レキオ島唄アッチャー

粟国島のヤガン折目、その8

 粟国島のヤガン折目と他の離島の祭祀との関係
 粟国島のヤガン折目と、沖縄の他の離島の祭祀との関係について紹介する。
 狩俣恵一沖縄国際大学副学長は、「荒ぶる神」(注・人に害を与える乱暴な神)について、八重山諸島の赤マタを含めて次のように述べている。
 ヤガンウユミ(折目)は、荒ぶるヤガンの神が、豊作と島びとの健康や幸せを祝福するお祭りである。荒ぶるヤガンの神の素性はわからないが、「粟国島の神」「粟国島に漂着した人の死後の霊」「粟国島の北の海から出現した神」などの言い伝えがある。
 また、ヤガンの神は、島びとの目玉をえぐり、鼻を削ぎ、妊婦を流産させ、害虫を大発生させて作物を枯らせるというから、本当に怖い神である。ヤガンの神は収穫感謝祭に現れるが、同様に収穫感謝祭に出現する八重山諸島の赤マタ神も荒ぶる神である。かつて、赤マタ神が暴れ出すと人々は逃げまどったが、それは赤マタ神のムチを受けた者は必ず死ぬと言われていたからである。
 ちなみに、ヤガンの神の姿は見えないが、赤マタ神は有形の神である。赤マタ神は、全身を蔓草で覆い、鬼・天狗のような怖しい仮面神である。また、日本神話の荒ぶる神の代表はスサノヲであり、今では、受験の神様の天神様(菅原道真)も、かつては荒ぶる雷神として怖れられていた(「粟国島のヤガン折目―荒ぶる神を祀る人々の精神性―」から)。

 武藤美也子氏(神戸女子短大教授)は、伊江島の大折目(ウプウィミ)との関連をのべている。
 粟国島の「ヤガン折目」は、伊江島の大折目と共通する要素がある。 
                   img030.jpg
                  伊江島の大折目(『目で見る大折目』から)

 沖縄の民話の研究者である遠藤庄治氏は、粟国島の「ヤガン折目」が、「伊江島の大折目行事によって伝えられた豊穣神である龍への生贄伝説とほぼ同じ性格を伝えていた」(『伊江島の民話』)と類似性を指摘している。
 粟国島の祭祀は「荒ぶる神を鎮めるためという由来伝承がある。しかし、調査した限りでの祭祀の目的は『島の繁栄祈願と村人の健康祈願・子孫繁栄』であった。ただ偉大な力持った外来神から島の豊穣をもらうという形は伊江島大折目と似ている」と指摘している。(「伊江島の大折目(ウプウイミ)―報告と分析―」)
    
 現在行われているヤガン折目は、荒ぶる神を鎮める要素は見えなくなり、「島の繁栄祈願と村人の健康祈願・子孫繁栄」となっているという。いつの頃からか、由来伝承の要素がなくなり、祭祀が変容をとげたのだろう。といっても、安里盛昭氏によれば、すでに紹介してきたとおり、ヤガン折目は「健康祈願、豊作、豊漁の祭りとして行われていたものが、中山(王府)の介入で別の祭りに作り替えられてしまった」と解釈している。それが史実と合致しているのであれば、荒ぶる神が見えない現在のヤガン折目も、古来の祭祀の目的と伝統の延長線上にあるということだろうか。興味は尽きない。
  終わり

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粟国島のヤガン折目、その7

 安里盛昭氏の「ヤガン折目のまとめ」の続きである(『粟国島の祭祀―ヤガン折目を中心に』)。
4、番所における神事の行政執行(王府・久米島・粟国島)
 粟国において大きく神事の形態が変わったのは1611年薩摩の実行支配がなされた時(尚寧23年)、番所が置かれた時からである。それまで久米島代官の行政監督下に置かれていたが、番所ができ初代地頭代が任命された。
 18世紀初めころまでには粟国島に八重村と浜村が新設され、血縁集団の神事への関わり方も変わってきたものと思われる。 
 久米島代官に管理された時代、それから公儀ノロが置かれた役人によってその統制がなされて来た時代である。…
 根神、根人で祀られた時代から世の主(与那城貴みキヨ)の時代になり、スイミチをソヨメキといい(注・古くはスイミチはソヨメキと呼ばれた)、スイミチ神はウブチ女童となる。

 仲松弥秀先生はスーミチ(潮満)のことを話されていた。つまり潮の満時期に上げ潮に乗って訪れる来訪神であるということである。…
 1611年番所ができ中山(王府)から役人が送り込まれて来る。
 それに伴って神事においても「王府・久米島・粟国」という構図が「王府・粟国」という直接的になり、その影響で神事に対しても政治色が極端に強くなる。それが祭政一致の色を強めることになってくる。
 行政が変わったからといって、村人の精神的糧の神事がそう簡単に変えられるものではない。だから王府は首長の地位を「貴みキヨ」から「大祖・御年寄」に変え、先祖神、あるいは世を祀る信仰から恐ろしい鎮魂の祭りを演出していくのである。 
                      ヤガン折目1
                            ヤガン折目(粟国村HPから)
 島の収穫祭で豊作をもたらす神が、なぜ祟りをもたらす悪神として説話が語られるようになったのか。畠山篤氏(弘前学院大学教授)は次のようにのべている。
 シマ人の主食の収穫祭に来訪し、豊作などの祝福を与える善神が、なぜ説話では悪神として語られ、北山を中心とした王権の関与が、なぜ説話で強調されるのであろうか。…
 祭儀をしないと悪神の祟りがあるとし、祭儀の継続を求めたのではなかろうか。主食の収穫祭・ヤガン折目が祭政一致体制をとったシマあげての祭儀だったから、この祭儀が崩壊することはそれまでの共同体が崩壊することを意味していた。祭儀による共同体の維持・支配が危機に瀕したとき、この祟り神の説話が語り出されたと推測される。…

 説話で王権の関与を強調するのも、祭儀によってシマ共同体を維持しようというねらいと連動している。…王権の威力によって島の悪神が鎮まったから、その祭儀を中止することは王権への不敬ということになる。シマの論理としては王権への不敬は許されないことであった。
 そして、王権の教えた祀り方によって神が鎮まって粟の収穫も滞りなく執行でき(だから王府からの拝葉書きをもって祭りを開始する)、王府への粟の上納も無事に済ますことができたのだ。王権の教示はシマを富ませているが、その富は王府へ還流する構造になっている。祭りの断絶はこの王権とシマの支配被支配の関係が円滑にはたらかなくなることを意味していた。ヤガン折目の由来譚は高度に政治的である。

 なぜ多くの伝承が北山(今帰仁)を選択しているのか、よくわからない。おそらく北山系統の語りが優勢なときに今帰仁拝所を建設したため、これが逆に有力な証拠となり、シマの有力者たちの座・上座の背後に北山王が控えているかのような説話がさらに強固になったのであろう(「南島説話と儀礼―粟国島のヤガン折目を例としてー」=福田晃、岩瀬博編『民話の原風景』)。
 <畠山氏は、豊作を願う収穫祭だった祭儀が、なんらかの原因で危機に瀕したことを契機に、王権の力で禍が鎮まったから、祭儀を継続しなければ不敬になることから、王府の教示どおりに祭儀を継続し、悪神の鎮魂の説話が強調されるようになったとする。祭儀の変容と由来譚の背景に王権の関与があるいう見解である。>
 畠山氏は、論文のまとめでも改めて次のようにのべている。
 ヤガン折目が粟の収穫祭を根幹とした来訪神歓待の祭儀であることは、ほとんど忘れられている。しかし、だからといってこのような無理解が悪神鎮魂儀礼説を主題とする起源説話が自然に生み出したとは思われない。儀礼や神歌はそれなりに管理され、本義はそれほど忘れられていない。ただその神観念がいささか不鮮明であった。

  『琉球国由来記』の成立した1700年頃には由来譚がなく、祭祀儀礼だけが反復されていた。しかし、この儀礼が執行できがたい状況がシマ社会に起こったと考えられる。祭政一致体制をとるシマにとって祭りの継続がその体制を維持することになる。ここに祭儀を執行しなければならない根拠を共同体の構成員に示す必要が生じることになる。こうして、儀礼と不即不離の起源説話を語り出す。祭儀の核心部は温存し、周縁部の説明で儀礼の必要性を訴えるのである。すなわち、祭りをしないと祟りが起こり、祭りを中止して悪神を鎮めてくれた王権に不敬をはたらくわけにはいかないと力説する。ここにヤガン折目の起源説話の真意があると考えられる(「南島説話と儀礼―粟国島のヤガン折目を例としてー」=福田晃、岩瀬博編『民話の原風景』)。

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粟国島のヤガン折目、その6

 ヤガン折目のまとめ
 安里盛昭氏は、ヤガン折目という神行事の内容や由来譚、宣べられる神歌について詳細に記述した後、次のようにまとめをおこなっている(『粟国島の祭祀―ヤガン折目を中心に』)。
1、政治的統制で行われる祭りの準備(由来譚)
 ヤガン折目は親父(おやちち。与那城貴みキヨ)の加護のもと、健康祈願、豊作、豊漁の祭りとして行われていたものが、中山(王府)の介入で別の祭りに作り替えられてしまった。
 王府としては6月ウユミ(稲大祭)として大ウユミがあるわけで、それに代わるものとしては6月折目として麦大祭がある。なぜか粟国島では折目小、前ウユミといっている。  
                       4ヤガン折目
                       ヤガン折目(粟国村HPから)
 ヤガンウユミは古くはこの島の血縁集団による祖霊神を祀る祭りであったと思われる。
 しかし、この粛々と地人(村人)の中に根付いていた祭りを無視するわけにはいかなかった。
 新しく番所ができ村を統制するにも脈々と続いた神事(村人の心の糧)を一気に変えるわけにはいかず、なんらかのものを付け足すことが必要であった。それが由来譚である。村人を恐怖に陥れ先導する。どこでもあることである。
 高坂薫さんが例にとる『球陽』の「天地地変、人々の死、怪火」等々、粟国島の奇っ怪な事件(『沖縄の祭祀』「神歌からみたヤガンウユミ」)。そうでなくともその時期は「紫指し、妖怪目、カシチー」など村人を恐怖の陥れる材料が揃っている。
 それを利用しない手はない。だから恐ろしい話ができ上がってくる。王府統制の祭政一致の悪心を鎮める鎮魂譚としての話ができ、政に祭りが利用されることが起こり得る。

2、ヤガンの神アラバ神と祭りの政治の介入
 アラバ神を悪神として捉え、それを王府や北山が鎮めたという構図になるが、統率するお上は村人を守っているということをアピールしなければならない。
 しかし昔から伝わるであろう儀礼や神歌は村人や地人に世(ユー。豊穣)を与える大神として、人々の心のなかに浸透していることをウムイは伝えている。
 外間守善先生は『海を渡る神々』のなかで、「粟国島の神歌は、海からあがってきた神が足だまりにした海辺をアラ、アラバといい、その神をアラ神、アラバ神、神の霊力(シジ)をアラシジ、アラバシジと称し」、「島に豊穣と幸福をもたらしている」としている。
 また直接仲松弥秀先生から伺った話によると、スイミチは「満潮で上げ潮に乗ってアラバを伝ってやって来る世をもたらす来訪神である」ということである。
 それからしてアラバ神は悪神ではないことがわかる。
 その代わり尚巴志が三山を統一してからは今帰仁に訴えようが今帰仁は滅びてないのである。なぜ由来譚に今帰仁の話を付け加えたかったである。

 それ以前は按司がいて根人がいて根神としてのオナリ神による祖霊神を祀る祭りが行われていた。一番上の頂に按司が住みヤガンをクサテ(注・腰当、神様に囲まれた安心できる場所)として御願森に招聘した神を祭り、それがヤガン折目の始めであったからである。
 三山を統一する前は今帰仁に加護を受けた島であったかもしれない。そういうことならば村人の心の糧を中山(注・首里王府)としては無視するわけにはいかなかった。だから今帰仁を八重大仲のなかに祀ってその痕跡を残した。
 そして尚真王の代になり、聞得大君が祭りを統制することになる。その頃になると按司も中央に集められ権威が損なわれてくる。

                   ヤヒジャ海岸(粟国村観光協会)
                    粟国島のヤヒジャ海岸(粟国村観光協会HPから)

 その頃粟国ではティンナーニシ(6月頃吹く北からの突風・神風)が吹く季節で、難破する船がヤガンあたりであり、その乗組員の人たちがその海岸端に住み着くようになった。
 かれらはアマミキヨが五穀をもたらし神格化されたように、「真金、真玉、祭祀に使う太鼓」など島にとって世(注・豊穣)をもたらすものを運び神格化されてくる。そして海からあがってくる神、アラバの名を取ってアラバ神とした。
 祭政一致の構図を造るために公儀(王府)は祭りのシナリオを作っていく。親ノロであるノロクモイ(スイミチ)が浦原(ヤガン原)で逢いセジ(注・霊力)を受ける。
 この現状を演出するのが公儀ノロであり役人で掟(ウッチ)、捌理(サバクイ)であった。
 また最後のウムイ神遊びのウムイ「立ちウムイ」「ワガフシママニ」「ニシヌヒーター」などで復唱することで、ここに神を迎えた意味を強く印象づけるようにした。

3、ウムイからみえるウムイの継承年代(省略)

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粟国島のヤガン折目、その5

 ツヤの由来譚
 紹介した4つの由来譚の他にも由来譚がある。「ツヤの由来譚」(安里盛昭著『粟国島の祭祀―ヤガン折目を中心に』から)のあらましを紹介する。
 浜部落に夫な番所に勤め、妻のつやは美人だった。出張して来た役人が夫を魚釣りに誘い、海に突き落とし殺した。役人は言葉巧みに話し、つやを誘った。つやは野嶽(ヤガン)に誘い、用意した酒肴をすすめ、酔って抱き付いてきた役人の睾丸を切り死なせて野嶽に葬った。
役人は死後、あら神と言われた(粟国村誌)。

 ツヤの由来譚の検証
 ツヤの夫は番所勤めである。そして役人は番所への出張役人である。そこから時代考証をすると1611年浜村に番所がおかれた後である。
祭政一致の置かれた尚真王代、中央集権の政治体制が完了した。そして按司掟をして各間切の地頭職を監督統制させた。1611年(尚寧王23年/慶長16年)按司掟を廃止し、前間切を七代官制にして地頭代職をおいた。粟国は久米島代官の管轄で初めて浜部落泊(現在はこの字はない。今の浜川氏宅地)に番所を設置した。そして初代地頭代職を置いた。
 現在の形のヤガン折目は祭政一致の祭の形ができて、番所役人が祭りに参加して祭りの場がそれに応じた作りになっているので、番所のできた1611年から1713年のあいだということになる。ヤガン折目の由来譚は官の筋書きに手を加えた感もあるが、…
                      ヤマトゥガー(粟国村観光協会)
         ヤマトゥガー(粟国村観光協会HPから、文章とは関係ない)
  『琉球国由来記』によると、ヤガン折目は「由来ㇾ不伝」ということである。1713年編集された時点ではこの由来譚もなかったということである。…祭りそのものは由来記が編集されるまえより、依然続いてきたものと思われる。
 2月の折目から6月の忌み明けの折目、稲大祭として、王城の公事の祭りとしてあり、聞得大君の統制のもと各地域に公儀ノロが置かれ、王城の公事にならって6月折目として粟大祭が盛大に行なわれてきたと思われるが、それにかわってつくられたヤガン折目は公儀主導の祭りであるが、元々あった祭りを6月の粟大祭に代わって作ったため「由来ㇾ不伝」と言わざると得なかった。
 そしてその後の畏怖の念の強いカシチー、シバサシ、ヨーカビーなどに影響されたと思える由来譚、怖い事象をおさめる。鎮魂の儀礼ができあがったと思える。王城としては地人(村人)を誘導統制するには都合がよかったのである。
 <高坂薫さんが18世紀の初めの『球陽』の出ているという「粟国に不幸が訪れて、子が流産したり、妖光が輝いたり、バタバタと人が死んだりというような話が3つも出ています」(『沖縄祭祀の研究』「神歌と村落構造」)と指摘し、これが祖霊神の儀礼を鎮魂祭に変えていくような要素を持っていたのではないか、といっておられる。…やはり由来譚としての鎮魂の話はあとからつくられたものといえる。>

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粟国島のヤガン折目、その4「由来譚」

由来譚第2説
ヤガン折目の由来譚の続きである。
 大昔の事、ヤガンのムラガマの外れに、漂流の遭難船から上がって長年住んでいた人が、死後は弔う人もなく時が過ぎた。
 いつの頃からか、磯で釣った魚が家に帰って見ると目玉がなかった。暫くして四辺の畑仕事に行くと、人の目玉を抜取ったり、鼻を削ったり、妊婦に流産させたり、いろいろと不思議な事が起こった。
 島人はそこで今帰仁城に訴えた。そこで使者ナチジンは、来てみてそれが事実であることを報告した。対策にシューバーイを7バーイ(干魚)と、粟穀7石をもって渡島した。ミチャミチをつくりバーイを上げ、チジン鉦打っても中々出ないので、騙したり賺(スカ)したりしてやっとエーガー城の上に、次にタカチヂまでは見えた。
 併し、居付かずにとうとう今のエーヌ殿のイビカナシの所に鎮まった。使者はナチジンウカミとしてエーヌ殿の中に祀ったとの事である(『粟国村誌』)。

 由来譚第3説
 昔、粟国島は毎年6月頃になると、人の目や鼻を取ったり、流産させたりする恐ろしい神様がいた。困りきった住民が今帰仁城に訴え出たところ、平敷の大主という役人が派遣されてきた。島に来た大主はこのことが本当であることを知り王に報告した。王は、彼にこの神を鎮めるよう命じてきた。それで大主はバーイ(塩づけの魚)を7バーイ、粟を1石、米、鼓、鉦を王に要求し、それらを持って再び粟国島へやってきた。そして、粟、花米で酒やごちそうを作ってヤガンガマの前に持っていき、鉦、鼓を鳴らして神をおびきだした。この神は、ヤガンガマを出て、ガタヌク御嶽、チヂ、イビガナシへ行き、グスクマ屋あたりで見えなくなった。その後は、この神が暴れることもなくなったので、住民は、あの時の様子を再現してヤガンウユミの祭をやるのである。荒神を鎮めてくれた平敷大主は、平敷島に帰った。彼への感謝の気持ちの現れとして、今帰仁城を拝む拝所がイビガナシにある(『沖縄民俗』15号 琉球大学民俗研究クラブ、『粟国村誌』) 
                       ヤガンウユミ、山ノ神迎え
                           ヤガン折目山ノ神迎え(粟国村HPから)

 感想を述べる。以上3つの由来譚は、いずれも人の目玉を取ったり、鼻を削ったり、流産させたりする恐ろしい神を鎮めるため、供物を奉げて御願をするようになったことでは共通している。とても興味深いのは、第1説は中山王府に訴え出たのに対して、第2,3説は今帰仁城に訴えたことである。
 粟国島には行ったこともない者にとって、粟国は久米島に近いという感覚や那覇泊港から船が出ていることもあり、首里王府との関係しか思い浮かばなかった。でも、この由来譚を読むと、首里王府以上に今帰仁城との関係が強い。地図を見ると、距離的には粟国島から那覇まで60㌖余り、北部の本部半島も60数㌖とあまり違わない。方角からいえば、那覇からは北西にあたるが、今帰仁からだと真西の方角になる。琉球の三山時代、今帰仁城を本拠とした北山は、明国に朝貢し中国皇帝から国王として認証を受ける冊封関係にあった。今帰仁から明に行くのには、伊江島から粟国島、久米島を見て東シナ海を越えて行ったのだろう。古くから今帰仁と粟国島との深いつながりがあったこともうなづける。

 由来譚第4説
 海に出た漁師が、波に漂う不思議なものを拾ったので、中山の御主加那志前に差上げた。見ると粟の穂だったので、それを探しに今一人をつけてやった。確かに遠くに島影を見たが近づくと島は消えてなかった。そこで北山の子(思満金)が中山の指令を受けていくとそこは粟国島だった。島には住居が5、7軒あってウフヤディーを中心に暮らしていた。その時耕作にいった女3人が、スバキン原の坂の処で1人は片目、1人は両目を潰され、他は児をおろすという騒ぎがあった。中山に報告が行き仕様を聞かれて、粟ナーカ俵(ダーラ)とシューバーイを持って再び渡島。その折に中山の長男、二男、ウミナイビ(長女で13、4才)  が加勢に北山の三男を中心に行き、例の供物を持って、ヤガン原の辺りクサクチの上にフーウッカーギ(テント)を張り、粟ミチ、バーイなどを供えて拝んだ。すると神は腰を浮かしてのり出してきてテラの上に退いた。なお供物を上げると先程クサクチの上の頂上(チヂ)で鐘の音が聞こえた。アマギドゥでもヒタヌチヂでも供物を供えた。又同じ東リイザニの上にも供えたが、外廻りしてイヒョーラからエージ城のアタカヌクシで一服してからイキントゥの中のタカチヂ即ちタレーラムイで拝まれた。次第に居付いて最後は今のウフナカ即ちエ-ヌ殿に鎮まった。
 中山の2人兄弟は沖縄へ帰ったが、その子孫はクンザン屋、ニーブ屋となって残り、 中山の長女と北山の三男が結ばれてアガルマントウン小又吉の先祖となった。後世はその労多しとしてナチヂンウユーといって、八重大仲の祠に祀った(『粟国村誌』)。 
                       ヤガンウユミ、ナーマチ(火の神まつり)
                       ヤガン折目火の神まつり(粟国村HPから)

 第4説の検証
 この第4説で一番興味を引くのは、村の島立てとヤガン祭りに関わる家筋の走りがみえることである。いままでの2説においてヤガン折目と今帰仁、中山の王権のかかわりがみえ、また聞得大君の組織化のものとして捉えられていたが、ここではその以前の祭りと家筋の関わりがみえてくる。
<「庇護される宗家」から
 由来譚第4説から首里、今帰仁の宗家としてアガルマ一門、国頭屋(くんじゃんやー)、ニーブヤー、ができる前に大屋殿(うふやでー)という血縁集団を中心に暮らしていたということである。
 つまり古琉球の時代に大屋殿を中心とした今帰仁、中山(注・首里王府)に政治を託す村が存在したということである。そして大屋殿を中心とした祭りの形態があったと思われる。>

 まず島の発見が語られる
 粟の穂が漂流していたのでそれを拾って王に差し上げたら、一人共の者をつけてやってその漂流先を探しに行ったら島影を発見したが見えなくなったので、今度は北山の子が捜しに行って島を発見した。そこは粟国島だった。
 そこには住居が5・6軒あってウフヤデーを中心に暮らしていた。その時ウフヤデーが血縁集団のマキの祖、根屋であったということである。
 もしこの血縁集団がトゥマイナ周辺に一族を作り五穀豊穣を願い、一族の安寧を願って暮らしている時、事件が起こり北山、中山に助けを求めたということで、両方からその事件を解決に掛け参じたということを物語っている。
 北山から思満金、中山から長男、次男、ウミナイビ(女)が加勢、そして事件は解決して中山の長男、次男の子孫としてクンザンヤー、ニーブヤーができたという。つまり祭りが根屋のできた頃からあったということになり、番所がおかれ、公儀ノロが配置され以前からあったことになる。
 子孫を残して中山の2人は帰ったということである。妹の方は北山の三男と結ばれてアガルマントゥングヮー大屋の又吉の先祖となったということである。

 ここで注目したいのは血筋である。粟国の門中がグーシーの遥拝で首里、那覇あるいは今帰仁を遥拝、先祖として崇めるのもこれから頷けるようである。あくまで中央志向である。グーシーの項でも検証した通りである。
 中山と今帰仁を後ろ立てにした3つの由緒正しい血筋が村を統治し祭りを仕切っていく構図がみえる。たかが由来譚と思えぬものがそこにあるようである。
 そして各血縁集団がヤガン御嶽を中心に先祖神を祀り、御嶽を中心に根屋、国頭屋、ントゥングヮー大屋と下に広がる村立ての構図、仲松説が見えてくるように思う。

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粟国島のヤガン折目、その3「由来譚」

 安里盛昭著『粟国島の祭祀―ヤガン折目を中心に』から紹介の続きである。

ヤガンのアラバ神
 現在行われているヤガン折目(ウユミ)からは一切その恐ろしさは見えてこないし、むしろ村人たちに幸福と子孫繁栄をもたらす世の神とみてとれる神である。
 アラバ神について外間守善氏の『海を渡る神々』を参考に見てみたい。
 粟国島では「アラバ御嶽と呼ばれる聖域がある。そこの神歌であるウムイには、海神アラ神、アラバ神が出現し、アラシジ、アラバシジと称する霊力を発揮して島に豊穣と幸福をもたらしている。粟国島の神歌は、海からあがってきた神が足だまりにした海辺をアラ、アラバといい、その神をアラ神、アラバ神」という、と述べている。

 ヤガン折目の変遷には、アラバ神への畏怖の念もさることながら、官の祭りを統制する過程があるようにみえる。古琉球の五穀の祭りとあいまって6月の忌み明け(夏正月)にカシチー、ヨーカビー(妖怪火)、紫指しなどがひき続き、それで村人の恐怖心をあおり、6月折目という物忌みの最後の麦穂祭のほかに、官の統制下のもうひとつの祭りを作りあげる必要があった。久米島代官の下にあった村も番所ができ、新しい政(まつりごと)を布かなければならなかった。そこにあった官祭前の祭り、村人が純粋に血縁集団で行ってきた五穀豊穣を願い世をもたらす祭りを、官の都合の良いようにつくりかえたとすればどうであろうか。

 現在行われているヤガン折目は、荒ぶる神(注・人に害を与える乱暴な神)の恐ろしさは見えなくなり、島の繁栄と人々の健康祈願が主になっている。安里氏は、ヤガン折目にはそれよりも前に変遷があるとみる。もともと村人たちによる五穀豊穣を願い豊年もたらす祭りを、島を統治した政治の都合の良い祭りにつくりかえたと見ている。

 ヤガン折目の由来譚
 粟国島最大の神行事であるヤガン折目の由来について、『粟国村誌』と安里盛昭著『粟国島の祭祀―ヤガン折目を中心に』から紹介する。
 『琉球国由来記』には、粟国島嶽々並年中祭記之事の六月の項に次の記述がある。
 「ヤカン祭トテ粟神酒6ツ作リ、魚肴八重ノトノニ上ゲ、ノロ、根神、御タカベ、サバクリ、頭頭、朝八巻、百姓中相揃、拝四ツ仕也。御残リトテ、各呑喰ヒ申、二日遊申也、由来不ㇾ傳」(『粟国村誌』から)。
 ここでは由来は分からないとしているが、祭りそのものは『由来記』が編纂される前から続いていたと見られる。 
                       洞寺、粟国村観光協会
                       テラ(洞寺)=粟国村観光協会HPから
 由来譚第1説
 往時6月になると、テラ(注・(洞寺))やヤガン原の辺りの畑へは迂回しないと行けないくらいであった。特に思いがけぬ突風―ティンナーニシも吹いた。その頃、たまたま畑仕事に行った島人が、眼玉を抉られ、鼻を削がれ、孕んだ子を堕ろすという騒ぎがあった。在番の神里某(仲里とも言われている)は、このことを中山王府に報告した。仕様はないかと聞かれ、在番の某は思案して、粟とバーイを頂いて再び渡島した。
 粟で醸した神酒と干魚のバーイを持ってヤガン原にゆき、フーウッカ(注・帆御影屋)の座を設けて神に供えた。こうしてヒタンチヂ、アマギドゥと供えて、里近くのイザニの上にきたら居付いて皆に拝まれた(『粟国村誌』)。
<アラバ御嶽の周辺は崖に囲まれて荒涼とした洞窟が散在し魔物が隠れ住むには打ってつけの場である。そこにとってつけて恐ろしい由来譚をつくりだすのは最高の舞台装置であったと思われる。>

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粟国島のヤガン折目、その2

 6月折目(ウユミ)
 安里盛昭著『粟国島の祭祀―ヤガン折目を中心に』からの紹介の続きである。
 ヤガン折目に入る前に、粟国島では別に「6月折目」があるのでふれておきたい。
 『琉球国由来記』では「6月中旬の壬の日を撰び、ノロ、3字の区長、各小字から雇われたヤトゥイと共に八重大仲のイビカナシー前に午後3時頃集合して、新しく収穫した麦でミーミチ(神酒)を作り、豊作を祈願し、害虫が発生しないように3月折目同様に殿殿をまわって拝む」(訳文)と記している。
 6月折目はなぜか粟国村においては「折目小(グヮー)」といっている。6月折目は官祭として村々においても麦穂祭最後の祭りとして、折目最後の忌み明けの祭りとしても大きな節句である。 
「6月は島最大の祭り、ヤガン折目の月であり、そのヤガン折目に対してそう呼ぶのであろうか」と安里氏はのべている。
 先之世(古代人)にとって春の初めの1月と7月がともに年の初め(正月)であり、6月と2月は年の終わりの月であった。つまり穀物の収穫時を2期に分けて考えたのである。

 粟国島最大の神行事
 ヤガン折目(ウユミ)は旧暦6月24日から26日に行われる村最大の神行事である。
 この祭りには島の1年の神事が官(王府)の意向によって作られて来た意味が含まれているように思われる。この神事を解き明かすことで、1600年頃聞得大君(キコエオオキミ)制度によっていかに官主導で古式の祭りが官の思い通りに作られて来たかがみえてくる。

 粟国島の北の方角に珊瑚石灰岩の崖下に小さな三つ石をおいた祠、ヤガン御嶽がある。そこをニーヌハ(北の端)と呼んでいる。旧暦の6月24日より26日まで3日間、島最大の祭りが行なわれる。そこより少し東北にアラバ御嶽、あるいはヤマガマと呼ばれる所がある。そこのアラバ神を召喚して行なう祭りである。
                    ヤガンウユミ、山ノ神迎え
                     山ノ神迎え(粟国村HPから)
 現在のヤガン折目の日程
 ヤガン折目は旧暦6月24日からはじまるが、22日から23日にかけて、ントゥングヮー大屋(スイミチ座)、ミヤグヮー(ヌル殿内)で各ウムイの練習が行われる。

  旧暦6月24日(「山ノ神」神迎え)
1、シブク取り(大嶽) 2、クシイキントー家へ 3、カニブの葉摘み 4、山にて神迎え(タレーラムイ)
  大嶽にてバチに使う桑の枝(神聖なもの)を取る→松尾嶽の管理家であるので御嶽に入るための祈りのビンシー(祈りの道具)を取りに行く→松尾御嶽(シマイ御嶽)に神女のかぶる冠を作るカニブの葉を取る→夕方タレーラムイにて神を迎える儀式を行う

 旧暦6月25日
1、火之神祭り(八重大仲=注・ヤガン折目祭場)) 2ナー(庭)祝い(八重大仲)
  ニーブトゥイ(注・男性の神人)によって明日から始まるヤガン祭りの報告をする→神祭りを行うための庭の浄めを行ない、御帆影屋(テント)を張る

 旧暦6月26日 ヤガン祭り本番
1、朝フララ(朝拝み、八重大仲) 2、殿廻り 3、夕フララ(夕拝み、八重大仲) 4、神遊び(立ちウムイ) 5、チーグ座 6、神送り 7、カーブイの返納
 ウンヌキグトゥ/村人へのウネージャク(お願いの酌)ノロ座から始めスイミチ座と行われる→アシミネの殿(安里の殿)/ガーチの殿/ババの殿/トゥマンナスの殿/浜の殿(殿廻り)→朝フララと同様に行う→ノロとスイミチ神でチーグ座までコネリ手で踊る→村代表と別れの杯/嶽戻しのウンヌキグトゥと儀式→国火之神の後ろからヤガン御嶽に向って神をおくり、カーブイをはずすーカーブイを今帰仁の祠かクバの御嶽に返納する

 この表の通りの順序でヤガン折目神行事の儀式は一応終えるが、二七日はントゥングヮー大屋、ノロ殿内(宮小)から神返しの祈りを行なう。

 <ヤガンウユミ(折目)のノロは、スイミチ座とノロ座の二手に分かれる。スイミチ座は伝統的な島のノロで(察度王統のノロとも言われている)、ノロ座は琉球王府系(ノロ座は羽地摂政期以降のものと考えられる)のノロであるという。スイミチ座とノロ座の緊張関係が、この祭りを支えるエネルギーとなっているように思えた(狩俣恵一沖縄国際大学副学長著「粟国島のヤガン折目―荒ぶる神を祀る人々の精神性―」)>
 <注・粟国島にはノロ2名とスイミチ神、ヒタルマ神、メーダギ神、ウフンシー神、ユナンサー神の6名の神がいるとされる。またその6名の神にはそれぞれ屋号があり、その一部が使われている。メーダギ神の屋号はトゥーミーウフウヤー、ウフンチュー神の屋号はクチナウフヤー、ウフンシー神の屋号はクゥシサ―ジウフヤーとなっている(「粟国アーカイブス」HPから)。>


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粟国島のヤガン折目、その1

 粟国島最大の祭祀、ヤガン折目

 伊江島の祭祀「大折目(ウプウィミ)」について紹介した。そのなかで、粟国島にも「ヤガン折目(ウユミ)」という祭祀があることにふれた。県立図書館で安里盛昭著『粟国島の祭祀―ヤガン折目を中心に』『粟国村誌』などを借りて読んだ。
  粟国島には、また行ったことがない。映画「ナビィの恋」が撮影された島で知られる。那覇の北西60㌖に位置する半円形状の島だ。見方によっては、ハート型にも見える。
 島は南西、西側は高さ90㍍の絶壁となり、そこから東北に向けて緩やかな段丘をつくり、東部は平地となって東海岸は砂丘に囲まれている。珍しい形状の島である。人口は800人余りであまり観光化が進んでいない。今も行事の多くが旧暦で行われ、なかでも大晦日の晩から元日に三線と踊りで地域内の各家々を練り歩き無病息災と五穀豊穣を願う「マースヤー」行事は、テレビでも紹介されたので知っていた。
 「ヤガン折目(ウユミ)」は、島最大の神行事である。同書を読むととても興味深い内容があるので、その一部だけでも紹介したい。 
                    粟国島(粟国村観光協会
                   粟国島(粟国村観光協会HPから)
 折目(ウユミ)とは何か。2
 折目といっても、あまりなじみのない方もいるだろう。折目とは何か。
「年中行事のなかで、生産休養日の“遊び”をともなう収穫祭や予祝行事の日。沖縄ではウイミまたは節目(シチビ)、奄美ではオンメ、宮古・八重山ではキジャリと呼ぶ。なお生産年の交替を祝う大折目を沖縄県本部半島地域ではウフユミという」
『沖縄大百科事典』は、このように解説している。

  粟国島の野厳折目(ヤガンウユミ)の由来について、まずは「広報あぐに」2011年9月号)から紹介する。
 その昔、島の北側の野厳原(ヤガンバル)で毎年6月(旧暦)になるとそこに居る荒ぶれた神様に畑の作業にきた人々が目玉をえぐられたり、鼻をそがれたり妊婦は流産させられたりしたそうです。
 困った島の人々は、沖縄本島北部の今帰仁城の王様に何とか治めて下さいとお願いに行きました。王は家来の平敷大主(ヘシキウフシュ)にこの荒ぶれた神を治めるように命じました。
 平敷大主はバーイ(千魚)、粟や酒(ミチ・そてつの実を発酵させたお酒)を準備させ島のノロ(神人)達といっしょにその荒ぶれた神を野厳原から拝所のイビガナシーまで誘い出し、用意したバーイやお酒でもてなしました。その後この荒ぶれた神も島の人々に悪さをしなくなったそうです。それで、毎年旧暦の6月24 日、25日、26 日は神を鎮める祭り「ヤガンウユミ」が行われてきました。古来は神を鎮める祭りでしたが、現代は、島の繁栄と人々の健康祈願が主のようです。ヤガンウユミ説は数説ありますがその一説を紹介しました。 

 「ヤガン折目」の祭祀を知るために、その背景として粟国島の歴史的な事情を安里盛昭著『粟国島の祭祀―ヤガン折目を中心に』からごく簡略にスケッチする。
 (琉球は13世紀から14世紀はじめまで北山、中山、南山の3小国に分かれていた)
三山を統一した尚巴志の代の世の主の代になると、祭祀も按司一族の神がその間切(マギリ、いまの町村)内の有力な神としてあがめられ、この神に仕えるノロ(神女)といわれる祭祀を司る者が一族から出現してくる。この人たちは按司を賛美した歌謡を唱えることが多くなる。
 第二尚氏の3代目尚真王は諸按司(豪族)を首里に集め、中央集権の政治を行なった。地方には按司掟(アジウッチ)をおいて行政監督をさせるようになる。
 祭祀においては聞得大君(キコエオオキミ)を最高位につけ国王の姉妹を姉妹神(オナリ神)として王妃の上位に君臨させ、地方には公儀ノロを送り、各村々の祭祀までにも采配を振るった。聞得大君の下に三平等(ミフィラ)のノロ(略)がおかれ、その下に大阿母(オオアモ、名門出身のノロから与えられる称号)をおいた。
 粟国島は久米島代官の管轄にあり、番所が置かれ役人が島を統轄するまで久米島の大阿母の下で公儀ノロの司る祭りが行われたものと思われる。 
                        粟国島の岩
                粟国島の断崖(粟国村観光協会HPから)

 近世 1609年の島津侵攻2年後の1611年、番所が(粟国島の)浜に設置され、初代地頭代が任命された。
 1725年 往古から慶良間と粟国の地頭は兼任していたが、この年、在番を別々において、それぞれの島を監守させ、それと外国船の漂来や地方の船隻の行き来を監視させた。
 
 首里王府時代、久米島代官の下にあった粟国は、聞得大君の直接のつながりがあった久米島君南風(チンペー、大アムシラレ)の下で強い宗教統制下におかれたものと推測される。しかし、時代とともに次第に神女組織は簡素化されていった。

 戦後、粟国村の復興のためには村民の団結が必要であった。当時の村長仲里秀雄氏は祭りを通して団結心を奮起させるため、明治、大正までつづいた「ヤガン折目」の復活を企て、当時役所に勤めていた浦崎春男氏がこの祭りを覚えていたユナンサー屋の娘(当時80歳代)から聞き書
きをして、ヤガン折目を復活させた。
 
 「ヤガン折目」は、粟国島の民俗・文化を知る上でとても重要な祭祀である。粟国島が沖縄本島の政治勢力によってどのような支配を受けてきたのか、その歴史的な事情は、この祭祀の姿にも大きなかかわりがあるものと見られる。

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伊江島の祭祀「大折目」、その6

沖縄各地にある折目祭祀
折目(ウイミ)の祭祀は、伊江島に限ったものではない。季節の折目で、豊年祭や予祝行事など、季節的祭事の日である以上、沖縄各地にある。ただ、折目や大折目の名称で行われているところは、多くない。よく知られているのに、粟国島の「ヤガン折目(ウユミ)」がある。 

「ヤガン折目(ウユミ)」
 毎年、旧暦6月24日、25日、26日の3日間を通して行われる「祭り」。最終日には、一般の人たちも参加し健康祈願や、子宝祈願を行う日となっている。
昔、島の北側の野厳原(ヤガンバル)に毎年6月(旧暦)になると荒ぶれた神様に畑に来た人が目をえぐられたり、鼻を削がれたり、妊婦は流産させられたりして、神を鎮める祭り「ヤガンウユミ」が行われてきたという。現代は、島の繁栄と人々の健康祈願が主のようだ。
粟国島の「ヤガン折目」は、伊江島の大折目と共通する要素がある。
沖縄の民話の研究者である遠藤庄治氏は、粟国島の「ヤガン折目」が、「伊江島の大折目行事によって伝えられた豊穣神である龍への生贄伝説とほぼ同じ性格を伝えていた」(『伊江島の民話』)と類似性を指摘している。
武藤美也子氏は、粟国島の祭祀は「荒ぶる神を鎮めるためという由来伝承がある。しかし、調査した限りでの祭祀の目的は『島の繁栄祈願と村人の健康祈願・子孫繁栄』であった。ただ偉大な力持った外来神から島の豊穣をもらうという形は伊江島大折目と似ている」(「伊江島の大折目(ウプウイミ)―報告と分析―」)とのべている。
                    伊平屋ウンジャミ
               伊平屋島のウンジャミ
武藤氏は、「距離的には粟国島よりも近い伊平屋(伊是名)との関連、類似性も大きいのではないか」とする。
「伊平屋の田名のウンジャミにはナレク儀礼があり、その儀礼の中心になるのは幼い女の子である。その少女たちは伊江島のナイクと同じように最初は浜に連れて行かれ、その後、村の各戸を払って廻る。ナレクとナイクは同じ語源の語であると考えられる。また神送りに浜まで行くのに神女が馬に乗る馬行列も伊平屋の田名において行われている」

今帰仁村では、今帰仁グスクの海神祭の第2日目は城大折目(グスクウイミ)と呼ばれる。この祭祀は、旧盆が終わってから、最初の亥(い)の日に行われる。
第1日目は御舟漕(ウーニフジ)と呼ばれる舟漕ぎの儀礼で、航海安全を中心とする祈願。
第2日目のグスク内での祈願は海神祭が中心であり、今帰仁ノロはグスク内の拝所や御嶽(ウタキ)を廻って祈りをする。その後、シバンティナ浜という海岸へ下り、神々を送る祈りをする。
(「ガイドと歩く今帰仁城跡)から)
 
これまで見たように、伊江島の大折目は、一つの海神祭(ウンジャミ)であり、沖縄の他の島、地域の祭祀との共通性があるようだ。同時に伊江島の独特の特徴を持っている。繰り返すけれど、そんな伝統ある祭祀が衰退してもう見られないというのは、とても残念である。
終わり

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伊江島の祭祀「大折目」、その5

  大折目は一種の海神祭
 武藤美也子氏は、祭祀を分析して次のように指摘している。
祭祀分析からこの大折目(注・ウプウィミ)は一種のウンジャミといって良い祭祀である。村史でも『大折目は豊作を祈願すると共にニライ、カナイの神々をもてなす祭りだとも云う。一つの海神祭ウンジャミである。』(『伊江村史』419頁)といっている。また『沖縄大百科事典』の「ウンジャミの祭祀目的は主にニライカナイの神々をことほぎ、村人への加護を願うところにある」(上巻336頁)とも合致する(「伊江島の大折目(ウプウイミ)―報告と分析―」)。

 「大折目」は3日間の行事であるが、4日目にも「ユッカシヌグ」が行われる。最初に伊江島の大折目を紹介する文章を読んだ時、大折目は3日間の祭祀だといいながら、4日目の行事があるのはなぜなのか、よくわからなかった。
これについても、武藤氏は次のようにのべている。
 「シヌグは邪気払いの要素の強い祭祀で、本島北部地域で行われている祭祀である。伊江島の4日目の内容をみても、アクチの枝とススキを砂の上に立てて祈ったり、虫流しをしたりと払いの要素が中心となっている。
 ウンジャミとシヌグは隔年で行われるところが多いが、伊江島では大折目(ウンジャイ)とシヌグが引き続いて毎年行われるところが特徴である」
                  img031.jpg
               儀式終了後、ヰイ祝女11名は今帰仁に向って祈る(『目で見る大折目』から)
 『琉球国由来記』は、伊江島の大折目に続いて、次のように記述している。「7月、日撰を以、シノゴ折目とて、御たかべ仕る。様子は、色々作物の品品に、虫不ㇾ付ための願に、高1石に付、雑穀2合完取合」(カタカナをひらがなに直した)。
作物の虫払いの願いの祭祀であることがわかる。

 ながながと伊江島の大折目を紹介してきたが、実は由緒あるこの祭祀は「ほとんど消滅した祭祀」となっているそうだ。
武藤美也子著「伊江島の大折目(ウプウイミ)―報告と分析―」は、1978年の大折目の報告、1994年の大折目の報告、1997年の武藤氏らの実地調査をもとに報告と分析を行っている。しかし、伊江島では1年の最大の祭祀であったが、武藤氏が後追い調査で訪れた2011年には「祭祀は全く行われていなかった」という。その理由について、「祭祀の衰退は、祭祀を執り行う神人の減少によるところが一番大きい」とのべている。
 伝統ある祭祀は、そこに暮らす人々が何を願い、何を拠り所として、どのように暮らし生きてきたのか、人々の精神的な風景、島の歴史や民俗、文化などを知る上では欠かせないものである。沖縄にはたくさんの由緒ある祭祀が残されているが、伊江島に限らず、伝統ある祭祀が変容し、衰退している例は少なくない。住民による伝統的な祭祀、行事を継続しようとする努力は続けられているが、それも時代と社会の変化の波のもとでは限界がある。とても寂しいことだ。そのなかでも、衰退した祭祀を記録し資料を保存して、後世に伝えて行くことは大事なことだと思う。

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