レキオ島唄アッチャー

琉球弧の歴史と喜界島(16)、二期作と中城湾岸

 水稲二期作と中城湾岸の経済的発展
 こうした政治的有力者の出現地の移動と農業生産の発展との関係についてもう少し詳しく見ておきたい。安里氏は『考古学からみた琉球史』(下)で次のようにのべている。
 <13、4世紀の沖縄の農業生産の先進形態は、石灰岩台地縁辺地帯での<水稲作+麦作>複合経営から、15、6世紀には中城湾岸のジャーガル低地帯における<水稲二期作>として展開してきたからである。…13、4世紀には石灰岩台地地帯は農業生産力が高く、集落が濃密に分布し、したがって三山時代の政治権力もそうした石灰岩台地地帯から発生した。ちなみに、中山の英祖・察度王の拠点浦添、山南汪の拠点の高嶺(糸満市)、山北王の拠点の今帰仁はすべて石灰岩台地縁辺地帯にある。
その後、15世紀には沖縄本島中頭・島尻地方13、4世紀の沖縄の農業生産の先進形態は、石灰岩台地縁辺地帯を中心に水稲二期作が広く行われていた…
 13,4世紀には農耕生産の後進地域であった非石灰岩地帯の中城湾岸や南風原・東風平地域は、水稲二期作の導入によって豊かな稲作地帯へと変貌し、そして雨後の筍のように次々と集落が形成されていった。…第一尚氏から第二尚氏時代にいたる15世紀の政治を動かした有力者(尚巴志、阿麻和利、護佐丸、尚円)は、すべてこの中城湾岸地帯を本貫地としているからだ。…当時の政治的展開の背景に、水稲二期作を基礎とした中城湾岸の経済的発展があったことを物語っている。…
グスク時代・三山時代・琉球王国時代の政治勢力の問題をすべて農業生産力の問題に解消することはできないが、農業生産力が政治力の基礎にあったことは疑うことができない。>
                    011[1]
                 中城城跡から見た中城湾岸

 琉球のグスク時代から三山時代、琉球王国にかけて、海外交易による富が政治権力の重要な基盤になったことは確かである。ただ、同時に国内での生産力がどのような段階にあったのか、とりわけ農業生産力の発展を軽視することはできない。農業生産力の発展を抜きにして、グスク時代から三山時代、琉球王国と続くその社会の維持・存続と発展も考えられないからだ。
 安里氏が、政治的有力者の発生地が、「14世紀の石灰岩台地縁辺地帯から15世紀には中城湾岸のジャーガル低地帯に移っていった」とし、その背景に「沖縄の農業生産の先進形態は、石灰岩台地縁辺地帯での[水稲作+麦作]複合経営から、15、6世紀には中城湾岸のジャーガル低地帯における[水稲二期作]として展開してきた」ことを考察していることは、示唆に富むものだと思う。
もちろん、政治権力の出現をすべて農業生産力に還元することはできない。しかし、13、4世紀の三山時代の政治権力者から15世紀の政治を動かした有力者への推移は、その基盤に農業生産力の発展があるという指摘が、私個人としては合理的な説明がされたように思った。
 終わり   (2016.12.6  文責・沢村昭洋)

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琉球弧の歴史と喜界島(15)、政治権力の基盤について補論

 古琉球の政治権力の基盤についての補論
 
 喜界島と琉球弧の歴史について、識者の見解を紹介してきたが、それらについて学ぶ中で、琉球のグスク時代から三山統一時代の政治的な有力者、権力者の出現とその政治的な基盤について、安里進氏の研究に興味をもつところがあった。このさい補論的に紹介しておきたい。

 海外交易と政治権力
 古琉球の政治権力の基盤をめぐって、主に海外交易との関連で説明されてきた。例えば尚円は海外交易を司る官職就任(御物城御鎖側官)に求める説がある。三山時代の中山王察度が英祖王統に代わって政権を継承し得たのは、浦添が牧港という良港を控え交易による経済力があったこと。三山を統一した尚巴志も、馬天港という港での交易で富を蓄え、15世紀の英雄・阿麻和利も京・鎌倉などとの交易を通して財力を蓄積したという見解などである。
 これについて、安里進氏は『考古学からみた琉球史』(上、下)で、次のようにのべている。
 <海外交易による富が政治権力の基盤になったことは、琉球各地の城塞的グスクから出土する大量の13,4世紀の輸入陶磁器や、琉球王国の朝貢貿易を中心とする海外交易からまちがいないところではあるが、それとともに政治権力の基礎の一つとして農業生産があげられなければならない。
 
 ここでグスク時代の沖縄の農業について、安里氏の著作から、見ておきたい。
 <農業は、グスク時代琉球列島の生産基盤です。グスク時代の開始とともに、集落のほとんどが琉球石灰岩台地上に立地するようになります。この台地上のムギ・アワ畑作を主体に、低地では水稲作を行い、また牛も飼育するという複合経営が展開します。…
 ムギ作を主体にした、複合経営・集約農業・冬作システム(注・冬季を中心に栽培する)というグスク時代の農業は、日本本土のような水田開発を押し進めて生産量を増大させるシステムに比べると、生産力は低いですが、台風・干ばつによる壊滅的な危険を回避して収穫を安定させることができます。こうした琉球列島の風土にあった安定的な農業生産に支えられて、グスク時代には、沖縄島中・南部の琉球石灰岩地帯や琉球石灰岩の島々を中心に人口が急激に増大していくのです(安里進・土肥直美著『沖縄人はどこから来たか 琉球=沖縄人の起源と成立』、安里「琉球・沖縄史をはかるモノサシ」)。>
 沖縄の農業生産の先進形態は、さらに13、4世紀の石灰岩台地縁辺地帯での<水稲作+麦作>複合経営から、15、6世紀には中城湾岸のジャーガル低地帯における<水稲二期作>として展開してきた、という(『考古学からみた琉球史』下)。
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                   中城城跡
 <世界の前近代政治権力と同様に古琉球の政治権力もの基礎にも農業生産があったことは、察度王や尚巴志が,彼らのもつ金塊や名剣を日本商船が積載してきた鉄と交易し、これを農器にして農民に分配し人望を得たという『中山世鑑』や『中山世譜』記載の伝承からもうかがい知ることができる。この伝承には、海外交易の富が直ちに政治権力に転化するのではなく、まずは鉄製農具を普及させ農業生産を発展させることによって人民の信望を獲得し、政治権力をもつにいたるのだという考えがある。
 そして実際、農業生産は三山時代から第一尚氏の政治権力の基礎となっていた。三山時代(14世紀)の中山・山南・山北の各王党は、それぞれ浦添・糸満・今帰仁という石灰岩台地縁辺地帯で発生した。また、三山を統一した思紹・尚巴志以後の15世紀の政治的有力者――尚巴志(佐敷)、護佐丸(中城)、阿麻和利(勝連)、尚円(西原・内間)――は総て」中城湾岸のジャーガル低地帯をその領地としていた。
 政治的有力者の発生地が、14世紀の石灰岩台地縁辺地帯から15世紀には中城湾岸のジャーガル低地帯に移っていった理由は、海外交易からは説明できない。海外交易は。14世紀には西海岸が適地であったものが、15世紀には東海岸が有利になったとは考えられない。14世紀後半以後の中国との朝貢貿易や東南アジア諸国との交易の発展とともに、これらの地域との交易船の往来に便利な西海岸の港が有利になってくるからである。> 

 なぜ第一尚氏は中山政権を奪うことができたか。安里進氏は『グスク・共同体・、村―沖縄歴史考古学序説』で、次のような見解を示している。
 <第一尚氏の中山の登場は、中山の権力が宜野湾を含む浦添勢力から佐敷勢力へ移ったことを意味しているが、その背景には農業生産が発展しつつある佐敷地方と、グスク時代以来の農業生産を続ける浦添地方の経済力の差があった。
グスク時代の遺跡分布をみると、第一尚氏の本貫地である佐敷は遺跡つまり集落分布の希薄地帯だということがわかる。>

 <グスク時代の開始期に石灰岩台地を中心に集落が激増したのと同じように、15,6世紀には海岸低地・谷底低地地帯で集落が急増していったのである。第一尚氏は、こうした集落=人口急増、したがってその背後にある農業生産力の発展を背景に急速に力を蓄えたにちがいない。この佐敷の発展の秘密は、水稲二期作だったと考えられる。…
 二期作は、…佐敷のような石灰岩台地がすくない海岸低地・谷底低地などの従来の水稲単作地帯を中心に展開したと考えられるからである。…
 15世紀の政治権力は、水稲二期作が普及し農業生産力が飛躍的に高まり、集落が急増したと考えられる非石灰岩台地地帯の中城湾岸から発生している。
 たとえば佐敷の第一尚氏、…勝連の阿麻和利と中城の護佐丸、…尚円もその支配地域は西原の内間であった。そのなかでも護佐丸は、築城したばかりの座喜味グスクを放棄してわざわざ中城グスクにその拠点を移している。>
 

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琉球弧の歴史と喜界島(14)、勝連勢力

 喜界島にある勝連家 
 沖縄と喜界島の関係について、福寛美氏はさらに、喜界島には勝連家があり、沖縄本島の勝連勢力とのなんらかのかかわりがあるのではないかと推理する。
 <琉球王国初の文字資料『おもろさうし』…に、勝連勢力が喜界島と奄美大島を地続きにしたい(島々の支配権を得たい)、と望む用例がありました。喜界島白水(しろみ)には実際に勝連とかかわりがある、と考えられる勝連家があります。勝連家には琉球王府発行の辞令書が2通、伝わっています。ある人物が喜界島の手久津久集落の掟(うっち、村落の長)から荒木間切の目差(行政単位間切の庶務管理者)、そして手久津久の大屋子(おおやこ、間切の責任者、大役)へと昇任していくプロセスが辞令書から読み取れます。
           
 また、喜界島の神女たちを統括する女性神役、大阿母(おおあむ)職の継承をめぐる勝連家に有利な文書も残っています。これらの文書は琉球王国成立後、すなわち17世紀以後の文書です。
                  
この喜界島の勝連家と、沖縄島のかつての勝連勢力を結びつける証拠はありません。しかし、活発に海外交易を行い、喜界島の支配権を欲していた勝連勢力と勝連家が無関係である、という証拠もありません。勝連家と勝連勢力の間に何らかの関係があった可能性を考えたいと思います。(『喜界島・鬼の海域 キカイジマ考』)>  
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 はたして尚徳王が、「倭寇そのもの」であったかろうかは別にして、尚徳王や勝連勢力についての指摘は、喜界島と沖縄との間に深いかかわりがあったことをうかがわせる。勝連城主だった阿麻和利は、大和との交易を盛んに行なっていたことで知られる。喜界島は勝連勢力による大和との交易の上、重要な拠点だったのかもしれない。

 沖縄との関わりといえば、次のような伝承もあるという。
 <喜界島の手久津久というシマ(集落)の中央に朝戸神社は建てられており、沖縄からウツワ船で漂着した兄妹が祭神とされています。この兄弟は沖縄からの追手を逃れ、兄妹でありながら子供を宿し、子供が神の力を授かったという言い伝えがあります(「喜界島酒造株式会社」HP)>。

 これまで喜界島の城久遺跡群の発掘と調査によって明らかにされた歴史像と琉球弧の島々に与えた影響などについて、識者の見解を紹介してきた。そのまま鵜呑みにはできない見解もあれば、とても示唆に富む論考もある。とても刺激的な提起があると思う。今での段階では、この問題について自分の意見をいえるほどの知識はない。とりあえず、簡略な紹介で終わる。


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琉球弧の歴史と喜界島(13)、尚徳王

 喜界島に深いつながりがある尚徳王
 もともと私の関心は、琉球王国による喜界島への征討問題だった。つまり、琉球から遠く離れていて、しかも奄美大島に比べればさほど大きくない島に、琉球がわざわざ莫大な費用と兵力を使って征討するのはなぜなのだろうか。喜界島とはどんな関わりがあったのだろうかという単純な疑問が出発点だった。これまで紹介した識者の論考によって、喜界島のもっていた特別な歴史と役割についておおむね理解ができた。
 
 尚徳王と喜界島との関わりについて、もう少し紹介しておきたい。
 琉球が奄美諸島にその支配を広げたのは、15世紀になってからのことだ。奄美の中で、もっとも抵抗を続けたのが喜界島だったという。
 <15世紀中葉から琉球王国による奄美諸島への「版図拡大」の軍事行動が顕在化した。久米島に漂着した朝鮮人の証言(『朝鮮王朝実録』世祖実録8年条)によれば、「(奄美)大島は1441年頃か1446年頃には服属したが、一方、鬼界島は毎年のように王府軍の攻勢を被りながらも抵抗し続けていたことが分かる」(豊見山和行編『琉球・沖縄史の世界』、安里進著「琉球王国の形成と東アジア」)>
 「第1尚氏王統最後の王尚徳が、琉球に従わないことを怒り、1466年春、自ら2000余の大軍を率いて喜界島に親征した。その16年前にも、尚金福王の弟、布里が攻めたふしがある。さらに尚元王代(1571)にも討伐されている(「最新版・沖縄コンパクト事典」から)。

 琉球王府の史書『球陽』には、喜界島が朝貢しないので、何年も攻撃していたことや、それでもが成功しなかったこと。尚徳王は怒り、2000人の兵を率いて征討したことが記録されている。
 この尚徳王が征討した時代の喜界島は、「すでに城久遺跡群は機能を停止」していたという。しかし「琉球国にとっては侮りがたい勢力が喜界島に存在していたから、尚徳王が喜界島征討に踏み切ったと考えられます」と福寛美氏は指摘している(『喜界島・鬼の海域 キカイジマ考』)。
 こうして喜界島を制圧し、「琉球王国はようやく奄美群島全域を支配下に置いた」(ウィキペディア)。
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                  尚徳王陵墓跡の碑
 尚徳王の喜界島遠征は、みずからの権力を滅ぼす要因にもなった。
 無謀な遠征により首里王府の中で人心を失ったことが、首里王府でクーデターが起きる背景にあったとされる。尚徳王は、金丸の即位を聞き、憤って海に身を投げて死んだとされる。
 その一方、死なずに遁れたという伝承が根強くある。遁れた先の一つに喜界島があり、喜界島には尚徳王のお墓まであるという。でも、喜界島を征討したのなら、恨まれているはずなのに、遁れる先に選ぶとはどういうことなのだろうか。疑問もある。

 喜界島と沖縄のつながりについて、意外な人物の証言がある。元沖縄県知事の稲嶺恵一氏である。稲嶺氏は、翁長雄志県知事とは兄弟門中(先祖が兄弟という男系血縁組織)で、第一尚氏系の士族だったとして、次のような伝承を語っている。
 クーデターが起きた時、たまたま祖先が喜界島に行っていた。いったん本島に戻ったけれど、殺されるかもしれないと喜界島に戻った。だからお墓は喜界島にある。墓参りに行っていた(松原耕二著『反骨』)。
 その一方、これまで紹介したように、喜界島が東アジアの交易拠点で、沖縄諸島への物産の流通とともに、喜界島から沖縄への移住もあったという。喜界島から渡来した人たちの子孫もたくさんいて、中には琉球の有力者になった人もいただろう。それらのことを考えると、喜界島が奄美諸島のなかの一つの島というだけではない、特別な関係がある島だったことがうかがえる。
        護国寺
                         波之上にある護国寺

 尚徳王について、倭寇勢力と関わりがあるという指摘がある。以下、福寛美氏の著作からの紹介である。
 尚徳王は、喜界島での勝利を八幡神の加護のたまものと考えた。喜界島からの帰途、海路に浮鐘(海に浮かぶ鐘)を得て、八幡台菩薩の霊験として安里に八幡宮を勧請し祀ったこと。波上宮の顕徳名高麗鐘が高麗に侵入した倭寇の略奪品で、それが那覇港に運ばれ奉納されたものであろうという鎌倉芳太郎の見解を引用したうえで、次のように結論づけている。
「浮鐘への進行は倭寇の習俗、とされています。その倭寇の習俗そのままの行動をとった、とされる尚徳王は、まさに倭寇そのものだと考えられます」(『喜界島・鬼の海域 キカイジマ考』)。

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琉球弧の歴史と喜界島(12)、南島路

 南島路を利用した交易者

 14世紀代に沖縄島で起きた変化には、ちょうどこのころから頻繁に利用されることになる中国と日本を結び交易路「南島路」(「肥後高瀬~薩摩~琉球~福建」が大きな役割を果した。その新たな参入者として九州を中心とする海商や倭寇的勢力が考えられるという。吉成直樹氏は次のように指摘する。
 <14世紀の南北朝時代には、肥後の高瀬津は南朝方の豪族である菊池氏の支配下にあり、肥後高瀬~薩摩~琉球~福建の交通路には南朝系の勢力が深く関与していた可能性があることである。懐良親王が日本国王として冊封される以前の1369年に、洪武帝は倭寇の鎮圧が可能と考え懐良親王にその禁圧を強く求めている。…
 
 一方では「日本国王良懐」に倭寇の禁圧を要求し、他方では倭寇を琉球に封じ込めるという、両面の政策をとっていたと考えられる。いずれにしろ、懐良親王への遣使を務めたのも楊載であり、琉球を招諭した時の遣使も楊載なのである。…
沖縄島における在地社会の内的な発展を軽視することはできないが、南北朝の動乱と中国の元末の混乱を背景に南島路を利用していた交易者の問題や、沖縄諸島をも含む広範囲にわたって活動をし、中国南部の沿岸地域でも活動していた倭寇勢力を抜きに、14世紀代の沖縄島の社会変化、さらには「三山時代」の形成の問題を考えることはできない。(吉成直樹、高梨修、池田榮史著『琉球史を問い直すーー古琉球時代論』)>
                     東シナ海の交易航路と黒潮の海流
谷川健一編『日琉交易の解明』から

 沖縄への北からの渡来については、民俗学者の仲松弥秀氏も次のような見解をのべている。
 <仲松弥秀はグスク=聖域論を展開する中で、沖縄において豪族化した人物のほとんどは本土から海を渡り、島々を経て渡来した者たちで、商業貿易への関心と才能を持っていた人物であったと述べる。そして、こうした渡来者の中で良港を控え、海上はるかに展望の利く場所に拠った者が次第に優位に立っていったとし、今帰仁、座喜味、勝連、中城、大里、佐敷、南山、首里、浦添をあげる。ただ、仲松は渡来者の数は少なく、ごく近親の者を連れてきたくらいであり、地域住民からの信頼を得ることによって勢力を増し、自己目的の貿易掌握に近づくことができたと述べる(仲松、1990、100~101)、吉成直樹著『琉球の成立―移住と交易の歴史』の(注67)から>
 
 城久(ぐすく)遺跡群に興味があって読みだしたが、この遺跡の内容を見ると、それが琉球弧の全体にもかかわるものであり、琉球の歴史にも影響を及ぼしたことがうかがわれる。実際に、琉球のグスク時代や三山時代などにどのような影響を与えたのかは、論者によってさまざまな見方がある。
 沖縄各地に残されている伝承には、アマミキヨ伝説、為朝伝説、南走平家伝説にみられるように、大和からの渡来をうかがわせる伝承や倭寇が根拠地としたなどの伝承が数多くある。沖縄の歴史形成に、外的な力や渡来人が強い影響を与えたことは間違いない。 

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琉球弧の歴史と喜界島(11)、外的な力

琉球に影響を与えた「外的な力」
 琉球のグスク時代とそれに続く時代の発展について、琉球の「内なる発展」ではなく、「外的な力」の働きがあったという指摘がされている。
池田榮史氏(琉球大学教授)は、11世紀以降から琉球国成立期までに琉球諸島への外的な力について次のようにのべている。
<11世紀代の沖縄諸島、さらには宮古・八重山諸島で起こる社会的文化的変化は、南島物産の調達を目的とした日本古代国家や商人たちの動きによって引き起こされたものであり、沖縄諸島における貝塚時代からグスク時代への転換、さらには宮古・八重山諸島を含めた琉球国成立への胎動は、このような外部すなわち日本からの働きかけによって引き起こされた(池田)。(吉成直樹、高梨修、池田榮史著『琉球史を問い直すーー古琉球時代論』)>
                   糸数城跡
                    南城市の糸数城跡
 さらに、おおむね14世紀後半から15世紀半ば頃にかけての時期に、いずれのグスクでも大規模な拡張が行われたことについて、次のような指摘がされている。
<池田榮史は、こうした大規模な拡張工事による、城塞の拡大と整備、基壇建物の造営という構造化は「内部の論理」(内なる発展)ではなく、外的な力が働かなければ起こらないと指摘する。このグスクの構造化に働いた外的な力とは、琉球が明の招諭によって朝貢を開始し、交易が急激に拡大したことであることはほぼ間違いない。…
 城塞型の大型グスクの大規模な拡張工事を行うためには、莫大な財の所有とともに、土木・建築技術者、瓦工など多くの技術者集団などを差配できる存在を想定しなければならない。…
 大規模な拡張工事を行い、城塞の整備や基壇建物を造営する財力を持ち得たのは誰か、という問題が生じる。…外部からの力を想定しなければ説明することは難しい。また、交易システムの急激な転換は、朝貢貿易の開始という明の働きかけによる要因ばかりではなく、沖縄島への新たな交易者の参入や、それに刺激を受けた在地の勢力による新たな交易システムの構築によってもたらされたと考える必要があろう。(吉成直樹、高梨修、池田榮史著『琉球史を問い直すーー古琉球時代論』)>

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琉球弧の歴史と喜界島(その10)、農業社会

 グスク時代と農業社会
 グスク時代の開始のキッカケをつくった日本からの渡来人として、安里進氏は「商人、陶工、鍛冶職人、そして彼らを統率する有力者」などをあげた。しかし、そこには「彼らは農民でもないのにグスク時代が農業社会になるのはなぜか」という疑問が残る。また、彼らがどこから来たのか、なぜ琉球列島に住み始めたのかという問題もある。
 これらの問題を解明する見通しをあたえる遺跡として、安里氏は2002~9年に発掘調査された喜界島の城久遺跡群をあげる。すでに城久遺跡群については紹介した。ただ、琉球のグスク時代の農業とこの遺跡との関係についての記述はなかった。この問題で安里氏は次のような推論をしているので要約して紹介する。
 
 城久遺跡群は、大宰府の出先機関というより、大宰府につながる日本人集団の拠点で、南島物産の交易に従事する一方では、遺跡の炊飯用具(土師器の甕)には南島的な要素もあると指摘されているので、城久遺跡群には外来者の生活をサポートする喜界島在来集団もいたと考えられる。
 <おそらく、喜界島では9~12世紀にかけて、九州系渡来集団と島民の混血集団が形成されていったと思われます。喜界島は、琉球石灰岩台地という琉球列島特有の地形・土壌の島ですが、このような風土の喜界島で、グスク時代的な農業システムも成立したのではないかと安里は推定します。

 農業は、グスク時代琉球列島の生産基盤です。グスク時代の開始とともに、集落のほとんどが琉球石灰岩台地上に立地するようになります。この台地上のムギ・アワ畑作を主体に、低地では水稲作を行い、また牛も飼育するという複合経営が展開します。…
ムギ作を主体にした、複合経営・集約農業・冬作システム(冬季を中心に栽培する)というグスク時代の農業は、日本本土のような水田開発を押し進めて生産量を増大させるシステムに比べると、生産力は低いですが、台風・干ばつによる壊滅的な危険を回避して収穫を安定させることができます。こうした琉球列島の風土にあった安定的な農業生産に支えられて、グスク時代には、沖縄島中・南部の琉球石灰岩地帯や琉球石灰岩の島々を中心に人口が急激に増大していくのです(安里「琉球・沖縄史をはかるモノサシ」)>。
 近世奄美の人口密度は、喜界島が最も高く、琉球石灰岩台地でのムギ・アワ畑作を主体にした集約的土地利用が高かったことが背景にあるという。
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            沖縄の稲作の発祥の地とされる南城市の受水走水(うきんじゅはいんじゅ)
  
 <つまり琉球石灰岩の喜界島で、グスク時代人のグスク時代的な農業システム、海外交易などのグスク文化の原型がつくられ、この島で増大した人口が、琉球列島の琉球石灰岩の島々を中心に拡散していったのではないかと考えられます。そして、奄美・沖縄の貝塚人や先島先史人と混血しながら文化的に融合していくことで、土肥が指摘するような貝塚人の特徴を残しながらも中世日本人の特徴をもつグスク時代人や、グスク文化の地域性(多様性)が成立したのではないかと安里は想定しています。「安里進・土肥直美著『沖縄人はどこから来たのか』(改訂版)」>

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琉球弧の歴史と喜界島(その9)、沖縄人の成立

新たな琉球=沖縄人の成立論
 10世紀ないし11世紀頃からはじまる琉球のグスク文化の形成期(原グスク時代)は、琉球=沖縄人の形質も大きく転換して琉球=沖縄人が成立する時期であったのではないかという問題提起がされている。
 安里進氏は、「グスク文化の形成期と展開期には、本土から商人や鍛冶職人、陶工など様々な人たちが渡来したと考えられること、そして、グスク時代の人口が爆発的な増大をとげたことを指摘しました。そして、渡来人の形質を受け継いだ人たちを中心に人口が増大し、在来の貝塚人や先島先史人を圧倒していったことを想定」する、とのべている。
 土肥直美氏は、琉球弧のヒトの形質の変化があったと見る。 
 <土肥は、貝塚時代とグスク時代以後の人を比べると、形質的に大きな違いがあることを指摘しました。頭が長頭(上から見ると前後に長い)になり、顔も面長になる。頭骨のサイズが大きく、身長も高くなって本土の中・近世人と変わらなくなります。その一方で、貝塚時代人の特徴も一部は受け継がれていると考えています。そしてこの傾向は先島でも見られる。こうした、非常にはっきりとした形質の変化がグスク時代前後から始まると考えています>。
 以上は、安里進・土肥直美著『沖縄人はどこから来たのか』(改訂版)。1997年10月に土肥と安里の対談をまとめたもの。99年の出版、2011年12月、新書版で改訂版を出版)から紹介した。
                     ミントン城 (2)
                   南城市のミントングスク
 <人類学の高宮広土は、グスク時代における沖縄諸島の農耕は、「頑丈で・背が高く・長頭」という身体の形態的な特徴を持ち、日本祖語系統の言語を話した人びとによる「植民」によって開始されたとする見解を述べている(高宮)。そのように考えれば、沖縄方言および現代沖縄人の身体形質の説明がつくのみならず、「突然」農耕が始まったことも説明できるという(高宮)。
 ただ、高宮広士はその時期を8・9世紀~10世紀か、グスク時代直前の10世紀~12世紀頃と想定しているが、この時期では沖縄方言の成立の時期として言語学者の同意はえられないとしている。しかし、2・3世紀~6・7世紀に日本祖語を話す人びとが九州に存在しており、中央では言語が変化したが、周辺では変化しなかったため、変化しなかった言語を使用する人びとが九州から、8・9世紀~10・13世紀の間に南下して、沖縄諸島に適応した可能性について言及している(高宮)。>
 これは、吉成直樹、高梨修、池田榮史著『琉球史を問い直すーー古琉球時代論』吉成著「グスク時代の開始」からの抜粋である。

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琉球弧の歴史と喜界島(その8)、喜界島からの交易の移住

 喜界島からの交易と移住
 東シナ海をめぐる日本、中国、朝鮮を巻き込んだ南方物産の交易拠点とされる城久遺跡群は、交易の拠点にとどまらず、物産の流通とともに人びとの集団的な移住をともなったそうだ。
 集団の移住について考古学の立場からはじめて論じたのは高梨修氏(奄美市立奄美博物館主任学芸員)だという。
 <最も大きな画期はグスク時代開始期頃であることを指摘する。高梨によれば、中世並行期前半は琉球弧の各諸島に、類須恵器、白磁、滑石製石鍋を中心的構成要素とする容器群が波及、無土器時代の先島まで強い影響を及ぼし、奄美群島・沖縄諸島・先島諸島に同一の器種組成を共有する広域的土器(容器)分布圏がはじめて形成される一大画期となったと述べる(高梨)。…
 こうした広域的土器(容器)文化圏のオリジナルが集中的に搬入され、大量出土するのが城久遺跡群であり、この遺跡群こそが当該段階の琉球弧における土器動態の重要な鍵を握るとする(高梨)。…
                  把手付石鍋と鍔付石鍋の分布と製作所後の位置

     把手付石鍋と鍔付石鍋の分布と製作所後の位置(谷川健一編『日琉交易の黎明』から)

 高梨は琉球弧の土器文化の変化の様相を根拠に喜界島の拠点からヤコウガイ貝類の大量需要に応じて集団が琉球弧全域に移住して交易システムを形成し、それがグスク時代の幕開けになったという従来の認識の転換を促す議論を展開するのである。カムィ焼はヤコウガイの対価ではなく、移住した集団が使用した容器であるということになる。
 各諸島に移住した集団がヤコウガイなどの南方物産を集積させ、それを「日本」へと送り込んだとすれば、南方物産を外へ送り出す交易ネットワークが琉球弧の内部で形成されていたはずである。転換期土器動態が進行したところに移住者の拠点があったとすれば、移住の初期段階においては、カムィ焼の壺、石鍋(石鍋模倣土器)、白磁器が使用されていたと考えられる(吉成直樹著『琉球の成立―移住と交易の歴史』)。>
 高梨氏は、喜界島から「集団が琉球弧全域に移住して交易システムを形成し」、「グスク時代の幕開け」にもなったとみる。
 吉成氏は、この高梨見解は「喜界島起源論」ともいうべきものとする。そして、「喜界島に関与していた人びとを考慮すれば、南下した集団には南九州のほかに、九州西岸地域、さらに高麗人の人びとまで含まれていた可能性を考えておく必要である」と述べている。
 
 吉成氏自身は、さらに次のようにのべている。
  <11世紀半ば以降、琉球弧一円では中国白磁碗、石鍋模倣土器、カムィ焼の壺が使用さるようになり、従来の土器文化は一変することになるのである。前代の土器文化が「転換」するのはヒト集団の移住によってもたらされることを踏まえれば、この変化は渡来者の影響が強く及んだことによると考えられる。…
 広域土器文化圏の形成は、喜界島の交易拠点にかかわる人びとが移住した結果ではないかと考える見方がある。この見方に立てば、日本の境界域にある交易拠点(喜界島)が沖縄諸島以南に面的に拡散したことによって交易圏、広域土器文化圏が成立したことになる>
 <「日本」の南の境界域に位置し、境界域の内と外を結ぶ交易拠点が拡散しながら面的に南下し、結果的に沖縄諸島以南を覆い尽くしたのである。…
 奄美群島という境界域が交易拠点として莫大な利潤を保証したように、境界域化した地域を基盤に形成された琉球国もまた、日本、中国、朝鮮半島、東南アジアの境界域にあたる地域であった。交易国家とは境界域に成立した国家であると見ることができる。(吉成直樹著『琉球の成立―移住と交易の歴史』)>。

 どれだけの規模の移住があったのかはわからないが、城久遺跡群が交易拠点だったとすれば、沖縄諸島へのモノの移動だけでなく、ヒトの移動もあったことはありうることだ。ただ、南下した移住者は、吉成氏が指摘するように、喜界島からだけではなく、九州や倭寇、朝鮮の人びとまで含めて考える必要があるだろう。

 沖縄諸島への沖縄以北からの集団的なヒトの移住は、農耕社会からグスク時代に向かう琉球に、大きな影響を及ぼしたことは確かだろう。
 吉成直樹氏は、次のような見解をのべている。
  <グスク時代開始期における沖縄社会の状況を考えるならば、さほど大きな人口規模の移住を必要とせずに、社会を大きく変革させることは可能だったはずである。この外来者の移住によって旺盛な交易社会が成立し、たとえ穀作による農業社会の発展による財の蓄積によらなくても権力を集中させることができる政治・社会システムが形成されたと考える。…交易社会を形成する主体となったのは、グスク時代開始期に渡島した外来者たちである。…
 この13世紀の沖縄諸島社会の大きな変化は、琉球弧における喜界島から沖縄島へという重心の移行に関連している可能性がある。(『琉球の成立―移住と交易の歴史』)>

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琉球弧の歴史と喜界島(その7)、奄美の歴史から

 奄美の歴史から
 これまで喜界島の城久(ぐすく)遺跡群が南方交易の拠点であり、琉球弧の島々にも様々な影響を与えてきたことを見てきた。ここで、改めて古代から中世にかけて奄美諸島の歴史を簡略にみておきたい。
 奄美群島は、早くから日本に知られていたようで、7世紀に『日本書紀』には「海見嶋」、「阿麻弥人」として登場。『続日本紀』には「菴美」、「奄美」とあり、奄美群島のことだと考えられるそうだ。

 <733年(天平5年)の第10回遣唐使は、奄美を経由して唐へ向かっている。735年(天平7年)に朝廷は、遣唐使の往来上の利便のため碑を南島に建てた。『延喜式』雑式には規定が書かれており、島名のほか停泊所や給水所が書き込まれ、奄美群島の各島々にこの牌が建てられたとしているが、未だ実物の発見は無い。また、遣唐使に奄美語の通訳を置くことも記されている。997年(長徳3年)に大宰府管内へ「奄美島」の者が武装して乱入、放火や掠奪をしたという(『小右記』)。翌年、大宰府からの追捕命令が貴駕島に発せられている(『日本紀略』)。この貴駕島は現在の喜界島と考えられ、城久遺跡(喜界島)が発見されたことにより、ここが命令を受領した大宰府の出先機関と推定されている(「ウィキペディア」の「奄美群島の歴史」から)。>

                  東シナ海の交易航路と黒潮の海流
              
            東シナ海の交易航路と黒潮の海流(谷川健一編『日琉交易の黎明』から)


 大宰府管内襲撃事件というのは、997年、大宰府は「南蛮(奄美人)」が大宰府管内の薩摩、肥前、肥後、筑前、壱岐、対馬を襲い、300人以上が略奪された事件である。
 <奄美島人(南蛮)の大宰府管内への襲撃事件が繰り返し起きている頃に喜界島の変質が起きていることは明らかである。さらに、注目すべきことは997年の大宰府管内襲撃事件を含めて、断続的に続いた奄美島人の襲撃事件の対象につねに含まれているのが大隅あるいは薩摩だということである。(吉成直樹著『琉球の成立―移住と交易の歴史』)>

 なぜ、奄美人が海を渡って九州まで襲撃したのか。
 <これらの事実が示しているのは、ヤコウガイをはじめとする南方物産の交易に、南九州を中心とする有力者が強く関与しようとした結果、奄美島人側の反発を招き、大宰府管内への襲撃事件が引き起こされたのではないかということである。(同書)>
 興味深いのは、大宰府が「貴駕島」に南蛮の追捕を命じいていることだ。「貴駕島」は、喜界島の可能性が高い。
 同じ奄美群島のなかで、喜界島に「奄美人」追補を命じたことは、喜界島は他の奄美諸島とは異なる立場にあることを示している。大宰府の管轄下にあったようだ。

 奄美群島のふたつの世界
 当時、奄美群島は二分されて認識されていたらしい。鈴木靖民氏は次のように指摘している。
 「10世紀最末、11世紀初において奄美諸島が一括できる政治的、社会的状況にはなく、古代国家、九州諸国の人たちから喜界島とそれ以外とに二分されて認識されている。喜界島の大宰府ないし古代国家側に立つ位置付け、特性に注目しなければならない。つまり奄美大島と喜界島との並存ないし対抗が認められるのである。(『日本古代の周縁史』)」
 同じ奄美諸島の中で、古代国家側に立つ喜界島と、奄美大島は対抗する立場にあったという。それぞれ異なる役割を担っていたという。
 <奄美諸島の古代、中世成立期において、喜界島と奄美大島は日本古代国家の「南島」政策ともかかわって二つの中心地であり、それぞれ異なる役割を担わされたと思われる。(同書)>

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