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レキオ島唄アッチャー

初めての八重山の着物「ムイチャー」

 八重山民謡同好会が2018年12月22日に行われたある芸能チャリティー公演に初めて出演した。写してもらった写真が届くのが遅くなったので、年越しのアップとなった。
 出演に際してメンバーの一人が、八重山民謡の演奏には欠かせない八重山の庶民の着物「ムイチャー」を用意してくれた。男性は縦縞、女性は格子縞。よく見掛けてはいたが、自分が着るのは初めてだった。
       
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  本番の前に、まずは自宅で試着してみた。着るだけで長年にわたって民謡を育んできた八重山の人たちの気持ちにチョッピリ近づける感じがする。
 芸能祭では、沖縄民謡から舞踊など数々の芸能が披露された。
          
芸能チャリティー公演1431~01
   この芸能祭で、八重山民謡同好会が演奏するのは初めてらしい。私も、沖縄民謡では何回か出ているが、八重山民謡では初めてだ。13人が参加して、歌三線で「まるまぶんさん節」を歌った後、先生以外は三線を置き、立って手拍子で「ゆんたしょうら」を男女交互で歌った。
     
八重山民謡同好会チャリティー芸能祭 
    全員がムイチャーを着るだけで、八重山らしい雰囲気がぐんと出る。会場の武道館は広くて、この人数で声が届くか心配したが、歌声もよく出ていたようだ。終わった後あちらこちらから「よかったですよ」と好評だった。手拍子だけのゆんたは、本島にはない歌唱なので、印象もよかったようだ。
 今年もお互いに健康で、楽しく歌っていきたいものである。
 

 


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「安里屋ゆんた」の不思議。その4

 実在のクヤマの伝承

「安里屋ゆんた」で歌われたクヤマは、竹富島に実在した人であり、島にはクヤマの生家もある。伝承では、クヤマは与人の賄女になったされる。だが、當山善堂氏が指摘した通り、竹富島で歌われる歌詞に登場するのは目差主だけであり、与人(ゆんちゅ、村長格)は登場しないとなれば、伝承との関係をどう考えればいいのだろうか。


 実在のクヤマの伝承とは次のようなものである。

一七二二年に竹富島の安里屋に生まれ、一七九九年に七八歳で亡くなったという。一七三八年に四人の新任役人の赴任と首里王府からの御検使役らが島に来るので、島は大騒動になり、接待の給仕に白羽の矢が立てられたのがクヤマだったという。まだ一六歳の若さだった。与人の賄女となったクヤマは、「いよいよ転任に際して与人役人は別れの記念に竹富きっての一等地、俗称ハンドウ畑五反歩(当時成人男子一人分の人頭税額に当り、粟約八俵くらいの反別)を与えた。クヤマ女に名残を惜しみながら島を去ったという」(喜捨場永珣著『八重山民俗誌』)。


  この伝承について、喜舎場永珣氏は、賄女になれば、「美衣美食に下駄草履が許され」、粗衣粗食の村の女性たちにとって「羨望の的」だったとのべている(『八重山民謡誌』)。當山善堂氏は、自身の母方の曾祖母が、かつて賄女とされて、役人が帰任する際、妻子は置き去りにされた実体験から、「決して綺麗な女の子を産むもんじゃないよー」と無念の叫びを繰り返していたという実例を示して、喜舎場氏の見解を厳しく批判してきた(八重山の芸能探訪―伝統芸能の考察・点描・散策』)。また、「役人の現地妻を強要する『賄い女』のありようは、首里王府から厳しく禁止された違法行為であり、実際に喜んで『賄い女』になった女性はほとんどいなかったであろう」(當山善堂著『精選八重山古典民謡集(一)』)と主張している。この見解から、竹富島クヤマの伝承について「このことも検証が必要だと思う」とのべている。

當山氏の喜舎場見解への批判と見解は正当だと思う。私も喜舎場氏の主張は一面的でそのまま肯定できない。ただし、「一等地まで貰った」というクヤマの伝承まで、史実でないといえるのだろうか。私は、この伝承はそれなりの現実を反映しているのではないかと思う。

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              竹富島の美しいビーチ

 背景に人頭税制下の貧困と隷属

 仲宗根幸市氏は「安里屋ゆんた」の解説で次のように述べている。

「元歌の内容は、竹富島玻座真村の安里屋にクヤマという絶世の美女がいた。早速、目差職・役人がクヤマに自分の妾になるよう相談を持ちかけたのである。ところがクヤマはきっと上役の与人も自分に申し込んでくるにちがいないと考えた。どうせ役人の妾になるなら目差主よりも与人の役人がよいと、目差主に肘鉄砲を喰らわしたのだ」(『琉球列島島うた紀行 第二集八重山諸島 宮古諸島』)

 封建的支配の小さな島で、役人の求めを拒否するのはとても勇気がいる。どんな嫌がらせや圧迫を受けるかもしれない。仲宗根幸市氏が指摘するように、どうせ拒否できなくて、「妾になるなら上役の与人の方がいい」と考え、仕えたとしても不思議ではない。この解釈だと、目差主の求めを拒否しても、与人の賄女になるのなら、いくら目差主でも文句は言えない。

 
賄女が悲しい宿命にある一方では、役人の帰任の際、土地を貰えるとか、「美衣美食に下駄草履が許され(る)」などの恩恵があり、やむなく賄女の道を選択した女性もいたことは否定できない。その背景には、人頭税下で貧困と隷属にあえぐ現実があることは確かである。八重山民謡の「大田節」のような、娘が役人の賄女になったことを父が誇りにする曲もある。
 これらを考えると、竹富島の「安里屋ゆんた」とクヤマの伝承には、それなりに史実が反映されていると思わざるを得ない。

當眞氏が指摘するように、「当りょ親」は目差主の対句となれば、歌詞には与人が登場しないで、目差主を主人公として成り立っていた。では、クヤマが与人の賄女になったという伝承と歌との関係はどう考えればいいのだろうか。

もともと与人は歌に登場しなかったのに、いつの間にか、クヤマが与人の賄女になった現実や伝承にそって、「当りょ親」を与人と解釈し、「目差主は嫌です。与人に仕えます」という歌詞に変えられた、ということもありうるのではないか。
 そういえば、クヤマが「美人に生まれた」という歌詞も、竹富島のもともとの歌詞にはない。だが、伝承にそっていつの間にか「美人に生まれた」と歌われるようになったのも、伝承による改作といえるのかもしれない。
 そう考えれば、竹富島の歌もそれ以外の島の歌も、それぞれに手が加えられて、歌い継がれてきたということになる。ただし、これは私の勝手な想像である。

 

竹富島の元歌と竹富島以外で歌われる「目差主も当りょ親も嫌です。夫に持つなら島の男がいい」という歌詞は、竹富島の歌詞を少し変えたというよりも、ほぼ完全な替え歌と考えた方がよい。美しいクヤマが役人の求めを拒否して島の男を選ぶという歌の主題は、八重山の民衆の願いが創り上げたクヤマ像ではないだろうか。そんな歌だからこそ、八重山の人々に広く愛され、歌われているのだと思う。私のような大和の人間がいま歌三線で歌っても、心に響き、気持ちが入るのは間違いない。八重山古典民謡の奥深さを改めて痛感する。

終り 


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「安里屋ゆんた」の不思議。その3

 竹富島以外はクヤマが主人公

 竹富島以外の八重山諸島で歌われる歌詞は次の通り。   

1、安里屋ぬくやーまに あん清らさ生りばしー
(安里屋のウヤーマニは 非常に美しい生まれでした)

2、幼しゃから 天晴り生りばしー 小さから 白さ産でぃばしー
(幼いことからかわいらしい生まれでした 小さいときから色白の産まれでした)

3、目差主ぬ請よーたら 当りょ親ぬ望みょーた
(目差役人が{賄い女に}請いました その役人が{側女として}望みました)

4、目差主や我なー否 当りょ親や此れー忌む

 (目差役人{の賄い女になるの}は私は否です 当の役人{の側女になるの}は自分は嫌です)

5、何でから 否でしぅー 如何でから 忌むでしぅー

 (どういうわけで否と言うのですか いかなる理由で嫌と言うのですか)

6、後ぬ事思いどぅ 末の為考やーどぅ
(後々のことを思えばこそ 将来のことを考えればこそ、です)

8、島ぬ夫持つぁばどぅ 後ぬ為ありぅでしぅー

  (郷里の人を夫にしてこそ 後々のためであると思うのです)
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                       竹富島


 歌詞は、當山善堂著『精選八重山古典民謡集(四)』から。79番は省略した。

  これまで當山氏以外の著作では「当りょ親」は、目差主の上役の「与人」と訳している。例えば「目差主は私嫌です。与人から持ち込まれた話も嫌です」(仲宗根幸市書『琉球列島島うた紀行 第二集八重山諸島 宮古諸島』)となっている。當山氏の「当りょ親」は目差主を言い換えた対句として訳している。


 民衆の願いが込められた歌詞

 二つの歌詞を比べて、まず最も大きな違いは、竹富島の歌詞は、長いだけでなく、目差主がクヤマに拒否されて島中を回って女性を見つけ、子どもまで生ませるという、芝居を観るような一つの物語になっていることである。その物語の主人公は、クヤマではなく、目差主が軸となって展開されている。

さらに、歌の内容を吟味すると、竹富島の歌詞は、目差主が見つけたイシケマについて、親の許しを得ると「あまりの可愛さに土さえ踏まずに抱き上げ」走ってきた、役人の宿舎の浦座敷でお酌をさせると「作法に叶っていた」、八つ折屏風(士族だけ許されていた)の中で「腕を組んで寝られた 股を支えてやりました」などと、その表現にとてもリアリティがあることである。これは、元歌であることのなによりの証左であると思う。

一方、竹富島以外で歌われる歌詞は、一番の特徴は、クヤマを主人公にした歌詞の流れになっていることである。そのため、幼い時から可愛らしく色白の美しい女性であったと、クヤマが絶世の美女であったことを強調されている。竹富島の歌とは主人公が入れ替わっている。目差主はクヤマに振られた役人に過ぎない。クヤマが役人を拒否したうえで、夫を選ぶなら島の男がよいという、極めてシンプルな内容である。そこにはあまりリアリティーは感じられないのも事実である。役人の求愛を島の女性が拒否するのはとても困難だという現実がある。でも、島の男も憧れるような美しい女性が、島外から来た役人による権威をかさにきた強引なやり方に、抵抗する女性であってほしい、夫に選ぶのは島の男にしてほしい。そんな民衆の願望が込められた歌だと感じる。

 

仲宗根幸市氏は、次のようにのべている。

     「封建時代田舎娘が役人に肘鉄砲を喰わして島で生活できるだろうか、という疑問にぶつかった。案の定…下っ端役人の目差は嫌だけど、どうせ妾になるなら上役の与人の方がいいというのが元歌の内容なのだ。元歌のクヤマの態度に納得できない八重山の人たちは、後世改作して目差も与人も嫌という内容にし、島の男がよいと結んだのである。たとえ事実はそうでなくても、八重山農民の健康的な気持ちが分かるような気がする」(『琉球列島島うた紀行 第二集八重山諸島 宮古諸島』)

喜捨場氏も、竹富島以外の歌詞の方は「当時の封建制度を度外視した一種のレジスタンス的なやけくそ的な歌である」「不可   能とは知りながら、当時の社会と制度のくやしさを呪い、いわゆる替歌によんで、絶対権力に対する抵抗を謡い、せめてもの自己慰安にしたものか」と指摘している(『八重山民謡誌』)。


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「安里屋ゆんた」の不思議、その2

 「対句」は八重山民謡の特徴
 當山氏の提起は、重要な視点を含んでおり、妥当だと思う。第一点の八重山の伝統歌謡は、沖縄本島の民謡とは異なり、「対語・対句の原則」が見事である。この「対句」は、同じことを別の表現で繰り返す作法である。例えば、子守歌の「あがろううざ節」では、次のように表現を変えて繰り返している。
♪九年母(クニブ)木ば植べとぅーし 香さん木ばさしとぅーし
 (ミカンの木が植えてあり 香り高い木が差してあって)
♪子守りや達ぬ揃る寄てぃ 抱ぎな達ぬゆらゆてぃ
 (♪子守達が寄り集まり 子を抱く娘たちが集まって)
♪墨書上手なりとーり 筆取るい上手なりとーり
(よく学問を学びなさい 勉強して立派な人になりなさい)

 竹富島の「安里屋ゆんた」も、24ある歌詞の最後までこの原則が貫かれている。だから、上句の「目差主」と下句の「当たる親」を別々の役人と見なし、「当たる親」を「与人」とするのは、原則から外れることになる。下句の「当たる親」は上句の目差主を言い換えであり、歌には与人は登場しないという當山氏の提起は、なるほどと納得がいく。となれば、歌詞も当初は、「目差主は 私は否です 当たる親(目差主)は 私は嫌です」だったのが、いつしか「目差主は 私は否です 当たる親(与人)に 私は仕えます」と改変された可能性があるのではないか。
 2点、3点目については、後からふれることにしたい。竹富島以外で歌われる役人の求愛を拒否する気高いクヤマの姿は、「大多数の人々の共感を呼ぶ女性像」であることは間違いない。だからこそ、この歌詞が時代を超えて広く愛され、歌い継がれているのだろう。
           
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                                 クヤマの生家にある歌碑

 目差主が主人公の竹富島の歌
 「安里屋ゆんた」の改作の問題とクヤマの実像を考えるために、改めて竹富島とそれ以外で歌われる歌詞を対比して紹介しておきたい。
 

まず竹富島で歌われている歌詞は、次の通り。

○安里屋ぬクヤマにヨー 目差主ぬくゆたらヨー
(安里屋のクヤマ乙女は 助役に見そめられ)

○目差主や ばなんぱヨー あたる親やくりゃおいすヨー
(助役の賄女はいやです 村長には御奉公します)

んぱてぃからみささみ べーるてぃからゆくさみ
(いやと言うならよろしい いやならそれでよし)
んぱてぃすぬみるみん べーるてぃすぬ しくみん
(いやと言った人の面当てに いやと言った人に聞かせるために)

○仲筋に走りおり ふんかどぅに飛びゃおり
(仲筋村に走っていき 同村に飛んでいって)

○村くりしみりばどぅ 道廻りし聞きばどぅ
(村を繰り廻ってみたら 道を廻りつつ聞いてみれば)

○女童(みやらび)ぬいかゆてぃ 美(あふぁ)り子ぬとぅらゆてぃ
(乙女に行逢った 素敵な美人に出会った)

○たるが子で問ふたら じりが子で名聞たら
(誰の子で何という者か どなたの子でその名は何というのか)

○かまどぅ子ぬ乙女よ 兼間(かねま)子ぬイシケマよ

 (かまど母の娘であります 兼間が子のイシケマであります)

○兼間家に走りおりよ 蒲戸家に飛びやおりよ
(兼間家に走って行き かまど家に飛んでいき)

○蒲戸子やくりゃおいすよ 兼間子やばぬんぴょーりよ

(かまどの乙女はこの役人にくれないか 兼間の娘は私にくれよ)

喜舎場永珣著『八重山民謡誌』の「安里屋節」の歌詞は24番まである。
この後、親から承諾をもらい、嬉しさにイシケマを抱きしめて、玻座真村に連れ帰り、役人の宿舎で一緒に寝て、子どもを宿らせ、男の子は島の統治者に、女の子はよき家庭の主婦にと願う。こんな歌詞の流れになっている。
 歌詞は、崎山三郎編著『声楽譜付 竹富島民謡工工四』、小濱光次朗著『八重山の古典民謡集』、喜舎場本を参考にした。喜舎場本は、最初の歌詞に、クヤマは「あん美らさ生りばしよ(絶世の美女に生まれていた)」という部分が入っていている。崎山本、小濱本にはない。クヤマの生家にある歌碑にも「あん美らさ生りばしよ」という歌詞はない



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「安里屋ゆんた」の不思議、その1

「安里屋ゆんた」の不思議

 八重山民謡の名曲「安里屋ゆんた」は、歌の舞台である竹富島とそれ以外の島で歌われているものは、歌詞が異なることについてこのブログ「愛と哀しみの島唄」でも書いた。それは、竹富島の安里屋の美女、クヤマさんが島に赴任してくる役人の賄女に望まれるが、竹富島で歌われる歌詞では「目差主(村の助役格)は嫌です 当たる親(与人、村長格)には仕えます」という内容である。ところが、竹富島以外では、「目差主は嫌です、当たる親も嫌です」ときっぱりと断り、「夫には島の男をもつことが後のためになる」と歌う。とても誇り高い女性に描かれている。
 
 竹富島とそれ以外の島で歌詞が異なる
 當山善堂氏の近著『八重山の芸能探訪―伝統芸能の考察・点描・散策』を読んでいると、「安里屋ゆんた」について、新たな視点による解釈を提起していた。「反権力のクヤーマニ像に共感」と題する論考で、以下のようにのべている。
《「賄女」を歌った八重山の伝統歌謡といえば<安里屋ゆんた>があり、それを基に出来たとされる端麗な二揚調の<安里屋節>がある。この歌のヒロインは、言わずと知れた「クヤーマニ」である。
(注・當山氏は、一般には「クヤーマ」であるが、<安里屋ゆんた(節)>では「クヤーマニ」となっている、としている)。
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                 竹富島、安里屋のクヤマの生家
 喜舎場永珣著『八重山民謡誌』所収の<安里屋節>や竹富島に伝承されている<安里屋ゆんた><安里屋節>の内容は、クヤーマニが目差主(めざしぅしゅー、村の長の補助役)の求愛を拒み、当(あ)たる親(うや、与人=ゆんちゅ、村の長)の求愛を受け入れたことから、腹を立てて目差主がクヤーマニよりも美しい「イスケマ」を見初めてめでたく結ばれるという筋立になっている。…クヤーマニは下級役人を拒絶し、上級役人を受け入れているのである。
 ところが、竹富島以外の各地で歌い継がれている<安里屋ゆんた(節)>は、どの文献をみても、クヤーマニは「目差主や ばなー んぱ 当たる親や 此(く)れー ゆむ(目差主は 私は否(いや)です 当たる親は 私は嫌(いや)です)」と一貫して役人の求愛を拒絶しているのである。喜舎場はこれらの歌詞の相違に言及し、竹富島の伝承が正しく、その他のものは絶対権力を有していた役人に背くことの出来なかった封建制度下の時代背景を無視した、後世の人たちによる改作であると否定的に捉えている。果たしてそうだろうか、とまたしても疑問がわく。》
 當山氏は、竹富島の伝承が正しく、その他の島で歌われる歌詞は後世の人による改作だという喜舎場氏の説明に強い疑問を投げかけている。批判を次の三点にわたりのべている。

 「当りょ親」は目差主の対句
 《一つは、喜舎場は上句の「目差主」と下句の「当たる親」を別々の役人と見なし、「当たる親」を「与人」と訳しているが、それは八重山の伝統歌謡の対語・対句の原則に照らして不自然であり、また下級役人の「目差主」が先に描かれ上級役人の「当たる親」が後に描かれているのも据(す)わりがわるい。ここは「当たる親」は上句を受けた「当の役人」「当該役人」、すなわち目差主その人だと素直に解釈するべきであろう。そうすると下句の「当たる親や 此りや おいす」の「此りや おいす(私は仕えます)」の部分が、いかにも唐突・不自然であることが浮き彫りにされる。この部分は「当たる親や 此りや ゆむ(当たる親=目差主は 私は嫌です)」とすればその後の物語は一貫した展開を示しすっきりする。つまりここに登場する役人は「目差主」だけだということになるわけである。

 二つには、当たる親を上級役人の与人だとして、クヤーマニがその求愛を受諾していたとするなら、下級役人の目差主が上級役人・与人の選んだ女性に横恋慕するだろうか、という疑問がわく。…
 三つめは、一、二と矛盾するが、伝統歌謡の内容を歴史的事実や背景と結びつけ、論理的一貫性を求める解釈方法は必ずしも適切ではないのではなかろうか、という考えである。…
竹富島ゆかりの多くの人が、クヤーマニは上級役人の与人に身を捧げたとする伝承・文献があるにもかかわらず、役人の求愛をきっぱり拒んだ素晴らしい女性だと誇りにしている。その気持ちを共有したいと私も思うし、喜舎場永珣の否定した「改作」とされる多くの文献資料や各地で伝承されている歌に描かれているクヤーマニこそ、大多数の人々の共感を呼ぶ女性像だと言えよう。
 以上のことから、伝播の過程でわれわれの祖先がその時代の息吹を取り入れながら「手直し・改作」してきたとすればその趨勢を肯定的に捉えるべきではないだろうか。》


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「底」の字がつく民謡の不思議、その11。ニライカナイ

仲松弥秀氏は、続けて次のようにのべている。

<恐らく古代人は次のように想定している。

ニライ・カナイにおいて祖先神達は、ニライ・カナイの神と、その下に居る神々の住家と同じように、親兄弟、友人は勿論、他の人々も一緒になって、村々の人が一つ家に住んでいるような村をつくって生活しているのだ、と。

その神々や祖先神のつくっている村に対する観念語が、即ちニルヤ・カナヤであって、「ニライヌ家(のや)」の変化と考えられる。

次に村とは神々の村落であって、現実世界ではグスク、即ちスクと言われているが、ニライ・カナイではニライヌスク、即ちニイルスク、ニラスクと言われている。(『神と村』)

沖縄の村落社会は、「村落民は等しく神(祖霊)の子である。したがって村落は個の集合体ではなくして、村落そのものが一家」(『神と村』)だったという。

「グスク」は祖先の共同葬所だった

 
仲松氏は、「グスク(スク)」について、「グスク即ち城」という見方を排して、奄美から八重山までグスクを踏査した結果、ほとんどは「古代祖先達の共同葬所(風葬所)だった場所」であるとし、次のようにのべている。<グスクは神の居所の意があると思われる。「死んだ人は神と成る」という古代信仰からするならば、祖先達の葬処や墓がウガン(拝み)となり、その森が御嶽となることは自然の成り行きであろう。…グスクのほとんどは御嶽になっている。(『神と村』)> 


       宇江城跡 (2)
            久米島の宇江城跡  
 

グスクについては、「聖域説」、「防御集落説」、按司の「居城説」など識者によって見解が異なるけれども、各地のグスクを見ても、そこに葬所や御嶽があり、いまでも住民の大事な御願の場所となっていることに変わりはない。

これまで「底」のつく民謡から始まって地名の由来など諸氏の見解を見てきた。
改めて<「スク(底・城)」の意味は「遥かに遠い所」であり、遠い所、すなわち祖神たちのやってきた海の彼方である。そこは沖縄人の古代信仰であるニライ(根の国)とも重なっている>という意味を深くかみしめたいと思った。

終わり        文責・沢村昭洋


 

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「底」の字がつく民謡の不思議、その10。「スク」から高低の「底」へ

「スク」から高低を表す「底」へ

もう一度「スク」の意味するものについて、外間守善氏の見解を見てみたい。

<古くは、神々の行動は水平軸に動いていたのに、それが天上と地上を結ぶ垂直軸を中心にするように変わっていったため、海の果ての遠い所をあらわした「スク」「そこ」の原意が、ものの高低をあらわす「底」という新しい意味を生みだし、それが言葉として広がり深まっていったのであろうと考えるからである。


 そうだとすれば、『古事記』の時代にすでに薄れてしまっていた日本古語の原意が、遠い南の島々に残映していたことになる。特に、海と海神と稲作文化にかかわっているスク地名は、海辺の高地にあって、遙かなる海(祖神のまします原郷)と深いかかわりを持つという聖性をもっていたわけである。(
『南島文学論』)>


 古くは神々の行動は「水平軸」で動いていたのが、いつの間にか天地を結ぶ「垂直軸」に変わったため、海の果てを表した「スク」の原意が高低を表す「底」という意味を生みだしたと見る。

スクの地名が、海辺の高地にあって祖神のいる遙かなる原郷と深くかかわる聖性をもっていたと結論づけている。

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            海の彼方にニライ・カナイがあると思われた(知念岬)            


 仲松弥秀氏も、神々のとらえ方が「水平軸」から「空(垂直軸)」に想念が広がった意味を次のように論じている。

ところで、島人の周囲は陸というよりは海と空であると言っても過言では無かろう。ところが海は陸地と結ばれた同一平面をなしている。なお海は何時・何処でも自由な姿勢で日常目にふれている。この点、空は仰がなければならない。日常天を仰いで起居しているということは無いが、水平を見て暮らしていることは異論が無いはずである。島の古代人が最初に海にひかれ、海の彼方にニライ・カナイを想定したことは自然であろう。といって、彼等は空を忘れたのでは無い。水平線は海と空とが一つになったところである。やがて彼等の想念は空にも拡がり、祖霊神も空を通って子孫の許に帰るとの想念が生まれ、日・月・星辰に注意が深くなるにつれて、海と空に対する神的想念も同格的になってきたと思われる。(『神と村』)>

外間氏と仲松氏の見解には、表現の違いはあるが、相通じるところがあると思う。


 



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「底」の字がつく民謡の不思議、その9。「スク」の地名の由来

 「スク」の地名の由来
 「スク」の名がつく民謡を紹介してきたが、ではそもそも「スク」という字句はどのような意味を持っているのだろうか。
 「スク」という地名について、外間守善氏の考察をみてみたい(『南島文学論』)。
 <クースクとスク地名
 海の彼方にあるニーラン(根の国)からやって来るニーラン神が、穀物の種子配りをした聖域をクースクバー(小城場)、あるいはクースクオンと呼んでいることは、南島に広がるスク地名とその歴史的役わり及び聖性を考える上で見落とすことができないからである。…
                      
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                            古宇利島島
 まず、竹富島のクースクのスクと呼ばれる地理空間が、海と海神にかかわりのある聖域であり、小高い山の頂にある、ということに眼を向けたい。そうすると、沖縄本島北部の神の島といわれる古宇利島の頂上にあるアミスクや、奄美大島北部龍郷町秋名川周辺(稲作と神祭り平瀬マンカイ、ショッチョガマで名高い)にあるコスクも、スクの地名であり、海に近く、海神とかかわりのある聖域、小高い山、稲作とのかかわり、という共通点がみられ、それらが偶然の一致だとは思えなくなってくる。
 スク道といえば、竹富島にもスク道(別名ナビンドー道)があり、神の道、祭りの道と呼ばれている。…

 このようなスク地名のほとんどが海辺の高地にあるという地理条件を持っていること、海と海神にかかわりのある聖域であるということ、さらに周辺に稲作地が拓かれているということは、スクの意味を解くためにきわめてだいじなことである。(外間守善著『南島文学論』)>
 外間氏は、スク地名のほとんどは「海辺の高地」にあり、「海と海神にかかわりのある聖域」だとしている。あとから実際に沖縄各地の地名を見てみると、だいたい当てはまるようだ。

 <ちなみに、日本古語の「そこひ(底ひ)」は、「至り極まる所。際限。はて」(『岩波古語辞典』)と解釈されている。「ひ」は地理空間をあらわす接尾語の「辺」であろう。沖縄古語でも、「スク(底・城)」の意味は「遥かに遠い所」であり、遠い所、すなわち祖神たちのやってきた海の彼方である。そこは沖縄人の古代信仰であるニライ(根の国)とも重なっている。 
 ちなみに、八重山に分布する数多くのスク地名、たとえばアラスク、イシスク、トノスク、ハナスク、ニーラスク等々も「そこひ」につながりのある語であると考えられる。さらにそれは、沖縄本島に分布する聖域のグスクにもつながる語であろう。グスクのグは接頭敬語の「御」、スクは聖域の意に解されることになる。(外間守善著『南島文学論』)>

 日本古語の「そこひ(底ひ)」は、「至り極まる所。際限。はて」を意味し、沖縄古語で、「スク(底・城)」の意味は「遥かに遠い所」であり、祖神たちのやってきたところ、ニライ(根の国)とも重なっているという。「沖縄本島に分布する聖域のグスクにもつながる」と見る。グスクの「グ」は接頭敬語の「御」とすれば、大和でもよく「城」について敬語をつけて「おしろ(御城)」と呼んでいたことを思い出した。


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「底」の字がつく民謡の不思議、その8、「スク」のつく地名

 「スク」の名がついた地名――石垣島
 琉球列島には、「スク(底)」の名がついた地名がある。沖縄本島で、まず頭に浮かぶのは今帰仁村天底(あめそこ、あみすく)。民謡の「今帰仁天底節」をよく歌うからだ。八重山にも、野底以外にもいくつも底のつく地名があるという。
 石垣市字登野城、小字バンナに「石底(いしすく)」の地名がある。
 <「石底山(石城山とも書く) は神の居所として古来より島民の崇敬をあつめてきた。それは石垣四ヶ村の中心・石垣と登野城の祖の一人・マタネマシズがそこに住んでいたからであろう(『定本琉球国由来記』488 頁参照)>。
 石垣市字登野城も「とうぬすく」と呼ばれていた。「村の創建については宮鳥御嶽の伝説の中に語られており、古代からの村であるらしい」。
 「集落の東方に糸数御嶽、後方に小波本御嶽、イヤナス御嶽、牛ヌ御嶽がある。集落内には、天川御嶽、舟着御嶽、真泊御嶽、船浦御嶽、美崎御嶽、イチュムリィ御嶽、テンスイ御嶽、アマスイ御嶽、キチィパカ御嶽などの諸御嶽がある」
                        
天川御嶽1
     
 
                              天川御嶽(アーマーオン)の案内板

 石垣市字川平の小字名に真地底(まじいしく)がある。
 <「真地」の名をもつ土地は方々にみられるが、これは、この土地こそはまことの地であるという意で、「真」という接頭美称辞を冠してそれらの土地を呼称したことによるのであろう。>
  石垣島の地名については波照間永吉著「八重山歌謡にみる地名」から引用した。

 「スク」がつく集落跡は聖域――波照間島
 波照間島には「底」の名のつく場所がいくつもあるそうだ。
 <波照間には「スク/シュク」が語尾につく場所がいくつかある。「美底(ミスク)御嶽」(北集落)、「阿底(アスク)御嶽」(冨嘉集落)、「大底(ブスク)御嶽」(前集落)といった御嶽や、「ミシュク」(ニシハマ上)「マシュク」(北東岸)、「ペーミシュク」(冨嘉集落南)といった古い村落の跡である。 …
 「スク」のつく御嶽はいずれも「ウツィヌワー」(各集落の拝所、「シマの御嶽」)であるが、その周辺からは磁器、土器などが発掘されていることから、古い集落や屋敷の跡に立てられた御嶽だと推測されている。「美底御嶽」には15世紀末の英雄「獅子嘉殿(シシカドゥン)」の屋敷跡との伝承が残っているし、「阿底御嶽」は島の宗家として創世神話の残る家に隣接している。「大底御嶽」の地は、与那国に遠征した「ウヤマシアカダナ」に関連があるとされている。

 また、「スク」が付く集落跡はいずれも聖域とされ、遺構が手付かずのまま残されている。「ミシュク」に残る井戸は島の神事に重要な役割を果たしているし、マシュクも普段は畏れ多くて立ち入る事を憚れる場所とされている。…
 このように、波照間において、「スク」の名のつく場所はいにしえの島民の居住地が聖域となった場所であり、原初形態の「グスク」に相当しているといえる。…こうして見てみると、波照間において「スク(シュク)」は、聖域となった琉球王朝支配以前の村跡を指す名称であり、「グスク」の一形態であるといえる。(「波照間島あれこれ」HPから)>
 波照間では、「スク」の名のつく場所は「いにしえの島民の居住地が聖域となった場所」であり、原初形態の「グスク」に相当しているという。これはとっても注目すべき指摘だと思う。


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「底」の字がつく民謡の不思議、その7。「赤また―節」

 「赤またー節」
 八重山民謡に「赤またー節」がある。西表島古見、小浜島、新城島、石垣島宮良の豊年祭には、アカマター(赤面)・クルマター(黒面)の遠来神が現れる。この祭祀のことを歌ったのがこの曲である。ただし、この曲には「底」の文言が直接出てくるわけではない。でも、この祭祀そのものは「底」とかかわりがあるので書いておく。
 「赤また―節」は、遠来神を迎える村びとと役人の関わりを歌ったものといわれている。
 歌詞の初めの部分だけ、喜舎場永珣著『八重山民謡誌』から訳文で紹介する(少し簡略にした)。
♪小浜島の慣習は 豊年祭アカマタの行事には よく遊びよく踊る習わしだから お許し下さい 島のお役人様
♪昔からの習俗で 古い時代からの風習であるから 祭祀行事前はよく働いて アカマタの踊りの時は 見事な踊りをして遊ぼう(以下省略)
 
 この曲は、アカマター・クロマターが訪れる島の豊年祭には、遊び楽しむのが昔からの古い習慣だから、どうぞ許してくださいと役人に懇願している。さらに許しが出たら、今年の豊年、来年の豊年を祈願して踊り遊ぶこと、これからも「心が変わらないで下さい」と懇願する内容である。アカマタ神は豊年の神であるから、人頭税を完納するためにも、島民にとっては、絶対に欠かせない神事だった。
 かつて王府が「豊年祭の時にアカマタ・クロマタといって二人が異様ないでたちで神のまねなどをする。良くない風俗なので今後は止めること」と禁止したことがあった。しかし、かえって村人の張り合いをなくし、不安の種になるなど逆効果となったため、禁止令は解除された歴史がある。詳しくはこのブログの「変容する琉球民謡、あかまたー節」を見ていただきたい。

      
 <この「アカマター神」の名称もまた小浜島では「ニロー神」と呼ぶが、石垣地方では「ニール神(ピトウ)」とよぶ。勿論全身草や蔓などで仮装して来訪する神である。すなわち賓客(神)である。宮良村では「ニール神」または「ニーロ―神」と尊称し、以前は今日のように「アカマター」などとは俗称しなかった。この「ニールピトゥ」は「根の国」「底の国」の人の意で、沖縄本島地方における「ニライカナイ」の神を意味していよう。>
 
 <川平部落では旧暦「2月タカビ」の日に、「ニランタ大親」をスクジ御嶽で迎える儀式がある。この儀式はこの1年間風干の災害がなく、五穀豊穣であることを祈願する儀式であるが、その際の祝詞の一節に、
「授けられるなら、天の大世をどうぞお恵み下さい。二ラン底・タラースクの世をばお願いします。…」
という文句がある。この祝詞中の「天の大世」も「二ラン底世」も豊年太平の世を意味する文句である。>
 
 喜舎場永珣著『八重山民俗誌上』の「赤マタ―神事に関する覚書」では、このように解説している。「アカマター神」は、本来は「ニロー神」「ニーロ―神」「ニール神(ピトウ)」などと呼ばれる。「ニールピトゥ」は「根の国」「底の国」の人の意で、「ニライカナイ」の神を意味しているという。
 石垣島川平の旧暦「2月タカビ」の儀式の祈願で唱えられる祝詞中の「天の大世」も「二ラン底世」も豊年太平の世を意味する文句であるという。
 
 アカマタ・クロマタは、なびんどうと呼ばれる場所を出て、家々をまわる。新城島では、親組の他に子組が出て、それぞれ別々にまわり、終わりには落ち合って、森のなびんどうに帰るという。
 <なびんどうは鍋の底のところの意。ニイレスクとも呼ばれる。一番底の国と考えられている。すなわちアカマタ・クロマタはニイレスクから来る人。福の神として拝まれている。福の神の入った家は、来年は豊作という(本田安次著『沖縄の祭と芸能』)>。
やはり、アカマタ・クロマタが来るニイレスクは一番底の国と考えられており、豊年をもたらすニライカナイの神に通じている。


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