レキオ島唄アッチャー

上陸記念碑に見る万次郎の足跡、その2

  万次郎、アメリカ本土に上陸、日本人留学生第1号の誕生

 

1843年、万次郎が救出されてから2年後、船はアメリカ最大の捕鯨基地、マサチューセッツ州ニューベットフォードに帰港しました。万次郎は、日本人として初めてアメリカ本土に上陸しました。

 
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 万次郎の訪れたアメリカは、西部開拓の時代でした。ホイットフィールド船長は、ジョン・マンを我が子のように愛し、ふるさとのフェアヘーブンに連れ帰り、英語、数学、測量、航海術などの教育を受けさせました。ここに、日本人留学生第1号が誕生しました。


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 学校を卒業した万次郎は、捕鯨船フランクリン号に乗って7つの海を航海し、副船長にまでなりました。航海を経てニューベッドフォードに帰港した万次郎は、カリフォルニアで起こったゴールドラッシュのことを知りました。

1850年、万次郎は、日本へ帰国するための資金を得ようとサクラメントの金山に向かい、600ドルを稼ぐと、仲間のいるハワイへと向かいました。

 

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 日本帰国へ第一歩、いざ琉球・小渡浜に上陸

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ハワイに到着した万次郎は、伝蔵、五右衛門らに帰国の決意を伝えました。また、「琉球の地に小舟にて渡れば便利なり」と考え、捕鯨ボートを購入し、アドベンチャラー号と名付けました。そして、上海へ向かう商船サラボイド号へ乗船しました。

 
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18501217日、サラボイド号は上海へ向けてハワイを出港しました。翌年185122日、北風が吹きみぞれが降る悪天候の中、万次郎たちは、糸満市喜屋武岬の沖合でアドベンチャラー号を降ろし、陸地を目指しました。深夜、海岸に着くと干潮だったため浜には行けず、仕方なく岩礁にいかりを下し、朝まで一眠りしました。朝になると、近くにいた釣り人の指示に従い、万次郎、伝蔵、五右衛門の3名は、小渡浜(古港口:フルンナトゥグチ)に上陸することができました。



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上陸記念碑に見る万次郎の足跡、その1

ジョン万次郎が琉球にその第一歩を記した場所、糸満市大渡海岸に万次郎上陸之碑が建立された。記念碑は、六角形の台座の上に万次郎の銅像が立っている。台座は六角の各面には、万次郎の足跡を描いた絵図入り説明板が取り付けられている。説明板は、万次郎の足跡、功績が簡潔に記されており、万次郎に関心のある方々に是非、見ていただきたい。県内に数ある記念碑の中でも、銅像と台座の絵図の美しさ、内容の充実ぶりは、第一級の碑であると思う。機会があれば、大渡海岸を訪れてこの記念碑を直接見ていただきたい。

 

記念碑の紹介の前に、万次郎の上陸に至る経過を簡略に示した説明板があるので、まずはこちらから紹介する。

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万次郎アドベンチャラー号で琉球・小渡浜に上陸

 万次郎はハワイに到着後、帰国に際しサクラメントで得た資金で捕鯨ボートを購入し、アドベンチャラー号(adventurer)と名付けました。アドベンチャラー号は、長さ約8メートル、幅約1・8メートルで、帆1本、オール2本が備えられていました。

 また、万次郎の帰国に協力したハワイのデーモン牧師は、自らが発行する新聞・フレンド紙において、「彼が故国への帰還に無事成功すれば、日本と外国との国交樹立に大いに貢献するであろう。日本人と英国人、そしてアメリカ人との間の意思疎通をもたらす優秀な通訳になることは間違いない。ジョン・マンのアドベンチャラー号の成功を祈る。」と記されています。



  ここから後は、台座の各面を順序に沿って紹介する。 
  万次郎、足摺岬沖で嵐に遭い漂流、太平洋の孤島で捕鯨船に救助される

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   万次郎は、中ノ浜(高知県土佐清水市)で生まれました。
1841年、漁師になった14歳の万次郎は、宇佐浦からはえ縄漁に出ました。この舟には、船頭の筆之丞(後に伝蔵と改名)、重助、五右衛門の3兄弟と、寅右衛門、そして万次郎の5人が乗り込みました。ところが、漁に出て3日後に足摺岬沖で嵐に遭い、漂流しました。その後、太平洋の孤島・鳥島に漂着しました。そこで過酷な無人島生活を送り、143日後、アメリカの捕鯨船ジョン・ハラウンド号によって救助されました。

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 ジョン・ハラウンド号のウイリアム・
H・ホイットフィールド船長は、5人を安全なハワイへと連れて行きました。旺盛な好奇心と前向きな行動力で船長に認められた万次郎は、4人の仲間をハワイに残し、1人アメリカへ渡る決心をしました。また、そのころに「ジョン・マン」という愛称が付けられたといわれています。

 



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ジョン万次郎上陸記念碑が披露される

 糸満市大渡海岸にジョン万次郎上陸之地の記念碑(銅像)が建立され、2月18日、お披露目式が盛大に行われた。

 漁船で漂流しアメリカの捕鯨船で救助された万次郎が、10年ぶりの帰国のため、上陸の地に選んだのが琉球の摩文仁間切(いまの町村)の大渡海岸。1851年2月2日(旧暦1月3日)に上陸した。18日は、上陸した日と同じ旧暦正月3日にあたる。

 万次郎が上陸した日は小雨まじりの寒い日だったが、この日は青空が広がり暑いくらいだった。

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   万次郎が上陸した小渡浜の上に当る展望の良い場所に記念碑は建立された。
 式典に先立ち、小渡浜では、万次郎が上陸した際、飲んだであろうコーヒーが振る舞われ、思わず167年前の万次郎の姿を思い浮かべた。

 披露目式には、高知をはじめ県外からも多数来沖され、200人を超える人たちが参加した。

  大渡海岸は、沖縄戦の激戦地、摩文仁の丘の西側にあたるので、最初に1分間の黙とうをささげて式典が始まった。
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 ジョン万次郎上陸之地記念碑建立期成会会長でもある上原昭糸満市長が、住民が期成会をつくり、沖縄ジョン万次郎会とも協力して記念碑ができたことに感謝し、銅像をこれから南部観光の拠点の一つとしたいと述べた。

                    
   来賓の万次郎直系子孫5代目の中濱京さんが、日本最初のアメリカ文化、デモクラシーはボートに乗ってこの摩文仁にやってきた、万次郎と先祖も天国から喜んで見ているだろうと挨拶した。
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 万次郎の出身地、高知県土佐清水市の磯脇堂三副市長は、万次郎が土佐の維新の志士に影響をあたえた、小渡浜から日本の近代化が始まったとその意義を述べた。

 関係者によって記念碑の除幕が行われた。
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 銅像は、右手で指をさし、左手には2冊の本を抱えた万次郎が、郷里の土佐の方向に向かって立っている。六角形の台座には万次郎の足跡が美しいカラーの絵図とともにで紹介されている。青空の下、見事な記念碑・銅像が姿を現すとひときわ大きな拍手がわきあがった。
             
 
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 アトラクションで、地元の米須小学校6年生が勇壮なエイサーの演舞を行い盛り上げた。

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 建立期成会では、高知県出身で糸満市在住の和田達雄さんが、期成会の結成の立ち上げからかかわり、銅像や台座の絵図も提案して採用されるなど情熱を注いでこられた。万次郎と同郷の者として、尽力された和田さんと糸満市民に深く感謝したい。

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   次回から、銅像の台座を詳しく紹介したい。


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ジョン万次郎上陸之地記念碑、2月18日披露へ

 ジョン万次郎が1851年、琉球に上陸したことを記念する等身大の銅像・記念碑が糸満市大渡海岸に建立され、2月18日に披露されることに なった。 
  NPO法人ジョン万次郎上陸記念碑建立期成会会長の上原昭糸満市長が30日、明らかにした。

              ジョン万次郎上陸之地記念碑、銅像 (2)  
   完成予想図は、糸満市の記念碑の基本計画から使わせていただいた 
  市の「基本計画」を見ると、万次郎の功績を後世に伝える、子どもたちの夢を育む、新たな観光資源としていくことを整備の方針としている。
   銅像は約1㍍80㌢ある。台座は六角柱とし、万次郎の代表的なシーンを6つの面に説明図と絵図を並べて、万次郎の歴史的な功績をわかりやすく紹介するそうだ。
   
 銅像と六角図は、期成会で熱心に活動してきた高知県出身の和田達雄さんの提案作品だという。  
 これまで大渡海岸は万次郎の上陸地といっても、何も説明するものがなかった。記念碑を見れば、万次郎の功績が誰にも理解されるだろう。素晴らしい 銅像・記念碑である。
       
 費用は約2600万円で一括交付金を活用したという。万次郎が上陸した旧暦1月3日にあたる2月18日に現地で披露目式を行い、当日は、万次郎の出身地、高知県の土佐清水市長はじめ県外からの関係者も来られる。万次郎の直系子孫5代目の中濱京さんも参列される予定だという。
 是非、多くの県民と沖縄を訪れる観光客もこの記念碑を見ていただきたい。

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平良新助氏の銅像

  沖縄自由民権運動の闘士でハワイ移民の基礎をきずいた平良新助さんを顕彰する記念碑が建立されたことは聞いていた。でもまだ見に行く機会がなかった。先日、沖縄テレビで平良さんを主人公にした芝居と銅像が紹介された。
  沖縄自由民権運動の闘士といえば、謝花昇、当山久三、平良新助の3氏がよく知られている。謝花、当山両氏は、すでに地域に人々によって銅像が作られていた。平良さんだけがまだなかったので、この銅像と歌碑の建立は後世にその業績を伝えるためにと て も意義深いと思う。
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       写真はいずれも沖縄テレビの画面から。
        正面左手に銅像、右手に「ヒヤミカチ節」の歌碑がある
 
 銅像の建立のために、期成会が結成され、募金運動が取り組まれていた。銅像と歌碑は2015年11月に建立されたという。
 平良新助さんは、波乱万丈の生涯を送っている。以下、期成会のブログから紹介する。
 <明治9(1876)年、今帰仁村越地に生まれました。明治27年、首里にある沖縄尋常中学在学中に謝花昇や当山久三らの考えに感銘し、中学校を中退、自由民権運動を担う一番若い同志として活動を始めました。
 明治30年、郷里の今帰仁村に戻り総代を務めていました。そこで、奈良原県政が推し進める杣山の開墾強行に対し、27名の総代とともに交渉団体を組織して今帰仁村における反対運動を激しく戦い、この運動を勝利に導き、杣山を守り抜きました。
 このころから、民権運動と共に海外移民の重要性を唱える当山久三の考えに共鳴し、海外雄飛の夢を抱くようになりました。
 
 明治33年、海外雄飛に備え上京し、英語を学んでいた新助に対し、当山久三から第1回ハワイ移民団の実情調査と安否確認を依頼され、翌明治34年ハワイに渡航しました。移民団と耕地労働を共にしながら、移民団の動静を把握し、ハワイ移民の優位性を当山久三らに報告しました。
 さらに明治36年、当山久三率いる第2回ハワイ移民団を現地で引き取り、様々な困難を持ち前の英知と行動力でハワイに定着させ、ハワイ移民の基礎を確立させました。
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 移民団の定着を見届けた新助は、明治37年、兼ねてからの念願であった米本国へと移住します。サンフランシスコを振り出しに様々な苦労を重ね、遂にはロサンゼルスでホテルを経営し成功を収めています。経営者として活躍する傍ら日本人会・沖縄県人会などの要職を務めるなど移民団の生活と地位の向上に献身的に活動しています。
大正13年、移民保護を目的とする海外協会設立のため帰省し、昼夜を問わず奔走して、官民一致の設立総会を県議会で開かせることに成功しました。
 
 昭和28年、52年に渡る渡米生活に別れを沖縄に戻ってきました。そこで荒廃した郷土の復興に立ち上がる人々の姿と、半世紀前に当山久三氏が移民を声高に叫び胸に描いた沖縄人の姿を重ね合わせて詠んだ一首が『七転び転び ひやみかち起きて わしたこの沖縄 世界に知らさ』のひやみかち節の一節です。
 昭和29年、海外協会創立30周年記念式典で琉球海外協会の稲嶺一郎会長から海外協会設立の功績に対し感謝状が授与され、昭和43年に開催された海外移住百年祭では、沖縄の国際的声価を高めた功績により琉球政府松岡政保主席から移住功労賞が授与されています。
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   老後も、開拓魂や海外雄飛の気概は衰えることなく燃え盛っていました。その一端を紹介しますと
 80歳を過ぎで、今帰仁村の名峰「乙羽山」にロープウエイを通し、農業と観光の拠点にしたいと30年契約で村有地の借用を申請しています。
 さらに90歳になった新助は、東南アジアを旅してまわり、村の若者たちにこれからは東南アジアの時代だと東南アジアへの雄飛を説くなど、進取の気鋭・開拓魂は衰えることを知りませんでした。
 そのような新助も昭和45年94歳の長寿を全うし、あの世へと旅立っていきました。>
 
 創作芝居の「『ヒヤミカチウチナー!』~平良新助物語~」は、今帰仁村を拠点に活動する「劇団ビーチロック」が中心となり、すでに10、11月に3回公演をしたという。この芝居を観て、改めて平良新助という偉大な人物がいたことを知った人が多いようだ。
 新助さんも、グソー(あの世)から自分の銅像や芝居を眺めて喜んでいるだろう。



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南山城跡と嘉手志川を訪ねて

 久しぶりの南山城跡
 糸満市大里に行く用があったので、久しぶりに琉球が3つの小国に分かれていた三山時代に、南山王の居城だった南山城跡に立ち寄ってみた。世界遺産にも登録された琉球のグスクは、いかにも軍事的な要衝だったと思われる高地にある。眺望も素晴らしいところが多い。でも、ここはただの平地であり、なぜこの地にグスクを築いたのかよくわからないところがある。
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 それはさておき、部分的ではあるが立派な城壁が残っている。案内板から紹介する。
<南山城は琉球三山分立時代(14世紀頃)に栄えたグスクです。南山は明国と交易を盛んに行い、財源を得たり、明文化を移入したりして城を中心に南山文化を築いていました。15世紀になって中山王尚巴志に滅ぼされるまでの朝貢回数は22回を数えます。
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 1984年、発掘調査が市教育委員会によって行われ、中国製陶磁器やグスク系土器の他、備前焼きスリ鉢、鉄鏃(てつぞく、やじり)、ガラス製勾玉などが出土しています。これらの遺物から南山城は13世紀ごろに築かれ、13~15世紀前半が特に栄えていたことが分かりました。
 南山の東方には水源豊な「カデシガー」、北方には源為朝と王の妹との逢引場所だと伝わる「和解森(わだきなー)」があります>。
 琉球王府の史書『球陽』は、為朝のこの伝説について記している。「(為朝)公、大里按司の妹に通じて一男を生む」。為朝は、「故郷の念禁じ難く、妻子を携えて還らんとす」が、牧港から舟で出ようとすると暴風が起こり出れず、男女同舟すれば竜神の祟りだといわれ、やむなく妻子を残して還った。その息子がのちに舜天王になったとする。
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 南山城跡は、遺跡の大半が市立高嶺小学校の敷地内にある。城跡には、なぜか鳥居が建っている。裏手に回ると、数人の人たちが、御願に来られていた。なにか、南山とご縁のある方々だろうか。家族連れのような感じである。どこのグスクでも、その中にいくつもの拝所がある。グスクは、いまでも近くの集落の人々や関わりのある人々にとって信仰の対象なのだろう。

 城跡のすぐ東側に、嘉手志川(かでしがー)がある。水量豊富な湧水である。地元の住民は「うふがー」と呼んでいるそうだ。「かつては南山の繁栄を支えた湧水」(糸満市HP)ともいわれる。
 ただし、この井泉は、南山滅亡の因縁をもつことで知られる。
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 琉球王府の史書『球陽』は次のような伝承を記している。
 「中山王尚巴志、金彩囲屏(金屏風)有り。粧飾甚だ美なり」。他魯毎(たるみぃ)がこれを欲しがった。中山王は、大里にある泉、嘉手志川とこれを換えてはどうか、と言った。他魯毎は喜んで交換に応じた。中山王は「其の泉を得てより、其の水を厳禁し、人に与へて之れを汲ましめず。唯己に従ふ者のみ之れを与へて、未だ従はざる者は之れを用ふるを許さず。南山の臣民及び按司皆其の事を譏(そし)りて以て相胥(あい、みな。互いに、すべての意)に怨み、暗かに中山に従ふ者勝げて数ふべからず。是に於て中山王自ら四方の按司等を率ゐ、親しく往きて之れを征す。他魯毎擄(りょ)にせられて誅に伏し、遂に南山を滅すと爾云う」
1429年に南山は滅びた。

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 この附近は沖縄戦のなかで、激戦の地となった。
 「沖縄戦の戦闘が激しくなるにつれて、嘉手志川の周囲は、日本軍を追い詰めていくアメリカ軍の激しい攻撃にさらされ、住民は、水場一帯に容易に近づけなくなったということです。
 嘉手志川の近くに、灌漑施設の完成を記念して建てられた石碑がありますが、戦火を受けて大きく削られ、また機関銃の痕が残っています」(NHK「沖縄戦70年 戦跡と証言」)。
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 現在も周辺の田畑を潤し、地元の人たちの納涼スポットとして訪れる人が絶えないという。この日も、釣竿を持つ人がいたり子どもが網を持って遊んでいた。憩いの場となっているのだろう。



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森の川再訪

 森の川再訪
 
 宜野湾市の森の川を再訪した。奥間大親が天女と出会った伝説の井泉である。
 「森の川公園」として整備されている。いまも清水が湧き出ている。石積みが見事な井泉である。
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 飲料の水を汲み、野菜を洗ったり、洗濯をしたのだろう。昔の情景を描いた絵がある。この写真は、数年前に撮影したものである。
                  昔の森の川風景画
 興味を引くのは、その奥に円形に石積みをした場所があることだ。「もしかして、水浴びをしたのか」と思ったが、往時の風景画を見ると、女性が御願(ウガン)をしている。神聖な空間だったのだろう。
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 井泉の北側には、石門があり、その奥は森になっている。西森御嶽(ニシムイウタキ)といわれる。沖縄では、御嶽の前の石門は、拝殿の意味があるらしい。
 「西森の石門の奥には古墓がありますが、これは奥間大親の墓と言われています」(「ヒューマンリレーション」HP「沖縄の神聖スポット」)とのことだ。
ただ、慶留間知徳著『琉球祖先宝鑑』では「死骨は同村の下海の前なる戊亥に向う高墓也」と記されている。
                    西森御嶽石門

 この石門の左奥に古い石碑、「西森碑記」(にしもりひき)がある。説明板がある。
 <尚清王(在位1527年~1555年)の第七子を初代とする向氏(しょうじ)伊江家の人々が、この石碑の前にある石門と森の川の石積み工事を行い、その完成を記念して雍正(ようせい)3年(中国年号・1725年)に建立したものである。
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 碑文には、「森の川で沐浴していた天女と奥間大親(おくまうふや)とが出会い、一男一女が生まれた。男の子は察度と名付けられ、後に中山王に就いた。私たちの元祖尚宗賢伊江王子朝義の母は、宜野湾間切謝名村(ぎのわんまぎりじゃなむら)の野国掟(のぐにうつち)の娘で、名を城(ぐすく)の大按司志良礼(うふあんししられ)といい、尚清王の夫人である。私達子孫は毎年5月、西森および森の川の泉を拝んでいるが、野国掟は奥間大親の末裔であるという伝説があるからであろう。
 これらの事情により、私達は資金を寄せ、石工を集め、石を切り敷きつめ、泉を囲み、門を造った。また、西森の前にも長さ五丈四尺(約16.4m)の石垣を造り、門を開け出入りができるようにした。これらは先祖をしのび尊ぶためである。よって、ここに石碑を建立しその事を記す。
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 大清雍正(ようせい)3年9月吉日、向和憲垣花親方(うぇーかた)朝理・向良顕伊江按司(あじ)朝良、向和声西平親方朝叙」とある。
 碑文の末尾の人物は三司官(さんしかん)の向和声を含めいずれも伊江家の子孫たちである>。
 こんな説明が書かれている。
 伊江島の歴史を学んだとき、尚清王の第7子のことを知った。
 「1,559年(嘉靖38)、始めて伊江島に総地頭が配置された。最初の伊江按司(アジ)には尚清王の第7子尚宗賢が任命された。名乗は伊江朝義と云い、伊江王子と称した。伊江御殿(ウドゥン)創立の祖である」(『伊江村史』)
 母親の尚清王夫人が奥間大親の末裔なら、伊江家は奥間大親の血をひいていることになる。 
 この説明によって、奥間大親と伊江御殿とのつながりを知ることができた。
 
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阿麻和利の墓を訪ねる

 阿麻和利の墓を訪ねる
 
 勝連半島に君臨し「肝高の阿麻和利(キムタカのアマワリ)」と呼ばれた人物のお墓が読谷村楚辺(ソベ)にある。ドライブに出かけたついでに立ち寄ってみた。 
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 古堅小学校の北側の住宅のそばにありわかりやすい。すぐ西側には、米軍基地トリイステーションが広がっている。
 木立の茂る大きな岩の下部が墓になっている。「阿摩和利之墓」の墓碑が建っている。
  なぜ読谷に墓があるのだろうか。 
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 阿麻和利は15世紀に北谷間切屋良村(現・嘉手納町)で生まれたという。
 当時、勝連城主で住民を苦しめていた茂知附按司を倒して按司(豪族)となった。第一尚氏王統の第6代国王・尚泰久の娘、百度踏揚(モモトフミアガリ)を妻としていた。中城城主の護佐丸に謀反の疑いがあるとして王の命令で攻め、自害させた。しかし、阿麻和利が首里城攻略の野望を抱いたとして、王府軍に攻め滅ぼされたとされる。
 王府によって阿麻和利は逆臣、護佐丸は忠臣とされてきた。
 しかし、一方で王府編纂の歌謡集「おもろさうし」では、勝連の阿麻和利は、国中にその名がとどろく気高い人物として歌われている。
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 護佐丸・阿麻和利の乱について、それが中城と勝連で勢力を増す両雄を滅ぼすため、尚泰久とその臣下・金丸(後の尚円王)による陰謀だったのではないか、という説も出ている。
 阿麻和利は、地元の中高生らによって現代版組踊「肝高の阿麻和利」が繰り返し上演され、いまではすっかり勝連の英雄とされている。
 護佐丸のお墓は、中城城跡の近くに立派なお墓がある。それに比べて阿麻和利は長らく逆臣とされてきたためか、墓碑がなければ英雄のお墓とはわからないほどだ。 
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 読谷といえば、伊良皆(イラミナ)には、琉球を統一した英雄、尚巴志(ショウハシ)の墓もある。こちらも、第二尚氏による追及を避けるため、首里から遠いこの読谷の小高い岩山がお墓になっている。
 阿麻和利も逆臣とされたため、やはりこの読谷で、ひっそりと葬られたのだろうか。いまや英雄とされているのだから、それにふさわしい案内板などあってもよいのではないだろうか。

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沖永良部島で慕われる西郷隆盛

 流罪人として和泊で囚われていた西郷隆盛
 ドライブに出かける前に、和泊でどうしても見ておきたい史跡があった。ホテルにも近いので行ってみた。薩摩藩の倒幕運動の英傑、西郷隆盛が入れられていた牢屋である。
 西郷は、国父・島津久光の怒りにふれ、徳之島とさらに沖永良部島に遠島(島流し)にされたことがある。久光の命令書には「囲いを作って、昼夜とも見張り番をつけて監視せよ」とされ、1862年から1年6か月にわたり罪人として扱われた。
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 かつて仮屋(代官の役所)があった海辺近くの場所に、いま資料館があり、そばに牢屋がある。頑丈な4寸角材の格子で囲われ、わずか2坪余りしかない狭い建物だ。西郷は一日中、座禅を組み思索にふけっていたという。
牢屋の中に、座禅を組む西郷の像がある。目を閉じた容姿は、東京・上野公園のお馴染みの西郷像とはまるっきり別人のような、なんか学者のような印象だ。
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 西郷の姿に心打たれた間切(マギリ、いまの町村)横目(役職名)・土持正照が自分の家の中に囲いを作り、そこに西郷を移した。西郷は体力も回復し、読書に精を出し、周囲の子どもたちに勉強を教えるようになった。教えを受けた子どもたちは成人すると島の指導者になっていった。
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 西郷が牢屋生活の間に学問に励み、精神を練磨して悟った思想が「敬天愛人」と呼ばれ、「天を敬い、人民を愛する」という意味である。その後西郷の行動の基準となったという。牢屋の前に建てられた石碑には、この思想が「本島発展の基をなしている」と記している。
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 西郷はまた、貧しく、台風や日照りで飢饉になる島民のため、対策として豊作の年に余分な米を出し合い、貯蔵しておき、飢饉のときに貸し付け、利子を貯えることを教えた。社倉(シャソウ)と呼ばれる方式で、明治3年から実行された。島民全員が加入し助け合う共済制度として、30年間続いた。その利益で公立病院を設立したり、奨学資金や母子家庭などの救済の基金にもなるなど、島民の生活向上に活用されたという。
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 そんなこんなで、西郷さんは沖永良部島ではとても敬愛されている。近くには西郷神社まである。
以上は、先田光演著『沖永良部島の歴史』や「西郷南洲翁謫居の地」の説明文を参考にした。

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歴史が刻まれた泊外人墓地

 ウランダー墓と呼ばれた
 那覇市の泊港の北岸に、泊外人墓地がある。十字架の墓標が並び、お墓の形はさまざまだ。鉄扉の門は鍵がかかっていないので、立ち入りできる。
 門を入ってすぐ右手に、墓地の説明坂がある。
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 もともと中国人が葬られ「唐人墓」と呼ばれたが、19世紀に欧米人が葬られるようになり、「ウランダー墓」と呼ばれた。「ウランダー=オランダ」とは、欧米人の別称だった。説明坂から紹介する。
 
 ここは古くから22基の外国人のお墓があったので、「ウランダー墓」などとよばれていた。その内訳は、中国人(清人)6人、アメリカ人10人、イギリス人2人、フランス人・スウェーデン人各1人、不明2人となっている。このうち最も古いのは、中国人(漂流民)のもので墓碑から1718年(康熙57年)~1785年(乾隆50年)の年号が読みとれる。
 その後、欧米船の来航があいつぎ、1853年~1854年にかけて5度来航したペリー提督の従者や、1908年当時沖縄県立中学校の英語教師ヘンリー・アモアなど、この地で亡くなった外国人が葬られている。なかでも英国の水兵ウィリアム・ヘアーズの葬儀には、泊住民が惜しみなく協力した。それ故この地は、18世紀以降の沖縄の歴史とその人類愛を地上に印す記念すべき場所である。
  なお、この墓地は現在も利用されており、主に外国人が葬られている。その数300余基にのぼる。
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  お墓の形は実にさまざまである。墓の向きも東西南北まちまちだ。墓地の奥の方に、西洋式の墓碑のない古い墓がある。これが古い中国人のお墓だと聞く。
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  墓碑を見ていて、意外に思ったのは、県系人の名前、それも女性の名前が結構あることだ。アメリカ人と結婚して米国籍になっていて亡くなった女性だろうか。
 なかには、中国系の名前で顔写真を飾った「愛妻」の立派なお墓もあった。
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 圧倒的に多いのは欧米人である。
  那覇市観光課の「泊の地に眠る異国人たち」(泊外人墓地歴史案内実地概要)には次のような記述がある。
  18世紀末頃になると欧米諸国から琉球へ漂着する船が徐々に見られるようになり、1816年には「大琉球島探検航海記」を著したバジルホールの乗った船が寄港しております。また1846年に「波の上の眼鏡(ナンミンヌガンチョー)」と呼ばれた宣教師ベッテルハイム、1853年日本を開国させたペリーなど、19世紀の琉球には多くの異国人がやってきており、中には琉球の地で没し、泊外人墓地に葬られた者もおります。…
  このように泊外人墓地は中国、朝鮮、アメリカ、ロシア、フランス、イギリスなどを諸外国との交流の歴史の影で望郷の念をいだきながら、琉球の地を青山とした異国人が眠る場所です。
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  門から入り、まっすぐに伸びた道の先に、「ペルリ上陸之地」の碑が建てられている。
「琉球人の繁栄を祈り且つ琉球人とアメリカ人とが常に友人たらんことを望む」。これは1853年6月6日、琉球に来たペルリ提督の招宴席上の挨拶である。裏側は、英文の碑文になっている。
  ペリーの艦隊が琉球に来た時には、水兵が事件を起こしたことで知られる。
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  水兵ウィリアム・ボードがこっそり船を抜け出し、酒を飲み過ぎて酔っ払い、女性をレイプした。それを知った琉球人が石を投げ追ったところ、ボードは崖から落ちて死亡した。ペリーはボードを殺したとして6人の引渡しを要求した。王府は引き渡しには応じなかったが、八重山、宮古への流刑などの刑罰に処した。事件を起こしたボードはこの外人墓地に葬られた。他にもペリーの部下の墓もあるという。残念ながら見つけられなかった。興味のある方はブログ「若狭公民館つれづれ日記」に写真と解説があるので見てほしい。
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  墓地でもっとも多いのは、簡素な十字架だけの墓である。また、立派な墓碑のある墓でも、「VIETNAM」の文字がよく記されている。米海軍、陸軍、海兵隊の文字がよくある。
  「基地内に十字架の墓がたくさん並んでいるのは、ベトナム戦争に従軍して戦死したアメリカ軍人の墓です。故国アメリカではなく異郷の地、沖縄に葬られることを希望した者も多かったようです」(「泊の地に眠る異国人たち」)
 ここには、さまざまな歴史が刻まれている。

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