レキオ島唄アッチャー

石垣島に配流された仲尾次政隆

 仲尾次政隆の家系

 石垣島に配流された仲尾次政隆は、どのような家系の人物だったのだろうか。
 比嘉朝進著『士族門中家譜』から紹介する。
 <宇氏・仲尾次家――女の立ち口
 1世 思嘉那
 父は久米村の髙良仁也(ニヤー)、母は読谷間切楚辺村の比嘉仁也の娘次良(ジラー)。仁也というのは新参士や役職(地方役人)についた百姓(平民)が、叙位されるまでの無位の期間の称号。
 夫の中村宇兵衛は薩摩久志浦の人で、家は富み船を持ち、琉球から薩摩への貢納米運送を手がけ、思加那(ママ)を旅妻にした。5人の男子をもうけ、中村は3男のみを連れて帰り、薩摩の家督を継がせた。
 中村は多額の金を思嘉那に与えて帰った。思嘉那はその金を元に商売をし富豪になった。息子たちとその子孫も頑張り、富み栄えていった。>
  
  仲尾次家の1世の思嘉那の夫は、薩摩の中村宇兵衛で、琉球から薩摩へ貢納米を運搬していて、思嘉那を現地妻にしたという。仲尾次家は、薩摩人の血をひいていることになる。

 「門中のエピソード」として『士族門中家譜』は、次のように記している。 
 <戦前、泉崎町にある仲尾次家は、高さ2㍍を超す石べいが数十㍍ぐらい連らなる大邸宅で、写真に残っている。
 また、5世政隆が禁制の浄土真宗の信者だったため、石垣島へ配流となったが、家族は新造「仲尾次船」を仕立てて見舞いに行き、ついでに貿易も行ったしたたかさ。しかし、個人資産を増やしただけではなく、王府への献金や学校の建立、築橋など、もうけたお金を社会に還元した。>

 仲尾次政隆が配流された石垣島で、橋を造ったことは聞いたことがあった。配流の身分で、なぜそんな事業ができたのか、不思議に思っていた。でも家譜によれば、とても資産家だったようだ。仲尾次家が、わざわざ船を仕立てて見舞いに行き、援助するとともに、したたかに貿易も行ったという。さすが商売に長けている。
 ただし、資産を増やしただけではなく、社会に還元したという。 

 
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八重山民謡「宮良橋節」に歌われた仲尾次政隆

仲尾次さんへの感謝を唄う「宮良橋節」

 八重山古典民謡に「宮良橋節」がある。最近、練習をしている。テンポの良い曲である。この歌は、琉球王府の時代、禁制の浄土真宗の信者だった仲尾次政隆(なかおし・せいりゅう)が石垣島へ配流になった時、この橋を造った功績を地元の住民が歌ったものであるされている。
 歌詞は次のような内容である。
一.仲尾次((ナコシ)主(シュー)ヌ ウ陰(カギ)ニ 
  宮良(メーラ)大川(ウーガー)ヤ 宝(タカラ)橋(バシ)カキティ 見事(ミグトゥ)デムヌ  
一.宝橋上(ウイ)カラ 通(カ)ユル人々ヤ 眼眉(ミマユ)打チ張(ハ)リティ 笑(ワラ)イフクイ
  (下略)  
(意訳)
 仲尾次(さまのお陰で 宮良大川に宝のような橋ができ 見事なようすです
宝の橋の上から 通う人々は 眼眉が生き生きとして 笑顔に満ちています

 宮良橋は17世紀ころから交通の要所として架けられ、台風等で何度も破壊され、明和(1771年)の大津波でも流された。
 <河口付近に橋が再建されたのは、明治を迎える七年ほど前の1861~62年(咸豊11~同治元)にかけてのことで、流刑人として滞在していた仲尾次政隆が資材を提供するなど中心的な役割を果たし、長さが「75尋(ひろ)」(約135メートル)、幅が「二間」(約3.6メートル)、高さが「一丈(じょう)三寸(すん)」(約4.2メートル)の木橋が架けられました。
 人びとは、その木橋の完成を喜び、仲尾次政隆の功績を称えて次のような歌を作っています。>
 「宮良公民館建設期成会」HPより紹介した。
              宮良橋、東運輸KK
          写真は仲尾次政隆を称え建立されている「頌徳碑」(東運輸株式会社HPから)

 仲尾次政隆は1810年生まれで1871(明治4)年、62歳で亡くなった。1853年密告されて八重山へ無期流刑となった。宮良橋をかけたことで赦免願いがゆるされ,1865年那覇にもどった(デジタル版 日本人名大辞典+Plus)。
 政隆については、このブログでも書いたことがある。
 <琉球王国では仏教といえば禅宗か真言宗だけ、キリスト教とともに、一向宗も禁じられていた。ひたすら念仏を唱えれば救われるという浄土真宗は、薩摩藩で禁じられていた。一向宗の封建的な権威を認めない平等思想が、薩摩の支配者の意にそわなかったかららしい。だから琉球も同様、禁じられた。

 でも150年ほど昔、琉球で役人だった仲尾次政隆が一向宗を信じ、多くの信徒を集めていた。なかでも、那覇の辻という遊郭のあるところで、遊女たちに影響を広げ、短い年月に約300人余りの信徒ができたという。禁制の一向宗で、これだけの信徒を得ていたというのは、相当なものである。結局は、告訴されて仲尾次は八重山への遠島処分にされ、10年も流人生活を送ったという。>

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戦争・平和の「とぅばらーま」、その3

 農作業の帰りに歌った「野とぅばらーま」 
 とぅばらーまの歌詞を紹介したついでに、大田静男著『とぅばらーまの世界』からもう少し紹介する。

 最初に「とぅばらーまの分類」についてである。
 石垣のとぅばらーま節の歌い方には、①昔とぅばらーま②家(ヤー)とぅばらーま③野(ヌー)とぅばらーま④道とぅばらーま⑤ばっかいとぅばらーま、があるという。
 以下、本書からの要約である。
新八重山民謡創作研究会編「新八重山民謡工工四」の桃原用知氏の解説によると、昔とぅばらーまは「仲道節」の原歌で、国吉長伸翁の説によれば平得村の役人であった湧川里主と仲由実村の浜川マンダル(美女)との恋物語を歌ったものであるとのことである。
 喜舎場永珣著『八重山民謡誌』は「この歌は黒島首里大屋子が宮古に滞在中に島の女と恋愛していたが、いよいよ別れの際に即興詩となって胸中からあふれ出た歌だと伝えられる」と述べている。
 昔とぅばらーまは湧川の主が宮古の女性と別れの時に歌ったというよりも、平得の役人の時の平得の女性との恋歌ではないか。
 家とぅばらーまは「往年家庭内で歌はれていたとのことであるが、現在歌はれていない。また、その歌い方を知る人も少ない」。
野とぅばらーまは「農作業の帰り愛馬に揺られながら或は男女が相前後して星影を踏みながら歌ったものであるが近年農作業も機械化し共同作業も少なくなり往復も殆んど車を利用するので斯かる風景は見られなくなっている」。
 道とぅばらーまは「現在広く歌われている八重山とばらである」。
            
         石垣市「なかどぅ道ぬとぅばらーま」
 ばっかいとぅばらーまは「明治42,3年頃国吉長伸翁が…故慶世村英文翁…から親しく伝授されたのであり更に…宮里英友氏も同様あの頃伝授されたとのことである」。
 喜舎場永珣によれば、新川の宮良長宗(音楽家宮良長包の兄)から石垣喜保(安室流大家)などにも伝授されている。

 大田静男著『とぅばらーまの世界』では、「とぅばらーま」の語源など詳しく検討しているが、長くなるので省略した。ただ「子どもたちへ」として、易しく解説したか所があるので、そこから紹介する。
<「とうばらーま」と言っているが、「とぅばりゃーま」「とぅばるまー」と呼ぶ人もいるんだ。言葉の意味は日本の古い言葉で、訪れるという意味の「とぶらふ」や高貴な人という意味の「とのはら」、殿原って書くんだ。ほかにも説があるが、今のところ、この2説が有力かな。…
 女性から男性に歌いかけるのを「とぅばらーま」と言い、男性から女性に問いかける歌を「かぬしゃまーうた」と言う伝えもあるんだ。
 「かぬしゃー」とは愛しいという意味だよ。…男女が野良からの帰り、夕日を浴びながら、満天の星を眺めながら歌い、月夜の浜辺で歌を掛け合ったんだ。>
 「とぅばらーま」は限りない魅力を持った八重山古典民謡である。
 終わり

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戦争・平和の「とぅばらーま」、その2

大田静男著『とぅばらーまの世界』から、「戦世と平和」の歌詞紹介の続きである。
 「戦世の哀れ語り継ごう」
 「ぴぃとぅで生(マ)れて 畜生(チクショウ)ぬ身に堕(ウ)てー 戦(イクサ)ぬ哀(アワ)り 世々(ユユ)に語(カタ)りょうら」
歌意
 「人間に生れながら畜生道に身を堕した。戦争の悲惨は永遠に語り継ぎましょう」

 戦争は人間を鬼にするといわれる。二度と繰り返してはならない戦の世。戦後71年がたち、日本が再び海外に派兵し、「殺し殺される」ことにつながる安保法制が動き出そうとしている。それに連動して沖縄でも、与那国島に続いて、石垣島、宮古島にも自衛隊配置がすすめられつつある。
 沖縄戦の悲惨な体験を絶対に風化させてはならない。子々孫々まで語り継がなければならない。

 「さにーさにーし かいるんでどぅ にがいまっつだるぃ なきり かいるんでえ いみんざーん うもーなーった」
歌意
 「笑顔で帰って来るものだと願いつつ待っていたのに、泣いて帰るとは夢にさえも思わなかった」

 出征した夫や息子か、もしくは疎開などで親元を離れた子どものことを思って詠んだのか。いずれにしても、願いもむなしく帰らぬ人となったことへの深い悲しみが胸をうつ歌である。

 「此様(クヌザマ)なるんでや ばな思(ウモ)うなた いくさ始(ハジ)みだ ゆむんざどぅ ばな恨(ウラ)む」
歌意
 「此の様になるとは思いもよらなかった。戦を始めたものを私は恨む」

 この歌は1949年「とぅばらーま大会」で作詞の部の佳作に選ばれた作品で、作者は大浜兼むいさんという方だとのこと。国民をだまして侵略の戦争に道に突き進んだ軍国日本。戦争を始めた者たちへの恨みは強い。「不戦の誓い」から71年を経て、ふたたび「戦争できる国」への道を歩もうとする日本。「思いもよらなかった」事態を招かないため、真実をしっかりと見抜き、ふたたびだまされないようにしたい。

 「うふぴとぅ たかぴとぅ なりでどぅ 育(スダ)てーきいだ 腹(バダ)ぬ底(スク)から いくさどぅ恨(ウラ)む」
歌意
 「成長して、立派な人になれと大切に育てたわが子(戦場に送られて死んでしまった) 腹の底から戦を恨む」

 「うふぴとぅ たかぴとぅ」とは漢字で書けば「大人 高人」。八重山の子守り歌の名曲「あがろーざ節」でも、この言葉が登場する。
 「大人ゆなりとーり 高人ゆなりとーり」と歌われる。どちらも「立派な人になっておくれ」という意味である。すべての親の願いである。戦場に送るために育てたのではない。にもかかわらず、その願いもむなしく、子どもを亡くした親の戦争を恨む気持ちが切々と伝わる。
 
 「腹(バダ)ぬ満(ン)つすく 米(マイ)ぬんぼん 給(タ)ぼうらりでー いじばいだし 荒(ア)り田(ダ)―ば 耕(カ)いすんでー」
歌意
 「腹一杯銀飯を食べたい一心で、力を振り絞り荒れ田を耕しているのです」

 戦後の食糧難、飢餓時代を詠んだ歌だという。

 「にたさ がまらさ うち忘(バス)けーり 戦世(イクサユー)ぬ季節(チティ)ば またん 迎(ンカ)いるんでいなー」
歌意
 「戦争時や戦後の憤怒や恨み、悲しみも忘却し、戦争の時代をまたも迎えるような時勢だ」

 沖縄では県民の4人に1人が犠牲になるという沖縄戦の傷跡がいまなお生々しく、戦争の悲惨さを語り継がれている。しかも戦場に直結した広大な米軍基地が身近にあるため、戦争の恐ろしさ、恨みと悲しみを忘れ去ることはできない。
 一方では、沖縄戦で日本軍により「集団自決」が強制された史実を歪める教科書検定がまかり通り、日本の侵略戦争を美化する「新しい歴史教科書をつくる会」系の教科書が、石垣市、与那国町で採択された。それと表裏一体のもとに自衛隊の部隊配備がすすめられている。この歌の内容は、今日の状況の下で重要な意味をもっている。
                 406.jpg 
               八重山戦争マラリア犠牲者慰霊之碑

 「あたら生命(ヌティ)し 換(カ)やー賜(タボー)れーる 弥勒世(ミルクユー)や 肝(キィム)かい染(ス)めーり 擁護(マム)り貫(トゥ)しょうら ンゾーシヌ 幾世(イチィユ)までぃん」
歌意
 「大切な命と換えて戦争から学んだものは平和な弥勒世である。その精神をいつまでも守り貫き通そう」

 「弥勒世(ミルクユー)」とは、「平和で豊かな世」という意味である。八重山では、とくに昔から「弥勒世」は民衆の切なる願いであった。沖縄戦の痛苦の体験を通じて「平和な弥勒世」こそ何よりも大事であることを深く心に刻んだ。平和を守り貫くことは、県民の総意なっている。

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戦争・平和の「とぅばらーま」、その1

 戦争・平和の「とぅばらーま」

 八重山の名曲「とぅばらーま」は、恋歌の歌意でよく歌われるが、それにとどまらない。
  自分の気持ちを詠んだ歌謡を旋律にのせて歌うので、数え切れないほどの歌詞がある。
 本来は、三線を弾かないで、野外で歌われる歌だったという。
 歌詞を収集した1冊の歌詞集もある。昔からの歌詞だけではなく、日々新たに創られている。
 大田静男著『とぅばらーまの世界』も、そんな歌詞集である。そこでは、「男と女・恋愛」「親子・家族」「世代・人生」「ふるさと・自然」 「戦争・平和」「滑稽・春歌」「とぅばらーま」の7分野に分けて歌詞を紹介している。 
そのうち今回は、「戦争・平和」の歌詞を紹介する。
 沖縄戦のあと、1947年から石垣市で開かれている「とぅばらーま大会」では、1948年から作詞の募集が始まり、「時代を反映し戦争体験の歌が多く詠まれた」(大田氏著書)という。

 「戦世を恨む」
「いくさゆーどぅ ぱな うらみらり うやふぁ とぅじぃぶどぅ ちりじり なりねぬ」
歌意
  「戦争を私は恨みます親子夫婦引き裂かれ散り散りになってしまった」
<作者は白保の花城宏。「戦争直前に亡くした長男と、戦争中の疲労が原因で終戦まぎわにマラリヤで死んでいった愛妻への思いを託し」(『琉球芸能人名事典』)て作ったという。
 1956年、自らこの歌詞を切々と歌い上げとぅばらーま大会で優勝した。会場に詰めかけたほとんどの市民がこの歌を聞いて涙を流したという。>
                スナップショット 2 (2017-03-20 9-37)
      「とぅばらーま」を歌う安里勇さん。囃子は杉田園さん(琉球民謡音楽協会芸能祭)
 この歌詞は、以前に沖縄が米軍統治の時代、1956年(昭和31)に東京に招かれた八重山芸能団の大浜津呂氏が歌った「日本復帰の悲願のトゥバラーマ」の中にあるので知っていた。大田氏の解説を読むと花城さんの痛苦の体験から生まれたことがわかり、いっそう身につまされる。
 「日本復帰の悲願のトゥバラーマ」は、「戦世を恨む」歌詞のあとにまだ二つの歌詞がある。
 「南ぬ風(パイヌカジマ)まぬするする吹くばしゅやー 沖縄ぬ人ぬ泣きうんで思いたぼうり」
 (南からの風がするすると吹いてきたら、沖縄の人たちが泣いていると思って下さい)
 囃子「イーラー ンゾーシーヌ ヤマトゥヌ ウヤガナシィ」
 「なまぬいっとぅくぅどぅ 此ぬ(クヌ)苦しゃんしょうる やがてぃ親元ん戻らりどぅしぃー 
 囃子 繰り返し」
 (今のひと時がこんなに苦しいけれど やがて親元に戻られるよ)(参考『南島歌謡大成ー八重山編』)
 沖縄県民の心からの叫びが聞こえてくる内容だ。
 さらに3番目の歌詞は、苦しい異民族支配から逃れて、日本復帰により基地のない平和な沖縄の実現を願う心情が歌われている。だが、待ち望んだ復帰が実現しても、米軍基地の過重な負担は何も変わらない現実がある。この歌詞で歌うと、沖縄県民の切なる願いを裏切ってきた日米両政府への憤りがこみ上げてくる。


 「戦争(イクサ)企(クヌ)めーる奴(ンザ)どぅ ばな恨(ウラ)み 
 行(イ)くだ我子(パーファー)や 今(ナマ)までぃん戻(ムドゥ)らぬ」
歌意
 「戦争をたくらんだ奴らを私は恨む。死んでしまった我が子は今まで戻らない」
 1979年とぅばらーま大会入賞作。
 筆舌に尽くしがたい悲惨な犠牲をもたらした戦争を招いた人びとへの怒りと恨みがこもっている。戦争が子どもさんは亡くした悲しみは深い。
 沖縄戦では、石垣島をはじめ八重山では、軍人・軍属の戦死に加え、日本軍が住民に恐ろしいマラリヤ有病地への避難を強いられることで引き起こされた「戦争マラリヤ」によって3600人余りが亡くなっている。

「可惜(アタ)ら妹達(ウトゥドゥ)や 礎(イシジ)んが名(ナー)ばぬくし  くぬ世(ユー)ぬ
 蕾(フクマリィ)や あぬ世んが咲(サ)かしょうり んぞーしーぬ 戦(イクサ)どぅにたさーる」
歌意
 「可愛い妹達は平和の礎に名を刻んでいる。この世では蕾のままに終わったが、あの世では花を咲かしてください。戦争を憤り恨む」
 漢那トシ子さんの詠んだ作品だという。まだうら若き「蕾」のまま、亡くなられ糸満市にある「平和の礎」に名を刻まれた妹さん。戦争がなければ、花を咲かせることができたのだろうに。「にたさーる」(憤り恨む)と言う言葉に「漢那さんの思い出が込められている」(大田氏)。


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朝を「すぃとぅむでぃ」というのはなぜか

 八重山民謡で朝をなぜ「すぃとぅむでぃ」というのか

八重山民謡には「すぃとぅむでぃ」という言葉が出てくる。朝のことだ。
例えば、父母と死別し、引き取られた先で冷遇される悲話を歌った曲がある。「まへーらつぃ節」である。曲名は、女の子の名前。「まへーらつぃ節」に続けて歌う「とーすい」では、次のように歌いだす。
♪すぃとぅむでぃに ハイ朝ぱなに起きすれ ヤー朝陰下れ ハイ水持ち来まふぇーらつぃ
 早朝に起きると、水を汲んで来い、食事の用意をせよ、薪を取って来いとこき使われることを歌っている。ここでは、早朝を意味する「すぃとぅむでぃ」と通常の朝が対句として言いかえて歌われている。

 この言葉にはじめて接したのは、八重山民謡ではなく宮古民謡だった。家庭の円満をテーマとした「家庭和合(キナイワゴウ)」を聞いたときだ。次のように歌われる。
♪夜や明きどぅさま親よ 起きさまち我が親…今日ぬ一日や 朝ぬ茶から
 (夜が明けたよ 起きてくださいわが親よ…今日の一日は 朝のお茶から始まります)
♪明けしゃるぬ目覚り花よ 早朝(すとぅむてぃ)ぬ目覚り美ぎさ…
 (夜が明けて目覚める花よ 早朝はみんな目覚めて美しい)。
 通常の朝と早朝(すとぅむてぃ)と両方が使われている。
 「家庭和合」は、古い歌ではない。1960年代に宮古島で漲水民謡クラブを結成して活動した棚原玄正氏が作詞作曲した曲だというから、民謡としては新しい曲である。  
                     
 この言葉は沖縄本島の民謡では聞いたことがなかった。八重山、宮古だけかと思っていたら、本島でも使われるそうだ。
 ネットの「琉球語音声データベース」で検索してみると「首里・那覇方言」では「シティミティ /sitimiti/(名詞)」、意味は朝。早朝。太陽が上がったころをいう。「スティミティ /sutimiti/(名詞)」、同じく朝を意味する。今帰仁方言でも、同様の言葉がある。

 ではなぜ朝のことを「すぃとぅむでぃ」というややこしい言葉で表現するのだろうか。先日、八重山方言に詳しい石垣繁先生の話を聞く機会があった。先生に尋ねてみた。先生は「これは、日本の古語の『つとめて』からきています。八重山と宮古で共通する言葉はありますよ」との答えだった。
 ただ、先生は口頭の説明だったので、どういう漢字を使うのかまではわからない。「勤めて」と書くのかな、と勝手に思っていた。
 『新選古語辞典』をめくってみた。すると、次の説明があった
  「つとめて」=「つと」は「夙」の意。
 ①早朝  ②(前夜、事のあった)その翌朝
 「つとめて」とは早朝の意味だということはわかったが、そもそも「夙」とはどういう意味なのか。同辞典を見ると、
 「つとに(夙に)」
 ①朝早く。早朝に②早くから。幼時から
 この説明によると、「夙に」「夙めて」は、朝一般というより、「朝早く」「早朝」のことを表現するようだ。

 ちなみにネットで「Goo国語辞書」を見てみると、次の説明があった。
 「夙(つと)に」
 1 ずっと以前から。早くから。「彼は―その名を世に知られていた」
 2 朝早く。「―起き、遅く臥 (ふ) して」〈読・雨月・吉備津の釜〉
 
 沖縄は古い日本語が残っていると言われる。この「夙めて」も、八重山、宮古などで古い日本語が生きている事例となるのだろう。
 これまで「すぃとぅむでぃ」という言葉にはどうも馴染めなかったが、言葉の由来を知るとこれから民謡を歌う場合も、親しめそうだ。

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「与那国ションカネー」をめぐって、草履で迎える

「与那国ションカネー」をめぐって

 役人を草履で迎えた与那国島の女性
 歌劇「与那国ションカネー」を沖縄テレビ「郷土劇場」で見た。その中で、「おやっ!」と思ったシーンがあった。首里から役人が上納金を受け取る御物奉行(オモノブギョウ)として与那国島に派遣される。島に着くと、島の娘さんたちがナンタ浜で草履を並べて迎えたことだ。しかも、役人が浜に並べられた草履を選んで履くと、その草履を持って来た娘さんが、役人滞在中、賄いのウヤンマ(現地妻)になることから始まる物語である。
 写真はすべて沖縄テレビ「与那国ションカネー」の画面から

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  八重山古典民謡の「与那国ションカネー」は、確かに島に赴任した役人が、帰任することになり、賄女(現地妻)としてともに暮らした女性との悲しい別れの情景が歌われた名曲である。
  八重山諸島でも宮古島諸島でも、人頭税の時代に赴任した役人が目を付けた美しい女性を賄女としたという。滞在中に子どもまでもうけながら、任期が終わると女性を置き去りにして帰る。そんな悲話をテーマにした民謡もたくさんある。「与那国ションカネー」や多良間島の「多良間ションカネー」はその代表的な曲である。
  しかし、船のつく浜に娘さんが草履を並べて迎える風習や草履を持って来た女性が賄女になるという伝承は、これまで寡聞にして知らなかった。 
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  これは歌劇だから草履の話も創作なのか、と一瞬思った。でも、ネットで検索したところ、「美ら島物語 沖縄の島唄めぐり 恋し しまうたの風」がヒットした。「与那国ションカネー」の元歌である「どなんスンカニ」を説明した中で、草履のことを次のように紹介していた。
  <荒波を越えて船でやって来た役人を島の娘たちが草履をもって迎えたというナンタ浜(波多浜)。長期滞在するうちに恋に落ちて深い仲となるも、やがて任期を終えると役人は八重山へ帰らなければならない運命。
  役人の帰る日が決まると、愛するひととの別れを惜しみながら「スンカニ」は十山御嶽(注・拝所)で唄われていました。
  ナンタ浜からほど近い十山御嶽は、与那国島にある12の御嶽を統轄する最上位の御嶽です。
  絶海の孤島からふたたび八重山へ、厳しい船旅を強いられる愛する人の航海安全を島の最高位である十山御嶽で願ったのです。
  当時、役人と最果ての島の娘がふたたび邂逅することは皆無に等しいことは想像に難くありません。愛する人と二度と会えないかもしれない別れ。>
  この文章は、与那国島を取材して書かれており、このような伝承があることは確かなようである。
  これによると、王府時代に船でやってくる役人を娘さんたちがナンタ浜で草履をもって迎えたことは実話だったようだ。しかし、草履を履いた役人には、その草履を持ってきた娘さんがウヤンマ(賄女)になるとは書かれていない。ここでは、役人が滞在中に娘さんと恋仲になることがあるけれど、任期が終えると別離となる運命にあることが紹介されている。
  実際はどうだったのだろうか。島の人びとが、島に来る役人をなにかと接待することは与那国島に限らずどこでもよく行われただろう。王府の時代、石垣島はもちろん首里から琉球列島の西南端の孤島である与那国まで行くのは、生易しい航海ではない。遠路やってくる役人を迎えるのに、娘さんが草履を持って迎えるというのも、特別のもてなしだったに違いない。

  八重山では、「一般の女性は土足の上に、粗食粗衣で毎日野良仕事に従事」する状態だった(喜捨場著『八重山民謡誌』)。テレビで見たこの歌劇でも、首里からきた役人たちは草履を履いているが、与那国の娘や村人は裸足である。島に降りた役人は、それまで履いていた草履を抜いて浜にある草履に履き替えていた。史実を踏まえた描写ということだろう。
 島に赴任し何年か勤務する役人だけでなく、この歌劇のように3か月ほどの滞在期間でも、出迎えた娘さんの中から賄女が選ばれることはありうることだと思う。 
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  ここで思い出したのは沖縄本島民謡の「取納奉行(シュヌブギョウ)」である。取納奉行というのは、税金を定めるためにやってくる役人である。勝連半島沖の津堅島(ツケンジマ)に役人がやってくるときの騒動を描いている。要旨次のような歌詞(訳文)である。
 「♪意気込む取納奉行はいついらっしゃるか 津堅の崖に登って浜を見たら奉行がお越しになる 浜に着くと奉行が言うことには 今日は娘を取ってくれよ 津堅の頭(カシラ)たちよ 奉行の相手の娘に誰がなるか 津堅神村祝女殿内(ヌンドンチ)のカマドに頼もう あれほどの奉行の前に近寄るのに 下着も下袴も着けない者を行かせるのか 下着、下袴を貸せば行くか 応じれば金儲けができる いやいやすると尻をぶたれるぞ 根殿内(ニードンチ)のばあさんが娘に同伴して お宿に連れて行くのだ 五人の娘たちは お宿で男女の語らいをして 奉行はお喜びされた 奉行の贈り物は 匂い髪付け、紙包など数々あった 他の役人の贈り物は手拭い、指輪だけ 貧乏役人は取り持った甲斐もない」

  ここでも、5人の娘さんが選ばれて役人の泊まる宿に出向いて、男女の語らいをして役人を喜ばせたことが歌われている。
役人ににらまれるとどのような仕打ちをまねくかもしれない。島民が役人をもてなすために、とくに若い女性による接待を行なったことは、与那国島でも、津堅島でも同じだったのだろう。
  津堅島の例に見るように、接待をすれば、役人から多少の贈り物があったことがうかがえる。賄女になれば、特典があったという。離島の女性が、首里の士族と結びつきをもつ機会になることから希望する女性もいたかもしれない。「その上役人との間に子が産まれた時には、血縁関係にあり密接な交際をする優越感があった」という(喜捨場著『八重山民謡誌』)。 
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 だからといって、好んで賄女になったとは思えない。島に来る役人の接待のメンバーは、島の有力者から半ば強制的に指名され、拒否したくても出来ない状況にあったのではないだろうか。現地妻となれば、滞在中は夫婦同然に暮らしても、任期が終われば役人は島を去り、二度と逢うこともない。女性は島に置き去りにされる宿命にあった。
 八重山諸島、多良間島、宮古島など、賄女の悲哀を歌った民謡がたくさんある。そこには女性たちの辛く悲しい涙の歴史がある。
 草履で迎える与那国島の習俗も、その背後には島に生きる女性の歴史が刻まれていることに思いをはせた。

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「鳩間節」に込められた思い

 「鳩間節」に込められた思い
 鳩間島といえば、「鳩間節」が名高い。沖縄本島では、古典舞踊曲として知られる。八重山民謡の原曲は、ゆっくりしたテンポだが、本島の舞踊では、早弾きの軽快な曲である。島の景観の美しさ、稲粟の豊作の喜びを歌っている。「鳩間ユンタ」を役人が改作したのが「鳩間節」だとのことだ。
 「♪鳩間中森走り登り くばの下に走り登り」(鳩間島の中岡に走り登り くば林の下に走り登り)と歌い出す。
 最初にこの曲を知ったとき、歌詞の中でよく分からなかったのは、次のくだりだ。
 「♪稲穂積みつけ面白や 粟穂積みつけさて見事(稲の穂を満載した舟 粟の穂を満載した舟は 見事な眺めだ)」
 「♪前の渡よ見渡せば 往く舟来る舟面白や(前方の海を見ると 新開拓地を往来する舟は 面白い眺めである」
 「なぜ舟に米や粟を積み上げるのか?」と不思議だった。水田のほとんどない鳩間島の島民は、人頭税で米貢を強制され、命がけで海を渡り、西表島の未開地を開拓した。田小屋に泊まり込み、田植えをし、夏には稲粟を取り入れ、舟に積み帰ってきたという。だから、稲や粟を舟に満載して鳩間島に帰るのは、ごくありふれた光景だった。
 photo03鳩間島火番盛
鳩間島の火番盛(竹富町観光協会HPから)
でも、それだけではない、深い意味が込められた曲である。曲の背景に、西表島の住民との確執がある。
 「この民謡は島の生産の歓びを謡いつつ、その反面には(西表島の)上原と舟浦両村民の無慈悲に対する敵愾心を謡って留飲がさがったという歌である」。八重山の民俗、民謡に詳しい喜舎場永珣著『八重山民謡誌』は、こう表現している。
 喜舎場氏によると、次のようないきさつがある。
 鳩間島はサンゴ礁の島で、田畑などは皆無であるが、人頭税はやはり米貢を強制された。これは蔵元政庁からの厳命で、上原と舟浦地方の荒蕪地を開拓して稲作に従事し、以て米貢の義務を果たしていた。
 命がけで海を渡ってくる鳩間人は、2、3日も田小屋に宿泊して男女協力して田植えをおえ、また夏の猛暑を冒かしては、稲粟の取り入れに海を渡って行って舟に満載して帰る。
 舟浦、上原両村の人民は、村の近くに陸路にある田圃であるがため、サボって2、3回耕起する結果、稲作はいつも中作以下であった。
 これは、上原、舟浦の土地を鳩間人に耕作させたために、「田の神の祟りである」から、直ちに返還せよと迫ったのである。蔵元首脳部へ訴えた。
 鳩間人が適地を発見して稲作のできる時期まで待てと英断が下った。
 島ぐるみ全体協力を結集し、ジャングルを伐採した上、開拓した。これが対岸の新開地である。
 
 私が通うサークルで使う「鳩間節」の歌詞は、4番までしかない。でも、もともとの歌の歌詞には、次のような内容(和訳)が歌われているという。
 「♪舟浦人の面当てに 上原人に聞かすために 精根を打ち込んで開拓して見せよう」
 「♪上原人が鳩間に来た時は 樫実の殻で神酒を飲ましてやれ」
  「♪舟浦人がやってきたら 蛤(ハマグリ)の殻で酒を与えてやれ」
 西表島の舟浦、上原の住民への強い対抗心、住民を見返してやろうという鳩間島の住民の心情が込められている。

 西表島の上原の住民も、強制移住させられた人々で、マラリアの有病地で開拓に苦労したうえ、不作で困窮していたという(雨男通信
西表島と鳩間島の住民がお互いに、貧困のうちに重税で苦しめられていたことでは、同じ境遇である。
  そんな住民が相互に対立しあわなければならないのは、悲しいことである。そこには人頭税による圧迫がある。重税のもとでは、自分たちの税の完納ができるかどうかだけが死活問題である。他所の島、村の人たちのことを思いやる余裕など生まれえないのだろう。
 「鳩間節」にも、人頭税時代の八重山に生まれ生きた庶民の歴史が刻まれている。


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かふぬ島 小浜島、その2

「小浜節」をうたい継いだ島びとの心

「小浜節」(クモーマブシ)の歌詞を紹介しておく。
♪小浜てぃる島や 果報ぬ島やりば 大嵩(ウフダキ)はくさでぃ 白浜前なし ヤゥンナ
♪大嵩に登てぃ 押し下し見りば 稲粟(イニアワ)ぬなをり 弥勒世果報(ミルクユガフ)
♪稲粟ぬ色や 二十歳頃女童 粒美らさあてぃどぅ 御初上ぎら
 歌意は次の通り。
♪小浜島は豊かな島だ 大岳を背にして 白浜を前にしている
♪大岳に登って 展望してみると 稲や粟は稔り 平和で豊かな世である
♪稲や粟の色は 二十歳の女性のように美しい 粒が美しく その初穂を神に捧げる
            
             高嶺ミネさん
 歌詞は大浜安伴著の『八重山古典民謡工工四』から引用した。『小浜島 竹富町史第3巻』では、「序章 かふぬ島 小浜島」では、一番は同じ歌詞を掲載している。しかし、島の歌謡を紹介した「伝統文化 歌謡」の項では、一番の歌詞が少し違う。
「♪だんちょ(だんじゅ)てぃゆまりる くもうま(くばま)てぃるすぃまや うふだきば くしゃてぃ(くさてぃ) しるはま(しるぱま)まいなし ヨーンナー」とある。
「♪世間で評判高い 小浜という島は 大岳を背にして 白浜を前にしている」という歌意である。
 この『町史』でも島の代名詞のように使われている「かふぬ島 小浜島」の表現は、こちらの歌詞にはない。「だんじゅてぃゆまりる」は、「島褒め」ということでは共通するけれど、「果報の島」とは少し意味が違う。地元ではこの歌詞でよく歌うのかもしれないが、八重山全体、沖縄本島では「小浜節」といえば「果報ぬ島」という歌詞が定着しているのではないだろうか。 

  ちなみに、「小浜節」は、私のいるサークルの先生は「前はクモーブシと呼んでいたけれど今はクモーマブシと言っていますね」と話す。大浜安伴本は「クモーマブシ」とフリガナをつけている。大工哲弘氏などは「クモーブシ」と呼んでいる。
 もともと小浜島は方言でどのように呼ばれているのだろうか。「クママ」(クバマ)と呼ばれているそうだ。島名の語源について説がある。
 西表島の古見から分村して移住した口碑伝承をもとに、クン(古見)ママ(小さい)という意味の呼称だという。ただ、いつどのように移住したのかはっきりしない。
 東恩納寛淳著『琉球人名考』は、「潤八馬」(ウバマ、1392年、明史)、「阿歩馬」(ウバマ、1416年、明史)、「阿勃馬」(ウバマ、同)を紹介している。時代は「クンママ」以前のことだとのこと。
 クママは、古く小浜島には9つの間切(集落)があり、それが転じたともいわれる。
 いれいしても「小浜」の文字が島名に使用されるようになったのは、近世期以降のことだという。

 この「小浜節」について『町史』では、「《小浜節》をうたい継いだ島びとの心」を、次の3点に集約(要旨)できるとしている。
第1に、「豊かな自然と歴史・文化に根ざした“平和の心”」である。端的にいえば、愛と信頼を基に、島人の繁栄と幸福を願う“平和の心”である。
第2に、「人々の健康・命果報(ヌチカフウ)と胆心を大事にする“豊穣の心”」である。
第3に、「昔世、神の世を乞い願う“弥勒世果報”の心」である。
 この曲が、島人を胆心(チムグクル)を深く表現していて、島人をはじめみんなに愛され歌い継がれていることを改めて実感させられる。

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かふぬ島 小浜島、その1

かふぬ島 小浜島

八重山古典民謡の名曲に「小浜節」(クモーマブシ)がある。『小浜島 竹富町史第3巻』を読んでみた。
 八重山諸島のほぼ中央にある小浜島は、島の北側に標高99・4㍍の大岳(ウフダキ)があり、頂部に登ると360度見渡せるという。まだ一度も行ったことがない。
 小浜島は民謡でも「果報ぬ島」と歌われている。八重山古典民謡の自分の村、シマを褒める村褒めの曲は、「果報ぬ島やりば」(真謝節)とよく歌われているので、そのたぐいの表現かな、と思っていた。でも、小浜島の場合は単なる村褒めの常套句ではなく、実際に恵まれた条件のある島だそうだ。
『小浜島 竹富町史第3巻』は次のように記述している。
「利水条件は比較的良好である。台地、段丘がその地形的特徴をなし、しかも河川をもたない小さな島に利水の便があることは珍しい。 
                      小浜島

 島の水田は多くは天水田であり、水田は透水性が低く、地固めさえしておけば降水によってすぐに水は溜まる。また、深田も多く、耕運機などを持ち込めないところは水牛に頼ることも多い。
 それに土壌に優れ、水も豊富でサトウキビを主に多くの米や農作物が栽培できる豊かな村落である」
 小浜島は芸能も盛んで、とくに優れた笛吹きが多いという。
「祭祀や信仰に裏打ちされた伝統芸能も豊かで、特に結願祭(キツガン)では数多くの芸能が演じられる。
 島びとは三線を弾き、笛を奏でる芸能好きが多いことで知られる。竹は笛をつくるに最適な材料で、島には笛づくりの名人が多い。 
  「島びとは旧盆になると、学童らはカンザンチクの竹をこしらえて即興的に笛を吹く。このため島には優れた笛吹きが多い。島の祭儀に演じられる奉納芸能では、笛が常に旋律を先導してきたことも、笛の普及を即してきたように思える。…舞踊研究所の発表会や民謡大会では笛吹きの地謡(ジカタ)に小浜島出身者が多いことは、幼いころから笛に親しみ慣れていることから、当然のように思える」(『小浜島 竹富町史第3巻』)
 島にはリュウキュウチク(コバマダケ)の竹林の群落が見られる。竹笛の材料に恵まれていたそうだ。八重山民謡は、三線に竹笛が加わることによって、素朴で八重山らしい雰囲気に包まれて、とても味わいのある演奏になる。 
                       大岳山頂からの眺め
                         大岳山頂からの眺め(竹富町観光協会HPから)

<島を代表する民謡といえば《小浜節》である。『果報の島』をうたい、荘厳でゆったりした曲調が、すべてを包み込むような懐の広さを感じさせる>
 <民謡《小浜節》にある「大岳バ クサディ 白浜 前ナシ」という歌詞は、北西に大岳という「腰当森」があり、それに近接した2カ所の御嶽(照後御嶽=ティダクシワン、仲山御嶽=ナカヤマワン=・佐久伊御嶽=サクッピィワン)の南側に成立した集落は、立地条件としては理想的なものだった。そして、集落の南側には景色のよい白浜が広がる。(御嶽を島ではワンと呼ぶ)
 民俗学的には「腰当(クサティ)」と「おそい」の関係にあるのが現集落と大岳の位置関係であろうと思われる。>
 八重山民謡にはこの「腰当」がよく登場するが、はじめはなかなかなじめない。そこには、民俗的にみて、とても深い意味が込められている。
<腰当とは、幼児が親の腰にすわっている状態と同じく、村落民が祖霊神に抱かれ、その膝にすわって腰を当て、何らの不安も感ぜず安心しきって寄りかかっている状態をさす。おそいは「愛護・育成」という神の機能であることが知られ、進んでその繁栄と幸福・平和を常に念頭においている。それが愛の動作として現れる。(『小浜島 竹富町史第3巻』)>

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