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与那国島はなぜ宮古島に属していたのか、その2

 多良間島と与那国島の交換
 その昔、多良間島は八重山の管轄で、与那国島は宮古の管轄であったが、「首里王府では地理的に不合理として今から467年前の文亀のころ(1501-1503)両島の管轄を交換したと文献に記されている」(喜舎場永珣著『八重山古謡(上)』)そうである。

 小池康仁著『琉球列島の「密貿易」と境界線1949-51』は、この多良間島と与那国島の交換問題について、論及している。
 <牧野(清)によれば、与那国島はかつて宮古島に帰属しており、後に現在宮古群島に属している多良間島と交換されたことを示す口碑が与那国島に残っているというのである。牧野はこの説を支持するにあたり、以下のような根拠を挙げている。まず、多良間島は石垣島から東に35キロと宮古島よりも近く、肉眼でも確認できる距離にある。そのため古来より多良間島の住民は肥沃な石垣島の土地で水田を営むため、船で耕作に通っていた。

 また八重山の新城島の古い言葉や古謡が多良間島のものとよく似ていること、他方で多良間島の地名や人名などが八重山のものとよく似ていることから、多良間島から八重山への集団移住やその他双方の人的交流があったのではないかと結論付けている。また与那国島については、かつて宮古島城辺集落周辺の住民が集団脱島し、与那国島に移住したために、宮古島との結びつきが強くなって以来、宮古との交流が始まったのではないかという。
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                 オヤケアカハチの像(石垣市)    
 また与那国島には宮古系統の姓氏があることもその根拠として挙げられている。そして宮古の仲宗根豊見親による、1500年に行われた石垣島のオヤケアカハチ討伐の際には多良間島民が征伐軍の水先案内人をつとめたことなどから、この頃には既に宮古と多良間の間で政治的な関係が緊密になっていたとしている。その結果として琉球国の尚真王により、仲宗根豊見親の水先案内人を務めた土原春源が多良間島の島主に任ぜられた。このことをもって多良間島は宮古諸島に帰属することになったという。対して与那国島は宮古に所属していたといっても、1500年当時は女酋長サンアイ・イソバの統治時代で独立を保ち、実質的には交流があった程度だろうとしている。
 
 その10年後、西表島の慶来慶田城祖納当(けらいけだぐすくすないあたり)が琉球王府より与那国島の当地責任者に任命されているため、これを根拠にこの時期には、与那国島が完全に八重山に帰属することになったとしている(牧野清 1972)。>
 宮古島から集団脱島で与那国島に行ったというのも初めて聞いた。なぜ宮古島からは遠い与那国島が脱島先になったのだろうか。やはり、すでに与那国島が交易の中継地とされて、島の事情も宮古島の島民にも知られていて、移住先に選ばれたのだろうか。

  宮古出身の詩人で思想家の川満信一氏は、この与那国・多良間交換説について、下記のような自説を展開しているという。
 <もともと宮古島は仲宗根豊見親(※1)が首里王府へ朝貢を開始し、琉球国に服属する以前から、ルソン島やシンガポールなど南方地域との交易を展開しており、その交易をおこなう中で与那国島は12世紀以前から南方貿易のための交易拠点として宮古島の人々に利用されていた。つまり与那国島は南方へ行き交う船にとって、その航路における重要な給水、食料補給基地であり、商船や倭寇などが無人島に近い頃から寄港地として利用していた。そうしたおもな寄港船が宮古島の船であったために、宮古直属になっていたのではないかという解釈である。
 
 その結びつきを示す根拠の一つとして、上述の与那国島を支配した鬼虎はもともと宮古島の出身であり、彼が幼少の頃に与那国島の商人によって与那国島へ買われてきたという出自をあげ、そうしたことが示すように商業上の緊密な関係が与那国島と宮古の間に存在したのだという。そして多良間島は南方貿易の航路からはやや外れており直轄の必要がないため八重山に帰属していたが、次第に宮古の南方貿易が衰退し、宮古への王府からの支配が強化されるに従って与那国島の重要性が下がり、逆に宮古に隣接する多良間島を宮古に帰属させたという解釈がなされている。>
※1、1390年、宮古島の首長として中山王察度に初めて朝貢したのは与那覇勢頭豊見親とされる。
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                         仲宗根豊見親の墓(宮古島市)
 小池康仁氏は、与那国島と多良間交換説に対する川満氏の解釈は、「なお推論の域を出ていないと考えられる」としながら、宮古島にとって南方貿易往路の要所として与那国島が位置づけられるという状況は、「戦後私貿易時代の両島の関係と近似」しているとも指摘している(『琉球列島の「密貿易」と境界線1949-51』)。

 川満氏は、宮古島が与那国島を「南方貿易のための交易拠点」としていたのは「12世紀以前」とする。そんなに早くから南方貿易に乗り出していたのか。史実とすれば驚きである。
 また、16世紀に与那国島の首長だった鬼虎が首里王府に従わず、1522年、王府の命で宮古の仲宗根豊見親(空広)軍により討伐されたが、鬼虎は、もともと宮古島の出身だというのも初めて聞いた。
 
 ちなみに「ウィキペディア」では、鬼虎について次のようにのべている。
 「鬼虎は元々宮古は狩俣の生まれであった。5歳の頃には既に5尺の身長があった。この頃宮古島に飢饉があった。ちょうど与那国の人が商売に来ており、鬼虎の形相を見て只者ではないと思い、米一斗で買って連れ帰った。長じて鬼虎は身長一丈五寸、勇力無双、智謀に長けた豪傑となり、与那国島の首長となった。」
 仲宗根豊美親軍が攻めた時の伝承も、宮古島出身をうかがわせるものがある。
 <軍勢を無事上陸させるため策略を用いた。すなわちまず美女が赴き、「宮古は飢饉で大変です。同郷のよしみで助けてください」等々と鬼虎を泣き落として取り入り、酒を勧めて大いに酔わせた。空広はこれに乗じて入港し、直ちに攻め入った(「ウィキペディア」)>
 これらの伝承は、どこまで史実を反映してるのかはわからない。だが、宮古島と与那国島がとても緊密な関係にあったことを物語っていて、とても興味深い。
   終わり
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与那国島はなぜ宮古島に属していたのか、その1

 与那国島はかつて宮古島に属していた
 
 与那国島はかつて宮古島に属していたという。琉球王府がオヤケアカハチの乱を征討した後、当時、八重山に属していた多良間島と与那国島を交換して、多良間は宮古へ、与那国は八重山に属するようになったことを、以前このブログでも書いた。 
 ただ、なぜ宮古島からは近い多良間島、石垣島などを通り越して、より遠い与那国島を宮古島が服属させていたのか、よくわからないままだった。
 先日、小池康仁著『琉球列島の「密貿易」と境界線1949-51』を読んでいたら、この問題に対する一つの見解が紹介されていた。 小池氏も八重山の歴史と民俗に詳しい牧野清氏や宮古島出身の川満信一氏の見解を紹介しながら記述している。

 与那国島は貿易の中継地だった
 <八重山地域を専門とする民俗学者の牧野清によれば、先島地方は琉球国の形成期において、当初王府には服属していなかったという。宮古諸島は島面積の大部分が平地で比較的大きな山や森がないため、水に乏しく農業には不向きであった。そのため古代より交易によって社会を維持してきたといわれている。逆に八重山諸島は比較的大きな山が多く水に恵まれているため、古代より農業によって社会を維持することができた。このような違いから、宮古島は琉球国が形成される14世紀ごろには、既に主として東南アジア方面との貿易を運営していたという。そして、島の伝承によれば八重山を侵略し最西端にある与那国島を服属させ、貿易の中継地としていたというのである(牧野清 1972)>
                  与那国島地図

 <その後宮古は首里王府に朝貢を通じて服属するようになった。そして、沖縄本島で首里王府を形成した三山勢力は福建地方を通じた大陸との貿易によって成り立っていた。このような経緯から、琉球国の主に南方方面との交易は宮古を中心とした勢力が担っていた、と思想家の川満信一は指摘している(川満 2004)>
(小池康仁著『琉球列島の「密貿易」と境界線1949-51』「序章琉球列島における共同体の連携」の「注7」から)

 宮古島には、古くから交易が行われていたことをうかがわせる保良元島遺跡(ぼらもとじまいせき)がある。14~15世紀頃の集落遺跡である。宮古産の土器の他・宋・元・明時代初期の中国製陶磁器片が出土している。
 <元史「温州府志―オンシュウフシ―」によれば「婆羅公管下密牙古人―ブラコウカンカミヤコジン―」が元の延祐4(1317)年、大小2隻の船で南方交易の途中、嵐に遭い中国福建省永嘉県に小舟が漂着した。小舟に乗った14人は救助され、泉南(当時の貿易都市)から密牙古方面に行く船があったので、無事に帰国できたという。
 婆羅は保良に、密牙古は宮古に比定されている。当遺跡には、元島御嶽やブンミャー跡「竜の家(やー)」と呼ばれる洞窟がある。
 当遺跡は集落跡にとどまらず、海外交易の拠点という可能性も残されており、宮古の歴史を解明する上でも重要な遺跡である。(「宮古島アプリ綾道=あやんつ」HPから)>
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     察度王に帰順した宮古島の与那覇勢頭豊見親逗留奮跡碑(那覇市)
 琉球と中国との交易は、1372年、中山王の察度(さっと)が、弟の泰期(たいき)を遣わし、中国へ朝貢したのが始まりだとされている。宮古島と見られる船の南方交易はそれより50年以上早いことになる。
 宮古島庶民史の著者で宮古島研究の第一人者 稲村賢敷は中国の記録を基に、「蜜牙古(みやこ)島人約60人がシンガポールまで交易に向かったが、暴風に巻き込まれ遭難し、12人が中国の福建省泉州の沿岸に漂着した」 と書いているという(「宮古島キッズネット」HP、「14世紀宮古島の人びとの航海術」)。
 稲村氏の指摘のように、宮古島の人々は14世紀に遠く東南アジア方面までの航路を知り、交易をおこなっていたとすれば、驚きである。
 宮古島から東南アジアまで交易に出かけていたとすれば、与那国島はその中継地として重要な位置を占めていた可能性があるだろう。
 琉球は、三山統一のあと、中国、東南アジア、日本、朝鮮との交易国家として栄えた。「琉球国の主に南方方面との交易は宮古を中心とした勢力が担っていた」(川満氏)というのは興味深い指摘である。

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