レキオ島唄アッチャー

「底」の字がつく民謡の不思議、その11。ニライカナイ

仲松弥秀氏は、続けて次のようにのべている。

<恐らく古代人は次のように想定している。

ニライ・カナイにおいて祖先神達は、ニライ・カナイの神と、その下に居る神々の住家と同じように、親兄弟、友人は勿論、他の人々も一緒になって、村々の人が一つ家に住んでいるような村をつくって生活しているのだ、と。

その神々や祖先神のつくっている村に対する観念語が、即ちニルヤ・カナヤであって、「ニライヌ家(のや)」の変化と考えられる。

次に村とは神々の村落であって、現実世界ではグスク、即ちスクと言われているが、ニライ・カナイではニライヌスク、即ちニイルスク、ニラスクと言われている。(『神と村』)

沖縄の村落社会は、「村落民は等しく神(祖霊)の子である。したがって村落は個の集合体ではなくして、村落そのものが一家」(『神と村』)だったという。

「グスク」は祖先の共同葬所だった

 
仲松氏は、「グスク(スク)」について、「グスク即ち城」という見方を排して、奄美から八重山までグスクを踏査した結果、ほとんどは「古代祖先達の共同葬所(風葬所)だった場所」であるとし、次のようにのべている。<グスクは神の居所の意があると思われる。「死んだ人は神と成る」という古代信仰からするならば、祖先達の葬処や墓がウガン(拝み)となり、その森が御嶽となることは自然の成り行きであろう。…グスクのほとんどは御嶽になっている。(『神と村』)> 


       宇江城跡 (2)
            久米島の宇江城跡  
 

グスクについては、「聖域説」、「防御集落説」、按司の「居城説」など識者によって見解が異なるけれども、各地のグスクを見ても、そこに葬所や御嶽があり、いまでも住民の大事な御願の場所となっていることに変わりはない。

これまで「底」のつく民謡から始まって地名の由来など諸氏の見解を見てきた。
改めて<「スク(底・城)」の意味は「遥かに遠い所」であり、遠い所、すなわち祖神たちのやってきた海の彼方である。そこは沖縄人の古代信仰であるニライ(根の国)とも重なっている>という意味を深くかみしめたいと思った。

終わり        文責・沢村昭洋


 

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「底」の字がつく民謡の不思議、その10。「スク」から高低の「底」へ

「スク」から高低を表す「底」へ

もう一度「スク」の意味するものについて、外間守善氏の見解を見てみたい。

<古くは、神々の行動は水平軸に動いていたのに、それが天上と地上を結ぶ垂直軸を中心にするように変わっていったため、海の果ての遠い所をあらわした「スク」「そこ」の原意が、ものの高低をあらわす「底」という新しい意味を生みだし、それが言葉として広がり深まっていったのであろうと考えるからである。


 そうだとすれば、『古事記』の時代にすでに薄れてしまっていた日本古語の原意が、遠い南の島々に残映していたことになる。特に、海と海神と稲作文化にかかわっているスク地名は、海辺の高地にあって、遙かなる海(祖神のまします原郷)と深いかかわりを持つという聖性をもっていたわけである。(
『南島文学論』)>


 古くは神々の行動は「水平軸」で動いていたのが、いつの間にか天地を結ぶ「垂直軸」に変わったため、海の果てを表した「スク」の原意が高低を表す「底」という意味を生みだしたと見る。

スクの地名が、海辺の高地にあって祖神のいる遙かなる原郷と深くかかわる聖性をもっていたと結論づけている。

            DSC_2374.jpg 
            海の彼方にニライ・カナイがあると思われた(知念岬)            


 仲松弥秀氏も、神々のとらえ方が「水平軸」から「空(垂直軸)」に想念が広がった意味を次のように論じている。

ところで、島人の周囲は陸というよりは海と空であると言っても過言では無かろう。ところが海は陸地と結ばれた同一平面をなしている。なお海は何時・何処でも自由な姿勢で日常目にふれている。この点、空は仰がなければならない。日常天を仰いで起居しているということは無いが、水平を見て暮らしていることは異論が無いはずである。島の古代人が最初に海にひかれ、海の彼方にニライ・カナイを想定したことは自然であろう。といって、彼等は空を忘れたのでは無い。水平線は海と空とが一つになったところである。やがて彼等の想念は空にも拡がり、祖霊神も空を通って子孫の許に帰るとの想念が生まれ、日・月・星辰に注意が深くなるにつれて、海と空に対する神的想念も同格的になってきたと思われる。(『神と村』)>

外間氏と仲松氏の見解には、表現の違いはあるが、相通じるところがあると思う。


 



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「底」の字がつく民謡の不思議、その9。「スク」の地名の由来

 「スク」の地名の由来
 「スク」の名がつく民謡を紹介してきたが、ではそもそも「スク」という字句はどのような意味を持っているのだろうか。
 「スク」という地名について、外間守善氏の考察をみてみたい(『南島文学論』)。
 <クースクとスク地名
 海の彼方にあるニーラン(根の国)からやって来るニーラン神が、穀物の種子配りをした聖域をクースクバー(小城場)、あるいはクースクオンと呼んでいることは、南島に広がるスク地名とその歴史的役わり及び聖性を考える上で見落とすことができないからである。…
                      
049.jpg
                            古宇利島島
 まず、竹富島のクースクのスクと呼ばれる地理空間が、海と海神にかかわりのある聖域であり、小高い山の頂にある、ということに眼を向けたい。そうすると、沖縄本島北部の神の島といわれる古宇利島の頂上にあるアミスクや、奄美大島北部龍郷町秋名川周辺(稲作と神祭り平瀬マンカイ、ショッチョガマで名高い)にあるコスクも、スクの地名であり、海に近く、海神とかかわりのある聖域、小高い山、稲作とのかかわり、という共通点がみられ、それらが偶然の一致だとは思えなくなってくる。
 スク道といえば、竹富島にもスク道(別名ナビンドー道)があり、神の道、祭りの道と呼ばれている。…

 このようなスク地名のほとんどが海辺の高地にあるという地理条件を持っていること、海と海神にかかわりのある聖域であるということ、さらに周辺に稲作地が拓かれているということは、スクの意味を解くためにきわめてだいじなことである。(外間守善著『南島文学論』)>
 外間氏は、スク地名のほとんどは「海辺の高地」にあり、「海と海神にかかわりのある聖域」だとしている。あとから実際に沖縄各地の地名を見てみると、だいたい当てはまるようだ。

 <ちなみに、日本古語の「そこひ(底ひ)」は、「至り極まる所。際限。はて」(『岩波古語辞典』)と解釈されている。「ひ」は地理空間をあらわす接尾語の「辺」であろう。沖縄古語でも、「スク(底・城)」の意味は「遥かに遠い所」であり、遠い所、すなわち祖神たちのやってきた海の彼方である。そこは沖縄人の古代信仰であるニライ(根の国)とも重なっている。 
 ちなみに、八重山に分布する数多くのスク地名、たとえばアラスク、イシスク、トノスク、ハナスク、ニーラスク等々も「そこひ」につながりのある語であると考えられる。さらにそれは、沖縄本島に分布する聖域のグスクにもつながる語であろう。グスクのグは接頭敬語の「御」、スクは聖域の意に解されることになる。(外間守善著『南島文学論』)>

 日本古語の「そこひ(底ひ)」は、「至り極まる所。際限。はて」を意味し、沖縄古語で、「スク(底・城)」の意味は「遥かに遠い所」であり、祖神たちのやってきたところ、ニライ(根の国)とも重なっているという。「沖縄本島に分布する聖域のグスクにもつながる」と見る。グスクの「グ」は接頭敬語の「御」とすれば、大和でもよく「城」について敬語をつけて「おしろ(御城)」と呼んでいたことを思い出した。


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「底」の字がつく民謡の不思議、その8、「スク」のつく地名

 「スク」の名がついた地名――石垣島
 琉球列島には、「スク(底)」の名がついた地名がある。沖縄本島で、まず頭に浮かぶのは今帰仁村天底(あめそこ、あみすく)。民謡の「今帰仁天底節」をよく歌うからだ。八重山にも、野底以外にもいくつも底のつく地名があるという。
 石垣市字登野城、小字バンナに「石底(いしすく)」の地名がある。
 <「石底山(石城山とも書く) は神の居所として古来より島民の崇敬をあつめてきた。それは石垣四ヶ村の中心・石垣と登野城の祖の一人・マタネマシズがそこに住んでいたからであろう(『定本琉球国由来記』488 頁参照)>。
 石垣市字登野城も「とうぬすく」と呼ばれていた。「村の創建については宮鳥御嶽の伝説の中に語られており、古代からの村であるらしい」。
 「集落の東方に糸数御嶽、後方に小波本御嶽、イヤナス御嶽、牛ヌ御嶽がある。集落内には、天川御嶽、舟着御嶽、真泊御嶽、船浦御嶽、美崎御嶽、イチュムリィ御嶽、テンスイ御嶽、アマスイ御嶽、キチィパカ御嶽などの諸御嶽がある」
                        
天川御嶽1
     
 
                              天川御嶽(アーマーオン)の案内板

 石垣市字川平の小字名に真地底(まじいしく)がある。
 <「真地」の名をもつ土地は方々にみられるが、これは、この土地こそはまことの地であるという意で、「真」という接頭美称辞を冠してそれらの土地を呼称したことによるのであろう。>
  石垣島の地名については波照間永吉著「八重山歌謡にみる地名」から引用した。

 「スク」がつく集落跡は聖域――波照間島
 波照間島には「底」の名のつく場所がいくつもあるそうだ。
 <波照間には「スク/シュク」が語尾につく場所がいくつかある。「美底(ミスク)御嶽」(北集落)、「阿底(アスク)御嶽」(冨嘉集落)、「大底(ブスク)御嶽」(前集落)といった御嶽や、「ミシュク」(ニシハマ上)「マシュク」(北東岸)、「ペーミシュク」(冨嘉集落南)といった古い村落の跡である。 …
 「スク」のつく御嶽はいずれも「ウツィヌワー」(各集落の拝所、「シマの御嶽」)であるが、その周辺からは磁器、土器などが発掘されていることから、古い集落や屋敷の跡に立てられた御嶽だと推測されている。「美底御嶽」には15世紀末の英雄「獅子嘉殿(シシカドゥン)」の屋敷跡との伝承が残っているし、「阿底御嶽」は島の宗家として創世神話の残る家に隣接している。「大底御嶽」の地は、与那国に遠征した「ウヤマシアカダナ」に関連があるとされている。

 また、「スク」が付く集落跡はいずれも聖域とされ、遺構が手付かずのまま残されている。「ミシュク」に残る井戸は島の神事に重要な役割を果たしているし、マシュクも普段は畏れ多くて立ち入る事を憚れる場所とされている。…
 このように、波照間において、「スク」の名のつく場所はいにしえの島民の居住地が聖域となった場所であり、原初形態の「グスク」に相当しているといえる。…こうして見てみると、波照間において「スク(シュク)」は、聖域となった琉球王朝支配以前の村跡を指す名称であり、「グスク」の一形態であるといえる。(「波照間島あれこれ」HPから)>
 波照間では、「スク」の名のつく場所は「いにしえの島民の居住地が聖域となった場所」であり、原初形態の「グスク」に相当しているという。これはとっても注目すべき指摘だと思う。


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「底」の字がつく民謡の不思議、その7。「赤また―節」

 「赤またー節」
 八重山民謡に「赤またー節」がある。西表島古見、小浜島、新城島、石垣島宮良の豊年祭には、アカマター(赤面)・クルマター(黒面)の遠来神が現れる。この祭祀のことを歌ったのがこの曲である。ただし、この曲には「底」の文言が直接出てくるわけではない。でも、この祭祀そのものは「底」とかかわりがあるので書いておく。
 「赤また―節」は、遠来神を迎える村びとと役人の関わりを歌ったものといわれている。
 歌詞の初めの部分だけ、喜舎場永珣著『八重山民謡誌』から訳文で紹介する(少し簡略にした)。
♪小浜島の慣習は 豊年祭アカマタの行事には よく遊びよく踊る習わしだから お許し下さい 島のお役人様
♪昔からの習俗で 古い時代からの風習であるから 祭祀行事前はよく働いて アカマタの踊りの時は 見事な踊りをして遊ぼう(以下省略)
 
 この曲は、アカマター・クロマターが訪れる島の豊年祭には、遊び楽しむのが昔からの古い習慣だから、どうぞ許してくださいと役人に懇願している。さらに許しが出たら、今年の豊年、来年の豊年を祈願して踊り遊ぶこと、これからも「心が変わらないで下さい」と懇願する内容である。アカマタ神は豊年の神であるから、人頭税を完納するためにも、島民にとっては、絶対に欠かせない神事だった。
 かつて王府が「豊年祭と時にアカマタ・クロマタといって二人が異様ないでたちで神のまねなどをする。良くない風俗なので今後は止めること」と禁止したことがあった。しかし、かえって村人の張り合いをなくし、不安の種になるなど逆効果となったため、禁止令は解除された歴史がある。詳しくはこのブログの「変容する琉球民謡、あかまたー節」を見ていただきたい。

      
 <この「アカマター神」の名称もまた小浜島では「ニロー神」と呼ぶが、石垣地方では「ニール神(ピトウ)」とよぶ。勿論全身草や蔓などで仮装して来訪する神である。すなわち賓客(神)である。宮良村では「ニール神」または「ニーロ―神」と尊称し、以前は今日のように「アカマター」などとは俗称しなかった。この「ニールピトゥ」は「根の国」「底の国」の人の意で、沖縄本島地方における「ニライカナイ」の神を意味していよう。>
 
 <川平部落では旧暦「2月タカビ」の日に、「ニランタ大親」をスクジ御嶽で迎える儀式がある。この儀式はこの1年間風干の災害がなく、五穀豊穣であることを祈願する儀式であるが、その際の祝詞の一節に、
「授けられるなら、天の大世をどうぞお恵み下さい。二ラン底・タラースクの世をばお願いします。…」
という文句がある。この祝詞中の「天の大世」も「二ラン底世」も豊年太平の世を意味する文句である。>
 
 喜舎場永珣著『八重山民俗誌上』の「赤マタ―神事に関する覚書」では、このように解説している。「アカマター神」は、本来は「ニロー神」「ニーロ―神」「ニール神(ピトウ)」などと呼ばれる。「ニールピトゥ」は「根の国」「底の国」の人の意で、「ニライカナイ」の神を意味しているという。
 石垣島川平の旧暦「2月タカビ」の儀式の祈願で唱えられる祝詞中の「天の大世」も「二ラン底世」も豊年太平の世を意味する文句であるという。
 
 アカマタ・クロマタは、なびんどうと呼ばれる場所を出て、家々をまわる。新城島では、親組の他に子組が出て、それぞれ別々にまわり、終わりには落ち合って、森のなびんどうに帰るという。
 <なびんどうは鍋の底のところの意。ニイレスクとも呼ばれる。一番底の国と考えられている。すなわちアカマタ・クロマタはニイレスクから来る人。福の神として拝まれている。福の神の入った家は、来年は豊作という(本田安次著『沖縄の祭と芸能』)>。
やはり、アカマタ・クロマタが来るニイレスクは一番底の国と考えられており、豊年をもたらすニライカナイの神に通じている。


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「底」の字がつく民謡の不思議、その5。つぃんだら節

 「つぃんだら節」
 黒島からの強制移住をテーマとした哀歌「つぃんだら節」には、移住先の石垣島野底の地名が出てくる。「底」の文字の用例としては通常かも知れないが、地名に使われた「底」について、深い意味があるらしい。外間守善氏は<沖縄古語でも、「スク(底・城)」の意味は「遥かに遠い所」>だとのべている。後から詳しく見たい。

 <石垣市字野底。野底村の創建は享保17 (1732 ) 年で、黒島からの寄人による(『八重山島年来記』56 ・57 頁)。黒島と野底の関係は、この寄人による村の創建以前から、黒島の人々が舟を操って野底に出耕するという形で存していた。(波照間永吉著「八重山歌謡にみる地名」)>
 「つぃんだら節」は次のように歌われる。
 ♪とぅばらまとぅ我(パ)んとぅや ヤゥスーリ 童(ヤラビ)からぬ遊びとーら 
 ※ツィンダラ ツィンダラヤゥ
 かなしゃまとぅくりとぅや くゆさからぬむつぃりとーら 以下ハヤシ省略
 ♪島(スィマ)とぅとぅみで思だら ふんとぅとぅみで思だら 
 沖縄(ウクィナー)から仰(ウィ)すぃぬ 美御前(ミョーマイ)からぬ 
 御指図(ウサスィ)ぬ
 ♪島分(スィマバ)がりでうふぁられ ふん分がりでうふぁられ
 うばたんがどぅけなり 野底(ヌスク)に分ぎられ
           
    高嶺ミツさんが歌う「つぃんだら節」は何時聞いても感動する
        
 歌詞の意訳は次の通り。
 ♪貴方と私は子どものころから遊び仲間 貴方と私は幼少からの睦まじい仲だった ※かわいそう、かわいそう
 ♪島のある限り 村のある限りと思っていたのに 沖縄(首里王府)からのご意思 
 国王からの命令だった
 ♪島分けで分けられ 村分けで引き離され 私が海を渡り 野底に連れてこられた
  注・「つぃんだら」をここでは「かわいそう」と訳しているが、私が習った八重山民謡の先生は「孫のことを、“つぃんだら”というから、可愛いという意味がある」とのべていた。ただ、この曲の場合は「かわいそう」が適訳だと思う。

 黒島に住む男・カナムイと乙女・マーペーは恋仲だった。しかし、村の道を境にして、移住する者と残留する者が決められた。マーペーは移住させられ、カナムイは島に残された。マーペーが移されたのが石垣島の北部の野底である。
 マーペーは、故郷の黒島にいる彼を見たいと思って、険しい野底岳に命がけで登った。でも、野底岳の南西には、沖縄で最高峰526㍍の於茂登岳(オモトダケ)がそびえ立ち見えない。それでも、毎日毎日人目を忍んで山に登り、神に祈った。祈りながらマーペーは次第に石と化していった。いまも山にはその岩があるという。
 <この黒島からの寄人によって創建された野底村は1934 年、ただ一人だけで村を守っていた老女(野底マーペーアーパの名で呼ばれていたという) とともに廃村となった(『八重山歴史』245 頁、波照間永吉著「八重山歌謡にみる地名」から)>
 マーペ―の悲話があるからだろうか、野底の地名の響きにも何故かもの悲しさを感じるのは私だけだろうか。


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「底」の字がつく民謡の不思議、その4。山原ユンタ

 「山原ユンタ」
 八重山民謡の「山原(ヤマバレー)ユンタ」にも「底の家」の言葉が登場する。
  山原(やまばれー)は、石垣市川平の北東にあった古い集落だという。この曲は、次のような歌詞である。()は歌意。
1、山原の 底の屋の ヌぢずゲーマー 
 囃子 ヒヤサッサー ヤーラドーハーイ ヨーハイナー(以下省略)
 (山原村の 底の屋と云ふ家に ヌぢ ゲーマが{女名})
2、ヌヂぬゲーマの とンギャーマの 生レー居ン 
 (ヌぢゲーマと云ふ乙女が、飛び切りの娘が居りました)
5、アン丈ナーの 十月三日の 月の夜
 (あんなに照り輝いた 13夜のお月様であるから)
7、山原も 底の家も 降レー遊サバ
 (山原村にも 底の家にも、降りて行って遊ばう)
 歌詞は『宮良當壯全集11』から引用した。歌詞は21番まであるが以下は省略する。
 
  この曲の歌詞は次の筋立になっているそうだ。
 <山原村の底の家にたいへん器量のすぐれた「ヌズギャーマ」と称する娘がいた。若者が15日の明月に小躍りして「底の家」(集会所)に行くというのを、年寄りは今夜は神日撰りだからやめなさいと諭した。若者はそれに耳をかさず、自分のしぶ張りの三味線を持参して山道を通っていきヌズギャーマと出会い白い砂浜で青春を謳歌した。(「ユンタ・ジラバ・アヨー探訪」HP)>
 ここでは、7番の歌詞にある「底の家」を「集会所」と解説している。
 當山善堂氏は、「シュクノヤー(宿ぬ家=集会所)」としている。
          
 少し引っかかるのは、「底の家」が女性の生れた家であると同時に遊びに行く家ともなっていることである。
當山氏は、「宿ぬ家」について、次のように解釈している。
 <シュクヌヤー=「宿の家」で、「宿泊ないし休憩する場所」の意。「公けの宿泊専用の家」というよりは、大きな民家の一角が必要な時に「宿泊・集会用」に一時的に開放されたものであろう。歌詞集によって「シク・スク・シュク」などの表記に「底・宿」の字を当てるが、ここでは「シュク=宿」を採用した。(編著『精選八重山古典民謡集(4)』)>
 民家の一角も宿泊・集会用に使われたということであれば、一見矛盾するように見えた歌詞の内容も理解ができる。
 
 一方、「底の家」は屋号だという解釈もある。宮良當壯氏は次のように解説している。
 <「底」と称する屋号は、平民村には可なりある。その宗家が大底屋(ウフスクヤー)で、分家には小底屋(クースクヤー)、東底屋(アーるスクヤー)、西底屋(イーるスクヤー)、後底屋(シースクヤー)、前底屋(マイしクヤー)、…などがある。底は低地を意味することは勿論であるが、時に城(グスク)の借字であることがある。グスクは石垣で、初めて石垣を築き繞(注・めぐ)らした家の屋号にすることがある。(『宮良當壯全集11』)>
 そういえば、苗字でも大底、仲底、成底など底のつく名がいくつかある。


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「底」の字がつく民謡の不思議、その3。与那国ぬ猫小

 「与那国ぬ猫小」
 次は「与那国ぬ猫小」(ユナグニぬマヤグワ)である。
 ♪与那国ぬ猫小 鼠だましぬ ニ才だましぬ やから 崎浜よう 主の前はり
 (与那国の猫は 鼠をだますのが 上手な奴だ 若者をだますのが上手な奴だ
 崎浜 お役人様)
 こんな歌詞で始まる。問題は次の歌詞である。
       
 ♪底ぬ家ぬ 犬小(スクぬヤーぬ イングゥ) 中ぬ家ぬ 猫小とぅ(ナカぬヤーぬ マヤグワとぅ)きざん橋 行かゆてぃミャウいぃば ガゥてぃばし
 (底の家の 犬と 中の家の 猫が 石橋で出会って 猫がミャウといえば
 犬がガゥと言って)

  「底ぬ家」について、仲宗根幸市氏は「与那国目差の官舎」(『島うた紀行』<第二集>)とする。「目差」は村の助役のような役人のこと。當山善堂氏も「底ぬ家・中ぬ家」を「役人の官舎の呼名だという」と述べている(『精選八重山古典民謡集(三)』)。
 この曲は、表面的には猫と犬の話に見えるが、実際は「与那国役人とその賄い女(妾)たちの裏面を痛烈な皮肉をこめてすっぱ抜いた風刺調の歌。与那国目差の妾を犬、祖納目差の妾を猫にたとえている。与那国の役人及び、その妾どうしの仲の悪さを比喩したもの」(仲宗根幸市『島うた紀行』<第二集>)とされる。


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「底」の字がつく民謡の不思議、その2。「古見ぬ浦ぬブナレーマ」

 「古見ぬ浦ぬブナレーマ」
 古見は、「古見ぬ浦ぬブナレーマ」でも同じように歌われている。
♪古見ぬ浦ぬ シタリヤゥイサ ぶなれーま ヒヤシタリ イラヤゥイユバナヲル
 美与底ぬ(以下囃子略) 女童
♪うりぅじぅんぬ なるだる 若夏(バガナチゥ)どぅ 行くだる
♪自分(ナラ)―上納布(カナイ) 取り持ち 十尋布(トゥイルヌヌ)抱き持ち
(當山善堂著『精選八重山古典民謡集』から、以下省略)
          
                      この曲を歌っている大底朝要さんも名前に「底」の字がつく
 この曲は、西表島の古見の乙女ブナレーマが人頭税で織った布を上納するために、自分の舟で蔵元のある石垣島に渡る様子が歌われている。
 女性たちは、海岸の仮小屋で泊まり、蔵元へ納めた。「この間、役人にたいしての世話役を強制的にさせられて帰るという習慣であった」と伝えられる(喜舎場永珣著『八重山の古謡』)。
 ついでに、八重山民謡の歌詞は、「古見」を別称の「美与底」と歌うように、同じものごとを別の表現で繰り返す対語の歌詞が多い。例えば黒島の民謡「てぃんだら節」は「黒島にいた間は さふ島(黒島の別称)にいた間は」と歌う。八重山民謡の魅力の一つでもある。 


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「底」の字がつく民謡の不思議、その1

 八重山民謡を歌っていると、「美与底」という言葉に出会ったときは戸惑った。字が読めないし、意味が不明だから。「みゆしく」と読む。例えば「古見ぬ浦のブナレーマ」に出てくる。歌詞の解説を読んでも、「古見の異称」としか説明がない。これでは、異称だということはわかっても、何を意味するのかまったくわからない。そんなとき、外間守善著『南島文学論』を読んでいたら、「スク」と呼ばれる地名について論述されていた。なにか、少し「底」の字がついている意味が分かってきたような気がする。
 八重山民謡では、「底」の言葉がどのように使われているのかを見ておきたい。

 「古見ぬ浦節」 
 まずは、八重山民謡の名曲「古見ぬ浦節(くんぬーらぶし)」である。古見は、西表島の東側にある古くからの集落である。
 古見ぬ浦ぬ 八重岳(やいだぎ) 八重重び 美与底(みゆしく)
  いてぃん 見欲しゃーばかい
 (古見の浦から見はるかす八重岳よ 八重に連なる美与底よ 何時までも眺めていたいものだ)
 「美与底」を「美与城」と書く人もいる。発音は同じである。「底」(しく、すく)は「城」(グスク、スク)とまるで異なる言葉のように見えるが、通じるものがあるらしい。
 西表島はまだ行ったことがない。18世紀半ばの古見は、人口700人以上を数える大きい村だったそうである
           
 波照間永吉氏は、この古見と歌の関係を次のように解説している。
 <西表島東部にある集落。八重山でも有数の古邑で、古くは八重山の文化・経済の一つ の中心地として栄えたが、現在は激しい過疎の波にあらわれ、寒村化してしまった。古見は北方に470m の古見岳、西方に421m の御座岳をひかえ、これらの山に連なる山岳がすぐ背後まで迫っている。また、村の前後には前良川、後良川の二河川が流れている。このような立地を「古見の浦」(『南島歌謡大成IV』節歌43 ) は、「古見の浦の 八重嵩。八重かさひ 美よ底/ いつん みほしやわかり」〈古見の浦の八重嵩、八重に山の重なっている美与底。いつも見たいものだ〉と歌っている。(「八重山歌謡にみる地名」)>
 美与底とは、古見村の同義語で対語として使われている。字句通りみると、景観が美しいところだろう。「底」とあるから、海も美しいという意味なのかと思ってしまう。でもそうではないようだ。



 

         


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