、今日でも唐大主(トウウフシュ)として敬われています。その技術は、子孫へと受け継がれ、四世の安次嶺親雲上(アシミネペーチン)は首里城正殿はじめ寺院等の瓦葺きに功績を挙げ、1762年照喜名良始(テルキナリョウシ)の代に、王府に願い出て家譜を賜りました。
 この墓は、1604年またはそれ以前につくられたと思われます。琉球石灰岩を掘り抜き、奥に遺骨を入れた甕などを安置する一段のタナ(棚)をけずり出してつくられています。このような構造は、アーチを主とした石積みによる墓室が登場する以前からの技法と考えられます。そのため、昔の技法をよく残すこの墓は、その変遷をたどる貴重な存在といえます」

 三良は妻を迎えて国場に住み、窯を造って瓦を焼いた、とのべている。


 
    IMG_4297.jpg  
               渡嘉敷三良の墓
 
 『訳注 琉球国旧記』(1816年)は「瓦工」の項で次にように記している。
 「故老の伝承によると、昔、中国の人が、わが国へ来て、深く国俗を慕って、故郷を思わなかった。国場村に住んで、遂に一婦を娶り、子供が生まれた。のち、真玉橋の東に窯を築いて、瓦器を焼いて、需(モト)めに応じた。そこで、御検地帳(注・慶長検地・1610年)で、この地を渡嘉敷三郎に賜ったといわれる。わが国の瓦の製造は、これより始まる。その子孫は、今もなお国場村におり、12月24日になると、謹んで祭品を供え、紙(銭)を焼いて、先祖を祭っている。これは、先祖からのしきたりである」
 それにしても、国場からは遠いこの牧志になぜ墓があるのだろうか?
 もしかして、当初この付近に住んでいて、国場に移って行ったのだろうか。まだ不明のままである。

 朝鮮陶工が伝えた陶器製造
 渡嘉敷三良の墓の近くに、もう一つ見逃せない墓がある。琉球での陶器製造の始まりと伝えられる朝鮮陶工張献功(チョウケンコウ)の墓である。近くにあると教えてもらったが、探してもわからなかった。発掘調査をしている事務所に戻ってもう一度、墓の場所を尋ねた。渡嘉敷三良の墓を教えてくれた職員は、現場に出ていたが、戻ってきて教えてくれた。
  三良の墓から数十メートルも離れていない。道路わきの木が茂ったところに、墓の入り口と小さな石碑が建っている。
 ここには何も陶工のことを説明する表示はない。だが、少し離れたところに、この付近の史跡の案内板がある。それによると、陶器製造は、17世紀であり、瓦焼きの始まりよりも数十年ほど後のことになる。
            

 朝鮮から陶工が連れてこられた経過と涌田村(現在の那覇市泉崎)で陶器づくりが始まったことを次のように記している。
 「琉球に帰化した朝鮮陶工張献功の墓。張献功は、もと一六(イチロク)といい、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、朝鮮から薩摩(現鹿児島県)へ連れてこられた陶工の一人。1616年琉球国側からの願いにより、一六・一官・三官の3人が琉球に渡り、国中に作陶技術を広めたという。その後一官・三官は薩摩に戻ったが、一六は懇請され琉球にとどまり、仲地麗伸(ナカチレイジン)と称し、涌田村(現那覇市泉崎)に家屋敷を下賜された。1638年7月12日死去(年齢不詳)」
     張献功の墓
『琉球国旧記』(訳注)は、次のように記している。
「万暦44年(1616)丙辰、尚豊王が世子でおわした時、命を奉じて薩摩へ赴かれた。この時、世子は請うて、高麗人(の陶工)三名、一官・一六・三官をつれてお帰りになり、わが国の人に製陶法を教えさせた。数年たって、二人はともに鹿児島へ帰ったが、わが国の人は、まだ製陶を知らなかった。一六だけがわが国にとどまって、わが国の民に(製陶法を)伝授した。遂に◆髻(カタカシラ、文字がない)を結って、名を仲地(ナカジ)といい、今にその子孫は泉崎村に居住し、常に製陶業をいとなんでいる。造った甕器を人々は高麗焼とよんでいる」
 
 新屋敷幸繁氏は「沖縄の人がみな陶工を知るようになったのは、この張献功の功である、とたたえられている」と指摘している(『新講沖縄一千年史上』)。
 豊臣秀吉による朝鮮への出兵・侵略のさい、各大名が多数の朝鮮人民を自分の領地に連れ帰った。その中に多くの陶工がいた。陶工を連れ帰った大名はなぜか九州の大名が多かった。朝鮮陶工たちは、その後の日本の陶磁器の発展に大きな貢献をした。
 薩摩に連行された陶工は、総計80名ほどにのぼる。 薩摩では、藩の保護も薄く、土地の住民から襲われることもあった。「九州の朝鮮陶工のなかで最も悲惨な道を歩んだのが、薩摩・島津義久に連行された陶工たちであった」(中里紀元著「九州の朝鮮陶工たち」、「洋々閣ホームページ」から)といわれる。
 この中の3人が沖縄に連れてこられたわけである。
 お墓は、残念ながら石碑に刻まれた文字がほとんど判読できない。無理やり日本に連行され、沖縄にまで連れてこられた朝鮮陶工の功績を伝えるために、渡嘉敷三良と同じような説明板をぜひ設置してほしいと思った。

 「瓦屋節」に歌われた伝承について、この朝鮮陶工、張献功が妻とした女性のことが歌われているという説がある。
 首里郊外を散歩していた張献功が美しい女性を見染め、ぜひとも妻にしたいと王府に願い出た。女性は人妻で子どもまでいたが、王府は陶器の製造技術を受け継ぐまで琉球にいてもらいたいので、彼女を夫や子どもと引き離して結婚させた。
 この説によれば、献功は涌田村で陶器を焼いていたので、瓦屋の頂に登って故郷を眺めたというのは、涌田村ということになる。そのように書いている人もいる。これについては、後から検討したい。

 瓦奉行(カァラブジョオ)
 中国の瓦職人や朝鮮陶工が琉球に来て、王府には瓦・陶器を統括する役職が置かれた。各地に窯場がおかれ、瓦や陶器の生産が発展したそうだ。
 1682年には、かつて美里間切の知花村、首里の宝口、那覇の湧田の計三カ所にあった製陶所を、現在「やちむん通り」で有名な那覇市壺屋の一カ所に移住させたと伝えられる。
『琉球国旧記』(訳注)には次のように記されている。
 「『汪氏家譜』によると、万暦年間(1573-1619)、尚永王の御時、汪氏小橋川親雲上(ペーチン)孝韶が瓦奉行に任ぜられ、瓦ならびに焼物などの項を総管した。中頃になって、焼物奉行(ヤチムンブジョオ)を分置した。現在は、また総管している《昔、壺屋(製陶所)は、美里間切の知花村、首里の宝口、那覇の湧田の計三カ所にあった。康熙21年(1682)、壬戌、牧志村の一カ所(壺屋)に移住せしめた》」。
 
 これによると、当初は瓦奉行が瓦と焼物を含めて統括した。それを、焼物は別に焼物奉行を分置したというから、それだけ生産も増大したのだろう。
 製陶所を壺屋にまとめたというが、まとめた製陶所の中には国場の瓦焼きは含まれて
いない。瓦は国場で焼いたということだろう。
 王府に瓦奉行が置かれたということは、瓦の生産と使用は、王府が深く関わっていたことを意味する。
「琉球諸島において瓦が王権と強い結びつきを持っていた。そして様々な制度が定められ、王府主導による瓦の統制が行われた」
 「琉球王府が瓦に関する諸制度を整備し、生産と使用を統制していたことは明らかである…瓦を含めた窯業生産を王府が管理していたと推察される」「王府は生産だけでなく消費も統制していたことが知られる」
「琉球諸島では瓦の使用は権力者と関係の深い諸施設と宗教関係施設に限られており…瓦葺き建物は王権と関わる象徴的な性質を持ち続けてきたといえるのではないだろうか」(石井龍太著「瓦と琉球~王権、制度、思想、交渉~」)
 
 首里城の正殿はそれまで板葺きだったのが、1670年瓦葺きになった。それにあたった安次嶺親雲上(ペーチン)は、渡嘉敷三良の4世だ。安次嶺親雲上は首里城正殿はじめ寺院等の瓦葺きに功績を挙げ、1762年照喜名良始(テルキナリョウシ)の代に、王府に願い出て家譜を賜った。
 瓦は、首里城だけでなく、その後、社寺仏閣、貴族屋敷、士族屋敷、各間切番所(今の町村役場)に赤瓦が用いられた。庶民の瓦葺きは禁じられていたという。
 王府時代は、「カラヤー」と呼ばれる専門家が瓦製造と瓦葺き作業を担っていたそうだ。カラヤーは重要な仕事だった。


沖縄の民謡 | コメント:0 | トラックバック:0 |
| ホーム |次のページ>>