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レキオ島唄アッチャー

松山公園を歩く、久米村発祥地

久米村発祥の地
 船の形をした立派な碑が目をひく。久米村600年を記念して建立された久米村
発祥地の記念碑だという。
         久米村記念碑
 15世紀に中国から渡来し、琉球の対外交易や政治・経済・文化の発展に重要
な役割を果たした久米村(くにんだ)の人々を顕彰する碑である。この碑は、中国
への朝貢や交易に使われた船をイメージしているのだろう。
                久米村の碑
 説明板は次のように記している。
<今から600年前、中国の福建から閩人三六姓と呼ばれる人々が渡来し、この
地に居を定め久米村(唐栄)を築きました。以来、久米村の人々は、外交文書の
作成など通して、王国の国際交流・交易を促進し、また、中国の文化・文物を導入
して、沖縄の政治・経済・文化の発展に大きく寄与しました。
ここに、久米村が、沖縄の歴史と国際交流に果たしてきた役割を顕彰し、今後の
友好・交流の発展を祈念して、記念碑を建立いたします>

                  久米村の図 
                   昔の久米村の情景を描いている
 この碑の道路を挟んだ向かいには、中国式庭園「福州園」がある。その隣には
「孔子廟」もある。中国の雰囲気が少し味わえる場所である。

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松山公園を歩く、袋中上人碑

 那覇市の松山公園を久しぶりに訪れ、散歩した。ゆっくりと園内を回ってみると、いくつもの史跡と石碑、湧水などに出会った。過去1、2度来たことがあったが、素通りしていた。改めめて紹介する。

袋中上人行化碑(たいちゅうしょうにんぎょうげひ)

    袋中上人の碑

しっかりと柵で囲われた中に石碑が見えたので、何かなと思って近づいてみた。碑文はよく見えないが、脇の標柱を見ると「袋中上人行化碑(ぎょうげひ)」と刻まれている。

袋中上人は、中国に渡ろうとしたが上陸を許されず、琉球に漂着した。念仏を唱えればだれでも救われるという浄土宗を広めたことで知られる。

石碑横の説明板には次のように書かれている。

慶長8年(1603)、浄土宗の僧、袋中上人が縁あって来琉。法然上人念仏の教えを広め、故郷・若城(福島県)の「じゃんがら念仏」を普及、現在沖縄の伝統芸能「エイサー」となる。
            
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時の琉球尚寧王は上人に深く帰依、桂林寺を建立。ここ松山公園はその跡地である。

 この跡地において、平成16年(200427日袋中上人沖縄開教400年を記念し、上人顕彰・頌徳(注・しょうとく)の慶讃法要ならびに、第2次世界大戦戦没者諸精霊位の冥福を薦めるため、仏教各宗派寺院・檀信徒等、約3千数百名の参加を得、俱会一処の法楽を奉修した。

  願わくはここ沖縄の地に世界平和念仏が弘通され、すべての人々の心に安らぎがもたらされることを期しこの小碑を建立する。>

            袋中上人の碑全体 
  数年前に福島の「じゃんがら念仏踊り」を見たことがあるが、伝統的な古いエイサーとよく似ていたことを思い出す。

 



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ジョン万次郎上陸記念碑が動画に

 糸満市大渡浜海岸に建立されたジョン万次郎上陸記念碑がYouTubeにアップされたので紹介する。   
  
 
  音楽は、三田りょうさんが歌う「ジョン万次郎のうた~忘れもしない肝心~」である。
 とてもよくできた記念碑だと思うので、是非一度現地で見ていただきたい。
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上陸記念碑に見る万次郎の足跡、その4

 万次郎、封建時代の日本に民主主義を伝える国際人として活躍、そして開国へ
 

         IMG_5422.jpg
 幽閉されていた万次郎たちは、琉球王府の役人により取り調べを受けました。
その際、通事牧志朝忠は、特にジョージ・ワシントン伝記に興味を持ちました。
伝記には、アメリカの民主主義社会の制度や人権尊重について書かれていま
した。そのようなことから、万次郎が封建社会の日本に持ち帰りたかったのは
、アメリカで体験した民主主義の思想だったとも考えられています。

         IMG_5423.jpg

 その後、万次郎は
11年ぶりにふるさと土佐に帰りました。ペリー提督が黒船を
率いて現れた際、幕府は万次郎を直参として江戸に呼び寄せました。万次郎は、
開国への熱い思いを込めて、老中らの前でアメリカの事情について話しました。

 その後の万次郎は、翻訳、測量、捕鯨などを主な仕事としていました。明治新
政府になっても、普仏戦争の視察として海外出張を命ぜられたほか、東京大学
の前身「開成学校」の英語教授に就任するなど、国際人として活躍しました。


           IMG_5446.jpg

 追記
 「上陸之碑」の披露式典には、多数のマスメディアが取材に来ていて、テレビ
や新聞で報道された。沖縄での万次郎への関心の高 まりがうかがえた。「琉
球新報」2月20日付けは社会面で大きく報道した。


      img152.jpg 



 
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上陸記念碑に見る万次郎の足跡、その3

 万次郎、摩文仁間切番所で取り調べを受ける、荷物には本や地図、ピストルも

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 上陸した小渡浜で万次郎、伝蔵、五右衛門の3名は、浜に集まった小渡
の村人たちから、温かいふかしイモをごちそうされました。万次郎たちは、
親切な村人たちのもてなしに感謝の気持ちで胸がいっぱいになったといい
ます。また、万次郎たちは、持ってきた牛肉やコーヒーを火に掛け、その場
で食して見せました。

        IMG_5425.jpg 
  万次郎たちの持物はすべて、摩文仁間切番所(米須集落内)の役人によって
没収され、番所に運ばれました。荷物には、航海術書、数学書、ジョージ・ワシン
トン伝記、地図、八分儀、コンパス、ピストルなどがありました。取り調べをした役
人たちにとっては、見たことのない品物ばかりでした。

 また、役人からご飯とお箸を渡され、3人とも上手に使いこなしたことから、日本
人であることが認められました。 

  万次郎、宿道を歩き翁長村の高安家へ「いちゃりばちょーでー」精神に触れる

 

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  万次郎たちは、取り調べ後に那覇へ護送されることになっていましたが、摩文仁
間切から真壁、高嶺、兼城、豊見城間切の宿道を歩き向かいましたが、那覇でイ
ギリス人宣教師ベッテルハイムに会うことを心配した薩摩藩と琉球王府の役人は
、「豊見城間切に戻せ」との伝令を出し、豊見城間切翁長村へ戻り、親雲上(ペー
チン)の高安家(屋号:徳門)で幽閉されました。

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  万次郎たちは、半年間に及ぶ捕らわれの身ではありましたが、村の綱引きや毛
あしびー(注:若者が夜、野原で歌い踊り遊ぶ)に参加するなど、村人たちと自由
に交流することができました。また、かつて琉球の進貢船が遭難した際、土佐藩
の人たちに助けられたことがありました。琉球国王は、土佐藩の人たちへの恩返
しとして、万次郎たちへの手厚い保護のほか、豚、鳥、魚、泡盛、衣服などを贈り
ました。

 万次郎たちは、多くの人たちの「いちゃりばちょーでー」(注・一度出会えば兄弟
)精神に触れることができました。


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上陸記念碑に見る万次郎の足跡、その2

  万次郎、アメリカ本土に上陸、日本人留学生第1号の誕生

 

1843年、万次郎が救出されてから2年後、船はアメリカ最大の捕鯨基地、マサチューセッツ州ニューベットフォードに帰港しました。万次郎は、日本人として初めてアメリカ本土に上陸しました。

 
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 万次郎の訪れたアメリカは、西部開拓の時代でした。ホイットフィールド船長は、ジョン・マンを我が子のように愛し、ふるさとのフェアヘーブンに連れ帰り、英語、数学、測量、航海術などの教育を受けさせました。ここに、日本人留学生第1号が誕生しました。


                 IMG_5431_20180220213913d67.jpg   

 学校を卒業した万次郎は、捕鯨船フランクリン号に乗って7つの海を航海し、副船長にまでなりました。航海を経てニューベッドフォードに帰港した万次郎は、カリフォルニアで起こったゴールドラッシュのことを知りました。

1850年、万次郎は、日本へ帰国するための資金を得ようとサクラメントの金山に向かい、600ドルを稼ぐと、仲間のいるハワイへと向かいました。

 

+

 日本帰国へ第一歩、いざ琉球・小渡浜に上陸

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ハワイに到着した万次郎は、伝蔵、五右衛門らに帰国の決意を伝えました。また、「琉球の地に小舟にて渡れば便利なり」と考え、捕鯨ボートを購入し、アドベンチャラー号と名付けました。そして、上海へ向かう商船サラボイド号へ乗船しました。

 
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18501217日、サラボイド号は上海へ向けてハワイを出港しました。翌年185122日、北風が吹きみぞれが降る悪天候の中、万次郎たちは、糸満市喜屋武岬の沖合でアドベンチャラー号を降ろし、陸地を目指しました。深夜、海岸に着くと干潮だったため浜には行けず、仕方なく岩礁にいかりを下し、朝まで一眠りしました。朝になると、近くにいた釣り人の指示に従い、万次郎、伝蔵、五右衛門の3名は、小渡浜(古港口:フルンナトゥグチ)に上陸することができました。



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上陸記念碑に見る万次郎の足跡、その1

ジョン万次郎が琉球にその第一歩を記した場所、糸満市大渡海岸に万次郎
上陸之碑が建立された。記念碑は、六角形の台座の上に万次郎の銅像が立っ
ている。台座は六角の各面には、万次郎の足跡を描いた絵図入り説明板が取
り付けられている。説明板は、万次郎の足跡、功績が簡潔に記されており、万
次郎に関心のある方々に是非、見ていただきたい。県内に数ある記念碑の中
でも、銅像と台座の絵図の美しさ、内容の充実ぶりは、第一級の碑であると思
う。機会があれば、大渡海岸を訪れてこの記念碑を直接見ていただきたい。

記念碑の紹介の前に、万次郎の上陸に至る経過を簡略に示した説明板があ
るので、まずはこちらから紹介する。

       IMG_5380.jpg

万次郎アドベンチャラー号で琉球・小渡浜に上陸

 万次郎はハワイに到着後、帰国に際しサクラメントで得た資金で捕鯨ボートを
購入し、アドベンチャラー号(
adventurer)と名付けました。アドベンチャラー号は、
長さ約8メートル、幅約1・8メートルで、帆1本、オール2本が備えられていました。

 また、万次郎の帰国に協力したハワイのデーモン牧師は、自らが発行する新
聞・フレンド紙において、「彼が故国への帰還に無事成功すれば、日本と外国と
の国交樹立に大いに貢献するであろう。日本人と英国人、そしてアメリカ人との
間の意思疎通をもたらす優秀な通訳になることは間違いない。ジョン・マンのアド
ベンチャラー号の成功を祈る。」と記されています。


  ここから後は、台座の各面を順序に沿って紹介する。 
  万次郎、足摺岬沖で嵐に遭い漂流、太平洋の孤島で捕鯨船に救助される

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   万次郎は、中ノ浜(高知県土佐清水市)で生まれました。
1841年、漁師になっ
14歳の万次郎は、宇佐浦からはえ縄漁に出ました。この舟には、船頭の筆之
丞(後に伝蔵と改名)、重助、五右衛門の3兄弟と、寅右衛門、そして万次郎の5
人が乗り込みました。ところが、漁に出て3日後に足摺岬沖で嵐に遭い、漂流し
ました。その後、太平洋の孤島・鳥島に漂着しました。そこで過酷な無人島生活
を送り、
143日後、アメリカの捕鯨船ジョン・ハラウンド号によって救助されました。

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 ジョン・ハラウンド号のウイリアム・
H・ホイットフィールド船長は、5人を安全なハワ
イへと連れて行きました。旺盛な好奇心と前向きな行動力で船長に認められた万
次郎は、4人の仲間をハワイに残し、1人アメリカへ渡る決心をしました。また、そ
のころに「ジョン・マン」という愛称が付けられたといわれています。



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ジョン万次郎上陸記念碑が披露される

 糸満市大渡海岸にジョン万次郎上陸之地の記念碑(銅像)が建立され、
2月18日、お披露目式が盛大に行われた。

 漁船で漂流しアメリカの捕鯨船で救助された万次郎が、10年ぶりの帰
国のため、上陸の地に選んだのが琉球の摩文仁間切(いまの町村)の大渡
海岸。1851年2月2日(旧暦1月3日)に上陸した。18日は、上陸
した日と同じ旧暦正月3日にあたる。

 万次郎が上陸した日は小雨まじりの寒い日だったが、この日は青空が広
がり暑いくらいだった。

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   万次郎が上陸した小渡浜の上に当る展望の良い場所に記念碑は建立された。
 式典に先立ち、小渡浜では、万次郎が上陸した際、飲んだであろうコー
ヒーが振る舞われ、思わず167年前の万次郎の姿を思い浮かべた。

 披露目式には、高知をはじめ県外からも多数来沖され、200人を超え
る人たちが参加した。

  大渡海岸は、沖縄戦の激戦地、摩文仁の丘の西側にあたるので、最初に
1分間の黙とうをささげて式典が始まった。
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 ジョン万次郎上陸之地記念碑建立期成会会長でもある上原昭糸満市長が、
住民が期成会をつくり、沖縄ジョン万次郎会とも協力して記念碑ができた
ことに感謝し、銅像をこれから南部観光の拠点の一つとしたいと述べた。

                    
   来賓の万次郎直系子孫5代目の中濱京さんが、日本最初のアメリカ文化、
デモクラシーはボートに乗ってこの摩文仁にやってきた、万次郎と先祖も
天国から喜んで見ているだろうと挨拶した。
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 万次郎の出身地、高知県土佐清水市の磯脇堂三副市長は、万次郎が土佐
の維新の志士に影響をあたえた、小渡浜から日本の近代化が始まったとそ
の意義を述べた。

 関係者によって記念碑の除幕が行われた。
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 銅像は、右手で指をさし、左手には2冊の本を抱えた万次郎が、郷里の
土佐の方向に向かって立っている。六角形の台座には万次郎の足跡が美し
いカラーの絵図とともにで紹介されている。青空の下、見事な記念碑・銅
像が姿を現すとひときわ大きな拍手がわきあがった。
             
 
     IMG_5408.jpg
 
 アトラクションで、地元の米須小学校6年生が勇壮なエイサーの演舞
を行い盛り上げた。

                 IMG_5417_20180218232020332.jpg

 建立期成会では、高知県出身で糸満市在住の和田達雄さんが、期成会
の結成の立ち上げからかかわり、銅像や台座の絵図も提案して採用され
るなど情熱を注いでこられた。万次郎と同郷の者として、尽力された和
田さんと糸満市民に深く感謝したい。

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   次回から、銅像の台座を詳しく紹介したい。


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ジョン万次郎上陸之地記念碑、2月18日披露へ

 ジョン万次郎が1851年、琉球に上陸したことを記念する等身大の銅像・記念碑が糸満市大渡海岸に建立され、2月18日に披露されることに なった。 
  NPO法人ジョン万次郎上陸記念碑建立期成会会長の上原昭糸満市長が30日、明らかにした。

              ジョン万次郎上陸之地記念碑、銅像 (2)  
   完成予想図は、糸満市の記念碑の基本計画から使わせていただいた 
  市の「基本計画」を見ると、万次郎の功績を後世に伝える、子どもたちの夢を育む、新たな観光資源としていくことを整備の方針としている。
   銅像は約1㍍80㌢ある。台座は六角柱とし、万次郎の代表的なシーンを6つの面に説明図と絵図を並べて、万次郎の歴史的な功績をわかりやすく紹介するそうだ。
   
 銅像と六角図は、期成会で熱心に活動してきた高知県出身の和田達雄さんの提案作品だという。  
 これまで大渡海岸は万次郎の上陸地といっても、何も説明するものがなかった。記念碑を見れば、万次郎の功績が誰にも理解されるだろう。素晴らしい 銅像・記念碑である。
       
 費用は約2600万円で一括交付金を活用したという。万次郎が上陸した旧暦1月3日にあたる2月18日に現地で披露目式を行い、当日は、万次郎の出身地、高知県の土佐清水市長はじめ県外からの関係者も来られる。万次郎の直系子孫5代目の中濱京さんも参列される予定だという。
 是非、多くの県民と沖縄を訪れる観光客もこの記念碑を見ていただきたい。

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平良新助氏の銅像

  沖縄自由民権運動の闘士でハワイ移民の基礎をきずいた平良新助さんを顕彰する記念碑が建立されたことは聞いていた。でもまだ見に行く機会がなかった。先日、沖縄テレビで平良さんを主人公にした芝居と銅像が紹介された。
  沖縄自由民権運動の闘士といえば、謝花昇、当山久三、平良新助の3氏がよく知られている。謝花、当山両氏は、すでに地域に人々によって銅像が作られていた。平良さんだけがまだなかったので、この銅像と歌碑の建立は後世にその業績を伝えるためにと て も意義深いと思う。
                   IMG_5282.jpg
       写真はいずれも沖縄テレビの画面から。
        正面左手に銅像、右手に「ヒヤミカチ節」の歌碑がある
 
 銅像の建立のために、期成会が結成され、募金運動が取り組まれていた。銅像と歌碑は2015年11月に建立されたという。
 平良新助さんは、波乱万丈の生涯を送っている。以下、期成会のブログから紹介する。
 <明治9(1876)年、今帰仁村越地に生まれました。明治27年、首里にある沖縄尋常中学在学中に謝花昇や当山久三らの考えに感銘し、中学校を中退、自由民権運動を担う一番若い同志として活動を始めました。
 明治30年、郷里の今帰仁村に戻り総代を務めていました。そこで、奈良原県政が推し進める杣山の開墾強行に対し、27名の総代とともに交渉団体を組織して今帰仁村における反対運動を激しく戦い、この運動を勝利に導き、杣山を守り抜きました。
 このころから、民権運動と共に海外移民の重要性を唱える当山久三の考えに共鳴し、海外雄飛の夢を抱くようになりました。
 
 明治33年、海外雄飛に備え上京し、英語を学んでいた新助に対し、当山久三から第1回ハワイ移民団の実情調査と安否確認を依頼され、翌明治34年ハワイに渡航しました。移民団と耕地労働を共にしながら、移民団の動静を把握し、ハワイ移民の優位性を当山久三らに報告しました。
 さらに明治36年、当山久三率いる第2回ハワイ移民団を現地で引き取り、様々な困難を持ち前の英知と行動力でハワイに定着させ、ハワイ移民の基礎を確立させました。
                               IMG_5284.jpg  
 移民団の定着を見届けた新助は、明治37年、兼ねてからの念願であった米本国へと移住します。サンフランシスコを振り出しに様々な苦労を重ね、遂にはロサンゼルスでホテルを経営し成功を収めています。経営者として活躍する傍ら日本人会・沖縄県人会などの要職を務めるなど移民団の生活と地位の向上に献身的に活動しています。
大正13年、移民保護を目的とする海外協会設立のため帰省し、昼夜を問わず奔走して、官民一致の設立総会を県議会で開かせることに成功しました。
 
 昭和28年、52年に渡る渡米生活に別れを沖縄に戻ってきました。そこで荒廃した郷土の復興に立ち上がる人々の姿と、半世紀前に当山久三氏が移民を声高に叫び胸に描いた沖縄人の姿を重ね合わせて詠んだ一首が『七転び転び ひやみかち起きて わしたこの沖縄 世界に知らさ』のひやみかち節の一節です。
 昭和29年、海外協会創立30周年記念式典で琉球海外協会の稲嶺一郎会長から海外協会設立の功績に対し感謝状が授与され、昭和43年に開催された海外移住百年祭では、沖縄の国際的声価を高めた功績により琉球政府松岡政保主席から移住功労賞が授与されています。
                               IMG_5285.jpg 
   老後も、開拓魂や海外雄飛の気概は衰えることなく燃え盛っていました。その一端を紹介しますと
 80歳を過ぎで、今帰仁村の名峰「乙羽山」にロープウエイを通し、農業と観光の拠点にしたいと30年契約で村有地の借用を申請しています。
 さらに90歳になった新助は、東南アジアを旅してまわり、村の若者たちにこれからは東南アジアの時代だと東南アジアへの雄飛を説くなど、進取の気鋭・開拓魂は衰えることを知りませんでした。
 そのような新助も昭和45年94歳の長寿を全うし、あの世へと旅立っていきました。>
 
 創作芝居の「『ヒヤミカチウチナー!』~平良新助物語~」は、今帰仁村を拠点に活動する「劇団ビーチロック」が中心となり、すでに10、11月に3回公演をしたという。この芝居を観て、改めて平良新助という偉大な人物がいたことを知った人が多いようだ。
 新助さんも、グソー(あの世)から自分の銅像や芝居を眺めて喜んでいるだろう。



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