レキオ島唄アッチャー

八重山芸能と舞踊、その6

 八重山舞踊と沖縄古典舞踊の対比
 これまで、八重山舞踊が、どのように沖縄本島の琉球式舞踊の伝来と影響を受けたのか、という側面を中心に見てきた。だが、琉球舞踊の影響を受けたとしても、それは「単なる模倣」ではなく「充分に咀嚼消化、八重山独自の芸能に仕上げている」(森田孫栄著『八重山芸能文化論』)とされる。

 <沖縄古典舞踊の場合は、王府の式典芸能として最高の技巧を凝らして創り上げられたものだけに、絢爛と輝く華やかさ、求心的緊迫感をもっており、型のきまる瞬間の媚態とも思える官能さが、象徴的に、特定の人間を対象にした芸風であることを物語っている。
 八重山の芸能は、神との係り合いの次元で生じたものであって、あくまで敬虔深く、さす手ひく手はすがすがと簡潔に踊られますが、馴れぬ者の目には、なにかもの足りぬようにうつるらしい(森田孫栄著『八重山芸能文化論』)。>
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                       那覇市民会館の芸能祭から(記事とは關係ありません)
 「八重山舞踊の我々を引きつけるものは、矛盾しない意味に於て、洗練された素朴なものの美であったと思う。沖縄本島の舞踊は、宮廷風な優雅さをねらって、繊細に繊細にと洗練されて行ったのに対し、八重山のは、優雅な踊を素朴に受け取って、それをそのまゝ飾りなしに磨いて行ったものと見られる」(本田安治著『芸能の島八重山』、森田孫栄著『八重山芸能文化論』から)。

 舞踊の種類ごとに、八重山舞踊と琉球古典舞踊を対比すると次のような相違がある。
 
男踊
 立構えは八文字に立たず、マタ割りもしない。足拍子は、腰落しをした市井のママ、腿を斜横へ張りつつ上げ拍子を踏む沖縄風と異り、腰落しを成し、元へ戻りながら脛(スネ)の中程に上げてから拍子を踏む。扇子扱いも当てるメリハリを付けないのびやかな型付けになっている。

女踊
 立構えは、ナヨリを抑え、始動も、左足を右方へひねりつつガマクを入れて体を斜へ向ける沖縄風に対し、立構えた左足を後方へ引き、腰落しをしながら正先へ出る。ツキは、左足を正へ出すと共に少し左足を膝に落としつつ腰落しに移り、前方へ伸び立つように上体を直していく。

面使い
 沖縄風が手の所作する方向と面の方向は原則的に反対の態であるのに対し、八重山の場合は、手振り、面の方向など体躯全体は、常に同一線上にある。
 
 八重山舞踊の場合、雑踊りを除き、男舞い・女舞いともに旧藩時代、士族層が一般生活で用いた衣装がその基準になっている。
 本島の曲線的萎(ナエ)装束に対し、八重山はあくまで直線的な稜(カド)をきわだたせた強(コワ)装束の系譜を踏襲してきた在り方からしても、八重山人の美意識の一端は窺えるように思う(森田孫栄著『八重山芸能文化論』)。
 
 こうした八重山舞踊と琉球古典舞踊との違いを頭に入れておけば、次から八重山舞踊を見る際には大いに参考になるだろう。 
 

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八重山芸能と舞踊、その5

 儒教倫理を強調した勤王流
 大田静男氏は、「勤王流」について次のような見解を示している。
 <喜舎場の論考は比屋根の弟子で喜舎場と親交厚かった諸見里秀思からび聞き書きを中心に展開されている。その喜舎場説に全面修正を迫ったのが宮良賢貞である。宮良は毛姓支流系図家譜をもとに『勤王流と毛姓比屋根安弼(アンヒツ)』を書き。喜舎場と異なった説を提起した。
 毛姓は踊奉行や踊童子を数多く輩出した名門であり、それゆえ“秘伝”として絵図入りの手振型本があったとしも不思議ではない。
 しかし、その「二十二手」は儒教的倫理の視点からの心得と技法を記している。
自由民権や仁徳天皇等の言葉からみて、宮廷舞踊の秘本であったり、冠船踊、関係者の創案だったとは思えない。むしろ池宮正治が指摘したように「儒教的倫理を強調した置県後の新時代に照準をあわせた意味づけ」ではなかろうか、それ故まさしく「勤王流なのである」と思われる。
 『勤皇流手振型本』は何等かの理由によって八重山滞在となった比屋根が綴ったものであるか、それとも廃藩によって失職を余儀なくされた王府の芸能関係者が、天皇の大御代を謳歌し、それによって再興を図ろうとしたものを長男安信(比屋根)が携えてきたのであろう。
 その本が何らかの形で諸見里の手に渡りその本をもとに諸見里が創作活動をしたのは確かである。
 八重山舞踊の系譜は雑多であり八重山舞踊の手振りを諸見里だけに収斂していくのはあまりにも短絡的であり、皮相と云わねばならない。またこの時期に、諸見里らの活躍が出来たのはそれ以前に八重山舞踊が開花し、蓄積されていたからにほかならない。(『八重山の芸能』からの抜き書き)>
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                    那覇市民会館での芸能祭から(記事とは関係ありません) 
 大田氏は、『勤皇流手振型本』が首里王府時代の宮廷舞踊の「秘本」だったという説明に疑問を呈している。また八重山舞踊の系譜は多様であり、勤王流が伝わる以前から蓄積があったことを指摘している。
 
 勤王流について、森田孫栄氏は次のような見解をのべている。
八重山舞踊は、慶応年間沖縄本島からの伝承によってあたかも短期日で創られたかの如き短絡的俗説が流布しています。勤王流説はそのひとつであります。これらの説は「勤王流二十二手振本」というものに拠っている訳でありますが、これには舞のすべてが解明されておらず、扇子の扱いの型すなわち男舞いの態のみが述べられているだけのものでありまして、この伝書の著書も現在のところ不明であります(『八重山芸能文化論』)。
 森田氏も、「勤王流二十二手振本」によって八重山舞踊のすべてが解明されたものではないことを強調している。
               
                  「鶴亀節」(記事とは関係ありません)
 天皇の世を謳歌した「勤王流二十二手振本」
 勤王流はなぜ「儒教的倫理を強調した」ものと見られるのだろうか。それは「勤王流の二十二手」を見ればおのずと明らかになる。たとえば、二十二手のうち、1から5までの手は次のように説明されている。

(1)「起恕(キジョ)、凱恕(ガイジョ)の心得」では、「尽忠興国の士、心胆寛恕に、公明正大…に勤めなば…人は信友し…大御代を 慕い、…太平を謳歌し、舞遊ぶ」。
(2)「斜歓、示視」では、「治国平天下の大御代は…向う處、敵無く歓迎(斜歓)の福音、四海に満ちて」。
(3)「恩顧、捧納」では、「国には大君、家には父母、国に君主なくば国樹たず、家に父母を失えば暗黒となるが如し。君親の恩、  深遠宏大なる哉」。
(4)「風靡(フウヒ)、招モウ(ショウモウ、漢字が出ない)、無窮」では、「風は大君の徳(命令)靡は民草天風に靡びき従い、会散  (招モウ)自由の民権の有難哉」
(5)「登峰、遠眺、瞬眸」では、「君子は自彊、…喩えば仁徳天皇高台に御昇り給い民の貧富の状を眺め遊ばされ、民を哀れみ給 うた御意の如し」(以下略)。
 
 一つひとつの手の説明を読むと、確かに天皇絶対の国家を讃美し、国に尽くし、父母に孝行することを強調している。これは、もはや琉球王国の時代の儒教倫理の枠を超えている。琉球王国が解体され、明治天皇制国家に組み入れられたもとでの、天皇を頂点とする儒教的倫理が軸になっている。しかも1880年代に高揚した「自由民権」までうたわれている。
 大田静男氏が指摘するように、「勤王流二十二手振本」は「宮廷舞踊の秘本」や「冠船踊、関係者の創案」というよりも「儒教的倫理を強調した置県後の新時代に照準をあわせた意味づけ」されたものと見るのが妥当ではないだろうか。

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八重山芸能と舞踊、その4 「勤王流」

 勤王流とは何か
 「八重山の舞踊に一つの大きな流れをつくっている」(喜舎場永珣)といわれる舞踊の流派に「勤王流」がある。 
勤王流とは「八重山舞踊の一派。諸見里秀思が『勤王流二十二手振本』と称する扇子舞基本型付書を入手し、八重山在来の舞踊や創作に活用、完成したいくつかの舞踊を継承保持している舞踊集団。<勤王>は大和世における忠君愛国の風潮にならった命名と推察される」(『沖縄大百科事典』から)
 
 喜舎場永珣氏は、勤王流について次のようにのべている。
 <八重山の舞踊にさらに大きな幅を持たせ、旧藩時代頃から近代の明治期にかけて琉球様式を取り入れて創作された舞踊家に比屋根安粥(アンシュク)氏とその弟子の諸見里秀恩氏の両人がいた。
 比屋根翁が舞踊の秘本を諸見里氏に譲与された時、「此の本は琉球にたった1冊しかないものであるから、必ず大切にして是非その極意を会得するように」との遺言をされたとの事であった。その時比屋根翁がこの古記録を「勤王流」と命名して手渡したとのことである。八重山は勿論のこと沖縄本島に於いてもこの勤王流なる名称は諸文献には見当たらない。
 原本は和紙に立派な墨絵で持って勤王流22手と書かれていた(「八重山芸能と勤王流」、『八重山民俗誌下』)。>
 喜舎場氏は、比屋根安粥は36歳(1857年)、尚泰冊封の冠船芸能の指南役を仰せつかったが、1859年、鳩間島に流罪となった。そのとき秘本を持参。10数年後、赦免となったが首里へ戻らず、鳩間から古見(西表島)、黒島へと移り、諸見里秀恩とあい、秘本を譲渡したとする。
 
 これに対し、宮良賢貞氏は異なる見解をとる。名前も比屋根安弼(アンヒツ)とし、19歳(1854年)のとき、納殿筆者となり若里之子に叙せられた。1880年、波照間島へ流罪となり、その後古見で免罪となり、黒島へ移住。比屋根の長男の家族が黒島へ移住したとき、『勤皇流手振型本』を持参。諸見里は安弼の死後、長男の妻からこの本を借用し、八重山舞踊に活用した。安弼が諸見里に教えたのは組踊「忠孝婦人」のみで冠船芸能は教えていないとのべている(この項、大城學氏「八重山の古典芸能」講演資料から)。
 二人の見解はあまりにも事実関係が違い過ぎる。ただし、重要なことは、首里生まれで王府の役人をつとめ、訳あって八重山に流罪になった比屋根が、首里王府の琉球芸能を八重山に伝えたこと、とくに諸見里秀思が勤王流の秘本を譲渡され、または借用して八重山舞踊に活用したことは確認できることである。
                   
                     「まんのーま節」(記事とは関係ありません)
 八重山の舞踊創作
 こうしたもとで、八重山における舞踊が創作されていった。喜舎場氏は次のようにのべている。
<八重山における舞踊の誕生は比屋根安粥翁やその弟子の諸見里秀恩氏等によって先ず成された。ことに比屋根翁の創作によるものが幾つかあって、その頃から八重山歌による舞踊の振付けが次々に成されて行ったのであった。即ち旧藩時代から廃藩置県頃がその端緒期である。以来明治時代から大正期にかけて新政執行に伴いのびのびした島人等は、旧来の政令もなくなったことがより一層舞踊の誕生を促進したのであった。
 比屋根翁による振付けは、有名な女踊りの「鳩間節」がある。また「古見の浦節」を舞踊化し、古見村の隣の高那村の依頼によって創作した「高那節」(一名ザンザブロウー節)などがある。黒島に移住してからは、同翁の指導のもとに諸見里秀恩氏と共に振付けられたものに有名なる「黒島口説」があり、其の外独特な「山崎のアブジャーマ」や「ベンガントゥレー」などがあった。

 諸見里氏によって振付けられた舞踊も数多い。
何より有名な踊りは「赤馬節」の踊りである。さらに「柳天川の鴛鴦(おしどりのこと)の舞」があり、更に「仲良田」「揚古見の浦」「鶴亀節」など同氏によって次々と振付けられた。
 この様に八重山における舞踊の誕生は比屋根翁から諸見里氏に至って次々と創作されて誕生したのであるが、その芸脉は諸見里氏によって花が咲き実を結び、そして渡慶次長智氏へと引き継がれて現今に至ったのであった。
 弟子たちによって次々と改悪され、現今のものは古典とは名ばかり称する大いに変遷改悪せられていることは何といっても残念でならない。>

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八重山芸能と舞踊、その3

 八重山舞踊の変遷
 大田静男氏は、八重山舞踊の変遷について、次のようにのべている。
 <八重山の士族にとって、首里王府との関係上、学問のことは当然ながら大和芸能や宮廷芸能は教養として奨励された。この「覚」(『羽地仕置』のこと)の令達された17世紀こそ、八重山の芸能が祭祀の場での単調な手振りをくりかえす踊りや、労働歌などの世界から、格調ある芸能を生み出す胎動期ではなかったか。
 八重山に三絃がいつ頃伝来したかは不明だが、おそらく16世紀半ばに王府役人達によってもたされたことであろう。17世紀末には、三絃をともなう節歌は宮廷音楽の影響を受け、労働歌の抑揚やハヤシ部分を削除整理し確立していたと思われる。
 沖縄の工工四や琉歌集には当時すでに八重山の節名がみている。
 八重山の曲節は沖縄の芸能家に愛好されているが、八重山の曲節への振付もされた。
 八重山節歌の曲想がかわれ、中には「八重山音楽先師顕彰碑」に名を連ねる当銘仁屋由教のように所望され上国し、首里の役人達へ八重山節歌を伝授した者もいた(『八重山の芸能』)。>
                 
 森田孫栄氏は、八重山にはかなり古くから王府の冠船舞踊の影響を受けない芸能があったとのべている。
<本来の八重山舞踊が、御冠船系の舞踊にみられない型や所作のありようなどからして相当古く、御冠船舞踊の影響を蒙らない芸能が存在していたとみるべきでしょう。舞踊のおける序破急の方則で進められる出羽、中踊、入羽の形式も、八重山も沖縄本島同様に本土から直接な伝播をうけたものだと一部の学者達は考証しており、本土の風流系の踊りがかつて古い時代八重山でも踊られていて、現在でもその手振りの古拙が残っていると考えられています(『八重山芸能文化論』)。>

 大田静男氏は「八重山古典芸能は近世後期に宮廷芸能の影響を受けて確立した」としながら、次のようにのべている。
 <しかし、一方的に受容接種するだけでなく、中央の芸能に浸透する相互関係にあった。明治12年(1879)の廃藩置県は、その関係を一層深めるものであった。
 王府の崩壊によって宮廷芸能者達は禄を失い、生計のため座を組織し思案橋や辻道端で宮廷芸能を上演した。これら座(芝居)の地方巡行や都落ちした士族達によって宮廷芸能や創作されたばかりの雑踊りが地方へ伝えられた。
 八重山では明治27年(1894)に沖縄芝居の興業がなされ、また、43年(1910)には渡嘉敷守良の明治座が公演をした。絢爛豪華な組躍や舞踊に島の人々は目を奪われたという。
 役者の中には、八重山に定住する者も多かった(『八重山の芸能』)。>

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八重山芸能と舞踊、その2

 琉球文化の八重山への伝播
 喜舎場永珣氏は、芸能の「琉球様式の伝入を促進したのは蔵元(王府の行政庁)の在番(蔵元の長)制度であった」として次のようにのべている。
<奉行及び在番筆者等が首里王府から派遣せられて来島し、駐在したことは琉球文化が八重山に伝播する大きな素因をつくった。一方また八重山の蔵元政庁の役人等も毎年春秋の2季はもとより年によって3回も4回も上国することがあって、沖縄本島の芸能文化が大いに伝来した最も大きな素地となった。八重山からの上国役人の随行者には歌舞音曲に極めて堪能なる士が選ばれていた。上国時には舞踊や音楽などの習得伝授に務めていた。>
 
 喜舎場氏はさらに、「従来の島内文化と外来文化を接触融合せしめ、いちはやく咀嚼消化して琉球舞踊の八重山化を図り、後世において続々と創作が成された」とのべたうえで、その事を促進したのは次のような節時であったと指摘している。
 「御祝上げ」
 琉球国王竝びに王妃の御生年の御祝賀のお祝いで、13年毎に催しされた。この時踊られる舞踊は一切八重山の踊りは禁止され、すべて琉球舞踊のみを以って演じられる規定となっていた。
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               那覇市民会館で行われた芸能祭から(記事とは関係ありません)
 「御冠船踊」
 事前に八重山の蔵元などにも冊封時(中国から派遣された冊封使が琉球国王を認証する)には布達があって、八重山でも祝っていた。これを八重山では「冊封祝儀」と称して祝い上げた。普通の祝いと異なる点は琉球舞踊の他にも大和芸能を催し、謡曲・狂言・能などが演じられていた。

 「親廻踊」
 蔵元政庁の在番が3年に一度その任期を交替する折、民情視察と称し、蔵元の管内各島村を巡視することを言う。その時役人の頭以下諸役人等を随行員として同伴せしめるが、この親廻りの時に歓待は管内の各島村に置いてはそれこそ最も大きい行事の一つであった。
 
 以上の折節には約半年も前から準備が行なわれる事があり、ことに「親廻」の時などには各島村において踊りの上手な者が選定され、昼夜兼行の練習をしていたと伝えられている。各村においてはその「親廻踊」に」出場したことが何よりの名誉とされ、それが在る面に於いて技を競い、芸能の発展に幾分か寄与したことは否定出来ない。
 八重山における舞踊の成立は、往古よりすでに成立していたかの如く考える人もいるがじつはそうではない。
 あくまで近世期においてその成立をみたのであった。近世期もむしろ中葉頃から後末期にかけての頃に成立したのではないかと考えている(『八重山民俗誌下』)。

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八重山芸能と舞踊、その1

八重山芸能と舞踊

 これまであまり八重山舞踊を見る機会がなかったけれど、先ごろ八重山の芸能祭を見た。八重山舞踊といっても、素人目には沖縄本島の琉球古典舞踊ととても似た舞踊が多かった。八重山の庶民的な舞踊は見られなかった。なぜ、八重山ではこんなに首里王府の宮廷舞踊の流れを汲む舞踊が盛んなのだろうか、とても不思議な感じをもった。それに、八重山舞踊には「勤王流」というあまり沖縄らしくない名前の流派がある。なぜこういう名称の流派があるのだろうか、それもよくわからないままだった。
 先日、八重山の古典芸能について話を聞く機会があった。もう少し深く知りたいと思い、八重山舞踊についての研究者の著書を読んでみた。そこで学んだことをスケッチ的に紹介しておきたい。

祭式舞踊と琉球式舞踊
そもそも八重山の舞踊とはどういうものがあるのだろうか。喜舎場永珣氏によると、八重山の舞踊は大別すると、一応二通りの舞踊があるという。以下『八重山民俗誌下』抜き書きである。
<その一は往古からの祭式舞踊の流れをくむもので、他の一つは近世に至って琉球本島からの伝来とその影響をうけたいわゆる琉球式舞踊と称せられるものである。
 祭式舞踊は、土着の素朴そのもので、舞踊以前の発生期の舞踊と称すべきもの。八重山の島人達に始めて火食の道を教えた「イリキヤ、アマリ(天降)」という神を祭った際に盛んに行われたといわれる裸舞などがそれに相当する。宗教的な祭式舞踊は未だ農民の社会と強く結びついて今日に至るまで保存せられているのである。それは豊年祭の時の舞踊であり、盆祭のときの「アンガマ舞い」であったり、シティ(節)舞い、種子取舞い、結願舞い、家屋新地落成時の舞いなどであるが、これ等は今日まで保存され、古代の遺物というべきものである。
             
                        赤馬節
 一方、後者の琉球式舞踊は、八重山が中山(琉球の三山時代の一国)に入貢して以来、遂には漸次琉球政庁の方からその伝来と影響を受けた舞踊で、政策的なものもそこには内在するのであるが、いずれにせよある種の型にはまったものであが故に、従来までの自由奔放な円陣舞踊になれていた島人たちにとっては如何にも窮屈なものであったと思われる。しかし、月日の立つ(ママ)にしたがって、ようやくこれ等を咀嚼し、趣味も覚えるようになり、士族の男子達はこの琉球式舞踊を専門とするようになったのであるが、士族の婦女子等は踊ることも歌うことも禁ぜられていたのであった。ところが農民の乙女等は純な祭式舞踊を踊るかたわら時にはこの琉球式舞踊を踊る重荷を負わせられていたのである(「琉球八重山の音楽と舞踊」)。>

 <祭式舞踊の多くは「巻踊り」といって円陣舞踊のように考えられ、そして島ごとに独特の様式があって面白い。これが八重山の純粋の古式舞踊である。
 琉球式舞踊が八重山に伝えられた年代は文献の徴すべきものがないから不明だが、元中7年に八重山が、琉球入貢した以後か、それとも寛永9年(1632)に、八重山の在番制度が設けられた頃であったか、判明しないが、琉球王府は、八重山が琉球の宝庫であることを知って、自分達が島津氏への貢物を軽減するには、この宝庫を開拓する如くはないと、琉球化に力を注いだのであった。その一策として、八重山の島人が歌舞を好むのにつけ入って、宮廷風舞踊を移し、島人はそうした政策とも知らずに、ただ歓迎して習い覚えたので、今も盛んに行なわれているのである(「八重山の民謡と踊り」、『八重山民俗誌下』)。>

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