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レキオ島唄アッチャー

琉球王府の「土佐人標着日記」にみる中浜万次郎、その4

 三人を薩摩に移送へ
 土佐人三人は、いよいよ那覇に向かい薩摩の大聖丸で鹿児島に移送されることになる。
 三人が翁長村を離れる時は、多くの村人が集り、涙を流して別れを惜しんだ。万次郎は覚えた沖縄言葉で「皆も元気で、もし私の手紙が届かなかったら私は殺されたと思って下さい」と別れを告げたという(島袋良徳著「ジョン万次郎物語」)。
別れの際、万次郎は自分で作った六尺棒を形見として、高安家に進呈した。
「後年、病魔が南部一帯で広がった時、徳門家(屋号、高安家のこと)の家族は誰一人病気にならなかったのは、この六尺棒のおかげだとして、守護神のように大事にしていたが、沖縄戦でやはり焼失したという」(長田亮一著『ジョン万次郎物語』)。
いよいよ那覇への移送されることになった。その際も、道中で英人の徘徊が予想されるので、目立たぬよう「夜になってから乗船させる」と指示し、あくまで隠すことを徹底している。
 
 注目されるのは、上陸時とは異なり、帰国にあたっては駕籠が手配されたこと。「在番奉行所より命じられた」という(「土佐人漂着日記」六月十二日)。
土佐側の記録では、駕籠は、「時に王より命也とて駕籠来り」(「難船人歸朝記事」=高知市立市民図書館蔵)と記されている。もともとは薩摩の指示であるが、土佐人には「国王の命によって駕籠が来た」と伝えられたのだろう。
 渡航には、食糧の積み込みが必要となる。食糧などのリストが記載されている。食糧は前例にならって三十日分渡すことにした。
 「中白米六斗七升五合」「上味噌六升七合五勺」「醤油二沸(わかし)七合」(沸とは、酒など量を計る単位)「塩魚四十五斤」「野菜五十六斤二合五勺」「国分たばこ四百五十目」、他に酢、塩、菜種子油、炭、中茶、薪木など品々が並んでいる。相当は物量である。
 
 西洋ボートも薩摩に移送することになった。摩文仁間切から那覇に回漕された。途中で異国船などを見かけたならば、陸に引き上げ、隠すよう指示。日没頃に那覇に入港した。大聖丸に積み込むと、ボートはわら莚で覆われた。やはりボートも厳重に隠された。
 乗船の予定は六月十四日だったが、風勢によって難しくなった。出帆はこの後、一カ月余りも大幅に延期された。
奇妙なことに「日記」にその後の記述がない。六月二十四日付の「万次郎に支給された草履が大破」したので支給するという記述が最後である。何か不都合な問題が起きたのか。この空白は「土佐人標着日記」の最大の謎である。
 船が出帆するのは一カ月後の七月十八日である。「異国日記」では、七月十二日付で薩摩側が次のように指示を出している。
「順風により、大聖丸は明日未明に出港するということが、船頭からただ今届いた。ついては、漂着人は今晩乗船させる予定なので、先日申し上げた通りの役人たちを今日早々に翁長村へ赴かせ、漂着人を監督して大聖丸へ乗船させよ。」
ようやく乗船に至った後も、天候が崩れて、五日ほど船中で待った。十八日に出発し、十二日間の航海で薩摩の山川港に着いた。

 土佐への恩義から優遇されたのか
 翁長村で三人が厚遇されたのは、かつて琉球人が土佐に漂着し世話になった恩義に報いるためと言われてきた。だが、栗野慎一郎氏は疑問を呈している。
「王府の対応はあくまでも漂着マニュアルに沿ったものであり、土佐人を優遇する姿勢を見せていたのはむしろ在番奉行所の側だった」「『土佐人だから』優遇されたのではない。琉球国がどの漂着者にも示す通常の取り扱いだった」「対応マニュアルが、日本人、中国人・朝鮮人、異国人とケースごとに作成されていた」(「解説 『土佐人漂着日記』を読むー豊見城とジョン万次郎―)。
 海外諸国との交易で栄えた琉球の船は、しばしば遭難し、黒潮にのって土佐沖に流された。一七〇五年、一七六二年、一七九五年は足摺岬方面、一八五四年は室津に漂着した。
 宝暦十二(一七六二)年七月、鹿児島に向かった琉球船が柏島沖で漂流して、宿毛の大島に曳航された。頭役の潮平親雲上(ぺーちん)以下五十二人が救護された。その際、土佐藩の儒者、戸部良煕(よしひろ)が、潮平親雲上から事情を聴取して『大島筆記』を著した。これには、当時の琉球の政情から地誌、民俗、歌謡に至るまで詳細に記述しており、王府時代の琉球を知る貴重な史料となっている。その中に、土佐藩の救助と滞在中のもてなしに感謝する様子が記されている。

 「九月廿五日首途(注・旅立ち)の御祝」の宴で「御厚意の至りて難有さ(注・かたじけない)、何の世までも忘れ難く…名残を 思へば感情無レ究」「頻に落涙に及べり」(「大島筆記 雑話上」)とある。
その際、琉球人が詠んだ琉歌が記されている。
「土佐の殿金(かね)し 御恩たふとさや 世々ある間や 御沙汰しゃへら」
(土佐の皆様方の恩義のすばらしさは、この世にある限り語り継ぎます)
 琉球に帰国した際、土佐藩での待遇と感謝の思いは王府に伝えられただろう。

 万次郎らの琉球上陸は一八五一年だから、これより九十年ほど後である。
「伝蔵が言う。以前琉球人が土佐に漂流した折りいろいろお世話になったことがあるので、その恩に報いるためにも粗末な扱いにならないようにと、国王が命じたので、このような厚遇になったのだと。」(「漂洋瑣談」[中浜家蔵]、栗野慎一郎氏訳)。
一介の漁師にすぎない伝蔵は、土佐藩による琉球人救護のことは知らないはずである。琉球側の役人が「土佐には恩義がある」と三人に話したのではないか。たとえリュ旧側は漂着マニュアルに沿った対応であっても、万次郎らが厚い感謝の気持ちを抱いたことは確かである。
     島津斉彬
          島津斉彬

 万次郎から勉強した島津斉彬
 鹿児島に着いた万次郎ら三人は、島津斉彬の命により、とても丁重に扱われた。
「日日の置酒、賓客の如く…飽食せり」。さらに衣服、金一両も賜った(「漂巽紀略」、中浜家蔵)。
斉彬は西洋の科学技術や軍事などに強い関心を持っていた。ある日、殿様から、万次郎一人だけ召された。鶴丸城の御殿へ出向くと、酒肴を賜って、それが終わると人払いをして、殿様のじきじきの御下問がされた。
 アメリカでは、家柄、門地ではなく人はすべてその能力によって登用され、国王は人望のある人が入札(選挙)によって選ばれ、四年間その地位につく。デモクラシー、人権を尊ぶことが社会の大本の精神になっていることに始まって、蒸気船、汽車、電信機、写真術といった文明の道具の実際から数学、天文学、家庭生活の有様、結婚は家と家との結びつきではなく、一人の人と一人の人との結合であること、人情風俗にまで話が及んだという。
「側近をしりぞけて、殿さまじきじきの厳重なお取り調べとは表向きのこと、国内上下の保守排外思想家たちにかくれて、殿さまの勉強が始まるのでした」(中浜明著『中浜万次郎の生涯』)。斉彬は、万次郎が永く鹿児島に留まるように勧めたほどだった。
殿様を相手に、封建体制を根底から否定するアメリカのデモクラシー、人権の思想や政治制度まで堂々と話したというのは、驚くべきことではないだろうか。

 万次郎は、江戸幕府に呼び出されて取り調べを受けたときも、アメリカがイギリスから独立し「共和之政治を相建」、大統領は「国中之人民入札」(選挙)によって職につき、任期四年で交替すること。さらにアメリカが日本と親睦したいというのは「積年之宿願」であり、「両国之和親」をはかりたいと主張していることと紹介した。ペリー来航の前に、万次郎は幕府に対して開国の必要性を説いていたのである。

 明治維新、自由民権運動にも影響が
 万次郎が斉彬に伝えた話の内容は、その後の薩摩藩に直接、間接に影響を及ぼした。
「万次郎が島津藩(斉彬)に与えた強烈なインパクトが、維新回天のエネルギーになったといっても過言ではないであろう」(『中浜万次郎集成』、川澄哲夫編「第一章 万次郎から英語を学んだ人たち」の解説)。
 郷里の土佐藩では、藩の幹部が万次郎から海外事情を学んだ。河田小龍が書いた『漂巽記略』を坂本龍馬も読んでいた。龍馬がまとめたとされる「船中八策」は、「この発想の根底に万次郎の影響が多分にあったと見るのが自然である」(同書)。
万次郎がもたらしたデモクラシーの思想は、明治維新ではいまだ実現せず、その後、起こった自由民権運動にも、その影響が投影されているといっても過言ではないだろう。
 <土佐の藩論ともなった「合議政体論」をはじめ、明治初期の日本を風靡した自由民権思想は、万次郎のもたらしたアメリカ式デモクラシーとつながっている。つまり、漂流者万次郎が、アメリカからもってかえったデモクラシーの一粒のたねが、まず土佐でまかれ、それが日本的民主主義として成長し、明治22年の憲法発布、23年の国会召集となって、いちおう実を結んだことになる(大宅壮一著「欧米文化との初接触」、『中浜万次郎集成』から)>
                 
 いま大度海岸には二〇一八年二月、ジョン万次郎上陸之地の記念碑(銅像)が建立された。
 カウボーイハットをかぶり、ジーンズとベストを着用した万次郎は、生誕地の土佐清水市の方向を指差している。六角形の台座には、漂流以来、日本に帰るまでの物語がイラストで描かれた立派な記念碑である。高知県出身で糸満市在住の和田達雄氏(琉球万次郎会副会長)が、建立運動の立ち上げからかかわり、銅像や台座の絵図も提案して採用されるなど情熱を注いでこられた。
「琉球(沖縄)は、万次郎がアメリカ文化とデモクラシーをはじめて日本に持ってきた玄関口である。琉球上陸は万次郎の話の中のハイライトであり、何よりも万次郎たちにとって一番重要なことである」。中濱博氏はこのように位置付けている。
小渡浜に上陸した万次郎の小さな一歩は、日本の歴史にも刻まれるかけがえのない一歩となった。
 終わり

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琉球王府の「土佐人標着日記」にみる中浜万次郎、その3

 体調崩し、医者を派遣
 六カ月余りの滞在中は、体調を崩し、薬を要望することがあった。
 最年長の伝蔵(48歳)は、眼病を煩い「海上にいるころから具合が悪く、…いまだに平癒しない」として目薬の支給を申し出た(二月二十三日)。
 目薬が支給され、「よくなった様子でしたが、晩になってつけ薬が切れた」として、もう一壺支給の申し出があり、支給が指示された(三月三日)。
 五右衛門は四月二十日ころから、「腹の具合が悪いのか、…食事が進まない様子で、その上、夜中にろくろく寝ることもできないので、どうぞ薬を支給してください」と申し出があった(四月二十一日)。
 
 二十四日に、「医者の玉城筑登之親雲上(ちくどぅんぺーちん、下級士族)が当地に到着し、脈を看て、具合を尋ねるなどして、煎じ薬二袋の分はその場で見守りつつ与え、三袋は翌日また与えるように」と渡され、その通りに呑ませた。だが、「未だ快い状態にならないので、もう一度医者に会って治療を受けたいと、この五右衛門の申し出があった」。医者に、煎薬を服用させたが快復しないので早急に往診するよう命じた。
 その後、「医者を派遣し、治療を命じていただいて以後は、だんだんと食事も進み、寝やすくもなった様子である」と報告している(五月二日)。

 土佐藩への体裁を考慮
 土佐人三人の扱いは丁重であったが、周囲の取り締まりは厳重だった。
 「留置している人家の門前に関番用の仮小屋を建て、番人として間切役人から二人、翁長村の位衆(村役人)から三人、百姓から二人ずつ昼夜を問わず詰めさせ、厳重な取り締まりを申し渡しておきました」(正月四日)。
 以下のような通達を出した。
 土佐人をむやみに村中徘徊させない。地元民を近づけない。出会っても、中国・日本・琉球の様子など話させない。宿所付近に女性を通行させない。防火に念を入れる。漂着者相手に商売させない。進物・贈答をさせない。 
 これを堅固に守ること。守らなければ、間切役人の「落ち度(責任問題)」であると言い渡している(正月四日)。
警備にあたって薩摩側が、宿所の周りに竹を筋違いに組み合わせた虎落(もがり)の設置を検討せよと求めた。
 <土佐国に対する体裁をどう整えたら良いでしょう、さらに逗留中の英人があの付近を歩行し…、「虎落」を見つけたら差し障りがあるはずです。この宿所には竹垣の囲いが(すでに)あり、堅固に結びたてるように通達して置いてあります。ことに土佐人たちは格別に律儀なこともあり、警備の方法や警備の人員を厳重に措置すれば、何ら困った事態にはならないだろう(正月十四日)>。
 
 薩摩の申し出を断る理由の一つとして、土佐藩への配慮を考えている。
滞在中、万次郎はよく出歩いた。家の入口に魔除けのため置かれたヒンプン(屏風)を飛び越えて出掛けた。
沖縄では旧暦の六月から八月にかけて、豊作・豊漁、厄払いなど願いを込めた綱引きが盛んである。万次郎は翁長村の大綱引きにも参加したと伝えられている。
        ベッテルハイム 
                 ベッテルハイム夫妻                 
 ベッテルハイムとの関わりがあった
 これまでに見たように、王府は万次郎らと宣教師ベッテルハイムを接触させないように、とても気を使っていた。これまで二人に何の接点もないと思われていた。ところが、「土佐人漂着日記」には、二人を結びつける意外な証言が記載されている。
 <伯徳令が、妻子などを引き連れて逗留していることが、「ウワフ国」(現在のハワイ・オアフ島)で噂になっているようなことは聞いていないかと尋ねたところ、そのような噂は聞いていないが、かの国では「白坊主」という者から万次郎に、琉球に渡るようなことがあるなら、友達が琉球に渡っているはず、今も滞在していて出逢ったならば、書物一冊を届けるように言われて、(その書物を)持って来ているということです。このように話すので、どのような内容が描かれているのか、この書物を取り出させて読み聞かせをさせたところ、西洋の軍事情勢、また商売をして手柄を得たこと、そのほか、古事など色々なことが書いてあり、だいたい日本の「節用」のような書物でした(正月十九日)。>
 
 「伯徳令」とは、ベッテルハイムのこと。薩摩では宣教師を「白坊主」と呼んでいた。「節用」とは、実用的な教養書、雑学集のことを指す。
 ハワイで万次郎はデーモン牧師と親しくしていたので、彼がベッテルハイムに書籍を渡すことを依頼したかもしれない。
もしハワイからベッテルハイムに「琉球に向かうジョン万次郎に本を預けた」と連絡していれば、彼は「私の本を預かってきているはずだ。なぜ渡さないのか」と猛烈に抗議し渡すように迫っただろう。なにしろ、彼の背後にはイギリスの存在があり、トラブルを起こせば外交問題になる。王府も渡さざるを得なくなった可能性もあるのではないだろうか。これは筆者の推測である。
万次郎らの尋問の際、キリスト教との関わりが重要な問題であった。
 「この三人に、異国において、ヤソ(耶蘇)の道、またはそのような邪宗を学んだことはないのかと、再度、問いただしていますが、一切そのようなことはないと、何度も変わらずに申し出ています。もっとも三人ともに宗旨は一向宗であるということです」(正月十七日)。 
 万次郎が教会に行っていたことは事実であるが、否定するしかなかったのだろう。

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琉球王府の「土佐人標着日記」にみる中浜万次郎、その2

 三人を摩文仁に戻せ
 土佐人三人は取り調べを終えた後、午後四時頃、那覇に向けて出発した。那覇には薩摩の在番奉行所が置かれていた。
 親見世が在番奉行所に報告すると、一八四〇年に勝連間切浜村に漂着した水戸人の例にならい「水戸人と同様に久米村(現在那覇市)へ陸宿させる」ように指示した(「咸豊元年異国日記」、正月三日)。
 しかし、首里王府は異なる判断をした。
「舟や人の服装などが異国風に見えること、また、那覇に護送する手はずを整えていると、書付を持って来た摩文仁間切の者が言っていたが、(漂着人は)疑わしい者なので直接那覇に護送しては差し障りがある」と判断して、王府から現地に役人を派遣することにした(「土佐人漂着日記」三日)。
 
 現地に向かう小禄親雲上(ぺーちん、士族の称号)は「道中で(漂着土佐人だと)行き逢ったならば引き返させ、摩文仁間切に留め置くようにします」との方針をとる。在番奉行所にも相談し、許可を得た。
しかしこの方針は現実的でなく、急きょ変更された。
 「漂着人三人は、午後四時頃に摩文仁番所を出立。夜十時過ぎ頃に小禄間切小禄村(現在那覇市小禄)まで到着していた(現在の道路で約十三㌔)が、前夜から一睡もしておらず、疲労困憊しているということで、道中に臥せっている(おり)経緯などを聴取することができず…」という状態にあった。「道中に臥せさせてはまずいので、まず付近の小屋に収容し、…豊見城間切の翁長村に宿の用意を命じて、用意がととのい次第、夜中に翁長村に引越しするようにいたします」と役人は報告している(正月三日)。 
    
          IMG_5380_20210319221413d4d.jpg
          万次郎上陸記念碑のイラストから 
 道路に臥せるほど疲労した三人のために駕籠が用意されて、六キロほど離れた翁長村(現在の豊見城市翁長)に移送されることになった。
 当初、「疑わしい者」と見ていた王府も事情を聞き、認識を改めた。
「かぶりもの(帽子)や衣服などはオランダ人(異国人)似通っているものの、髪は黒く、言葉や礼儀作法など日本人のように見えて、何ら疑わしい様子は見えません」「この者たちの宿について、豊見城間切の翁長村がふさわしいだろうと考えて、人家を空けさせ、夜中に移動しました」とのべている。(正月三日)。
 翁長村では高安親雲上(ぺーちん。士族の称号)の屋敷に宿泊させることになった。高安家では、わざわざ家族の住む母屋を明け渡し、自分たち家族は、屋敷の一角に茅葺き家を建てて移り住んだ。

 那覇に入れない理由とは
 なぜ、那覇には入れず翁長村への移送に変更したのか。那覇には「現在のところ護国寺に英国人が逗留しており、那覇や久米村を時々徘徊することがあるので、差しさわりがあ(る)」(正月四日)との判断である。
 英国人とは、那覇に滞在中のイギリスの宣教師、バーナード・ジャン・ベッテルハイムのことである。一八四六年イギリス海軍軍人琉球伝道会から宣教師として派遣された。医者でもあり、語学力は抜群で十三か国語を修得した。
 逗留していた護国寺の近くには、関番所が置かれ、役人が監視した。伝道のため、宗教冊子を配布し、時には民家に踏み込むこともあった。外出の際は筑佐事(ちくさじ、見回り警戒する者)が付いて回り、人々を追い払うなど執拗に妨害した。
 もしベッテルハイムが、外国帰りの土佐人が滞在していると知れば、押し掛けて来るのではないか、と恐れての判断である。

 翁長村での丁重な待遇
 土佐人三人から事情を聞くため王府から役人が派遣された。その中に板良敷(いたらしき)里之子親雲上(後の牧志朝忠)がいる。板良敷は、中国語、英語も学んだ異国通事であり、ペリー艦隊が琉球に来た際に活躍した人物である。彼は万次郎らに英語で質問した。
「土佐人たちどうしの会話も日本の言葉でやりとりいたしている上に、土佐国の産物、または日本の事についても、かねてから聞き及んでいたとおりで変わりなく…土佐国で着かけていたという古い袷(あわせ)の着物一着を差し出して、これは帰国する時もあろうかと、(その時のため)証拠として、これまで保管していましたと申しています。それゆえ、日本人に間違いないと思われます」(正月四日)。
 帰国する時に備えていた古い袷が土佐人の証拠としても役立った。
 
 
 滞在にあたってまず異様な西洋服が問題になった。なにしろ、万次郎はジーンズにベスト姿である。
 「土佐国人たちは日本の着物に改めなくてはならないが、琉球側で支給しますか、この者たちの取り扱いは、詳細に公儀(幕府)にご報告されることなので、着物などが申し分なく支給されると、公儀(幕府)への聞こえもよく、太守様(注・薩摩の島津斉興をさす)のご利益にもなることです」と薩摩役人から、琉球役人に指示があった。
役人は、一七四七年に羽州秋田能代の船が勝連間切の浜島に漂着した際に、着物など支給した事例をあげて、物品リストを添付して支給することを王府に上申した。
 
 王府は、「帳簿を精査して、前例を基準」として、まず次の品物の支給を決めた(正月六日)。
一、 水色木綿袷(あわせ)衣裳一枚ずつ(注・袷は裏地のある着物)
一、 蚊帳(かや)二張
一、 焼酎一壺(ただし盃二十五杯分入り)

 服装を最初に気にしたのには理由がある。
 「翁長村に逗留中の漂着者たちは、西洋で仕立てられた衣服を持ち合わせているという話だが、もしかすると村の付近の歩行などを願い出ることがあり得るし、異様な服装で歩きまわるなどされては、翁長村近辺はもちろん、英人も逗留中のことでもあるので、(英人に)噂が伝わり、あれこれ差し障ることも予測されるので、沖縄仕立ての単(ひとえ)の着物と袷(あわせ)用の絹織物一枚ずつを与えておいて、歩行などの際は、右の着物を着用させるのが妥当であり、そうすれば帰国後に、琉球での救護の仕方などがこのように丁寧であったことが(漂着人から)自然と申し出もあるはずなので、(琉球人が)『思いやり』の精神に富み厚情であることも理解され、いろいろな意味でよろしいことだと、本日、在番奉行はじめ(薩摩の)役人衆が評議し判断されたので…早めに実施されるように調整してください」(正月六日)。
 やはり、西洋の異様な服装で歩きまわり、ベッテルハイムの耳に入ることを恐れている。
 また、丁寧な扱いをすれば、帰国後に琉球の思いやりの精神、厚情が知られることを重視していたことがわかり、とても興味深い。


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琉球王府「土佐人漂着日記」にみる中浜万次郎,、その1

   高知県の郷土史の雑誌『土佐史談』に、ジョン万次郎について初めて執筆して掲載された。板垣退助の研究家である公文豪氏からの依頼があった。沖縄はとても万次郎の琉球上陸と滞在について関心が強く、顕彰する運動や研究も盛んである。高知は、幕末と明治維新に活躍した著名人が何人もいるのでそれは、万次郎への関心は、飛びぬけたものではない。沖縄は、わずか半年滞在しただけであるが、その関心は高知県以上のものがある。
 高知の郷土史に関心のある方々に、なぜ万次郎らは琉球に上陸したのか、どのように過ごし、郷里に帰ることができたのかを知っていただければとの思いで、表題のような文章を書いた。
 拙文を何回かに分けてこのブログでもアップしておきたい。
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 琉球王府「土佐人漂着日記」にみる中浜万次郎
 中浜万次郎が異国で十年過ごして、日本に帰国する際、琉球に上陸したことはよく知られている。琉球でどのような扱いを受けたのか、詳細に記録した琉球王府の史料「土佐人漂着日記」が二〇二〇年三月、万次郎が滞在したゆかり地、豊見城市の『豊見城市史だより第十四号』として発行された。歴史学者の栗野慎一郎氏が、翻刻と現代語訳、解説を執筆した。
 これまであまり知られていなかった史実も明らかにされており、「土佐人標着日記」から万次郎の琉球上陸の真実を紹介しておきたい。 
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             糸満市大度海岸にある万次郎上陸記念碑のイラストから 

 なぜ琉球に上陸したのか
 万次郎ら五人は、一八四一年一月、漁船が遭難して無人島の鳥島に漂着し、百四十三日を生き延びてアメリカの捕鯨船に救助された。まだ十四歳の少年、万次郎はホイットフィールド船長の誘いでアメリカに渡り、船長の故郷、フェアヘブンで教育を受けた。小学校で英語を学び、捕鯨員養成の専門学校に通い、航海術や測量術、捕鯨術、高等数学など学んだ。捕鯨漁に乗り、太平洋を航行中、一度、琉球の島に上陸したこともある。
 日本に帰ることを決意した万次郎は、ゴールドラッシュのカリフォルニア州山奥の金山に入り、六百ドル余の大金を稼いだ。ハワイにいた仲間を誘ったが、重助は亡くなり、現地女性と結婚した寅右衛門は留まることを選択。伝蔵、五右衛門と三人で帰国することになった。商船・サラボイド号がハワイから上海に向かうことを知り、船長に便乗させてもらうよう頼んだ。
ハワイにはホノルルに立ち寄る鯨捕りたちの援助活動をしていたデーモン牧師がいた。牧師に帰国することを報告すると、協力を申し出た。ホノルルの総領事に頼んで、万次郎のため身分証明書を書いてもらった。
 
 そこには万次郎が帰国する目的が記されていた。「ジョン・マンジロウは立派な人物であり、教養もある。彼は帰国して、アメリカ人が日本人と親交を結び、交易することを望んでいる、と同国人に伝える決意をしている」(川澄哲夫著「中浜万次郎の歴史的役割」、『中浜万次郎集成』から)。
 一八五〇年十二月、稼いだ金で買ったボート「アドベンチャラー号」を積み船はホノルルを出港した。翌年旧暦一月二日、琉球沖に到達した。
 万次郎はなぜ、上陸の地に琉球を選んだのだろうか。「土佐人漂着日記」では、万次郎らはサラボイド号に乗船する際、「日本の土地と判断できれば、その場所に降ろしてくれるように、その船長に頼んだ」「洋中に陸地を見かけて、その土地が琉球であると聞いたので…ボートを卸した」と答えている。これは正直な答えと見ることはできない。
 当時、徳川幕府の鎖国政策の中で、国外への渡航はご法度であり、帰国すれば打ち首を覚悟しなければならない。だから、無事に帰国する方策をよくよく検討していた。
「鎖国している日本へはいるには琉球諸島がいちばん都合がよい」と考えていた(中浜明氏著『中浜万次郎の生涯』)。なぜ琉球は都合がよいのか。琉球は一四世紀以来、中国に服属する一方、一六〇九年に薩摩藩が侵攻し支配されていたが独立国であった。東アジア、東南アジア諸国との交易で栄えた海洋国家だった。毎年、琉球の貢物を薩摩に運ぶ定期船があった。「その船に乗せてもらえるかもしれない。とにかく試してみよう」(「フレンド紙」一八五一年九月)」)。このように考えていた。

 帰国への第一歩、小渡浜に上陸
 万次郎らは乗ったボートを夕刻に陸地まで漕ぎ付けた。岩礁に舟を停めて一夜を明かした万次郎ら三人は、一月三日早朝、大度海岸(当時は小渡浜)で出会った村人から「北へ一丁(百九㍍)舟を回せば、良い船着き場がある」と教えられ、サシチン浜と呼ばれる船着き場に漕ぎ付けて、朝八時頃に待望の琉球上陸を果した。
 朝食に、くん製の牛豚肉を焼きコーヒーを飲み一段落。その後、村人と摩文仁間切(まぎり=現在の町村)の役人が来て、番所に連れて行かれた。事情を聞かれるとともに、持ち物七十点を記帳された。唐芋や豆腐などを食べてお腹を満たした。
 
 この上陸の時間をめぐっては、関係者の間で見解の相違がある。
 万次郎三代目の中浜明氏は、三日朝上陸したと記す。四代目の中濱博氏は、大度海岸は岩礁が広がり、干潮時でなければ上陸できない、干潮の午後二時に上陸したと主張している。
 三人を事情聴取した役人が、那覇の行政機関である「親見世」(おやみせ)と首里王府に報告した文書がある。
「親見世」の記録文書「異国日記」は、「土佐国の者たち三人が、夜前に阿蘭陀船から当(摩文仁)間切の小渡浜へ小舟で上陸したと、本日八ツ時分(午後二時頃)に連絡があった。ついては、右の三人と荷物をすべて那覇へ送り届けるものとする。この件の経緯を申し上げる」と記している。
 午後二時は、役所に連絡があった時間と明記しているおり、疑問の余地はない。
 
 今回の「土佐人漂着日記」の王府への報告「覚」正月三日付は次のように記している。
 「本日午後二時頃、乗員三人の異国の伝馬船(ボート)一艘が当間切の小渡浜に漂着したので経緯を尋ねたところ、やまと言葉で『我々は土佐国の者で、昨日午後二時頃に外国船からボートを卸して到着した』という(言明の)おおよそは了解できました。まず早急にこの件を報告します」。          
        IMG_5429_20210319223237329.jpg    
   小渡浜に上陸した万次郎ら三人(上陸記念碑のイラストから)    
                   
 一見すると「午後二時」は漂着時間とも読めるが、文章は「漂着した」で切れずに続いており、最後の「了解できたので報告します」にかかる表現だと解釈される。
 なにより重要なのは当事者の証言である。
 万次郎ら三人はこの後、薩摩藩や長崎奉行所、土佐藩で事情聴取されたが、その記録によれば、いずれも「三日朝上陸した」と証言している。とくに長崎奉行所の記録では「五ツ時頃(午前八時頃)漕付上陸」と時間を明記している。

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琉球への鉄器の伝来、番外編下

  東方への鉄の伝来
 NHKテレビ「アイアンロード~知られざる古代文明の道」は、村上恭通愛媛大学東アジア古代鉄文化研究センター教授の研究が重要なポイントを占めていた。そこで、ヒッタイトの製鉄技術がどのように東方に伝わったのか、村上氏の見解を紹介しておきたい。
 <紀元前3世紀から紀元1世紀にかけてユーラシア大陸の中央モンゴル高原に起こった遊牧の騎馬民族「匈奴」。当時中国は「秦」「」の時代、この匈奴の侵入を防ぐため、万里の長城を築き、当時の先端技術ですでに大量量産の製鉄技術を確立していた「」はこの技術がほかに流出せぬよう、鉄官などを置き、厳しく国家統制していた(溶融鉄還元間接法)。
 匈奴が南の中国と対峙する一方、ユーラシア大陸の西では 匈奴の侵入を発端とするヨーロッパの民族大移動が起こっている。この「匈奴」の爆発的エネルギーの根源は騎馬民族の「略奪」に支えられていると考えられていたが、今回の発見・発掘で≪匈奴が独自の製鉄技術を有していた≫ことが、次第に明らかになってきた。
 また、愛媛大が進めてきた中央アジアでの数々の共同調査で、紀元前12世紀ごろヒッタイトが発明した製鉄技術がユーラシア大陸を東伝して、早くからインド・中国に伝わったばかりでなく、黒海・カスピ海の北岸からユーラシア大陸中央の草原を通って、西シベリアやモンゴルにまで伝わっていることが明らかになり、古くからユーラシア大陸の東西をつなぐ、金属器・鉄器文化伝播草原の道≪Metal Road & Iron Road≫があったということも次第にあきらかになってきたという。>
 この項は「愛媛大学東アジア古代鉄研究所 第6回国際シンポジュウム 「鉄と匈奴」聴講記録」(「IRON ROAD 和鉄の道 Mutsu Nakanishi Home Page Since1999 」から)の引用である。

 中国の鉄の始まり
 <中国においても、鉄の始まりは、宇宙から落下した隕鉄(鉄隕石)を利用したものでした。このころ、中国では、すでに鋳銅技術が開発され、金属器といえば青銅器が主流で、鉄はとても貴重なものだったのです。
 やがて、中国では、世界に先がけて銑鉄が作られるようになり、この銑鉄を鋳型に流し込んだ鋳造鉄器とよばれる鋳物の鉄製品(多くは鉄斧や鋤先などの農耕具)が作られるようになりました。ところが、この銑鉄は、鋳物を作るには便利ですが、鉄中に炭素を多く含むため、非常に硬い半面、衝撃には脆い性質があり、刃物などの利器には適さないのです。
 しかし、中国では、鉄中の炭素を減じる脱炭技術が開発され、粘りのある鉄、鋼が鋳造鉄器の刃部に利用されるようになりました。日本の弥生時代中期ごろになると、このような鉄で作られた鉄斧の破片などが北部九州を経由して日本に運ばれ、再利用されたのです。(雲南市{島根県}「simane unnan-challenge」)>

 <本格的な鉄の生産が始まったのは戦国時代(前475~前221)のことで各国の首都にはいずれも鉄を製造した遺跡が出土しています。しかし戦国時代に兵器の材質が青銅から鉄に完全に変化したわけではありません。当時の鉄の生産技術はまだ未熟だったのです。天下を統一した秦(前221~前207)が鉄の生産という点から見ると後進国であったこともこれを証明しています。(前202~220)より後、兵器に使われる主要な金属が青銅から鉄にかわりましたが、これはさまざまな点で製鉄の技術が飛躍的に高度になり、大量に生産できるようになったからです。(篠田耕一著『武器と武具 中国編』)>
 NHK番組では、ヒッタイト滅亡後、スキタイが中央アジアの北の草原の道を通って、匈奴に鉄をもたらしたことを紹介。しかし、前の鉄は炭素が多くて脆かったのに対して、匈奴の鉄は強く、鋭利で威力のある矢が作られて、は苦戦したという。その後、も鉄を改良して、製鉄の技術が向上したということだった。

 日本への鉄器伝来
 日本にはいつ鉄が伝わったのだろうか。鉄の伝来と製鉄の始まりについて、「日立金属HP たたらの歴史」が詳しく考察しているので、それから要約して紹介する。

 稲作と鉄の伝来
 現在のところ、我が国で見つかった最も古い鉄器は、縄文時代晩期、つまり紀元前3~4世紀のもので、福岡県糸島郡二丈町の石崎曲り田遺跡の住居址から出土した板状鉄斧(鍛造品)の頭部です。鉄器が稲作農耕の始まった時期から石器と共用されていたことは、稲作と鉄が大陸からほぼ同時に伝来したことを暗示するものではないでしょうか。
 弥生時代前期(紀元前2~3世紀)から次第に水田開発が活発となり、前期後半には平野部は飽和状態に達して高地に集落が形成されるようになります。さらに土地を巡る闘争が激しくなり、周りに濠を回らした環濠集落が高台に築かれます。京都府の丹後半島にある扇谷遺跡では幅最大6m、深さ4.2m、長さ850mに及ぶ二重V字溝が作られていますが、そこから鉄斧や鍛冶滓が見つかっています。弥生時代前期後半の綾羅木遺跡(下関市)では、板状鉄斧、ノミ、やりがんな、加工前の素材などが発見されています。しかし、この頃はまだ武器、農具とも石器が主体です。
    
    古代製鉄所跡
    古代製鉄所跡の発掘現場(6世紀後半の遠所遺跡群)=日立金属HPから
  

 鍛冶工房
 鉄器の製作を示す弥生時代の鍛冶工房はかなりの数(十数カ所)発見されています。
 発掘例を見ると、鉄の加工は弥生時代中期(紀元前後)に始まったと見てまず間違いない。しかし、しっかりした鍛冶遺跡はない。例えば、炉のほかに吹子、鉄片、鉄滓、鍛冶道具のそろった遺跡はありません。また、鉄滓の調査結果によれば、ほとんどが鉄鉱石を原料とする鍛冶滓と判断されています。鉄製鍛冶工具が現れるのは古墳時代中期(5世紀)になってからです。

 鉄器の普及
 この弥生時代中期中葉から後半(1世紀)にかけては、北部九州では鉄器が普及し、石器が消滅する時期です。弥生時代後期後半(3世紀)に鉄器への転換がほぼ完了することになります。このような多量の鉄器を作るには多量の鉄素材が必要です。製鉄がまだ行われていないとすれば、大陸から輸入しなければなりません。『魏志』東夷伝弁辰条に「国、鉄を出す。韓、ワイ(さんずいに歳)、倭みな従ってこれを取る。諸市買うにみな鉄を用い、中国の銭を用いるが如し」とありますから、鉄を朝鮮半島から輸入していたことは確かでしょう。
 日本では弥生時代中期ないし後期には鍛冶は行っていますので、その鉄原料としては、恐らくケラ(素鉄塊)か、鉄テイの形で輸入したものでしょう。銑鉄の脱炭技術(ズク卸)は後世になると思われます。

 製鉄の始まり
 日本で製鉄(鉄を製錬すること)が始まったのはいつからでしょうか?
 弥生時代の確実な製鉄遺跡が発見されていないので、弥生時代に製鉄はなかったというのが現在の定説です。
 今のところ、確実と思われる製鉄遺跡は6世紀前半まで溯れますが(広島県カナクロ谷遺跡、戸の丸山遺跡、島根県今佐屋山遺跡など)、5世紀半ばに広島県庄原市の大成遺跡で大規模な鍛冶集団が成立していたこと、6世紀後半の遠所遺跡(京都府丹後半島)では多数の製鉄、鍛冶炉からなるコンビナートが形成されていたことなどを見ますと、5世紀には既に製鉄が始まっていたと考えるのが妥当と思われます。
 
 一方で、弥生時代に製鉄はあったとする根強い意見もあります。それは、製鉄炉の発見はないものの、考古学的背景を重視するからです。
 最近発掘された広島県三原市の小丸遺跡は3世紀、すなわち弥生時代後期の製鉄遺跡ではないかとマスコミに騒がれました。そのほかにも広島県の京野遺跡(千代田町)、西本6号遺跡(東広島市)など弥生時代から古墳時代にかけての製鉄址ではないかといわれるものも発掘されています。
 弥生時代末期の鉄器の普及と、その供給源の間の不合理な時間的ギャップを説明するため、当時すべての鉄原料は朝鮮半島に依存していたという説が今までは主流でした。しかし、これらの遺跡の発見により、いよいよ新しい古代製鉄のページが開かれるかもしれませんね。

 これまでに見たように、中国の鉄器は、紀元前5世紀からの戦国時代には、広く使用されていたという。沖縄は中国との交流の長い歴史があるけれども、鉄は大和から伝わったという伝承が圧倒的に多い。その理由として、中国との接触は古くからあったとしても、正式な交流は、1372年、明からの使者が琉球に来て、察度王が弟の泰期を派遣して朝貢してからであり、交易が始まったのは14世紀である。
 一方、日本とは、7,8世紀に大和朝廷から、南島諸島に朝貢を即すなど、早くから関係があった。南方物産の交易拠点と見られる喜界島の城久遺跡では、11世紀後半から12世紀ごろ、鉄器をつくる鍛冶炉が多数発見されており、沖縄まで運ばれていたと見られている。そんな背景があり、鉄は大和から伝来したという伝承が多いのではないだろうか。
 以上、鉄器の起源と伝来についてスケッチ的に見てきた。まだまだ、分からないところがあり、今度の発掘や研究によって新たな発見もあるだろう。鉄器の伝来と社会への影響と変化は知るほどに興味がつきない。
  終わり

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琉球への鉄器の伝来、番外編上

 古代の鉄はどのように広がったのか

 このブログでは「琉球への鉄器の伝来」を見てきた。そもそも、人類はどのようにして鉄を手に入れ,製鉄と鍛冶が広がったのかはとても興味がある問題である。もう30年近く前に、鉄の起源について調査していた大村幸弘氏の著書『鉄を生みだした帝国―ヒッタイト発掘』を読んだことがある。トルコのアナトリア地方にいまから3000年以上も前にヒッタイト王国という鉄の王国があることを知った。
 NHKテレビで「アイアンロード~知られざる古代文明の道」が2回に分けて放送された(2020年4月19、26日)。とても興味深い内容だった。そこで、鉄が古代にどのように発見され、伝来したのかを簡略に見ておきたい。
 
 「アイアンロード」とは
 <いま、あのシルクロードより古い「文明の道」が姿を現し始めている。それは、現代社会に欠かせない「鉄」を伝えた道。西アジアから日本列島にいたるその道は、「アイアンロード」と名づけられた。このルートに沿うようにユーラシア各地の大草原や山岳地帯などで進む発掘調査からは、謎にみちていた古代国家の実像が次々と明らかになり、エジプトやギリシャなど、いわばメインストリームの古代文明とは異なる“未知の世界史”が浮かび上がっている。
 また、これまで武器を中心に考えられてきた古代の鉄の役割が、時代が進むなかで次々と広がっていった事実も分かってきた。鉄は和平を促す“交渉品”となり、異文明を結ぶ“交易品”となり、馬具を生んで“移動革命”をもたらし、工具として“芸術革命”を導き、農具となって“生産革命”を起こしていた。鉄は、武器による「征服と破壊」の一方で、「融和と建設」の主役でもあったのだ。>
 前編の舞台は、製鉄発祥の地とされる西アジアから、ユーラシアの中央部まで。荒野に築かれた大国ヒッタイトと、草原に鉄を伝えたスキタイ。謎にみちた両者の歴史を、雄大な風景のなかに探っていく。
 後編の舞台は東アジア。匈奴と漢が史上まれにみる長期戦争を続ける中、鉄のイノベーションが巻き起こり、歴史を大きく動かしていった。そして鉄は、弥生時代の日本へ。列島の暮らしを一変させていった秘密を探っていく。>
 番組案内によれば、このようなあらすじであった。


 鉄の発見
 人類は鉄をどのようにして手に入れたのか。いきなり製鉄技術を発明したのではない。
始まりについては二つの説がある。
 一つは、鉄を多く含む隕石が地球上に飛来し、隕鉄と出会ったという隕鉄説。いまから5000年ほど前らしい。古代エジプト人は、鉄は宇宙から来ると考えていたという。
 もう一つは、たまたま鉄鉱石が産出する場所で火事があり、鉄鉱石が「鉄」に変化することに気づいたという説である。
 これは、どちらの説が正しいのかということではなく、それぞれが人類と鉄との出会いだったのだろう。ただし、鉄鉱石から鉄を作るという技術は、後者の火事で偶然、鉄が作られているのを見たことが発端であることは確かだろう。鉄の起源としては、後者が重要な意味を持つのではないだろうか。素人なりにそのように思う。
鉄器時代はいつ始まったのか
 アナトリア考古学研究所の大村幸弘氏は、鉄器の起源について要旨次のようにのべている。(山川出版「Historist」から)
鉄器時代の開始は、今からおよそ3200年前といわれます。ちょうどヒッタイト帝国が終焉を迎え、古代オリエント世界は一気に青銅器時代から鉄器時代に入った時期でもあります。
 いたるところで入手出来る鉄鉱石から鉄器を生産する手掛かりを見出し、そしてそれを国家の基盤にまで完成させたのがヒッタイト帝国です。この帝国の都の遺跡から出土したボアズキョイ文書によると、ヒッタイトは製鉄技術を秘密裡に保持していたようです。


 製鉄の歴史が変わるかもしれない発見
 アナトリア考古学研究所は、1986年、トルコ共和国のほぼ中央部に位置するカマン・カレホユック遺跡で考古学の発掘調査を開始しました。
 約一万年の文化を包含しているこの遺跡の調査を通して、これまで第I層(15~17世紀のオスマン帝国時代)、第II層(前12~前4世紀の鉄器時代)、第III層(前20~前12世紀の中期・後期青銅器時代)、第IV層(前25~前20世紀の前期青銅器時代)の文化を確認しています。
 第I層からは鉄生産を行なった大形炉址をはじめとして鉄滓、鉄製品が大量に出土しています。第II層の鉄器時代からも鉄製農具、武器等が数多く確認されています。第III層の中期・後期青銅器時代に入ると極端に鉄器の出土例は減少しますが、しかし、出土数が少ないとはいえ存在するので、ボアズキョイ文書通り、鉄生産はすでに始まっていたといえるでしょう。
 しかし、それ以上に驚愕させたのは2010年代以降の調査で、まったく予期もしていなかった第IV層の前期青銅器時代、つまり前3千年紀の第4四半期からも幾つもの鉄関連資料が出土したことです。この時期にはアラジャホユックの王墓から隕鉄製の鉄剣が出土しているぐらいで、その他の出土例は皆無に近いのです。カマン・カレホユック遺跡からは鉄滓、炉壁片、鉄鉱石を含む資料が出土しました。とくに鉄滓が出土していることは、鉄生産がこの遺跡でおこなわれていた可能性を強く証明することにも結びつきます。
     図:カマン・カレホユックの文化編年(大村幸弘氏論文から)

      カマン・カレホユックの文化編年

 仮設検証 製鉄の歴史
 これまでカマン・カレホユック遺跡の鉄関連資料の分析に当っている岩手県立博物館上席専門学芸員(文化財科学)赤沼英男氏は、前期青銅器時代の鉄関連資料の分析結果から、鉄生産はヒッタイト帝国時代よりはるか1000年前に開始されていたとする仮説を打ち立てています。その時期にはすでにアナトリアでは本格的鉄生産が開始されていた可能性を十分にあり得ます。これまで考古学で使用してきている「鉄器時代」の開始時期を再考する必要が出てくるのではないかと考えています。>


 鉄はどのように広がったのか
鉄器時代は、今からおよそ3200年前、ヒッタイト帝国により開始されたと考えられていたが、新たな発見によって、その1000年前に開始された可能性が出てきたと言う。では、ヒッタイトからどのように鉄器は広がったのだろうか。
<最初の鉄器文化は紀元前15世紀ごろにあらわれたヒッタイトとされている。ヒッタイトの存在したアナトリア高原においては鉄鉱石からの製鉄法がすでに開発されていたが、ヒッタイトは紀元前1400年ごろに炭を使って鉄を鍛造することによって鋼を開発し、鉄を主力とした最初の文化を作り上げた。ヒッタイトはその高度な製鉄技術を強力な武器にし、オリエントの強国としてエジプトなどと対峙する大国となった。その鉄の製法は国家機密として厳重に秘匿されており、周辺民族に伝わる事が無かった。
 しかし前1200年のカタストロフが起き、ヒッタイトが紀元前1190年頃に海の民の襲撃により滅亡するとその製鉄の秘密は周辺民族に知れ渡る事になり、エジプト・メソポタミア地方で鉄器時代が始まる事になる。カタストロフによってオリエントの主要勢力はほぼ滅亡するが、その後勃興した、あるいは生き残った諸国はすべて鉄器製造技術を備えていた。
 同様のことはエーゲ海地方においても起きた。紀元前1200年ごろにギリシアの北方から製鉄技術を持つドーリア人が侵入し、ミケーネ文明の諸都市やその構成員であったアイオリス人やイオニア人を駆逐しながらギリシアへと定住した。この時代は文字による資料が失われていることから暗黒時代と呼ばれるが、一方でアイオリス人やイオニア人を含む全ギリシアに鉄器製造技術が伝播したのもこの時代のことである。(ウィキペディアから)>

 ヨーロッパの鉄器
 <ヨーロッパにおいては、地中海沿岸のイタリア半島中部には紀元前1100年ごろからヴィラ・ノーヴァ文化が栄え、紀元前750年ごろからこの文化が都市を形成してエトルリアの諸都市が成立した。中央ヨーロッパにおいては青銅器文明後期の段階にあったハルシュタット文化が紀元前800年ごろに鉄器を受け入れ、紀元前450年ごろからはかわってラ・テーヌ文化が栄えるようになった。インドにおいての鉄器時代は古く、紀元前1200年ごろには開始されたと考えられている。ウクライナから中央アジアの草原地帯においては紀元前800年ごろからスキタイが勢力を持つようになるが、スキタイは鉄器技術を持っていた。(ウィキペディアから)>

 インドの鉄器
 <インドではアーリヤ人のガンジス川流域への移住が行われた前1000年頃から始まる後期ヴェーダ時代に、青銅器に代わって鉄器が用いられるようになり、また大麦から小麦や稲作中心の農業に変化してきた。鉄器は農耕具とともに武具としても使われた。そのような社会の変化の中で、ヴェーダ信仰も儀式や祭祀を重視する傾向が強まり、それにともなって司祭であるバラモンが特権的な地位を占めるようになってきた(「世界史の窓」から)>。
 鉄の王国・ヒッタイトは、紀元前1190年頃に滅ぼされ、秘密にしていた製鉄の技術が周辺に知れ渡ったというから、インドで紀元前1000年頃、鉄が使われたとすれば、比較的早くにインドまで広がったのだろう。


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昆布をめぐる富山の薬売りと薩摩藩の深い関係

 昆布をめぐる富山薬売り薩摩藩の深い関係

 NHKテレビで、「歴史ヒストリアーー富山薬売り 知恵とまごころの商売」(2020.5.27)を見た。番組後半で、富山薬売り薩摩藩の昆布をめぐり深く関わりがあったことを探っていて興味深かった。

 わがブログでも、これまで薩摩藩が北海道などの昆布を手に入れ、琉球を経由して中国に輸出し、中国から輸入した唐薬種が富山に流れていたことを取り上げたことがある。今回の、番組は、とくに薩摩藩が昆布を入手するうえで、富山薬売りが重要な役割を果たしていたことを明らかにしていた。薬売りの介在については知らなかった。それで、この部分にかかわるところの要旨を私流の理解で紹介する。

 富山薬売りで、9代続いた金盛家は、家宝として、幕末に薩摩藩の国父・島津久光公から拝領した太刀がある。
 富山の薬売りは、「先用後利」で常備薬の入った薬箱を各家に置いてもらい、定期的に巡回して使った分だけ代金をもらう置き薬の販売方式をつくりだした。

 薬売りは、全国22組に分かれて各地を回り活動していた。薩摩組もその一つだった。
 ところが、悩ましいことに薩摩藩が富山の薬売りを差留(営業停止処分)するという知らせが内々にあった。薩摩の差留は5度目。全国でも特に差留が多かった。

 薩摩は、火山が多く米作りに適さない土地。さらに将軍家に島津家の女性を嫁がせたためその費用が財政を圧迫。藩内の富を渡すまいと薬売りを厳しく制限した。薬売りたちは、差留を回避できないか薩摩藩町年寄、木村与兵衛に相談した。
 木村が、その方策としてあげたのが昆布だった。
「薩摩藩は財政改革をするため中国貿易を活発にしなければならない。その最大の輸出品が昆布だった」(志學館大学教授の原口泉さん)。
 中国・清では昆布が食材として珍重された。薩摩藩は蝦夷の昆布を手に入れ、琉球を中継して中国に輸出しようと考えた。ところが、昆布の輸出は幕府しかできない決まりだった。
 幕府に知られなく昆布を入手できないか、薩摩藩が注目したのが富山の薬売りだった。

 富山は当時、蝦夷と大坂を結ぶ海運の中継地点。昆布の入手は比較的容易だった。
 だが、薩摩藩との関係が公になれば幕府に追及され、罪に問われかねない。しかし、薬売りは決断した。
 富山の薬売りと薩摩藩との間の昆布取り引きに関する史料がある。薬売りたちが薩摩藩からお金を借りた。その額は500両。現在の価格で6000万円余りとなる。この頃、別の史料では富山から薩摩藩に昆布が届けられたと記されている。
      薬売りと昆布、NHK 
                 薩摩藩から500両借りた史料(NHKの画面から)

「500両は大変な額ですから、昆布の買い付けを依託したお金としか解釈できませんよね」(原口)
 巧みに幕府の目を逃れる取り引きだった。薬売りたちの差留は回避された。
「ようやく薩摩のお客さんへ薬を届けることができるようになりました」いう薬売りたち。
 一方、薩摩藩は財政を再建、軍備の西洋化など明治維新につながる実力をつちかっていく。「昆布の取り引きで得た資金がそこに投入されたと見るべきでしょう。昆布によって薩摩藩は財政破綻から脱出して日本一最強の藩によみがえったといっても過言ではありませんよね」(原口)

 薩摩藩と富山の薬売りたちの関係はこれだけにとどまらない。その後も続いた。
 1862(文久2)年、薩摩藩の軍勢が京へ出発した。軍勢を率いたのは島津久光だった。
 史料では、久光がこの時、富山の薬売りを同行させたことがうかがわれる。驚くべきことを命じていた。「密命を申し付けた」(願書留)。
 命令された一人があの刀をもらった金盛五兵衛。その命令とは、なんと隠密、スパイだった。薬売りの仕事は、比較的どこにも出入り自由である。それを利用して情報を得たと思われる。さらに自分達のネットワーク(薬売りの)を生かして全国から情報を集めた。
「久光というのは45歳で始めて中央政界、京都へ行ったわけです。これはなんのツテもありませんから、長年の信頼、取り引きの信頼に基づいた関係ですから、久光にとっては頼もしかったでしょうね。」(原口)

 これらの情報は、暴走した藩士たちの、いわゆる「寺田屋事件」を静めるさい役立ったといわれる。
 五兵衛はまた、病になった薩摩藩の樺山資紀(後の海軍大将)を看病した。こうした働きの礼として島津久光が贈ったのが金盛家の太刀だった。
 あらましこのような内容だった。
 この番組は富山の薬売りと昆布の入手だけに焦点をあてていたが、薩摩藩と昆布、富山の薬との関係はこれだけにとどまらない。中国に輸出された昆布が薩摩・琉球への運ばれる密売ルートがあり、さらに中国から輸入した品物のなかに唐薬種があり、富山の薬屋に流されていたという。

 昆布の密売ルート
  富山薬売りと昆布、NHK   
  昆布は中国で珍重された。NHKテレビから
 
 ここで、最近、昆布について書いたブログから、再掲しておきたい。
 中国から買い取る品物のなかに唐薬種がある。これと琉球が販売する昆布とは密接な関係があった。
 <昆布が採れない沖縄の昆布消費量が全国上位を占める背景に、薩摩支配下の琉球と清国との交易関係がからみ、蝦夷地(北海道)で採れる昆布が薩摩・琉球へと運ばれる密売ルートがあった。漢方薬の原料「唐粗材薬」を必要とする富山の売薬人側と大量の昆布が魅力の薩摩藩との利害が一致した。北前船に積まれた昆布を日本海沿岸のどこかの湊で積み替え、薩摩に直行。長崎以外で輸入は禁制の唐薬種を売薬人が密かに購入するという取引方法が行われていたのではないか。琉球に運ばれた昆布は那覇湊にあった「昆布座」(注・在番奉行所の隣)に納め、中国へ輸出された。薩摩は進貢貿易を利用し莫大な蓄財をなし,「『昆布』は、討幕へと富国強兵を勧める牽引力ともなっていった」(竹内經氏著「幕末の琉球を探るーー琉球へ運ばれた昆布の道」)。>

 薩摩船が来ていた新潟
 では、どこの港で積み替えが行われていたのだろうか。
 上原兼善氏は「薩摩船が唐薬種類を新潟湊で松前産の俵物・諸色の類と換えていた」と指摘している(『近世琉球貿易史の研究』、「薩摩船による北国筋における抜荷」)。
 俵物(たわらもの)とは、俵に詰めて輸出された煎海鼠(いりなまこ)・乾鮑(ほしあわび)・鱶鰭(ふかひれ)の海産物のこと。諸色(しょしき)は、昆布、テングサ、スルメなど。
 薩摩湊浦の八太郎の持ち船が1835年10月、長浜藩領村村松浜に漂着、積荷物として唐薬種・毛織物・犀角等の御禁制品を多く積み込んでいた。これが発覚して、関係者が処罰された。村松浜遭難薩摩船事件と呼ばれる。

 幕府の命を受けて探索にあたった川村修就が報告書「北越秘説」のなかで、次のように報告している(要旨)。
 <新潟町で琉球廻りの唐物抜荷を密かに探索したところ、事件が発覚する6ヶ年ほど前までは毎年6艘ぐらいずつ薩摩船の入津があり、春は薩摩芋、夏は白砂糖・氷砂糖などをもたらし、船の下積みとして唐薬種・光明朱(色鮮やかな上等な朱)などを多量に積み込んできて公然と交易していたこと、領主もそれを了解し、薩州船よりは特別な運上を取り立てていたこと、そして不正の唐物は奥羽をはじめ、北国筋にも出回っていたことなどを情報として摑んでいたのである。>
 事件は「同湊が琉球唐物抜荷の北国の拠点であったことを象徴的に示していた」。

 幕府は、松前・蝦夷地より、煎海鼠・干鮑・昆布が薩摩・越後辺りへ抜け散っているとの風聞を指摘して、長崎会所以外への販売を禁じる抜荷取締り令を発していた。(『近世琉球貿易史の研究』)
新潟湊には春秋2度にわたって薩摩船が入船し(春船・秋船)、唐薬種・砂糖・鰹節・芋などの類をもたらしていたが、事件は唐薬種の類が新潟から、またさらに越中富山・信州・上州にまで抜け散っていたことを示していた」「薩摩船が九州へ下るにあたっての積荷は、松前産の俵物・諸色の類が主力をなしていたであろう」(同書)
 このようにして、松前産の昆布などが薩摩に大量に運ばれ、それが琉球を経て中国に輸出されていたのである。
 この項は、ブログ「レキオ島唄アッチャー」の「『冠船付評価方日記』を読む」から。




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ジョン万次郎の琉球・小渡浜への上陸をめぐる真実、その5

豊見城・翁長村でもてなしされる

 万次郎、伝蔵、五右衛門の3人は那覇に護送されることになる。「じきに日も暮れたので、炬火(たいまつ)をつけて夜道を進みました。真夜中ごろ、やっと那覇の町にはいろうとする所までたどり着くと、町の方から役人が急いでやって来て、那覇の城下にははいってはいけない、翁長村へ行けという命令を持って来ました」(中浜明著『中浜万次郎の生涯』)
 なぜ那覇にはいれないのか。「當分暎人(口篇に英だが漢字が出ない)逗留中差障候付」(「琉球在番奉行取調記録」)、豊見城間切翁長村へ行かせたという。これは、万次郎らが長年、異国で暮らしていたので、当時那覇に滞在していた宣教師ベッテルハイムと逢わせたくないために、急きょ翁長村に変更したことを意味する。

 <那覇の手前までたどり着いた万次郎たちを引返させた理由は、時の琉球国外交官・小禄親雲上(ウルクペーチン)から那覇里主(市長役)に出した文書で明らかである。
 漂流者は那覇に送るべきであるが、万次郎は米国に10年も居て教育を受けて居り、普通の漂流者とは事情が違う。那覇には英国人のベッテルハイムが滞在中であり、彼に万次郎を会わすと都合が悪いとあり、当時薩摩藩から琉球に派遣されていた在番奉行による内々の取り計らいでなされていた。
 翁長村薩摩藩から派遣された役人が取り調べにあたった。3人が国外在住したことをとがめることもなく、終始おだやかな顔で取り調べにあたった態度に安どの胸をなでおろした 


      IMG_5425_20191119165830103.jpg   
            万次郎も参加した翁長村の綱引き(上陸記念碑から)

 万次郎たちの住まいにあてられた家は、高安家の家族が住んで居た茅葺きの家であった。家の人は急いで隣に茅葺きの家を建て、家族8人が移り住むようになった。3人をかくまった家は高い竹の柵で周囲をかこい、近くには宿舎を設けて薩摩の役人5人と琉球の役人2人が交代で詰め、監視にあたった。それでも3人は日常生活には何の不便もなかった。食事は琉球王府から3人の調理人が派遣され、米飯に豚・鶏・魚肉や豆腐・野菜などを使った質の高い琉球料理を揃え、時には王府から贈られた泡盛が添えられるほどのもてなしであった。(島袋良徳著「ジョン万次郎物語」から要約)
 3人は翁長村で半年余り滞在することになる。その後の万次郎の歩みを土佐清水市にある「ジョン万次郎資料館」の「中浜万次郎の生涯」から紹介する。
  <万次郎達は番所で尋問後に薩摩本土に送られ、薩摩藩や長崎奉行所などで長期に渡っての尋問を受けました。
そして嘉永6年(1853年)帰国から約2年後に土佐へ帰ることができたのです。土佐藩では公式な記録として「漂客談奇」が記され、土佐15代目藩主山内豊信(容堂)の命により蘭学の素養がある絵師・河田小龍が聞き取りを行います。このとき河田小龍によってまとめられたのが「漂巽紀略全4冊」です。漂流から米国などでの生活を経て帰国するまでをまとめており、絵師ならではの挿絵が多くある本です。土佐藩主山内容堂公にも献上され、多くの大名が写本により目にし、2年後河田小龍を尋ねた坂本龍馬や多くの幕末志士たちも目にしたに違いないと思われます。
 その後、高知城下の藩校「教授館」の教授に。後藤象二郎、岩崎弥太郎等が直接指導を受けたといわれています。
 万次郎は幕府に招聘され江戸へ。幕府直参となります。その際、故郷である中浜を姓として授かり、中濱万次郎と名乗るようになりました。
 
 この異例の出世の背景には、ペリー来航によりアメリカの情報を必要としていた幕府がありました。
 万次郎は江川英龍の元で翻訳や通訳、造船指揮、人材育成にと精力的に働きました。しかし、スパイ疑惑によりペリーの通訳をはじめとする重要な通訳、翻訳の仕事から外されてしまいました。しかしながら、万次郎の知識を必要とする志士は多く、万次郎に英語や航海術を学びに来る人は多かったそうです。
 万延元年(1860年)万次郎は、日米修好通商条約の批准書交換のためにアメリカへ行く使節団を乗せた、ポーハタン号の随行艦「咸臨丸」の通訳、技術指導員として乗り込むこととなりました。この軍艦・咸臨丸には、艦長の勝海舟や福沢諭吉ら歴史的に重要な人物らも乗っていました。
 その後、捕鯨活動、小笠原開拓、開成学校教授就任などめまぐるしく動き続けます。
 明治3年(1870年)、普仏戦争視察団としてヨーロッパへ派遣されます。ニューヨークに滞在したときに、フェアヘーブンに足を運んだ万次郎は約20年ぶりに恩人であるホイットフィールド船長に再会を果たしました。
 しかし帰国後、万次郎は病に倒れます。それ以後は静かに暮らすようになりました。
 そして明治31年(1898年)71歳で万次郎はその生涯を終えました。>

 今回の拙文は、中濱博氏の著作の一部に異論を唱える結果となった。しかし、中濱氏が「この伝記では船の入港記録、日記、手紙、公式記録などを基に、日時を明確にすることによってできるだけ写本に頼らず、歴史を掘り起こすことに努めたつもりである」とのべているように、万次郎直系の子孫による第一級の万次郎伝記であることに変わりはない。

 最後にひとこと。万次郎が10年ぶりの帰国するにあたり、江戸幕府の鎖国日本に帰れば打ち首にさえなりかねない。薩摩の支配下にあっても、独自の外交政策をとっていた琉球を、帰国の上陸地として選んだのは、とても見識ある選択だった。そう言う意味で、琉球上陸はただのと偶然でも思い付きでもない。万次郎が琉球の小渡浜に上陸したからこそ、その後、無事に郷里に帰ることができ、海外事情や進んだアメリカの技術や文化、民主主義を伝え、日本の開国と明治維新から自由民権運動にまで、重要な役割を果たすことができたのではないか。
 「琉球(沖縄)は、万次郎がアメリカ文化とデモクラシーをはじめて日本に持ってきた玄関口である。琉球上陸は万次郎の話の中のハイライトであり、何よりも万次郎たちにとって一番重要なことである」。
 中濱博氏はこのように位置付けている(『中濱万次郎――「アメリカ」を初めて伝えた日本人』―)。
 小渡浜に上陸した万次郎の小さな一歩は、日本の歴史のうえで大きな一歩となった。
   終わり    文責・沢村昭洋







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ジョン万次郎の琉球・小渡浜への上陸をめぐる真実、その4

琉球の記録でも午後2時上陸はありえない

午後2時頃上陸という説のもう一つの根拠は、琉球側の記録である。

万次郎たちの上陸について、摩文仁間切番所からどのように通報されたのが。万次郎の上陸について、和田達雄氏(ジョン万次郎上陸記念碑建立期成会副会長)が収集した台湾大学に所蔵されていた「咸豊元年「異国日記」」と尚家文書には、以下のように記述されている。

土佐國之衆三人夜前阿蘭陀船より當間切小渡濱江小舟を以卸候段、今日八ツ時分被申出候付、右三人並荷物不残那覇江送届申候、此段首尾申上候。以上」(咸豊元年「異国日記」)。


 訳文は次の通り。「土佐の国の者たち
3人が、夜前に阿蘭陀船(注・外国船)から当(摩文仁間切の小度浜に上陸したと、本日八つ時分(午後二時頃)に連絡があった。ついては、右の三人と荷物をすべて那覇へ送り届けるものとする。この件の経緯を申し上げる。以上」(同書)。

「今日八つ時分夷国傳間一艘人数三人乗組当間切小渡浜へ漂着致し候につき船頭相論じ候処大和口上をもって我々は土佐国の者昨日は八つ時分阿蘭陀船により傳間相乗り至着致し候段大抵相(進)め申し候見参之この段首尾申し上げ候(尚家文書492号)」

 訳すると次のようになる。 

<今日、正月三日の八ツ時分(14時)に申し上げます。伝馬舟一隻にて3人が小渡浜に漂着致し候につき船頭と話したら大和口にて我々は土佐の国の者で昨日2日の八ツ時分に阿蘭陀船(ウランダー)本船より卸して傳間(小舟)に相乗り「至着」着きました。宜しくお願いします。

  摩文仁間切 検者 新嘉喜親雲上 下知役 喜久里親雲上>


 ここでも「阿蘭陀船より小渡浜へ」着いた時刻が、「夜前」とされ、日暮れに着いたことになり、万次郎の証言記録と合致する。

この「今日8ツ時分(14時)被申出候ニ付」の記述は、番所から申し出があった時間である。

ところが中濱博氏は「八ツ時分は午後2時で万次郎が上陸したのが昼頃の干潮の時であったことの裏付けとなる」として、この文書を干潮時に上陸したことの裏付けとしている。

また、琉球在番奉行届書では、「正月二日七ツ時分、伝間相卸候得共、折節風雨強、其夜は地方近干瀬ニ漸掛留、翌三日八ツ時分、摩文仁間切おと濱江上陸、成行申出候由」(中濱博氏著作)と記されている。

中濱氏は「一月二日午後四時ボートを(船から)降ろしたけれども、折から風雨が強くその夜、ようやく陸地近くの珊瑚礁の間に留りました。翌、三日午後二時に摩文仁小渡浜に上陸したと申し出がありました。ここでも上陸したのが、三日、午後二時となっている」と訳して解釈している。

しかし、この「午後二時」とは、上陸した時間ではなく、役所に申し出があった時間である。「琉球在番奉行届書」は、「午後二時」と「申し出」の間に「小渡浜に上陸」の文字が入っているから誤解されやすい文章となっている。でも、前に引用した「咸豊元年異国日記」で「今日八ツ時分被申出候付」=「八つ時分(午後二時頃)に連絡があった」と明確にされているとおりである。 

          万次郎集成3 
                       「漂巽紀畧」で描かれた琉球
 この番所を午後
4時には出発して那覇に向かうことになる。上陸してからの経過を見ておきたい。

「おそい朝御飯が終わったころ、一群の島民がどかどかやって来ました。自分たちは役所の命令を受けて来たが、ボートと荷物を引き渡すように、と言って、持ち物全部を押さえてしまうのです。そして、役人のいる所まで来るように、と3人の先に立って案内しました。…ここでも蒸かしたサツマ芋を出して接待し、そして3人から身の上の聞き取りを始めます(中浜明著『中浜万次郎の生涯』)。

3人が番所に着いたときにはすでに昼どきになっていた。ほどなく3人には昼の食事が与えられた。…しばらくして、3人は役人が待つ部屋に移され、ひときわ威厳のある2人の役人から取り調べを受けた。3人の漂流から小渡浜に上陸するまでの事情を聞き調べていた。取調べの役人と万次郎たちとの間には言葉が通じにくい。そのため取調べはなかなかはかどらなかった。…一通りの聞き調べがようやく終え、3人がハワイから持ち込んできた品物も取調べた。(注・70点の荷物を記録)…役人は3人が小渡浜へ上陸したことを那覇の里主(さとぅぬし=現在の市長に相当する役人に急便を立てて報告した」((島袋良徳著「ジョン万次郎物語」)


 摩文仁間切番所から連絡を受けた那覇の「親見世」(役所)は、薩摩の在番にも報告し、指示を仰いでいる。

「下知役と検者(首里王府から間切へ派遣された役人)から(親見世へ=那覇の役所)連絡があった。この件を(親見世から)御在番所(薩摩の在番奉行所)へ報告したところ…久米村(那覇)へ陸宿させるようにとの指示があった」(「咸豊元年異国日記」から)。

このように、万次郎らは上陸してから番所で、ふかし芋の接待を受けたり、持ち物の記録、事情の聞き取りなどで、出発するまでかなれの時間を要した。

「その間、飛脚にて王府に14時報告。16時に迎えの役人と摩文仁間切番所から那覇に向かった」((和田達雄氏=ジョン万次郎上陸記念碑建立期成会副会長)とされている。上陸を報告し、迎えの役人が来るだけでも相当な時間が必要である。

上陸が午後2時なら出発までわずか2時間しかない。滞在時間があまりにも短すぎる。上陸以来の経過を見ても、午後2時上陸はなりたたないと考える。

「午後2時は役所への届け出時間であって上陸時間ではない。古文書の解釈について、混同があるのではないか」(和田達雄氏=ジョン万次郎上陸記念碑建立期成会副会長)。

 


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ジョン万次郎の琉球・小渡浜への上陸をめぐる真実、その3

 万次郎上陸は朝8時と明記

 次に万次郎たちが、上陸したのは、朝なのか午後なのかという問題である。中濱氏は「午後2時」と断定している。その根拠は、小渡浜に広がる珊瑚礁には、満潮時だと舟を漕ぎ着けられないので、上陸は干潮の時刻になるということである。
 「この浜に上陸するには大事な条件が一つある。摩文仁小渡浜は珊瑚礁が浜から250から300メートルほど沖に向かって続いており、その先は急に10メートル以上の深い海となる。ボートから浜に上陸するには、干潮と時に限られる。…満潮になると浜まで潮が来て歩いて行けないし、遠浅でボートも浜に近づけないからである。…
 ボートが着いたのは翌日、1月3日の午前2時頃であるから、午前2時8分は干潮で珊瑚礁が露出しており、万次郎がボートを停めたところは珊瑚礁から離れたところであった。夜が明けて、次の干潮まで上陸を待ち、休んだものと思われる。」
 「上陸するため、疲れて寝ている万次郎と伝蔵を起こした。その時がどの本でも朝となっているが、朝では物理的に上陸は不可能である。その時はすでに昼近くであった。それが朝でないことは午前8時38分が満潮であり上陸できないことがわかる。」
 中濱博氏は、干潮でないと上陸できないことを最大の根拠として、幾多の証言記録や中浜明氏の記述をあえて否定し、午後2時頃と判断している。この「午後2時」説に同調する方は他にもいる。
     IMG_5442.jpg
      ジョン万次郎上陸記念碑の前に立つ和田達雄さん

  しかし、小渡浜の近くの米須に住んでいたことがあり、この浜で海にも潜り、海と岩礁についてよく知っている和田達雄氏(ジョン万次郎上陸記念碑建立期成会副会長、高知県出身)は「珊瑚礁の広がるところであっても、干潮でないと上陸できないというのは間違いです。干潮でも満潮でも上陸はできます」と指摘する。
 実際に、万次郎たちは、満潮の朝8時頃、舟を漕ぎ着け、浜に上がったことを明言している。
 万次郎から聞いて亀谷益三・中平重固等か書き集めたという「難船人歸朝記事」(高知市立市民図書館蔵)では「正月3日の朝陸を見れハ、夥數人數集り來る體なり。碇を揚け船を漕着、先傳蔵陸へ上り行に、人々逃去り、其内壹人立戻り、傳蔵に應對すれ共不通」と記録している。夜が明けて朝、陸を見ると人がいるのを見かけ、「碇を揚け船を漕着」とのべ3日朝に舟を漕ぎ着け浜に上がったことを証言している。、

  「漂洋瑣談」(中浜家蔵)も「3日朝、五右衛門磯頭ニ人ノ來ルヲ見2人に示スニ、傳蔵ハ大イニ疲レ殊ニ2夜睡ラサレバ目テ見ルコト能ハス。萬次郎ト俱ニ船ヲ近クコギヨセ(注・古い漢字で出ない)、傳蔵ヲ呼覚シテ船ヲ下リ」とのべている。やはり同じく朝、人を見かけて船を漕ぎ寄せたと証言している。
 「漂巽紀畧」は、日も暮れて磯辺から一里ほど離れたところにボートを停泊させたと翌朝のことを、次のように記している。
 「翌3日の朝、磯辺に人がやってくるのを五右衛門が見つけ、…釣り竿を持った男が3,4人いることがわかったので、伝蔵はボートを下りて彼らに近づいていった。…人が何人かいるということは人家、集落があるということだろう。それならば、さっそくそこを訪ねてみようではないか、と思い立ち、万次郎といっしょに磯辺に上がって人家、集落を探しに出かけることになった」
 ここでは、ボートで翌朝、村人を見つけ、磯辺に上がったことが疑問の余地なく証言されている。

 ホイットフィールド船長に出した1860年5月25日付の手紙でも「午後4時に船を離れた。その後10時間激しく漕いだ。風のあたらない所に到着した。朝まで碇をおろした」とのべている。逆にいえば「朝碇を揚げた」ということを意味する。
 満潮でも、岩礁に舟を着け、浜に上陸することができるなら、午後までボートにいる必要はない。これらどの証言記録をみても、満潮だった朝に小渡浜に上がったという事実で共通している。
 「長崎奉行牧志摩守取調記録(上)」は、朝の上陸の時間まで明記している。
 「其夜は山影ニ乗寄相凌、翌三日明ケ方風雨静ニ相成、同所濱邉ニ人家相見、朝五ツ時頃漕付上陸いたし候處、琉球人と相見一人出會候處、言語通し不申」。
 朝明け方には風雨が静かになり、浜辺に人家が見えたので、「朝五ツ時頃漕付上陸いたし候」と証言している。朝五つとは、午前8時であり、満潮の時刻である。
 「この時の満潮は「午前8時38分」(中濱博氏)だった。この上陸時間は、最初に小渡浜に足を踏み入れ、村人からここから1丁(109メートル)ばかり行った北の方によい船着き場があると教えられ、サシチン浜に上陸した時間である。最初に小渡浜に上がり、村人と会ったのは、それより前の午前7時頃だったと推測される。この時は、満潮より1時間半前となる。「満潮になる前なら、ボートを着けて岩礁を歩いて浜に上陸することもできる」と和田達雄氏は指摘する。
 「取調記録」で、満潮時とされる「朝8時頃漕ぎ着け上陸」と時刻まで明記されている事実は重い。朝上陸を否定する根拠はまったくない。

 もう一点付け加えると、万次郎らが見かけた村人たちは、浜に魚を捕りに来ていた。
 「昨日は急に天気が荒れ、あられまじりの雨が降って寒さが非常に厳しかったために、殆どの潮溜りにはヒルクイユ(海水温が急低下して凍え死んだ魚)が浮いている。旧暦正月三日の今日、早朝から海に降りて万次郎たちと出会った人たちは、このヒルクイユを捕るために来たという」。
 地元で万次郎を研究し、糸満市公報に「ジョン万次郎物語」を掲載した島袋良徳(糸満市観光振興委員長)はこのように記述している。「ヒルクイユを捕るためにきた」というのは、地元の人ならではの事実と描写である。ヒルクイユ捕りは、通常、早朝に出かけるものだろう。万次郎らと出会ったのが午後ではないという証左である。
 「(村人は)ここから1丁(109メートル)ばかり行った北の方によい船着き場があるからそちらに舟を回すとよい、と指さして親切に教えてくれた。二人は安心してボートにもどり、言われた通りの船着き場にボートを回した。そこは、崖に挟まれた20メートルくらいの小さな砂浜で、珊瑚礁が途切れていて、満潮干潮にかかわらずいつでも舟をつけることができる」(中濱博氏著作)。
 上陸した浜は、サシチン浜と呼ばれている。万次郎らは、そこで朝食をとり、その後、番所に出向いた。
 そのあとの万次郎らの行動はどの記録や著作でもほぼ一致している。


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