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軍に抵抗した泉守紀県知事

 軍に抵抗した泉守紀県知事

 沖縄戦の激戦地、摩文仁で消息をたった元島田叡沖縄県知事は、現在でも「島守之神」として讃えられている。それに比べて、前任の知事・泉守紀は、「本土に逃げ出した」「卑怯な知事」という評価がつきまとう。沖縄に移住してすぐ、琉球新報社発行の『沖縄戦新聞』を読んだとき、泉知事が住民の北部疎開などに反対したことを知り、「卑怯な知事」というのは、妥当ではないのでは、と思っていた。ただ、それ以上、追求することがなかった。最近、やっと野里洋著『汚名 第26代沖縄県知事泉守紀』(1993年出版)を読んでみた。野里氏は元琉球新報論説副委員長である。著者自身も、当初は卑怯な知事を許せないという思いが強かったが、「先入観を排除し、どういう結果になろうと、事実だけを追い求めるべきだ」と反省して取材したという。
 
 昭和18年(1943)7月、北海道内政部長だった泉守紀(しゅき)氏が任命された。沖縄に2年半ほど務めた。昭和20年(1945)1月に香川県知事として転出し、後任には大阪府内政部長だった島田叡氏が就任した。
 泉氏は、傍若無人に振る舞う軍人に対して苦々しく思っていたという。
 昭和19年3月に、南西諸島の防衛を目的とする沖縄守備軍・第32軍が創設され、沖縄諸島に送り込まれた。軍司令官が来るに際して、県の内政部長の官舎と島尻の地方事務所を貸せと要求してきたのに対して「軍政の敷かれぬ限りお断りだ」(日記から)という態度だった。
 県と軍の関係は悪化に向かう。
     轟の壕 
      島田知事以下県幹部が避難し沖縄県庁最後の地といわれる轟壕

 慰安所設置要求を拒否
 注目されるのは、慰安所設置要求を拒否したことである。
 昭和19年夏ごろから、沖縄に部隊が続々と配備された。兵隊の増加とともに、風紀の乱れがひどくなった。軍は、兵隊の乱暴狼藉の事件が起きるのは、兵隊専用の遊興施設がないためとして、県当局に「慰安所」をつくるよう申し入れてきた。
 
 「ここは満州や南方ではない。少なくとも皇土の一部である。皇土の中に、そのような施設をつくることはできない。県はこの件については協力できかねる」
 軍は、泉知事の強硬な態度に驚いた。上級の幹部が再度申し入れたが、知事はそれでも態度を変えなかった。
 <兵隊という奴、実に驚くほど軍規を乱し、風紀を紊(みだ)す。皇軍としての誇りはどこにあるのか。皇軍の威信を保ち、県民の信頼を得ること、このことが県民保護の任に在る我輩の軍司令官に対する唯ひとつの希望である(野里洋著『汚名 第26代沖縄県知事泉守紀』)>
 泉氏は、軍人に対する怒りをこのように日記に書いた。

 昭和19年10月10日には、那覇は大空襲に襲われた。
 知事は、米軍が上陸する恐れもあると考え、11日に中部の普天間にある県の中頭地方事務所へ移動した。中頭地方事務所も空襲を受け、すでに大きな鍾乳洞の自然壕の中に移っていた。10月末まで、中頭地方事務所を県庁の仮事務所として執務した。
 「臆病な知事は怖くて壕の中に隠れたまま出て来ない」という非難の声が職員の間からも出た。
 泉知事の行動をかばう人もいる。「泉さんは合理的な人で、空襲の怖さというものをよく知っていた。…知っているからこそ、泉さんは壕に隠れたんです」(野里洋著『汚名 第26代沖縄県知事泉守紀』)。
 空襲の怖さを知っているからこその合理的な選択だったという。

 住民の北部疎開に反対
 第32軍と県は、戦争が始まった場合、一般住民を軍の保護の下に入れると決めていたが、大本営の作戦変更や皇土警備要領など、情勢が変化して打ち合わせ通りにいかなくなったため、第32軍は住民対策として南西諸島警備要領を策定した。
 県と第32軍が協議する総動員警備協議会が12月14日開かれた。牛島司令官は、泉知事に対して、激戦が予想される本島中南部(中頭、島尻両郡)の老人や女性、子どもを1945年3月末までに北部の国頭郡に疎開させ、戦闘能力のある者は防衛隊として戦闘に参加させるよう要求した((琉球新報社発行「沖縄戦新聞」1944年12月14日))。
 
 この疎開について、本島北部は、米軍が上陸した場合、いち早く米軍の手に落ちる見込みが強い。北部一帯が山岳地帯で耕地がわずかしかない。疎開した数十万の住民が生活するだけの食糧が確保できるか、これらの点を挙げて泉知事は軍の案に反対してきた。(野里洋著『汚名 第26代沖縄県知事泉守紀』)
 「彼(長勇参謀長)は県に対して、われわれは作戦に従い戦をするが、島民は邪魔なので、全部山岳地方に退去すべし、そして軍で面倒をみれないので、自活すべしと広言している。島の大半は南に人口集まり、退去を命じられた地方は未開の地で、自活不可能」(野里洋著『汚名 第26代沖縄県知事泉守紀』)。
 軍の姿勢に対してこのように反発した。
 軍との会議終了後、泉知事は、県幹部に対して「中央政府では、日本の本土に比べたら沖縄など小の虫である。大の虫のために小の虫は殺すのが原則だ。だから今、どうすればいいのか。私の悩みはここにある」と漏らした。(琉球新報社発行「沖縄戦新聞」1944年12月14日)
 <武器を持たぬ民間人を軍人とともに玉砕させることは不合理というものだ>
 行政の責任者として、軍の要求は不合理に過ぎ、納得しかねた(野里洋著『汚名 第26代沖縄県知事泉守紀』)。

 泉知事が1月12日、転出となり、後任の島田叡知事のもとで、10万人の北部疎開が進められた。
 
 泉知事は本当に本土に逃亡したのか
 泉知事は「本土出張=本土逃亡」したということが沖縄では定説のようになっている。
 任地を勝手に逃げ出すようなことを果してするのだろうか。任地を勝手に逃げ出した者が他の県の知事になることなどあり得るのか。
 「許せない知事」を調べていた野里氏は、「泉知事の足跡を追ううちに、知事が当時、現地軍とことごとく対立し、決戦を前に抜き差しならぬ事態にまでなっていたことを突きとめた。そして、現地軍と内務省はこのような軍とトラブルを起こす知事では決戦は戦えないと判断、知事を更迭した経過もつかめた」(野里洋著『汚名 第26代沖縄県知事泉守紀』)。
 泉知事について書かれた記録や証言は、昭和19年10月10日の大空襲の際の知事の行動や職員らに対する接し方、言動、あるいは軍とトラブルを起こす非常時に好ましくない知事、といった表面的な印象をもとに、「卑怯な知事」が決戦を前に戦争が怖くなって「本土に逃げた」という見方になって定着したものであろう。(同書)。
 
 当時の内務省官僚だった古井喜実・内務省警保局長や林敬三・内務省行政課長も、「任地を逃げ出した知事が他県の知事に異動することなど、内務省は絶対にしない、あり得ないと打ち消した」という。
 <泉知事が本土への転任運動を密かに続けていたのは事実であったが、任務を放り出して本土に逃げたというのは周囲の噂や憶測から出た話のようだ。…
 沖縄現地では「知事は本土に逃げた」というのが定説になっているが、泉知事を知る人の中に「知事は逃げてはいない。軍にたてついた勇気ある知事だった」と逆に高く買っている人たちもいる。
 「内務省や陸軍省が泉守紀更迭を最終的に決めたのは、住民の沖縄本島北部疎開をめぐって県当局と現地軍が対立、同問題を泉知事が東京に持ち込み、内務省、陸軍省などと協議の席上でも軍に非協力的な態度をとるのを見て、これでは沖縄戦は戦えないと判断したためとみられる」(野里洋著『汚名 第26代沖縄県知事泉守紀』)。

 後任の知事には大阪府内政部長の島田叡(あきら)に内命があり、承諾した。昭和20年1月12日、内務省から正式に発令された。島田知事が赴任してから、それまで対立していた県と軍との関係も急速に回復し、両者の間の不信感、対立はほぼ完全に解消した。
 6月19日『毎日新聞』の野村支局長は摩文仁の司令部壕で島田知事に別れの挨拶をした。その後、島田知事は消息を絶ったとされる。
 泉守紀氏は、島田知事について、日記でつぎのような感想をのべていた。
 <誠に断腸の思い…島田君は、まるで我輩の身代わりとして死にに行ってくれたようなもの。誠に国家の為とはいえ、気の毒なことだ。>
 沖縄戦を境にして生と死を分け、「戦争が怖くて本土に逃げた」と非難される者と、赴任後わずか5カ月で殉職し、「島守之神」と称えられる者と、二人の知事は対照的な道を歩んだ。
 
 そして、二人の知事の妻たちもまた、それぞれの運命を背負った戦後であった。とくに、島田知事夫人の美喜子さんは、野里氏の取材に対して、「どなた様にもお断りしております」
 「いろいろ言われたりしたこともありますので…。お前のところだけが死んだのではないとか」。そういって話すのを拒んだという
 「沖縄戦で夫を奪われ、そして戦後も、心ない人のいわれなき非難にさらされて辛い思いを続けている島田知事夫人」(同書)
 島田知事は、沖縄戦のなかで、県民の食糧確保や疎開に尽力したと称えられている。その一方で遺族は戦後、辛い思いを続けて生きてきた。ここにも沖縄戦の悲劇がある。
  終わり




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松山公園を歩く、白梅の群像

  「白梅の乙女たち」

松山公園には、白梅学徒隊の女高生たちの群像がある。「白梅の乙女た
ち」と名づけられている。この地には、沖縄戦で「白梅学徒隊」として女
学生が動員された沖縄県立第二高等女学校があったという。

白梅学徒隊は、46名の生徒のうち22名が犠牲になったという。糸満市真
栄里には「白梅之塔」があり、そばには「自決之壕」もある。白梅の女学
生たちが学んでいた第二高女の公舎跡には初めて来た。74年前の悲劇に
思いを馳せ、犠牲者の冥福を祈った。

        白梅の乙女像 

説明文は次のように記されている。

<白梅学徒隊(沖縄県立第二高等女学校)

1945年(昭和20年)324日、生徒たちは東風平村(現八重瀬町)富盛
の八重瀬岳に置かれていた第
24師団第一野戦病院に配置されることになり
ました。
           
白梅学校跡の説明
 生徒の仕事は、負傷兵の看護や手術の手伝い、水汲み,飯上げ、排泄物の
処理、死体処理などでした。

その後、5名の生徒が具志頭村新城の自然洞窟(ヌヌマチガマ)の新城分
院に配置されましたが、米軍が迫ってきたため、
63日、分院は閉鎖され
ました。

64日、病院長から野戦病院の解散命令が下され、生徒たちはそれぞれ
班をつくって南部へ向かいました。

69日、一部の生徒は国吉(現糸満市)に到着。18日に国吉一帯で米軍に
よる猛攻撃が始まり、辺りは一大殺りく場と化し、
21日と22日に壕が馬乗
り攻撃を受け、多数の死傷者が出ました。国吉に行かなかった生徒たちは、
砲弾が炸裂する中で死の彷徨を続け、ほとんどの生徒が
6月下旬に米軍に収
容されました>

 


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吉村昭の書いた沖縄の戦争

 吉村昭著『昭和の戦争5 沖縄そして北海道で』(新潮社)を読んだ。吉村氏の小説は、徹底した取材によって事実を細部にこだわって積み上げ、真実に迫るその手法と硬質の文体が割合好きで、『戦艦武蔵』『破獄』などいくつか読んでいた。
 沖縄戦についても『殉国 陸軍二等兵比嘉真一』があることは知っていたが、何となしにまだ気が向かないで手にしていなかった。
 先日、図書館で『昭和の戦争』シリーズで沖縄と北海道についての著作をまとめた本があったので借りて読んでみた。
 吉村氏は、まだ復帰前の昭和42年(1967)、沖縄戦に参加した中学生を主人公にした小説を書くために、沖縄に来た。1カ月半滞在して、90名近い人達に会い、証言を得た。テープを回し、メモをとりながら「何度嗚咽をこらえたか知れない」と記している。

 「殉国」は、14歳で陸軍二等兵となった国吉真一さんをモデルにしている。第5砲兵司令部に配属されてから、級友や将兵が戦死する中で、奇蹟的に生き続け、米軍捕虜となるまで、地獄のような戦場が克明に描かれる。小説というよりも、迫真のルポルタージュを読むようだ。
 「他人の城」は、対馬丸事件をテーマにしている。この悲劇を題材にした小説としてはもっとも早い時期の著作ではないだろうか。

 「剃刀」は、軍司令部にいた一人の理髪師の眼を通して戦争を描いている。「殉国」の中で、首里の司令部壕の外に4人の女性が荒縄で縛られ泥の中を転がっている場面がある。17,8歳の娘が斬り込み隊に志願してきたが、女性を斬り込ませるわけにいかないので説得したが暴れるので縛ったという。これまで沖縄戦について書かれた著作でも聞いたことがなかったので、この部分は真実だろうか、それとも作家の創作か、と詮索した。でも、これは、理髪師が目撃した事実であることが、この作品でわかった。
 「太陽を見たい」は、伊江島に米軍が上陸した際、女子斬込隊として5名が夜間突撃に参加して死亡したが、ほかにも斬込隊に参加して生き残った方がいて、その大城シゲさんを通して描いた短編である。
 「敵前逃亡」は、砲弾落下で意識を失い捕虜となった中学生の鉄血勤王隊員、秀一が主人公。渡嘉敷島に立てこもる日本軍の投降勧告の役を引き受けることを装って、脱走して日本軍に加わり、米軍と戦うつもりで日本軍陣地に入るが、敵前逃亡の罪で処刑される。他の作品は生存者の証言がもとになっているが、これだけは主人公は死ぬ。
 吉村氏は、記録文学ともいえる作品の中で、声高に自分の主張を叫ぶことは避けている。しかし、どの作品をとっても、そこには、戦争の残酷さ、日本軍の残忍さ、中学生や女性まで戦闘に巻き込んで行った悲劇が描かれ、圧倒される。
 吉村氏は、2006年、79歳で亡くなられた。
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