レキオ島唄アッチャー

宮古島への鉄と鍛冶の伝来、その4。争乱の世へ

 「争乱の世」へ

14世紀には遺跡が増加した。この時代、土地を巡る争いが激しくなっていく。

13世紀の遺跡(集落)は少なく、保良元島、大牧、カームイ嶺、野城、高腰城、パナタガー嶺、住屋の7件の遺跡が知られているにすぎない。14世紀に入ると遺跡は増加する。「昔は西の百郡(むむふん)、東の百郡といわれるぐらい村々は多かった」(「宮古島記事仕次」)という。…

 この時代は「争乱の世」といわれる。争乱の目的は「田畑を奪い取る」ことにあったようだ。いわゆる土地領有権の争いであり、宮古も農耕社会に依拠していたであろうことがうかがい知れる。一方では各集落(遺跡)に陶磁器が出土することから、中国との交易活動も展開していたらしく、それは集落が連合しての行動と考えられる。14世紀は集落が増加したと考えられる時代で、宮古全体で50件余の遺跡が確認されている。人口規模にすれば2000人から3000人余と考えられる。(『みやこの歴史』)>

   14世紀の遺跡分布                    宮古島の14世紀の遺跡分布(『宮古の自然と文化第3集』から

 宮古島の村々には主長が生れ、さまざまな興亡があった。

<「宮古島記事仕次」によれば、西銘村に炭焼太良(すんやきだる)という人がいた。後に西銘の主長となる嘉播(かば)の親で、西銘城を拠点とする(注・長女の子が宮古島を統一した目黒盛豊見親とされる)。

保里(ふさてぃ)村には保里天太(てぃだ)と称される主長が保里城を拠点にしていた。石原(いさら)村の主長は思千代(うむちよ)按司といって石原城を拠点にしていた。根間(にーま)村の主長は根間の大按司という人。浦島(うらすま)の主長は浦天太という。

 村々では、家督相続争いがあったり、領地の拡大をめぐり、主長の間で、殺し合いや謀殺など、血なまぐさい争乱が起きた。(同書)>

 

 与那覇原軍を破った目黒盛豊見親

 「争乱の世」に突如として現れたのが、佐多大人(さーたうぷひと)を首長とする与那覇原(よなはばら)の軍団である。与那覇原は「平良より東」にある連合集落で、兵十行(つら、一行とは百人をいう)を擁していたという。多かった村々の過半は与那覇原に滅ぼされた。

 与那覇原軍は鍛冶場をもって武器を作っていたという。

<与那覇原軍は、仲曽根東方の盛加井泉(ムイカガー)がある与那覇原村を本拠地にしていたので、その名が付いたという。盛加井泉の近くにある寺フグ御嶽は、彼らの住居跡だともいわれ、御嶽には「大和神」を祀っていたという。また鍛冶場を持っており、「鍛冶神」も祀っていた。鉄塊から刀などの武器を作り、各村を襲い住民を皆殺しにして進撃を続け、北進して大浦多志(ウプラタシ)城を滅ぼした。(伊敷賢著『琉球王国の真実』)>
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                与那覇勢頭豊見親の中山朝貢の際の逗留跡

 与那覇原軍を打ち破ったのが、目黒盛豊見親(めぐろもりとぅゆみゃ)である。これにより島内の兵乱を鎮め統一の業を成し、島内統治の実績をあげ島民から慕われたという。

目黒盛は武道の達人だった。伝承によれば、さまざまな争いの場面でも「目黒盛はただ一人宝剣を懐に帯びて赴き、按司の接待に応じた」とか「雑兵の射かける矢を目黒盛は剣を以て打ち払った」とされる。武器として剣が盛んに使われたことがうかがえる。

目黒盛が与那覇原軍を打ち破った年代について慶世村恒任は、1365年頃とし、稲村賢敷は「洪武年間の初頃(1370年代)にあたり、与那覇勢頭豊見親の中山朝貢(1390年)より20年程前のことである」とする(『みやこの歴史』から)。

 

この年代は、鉄と鍛冶の伝来の時期を考える上で重要な意味をもつ。

下池和宏氏は、大和や久米島から鉄がもたらされたと伝えられる説話にふれて、14世紀頃に鉄が宮古島に流入していたと見る。

<14世紀頃の住屋遺跡から刀子、高腰城遺跡から鉄鏃、箕島遺跡や砂川元島から鉄鍋などが出土している。これらの事例は、少なくとも14世紀頃には鉄製品が宮古に流入していたことを証している。13世紀の遺跡から鉄製品は出土していない。説話にいう農具を作ったとあるのは解せないが、渡来した人々の時代は、14世紀頃であろうと考えられる。すなわち、説話には14世紀頃の世界が色濃く反映されていると見ることができる。…島々に渡来した人々は、先住の人々と融合して定着し、農耕など宮古の基盤づくりに励んだであろう。(『宮古の自然と文化 第3集―躍動する宮古の島々』の「『宮古人』を考える」)>

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             与那覇勢頭豊見親の中山朝貢の際の逗留跡
    
 宮古人は早くから海外交易に乗り出していたと見る下池馨氏は、次のようにのべている。

14世紀初頭、あるいはそれ以前から宮古にも高度の文化は勿論、青磁、鉄器、南蛮がめ等は移入あるいは輸入されていたとみるべきである。(『宮古の民俗文化』)>

 

ここからは、宮古への鉄と鍛冶伝来の年代について、若干の私見をのべたい。

まず、鉄滓や鉄製品の破片などが出土している遺跡の年代が「1516世紀頃」だけだとすれば、鍛冶の伝来は13世紀中頃という稲村説は早すぎるだけでなく、「14世紀中葉」という谷川説も早すぎることにならないだろうか。

 また、宮古島の実際の歴史の上では、14世紀にすでに鉄製の武器や農具が広範に使われたと見られる。下池和宏氏は、14世紀頃の遺跡から鉄片などが出土しており、「少なくとも14世紀頃には鉄製品が宮古に流入していた」とする。


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宮古島への鉄と鍛冶の伝来、その3。グスク時代

 

 12世紀、グスク時代に入った宮古島

遺跡からの鉄滓、鉄片の出土などの調査結果では、稲村氏のいう13世紀中頃は早すぎるようである。鉄と鍛冶の伝来を考えるためには、考古学的な見地と同時に、鉄製の農具や武器の使用がもたらす社会の変化、発展についての歴史的な分析も欠かせない。

 ここからは、宮古島の歴史について『みやこの歴史』からスケッチ的に見ておきたい。

 宮古島は、八重山と同じように紀元前、有土器文化のあと無土器文化の時代が続いた。

<「南琉球先史時代の宮古」

(宮古島の東海岸の)浦底およびアラフなどの海浜で人々が生活を始めるようになる。土器を知らない人々の登場である。…アラフや浦底にやってきた人々は700800年ばかり居住したのち、1800年前頃(起元後200年)には浦底を離れてしまう。…宮古島を離れたアラフや浦底の人々に何が起きたのか。およそ800年間に及ぶ彼らの活動は途絶えた。宮古島に再び活気がもどったのはグスク時代である。>

 800年くらいの間、歴史の空白の時期を経て、宮古に人々が住み着き、遺跡が形成される。「先史時代の人々とは全く違う集団とも考えられる」(『宮古の自然と文化第3集』、下池和宏著「『宮古人』を考える」)。

                   12~13世紀の遺跡分布 
                
 
                        12~13世紀の遺跡分布(『宮古の自然と文化第3集』から)

宮古・八重山から出土する滑石製石鍋(長崎の西彼杵半島などで製作された)は、すくなくとも12世紀代には大和商人によって運ばれてきたと考えられている。(『みやこの歴史』)>

 

琉球史においてグスク時代とは、どのような時代なのか。

 <漁労を主体とした採取経済から、農耕を主体とした生産経済へ移行した時代を、グスク時代(12世紀~15世紀)という。…農耕社会は定住を前提とし、食料の備蓄を可能とするため、しだいに人々の生活は安定し、豊かな文化をもたらすようになった。…13世紀になると富と権力を手にした有力な按司が、砦としてのグスクを築き、武力を背景にそれぞれの地域を支配するようになった。(新城俊昭著『琉球・沖縄史』)>


 宮古など先島のグスク時代について次のようにのべている。

<先島でも14世紀はじめには農耕社会がいとなまれるようになり、各地に村落が形成された。宮古では、この村落を治めていた首長を天太(テンタ)とよび、村内でもっとも人徳のあるものが選ばれた。

 しかし、14世紀後半になると、武力によって村々を支配しようとする按司が各地にあらわれ、島全体が争乱状態におちいった。いわゆる群雄割拠の時代である。これをおさめ、宮古の統一をなしとげたのが目黒盛豊見親であった。(新城俊昭著『琉球・沖縄史』)。

 

 集落と人口が急増

 
宮古島では、グスク時代には、集落と人口が急増したという。

   『みやこの歴史」から  
    (『みやこの歴史』から)

12世紀から13世紀のグスク時代初期の遺跡は、現在78か所が確認されている。…14世紀になると遺跡の数が急増する。…遺跡は13世紀に比べて、その数が4倍以上も増加している。このことは、人口の増加があったことを示す。増加要因は自然増だけでは考えにくく、この時期には人々が島外から宮古に入り居住していたことが考えられる。宮古がいかに躍動的な時代であったかがうかがえる『みやこの歴史』。>

下池和宏氏も「この時期は13世紀に比べれば、遺跡の数が極端に増えている(図2)。13世紀の遺跡が発展・拡大したというだけでは説明がつかない程である。島外から宮古に渡来し、集落を形成した人々も少なくなかったと見るべきであろう」とのべている(「『宮古人』を考える」)。

宮古で、島外からの渡来を含めて、人口と集落の急増があったことは、農耕の発展をともなったのだろう。それは、14世紀には土地を巡る争いが激しくなることにもあらわれている。

 

遺跡と居住域

グスク時代は、石灰岩の丘陵台地に立地する遺跡と海岸沿いの低地に立地する遺跡が共存している、という。

                    14世紀の遺跡分布 
                           宮古島の14世紀の遺跡分布 『宮古の自然と文化第3集』から

<丘陵台地の遺跡には箕島、友利、上比屋山、ビンフ嶺、オイオキ原などがある。グスク時代初期の遺跡も丘陵台地に立地しており、一般的な居住域だと考えられる。このような環境にある遺跡のほとんどは16世紀をまたずに消滅している。あるいは放棄したことも考えられる。

一方、海岸沿いに立地する遺跡は、近世まで継続する集落跡で元島と呼ばれる。丘陵台地の人々と住み分けをしたことも考えられるが、まだよくわかっていない。『みやこの歴史』>

  


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宮古島への鉄と鍛冶の伝来、その2。炭焼長者の伝承

 宮古にもある炭焼長者の伝承
 鍛冶と鉄の伝来を伝える炭焼長者の話が日本の各地にあるが、宮古島にも「炭焼ダル(炭焼長者)伝承」がある。『みやこの歴史』から紹介する。 
 <鍛冶と鉄の伝来を伝える炭焼長者譚が、西銘(にすみ)の嘉播親(かばぬうや)の話として宮古島にも伝えられている。「宮古島記事仕次」は、この伝承を次のように記述している。
 炭焼太良(だる)は独りで身寄りもなく、山端の草庵に一人住んで常に炭を売って命をつないでいたから、其の名を得た、という。炭焼ダルは穀霊(萬穀の精)の導きによって野崎長井の里の真氏(もうす)を娶り、次第に富貴栄輝し、後には西銘のぬしとなり嘉播の親と称された(嘉播親の長女思目我=うむいみが=は、根間大按司(にーまうぷず)という人の次男根間の角かわら天太の大氏の夫人となり、島内を統一した目黒盛豊見親を生んだ)と。
 
 炭焼長者伝説は、鍛冶と鉄にかかわる集団によって日本各地に伝えられた、といわれ、この炭焼太良の伝承もそのひとつとされている。…
 柳田國男は…炭焼ダルが嘉播仁屋(かばにや)になったことについて、「荒れたる草の庵の炭焼太良が、忽ちにして威望隆々たる嘉播仁屋となったのを、ユリと称する穀霊の助けなりとする迄には、其背後に潜んで居た踏鞴(たたら)の魅力が、殊に偉大であったことを認めねばならぬ」といい、「島の文化史の時代区劃(くかく)としては、鋤鍬の輸入は或は唐芋より重大であった…」と、鉄渡来の重要性を強調している。>

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                                                             池間大橋
 農業の一大革新をもたらした鉄と鍛冶
鉄と鍛冶は、日本や沖縄本島から宮古に伝えられたようだ。その結果は、鉄製農具による農業の一大革新をもたらしたという。鍛冶を伝えた人は鍛冶神、農業神として祀られている。
 <鍛冶を伝えた渡来人が、宮古各地で御嶽の神として祭られていることについて、稲村賢敷(いなむらけんぷ)は、「これらの諸神はいずれも神名を金殿と称し鍛冶神であって、農具を製作して島民に与えたので島民はその徳を讃え、農業神として御嶽を建ててこれを祭ったと伝えられ、島立の神、すなわち祖神とは別個であることが明らかにされている」といって、「日本及び沖縄からの渡来人によって鍛冶の技術が伝わり、鉄製農具および漁具が製作されて一般に普及するようになったので、宮古の生産業、殊に農業に一大革新をもたらしたことを物語るものである」といっている(『みやこの歴史』)。>
 
 稲村氏は、鉄器と鍛冶の伝来について、東シナ海を荒していた倭寇の影響があるのではないか、とも指摘している。
 <私は平良市北部の遺跡調査をした結果、そこに残されている遺物に依って、この地方に居住した人々が当時東支那海の海寇として知られた倭寇の人々であることを明らかにすると共に、彼等はその青磁、南蛮焼等の所謂唐渡り物を日本々土に運んで行って売却し、更にそれに依って鉄又は鉄器類を手に入れて彼等の根拠地に持ち帰るようになり、そのために南島には鍛冶が伝来し農具が普及し農耕地は増加して部落が発達することになったということを平良北部の遺跡調査に依って知ることが出来たのであります。この事は又単に此の地方だけに限らず、南島一般について同様なことが考えられると思ってをります。稲村賢敷編『宮古島旧記並史歌集解』>


  鉄伝来の年代は

 鍛冶と鉄の伝来年代はいつだろうか。

 <稲村賢敷は、宮古における鍛冶の伝来、すなわち鉄製農具の使用について、13世紀中頃以後のことと云って、「かくして農地はにわかに増加し、戸口もこれに伴って増加した。かの『宮古島旧記』にある『当時は東の百郡、西の百郡とて住民所狭きまでに多く』というのは、こうした鉄製農具使用に伴う社会的変化を伝えたもの」であると述べている。

 谷川健一は、宮古への鍛冶の伝来は「14世紀頃」のことで、13世紀半ば頃とする稲村説は「歴史的根拠が薄弱である」といい、「鍛冶の技法と鉄器は日本から南島にもたらされたものであり、それは14世紀の中葉を皮切りに活躍を開始した倭寇が一役買っていたにちがいない」と述べて倭寇とのかかわりを指摘している。『みやこの歴史』>


 鉄伝来は14世紀中葉なのか

『みやこの歴史』は、遺跡出土の鍛冶関連遺物について、発掘調査の報告から、次のように指摘している(要約)。

 砂川元島は、1415世紀にかけて形成された遺跡で、円形の路床跡が発掘され、鉄滓(てっし)や鉄製品の破片も出土しているが、製錬炉ではなく精錬鍛冶を主体としたもので、鍛冶遺跡の年代はさほど古くなく、近世のものではないかと考えられる。

宮国元島は1516世紀頃を中心として形成された集落遺跡。小鍛冶に伴う炉跡と思われる遺構が2基検出され、鍛冶炉として理解される。平良の中心地、住屋遺跡は1318世紀の集落遺跡で、鉄滓、鉄器などの鍛冶関連遺物も出土しているが、1516世紀を中心とする集落跡から出土したもの。精錬鍛冶のみで、鉄生産の精錬滓は存在しなかった。

 <これら一連の遺跡の形成された年代や鉄滓、炉床跡、鉄製品等の出土状況などを考えあわせれば、鍛冶の伝来年代を13世紀中頃とする稲村の説は、やはり「歴史的根拠が薄弱」のように思われる。倭寇の活躍とからめて14世紀中葉頃とする谷川の説がより有力となるように思われる。>



 

 


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宮古島への鉄と鍛冶の伝来、その1。鍛冶神をたたえる神歌

宮古島への鉄と鍛冶の伝来

 

宮古島や八重山への鉄と鍛冶の伝来はいつ頃だろうか。そんな興味を持っていたところで『みやこの歴史―宮古島市史第1巻通史編』が目に留まった。宮古島への鉄と鍛冶の伝来について、まとまった記述がされていた。そこからポイントを紹介する。

鍛冶神をたたえる神歌

 宮古には、鉄の伝来と農耕をめぐり「鍛冶神をたたえる神歌」がある。

                      
 <宮古の古集落の一つである狩俣に、鍛冶の伝来を歌った神歌(かみうた)「頂(つづ)の磯金(いしがに)のタービ」が伝承されている。これは、およそ次のような内容である。

 頂の磯金は、根の島、元の島の子孫が皆、大箆(うぷぴら)、鉄箆(かにぴら)がなくて、素手になっているので、大大和(うぷやまとぅ)に上がり、大大和の人から、青鉄・黒鉄を分けてもらい、船腹に満ちるまで積み上げて持ち帰り、自分の土地の真中で、大鍛冶屋、真鍛冶屋を根立て、根の島、元の島の男たちをはじめ、宮古中の男たちすべてに伝え広げた。頂の磯金よ、なんと誇らしい、今日の直る日よ。>

 これは、鉄製の農具がないため、日本に渡って鉄を分けてもらい、鍛冶を伝えたという伝承が歌われている。八重山にも、鉄がないため鹿児島に渡って求めたという石垣島大浜の崎原御嶽の伝承がある。でも、宮古島や石垣島から沖縄本島や奄美を通り越して、九州・日本まで出かけて持ち帰ったという伝説は、私はとても信じがたい。ただ、大事なことは、鉄と鍛冶が日本から伝わったことがうたわれていることだろう。
            
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              狩俣にある「四島の主の墓」
 

 これとは逆に、日本や沖縄本島などから鍛冶が伝わったという伝承がいくつかある。こちらの方に合理性がありそうだ。

 <多良間島で伝承されている「鍛冶神(かずがん)のニーリ」は、旧暦11月の「鍛冶崇び」(フイゴ祭り)に歌われた神歌で、大和で生まれた「鍛冶神がなす」が、大和から沖縄本島へ渡り、宮古島、多良間島と南下しながら鍛冶の技術を伝え広げていったことを、…歌っている(『みやこの歴史』、神歌は省略)。>

 

宮古には、鉄と鍛冶を伝えた人を鍛冶神として祀る御嶽がある。

平良字西仲宗根にある船立御嶽(ふなだてぃうたき)の祭神は、「かねとの・しらこにやすつかさ」の兄弟神(鍛冶神)で、次のような由来を伝えている。以下、要約する。

昔、久米島按司の娘と兄が舟で流され宮古に漂着し、船立に住居した。その後結婚した娘の子が成人して久米島の祖父を訪ね、黒鉄と巻物をもらい宮古に帰り、鍛冶をおこし、農具を作って人々に与えた。それまで牛馬の骨で田畠を耕し、年々飢餓にあっていたが、鉄製農具を使用し五穀豊穣となり、人々は兄妹の骨を納め神として崇めた。

 <城辺・友利の嶺間(みねま)御嶽の祭神は、「あまれふら・泊主」の男女神で、男神は平安名崎(へんなざき)の宮渡(みゃーど)浜に漂着した大和人と伝えている。「民間口碑によると『大和神かんか主』と唱え祭っている。かんか主とは鍛冶の神のことで、彼の大和人は鍛冶の技術に長じ、鍬や、鎌等の農具を作って農民に分け与えたから一般からその徳を慕われて鍛冶神として祭られた」といわれている。>

 
          
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                 東平安名崎
<これらの神歌や御嶽伝承は、いずれも鍛冶と鉄の伝来が、日本本土、あるいは沖縄本島(久米島)からもたらされたことを伝えている。>

<渡来した人々は宮古の地に定着して子孫を残し、当時の社会に一定の貢献をしている。特に鍛冶の伝来は渡来人と深く関係している。(『みやこの歴史』)>

 

なぜ久米島から伝わったのだろうか。下池馨氏は次のような見解をのべている。

<久米島、慶良間、伊江島等が正式に、琉球に入貢したのは察度以前(英祖王代の西紀1264年)であるから早くから、なべかま、陶器、青磁類も得られていただろうし、鉄材も入手して農器具の製造法も久米島には早くより伝えられていたと考えられるから、「久米島から2人の兄妹が漂流して来て、農器具の製造法を宮古に伝えたという伝説」(船立御嶽由来)も単なる伝説だけではなく事実を裏書きしているとみてよい(『宮古の民俗文化』)。>

 

伊良部島にある長山御嶽には、次のような伝承がある。城間武松著『鉄と琉球』から紹介する。

<男神かね殿と唱え祭る、この人鉄を持渡ったために金殿と唱えたとの事である。

 昔当島には鉄がなく耕作のことも牛馬の骨を細工してやっていましたが、大和人が渡来して鉄を持渡り、長山という所に住居して農具を持ち出し村人たちにも分け与えたので耕作は思うように行き五穀も満作して人民も豊かに生活するようになったので、作物の初を供えて大和人の跡を祭るようになり御嶽ができたと言い伝えている。この項『擁正旧記』から>

これによると、昔、島に鉄がなく牛馬の骨を細工して農具としていた。大和人が鉄を持ち渡ってきて居住し、鉄製農具を村人に分け与えたので五穀豊穣となった、とやはり日本から鉄が伝わったことを示している。


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