レキオ島唄アッチャー

南山城跡と嘉手志川を訪ねて

 久しぶりの南山城跡
 糸満市大里に行く用があったので、久しぶりに琉球が3つの小国に分かれていた三山時代に、南山王の居城だった南山城跡に立ち寄ってみた。世界遺産にも登録された琉球のグスクは、いかにも軍事的な要衝だったと思われる高地にある。眺望も素晴らしいところが多い。でも、ここはただの平地であり、なぜこの地にグスクを築いたのかよくわからないところがある。
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 それはさておき、部分的ではあるが立派な城壁が残っている。案内板から紹介する。
<南山城は琉球三山分立時代(14世紀頃)に栄えたグスクです。南山は明国と交易を盛んに行い、財源を得たり、明文化を移入したりして城を中心に南山文化を築いていました。15世紀になって中山王尚巴志に滅ぼされるまでの朝貢回数は22回を数えます。
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 1984年、発掘調査が市教育委員会によって行われ、中国製陶磁器やグスク系土器の他、備前焼きスリ鉢、鉄鏃(てつぞく、やじり)、ガラス製勾玉などが出土しています。これらの遺物から南山城は13世紀ごろに築かれ、13~15世紀前半が特に栄えていたことが分かりました。
 南山の東方には水源豊な「カデシガー」、北方には源為朝と王の妹との逢引場所だと伝わる「和解森(わだきなー)」があります>。
 琉球王府の史書『球陽』は、為朝のこの伝説について記している。「(為朝)公、大里按司の妹に通じて一男を生む」。為朝は、「故郷の念禁じ難く、妻子を携えて還らんとす」が、牧港から舟で出ようとすると暴風が起こり出れず、男女同舟すれば竜神の祟りだといわれ、やむなく妻子を残して還った。その息子がのちに舜天王になったとする。
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 南山城跡は、遺跡の大半が市立高嶺小学校の敷地内にある。城跡には、なぜか鳥居が建っている。裏手に回ると、数人の人たちが、御願に来られていた。なにか、南山とご縁のある方々だろうか。家族連れのような感じである。どこのグスクでも、その中にいくつもの拝所がある。グスクは、いまでも近くの集落の人々や関わりのある人々にとって信仰の対象なのだろう。

 城跡のすぐ東側に、嘉手志川(かでしがー)がある。水量豊富な湧水である。地元の住民は「うふがー」と呼んでいるそうだ。「かつては南山の繁栄を支えた湧水」(糸満市HP)ともいわれる。
 ただし、この井泉は、南山滅亡の因縁をもつことで知られる。
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 琉球王府の史書『球陽』は次のような伝承を記している。
 「中山王尚巴志、金彩囲屏(金屏風)有り。粧飾甚だ美なり」。他魯毎(たるみぃ)がこれを欲しがった。中山王は、大里にある泉、嘉手志川とこれを換えてはどうか、と言った。他魯毎は喜んで交換に応じた。中山王は「其の泉を得てより、其の水を厳禁し、人に与へて之れを汲ましめず。唯己に従ふ者のみ之れを与へて、未だ従はざる者は之れを用ふるを許さず。南山の臣民及び按司皆其の事を譏(そし)りて以て相胥(あい、みな。互いに、すべての意)に怨み、暗かに中山に従ふ者勝げて数ふべからず。是に於て中山王自ら四方の按司等を率ゐ、親しく往きて之れを征す。他魯毎擄(りょ)にせられて誅に伏し、遂に南山を滅すと爾云う」
1429年に南山は滅びた。

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 この附近は沖縄戦のなかで、激戦の地となった。
 「沖縄戦の戦闘が激しくなるにつれて、嘉手志川の周囲は、日本軍を追い詰めていくアメリカ軍の激しい攻撃にさらされ、住民は、水場一帯に容易に近づけなくなったということです。
 嘉手志川の近くに、灌漑施設の完成を記念して建てられた石碑がありますが、戦火を受けて大きく削られ、また機関銃の痕が残っています」(NHK「沖縄戦70年 戦跡と証言」)。
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 現在も周辺の田畑を潤し、地元の人たちの納涼スポットとして訪れる人が絶えないという。この日も、釣竿を持つ人がいたり子どもが網を持って遊んでいた。憩いの場となっているのだろう。



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森の川再訪

 森の川再訪
 
 宜野湾市の森の川を再訪した。奥間大親が天女と出会った伝説の井泉である。
 「森の川公園」として整備されている。いまも清水が湧き出ている。石積みが見事な井泉である。
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 飲料の水を汲み、野菜を洗ったり、洗濯をしたのだろう。昔の情景を描いた絵がある。この写真は、数年前に撮影したものである。
                  昔の森の川風景画
 興味を引くのは、その奥に円形に石積みをした場所があることだ。「もしかして、水浴びをしたのか」と思ったが、往時の風景画を見ると、女性が御願(ウガン)をしている。神聖な空間だったのだろう。
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 井泉の北側には、石門があり、その奥は森になっている。西森御嶽(ニシムイウタキ)といわれる。沖縄では、御嶽の前の石門は、拝殿の意味があるらしい。
 「西森の石門の奥には古墓がありますが、これは奥間大親の墓と言われています」(「ヒューマンリレーション」HP「沖縄の神聖スポット」)とのことだ。
ただ、慶留間知徳著『琉球祖先宝鑑』では「死骨は同村の下海の前なる戊亥に向う高墓也」と記されている。
                    西森御嶽石門

 この石門の左奥に古い石碑、「西森碑記」(にしもりひき)がある。説明板がある。
 <尚清王(在位1527年~1555年)の第七子を初代とする向氏(しょうじ)伊江家の人々が、この石碑の前にある石門と森の川の石積み工事を行い、その完成を記念して雍正(ようせい)3年(中国年号・1725年)に建立したものである。
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 碑文には、「森の川で沐浴していた天女と奥間大親(おくまうふや)とが出会い、一男一女が生まれた。男の子は察度と名付けられ、後に中山王に就いた。私たちの元祖尚宗賢伊江王子朝義の母は、宜野湾間切謝名村(ぎのわんまぎりじゃなむら)の野国掟(のぐにうつち)の娘で、名を城(ぐすく)の大按司志良礼(うふあんししられ)といい、尚清王の夫人である。私達子孫は毎年5月、西森および森の川の泉を拝んでいるが、野国掟は奥間大親の末裔であるという伝説があるからであろう。
 これらの事情により、私達は資金を寄せ、石工を集め、石を切り敷きつめ、泉を囲み、門を造った。また、西森の前にも長さ五丈四尺(約16.4m)の石垣を造り、門を開け出入りができるようにした。これらは先祖をしのび尊ぶためである。よって、ここに石碑を建立しその事を記す。
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 大清雍正(ようせい)3年9月吉日、向和憲垣花親方(うぇーかた)朝理・向良顕伊江按司(あじ)朝良、向和声西平親方朝叙」とある。
 碑文の末尾の人物は三司官(さんしかん)の向和声を含めいずれも伊江家の子孫たちである>。
 こんな説明が書かれている。
 伊江島の歴史を学んだとき、尚清王の第7子のことを知った。
 「1,559年(嘉靖38)、始めて伊江島に総地頭が配置された。最初の伊江按司(アジ)には尚清王の第7子尚宗賢が任命された。名乗は伊江朝義と云い、伊江王子と称した。伊江御殿(ウドゥン)創立の祖である」(『伊江村史』)
 母親の尚清王夫人が奥間大親の末裔なら、伊江家は奥間大親の血をひいていることになる。 
 この説明によって、奥間大親と伊江御殿とのつながりを知ることができた。
 
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阿麻和利の墓を訪ねる

 阿麻和利の墓を訪ねる
 
 勝連半島に君臨し「肝高の阿麻和利(キムタカのアマワリ)」と呼ばれた人物のお墓が読谷村楚辺(ソベ)にある。ドライブに出かけたついでに立ち寄ってみた。 
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 古堅小学校の北側の住宅のそばにありわかりやすい。すぐ西側には、米軍基地トリイステーションが広がっている。
 木立の茂る大きな岩の下部が墓になっている。「阿摩和利之墓」の墓碑が建っている。
  なぜ読谷に墓があるのだろうか。 
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 阿麻和利は15世紀に北谷間切屋良村(現・嘉手納町)で生まれたという。
 当時、勝連城主で住民を苦しめていた茂知附按司を倒して按司(豪族)となった。第一尚氏王統の第6代国王・尚泰久の娘、百度踏揚(モモトフミアガリ)を妻としていた。中城城主の護佐丸に謀反の疑いがあるとして王の命令で攻め、自害させた。しかし、阿麻和利が首里城攻略の野望を抱いたとして、王府軍に攻め滅ぼされたとされる。
 王府によって阿麻和利は逆臣、護佐丸は忠臣とされてきた。
 しかし、一方で王府編纂の歌謡集「おもろさうし」では、勝連の阿麻和利は、国中にその名がとどろく気高い人物として歌われている。
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 護佐丸・阿麻和利の乱について、それが中城と勝連で勢力を増す両雄を滅ぼすため、尚泰久とその臣下・金丸(後の尚円王)による陰謀だったのではないか、という説も出ている。
 阿麻和利は、地元の中高生らによって現代版組踊「肝高の阿麻和利」が繰り返し上演され、いまではすっかり勝連の英雄とされている。
 護佐丸のお墓は、中城城跡の近くに立派なお墓がある。それに比べて阿麻和利は長らく逆臣とされてきたためか、墓碑がなければ英雄のお墓とはわからないほどだ。 
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 読谷といえば、伊良皆(イラミナ)には、琉球を統一した英雄、尚巴志(ショウハシ)の墓もある。こちらも、第二尚氏による追及を避けるため、首里から遠いこの読谷の小高い岩山がお墓になっている。
 阿麻和利も逆臣とされたため、やはりこの読谷で、ひっそりと葬られたのだろうか。いまや英雄とされているのだから、それにふさわしい案内板などあってもよいのではないだろうか。

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沖永良部島で慕われる西郷隆盛

 流罪人として和泊で囚われていた西郷隆盛
 ドライブに出かける前に、和泊でどうしても見ておきたい史跡があった。ホテルにも近いので行ってみた。薩摩藩の倒幕運動の英傑、西郷隆盛が入れられていた牢屋である。
 西郷は、国父・島津久光の怒りにふれ、徳之島とさらに沖永良部島に遠島(島流し)にされたことがある。久光の命令書には「囲いを作って、昼夜とも見張り番をつけて監視せよ」とされ、1862年から1年6か月にわたり罪人として扱われた。
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 かつて仮屋(代官の役所)があった海辺近くの場所に、いま資料館があり、そばに牢屋がある。頑丈な4寸角材の格子で囲われ、わずか2坪余りしかない狭い建物だ。西郷は一日中、座禅を組み思索にふけっていたという。
牢屋の中に、座禅を組む西郷の像がある。目を閉じた容姿は、東京・上野公園のお馴染みの西郷像とはまるっきり別人のような、なんか学者のような印象だ。
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 西郷の姿に心打たれた間切(マギリ、いまの町村)横目(役職名)・土持正照が自分の家の中に囲いを作り、そこに西郷を移した。西郷は体力も回復し、読書に精を出し、周囲の子どもたちに勉強を教えるようになった。教えを受けた子どもたちは成人すると島の指導者になっていった。
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 西郷が牢屋生活の間に学問に励み、精神を練磨して悟った思想が「敬天愛人」と呼ばれ、「天を敬い、人民を愛する」という意味である。その後西郷の行動の基準となったという。牢屋の前に建てられた石碑には、この思想が「本島発展の基をなしている」と記している。
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 西郷はまた、貧しく、台風や日照りで飢饉になる島民のため、対策として豊作の年に余分な米を出し合い、貯蔵しておき、飢饉のときに貸し付け、利子を貯えることを教えた。社倉(シャソウ)と呼ばれる方式で、明治3年から実行された。島民全員が加入し助け合う共済制度として、30年間続いた。その利益で公立病院を設立したり、奨学資金や母子家庭などの救済の基金にもなるなど、島民の生活向上に活用されたという。
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 そんなこんなで、西郷さんは沖永良部島ではとても敬愛されている。近くには西郷神社まである。
以上は、先田光演著『沖永良部島の歴史』や「西郷南洲翁謫居の地」の説明文を参考にした。

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歴史が刻まれた泊外人墓地

 ウランダー墓と呼ばれた
 那覇市の泊港の北岸に、泊外人墓地がある。十字架の墓標が並び、お墓の形はさまざまだ。鉄扉の門は鍵がかかっていないので、立ち入りできる。
 門を入ってすぐ右手に、墓地の説明坂がある。
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 もともと中国人が葬られ「唐人墓」と呼ばれたが、19世紀に欧米人が葬られるようになり、「ウランダー墓」と呼ばれた。「ウランダー=オランダ」とは、欧米人の別称だった。説明坂から紹介する。
 
 ここは古くから22基の外国人のお墓があったので、「ウランダー墓」などとよばれていた。その内訳は、中国人(清人)6人、アメリカ人10人、イギリス人2人、フランス人・スウェーデン人各1人、不明2人となっている。このうち最も古いのは、中国人(漂流民)のもので墓碑から1718年(康熙57年)~1785年(乾隆50年)の年号が読みとれる。
 その後、欧米船の来航があいつぎ、1853年~1854年にかけて5度来航したペリー提督の従者や、1908年当時沖縄県立中学校の英語教師ヘンリー・アモアなど、この地で亡くなった外国人が葬られている。なかでも英国の水兵ウィリアム・ヘアーズの葬儀には、泊住民が惜しみなく協力した。それ故この地は、18世紀以降の沖縄の歴史とその人類愛を地上に印す記念すべき場所である。
  なお、この墓地は現在も利用されており、主に外国人が葬られている。その数300余基にのぼる。
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  お墓の形は実にさまざまである。墓の向きも東西南北まちまちだ。墓地の奥の方に、西洋式の墓碑のない古い墓がある。これが古い中国人のお墓だと聞く。
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  墓碑を見ていて、意外に思ったのは、県系人の名前、それも女性の名前が結構あることだ。アメリカ人と結婚して米国籍になっていて亡くなった女性だろうか。
 なかには、中国系の名前で顔写真を飾った「愛妻」の立派なお墓もあった。
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 圧倒的に多いのは欧米人である。
  那覇市観光課の「泊の地に眠る異国人たち」(泊外人墓地歴史案内実地概要)には次のような記述がある。
  18世紀末頃になると欧米諸国から琉球へ漂着する船が徐々に見られるようになり、1816年には「大琉球島探検航海記」を著したバジルホールの乗った船が寄港しております。また1846年に「波の上の眼鏡(ナンミンヌガンチョー)」と呼ばれた宣教師ベッテルハイム、1853年日本を開国させたペリーなど、19世紀の琉球には多くの異国人がやってきており、中には琉球の地で没し、泊外人墓地に葬られた者もおります。…
  このように泊外人墓地は中国、朝鮮、アメリカ、ロシア、フランス、イギリスなどを諸外国との交流の歴史の影で望郷の念をいだきながら、琉球の地を青山とした異国人が眠る場所です。
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  門から入り、まっすぐに伸びた道の先に、「ペルリ上陸之地」の碑が建てられている。
「琉球人の繁栄を祈り且つ琉球人とアメリカ人とが常に友人たらんことを望む」。これは1853年6月6日、琉球に来たペルリ提督の招宴席上の挨拶である。裏側は、英文の碑文になっている。
  ペリーの艦隊が琉球に来た時には、水兵が事件を起こしたことで知られる。
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  水兵ウィリアム・ボードがこっそり船を抜け出し、酒を飲み過ぎて酔っ払い、女性をレイプした。それを知った琉球人が石を投げ追ったところ、ボードは崖から落ちて死亡した。ペリーはボードを殺したとして6人の引渡しを要求した。王府は引き渡しには応じなかったが、八重山、宮古への流刑などの刑罰に処した。事件を起こしたボードはこの外人墓地に葬られた。他にもペリーの部下の墓もあるという。残念ながら見つけられなかった。興味のある方はブログ「若狭公民館つれづれ日記」に写真と解説があるので見てほしい。
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  墓地でもっとも多いのは、簡素な十字架だけの墓である。また、立派な墓碑のある墓でも、「VIETNAM」の文字がよく記されている。米海軍、陸軍、海兵隊の文字がよくある。
  「基地内に十字架の墓がたくさん並んでいるのは、ベトナム戦争に従軍して戦死したアメリカ軍人の墓です。故国アメリカではなく異郷の地、沖縄に葬られることを希望した者も多かったようです」(「泊の地に眠る異国人たち」)
 ここには、さまざまな歴史が刻まれている。

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儀間真常ゆかりの住吉神社、その2

 住吉神社は境内の一番の奥にある。そばには「住吉神社並垣花各拝所復興記念碑」が建てられていて、由来が記されている。
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  記念碑には次のように記されている。
  住吉神社は、往昔、儀間村の地頭で、甘藷の伝搬栽培法、木綿織および砂糖創製などで産業界の大恩人といわれている麻氏六世儀間真常公が、西暦1611年(慶長16年)に尚寧王の随員として薩摩から帰国のときに海上守護の神として請来し当初儀間村の自宅内に奉安尊崇した。
  祭神は表筒男命、中筒男命、底筒男命の御三神である。
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  神社は村人達の尊崇もあって間もなく那覇港南岸の住吉森に社殿を造営し、爾来三百数十年にわたり垣花三町民および県民が尊崇して来たが、昭和20年初夏の沖縄戦において社殿は滅失し、米軍の港湾工事で境内は住吉森とともに海没した。戦後は垣花三町有志が山下町の東南の地に仮社殿を造営し尊崇して来たが、近年に至り腐朽甚だしくなり再建の運びにいたった。
  今ここに山下町西の殿の山中腹に良地を選び、工事費二千萬円也で昭和56年8月22日起工、翌昭和57年3月15日竣工、同時に垣花町内の各拝所の合同社殿も併せて造営した。住吉、垣花、山下の三町民ならびに県民の心の拠り所として尊崇し社殿復興落成を記念してその経緯を碑に刻銘し永く後世に伝承するものである  昭和57年壬戌3月15日
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  儀間真常(ギマシンジョウ)は、1605年、野國總管が中国から持ち帰った甘藷をもらいうけ、栽培法を学び、沖縄各地に広めた。1609年に琉球が薩摩に侵略され、尚寧王が薩摩に連れられて行くさいに随行した。1611年、尚寧王の帰国のさい、請来した住吉神社の祭神、表筒男命(うわつつのおのみこと)、中筒男命(なかつつのおのみこと)、底筒男命(そこつつのおのみこと)は、海上の守護神、外交の神、和歌の神とされる(「大辞林」)。住吉神社は、全国に約6000あるそうだ。
儀間は、薩摩から木綿種を持ち帰り、木綿栽培と木綿織り広めた。1623年には、儀間村の者を中国に遣わし、砂糖の製法を学ばせ、黒糖づくりを広めた。産業の大恩人と呼ばれる所以である。
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            明治初期ごろの那覇港周辺。住吉、イビヌ前など地名が見える(市の案内板から)


  儀間真常は、野國總管、蔡温とともに、産業の大恩人として奥武山公園の世持神社に祀られている。儀間のお墓は、もともと住吉町にあったけれど、沖縄戦のあと米軍に接収されたため、首里崎山町に移転した。1993年に建て替えられ立派な墓と顕彰碑がある。

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儀間真常ゆかりの住吉神社、その1

儀間真常ゆかりの住吉神社

 那覇市山下町の西児童公園の奥に、住吉神社参道の石碑がある。長い石段を登ると立派な拝殿が見えてくる。「この神域は垣花の各拝所の神様と住吉神社と垣花のお嶽です」と参拝者に注意を呼びかける立て看板がある。
 戦前は、那覇港に面していた住吉や垣花といった地域は、沖縄戦のあと米軍基地とされたので、由緒ある拝所、神社、御嶽がまとめて山腹に移されたそうだ。
                  1700年頃の那覇(那覇市歴史博物館)
               1700年頃の那覇とその周辺。儀間村、湖城村の名が見える
 境内に入ってすぐ左手に、3つの井戸「儀間の井」「湖城の井」「親井」とある。儀間、湖城はいずれもかつての村の名だ。井戸は、命の源であり、御願(祈願)の対象である。
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 井戸といえば、児童公園にも「たちちがー」がある。こちらは、もともとこの地にあった井戸のようだ。
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 境内には、立派な拝殿がある。8つの碑が並んで建っている。     
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 「儀間の殿」「湖城の殿」「土帝君(トーテイクン)」「村代の神 国代の神」「地頭火の神」「火の神」「国元森の神」「龍宮神 イベ神 屋良座森神」と記されている。
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  それぞれ村の拝所と神様たちだろう。



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沖縄の産業の恩人を祀った世持神社、その2

 なぜ世持神社がつくられたのかの続きである。
  1933年12月も「神社設立発起人会」が結成されることになった。その設立会のときに、沖縄文化協会の島袋源一郎か ら、沖縄産業の発展に功績のあった蔡温もいっしょに祀る新たな提案がなされ、同神社に三大恩人としていっしょに祀る(合祀)ことが決定された。
  その後、1934年には、沖縄県知事を会長とする「神社創立期成会」が結成され、島袋源一郎の提案により神社名を「世持神社」とすることが決まった。「世持」とは、沖縄の言葉で「ユーモチ」といい、世の中を支えるという意味があり、3人は沖縄の産業を支えた恩人として祀られることになった。
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 翌年の1935年の3月に、神社の建設予定地として那覇市奥武山公園内が、那覇市議会で承認され、場所が決定した。
 しかし、内務省から神社創立の祭神は正三位以上(明治政府が与える神社の位が三位以上)でなければならないとして不許可になり、結局は、県の神社の下に位置する「郷社」とされ、贈正5位の具志頭文若(蔡温)を正座、儀間真常・野國總管を左右座にすることで認定された。1937年2月28日にようやく世持神社創立の許可が正式におりることになった。
  「このように、産業界の大恩人・野國總管は沖縄産業の恩人に感謝する形式を取りながら、戦時中の皇国意識(天皇のおさめる日本国の国民としての意識)をさかんに高めていく当時の社会の動きを背景に、世持神社の祭神として祀られ、神格化されることになりました。それは野國總管が、国民精神を高めるための象徴として位置づけられたことを示すものでした」
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                     産業恩人を顕彰する碑

 以上が紹介文である。
  サツマイモやサトウキビが沖縄県民の食生活と産業振興の上で果たした役割は絶大なものがある。野國總管と儀間真常が沖縄の産業の大恩人であることは間違いない。二人の業績を後世に語り伝え、その精神を学ぶことは大事であるが、神社を建て、祭神として祀り、神格化することが果たしてよかったのだろうか。やはり、神社は時代の産物だ。
嘉手納町では、「カデナといえば米軍基地」のイメージばかりが強い。その中で、甘藷伝来400年を機に、野國總管を町の誇りある偉大な先達として、顕彰して語り伝えて行こうと野國總管まつりをはじめさまざまな取り組みを行っている。こうした活動こそ大事だろう。

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沖縄の産業の恩人を祀った世持神社、その1

 那覇市の奥武山公園を歩いていると、「世持神社」の石碑が建ち、鳥居がある。何を祀っているのかよくわからないまま、石段を登っていった。赤い屋根の小さな社殿があるが、とくに説明する表示はない。商売繁盛の神だとか聞いていたが、実際には沖縄の産業の大恩人だと言われる野國總管(ノグニソウカン)と儀間真常(ギマシンジョウ)、それに首里王府の三司官として辣腕をふるった蔡温(サイオン)の3人を祀っている神社だった。
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  野國總管は、北谷間切(チャタンマギリ、いまの町村)の野國村に生まれ育った。進貢船の事務長格の「總管」として中国に渡り、1605年、甘藷を持ち帰り、多くの人々を飢饉から救った。儀間真常はその甘藷を貰い受け、栽培を琉球に広めた。甘藷は薩摩に伝わり、さらにサツマイモとして全国に広がった。儀間は、サトウキビの製糖技術を中国から導入し黒糖づくりの基礎をきずき、木綿織の普及にも力を尽した。
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 なぜ、野國、儀間氏らの神社が奥武山公園にあるのか。その由来について「野國總管甘蔗伝来400年祭実行委員会」発行『甘蔗と野國總管』「第2章 甘藷のきた道」(、嘉手納町ホームページ)で詳しく書かれていたので、要約して紹介する。
  1920(大正9)年、仏教連合会を中心に、野國總管と儀間真常を顕彰する「諸(藷?)蔗謝恩碑建設期成会」が結成され、記念碑建設のための寄付金を募集したが、そのときは実現をしなかった。
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  その後、沖縄砂糖同業組合が、創立20周年にあたる1934(昭和9)年にむけて、「砂糖の大恩人」である儀間真常の謝恩碑の建設が新たに計画される。
  1933年8月に結成された沖縄文化協会が、「沖縄の産業の恩人を祀るため神社をつくり、子々孫々までその恩恵がおよぶように」、儀間真常と野國總管の二人を祀る神社の建設計画を提案した。
 その後、沖縄砂糖同業組合と沖縄県農会の賛同をえて、神社の建設協議会が開催され、計画が具体的にすすめられるようになる。
  長くなるので、続きは次にしましょうね。 
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アーチ型の石門が美しい崇元寺跡

アーチ型の石門が美しい崇元寺跡

 美栄橋駅周辺の史跡を歩いたついでに、アーチ型の石門が美しい崇元寺(ソウゲンジ)を改めて紹介しておく。
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 石積みの3つのアーチ門と塀が伸びる崇元寺跡は、大和人の感覚からは、とてもお寺の跡とは想像できない。だが、3つのアーチ門のある石塀は、独特の美しさがある。昔は、門をくぐると大きな正廟があったという。いまはガジュマルの巨木が茂っている。
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                     崇元寺下馬碑    
石門の東に、石碑が建っていて「旧崇元寺第一門及び石牆(セキショウ、石塀) 崇元寺下馬碑」の案内板がある。そこから紹介する。
  崇元寺は臨済宗の寺で山号を霊徳山といった。王府時代の国廟で天孫氏をはじめとする歴代国王の神位が安置され、冊封使が来た時は新王冊封に先だって先王を祀る諭祭が行われた。かつて崇元寺は国宝に指定されていたが、先の大戦で正廟をはじめとする木造建築物はすべて焼失した。
               IMG_6774.jpg                              崇元寺の石門と石碑の案内板

  第一門及び石牆は正面中央の切石積み三連の拱門(キョウモン、アーチ門)とその左右に延びる両掖門(エキモン、正門の左右にある小さな門)を備えた琉球石灰岩のあいかた積みの石垣であり、沖縄の石造拱門の代表的なものである。
  石門の東に立つ石碑が下馬碑で、戦前は西にも同じものがあり、国の重要美術品に指定されていた。表はかな書き、裏は漢文で、この碑のところから下馬することを命じている。また、碑銘に「大明嘉靖6年丁亥7月25日」とあり、この年が1527年(尚清1年)にあたるので、崇元寺の創建はこの頃ではないかと考えられている。
 
 碑文は漢文・平仮名琉球文ともに、「いかなるものでも崇元寺の前では馬から降りよ」と述べており、歴代国王の霊廟である崇元寺の格式の高さを物語っている(『沖縄県の歴史散歩』)。
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                         『中山伝信録』に掲載された崇元寺の絵図
 1719年に冊封副使として来琉した徐葆光(ジョホコウ)の『中山伝信録』に掲載された崇元寺の絵図を見ると、崇元寺の全体像がわかり、往時の格式高い国廟の情景がしのばれる。
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 戦災後、那覇市でいち早く保護・復元された史跡が崇元寺石門だった。石門は、全壊を免れた数少ない史跡だった。1950年12月、この門の修復期成会が結成された。復元の話が出た当時、崇元寺の跡地にはすでに沖縄中央図書館(那覇文化情報会館)が建てられていた。期成会の会長は「この美しい石門を修復することは同時にわれわれの心を洗うことであり、沖縄人の精神の安定を取り戻すこと」であるとして、寄付金を住民に広く募った。1952年9月に完成した(那覇市歴史博物館編『戦後をたどる 「アメリカ世」から「ヤマト世」へ』から)。
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 米軍統治下の1950年代初めに、米国の政策や情報を住民に周知させるために設けられたアメリカ式文化センターの琉米文化会館が、那覇市ではこの崇元寺跡に建てられた。同会館は、那覇のほか名護、石川、宮古、石垣の5カ所に設置され、復帰時に各自治体に無償譲渡された(「沖縄コンパクト事典」)。
沖縄中央図書館はこの琉米文化会館に吸収され、同会館は、1969年に与儀の現那覇市立図書館の場所に新築移転した。その後、現市立図書館となった。

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