レキオ島唄アッチャー

八重山の定納布と御用布、その3

 貢納布を織る女性の労苦
 貢納布を織る女性は、多大な労苦があった。
 大浜信賢氏は『八重山の人頭税』からそのさわりを紹介する。
 貢衣布の縞柄(図案)は、首里王庁のみならず薩摩からも送られてきたようで、この図案が到着すると、蔵元では複雑なものと簡単なものとに分類して各村に配布する。各村番所の役人は、その縞柄の難易によって織女を定める。いよいよ織ることになると、織女の予定が久葉の葉に書かれて村番所に掲示されるので、この表を見てそれぞれ自分の定められた日に定められた織場で仕事をする。
 織物に手を着けるまでは、婦女は毎晩番所に集合し、松明の光で苧麻糸を紡ぎ、佐事補佐(さじぶさ)と称する監視役の下で夜業を強行させられた。…
 さて、いよいよ織物を織る時は、複雑な柄や御内原布といった貴重品には、役人がつきっきりで監督したものであった。なかでも、王族用の精緻なものなどは、各村の熟練した織女が交代で織ったものだが、いくら精出しても1日に3寸か5寸がせいぜいであって、1尺も織れるものはいなかったようである。それも苦しさに泣きながらであって、1反織るのに2,3カ月ぐらいはかかったという。
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                      八重山の絣柄(新垣幸子さんの講義資料から)


 御用布への褒美は掠め取られる
 御用布を織る女性には、苦労米が出ることになっていた。しかし、実際には役人によって中間搾取されていたことをすでに紹介した。
 改めて、琉球王府時代の史書によって見ておきたい。
 「王府から御褒美に下される御用布の代米を、百姓に配当するべきところをそうせず、仕上世座(薩摩への上納物を司る王府役所の一つ)の役人らが掠め取り、百姓が困っているというのはどういうことであろうか。今後は毎年の御用白木綿布代と同様に、百姓の上納米から差し引きべきこと」
 「諸御用布は、村々に公平に割り付けること。ただし在番・頭が時々見届けなくてはならないような模様などは、石垣四か村を基本に在番所に近い村々に割り付けること」
 「御用布の織女らへの苦労米は、すみやかに渡すべきなのだがなされていない。渡すのを引き延ばした上、不公平なこともあり、人びとは困っていてはなはだ良くない。今後は在番・頭・惣横目の目の前で公平にすみやかに渡すように計らうこと」(『翁長親方八重山島規模帳』1857年)
 
 王府は、役人を八重山に派遣し実情を調査した結果にもとづいて、不公平や不正の是正を求めて布達している。しかし、王府の指導があっても容易に改善されない現実があった。その17年後に八重山に派遣された富川親方の『規模帳』でも、前回と同じような問題の是正を布達している。
 「王府から褒美として下される御用布の代米は、百姓に配当すべきであるがそうはせず、仕上世座(薩摩への上納物を司る王府役所の一つ)の役人らが掠め取り、百姓が困っているので、以前に取り締まりを仰せ渡してあるとおり、毎年の御用白木綿布代と同様に、百姓の上納米から差し引きべきこと」
 「諸御用布は、村々に公平に割り付けるべきである。ただし在番・頭が時々見届けなくてはならないような模様などは、新川より白保までの9カ村に割り付けるべきこと」
 「御用布は、上布は正女(15歳~50歳までの女性)に、中布・下布は正男女に割り付け、そして士族は右の布を、諸御用布は百姓の正女で織り調え、過不足を差し引きするきまりであるが、そのとおりになされておらず、いろいろ不公平になり百姓らを迷惑させているが甚だどうかと思うので、以後は士族・百姓らに年々規則どおりに申し付け、全て沖縄に積み上らせ、上納する物以外は御物奉行の許可を得て売り払い、苧・藍や諸品を買って帰り、百姓らが余分に織り調えた分に応じて配分して渡し、公平にきちんと行き届くように差し引きすべきこと」(『富川親方八重山島規模帳』、1874年)。
 
 百姓に渡すべき手間賃を役人が掠め取るという不正は根深いものがある。八重山農民を抑圧して、まともな人間扱いをせずに徹底して搾り取るという人頭税制度のもとでは、王府が表面的に改善を掲げても、なんら是正されないまま横行していたことを示している。


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八重山の定納布と御用布、その2

定納布は士族女性だけが織ったのか?
 御用布・上納布について、「人頭税時代の女性に賦課された織物で、上納布は士族の、御用布は百姓の女に課せられたものであった」という見解がある(沖縄国際大学南島文化研究所編『近世琉球の租税制度と人頭税』、「『聞き書き』御用布(グイフ)物語――明治・大正期八重山女性の労働の一面――」、山里節子・登野城ルリ子[採録])
 果たしてそうだろうか。まったく異なる見解もある。

大浜信賢氏は『八重山の人頭税』で次のようにのべている。
 「貢衣布は主に平民の婦女が織ったもので、士族の婦人の織るものはカナイ・アリフといって、苧麻で荒織りしたもの、たとえば生年祝いの舞踊に用いる幕とか、カナウツパイのような物であったようだが、平民婦女は精緻な上布を織って上納したようである。
 ところが、当時の百姓女の中には、上布を織る技能のない者が多かった。これら不器用な百姓婦女は、比較的余裕のある士族の婦女にたのんで、自分に割り当てられた上布を織ってもらい、その代償として甘蔗や雑穀類を提供した、ということであった」
 大浜氏は、「貢衣布は主に平民の婦女が織った」とのべている。
 前述の「『聞き書き』御用布(グイフ)物語――明治・大正期八重山女性の労働の一面――」、山里節子・登野城ルリ子[採録])のなかでも、長田マツさんの証言は、士族女性はもっぱら「アリフ」を織り納めたとのべている。
 「女はね、皆んな15歳になると(貢納)がついたものです。この貢納(カナイ)のついた女を貢納付き女(ミドゥン)といいました。貢納がつくとフダニンの1人になります。このフダニンが何人か1組になって1反の貢納布を織って納めたらしいのです。
 御用布(グイフ)には士族の納めたアリフと、平民の納める上布とがありました。アリフというのは苧(ブー)の疎く織った布のことで、主にウッパイ(被風呂敷)などに使われていました。上布というのは貢納布のことで平民の納めた柄のある上等の布のことなんです。ユカルピトゥ(士族)はアリフだけを納め、平民は上布を納めさせられたわけです。そのつらさはユカルピトゥが1日に5寸織るとすれば、平民は1日に1反織らなければならないという程の差があったということです」
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                     機織り
 士族に比べて平民女性の貢納の労苦が大きかったことを明らかにしている。
 (注)この証言で「御用布」は貢納布と同じ意味で使われている。
 士族の俗称として「八重山では廃藩前までは、士族とはいわずに俗に『ユカルピィトゥ』、平民は『ブザ』とよんでいた」(牧野清著『新八重山歴史』)。
 
 もし定納布は士族、御用布は百姓女性が織ったということになると、奇妙なことがおきる。というのは、御用布は石垣島の9カ村で織り、離島では織らなかったとされる。では御用布のなかった離島の平民が定納布も織らなければ、人頭税による貢納布はなかったことになる。これは明らかに史実とは異なる。
士族女性はもっぱら定納布を織ったとしても、定納布は士族女性や離島を含む女性全体への一般税であり、御用布は石垣島9カ村の百姓女性が織らされたということではないだろうか。

 同じ女性でも士族と百姓には格差があった
 貢納布を織る女性でも、士族と百姓・平民では大きな格差があった。大浜信賢著『八重山の人頭税』では「重税の族籍別観察」として、次のように明らかにしている。
 「この人頭税は、建て前としては八重山の住民全体に課せられたのではあるが、平民に対する課税は厳しく士族に対しては比較的軽いものであった。これは正男の場合だけではなく、正女の御用布納税においても士族正女に軽く平民正女に重かったことは、すでに第5表(正男正女に対する税品賦課、※別表)で説明したとおりである。当時の八重山における士族の数は、笹森儀助の調査にもあったように、その数は非常に多く、八重山人口の3分の1は士族であった。すなわち恵まれた者一に対して苛酷な収奪をされた者二の割合だから、平民はいくら働いても追いつかないわけである」
                    八重山織物の課税表
 この表を見ると、士族正女は白上布、白中布、白下布合計247反を納める。平民正女は、同じく合計355反を納める。これとは別に与那国島平民正女が白上布98疋を納める。「定納布は白上布・白中布・白下布の3種目」とされているので、この白上布、白中布、白下布が定納布とすれば、与那国を除く602反のうち、士族女性が41%、平民女性が59%を占めることになる。つまり、白上布、白中布、白下布は士族女性だけではなく、より多くを平民女性が織っていたわけである。
 それだけではない。平民女性は白上布など以外の貢納布がとても多いことが特徴である。新川、石垣、大川、登野城、平得、真栄里、大浜、宮良、白保の9カ村の正女が20舛細上布は70反を納める。これは9カ村女性だけが織るので、明らかに御用布と見られる。
 さらに、与那国島を除く平民正女が、18舛細上布150反、17舛細上布500反、19舛縮布10反、20舛木綿布111反を納める。これら平民正女の貢納布は合計901反にのぼる。これは、定納布か御用布か区別はわからない。
「上納布は士族女性が織った」というと、なにか貢納布のなかで士族女性が大きな負担をしたような誤解を与える。でも、この表でみると、八重山の正女に対する税品賦課は合計で1503反(別に与那国98疋がある)になるが、そのうち、士族女性はわずか16%にすぎない。平民女性が84%という圧倒的多数を負担している。八重山は人口比で士族が3分の1もいたといわれる。貢納布は「士族正女に軽く平民正女に重かった」という指摘はうなずける。

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八重山の定納布と御用布、その1

人頭税で貢納布を織らされた八重山女性
 八重山の織物といえば、苧麻糸で織られた八重山上布が有名である。琉球王府の時代は、人頭税制度のもとで、15歳以上、50歳未満の男女に、納税の義務が課せられた。男性は主に米、女性は貢納布だった。
 八重山の歴史についての著作や史料を読むと、少しややこしいのは「貢納布」という用語とともに「御用布」という表現がよく出てくることである。時には、御用布と貢納布を同義語で使っていることがある。でも、明らかに異なる概念である。
 御用布(ごようふ)は「王府に納める布であるが、頭懸けの上納布とは別に、別に指定された布を特にいう」(『石垣市史叢書』解説から)とされる。
 先に沖縄県立芸術大学付属研究所の文化講座「八重山の歴史と文化」のなかで、「八重山の織物」についてお話をしていただいた織物作家の新垣幸子さんは、とてもわかりやすい整理をして話された。はじめにその講座の内容とその他の資料をもとに紹介したい。
 
 定納布は一般税、御用布は石垣島9村で織る
 八重山上布は、琉球王国時代は、布の密度によって上布、中布、下布に分けられていた。布の経糸(密度)筬(ブドキ、おさ)目は5~20算(よみ、舛)に分けられた。
 貢納布は、定納布と御用布に分かれる。
 定納布は、全住民への一般税で、白上布、白中布、白下布、白下々布がある。
 御用布は、(王府などから送られてくる)図案の「御絵図(みえず)」により織り上げる。
 赤縞(嶋)上布、紺縞上布、白縮布がある。赤縞上布は、紅露(くーる、自生しているヤマイモ科の植物で染める)やヒル木染めによる赤茶系の柄で、上、中、下布がある。
 紺縞上布は、藍染めによる柄で、上、中、下布がある。
 白縮布は白無地である。

 御用布を織るのは、最初、新川、石垣、大川、登野城の四カ村(石垣市の中心部)に割り当てた。あとから平得、真栄里、大浜、宮良、白保を加えた9カ村に割り当てた。離島は定納布だけだった。(蔵元から通行しやすい村に割り当てたのではないか)。
 御用布は、織り手への手間賃として苦労米があった。だが、実際には役人に中間搾取されて織り手には渡されなかったようだ。なかには、仕事として誇りをもってやっていた人もいたという。

 ここで改めて八重山の人頭税による貢納布の実態を少し見ておきたい。
 喜舎場永珣著『新訂増補 八重山歴史』では、「八重山の人頭税」として、以下のように記述している(要旨)。
 割り当てられた定額人頭税の総額は「沖縄郷土歴史読本」によると米2280石に定められ、内807石およびこれに対する口米①斗立②蔵役人心付および総高に対する重出米を「米納」とし、残り1473石やこれに対する口米は反布に換算え白上布1226疋、白中布46反、白下布2272反を毎年納額と定め、宮古・八重山とも反布納は政庁の都合によって一定率で前年指定して細上布・縮布や木綿布に換納することができた。
 (注)斗立とは年貢米1石につき1斗2升の出目米を加えたもの。蔵役人心付とは、宮古・八重山では1石につき8升ずつ加えたもの。…
 納額を割当てるには各村人口の多少や位置の便否等を参酌し穀物は各村の等級を上中下の3等に反布は上中の2等に区分して租税を負担する。…
 人頭税を課せられたのは15才以上50才以下の男女で、これを正男正女といい一括して正男正女または正人といった。正人はさらに居住村の村位と年令によって階級を異にし、また負担額もちがっていた。…
 年令による正人の4階級は次のとおりである。下々男女(15才―20才)上男女(21才―40才)中男女(41才―45才)下男女(46才―50才)…
 人頭税制度の裏面には免税といった特殊的な制度のあったことを忘れてはならない。免税の特典者を挙げて見ると、頭・首里大屋子・与人(ユンチュ)・蔵筆者・詰医者等は夫婦およびその子孫の中2人は免税された。(球陽によると正徳2年1712年免税実施)
目差は夫婦だけ免税・若文子・筆者仮若文子・仮筆者等は本租を納付した本人から3代までの子孫は2度夫賃だけ免ぜられた(以下略)
                      八重山上布
                     八重山上布
 
 八重山島仕上世例帳や御用布座公事帳によると貢納布は元文4年(1739)の頃は定納布(ジョウノウフ)と御用布に大別され、定納布は白上布・白中布・白下布の3種目で、御用布は紺縞上布・同中布・同下布・赤縞上布・同中布・同下布・17舛紺縞上布・20舛紺縞上布・紺縞細上布等10種目などを総称していたようであるが、その後御用布ならびに貢反布(貢納布)等改称された上その種類なども改善されてきたようである。…

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八重山の織物・芭蕉布、その3

 「唐ヲゥーつむぎ」とは
最後に、もう一度、民謡の「芭蕉布」にかえる。
三番の歌詞は次ぎのように歌われる。
「♪今は昔の首里天加那志 唐ヲゥーつむぎはたを織り
   上納ささげた芭蕉布 浅地紺地の我した島沖縄」
「首里天加那志」(シュイティンヂャナシ)とは首里王府の国王を意味する。
その次の「唐ヲゥーつむぎ」という言葉は、意味がよくわからないまま歌っていた。
  作詞者の吉川安一さんは自著で次のように解説している。
「私が少年の頃、母親が唐ヲゥー(芭蕉の繊維)の一糸一糸に愛情を込めて、芭蕉布の機織りをしておりました。原体験の母親への思いが芭蕉布の経(縦)糸です。そして、沖縄の自然と文化・歴史が緯(横)糸です。その経糸と横糸とが織り成した作品が芭蕉布だと考えております」(『ふるさとふるさと』(やまねこ出版、2004年)
「私は鳩間島の出身、小さいころから母が芭蕉布を織っていた姿が忘れられない」(同書掲載の新聞記事)
鳩間島では「芭蕉の繊維」のことを「唐ヲゥー」といっていたそうだ。歌詞は「芭蕉の繊維を紡ぎ、機織りをして上納ささげた芭蕉布」という意味になる。
               
私はこの曲の解説を読む前は、「芭蕉布」に歌われる舞台は、首里城が出てくるので、機織りの情景も沖縄本島のことなのかと勝手に思い込んでいた。でも、これを見ると、鳩間島で芭蕉布の機織りをしていたお母さんへの思いが込められている。「上納ささげた芭蕉布」というのも、八重山の人頭税のもとでの貢納のことを意味していることになる。
 なぜ、芭蕉の繊維が「唐ヲゥー」呼ばれたのだろうか。
  「糸芭蕉は南方貿易により1300年代から1400年代にかけて伝来し、その後各地に広まったと推測されている」そうなので、「唐ヲゥー」と呼ばれたのだろう。
吉川氏は、この曲の歌いだしにある「海の青さに 空の青」の歌詞にある「『青』は、平和を希求する色彩」とのべ、そこには自分の「思想・心情」を込めているという。
これから「芭蕉布」を歌う時には、その意味をよくかみしめて歌いたい。



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八重山の織物・芭蕉布、その2

 身分に応じて定められた衣服
 同じ芭蕉布でも、身分によって違いがあったという。
「琉球王国では公の場で着る朝服(官服)、婚礼衣裳、喪服、神衣裳など にも芭蕉が利用されていた。身分によって使用する繊維の太さが違い、王族は幹の中心 部に近い上質で細く柔らかな繊維で織られた芭蕉布を着用していた」(県立博物館貴重資料デジタル書庫から「代表的な沖縄の織物 芭蕉布」)。

 八重山では、王府時代に身分に応じて着用する衣服の定めがあった。
一、頭は、冬は一二升(よみ)以下の木綿布、夏は一五升以下の苧布を着用し、緞子(どんす)以下の大帯・細帯・懸子はかまわない。
一、首里大屋子・惣横目は、冬は一一升(以下の木綿布、夏は一四升以下の苧布を着用し、緞子(どんす)以下の大帯・懸子はかまわない。細帯に絹布をもちいることは禁止する。 
一、与人(ゆんちゅ)以下奉公人の位衆ならびに蔵筆者・目差は、冬は一一升以下の木綿布、夏は一四升以下の苧布を着用すること(以下略)
 (『富川親方八重山島規模帳』、『石垣市史 民俗上』から)

              芭蕉布の歌碑
           大宜味村喜如嘉にある「芭蕉布」の歌碑。こちらは山之口獏の詩である。
 
 このように、王府時代には、身分に応じた細々とした服装の規定がなされていた。それに、百姓は、バソーキィン(芭蕉衣=ばしょうきぬ=。芭蕉の繊維で織った布。古くから織られ、広く利用された衣)二枚までという制限があったといわれている。
 明治時代になっても、そのような状態がみられたが、明治12年(1879)の廃藩置県以降は、服装の制限も自然に解消されていった。それでも、一般農民は、夏でも冬でもバソー(りゅうきゅうばしょう。糸芭蕉)で作った粗末な短い着物を着け(ママ)、裸足で農作業をし、生活をしていた。そのため、真冬に農民が畑に行く途中で、凍死寸前という状態に陥り大騒ぎになったこともあったといわれる(『登野城村の歴史と民俗』、『石垣市史 民俗上』から)

 身分によって厳格な差別をつけている。百姓は、芭蕉衣もわずか2枚という制限があり、明治になっても粗末な衣装で暮らしていたことがうかがえる。

 芭蕉の栽培をすすめた首里王府
 八重山でどのように芭蕉の栽培や芭蕉布の製作がすすめられたのか、改めて首里王府の史料から見ておきたい。
 八重山在番と首里王府との往復文書集『参遣状抜書』(下巻)には次の記述がある。
    覚
一、芭蕉苧
一、煮引苧
 芭蕉苧は、手広く栽培し、しっかりと船具の役に立てるよう、去る寅年(1746)に申し渡しておいたところ、このたび、試しにおくってきたので、上申したところ製法も相応し良かったとお考えになっている。いよいよ、これから流布させるよう、仰せ付けられた。このことを申し渡す。以上
 巳(1749)10月26日 浜川親雲上 末吉親方
 八重山島在
                    喜如嘉の芭蕉布
                        喜如嘉の芭蕉布
 芭蕉苧を手広く栽培し、衣服だけでなく荒縄など船具の用途でも使われていたことがわかる。

 『翁長親方八重山島規模帳』(1857年)には、次のような記述がある。
一、木綿花は御用布・御用物としてはもちろん、日常の衣類としても欠くことのできないもので、栽培には念を入れなくてはならず、以前からいろいろ言って来たが、収穫高が少なく、必要に迫られてから高値で買入れ入用に当て、穀物の消費も少なくないのは、あってはならないことである。以後は手広く作り立て、手入れも念を入りにし、公私の需要に差し支えのないよう取り締まること。
一、芭蕉苧ならびにシュロ・クロツグは、衣類や他船の縄具そのほか、島の生活になくてはならないものでありそれぞれ植樹については人数によって本数を定めていたが、植付けが少なくて品物が不足し、買って用を足している所もあるというが、いかがなものであろうか。今後は規則どおりに植付けさせ、それぞれ差し支えなく需要をみたすことができるよう取り締まること。
一、与那国島では、唐苧・藍・木綿花・芭蕉苧の栽培が少なく、御用布の調整や島用などに不自由しているというのは問題であろう。石原親雲上が御使者の時に仰せ渡されたとおり、それぞれ正頭(注・租税負担者)一人の坪数を決めて作らせ、毎年その結果を報告するように申し渡すこと。
 
 木綿花に続いて芭蕉苧の栽培を勧めようとしている。衣類や船具ほか、島の生活に不可欠であり、植付本数まで定めていたのに、植付が少なく品物が少ない実情にあることがわかる。
 なかでも与那国島は、栽培が少なく「御用布の調整や島用などに不自由している」として、一人一人の栽培坪数を決めて栽培させ、その結果を報告するように求めている。

 木綿花や芭蕉苧などの栽培を推進しても、必ずしも望ましい結果をもたらしてないのか、それから14年後の『富川親方八重山島規模帳』(1874年)でも、同様の指示を繰り返している。
一、木綿花は御用布・御用物ならびに衣類の織り調えにも欠くことのできないものなので、十分手広く栽培し「農務帳」のとおり手入れには念を入れ、公私の用の分を生産し、差し支えないようにするように指導すべきこと。
一、芭蕉苧ならびにシュロ・クロツグは、衣類ならびに縄具その他、島の生活になくてはならないものなので、「農務帳」のとおり栽培に念を入れ、それぞれ差し支えないようにするよう指示すべきこと、
一、与那国島では唐苧・藍・木綿花・芭蕉苧の栽培が少なく、御用布の織り調えや島用などに不自由しているというので、正頭一人の坪数を決めて栽培させ、毎年その結果を報告するように以前に仰せ渡したが、今もって不注意の様子という。どうかと思うので、必ず手入れかたがた指示をして作らせ、用いるものに差し支えないように指導を申し渡すべきこと。

 <糸芭蕉は沖縄の気候に適していたためよく育ち、沖縄各地で栽培され、織物用の糸として利用された。 戦前は喜如嘉(山原)、今帰仁、首里(煮綛芭蕉)、竹富島、小浜島、与那国島などの芭蕉に特徴がある。 芭蕉は着ごこちがよく王族から庶民まで幅広く着用されていた(県立博物館貴重資料デジタル書庫から「代表的な沖縄の織物 芭蕉布」)>
 

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八重山の織物・芭蕉布、その1

八重山の織物・芭蕉布

 八重山の織物といえば、人頭税の時代は、織物の貢納で女性たちが苦労を強いられたことで知られる。八重山上布が有名だがそれだけでなく、木綿布や芭蕉布も織り、納めていた。沖縄県立芸大附属研究所の文化講座「八重山の歴史と文化」なかで、織物作家の新垣幸子さんの「八重山の織物」についての講座を聞くことができた。
 個人的に一番興味があったのは、芭蕉布についてである。沖縄民謡で人気のある「芭蕉布」は、その歌詞のなかに「上納ささげた芭蕉布」という文言がある。沖縄本島でも、喜如嘉(大宜味村)など有名な芭蕉布の産地があるけれど、王府の時代に芭蕉布がどこからどのように貢納されていたのか、よくわからなかった。

 上布の代納として芭蕉布を上納
 はじめに新垣さんの作成されたレジュメとお話しから、その一部を紹介する。
 糸芭蕉は南方貿易により1300年代から1400年代にかけて伝来し、その後各地に広まったと推測されている。高温多湿の沖縄で好まれ、国王をはじめ高官から庶民まで着用した。
 1699年、木綿花、木綿布と同じように、芭蕉苧(う、繊維)として上布の代納として上納された。
 1746年、文書に見る芭蕉布の織り始めは、黒島仁屋が芭蕉の製法を学び、島の女性たちに教えるが、まだ習得していない様子が見える。さらに3年を経ても見本の芭蕉布が首里王府に送られていないことが見える。芭蕉苧(衣類用)、煮引苧(船具用)などの製法はよかったことなどが見える。
 1874年、「富川親方八重山諸島農務帳」には、芭蕉の栽培、製紙の方法が記されているが、植付面積など厳しい定めはなく、重要な上布や木綿布織に支障がないよう、庶民の衣類と原料を納めるだけに止められている。
 他に1731年、石垣、古見、西表の3か所に芭蕉紙をすく紙漉所があった。
1903年、人頭税廃止を境に苧麻や綿花は下降気味に対して芭蕉苧はむしろ急激に増産している。

 ここでは、芭蕉布は高温多湿の沖縄に適した織物として好まれ、首里王府の高官から庶民まで着用したことや、八重山上布の代納として上納されたことが明らかにされている。
                 
薩摩に3000反納める
 戦前、5次に渡り沖縄調査を行い、資料を収集し、膨大な写真、ノート類を残した鎌倉芳太郎氏は、織工芸にも関心を持って八重山の芭蕉布についても記述している。
 「明初中国に通じた時の琉球の貢物中に生熱夏布の名があるが、これは芭蕉布のことで、熱夏布は練芭蕉布のことであろう」
「男子の王宮内の正装衣料は芭蕉布で、正従一品の按司部(御殿家)のものは青緑色、正従二品の三司官(殿内家)以下のものは黒色で、黒の朝衣を略して『黒ちょう』と呼んだ。この古式の礼装から考えると、芭蕉布こそは沖縄固有の織物で、往古から自然に発達してきたものであろう」
 「慶長の役後、尚寧王が島津家久に伴われて、鹿児島を発し駿府に到り家康に謁した時の献上物を見ると、琉球土産のものとしては太平布200端、蕉布100巻を献じている。更に江戸に到り将軍秀忠に謁した時にも、太平布200匹、蕉布100巻、また儲君(注・皇太子、世継ぎ?)に太平布100匹、蕉布50巻を献じている。太平布は宮古上布、蕉布は芭蕉布のことである」

 慶長16年=1611年の「琉球国知行目録」に、次の記述がある。
 「琉球国諸島ヨリ毎年可ㇾ被ニ相納一物数ノ目録
 芭蕉布、3000反、上布6000反、下布壱万反(略)
 これで見ると、当時の琉球国全体の経済上、芭蕉布、上布、下布の占める比率は極めて大き(い)」
 「芭蕉布は人頭税貢納布ではなかったので、余り記録が伝わっていない。しかし一国統制経済の機構による政治が行われていたので、その指導についても手ぬかりがあろう筈がない」として、咸豊7年(1857年)の『八重山島農務帳』に「芭蕉植付様之事」の記述があることを紹介している(『沖縄文化の遺宝』の「宮古島、八重山島の芭蕉布と麻織物の歴史」)。

 ここでは、芭蕉布が王府の正装衣料として用いられたことや、薩摩支配下で芭蕉布が3000反も貢納品として送られたことが明らかにされている。

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