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レキオ島唄アッチャー

『<池間民族>考』を読む、その4

 「神教民族」とは
 池間島の人たちは「神教民族」とも称されるという。何を意味しているのだろうか。
聖地ナナムイ(ウパルズ御嶽)に祀られている神々への厚い信仰心を共有してきたという意味で使われているものと思われるが、それだけではない。
 <そのことよりもむしろ死者や祖先の儀礼に関して、自分たちは外来宗教である仏教にあまり干渉されず、近年に至るまでほとんど「仏教的習俗」を受け入れなかった、という点を強調していることの方が多い。葬式も墓地も、宮古島の平良にある仏教寺院や僧侶とは直接の関係がない。また、大部分の住民が、位牌の祭祀や物故者の年忌供養、日を決めた墓参、そして旧盆の行事などを太平洋戦争まで行わなかった、と言うのである(笠原政治著『<池間民族>考』)。
 沖縄は、庶民生活では民間信仰が強く、仏教が本土ほどには浸透しなかったといわれる。でも、仏壇と位牌を大事にし、墓参り、旧盆、年忌供養など仏教の影響のある行事がとても盛んである。池間島のような仏教的な習俗が受け入れられていなかった地域、島があるとは少し意外だった。

 池間島の祭祀といえば、7,8年前にドキュメンタリー映画「スケッチ・オブ・ミャーク」を見たことがある。
宮古島の御嶽 (うたき) での神事とそのなかで歌われる「神歌」を描いていた。その中に池間島の御嶽が出ていたことを記憶している。
 御嶽での祭祀は、よそ者は立ち入ることはできないだろうと思う。だが、映画ではかなれ祭祀にも密着して撮影していた。ただ、宮古島でも「本来、神聖なものであるはずの歌が商品化された」「宮古の人びとや文化に対する敬意が欠如している」といった批判があったらしい。
祭祀と神歌を映像で記録し残すことは意義があると思う。ただ、本来、御嶽など祭祀の場で歌われる神歌が、東京の舞台で歌わされていることに違和感をもったことを思い出す。

 方角にズレがあるとは
 意外と言えば、方角を示す方言名称が池間島は沖縄の他の地域と異なるという。
 <東西南北を指す方位の方言名称が池間島だけは他の所と違っていて、たとえば、池間島以外の所で一般に「東」を表すアガイの語がこの島では「南」の意味になる。>
池間島は「北」は「イー」。「東」は「ッンシィ」。「西」は「ハイ」。「南」は「アガイ」という。沖縄では、北は「ニシ」、西は「イリ」、南は「フェー、パイ」と呼ぶ。方位の呼称が他の地域より、90度ずれていることになる。
方位の呼称は、太陽が上がるから東を「アガリ」、太陽が沈むから西を「イリ」というから、池間島の呼び方では、太陽との関係がなくなる。なぜなのか、不思議だ。
     東西南北の方位 
                  『<池間民族>考』から
              
 そういえば、沖縄では磁石が示す方角と住民が思っている方角にズレがあるという。
<かつて沖縄の各地で盛んに行われた民家(住居)や集落空間などに関する調査研究から、磁石で示される東西南北の方位(ここではかりに「磁石方位」と呼ぶ)と地元の人たちが言い表す方位(同じく「民俗方位」と呼ぶ)の名称がかならずしも一致するとは限らない、といわれはじめたのは1970年代のことである。…
八重山の事例では…図を見ると、磁石方位と民俗方位はたがいに45度くい違っていることがわかる。(笠原政治著『<池間民族>考』)>

 そうだとすると、古い記録、古い文書を読む場合、書かれている方角が、磁石で示す方角とはズレがあることを知っておかないと、勘違いすることがあるかもしれない。
 ちなみに、この方位磁石は絶対に北を示しているかというとそうではない。方位磁石が示す北(磁北)は地図の北からズレているという。しかもズレ(偏角)は場所や時間によって変わるそうだ。札幌では磁北の向きが地図の北より約9度西にズレていて、那覇ではそのズレは約5度になるという(国土地理院HPから)。
 民俗方位のズレとは関係がないが、これも初めて知ったので付けたりとして書いた。

 「池間民族の集い
 池間島にルーツを持つ人たちは、「池間民族の集い」を毎年、開いているという。
この集いは、1986(昭和61)年に宮古島でスタートした。
 <これは、池間島、佐良浜、西原の住民有志が日を決めて一堂に会する懇親会であり、3地区が年ごとに輪番制でそれぞれ会場を提供し合って、参加者たちはその1日をバレーボール、ゲートボールなどの運動競技や、囲碁、共同飲食などで楽しむ。1986年5月に池間島で第1回目が開催されて以来、このイベントは毎年1回ずつ定例行事として続けられるようになり、現在では20回を越えるまでに至った(笠原政治著『<池間民族>考』、2008年発行)>。
     池間民族の集いin佐良浜 
             「池間島観光協会のブログ」から

 2018年11月に佐良浜で開かれた「第32回池間民族の集いin佐良浜」の模様が「池間島観光協会のブログ」で紹介されている。
 その中で佐良浜地区代表は、方言で次のような挨拶をした。
 「池間民族の方言は、池間民族の共通語。若い人はだんだん方言をしゃべらなくなり、子どもに至っては方言も聞き取れなくなっている。
 池間民族の方言は消滅の危機にさらされています。
この素晴らしい池間民族の伝統、言葉を永代残していきましょう!
池間民族は永久に不滅です!!」
 池間民族と自称することで、とても誇りを持ち、絆をとても大切にしていることが感じられる。
 
 そういえば、沖縄全体でも、戦前から南米、ハワイ・北米、南洋諸島など世界各地に沖縄からたくさん移民が出かけた。海外には、いま県系2世、3世、4世など子孫が暮らしている。ウチナーンチュとしての誇りを持ち、沖縄の伝統、言葉や文化を受け継ぎ、その絆を大切にするため「世界のウチナーンチュ大会」を5年に一度開いている。どちらにも、共通するものがあるだろう。
 いずれにしても、池間島をはじめ島々で受け継がれてきた伝統や祭祀、言葉と芸能・文化は守り大切にしてほしいと改めて思った。

    終わり 2020年9月
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『<池間民族>考』を読む、その3

 池間島のカツオ漁
 沖縄で漁業は昔から盛んだったように思われるがそうではない。
 漁業らしい漁業は糸満が中心であり、「それ以外の地域では、農閑期や農作業の合間に利用してリーフ(島や集落周辺のサンゴ礁)の中などで自給的な漁撈をいとなむのがせいぜいだった」(上田不二夫氏著作の引用、笠原政治著『<池間民族>考』から)という。
 <最大の要因は、琉球王国時代に首里王府が一貫して進めた勧農(農業振興)政策にあった。…「今では久しい以前から純漁村のようにみなされている池間や佐良浜も、明治35(1902)年以前は農業の“シマ”であった」(仲宗根將二氏著作引用、同書から)> 
 
 農業が中心であっても、池間島の人たちは古くから漁撈に秀でており、そのために海産物の納付を強いられたという。
 <人頭税時代の租税として、池間島に対しては農産物や反布のほかに「ウヤイン」と称して生魚を拠出することが課せられ、また、貝類、ナマコやフカヒレの乾燥物なども納付品に指定されていたという(笠原政治著『<池間民族>考』)。>
 「磯漁で得た漁獲物の10分の1を蔵元や地方番所の役人たちに現物納付しなければならなかった」(『伊良部村史』、笠原氏著書から)、「海技に卓越していた池間漁民への割当量は驚くほどの量で、どんな時化のときでも、15才~60才までの男子に日々、体長5寸以上の魚5尾ずつの割当」があったという(『池間嶋史誌』、笠原氏著書から)
 といっても、その時代に池間島の人びとが営んでいたのは、広い意味での営利と結びつく「漁業」ではなく、自給的な生業としての「漁撈」だったと言う方が正確である。笠原氏はこのように指摘している。
 池間島の漁撈について「明治末期まではこの島での漁業はクリ舟と潜水を用いての小規模な網漁、突漁、一本釣りなどがその中心をなしていた」(野口武彦著『沖縄池間島民俗誌』、笠原氏著書から)。
        池間大橋 
                 池間大橋
 カツオ漁についても、古くからあったのではない。
 <カッチュ(カツオ)という魚は神の使いと見なされており、だれも釣って食べようとする者はいなかった、と言う。また、当時は泳ぎの速いカツオを釣り上げるだけの漁撈技術そのものがなかったとも言う(笠原政治著『<池間民族>考』)>。
沖縄のカツオ漁の始まりについて前にわがブログ「県外から学んだ沖縄のカツオ漁」で書いたことがある。そこから引用する。
 <沖縄では琉球王府時代は、漁業としてのカツオ漁はなかった。廃藩置県後の1885年(明治18)、鹿児島県の業者が慶良間諸島で試漁したのが始まりだ。それ以降、1894―6年に宮崎県の漁民、1898年に鹿児島県人の宮田善右衛門の船、田中長太郎の船で入漁し、座間味間切(マギリ、いまの町村)阿嘉村に根拠地をすえて始業した。いい成績をあげたのを見て、島民はこれを機会に、4―5人の漁民を便乗させ、漁船の運用ならびに釣獲(チョウカク)方法の伝習を受けた。
 その後も宮崎県の漁船から技術を学び、静岡県の漁船が国頭地方に漂着したのを全島民で買い求め、カツオ漁を始めた。これが、沖縄におけるカツオ釣漁業のはじめと言われている。これはまた、カツオ節製造業の始まりとなった。1906年には、9組合16隻のカツオ船をつくり、全島あげてカツオ漁業に従事することになった。
 1905年には、国頭郡の大宜味・国頭・本部・羽地において、間切有志組合を設け、カツオ節製造が始められた。その後さらにカツオ漁は盛んになり、大正後期にカツオ節業は最盛期となった。カツオ節は沖縄では砂糖に次ぐ重要な製品となっていた。以上は『沖縄の歴史第2巻近代編』(沖縄教育出版)から紹介した。>
 
 宮古島におけるカツオ漁業の始まりは、1906(明治39)年、鹿児島県出身の鮫島幸兵衛が帆船2隻を宮崎から購入し、宮古島の狩俣でカツオ漁を開始したこととされる。
 鮫島幸兵衛は、宮古でカツオ漁業を開始した3年後に事業から撤退した。
 <その鮫島から6隻の所有漁船を買い取り、池間島民がカツオ釣りの自主操業に着手したのは1910(明治43)年のことであった。…かつお節の製造は…海岸付近に簡素なカヤ葺きの工場が何カ所か建てられた。…男性たちの一本釣り、女性たちのかつお節製造という当時 の段階でできあがった分業体制は、…つい最近の1990年代まで続くことになった(笠原政治著『<池間民族>考』)。>
 いま「池間民族」を自称している3地区の人びとは、いずれも明治・大正期に近代水産業として外来のカツオ漁業を受け入れ、大正期にはカツオ景気に沸き立ち、「宮古の中でも池間島民の派手な暮らしぶりが突出していた」(同書)という。

 漁業の祈願は少ない
これだけ漁村として発展してきた池間島であるが、年間の祈願の行事は、豊漁祈願が主かと思えば、そうでもないらしい。
 <1961年当時の公的な神願い全体を見渡してまず気がつくのは、数の上では農耕の祈願が目立ち、意外なほど漁撈関係の祈願が少ないことである。
 36回のうち、…漁撈や海と結びつくような神願いは年間を通じてわずかな回数しか行われていなかったことがわかる。
宮古諸島の全域で、…ほとんどの場合に農作物の豊穣祈願がその基調になっている。…
 (大井浩太郎著)『池間嶋史誌』によると、琉球王国の治世であった17世紀の初め頃、宮古各地の村々に与人(ユンチュ)や目差(メザシ、ママ)などの地方役人が常駐し始めたときに、毎年の神事に関してもそれらの役人たちが指導して、どの村でも農耕を中心に神願いをいとなむことが取り決められた。そして、池間島や大神島、宮古島狩俣のように漁撈や海仕事が生計の一部になっている村々にだけ、特別に「いそ(磯)の神祭」や「浜神願(サニツ)」などを行なうことが差し許されたという(略)。つまり、かつて琉球王国の時代に、村々の神願いもまた勧農(農業振興)政策の一環として[官]の統制対象になっていたというわけである。(笠原政治著『<池間民族>考』)>


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『<池間民族>考』を読む、その2

   佐良浜井戸を発見
 伊良部島佐良浜に行った時、「サバウツガー」という井泉があった。
 崖の上のとても眺めのよい場所に「案内板」あある。井戸は、崖の下の海辺にあり、長い階段を降りる必要がある。
つまり、島の高台になる土地に降った雨が海岸の崖の下で湧水となって出ているのだ。
「この井戸は『ミャーギ立の金大主』と『フッヅーの松大主』が発見したといわれている。
 1720年の池間島からの強制移住より先に作られ、井戸のない佐良浜の人びとにとっては、昭和41年の簡易水道ができるまでの240年余も生活用水として利用してきた貴重な井戸である。水汲みは女達の日課で、午前3時から1日3~4回123の階段を往復したという。生きるための過酷な歴史を持っている」(説明板から)
水汲みの苦労が偲ばれる。
    伊良部大橋
        伊良部大橋      
       
 ここで留意する必要があるのは、井戸の発見が1720年の移住の前であるとしていることだ。井戸を探すのは、そこに住み着く人がいるからだ。
 伊良部島は豊かな農地が広がっているが、主に島の南部に集落があった。島の北側にあたる佐良浜は水が乏しく「無人の砂礫地」だったとされる。井戸を発見した2人は若者だったという。集団移住の前にすでに「通いの農耕からやがて現地に造った出作小屋で暮らす人たちが現れ(た)」というから、小屋を作って暮らすには水が不可欠である。そのため、崖下で水が湧き出ているところを探して発見したのではないだろうか。
      サバウツガー   

       240年余りもつかわれてきた井戸の案内石碑            
     
 移住は強制ではないのか
 もう一つ、検討する必要があるのは、佐良浜への移住が強制移住なのか、自発的な移住なのかということである。
 <前泊翁は、池間島から佐良浜への移住が「自由移民」、つまり人びとの自発的な開拓移住によるものであったとくり返し述べる(『<池間民族>考』)。>
この佐良浜の「説明板」では「強制移住」と記しており、他にも「強制移住」との説明をよく見る。
 宮古島は水田がなく、納税の穀物は粟だった。なかでも池間島は、農業生産力が低く、人頭税の税率は、村位が上中下のうち「下」とされていた。
 「痩せ地ばかりの池間島で、納税のための粟を作る耕作地つねに不足していたことは疑いない」(同書)。
 つまり、税率が下位にあったとしても、人口は多く、農地は狭く痩せ地が多ければ、池間島だけでは納税が困難だろう。納税のために、伊良部島に耕作地を求めて通い、移住をすることになれば、自発的というよりも実質的には強制された移住ということになるのではないか。この事情は、八重山でも同様である。
「島の土壌では、大きな人口規模を支えるには農耕の適地があまりにも乏しかった。蔵元は強制による住民の集団移住を進め、人口の多い池間島やそれと条件が似た大神島などに農地開拓のための入植者を求めたのである」(同書)
 
 「池間民族」の共通性
 池間民族とは、 「池間島とそこから移住・分村した佐良浜・西原 の人々、即ち池間島系統の人々の総称である」。毎年、「池間民族の集い」を開いているという。
1986(昭和61)年に宮古島でスタートした。
 <これは、池間島、佐良浜、西原の住民有志が日を決めて一堂に会する懇親会であり、3地区が年ごとに輪番制でそれぞれ会場を提供し合って、参加者たちはその1日をバレーボール、ゲートボールなどの運動競技や、囲碁、共同飲食などで楽しむ。1986年5月に池間島で第1回目が開催されて以来、このイベントは毎年1回ずつ定例行事として続けられるようになり、現在では20回を越えるまでに至った(笠原政治著『<池間民族>考』。2008年発行)。

 この池間・佐良浜・西原に共通するものは何か。笠原氏は、3点をあげる。
(1)同じ系統の聖地に対する信仰
(2)「海洋民族」「漁撈民族」という自己認識
(3)ミャークヅツと呼ばれる独特な行事の存在である。
 
 ここで聖地と呼ぶのは、池間島最高の聖地ナナムイ、ウパルズ(オハルズ)御嶽のことを指す。女性の神職者である5人のツカサンマや特定の神願いに携わる女性以外には、ミャークヅツ行事の時を除いてほとんどの住民は立ち入ることがない。
 ミャークヅツとは、旧暦8、9月の甲午の日から3日間開催される池間島最大の年中行事こと。粟の豊年祈願である。この行事は、宮古島でも、池間島、佐良浜、西原の3カ所でしか行われない。聖地が、池間、佐良浜、西原の人びとにとって大きな心の拠り所になっているという。
 「海洋民族」「漁撈民族」とは、「昔から海を舞台に暮らしてきた」という自己認識があるからだという。宮古島の中でも、池間島は漁業が盛んで、人頭税の時代に、磯漁で得た漁獲物を蔵元や地方番所の役人たちに納付しなければならなかったといわれる。沖縄にカツオ漁業が導入されてからは、カツオの一本釣りで有名だった。


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『<池間民族>考』を読む、その1

 『<池間民族>考』を読む
 
 6月に宮古島旅行をした際、絶景の池間大橋を渡った。池間島に行くのは2度目だが、ドライブで島を一周しただけ。史跡など立ち寄る時間がなかった。だが、前から池間島は独特の民俗があり、自分たちを「池間民族」と呼ぶことに興味があった。離島の沖縄、なかでも八重山、宮古島には多くの島々があるけれど「民族」を名乗っているのは池間島だけだから。
 今回初めて伊良部大橋を渡り、伊良部島にも行った。島の北側にある佐良浜は、かつて池間島から移住してきた人たちの集落であると聞いていた。だが、「なぜ池間島からかなれ離れている伊良部島へ行ったのか?」と思っていた。今回、佐良浜を訪れて、北方に広がる美しい海を見ると、正面に池間島が見える。予想よりも近く感じる。これなら池間島から佐良浜へ移り住んだことも納得できた。
 旅から帰って、笠原政治(横浜国立大学名誉教授)著『<池間民族>考―ある沖縄の島びとたちが描く文化の自画像をめぐって』を読んでみた。「池間民族」とは何か。「海洋民族」「漁撈民族」と自称するのはなぜか。そして島の独特の民俗、習俗や漁業の村としての歩みなどがとてもよく理解することができた。この際、同書をもとに、「池間民族」について紹介してみたい。
      池間大橋
         池間大橋

  漁村として知られる池間島
 池間島は漁村として名高い。「宮古の水産業は、この池間島と伊良部島佐良浜の漁師(池間島では海人=インシャ=という)たちを中心に動いてきたと言っていい」(同書)。
 島を一周してみると、島の中心部に湿原があり、よい耕作地は狭い感じがした。
 「農地が狭く、淡水源に乏しい池間島がかつて2000人を越える人口を擁していたのは、そこが水揚げの多い活力ある漁村だったからである」(同書)。
 宮古島には南東部を中心にマラリアの汚染地があったが、池間島は幸いなことにマラリアらの無病地で、そのため住民の数はむしろ増加傾向にさえあったという。
 琉球王国時代の17-19世紀に、池間島からは幾度となく伊良部島と宮古島へ集団移住や分村が行われた歴史がある。
 <前泊翁(郷土研究家の前泊徳正)によると、池間島の人びとが小船で伊良部島北部の広い無人の砂礫地へ通って農耕を始めたのは18世紀初頭の頃からだという。租税として賦課されていた粟などの耕作地をそこに求めたのである。そして、通いの農耕からやがて現地に造った出作小屋で暮らす人たちが現れるようになり、ついにはその地に池間添(邑)が新村として創設された。『伊良部村史』には、それが1720年(琉球王・尚敬8)年のことと記されている。…その後、池間添の人口増加に伴って、そこからされに前里添(村)が隣接した場所に分村し、今日の佐良浜の基礎が築かれたという(同書)。>
     ikema-map,沖縄情報IМA         
             「沖縄情報IМA」から
 
 池間島から何度も移住
 池間島から伊良部島、宮古島への移住は何度も行われた。
<『池間民族屋号集』(注・伊良波盛男著)によれば、池間民族とは、 池間島とそこから移住・分村した佐良浜・西原 の人々、即ち池間島系統の人々の総称である。 元島・池間島からの分村は、首里王府宮古頭の 命により、1720年、伊良部島に佐良浜(新浜) 村が創建され、本村(元島)池間島から14戸が 強制移住させられたことに始まる。その後、 1723年には宮古島に長間村が創建され、本村 (元島)から20人が移住。1737年には伊良部島 に国仲村が創建され、本村(元島)から35戸が 移住。1874年には宮古島ユクダキ(横竹)に西 原(西辺)村が創建され、本村(元島)から35 戸、分村佐良浜から15戸が移住している。こう して池間民族は現在、主に池間島と伊良部島の 佐良浜、宮古島の西原に住んでいるとされる(岡本雅享(福岡県立大学)著「池間民族意識に関する一考察」)>
 
 移住は、明治維新の後、琉球併合の前まで行われた。
 「移住者を送り出した池間島においても、1766年(尚穆15)年に、やはり人口増のために同じ島内で池間村から前里村がわかれた。」「1874年、明治維新後まだ沖縄県が誕生する以前の時期に、宮古における最後の移住事業として平良の北、宮古島横竹の地に西原村が創建された。池間島から73戸と、伊良部島佐良浜からの15戸を主体とした村立てであった(笠原政治著『<池間民族>考』)」。
 西原への移住には、こんなエピソードがあるという。
「上原(孝三)氏によると、西原村が創建された横竹は無人の地ではなく、それ以前から在地の人びとが暮らしていたが、それらの人たちは池間島から大量の移住民がやってくることを耳にして、次々と別の土地へ居を移してしまったという。「池間島の人々は気質が荒く乱暴者であるので恐れ、逃げ去った」そうである。(同書)>
 乱暴者というのは言い過ぎだと思う。漁業と言えば、「板子一枚下は地獄。漁師の仕事は命がけ」と言われる。多少、気性が荒いといわれるのは漁師町に共通するものだと思う。


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宮古島への鉄と鍛冶の伝来、その5。政治社会の変貌

鍛冶伝来で政治社会が変貌

宮古島への鉄と鍛冶の伝来を考える上で、考古学的な知見と同時に、宮古島における鉄と鍛冶の伝来がもたらした社会的な変化を分析することも欠かせない。

その点で、稲村賢敷氏の論考は、興味深い。

稲村氏は、日本および沖縄からの渡来人によって鍛冶の技術が伝わり、鉄製農具および漁具が製作されて一般に普及するようになったことは、「宮古の生産業、殊に農業に一大革新をもたらしたことを物語るものである」と強調。鉄製農具の使用がおよぼした宮古島の政治社会の変化について、次のようにのべている。

       081.jpg 
            豊見親墓の案内碑

  <耕地および人口の増加は、従来のように小さい血縁部落内の生活に満足することができなくなって、新開地(原や里)の発達となったのである。…狭小なる地域の祭祀を中心としてできた血縁部落は自然に変貌して、土地の開墾と分配および所有権相続権を中心とする政治社会が発達するようになる。…強力なる武力を有する男子中心の社会ができるようになったものと思われる。…平良地方においては、この新しい政治社会の統率者となった者を天太(てだ)と称した。…祭祀社会における祖神に対する尊称が、そのまま政治社会の統一者に対しても使用された。

 平良地方において天太と称した者には、(1)保里(ぶさと)天太(てだ)、(2)根間角(にーまつね)がーら天太、(3)浦天太、等がある。彼らは何れも要害に拠って城を築き、武力を備えていた。これはその勢力下にある農民を統制すると共に、附近に居る強敵の侵冠を防衛する必要のためであった。…

宮古における鍛冶の伝来は、これからなお50年乃至100年ばかり遡って13世紀中頃以後のことになり、鎌倉時代の末頃であったと考えて間違いないようである。>

 農耕社会への発展と人口の増大、それを背景として台頭した各地域の支配者間の武力抗争は、鉄製の農具と武器なしには考えられない。

     097.jpg
           仲宗根豊見親の墓

 与那覇原軍を目黒盛豊見親が打ち破ったのは1370年前後と見られている。目黒盛が争いの中で「宝剣」で矢を打ち払った逸話に見られるように、この時代の争乱に刀剣、弓矢が使われたことは確かである。

稲村氏は、14世紀には広く鉄製品が使われたことを踏まえて、鉄と鍛冶の伝来から普及までの時間的な経過を考えて、その年代を「50年乃至100年ばかり遡って13世紀中頃」と推定したのではないだろうか。
 稲村氏の推定は考古学的な知見からは早すぎるとしても、宮古の社会発展と変化の歴史を見れば、14世紀はじめには鉄と鍛冶が伝来していたと考えるのが、自然ではないだろうか。

 谷川氏と稲村氏は、鉄と鍛冶を伝えたのは倭寇と見ているが、必ずしも倭寇だけとは限らないのではないか。喜界島の城久遺跡では11世紀後半~12世紀ごろの鍛治炉の跡が20基以上、発見されている。喜界島は南島交易の拠点だったといわれ、活発な交易活動により鉄器が琉球諸島に持ち込まれていたと見られている。

宮古島に滑石製石鍋が12世紀代には大和商人によって運ばれたとすれば、喜界島で造られる鉄器が交易を通して持ち込まれたことも十分考えられる。

宮古島には倭人、琉球人、大陸の人々などが渡来している。「特に鍛冶の伝来は渡来人と深く関係している」(『みやこの歴史』)ことは確かだ。

各集落(遺跡)に陶磁器が出土することから、中国との交易もあったようだ。1317年、中国温州に14人が乗った小舟が遭難し漂着した。保良元島の首長の管轄下にある宮古人婆羅公管下密牙古人)と見られ、シンガポール方面に貿易のため出かけていたという。14世紀初めに東南アジアまで交易に乗り出していたとなれば、すでに海外から鉄器が持ち込まれたことは容易に推察される。

宮古島の農耕社会の発展と「争乱の世」の現出という歴史のなかで、鉄製の農具や武器が使用された現実から見れば、少なくとも14世紀のはじめ頃には、宮古島に鉄と鍛冶が伝来したことがうかがえるのではないだろうか。

それにしても、沖縄の離島の中で、宮古島は独特の歴史の歩みがあって、興味は尽きない。

   終わり            文責・沢村昭洋

                          


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宮古島への鉄と鍛冶の伝来、その4。争乱の世へ

 「争乱の世」へ

14世紀には遺跡が増加した。この時代、土地を巡る争いが激しくなっていく。

13世紀の遺跡(集落)は少なく、保良元島、大牧、カームイ嶺、野城、高腰城、パナタガー嶺、住屋の7件の遺跡が知られているにすぎない。14世紀に入ると遺跡は増加する。「昔は西の百郡(むむふん)、東の百郡といわれるぐらい村々は多かった」(「宮古島記事仕次」)という。…

 この時代は「争乱の世」といわれる。争乱の目的は「田畑を奪い取る」ことにあったようだ。いわゆる土地領有権の争いであり、宮古も農耕社会に依拠していたであろうことがうかがい知れる。一方では各集落(遺跡)に陶磁器が出土することから、中国との交易活動も展開していたらしく、それは集落が連合しての行動と考えられる。14世紀は集落が増加したと考えられる時代で、宮古全体で50件余の遺跡が確認されている。人口規模にすれば2000人から3000人余と考えられる。(『みやこの歴史』)>

   14世紀の遺跡分布                    宮古島の14世紀の遺跡分布(『宮古の自然と文化第3集』から

 宮古島の村々には主長が生れ、さまざまな興亡があった。

<「宮古島記事仕次」によれば、西銘村に炭焼太良(すんやきだる)という人がいた。後に西銘の主長となる嘉播(かば)の親で、西銘城を拠点とする(注・長女の子が宮古島を統一した目黒盛豊見親とされる)。

保里(ふさてぃ)村には保里天太(てぃだ)と称される主長が保里城を拠点にしていた。石原(いさら)村の主長は思千代(うむちよ)按司といって石原城を拠点にしていた。根間(にーま)村の主長は根間の大按司という人。浦島(うらすま)の主長は浦天太という。

 村々では、家督相続争いがあったり、領地の拡大をめぐり、主長の間で、殺し合いや謀殺など、血なまぐさい争乱が起きた。(同書)>

 

 与那覇原軍を破った目黒盛豊見親

 「争乱の世」に突如として現れたのが、佐多大人(さーたうぷひと)を首長とする与那覇原(よなはばら)の軍団である。与那覇原は「平良より東」にある連合集落で、兵十行(つら、一行とは百人をいう)を擁していたという。多かった村々の過半は与那覇原に滅ぼされた。

 与那覇原軍は鍛冶場をもって武器を作っていたという。

<与那覇原軍は、仲曽根東方の盛加井泉(ムイカガー)がある与那覇原村を本拠地にしていたので、その名が付いたという。盛加井泉の近くにある寺フグ御嶽は、彼らの住居跡だともいわれ、御嶽には「大和神」を祀っていたという。また鍛冶場を持っており、「鍛冶神」も祀っていた。鉄塊から刀などの武器を作り、各村を襲い住民を皆殺しにして進撃を続け、北進して大浦多志(ウプラタシ)城を滅ぼした。(伊敷賢著『琉球王国の真実』)>
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                与那覇勢頭豊見親の中山朝貢の際の逗留跡

 与那覇原軍を打ち破ったのが、目黒盛豊見親(めぐろもりとぅゆみゃ)である。これにより島内の兵乱を鎮め統一の業を成し、島内統治の実績をあげ島民から慕われたという。

目黒盛は武道の達人だった。伝承によれば、さまざまな争いの場面でも「目黒盛はただ一人宝剣を懐に帯びて赴き、按司の接待に応じた」とか「雑兵の射かける矢を目黒盛は剣を以て打ち払った」とされる。武器として剣が盛んに使われたことがうかがえる。

目黒盛が与那覇原軍を打ち破った年代について慶世村恒任は、1365年頃とし、稲村賢敷は「洪武年間の初頃(1370年代)にあたり、与那覇勢頭豊見親の中山朝貢(1390年)より20年程前のことである」とする(『みやこの歴史』から)。

 

この年代は、鉄と鍛冶の伝来の時期を考える上で重要な意味をもつ。

下池和宏氏は、大和や久米島から鉄がもたらされたと伝えられる説話にふれて、14世紀頃に鉄が宮古島に流入していたと見る。

<14世紀頃の住屋遺跡から刀子、高腰城遺跡から鉄鏃、箕島遺跡や砂川元島から鉄鍋などが出土している。これらの事例は、少なくとも14世紀頃には鉄製品が宮古に流入していたことを証している。13世紀の遺跡から鉄製品は出土していない。説話にいう農具を作ったとあるのは解せないが、渡来した人々の時代は、14世紀頃であろうと考えられる。すなわち、説話には14世紀頃の世界が色濃く反映されていると見ることができる。…島々に渡来した人々は、先住の人々と融合して定着し、農耕など宮古の基盤づくりに励んだであろう。(『宮古の自然と文化 第3集―躍動する宮古の島々』の「『宮古人』を考える」)>

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             与那覇勢頭豊見親の中山朝貢の際の逗留跡
    
 宮古人は早くから海外交易に乗り出していたと見る下池馨氏は、次のようにのべている。

14世紀初頭、あるいはそれ以前から宮古にも高度の文化は勿論、青磁、鉄器、南蛮がめ等は移入あるいは輸入されていたとみるべきである。(『宮古の民俗文化』)>

 

ここからは、宮古への鉄と鍛冶伝来の年代について、若干の私見をのべたい。

まず、鉄滓や鉄製品の破片などが出土している遺跡の年代が「1516世紀頃」だけだとすれば、鍛冶の伝来は13世紀中頃という稲村説は早すぎるだけでなく、「14世紀中葉」という谷川説も早すぎることにならないだろうか。

 また、宮古島の実際の歴史の上では、14世紀にすでに鉄製の武器や農具が広範に使われたと見られる。下池和宏氏は、14世紀頃の遺跡から鉄片などが出土しており、「少なくとも14世紀頃には鉄製品が宮古に流入していた」とする。


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宮古島への鉄と鍛冶の伝来、その3。グスク時代

 

 12世紀、グスク時代に入った宮古島

遺跡からの鉄滓、鉄片の出土などの調査結果では、稲村氏のいう13世紀中頃は早すぎるようである。鉄と鍛冶の伝来を考えるためには、考古学的な見地と同時に、鉄製の農具や武器の使用がもたらす社会の変化、発展についての歴史的な分析も欠かせない。

 ここからは、宮古島の歴史について『みやこの歴史』からスケッチ的に見ておきたい。

 宮古島は、八重山と同じように紀元前、有土器文化のあと無土器文化の時代が続いた。

<「南琉球先史時代の宮古」

(宮古島の東海岸の)浦底およびアラフなどの海浜で人々が生活を始めるようになる。土器を知らない人々の登場である。…アラフや浦底にやってきた人々は700800年ばかり居住したのち、1800年前頃(起元後200年)には浦底を離れてしまう。…宮古島を離れたアラフや浦底の人々に何が起きたのか。およそ800年間に及ぶ彼らの活動は途絶えた。宮古島に再び活気がもどったのはグスク時代である。>

 800年くらいの間、歴史の空白の時期を経て、宮古に人々が住み着き、遺跡が形成される。「先史時代の人々とは全く違う集団とも考えられる」(『宮古の自然と文化第3集』、下池和宏著「『宮古人』を考える」)。

                   12~13世紀の遺跡分布 
                
 
                        12~13世紀の遺跡分布(『宮古の自然と文化第3集』から)

宮古・八重山から出土する滑石製石鍋(長崎の西彼杵半島などで製作された)は、すくなくとも12世紀代には大和商人によって運ばれてきたと考えられている。(『みやこの歴史』)>

 

琉球史においてグスク時代とは、どのような時代なのか。

 <漁労を主体とした採取経済から、農耕を主体とした生産経済へ移行した時代を、グスク時代(12世紀~15世紀)という。…農耕社会は定住を前提とし、食料の備蓄を可能とするため、しだいに人々の生活は安定し、豊かな文化をもたらすようになった。…13世紀になると富と権力を手にした有力な按司が、砦としてのグスクを築き、武力を背景にそれぞれの地域を支配するようになった。(新城俊昭著『琉球・沖縄史』)>


 宮古など先島のグスク時代について次のようにのべている。

<先島でも14世紀はじめには農耕社会がいとなまれるようになり、各地に村落が形成された。宮古では、この村落を治めていた首長を天太(テンタ)とよび、村内でもっとも人徳のあるものが選ばれた。

 しかし、14世紀後半になると、武力によって村々を支配しようとする按司が各地にあらわれ、島全体が争乱状態におちいった。いわゆる群雄割拠の時代である。これをおさめ、宮古の統一をなしとげたのが目黒盛豊見親であった。(新城俊昭著『琉球・沖縄史』)。

 

 集落と人口が急増

 
宮古島では、グスク時代には、集落と人口が急増したという。

   『みやこの歴史」から  
    (『みやこの歴史』から)

12世紀から13世紀のグスク時代初期の遺跡は、現在78か所が確認されている。…14世紀になると遺跡の数が急増する。…遺跡は13世紀に比べて、その数が4倍以上も増加している。このことは、人口の増加があったことを示す。増加要因は自然増だけでは考えにくく、この時期には人々が島外から宮古に入り居住していたことが考えられる。宮古がいかに躍動的な時代であったかがうかがえる『みやこの歴史』。>

下池和宏氏も「この時期は13世紀に比べれば、遺跡の数が極端に増えている(図2)。13世紀の遺跡が発展・拡大したというだけでは説明がつかない程である。島外から宮古に渡来し、集落を形成した人々も少なくなかったと見るべきであろう」とのべている(「『宮古人』を考える」)。

宮古で、島外からの渡来を含めて、人口と集落の急増があったことは、農耕の発展をともなったのだろう。それは、14世紀には土地を巡る争いが激しくなることにもあらわれている。

 

遺跡と居住域

グスク時代は、石灰岩の丘陵台地に立地する遺跡と海岸沿いの低地に立地する遺跡が共存している、という。

                    14世紀の遺跡分布 
                           宮古島の14世紀の遺跡分布 『宮古の自然と文化第3集』から

<丘陵台地の遺跡には箕島、友利、上比屋山、ビンフ嶺、オイオキ原などがある。グスク時代初期の遺跡も丘陵台地に立地しており、一般的な居住域だと考えられる。このような環境にある遺跡のほとんどは16世紀をまたずに消滅している。あるいは放棄したことも考えられる。

一方、海岸沿いに立地する遺跡は、近世まで継続する集落跡で元島と呼ばれる。丘陵台地の人々と住み分けをしたことも考えられるが、まだよくわかっていない。『みやこの歴史』>

  


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宮古島への鉄と鍛冶の伝来、その2。炭焼長者の伝承

 宮古にもある炭焼長者の伝承
 鍛冶と鉄の伝来を伝える炭焼長者の話が日本の各地にあるが、宮古島にも「炭焼ダル(炭焼長者)伝承」がある。『みやこの歴史』から紹介する。 
 <鍛冶と鉄の伝来を伝える炭焼長者譚が、西銘(にすみ)の嘉播親(かばぬうや)の話として宮古島にも伝えられている。「宮古島記事仕次」は、この伝承を次のように記述している。
 炭焼太良(だる)は独りで身寄りもなく、山端の草庵に一人住んで常に炭を売って命をつないでいたから、其の名を得た、という。炭焼ダルは穀霊(萬穀の精)の導きによって野崎長井の里の真氏(もうす)を娶り、次第に富貴栄輝し、後には西銘のぬしとなり嘉播の親と称された(嘉播親の長女思目我=うむいみが=は、根間大按司(にーまうぷず)という人の次男根間の角かわら天太の大氏の夫人となり、島内を統一した目黒盛豊見親を生んだ)と。
 
 炭焼長者伝説は、鍛冶と鉄にかかわる集団によって日本各地に伝えられた、といわれ、この炭焼太良の伝承もそのひとつとされている。…
 柳田國男は…炭焼ダルが嘉播仁屋(かばにや)になったことについて、「荒れたる草の庵の炭焼太良が、忽ちにして威望隆々たる嘉播仁屋となったのを、ユリと称する穀霊の助けなりとする迄には、其背後に潜んで居た踏鞴(たたら)の魅力が、殊に偉大であったことを認めねばならぬ」といい、「島の文化史の時代区劃(くかく)としては、鋤鍬の輸入は或は唐芋より重大であった…」と、鉄渡来の重要性を強調している。>

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                                                             池間大橋
 農業の一大革新をもたらした鉄と鍛冶
鉄と鍛冶は、日本や沖縄本島から宮古に伝えられたようだ。その結果は、鉄製農具による農業の一大革新をもたらしたという。鍛冶を伝えた人は鍛冶神、農業神として祀られている。
 <鍛冶を伝えた渡来人が、宮古各地で御嶽の神として祭られていることについて、稲村賢敷(いなむらけんぷ)は、「これらの諸神はいずれも神名を金殿と称し鍛冶神であって、農具を製作して島民に与えたので島民はその徳を讃え、農業神として御嶽を建ててこれを祭ったと伝えられ、島立の神、すなわち祖神とは別個であることが明らかにされている」といって、「日本及び沖縄からの渡来人によって鍛冶の技術が伝わり、鉄製農具および漁具が製作されて一般に普及するようになったので、宮古の生産業、殊に農業に一大革新をもたらしたことを物語るものである」といっている(『みやこの歴史』)。>
 
 稲村氏は、鉄器と鍛冶の伝来について、東シナ海を荒していた倭寇の影響があるのではないか、とも指摘している。
 <私は平良市北部の遺跡調査をした結果、そこに残されている遺物に依って、この地方に居住した人々が当時東支那海の海寇として知られた倭寇の人々であることを明らかにすると共に、彼等はその青磁、南蛮焼等の所謂唐渡り物を日本々土に運んで行って売却し、更にそれに依って鉄又は鉄器類を手に入れて彼等の根拠地に持ち帰るようになり、そのために南島には鍛冶が伝来し農具が普及し農耕地は増加して部落が発達することになったということを平良北部の遺跡調査に依って知ることが出来たのであります。この事は又単に此の地方だけに限らず、南島一般について同様なことが考えられると思ってをります。稲村賢敷編『宮古島旧記並史歌集解』>


  鉄伝来の年代は

 鍛冶と鉄の伝来年代はいつだろうか。

 <稲村賢敷は、宮古における鍛冶の伝来、すなわち鉄製農具の使用について、13世紀中頃以後のことと云って、「かくして農地はにわかに増加し、戸口もこれに伴って増加した。かの『宮古島旧記』にある『当時は東の百郡、西の百郡とて住民所狭きまでに多く』というのは、こうした鉄製農具使用に伴う社会的変化を伝えたもの」であると述べている。

 谷川健一は、宮古への鍛冶の伝来は「14世紀頃」のことで、13世紀半ば頃とする稲村説は「歴史的根拠が薄弱である」といい、「鍛冶の技法と鉄器は日本から南島にもたらされたものであり、それは14世紀の中葉を皮切りに活躍を開始した倭寇が一役買っていたにちがいない」と述べて倭寇とのかかわりを指摘している。『みやこの歴史』>


 鉄伝来は14世紀中葉なのか

『みやこの歴史』は、遺跡出土の鍛冶関連遺物について、発掘調査の報告から、次のように指摘している(要約)。

 砂川元島は、1415世紀にかけて形成された遺跡で、円形の路床跡が発掘され、鉄滓(てっし)や鉄製品の破片も出土しているが、製錬炉ではなく精錬鍛冶を主体としたもので、鍛冶遺跡の年代はさほど古くなく、近世のものではないかと考えられる。

宮国元島は1516世紀頃を中心として形成された集落遺跡。小鍛冶に伴う炉跡と思われる遺構が2基検出され、鍛冶炉として理解される。平良の中心地、住屋遺跡は1318世紀の集落遺跡で、鉄滓、鉄器などの鍛冶関連遺物も出土しているが、1516世紀を中心とする集落跡から出土したもの。精錬鍛冶のみで、鉄生産の精錬滓は存在しなかった。

 <これら一連の遺跡の形成された年代や鉄滓、炉床跡、鉄製品等の出土状況などを考えあわせれば、鍛冶の伝来年代を13世紀中頃とする稲村の説は、やはり「歴史的根拠が薄弱」のように思われる。倭寇の活躍とからめて14世紀中葉頃とする谷川の説がより有力となるように思われる。>



 

 


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宮古島への鉄と鍛冶の伝来、その1。鍛冶神をたたえる神歌

宮古島への鉄と鍛冶の伝来

 

宮古島や八重山への鉄と鍛冶の伝来はいつ頃だろうか。そんな興味を持っていたところで『みやこの歴史―宮古島市史第1巻通史編』が目に留まった。宮古島への鉄と鍛冶の伝来について、まとまった記述がされていた。そこからポイントを紹介する。

鍛冶神をたたえる神歌

 宮古には、鉄の伝来と農耕をめぐり「鍛冶神をたたえる神歌」がある。                  
 <宮古の古集落の一つである狩俣に、鍛冶の伝来を歌った神歌(かみうた)「頂(つづ)の磯金(いしがに)のタービ」が伝承されている。これは、およそ次のような内容である。

 頂の磯金は、根の島、元の島の子孫が皆、大箆(うぷぴら)、鉄箆(かにぴら)がなくて、素手になっているので、大大和(うぷやまとぅ)に上がり、大大和の人から、青鉄・黒鉄を分けてもらい、船腹に満ちるまで積み上げて持ち帰り、自分の土地の真中で、大鍛冶屋、真鍛冶屋を根立て、根の島、元の島の男たちをはじめ、宮古中の男たちすべてに伝え広げた。頂の磯金よ、なんと誇らしい、今日の直る日よ。>

 これは、鉄製の農具がないため、日本に渡って鉄を分けてもらい、鍛冶を伝えたという伝承が歌われている。八重山にも、鉄がないため鹿児島に渡って求めたという石垣島大浜の崎原御嶽の伝承がある。でも、宮古島や石垣島から沖縄本島や奄美を通り越して、九州・日本まで出かけて持ち帰ったという伝説は、私はとても信じがたい。ただ、大事なことは、鉄と鍛冶が日本から伝わったことがうたわれていることだろう。
        四島の主の墓

         狩俣にある「四島の主の墓」
 

 これとは逆に、日本や沖縄本島などから鍛冶が伝わったという伝承がいくつかある。こちらの方に合理性がありそうだ。

 <多良間島で伝承されている「鍛冶神(かずがん)のニーリ」は、旧暦11月の「鍛冶崇び」(フイゴ祭り)に歌われた神歌で、大和で生まれた「鍛冶神がなす」が、大和から沖縄本島へ渡り、宮古島、多良間島と南下しながら鍛冶の技術を伝え広げていったことを、…歌っている(『みやこの歴史』、神歌は省略)。>

 

宮古には、鉄と鍛冶を伝えた人を鍛冶神として祀る御嶽がある。

平良字西仲宗根にある船立御嶽(ふなだてぃうたき)の祭神は、「かねとの・しらこにやすつかさ」の兄弟神(鍛冶神)で、次のような由来を伝えている。以下、要約する。

昔、久米島按司の娘と兄が舟で流され宮古に漂着し、船立に住居した。その後結婚した娘の子が成人して久米島の祖父を訪ね、黒鉄と巻物をもらい宮古に帰り、鍛冶をおこし、農具を作って人々に与えた。それまで牛馬の骨で田畠を耕し、年々飢餓にあっていたが、鉄製農具を使用し五穀豊穣となり、人々は兄妹の骨を納め神として崇めた。

 <城辺・友利の嶺間(みねま)御嶽の祭神は、「あまれふら・泊主」の男女神で、男神は平安名崎(へんなざき)の宮渡(みゃーど)浜に漂着した大和人と伝えている。「民間口碑によると『大和神かんか主』と唱え祭っている。かんか主とは鍛冶の神のことで、彼の大和人は鍛冶の技術に長じ、鍬や、鎌等の農具を作って農民に分け与えたから一般からその徳を慕われて鍛冶神として祭られた」といわれている。>

 
          
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                 東平安名崎
<これらの神歌や御嶽伝承は、いずれも鍛冶と鉄の伝来が、日本本土、あるいは沖縄本島(久米島)からもたらされたことを伝えている。>

<渡来した人々は宮古の地に定着して子孫を残し、当時の社会に一定の貢献をしている。特に鍛冶の伝来は渡来人と深く関係している。(『みやこの歴史』)>

 

なぜ久米島から伝わったのだろうか。下池馨氏は次のような見解をのべている。

<久米島、慶良間、伊江島等が正式に、琉球に入貢したのは察度以前(英祖王代の西紀1264年)であるから早くから、なべかま、陶器、青磁類も得られていただろうし、鉄材も入手して農器具の製造法も久米島には早くより伝えられていたと考えられるから、「久米島から2人の兄妹が漂流して来て、農器具の製造法を宮古に伝えたという伝説」(船立御嶽由来)も単なる伝説だけではなく事実を裏書きしているとみてよい(『宮古の民俗文化』)。>

 

伊良部島にある長山御嶽には、次のような伝承がある。城間武松著『鉄と琉球』から紹介する。

<男神かね殿と唱え祭る、この人鉄を持渡ったために金殿と唱えたとの事である。

 昔当島には鉄がなく耕作のことも牛馬の骨を細工してやっていましたが、大和人が渡来して鉄を持渡り、長山という所に住居して農具を持ち出し村人たちにも分け与えたので耕作は思うように行き五穀も満作して人民も豊かに生活するようになったので、作物の初を供えて大和人の跡を祭るようになり御嶽ができたと言い伝えている。この項『擁正旧記』から>

これによると、昔、島に鉄がなく牛馬の骨を細工して農具としていた。大和人が鉄を持ち渡ってきて居住し、鉄製農具を村人に分け与えたので五穀豊穣となった、とやはり日本から鉄が伝わったことを示している。


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