レキオ島唄アッチャー

もっと評価されてよい島津久光、「暗愚の公子」か

 NHK大河ドラマ「西郷どん」は、名君島津斉彬(なりあきら)が亡くなり、異母兄弟の久光が藩主ではないが「国父」として薩摩藩の指導者として登場している。西郷隆盛とは仲が悪かったといわれ、西郷が主役のドラマでは、久光が悪者に描かれるのではないかという心配の声が出ている。すでにあまり賢い人物とは描かれていない印象である。これまでとかく、久光は斉彬と対比され、「暗愚」「田舎者」「保守派」「野心家」などという噂がつきまとう。
 「西郷どん」は毎回楽しみにして見るので、少し薩摩藩についての歴史本を読んでいる。それで感じるのは、これまで久光に持っていた印象とはかなれ異なること。彼が藩の指導者として、よく考えた判断をしていたのではないだろうか、と思うところがある。島津久光が歴史上に果たした役割はもっと評価されていいのではないか。そんな感想をもった。
 

NHKの注目される企画

 NHKは大河ドラマ「西郷どん」を放送していることと関連して、薩摩藩の歴史にかかわる企画を何回か放送しているが、とくに島津久光に注目した企画が目に付く。
 BSプレミアム201814日「英雄たちの選択 ここに始まる~島津久光率兵上京の決断~」は、「西郷、大久保らを中心に語られてきた幕末史が大きく書きかえられようとしている」として久光の率兵上京の決断に焦点をあてていた。NHK総合201852日「歴史秘話『西郷隆盛をつくったふたりの上司』」として、久光と藩重臣・桂久武を取り上げていた。久光が西郷とただ敵対したという視点ではなく、西郷に厳しく対処することによって西郷を育てていったという観点からの企画だった。

 NHKEテレ2018年6月5日「幕末動乱の処世術 島津久光 自分の器を自覚せよ!」は、次のように指摘していた。

<斉彬から薩摩と「日本」を託され、難しい時代のかじ取りを担った久光。斉彬のようなカリスマ性はなかったものの、対立する意見の落とし所を的確に見つけ出す「調整型リーダー」として手腕を発揮した。>

これらは、幕末史における久光の役割と功績を再評価しようとするものとして注目した。

では、久光がどのような人物であり、どのような役割を果たしたのか、実際の歴史の流れの中で、総論的にではなく、いくつかのポイントに絞って見てみたい。


      島津久光像、原田直次郎筆 
         島津久光像
 

「暗愚の公子」なのか
 島津久光は藩主斉興(なりおき)の5男で、母は側室お由羅の方である。長兄斉彬のほか兄3人・弟3人がいたが、斉彬を除く男兄弟がすべて早く亡くなった。安政5(1858)年、斉彬が急死し、「その遺言により異母弟の久光の長男忠義(茂久)が薩摩藩主となった」(『鹿児島県の歴史』)。

蘭学を好み開明的だった斉彬に対し、久光も学問好きで、和漢の学に通じて、博覧強記の人だったとされる。斉彬は久光の能力をどのように見ていたのだろうか。

「斉彬は久光を有能なブレーンとして信頼していた」(市村哲二・黎明館学芸専門員、нHKテレビ「歴史秘話ヒストリア」201852日放送「西郷隆盛をつくったふたりの上司」)
 「斉彬は久光の資質を高く評価し、かつ藩政に関しても相談していたから、両者の信頼関係は確か」だった(佐々木克著『幕末政治と薩摩藩』)。
 斉彬は、久光を高く評価していたようだ。

 

 斉彬の後継者について、遺言は必ずしも忠義一本ではなかったともいわれる。佐々木克氏は次のようにのべている。
 <斉彬は遺言で山田壮右衛門に、長男の哲丸が幼いから、後継者は異母弟の久光か、久光の長男忠徳(又次郎、当時19歳、注・のちの茂久)かどちらかを、前藩主で隠居して当時江戸に居た斉興に相談して決めるように伝えた。
 なお遺言に関しては、託された証人の一人である新納久仰も記録を残しており、この記録では、後継者は又次郎(忠徳)を第一とするという遺言であったとしており、先の山田壮右衛門の記録とは少しニュアンスが異なるが、しかし斉彬が後継者候補として又次郎に比重をおいて考えていたことを示していると判断してよいであろう(『幕末政治と薩摩藩』)。>

  勝田孫弥著『大久保利通伝』の記述によれば、「久光は学問もあり見識は優れ、気節のある有能な人材であったけれど、自ら世を避けて、退隠したような生活を送っていたため、久光の人となりを知って、正当に評価する者がなく、暗愚の公子と評価されていた、ということである」(佐々木克著『幕末政治と薩摩藩』)。
  (注)藩主となった島津忠義はその時期によって名前が異なる。以下のように名乗っていた。「幼名
壮之助。通称又次郎。元服後の初名は忠徳(ただのり)だったが、藩主在任中は茂久(もちひさ)を名乗る。なお、忠義は維新後の慶応4年(1868年)1月16日に改名した諱(いみな)である」(ウィキペディア)

  久光はなぜ藩主にならなかったのか。
 <斉彬の時代には、藩内における久光の評価は、かんばしいものではなかったであろうから、それらの点をわきまえて、久光は自ら後継者となることを、斉彬の重臣の前で辞退する意志を表明したのではなかろうか。新納の記録は、以上のような事情が反映されていると見てよいであろう。後継者をめぐる争いを避ける意味でも、久光のとった態度は、賢明であったと評価できるであろう。御家騒動の記憶は、まだ鮮明だったのである(佐々木克著『幕末政治と薩摩藩』)。>



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「ジョン万次郎と西郷隆盛」テーマに講演

 沖縄ジョン万次郎会総会が5月20日、豊見城市社会福祉協議会ホールで開かれた。総会の後、守部喜雅氏(歴史作家)による「ジョン万次郎と西郷隆盛」と題した講演が行われた。

 守部氏は、クリスチャン新聞の編集部長を務めたジャーナリスト・作家である。講演は「日本の最初の国際人」であるジョン万次郎の精神性が世界に誇れるものであるとの視点から話された。講演の要旨は以下の通りである。

 西郷と万次郎は文政10年(1827)生まれで同じ年に生まれた。万次郎の子孫、中浜京さんは「万次郎が残してくれたものは隣人愛です」とのべているが、西郷も同じである。内村鑑三は、西郷の政治は二流だが、内面性は世界の誇れる、それは隣人愛であるとのべている。

 
  第
30代米大統領のクーリッジは、万次郎の帰国はアメリカ最初の大使を日本に送ったに等しい、彼がアメリカの姿を知らせたのでペリーは友好的な扱いを受けたとのべている。

 西郷は、万次郎が琉球から薩摩に連れて来られて島津斉彬と会った時はまだ会うのは難しかった。10数年後、久光により薩摩に招かれて航海術や海外情報など教えた際は、万次郎と会っていただろう。

 西郷は、1868年、鳥羽伏見の戦いを境に考え方が変わった。会津藩、庄内藩との戦いで、降伏した庄内藩主を2年間謹慎だけの「愛と許し」を実践した。日本の精神史になかったことである。

 勝海舟と万次郎が行ったという200年の歴史ある東京のうなぎ屋を訪れた。万次郎は一人で来る時は、いつもうな重を半分残して土産にしてくれと言う。「ケチな人」と見られたが、実は橋の下に住む貧しい人々に与えていた。弱者につねに寄り添う人だった

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 西郷は聖書に出会い人生観が変わった。遭難した万次郎を助けたホイットフィールド船長は敬虔なクリスチャンだった。万次郎を学校に入れ、教会に連れて行き、聖書をプレゼントした。日本に帰る時、聖書を持っていなかったのは、キリスト教が禁止され迫害されていたから。万次郎が長崎で牢獄に入れられたのもキリシタンの疑いを持たれたから。

 下田市の了仙寺(りょうせんじ)に万次郎が親しい人に贈った扇子に英語で文字が書かれている。訳すると「私は聖書を読めたおかげで今日の光栄を受けた。神を歌い続けよ、永遠に」。彼の内面性が出ている。「隣人愛」を大切にし、それに生きた人だった。

 万次郎の晩年は寂しかったが、最後まで弱い人に寄り添う生き方をした。多くの偉人が出ているけれど、このような精神性を持った人を他に知らない、私たちも学びたい。

 西郷と万次郎を, 精神性という新たな視点からとらえた講演だった。

 

 


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「開国に導いた男、ジョン万次郎シンポジウム」開く

 「開国に導いた男、ジョン万次郎シンポジウム」と題した講演会が11月20日、糸満市の農村環境改善センターで開かれた。主催は、NPO法人ジョン万次郎上陸之地記念碑建立期成会。
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 万次郎は1851年、アメリカから帰るにあたって、琉球国大渡浜(旧摩文仁間切小渡浜)に上陸した。その上陸地に記念碑を建設しようと活動する同期成会は、会長の上原昭氏が今年6月の糸満市長選挙で当選し、記念碑建設の機運が盛り上がっている。
 講演会では、市長である上原会長が主催者あいさつした。
 第1部の基調講演では、高知県出身の万次郎研究者、北代淳二氏が「万次郎と咸臨丸―秘められた歴史貢献」と題して講演した。
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 北代氏は、咸臨丸は1860年(万延元年)、最初の遣米使節団が乗った米軍艦ポーハタン号の随行船として太平洋を渡った。万次郎は、勝海舟や福沢諭吉らとともに通弁主務として乗船したこと。しかし、ホワイトハウスでの日米修好通商条約の批准書の交換式には万次郎は出ていない。それは、万次郎が帰国し幕府に呼び出されたが、水戸の徳川斉昭が万次郎はアメリカに恩義があり通訳につけるとアメリカのためにならないことは言わないのでは、と主張し、ペリーとの交渉の際、出席させなかった。万次郎の情報や知識は尊重しながら、要注意人物と見られたことが最後までつきまとったとのべた。
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 咸臨丸は「日本開闢以来初の大事業」とされ、勝や福沢は、外国人の手を借りずアメリカに行ったのは「日本の軍艦が、外国へ航海した初めだ」(勝著『氷川清話』)とのべているが事実ではないと指摘した。
 咸臨丸には、99人の日本人と米海軍の命令でジョン・ブルック大尉と10人のアメリカ人乗員が航路案内役として乗船した。1960年に「ブルック大尉の日記」が公になり、咸臨丸の真実が明らかになった。そこでは「万次郎はこれまで会った中で最も素晴らしい男の一人だ。彼が日本の開国にほかの誰よりも大きく関心を持っていた」とのべている。
 北代氏は、咸臨丸の船上は、「日米異文化交流の実験場で、命を懸けた共同作業だった。日米双方のコミュニケーションが万次郎の重要な役割だった。日米の理解が深まった」とのべた。
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 その後、勝は江戸城無血開城、福沢は啓蒙学者として名をなしたが、「万次郎は通訳という黒子の仕事をして、帰国後も歴史の表舞台に出ることなく、自分の果たした役割を語ることなく歴史の舞台から去って行った」とのべた。
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 第2部では、北代氏のコーディネーターのもと、パネリストとしてジョン万次郎研究家の當眞嗣吉氏、糸満市教育委員会総務部長の神谷良昌氏、万次郎研究家の長田亮一氏、糸満市長の上原昭氏が報告した。

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万次郎が琉球初上陸したのは伊平屋島、その3

 「ウランダー・マンジラー」の伝承がある久米島 
フランクリン号の捕鯨航海が終了し、フェアヘブンに戻った万次郎は帰国計画の実行を決意する。上陸用の小型ボート、航海用具(コンパス、六分儀)、図書類を購入し、サラボイド号に搭載し琉球に向かう。
 万次郎は1851年正月、琉球の摩文仁小渡浜海岸に上陸した。
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 薩摩「在琉使番上申書」で万次郎は「ここは親切なところと聞いているので、必ず役人がいるはずである」と言っている。筆者は次のように解釈したい。
 万次郎は欧米でベストセラーになった「ライラ号大琉球島航海記」を読んでいる。「ここは親切なところ」とのべているのは、ライラ号航海記の琉球の人々との親切な交流とブロートン航海記(英国を1794年、ブロビデンス号で出航し琉球にも立ち寄った)の引用部を前提にしていると思っている。
ま た、「必ず御役人がいるはず」と述べているのは、ライラ号航海記の「通事、役人」が小舟で艦を訪れた事例を前提にしている。さらに先にフランクリン号で上陸したマンピゴミレ(伊平屋島)と島名不詳(久米島)の島での島役人も頭にある。 
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                   万次郎が上陸した小渡浜
 波乱万丈のジョン万次郎を日本へ帰国させた心優しき琉球の人々と高安家の皆様を思い、筆者はグレート・ルーチューに生まれた事を誇りにしている。
 万次郎は偉大なる航海士であり、英語を普及させ、幾多の教育者に励みを与え、幕末と明治の若者達に希望を与えた。万次郎の生涯は歴史の偉大なる断面史である。
 要約は以上で終わる。
 
 當眞氏の「船乗りと海からの視点」と航海記の分析によって、長く疑問となっていた「マンピゴミレとはどこの島なのか」という謎が、解明された。
 ただし、その解明によって新たな謎も浮かんでいる。というのは、當眞氏ものべている通り、「マンピゴミレ」は伊平屋島であることは確かであるとしても、万次郎が上陸した際の状況と王府側の記録「球陽」の伊平屋島への異国船の来航と上陸の記述に相違があることである。上陸した人数や島で提供を受けた物資の種類などである。この違いを當眞氏は、久米島の伝承から、久米島にも上陸したと解釈している。
 「ウランダ・マンジラー」という万次郎を想起させる久米島の伝承は、とても興味深い。万次郎の名前を思わせる伝承があるのは、久米島だけではないだろうか。万次郎が上陸した可能性は確かにあるように思う。
 ただし、問題は万次郎側の資料には、琉球の二つの島に上陸したという記録がないことである。當眞氏が指摘するように、参考にしたと思われるバジル・ホールの海図に久米島の表記がないから書けなかったという理解もありうる。それでも、二つの島に上陸したことが事実なら、隠す必要はないので、二島に上陸したことを記録することが自然ではないだろうか。なお興味は尽きない。
 
 私的には、もう一つとても興味があったのは、万次郎が上陸地として琉球を選んだのは、琉球についてかなり的確な知識を持っていたからであるが、アメリカでそのような情報をどのようにして入手したのかということだった。
 當眞さんの研究で、バジル・ホールの航海記などを読んで情報を得ていたことを論証されたので、とても納得ができた。日本に帰ることを準備していた万次郎にとって、この航海記は重要な情報源となっただろう。
 また、「マンピミレ」島に上陸した目的は事前調査だったという指摘も、うなずける。「航海記」などから得た情報だけではなく、実際に上陸して自分の目と耳で確かめることが必要だと考えたのだろう。
 こうした情報と実際の上陸体験をもとに選択した琉球上陸が、その後の万次郎がたどった経過と結果からみて、とても正しい判断だったことがわかる。ここでも、万次郎の聡明さ、判断の的確さがうかがえる。そんなことを感じた次第である。
        終わり          文責・沢村昭洋

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万次郎が琉球初上陸したのは伊平屋島、その2

 中浜万次郎は、ホイットフィールド船長の友人、アイラ・デービス船長の誘いで捕鯨船フランクリン号に乗船する。職種は「スチュワード」で、この職を「給仕」と当てたのは語訳である。「船長補佐」又は「見習航海士」として乗船させたと思われる。
(フランクリン号で航海中、1847年4月末に琉球のマンピゴミレ島に上陸し牛2頭をもらったとされる)
 フランクリン号で訪れた「マンピゴミレ島」は、結論は伊平屋島である。
 「マンピゴミレ」についてこれまで異説まちまちである。バジル・ホールが図1に示す伊平屋島を含む近接5島をМontgomery列島と命名していることから、この列島の一つに該当するものと考えた。 
                      バジルホール艦長(外国人来琉記)
              バジル・ホール艦長(山口栄鉄編訳・解説『外国人来琉記』から)
 当時、琉球王府の記録で有名な史書「球陽」に様々な出来事が記載されている。尚泰王即位元年戊申(1848年)3月25日(旧暦)欄に次の記載がある。
 「伊平屋島野甫・島尻両村の西方洋面に夷船1隻の到来する有り。夷人28名、杉板(サンパン)4隻に分かれて浜に上陸した。牛、ヤギ、豚、鶏、ネギ、麦等を比勢(ゼスチャー)し、所望した。これを送給したところ、島人固辞するも遠見鏡と剃刀をもって儀礼と致し、浜に置いた。船形・風貌・阿蘭陀入船の図と似たり」(大意)となっている。
 ここで阿蘭陀人はオランダのことではなく、当時、西洋異国人を形容して「うらんだー」としていた。万次郎を含むフランクリン号28名の総員上陸であった。琉球も鎖国体制下の薩摩の一部として恐怖心を抱き、日本人・万次郎の身柄拘束、緩急あれば立ち向かう為の乗組員の支援体制と考える。

 さらに「球陽」には7日後、「4月初4日、久米島仲里郡儀間村の洋面に夷船1隻到来する有り。夷人7名杉板で上陸した。ヤギ、草料(野菜)を所望したのでこれを給す。船形、風貌、阿蘭陀入船の図に似たり」と記している。7名で交換の物品を出していないのが異なる点である。
 「球陽」をみると、久米島には頻繁に異国船が近づき食料を調達している。この記録はおとなしく、前後の記録にはかなり荒っぽい振まいが記述されている。上陸人数、調達数量、交換の物品等が合わず、上陸した小島は伊平屋島と久米島の2島あったと想定した。

  平成24年、沖縄ジョン万会の大城光盛会長は重要な史実を久米島で発掘した。島の古老達が「ウランダー・マンジラー」なる若者が上陸した伝承があると言う。「球陽」には上陸者の個人名は記述しないのが普通である。伝承として個人名が残った事実から、万次郎と島の人の間に何らの会話が成立し、特に王府か送られたら島役人は「土佐」という国名も承知していても不思議ではない。ヤギや野菜の調達はごく少量で島人の激励の「おみやげ」と考える。
 万次郎の目的な事前調査である。ライラ号の記述と同様に心暖かい人々であると確認したであろう。事前上陸が2島あった事が島名特定に各説まちまちの理由の一つと考える。さらにライラ号で作った海図には久米島がない。島名がないので言い様がないのである。(事前調査によって)万次郎の帰国上陸地点は「琉球」で決まりであろう。なお、「マンピコシン」の表記は毛筆写本の運筆上、「ミレ」を「シン」とする単純な転写ミスと考える。

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万次郎の琉球初上陸は伊平屋島、その1

 万次郎の琉球初上陸は伊平屋島

 中浜万次郎が10年ぶりにアメリカから帰国するにあたり、琉球に上陸する前に、一度捕鯨船フランクリン号で琉球付近を航行し、マンピゴミレという島を訪れたといわれるが、その島はどこなのか定説がなかった。この問題で、沖縄電力元会長で万次郎研究者の當眞嗣吉(とうまつぎよし)さんが、注目される研究成果を発表された。
 このブログでも、第4回ジョン万サミットin沖縄&第10回ジョン万次郎講演会の模様を伝える中で紹介した。この問題で、私も勝手な推測をブログに書いたが、當眞さんの研究は新しい視野でこの問題を解明したもので、重要な提起だと思うので、詳しく紹介しておきたい。
 當眞さんの論考は、高知県の郷土史研究の雑誌『土佐史談』の「中濱万次郎特集」で掲載されたものである。筆者は、小学生時代に一度「万次郎病」にかかったそうで、学生時代に若干の海上生活と造船所生活の体験があり、船乗りと海からの視点も加えて研究されている。 
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                        講演すr當眞氏
 當眞さんは、万次郎の帰国計画は相当に練られている、として、琉球王国の事情、民情、使用海図について「ライラ号大琉球島航海記」を著したバジル・ホール艦長の見た琉球像に求めたことを中心に見解を示している。島の名もこれまで「マンビコシン」と呼ばれていたが、當眞氏は毛筆写本の運筆上、「ミレ」を「シン」とする単純な転写ミスと考えている。
 以下その要約である。
 
 19世紀の初頭(1816年)、英国海軍の2隻の帆船が琉球・那覇港に来航した。両艦は渤海・黄海および朝鮮半島の測量を進めながら琉球に向かう。測量によって位置や形状を確定し、島々に英国風の名称をつけている。両艦は英国での航海日程の計画時に明確に琉球島と付属する島々の調査・測量を意図していた事が伺える。両艦それぞれの航海記が帰国後に直ちに出版されている。
 「ライラ号航海記」の著者は27歳の若き艦長のバジル・ホール海軍大佐である。同航海記は初版発刊後、ベストセラーとなり、米国フィラデルフィアでも発刊された。この航海では朝鮮西岸、琉球の多数の島々が西欧風に命名されている。 
                     マンビコミレ
              図1バジル・ホールの海図にある大琉球島
 航海記にはいくつかの海図が添付されている。同書の琉球島の海図(図1)には「マンピコミレ」(万次郎が上陸したとされる島名)と一字違いの「マントゴミレ(Мontgomery)」が出てくる。英訳「漂巽紀畧」(ひょうそんきりゃく、土佐藩の画家・河田小龍が万次郎の語る異国の話しに驚愕し書き上げた著作)の万次郎のルーチュー島(琉球)の海図を示す(図2)。島の形が良く似ている。拡大してバジル・ホールの海図と合わせてみるとピッタリ重なる。 
                     マンビコミレ (2)
                      図2 万次郎のリュウチュー図
 バジル・ホール海図の英文表題にも注目している。大琉球島はグレート・ルーチュー(GREAT LOOCHOO)の英文スペルである。万次郎は後にホイットフィールド船長宛の英文の手紙でルーチューという地名を2箇所で使っている。最初のスペルは(Great Loo Choo)である。万次郎はフェアヘブンでの勉学中にライラ号航海記を読んでいると思わざるをえない。
 アルセステ号は深刻な水漏れをおこして、両艦は那覇に停泊する。艦隊側の琉球側の印象は次の内容で代表される。
 英国水兵の傲慢な優越感は「琉球では、地上で最も平和的人々の温和な態度と親切な行為によって、完全に静まり柔げられた…日一日と友情と誠実が増して行った」


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ジョン万次郎講演会とサミット開く

 第4回ジョン万サミットin沖縄&第10回沖縄ジョン万次郎会講演会が9月12日、豊見城市中央公民館で開かれた。新聞、テレビでお知らせしたこともあり、会場いっぱいの参加者で関心の高さを示した。
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 歓迎アトラクションでフォレスト混声合唱団が「芭蕉布」などを披露した。団長は前夜祭でカチャーシーを演奏した高安勝利さんだった。「鼓衆しんか」は創作エイサーを勇壮に舞った。
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 講演会では、大城会長あいさつ(代読)、宜保豊見城市長の祝辞、万次郎直系、5代目の中浜京さん、土佐清水市の泥谷(ひじや)市長の来賓あいさつがあった。
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 京さんは、万次郎がアメリカ文化とデモクラシーをもって帰って来たことにふれ、「お互いに思いやる心があれば国家を超えた友情を持ち続けることができると思います」とのべた。
 
 講演は、高知県で発行されている『土佐史談』の中浜万次郎特集号に沖縄から執筆したお二人が演壇に立った。とっても聞きごたえのある充実した講演だった。
 糸満市教育委員会総務部長で万次郎研究者の神谷良昌氏は「ジョン万次郎・琉球上陸の真実」と題して話した。
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 神谷氏は、万次郎が捕鯨船に救助された当時の捕鯨の実態やアメリカでの留学と帰国の準備にも触れながら、琉球に上陸した万次郎をなぜ那覇に入れず豊見城間切翁長村に滞在させたのかを詳述した。当時、英宣教師ベッテルハイムが那覇に滞在してることは幕府に秘密にしており、彼と会せることが危険と考え、遠い翁長村に戻したこと。王府の通事で万次郎の取り調べにあたった牧志朝忠が『ジョージ・ワシントン伝記』を借りて読み、大統領制度と民主国家の仕組みを理解した。2年後に琉球に来たペリー提督が那覇に石炭貯蔵庫を作りたいと申し出た際、「海岸に貯蔵庫をつくることはできない」と「ノー」と断った。万次郎の教えのおかげだと指摘した。琉球人が米軍に歴史上最初に「ノー」と言い切った瞬間だったとのべた。

 沖縄電力元会長の當眞嗣吉(とうまつぎよし)さんは「『バジル・ホール館長の琉球』とジョン万次郎」と題して話した。有力企業の経営者がなぜ万次郎なのか。當眞さんは、小学生で万次郎に魅かれ、この数年前から「万次郎病」が再発して研究してきたという。
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 万次郎が琉球上陸する前に、捕鯨船フランクリン号で訪れた琉球のマンビゴミレとはどこの小島だったのかをテーマに解明した。19世紀初頭に琉球に来航した英国海軍のアルセステ号、ライラ号の航海記録と海図を分析して、琉球島の海図には「マンビコミレ」とは一字違いの「マントゴミレ」が出ていること。当時ベストセラーとなったライラ号の航海記を万次郎は読んでいると思われることなどから、マンビゴミレは伊平屋島であると結論づけた。ただ、琉球側の記録とは異なる面があり、久米島に「ウランダー・マンジラー」(ウランダーは外国人の総称)なる若者が上陸した伝承があり、上陸した小島は伊平屋島と久米島の2島と想定した。上陸目的は事前調査であり、心暖かい人々であると確認したであろう。万次郎は、ライラ号など航海記を読み、マンビコミレ、久米島にも上陸してみて、「琉球に上陸して大丈夫だと考えて上陸したに違いない」とのべた。 
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 このあと第4回ジョン万サミットin沖縄で土佐ジョン万会をはじめ各地で活動する団体から活動報告。その後大交流会があったようだが、残念ながら別の用務と重なり参加できなかった。
 
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「ジョン万次郎物語」、21年ぶりに船長と対面

  ホイットフィールド船長と21年ぶりに対面
中浜万次郎は1870年8月、普仏戦争視察団の一員に選出された。薩摩の大山弥助、長州の品川弥次郎、土佐の板垣退助など、そうそうたる顔ぶれで編成された。視察団は太平洋を横断し、大陸横断鉄道でニューヨークに到着した。
 万次郎は30日朝、ホイットフィールド船長宅を訪問するため汽車でフェアヘブンを訪れた。21年ぶりの対面に胸がつまりしばらく言葉も出なかった。家族全員が揃い、夜明けまで思い出の話し合いが続いた。翌朝、近所の人たちが集まり、万次郎を暖かく歓迎してくれた。地元の新聞が取材し、「一人の捕鯨船長の漂流少年に対する愛情は、少年をフェアヘブンの公立学校で教育を受けさせた。その結果、彼は今日本の捕鯨産業の振興と開国のために活躍し、米国と日本の交友関係の絆を結ばせている」と報道した。 
                     ホイットフィールド船長万次郎と
                 渡米した万次郎とホイットフィールド船長との再会とみられる写真      
 晩年の万次郎は鎌倉の別邸で悠々自適の生活を送っていた。若いころには、閉ざされた日本に海外修好への扉を開かせるために尽力し、幕末から明治初期にかけては日本の政財界に活躍した多くの人材育成に貢献した。しかし、政治にかかわりある職務に就く機会は少なかった。本人もそれを望んでいなかったようである。
 
 晩年に至っても政治の権力に反発するかのように、身辺の生活困窮者に対しては細かな配慮をして援助の手を差し延べていた。
 明治初期に活躍した洋画家高橋由一が、衣食に乏しく生活に困窮していたころ、見兼ねた万次郎は、知人に呼びかけて彼の生活や修業を手助けしたこともあった。後に日本の美術界の名を成した。
 1898年(明治31)11月12日、息子の手を握って永い眠りにつき、71歳の生涯を閉じた。
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              151年越し子孫の対面を報じた「琉球新報」2002年5月12日付
 「ジョン万次郎物語」を著した島袋良徳さんは、35年前に万次郎ゆかりの地である大渡海岸に記念碑を建立することや万次郎の子孫と万次郎が滞在した豊見城市翁長の高安家の子孫との対面の準備を進めていたという。
 2002年5月11日に、万次郎直系の4代目、中浜博氏が豊見城市翁長の高安家を訪れ、5代目当主、高安亀平氏と151年越しの対面が実現した。その後も交流は進んでいる。
 記念碑は、「ジョン万次郎上陸之地記念建立期成会」がつくられ、建立計画が進められている。
 これまで紹介した島袋良徳著「ジョン万次郎物語」は、米須在住で、期成会メンバーとして熱心に活動する和田達雄さん(高知県出身。別名、和田・ジョン・たつお)の手で、手製の冊子にまとめられた。それによって読むことができた。感謝である。
 

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「ジョン万次郎物語」、小笠原の国土守る

 小笠原の国土を守った万次郎
 1861年、万次郎は外国奉行水野忠徳通訳として、再び咸臨丸で小笠原諸島に出向くように命ぜられた。小笠原諸島は1593年、幕府が探検させてあったが、開拓政策もなく長らく放置し、無人島だった。1830年にはハワイ諸島から集団移民が入って来て定住した。ペリーは、アメリカ海軍の補給基地に最適と判断していた。

  幕府は領土保全のため開拓調査隊を派遣。父島に上ると住民代表のアメリカ人と会い、父島は日本国の領土だと万次郎が説き聞かせた。母島に渡り、島に住む14人の外国人にも同じく説明して廻った。両島の住民は小笠原諸島が日本国領土であることを認め、日本国の掟にも従うことを誓約した。
  万次郎はアメリカで修得した測量の技術を駆使して両島の測量を終え図面を作成して帰った。調査の成果は、外国の植民地化されつつあった日本の国土を守り、測量によって作られた図面は、その後の同諸島開発のあたっての不可欠の資料に値したと思う。万次郎ならでは果し得なかった大任であった。
  1862年、越後(新潟県)に住む富豪地主の平野廉蔵が捕鯨業を始めたと指導協力を求めてきた。親しい幕府の役人らに捕鯨業の必要性を説き、協力を求め、許可が下りた。準備をまかされた万次郎は、西洋の帆船を買い入れ、必要な機具や設備を整え、船長として乗り込んだ。鯨の群れの発見があれば、大声で乗組員を指示し、追わせた。獲れた鯨を解体して皮脂肪を切り取り、鯨油を取るまでの過程を皆に教えた。 
                    ジョン万次郎

 激動の時を開成教育に尽くす
 1864年、開国に前向きな薩摩藩から迎えられ万次郎は藩の開成所教授に、命ぜられた。航海・造船・測量・英語などを教えた。教壇に立つかたわら、藩命により藩士に同行して長崎に行き、外国商人と交渉して汽船を買い求めるなど藩政に積極的に貢献した。
 母の見舞いで中ノ浜に滞在中、土佐藩主山内容堂に呼ばれ、藩校「開誠館」設立に協力した。教壇にも立って教えた。館名の開成は、人知を開発して目的を達成することを意味する。
 1866年7月、藩の汽船購入に長崎に行く後藤象二郎に同行するよう藩命が下った。外国商人との交渉にあたって汽船・銃砲・弾丸などを購入し、上海にもわたり、汽船と帆船を買って長崎に帰った。67年4月初め1年余りあけていた鹿児島開成所の教授に復した。11月には、幕府と薩摩藩に交わされた出向の契約期間が切れ、万次郎は江戸へ帰った。
 明治維新の世変わりの時期、新政府は有能な人材を集め、徴士と呼び各分野の役職につけた。万次郎も69年3月に開成学校2等教授、70年2月には中博士を拝命し日本の最高学府の教壇に立った。現在の東京大学の前身で、大・中・小博士、大・中・小教授、大・中・小得業士の教授人である。

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「ジョン万次郎物語」、日米交渉の陰に置かれる

  日米交渉の陰に置かれた万次郎
 「ジョン万次郎物語」の続きである。
  1854年1月、ペリーが再び来航し、米船が石炭、薪、水、食糧などを補給する基地として下田、函館2港の開港を幕府と取り決め、3月に日米和親条約を締結した。万次郎が訴えてきた日本の補給基地開港がやっと実現した。しかし、交渉の場にも幕府は万次郎を使わなかった。
 「万次郎を通訳に使えば、永年世話になったアメリカへの恩義を思いアメリカのために心が動くであろう」と疑う意見や「スパイの疑いはないが、アメリカの不利になることは好ましくないであろう。米国人と会わすことは避けるべきだ」などの警告もあり、幕府重臣の多くは疑念を抱いていた。
 勘定吟味役の江川太郎左衛門が、万次郎を幕府直参に登用した。万次郎は「大型造船を許可して捕鯨漁を興すことが国益になる」と説いた。江川を通して、熱意が幕府に通じ、大船建造禁止令が解かれ、各藩で西洋形造船に関心が高まり、幕府は万次郎にアメリカ航海術書の翻訳を命じた。日本最初の『アメリカ合衆国航海学書』が出版された。 
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          冊子「ジョン万次郎物語」の裏表紙 

 1857年4月、江戸の開設された講武所の軍艦教授所の教授に任命され、航海術の指導に当たった。10月、捕鯨事業を興すため函館で捕鯨技術の伝授を任命され、捕鯨基地の調査や漁業者に捕鯨の有望さを説き回った。59年2月、幕府から「捕鯨の御用」に任命され、小笠原近海で西洋型帆船を使っての西洋式捕鯨実習で海洋に出た。
 
 荒波にもまれ太平洋を行く咸臨丸
                  咸臨丸復元模型
                              咸臨丸の復元模型
幕府は日米修好通商条約の批准のため、使節団をボーハタン号で米国に派遣し、護衛艦として咸臨丸を送ることにした。司令官に軍艦奉行の木村喜穀、艦長に勝海舟、通弁主務(通訳)に中浜万次郎が任命され、総勢96人が船出した。便乗していたジョン・ブルック海軍大尉が残した航海日誌で艦内の動向が明らかにされている。
暴風雨にあったとき「常に艦主にたっていたのは万次郎のみ。ほとんど徹夜で艦長の役目を果たしていた」。あとで勝海舟は、航海中の指揮命令のすべてを万次郎に一任した。陰の名艦長であった。
 咸臨丸が浦賀に寄港して間もなく、万次郎は軍艦操練所教授を免職された。理由は、上司の許可を得ないで横浜港に停泊中の外国船に出向いたことだった。
 万次郎は混迷する幕府の政治や外交にたずさわる幕臣たちに開国のもたらす国益の大きさを機会あるごとに説明していた。これが理解されず、逆にアメリカの利を計る言動であると誤解され、万次郎は常に政治や外交の影の場において活動させられてきた。このような偏見や差別にもめげず、一途に日本の開国による文明開化の招来に尽くす万次郎の決意は一層に高まるばかりであった。

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