レキオ島唄アッチャー

沖永良部島の島唄散策、「子守りの哀れ」のつづき

 沖縄でも沖永良部島でも、自分が住む地域で、少女がよその家の幼子の子守りをする習慣があったことをこれまでもこのブログでも紹介した。大和の子守り歌で歌われているように、親元を離れて遠くに子守り奉公に行かされるという話は、沖縄でこれまで聞かなかった。沖縄の子守り歌を見ても、親元を離れて奉公する寂しさや親を慕う内容の曲は見たことがない。多良間島では、現在でも中学生の女子生徒が同じ地域の子どもの子守を無償で行う習慣が残っていることをブログでも紹介した。
  沖永良部島でも、柏常秋氏著『沖永良部島民俗誌』によれば同様の習慣があったと言われる。しかしながら、ここで紹介した子守りの哀れを内容とする子守り歌があるということは、親元を離れて子守りに出される事例があったのだろう。でなければこのような子守り歌は歌われない。

  『南島歌謡大成 奄美編』の奄美諸島の「子守り歌」の項を見ると、46の歌謡があるけれど、そのうち13が沖永良部島の歌謡だというのは、比率としてとても多い。
 沖永良部島は子守り歌は量的に多いだけでなく、その内容にも特色がある。
 奄美大島や徳之島など他の島は、ほとんどが、泣く子をあやす歌である。
  「♪うちの坊やを 誰が泣かしたのか」(大島笠利町の「ほーれーほー」)とか、「♪泣くなよ坊や お母さんがじき 帰っていらっしゃるよ」(大島名瀬市「なくなよたまくぅがね」)といった具合に。
 それに比べて、沖永良部島の子守り歌は、子どもをあやす歌だけでなく、子守りの哀れや親を恋うる歌など多様である。
                   
  『南島歌謡大成 奄美編』では「ユングトゥ」(わらべ歌)の項にも「子守唄」として6つの歌謡が収録されている。こちらは、泣く子をあやすものだけでなく、子守りとはあまり関係ない歌謡もある。
  「イルジルメラベ」(色白乙女)は、夫に死なれ毎日の食べ物にも苦労する女性を男が口説こうとするが耳を貸さない、そんな情景を歌った歌謡である。子守り達が歌ったそうだ。
  ただ、「ユングトゥ」にも、子守りの哀れをテーマにした歌謡はない。
  親と離れて子守りする哀しみ、親を偲ぶ歌謡は、奄美の他の島では見られない。沖永良部島にしかないのはなぜだろうか。とても不思議だ。今のところ残念ながら、その謎を解く答えを持ち合わせていない。どなたかご存知の方がいれば教えていただきたい。



   
 

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沖永良部島の島唄散策、その4「子守り歌」

 子守りの哀れを歌った曲があった
 沖永良部島の子守り歌についてその内容を詳しく見てみたい。『南島歌謡大成 奄美編』には、沖永良部島の13の子守り歌が収録されている。歌詞を見ると、ちょっと意外な内容であることに気付いたからだ。それは、親と遠く離れて寂しさや子守りの哀れを歌った歌謡がいくつもあることである。いくつか例をあげる。

  「にしにたつくもや」は「北に立つ雲は」の意味で、次の歌意である。
 ♪北に立つ雲は 吾が親の姿 立ち変わり立ち変わりして 見せて下さい
  沖縄も沖永良部島も「北」は「ニシ」を呼ぶ。空に浮かぶ雲に、自分の親の姿を見せて下さいというのは、親と子守りの少女が遠くに離れていることを表している。
  

  「あがとぅどぅーなぬしまに」は「あんなに遠くの島に」の意味で、次の歌意である。
♪あんなに遠くの島に 吾が親ただ一人おき放しにして 夕方になるとその親が見たくて ひたすら面影がたつことだ
  子守りのため遠くの島に置き放しにされた哀しみを歌っている。ここで「島」とはアイランドの島ではなく、地域や集落を表す「シマ」のことである。同じ沖永良部島の中で、遠くの集落に、親元を離れて子守りに出されたのだろうか。夕方になると親を見たくて面影が立つと子どもの寂しい心情が込められている。
              
          大山百合香さんが歌う「永良部の子守唄」

  「いちちごろないに」は「五つになる頃に」の意味で、次の歌意である。
♪五つになる頃に 親に捨てられて 七つの頃になったら 吾が親のことを思い出した
  この曲は、わずか5歳で子守りのために親に捨てられたと嘆いている。これらの子守り歌を見ると、沖永良部島でも子守りのために、早ければ5歳くらいから親元を離れて遠くの地域に行かされることがあったことがうかがわれる。

  このほかに「くゎむりしゃぬあわり」でも、子守りする者の哀れさが歌われる。次の歌意である。
♪子守りする者の哀れさよ 夜昼 物思うばっかりだ 物思いを忘れ得たら 御祝いたしましょう
  これも、やはり親元を離れて子守りに出されているのだろう。子守りしながらも、思うことは、自分の親や生まれ育った土地、友だちのことだろうか。物思うこと自体が寂しく、哀れに思う。そんな心情がうかがわれる。

  『南島歌謡大成 奄美編』は、子守り歌の項の最後に、19番まで歌詞のある「子守り歌」が掲載されている。これは、元資料がさきの12曲とは異なるので、重複しているのかもしれない。実際に、歌詞は先の12曲と同じ内容のものもあるし、重ならない歌詞もある。
 子守りの哀しみを表す歌詞を和訳で紹介する。
♪子守りの哀れさよ 夜も昼も物思いだ 物思いを忘れたら 御祝いしましょう
♪親と子の仲や 深いのを見たら 親の居ない自分は 泣いて仕舞う
♪自分を産んだ親は 産んだ名前だけだ 雲風が邪魔をして 行方がわからない
♪あんなに遠い島に 我親一人置くと 宵になると見たくて 暮されない
♪北の方に立つ雲は 愛する親の姿だ 立ち変わり変わり 見せて下さい
♪野原に出て見たい 百合の花も見たい それより見たいのは 吾親の姿である
   長いのでこの項、続く。
 
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沖永良部島の島唄散策、その3「あしび歌」

 「あしび歌」
  奄美諸島の民謡について、『南島歌謡大成 奄美編』を読んでみた。この本では奄美の島ごとの「あしび歌」の中に、沖永良部島では30曲、143首の歌謡と共通歌詞の雑歌1曲66首の歌謡が収録されている。雑歌は、「島の民謡はどの曲節にも合して歌えるので、数多く集めて雑歌とした」ものだが、66首もあり長大である。
  あしび歌以外にも「島口説」や「手まり歌」5曲、「お手玉歌」1曲、「子守り歌」13曲が入っている。
  収録された歌謡を見れば、確かに沖縄と同じと思われる曲がある。「稲摺(イニシリ)節」は沖縄と同じ曲である。「じんとう節」も題名が沖縄の「ジントヨー節」と同じだ。「うちならし」は「踊(ウドゥイ)クハデサ節」と歌詞が似ている。「しゅうだい節」は「湊くり節」と歌詞がそっくりだ。「あんちゃめぐゎ」は「アッチャメー小(グヮ)」と歌詞がそっくりだ。
  柏常秋氏著『沖永良部島民俗誌』が指摘しているように、沖縄や奄美諸島の他の島から伝わったり、影響を受けた曲が多く、沖永良部島の固有の民謡は少ない、ということなのだろうか。
               
               「永良部百合ぬ花」
  私の個人的な見解であるが、各地の民謡を見る場合、一つの島、地域だけで独自に生まれたオリジナリティーのある曲だけをその地の民謡と見れば、どこでもごく限られた数となる。民謡は、人間の社会的な交わりのなかで、伝えられていく。その土地に受容され、歌詞や旋律も少し変化し、ルーツは同じでも独自の色彩を帯びて定着するのが普通である。
  沖縄の場合も、八重山民謡が本島民謡にたくさん取り入れられたことをこのブログでも紹介した。大和音楽の影響を受けた曲もある。同じ八重山の中で、同じ題名の曲が、島ごとに少し異なり、それぞれの島、地域の民謡となっている。他の地方から伝わったり、影響を受けたものであっても、沖縄本島、八重山、宮古などそれぞれの土地に定着し、愛されている民謡は、区別せずにその土地の民謡としているのではないか。あまり厳しく線引きして狭くとらえなくてもよいのではないかと思う。


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沖永良部島の島唄散策、その2

 柏常秋氏著『沖永良部島民俗誌』の「民謡」の項からの続きである。
 子守唄のメロディーはただ1種あるに過ぎない。
○お前(ウラ)が如何(イキャン)泣チャンテ(泣いたとて) ウラ親ノ聞キユミ 吾(ワヌ)ドウ親ナトテ お前モ守(ム)ユル
  この歌の和訳は次の通り。
  「お前が如何に泣いたとて お前の親が聞くものか 私だからこそ親代わりになり お前をお守りするのだ」(『鹿児島・沖縄のわらべ歌』)ー後は省略ー
  「沖永良部の子守唄」はとっても、私も好きな曲である。ここで、島の子守りの習俗について同書から紹介する。
 大抵14・5歳の少女がこれに当り、明治中期までは給金を要せず、ただ夏冬の着物を貰うだけであった。三度の食事は子供の家で行い、夜は自宅に帰った。大抵子供が一人歩きの出来るまでを奉公期間とした。満期後も絶えず訪ねて来て子供を愛するので、子供も姉の如くに慕い、両者の情誼(ジョウギ)は一生を通じて変わることはなかった。そのために両家の交わりも近親同様に濃まやかであった。
 (注・少女が地域の子どもを無償で子守りをし、守姉と子どもの親密な関係は一生を通して続いたという子守りの習俗は、この島も沖縄と同じであったようだ)

  物搗唄は、穀物を搗精(トウセイ、玄米をついて白くする)する時に用いる労働歌で、イトという名で呼ばれている。昼間に、1年分の味噌の原料たる大麦を搗(ツ)くときに唱和される。歌のリズムによって能率の低下を防ぐ。本来の物搗唄は1篇に過ぎない。
 ○厭(アグ)マシヤモ怠(ダロ)サ(も) 肝ノ思(ミー)ドウヤユル(気のせいである) 吾ガ怠サシリバ(すれば) 吾家(ワヤ)ノ立チユミ(立つものか)
                  
                      沖永良部島民謡「いちきゃ節」

  持成唄は、祝座において、婦人が客に酒を進める時に歌う唄である。座興のはずむ頃合に、身ぶり手ぶりよろしく、この唄を唱えながら、盃の酒を無理に客に進める。いまは廃れてしまった。
 ○カニマサス(こんなにうまい)御酒 吾一人(ワチユリ) 飲マリユミ(飲まれるものではない) サイ(酒)サイサイ サイ持チ来(ク) 飲デ遊バ
(注・この曲は「サイサイ節」として、よく歌われている。YouTubeでも、沖永良部島の民謡で検索すれば、いくつか見ることができる。楽しい歌である)

   ここから後は、私の感想である。
  沖永良部島の固有の民謡が、5曲だといのでは意外に少ないので驚いた。島でいろいろ歌われる民謡はたくさんあるが、それらは沖縄や他の島から伝わった曲ということのようだ。
  では、有名な「永良部百合ぬ花」は、固有の民謡ではないのだろうか。
  この曲は、「スンガー節」が原曲だといわれる。「スンガー節」の原曲は、徳之島の「マクラ節」という説もあるそうだ。音階的にも、「レ、ラ抜き」の沖縄音階ではなく、奄美地方の「ファ、シ抜き」のいわゆる日本固有のヨナ抜き音階(「ドレミソラ」)になっている(「音楽研究所」HPから)
  スンガー節の原曲が徳之島の曲だとすれば、「永良部百合ぬ花」を固有の民謡に入れていないということか。でも、曲名にも島名が入っているし、いまは沖永良部島の民謡として愛されているので、入っていないのは少し寂しい気がする。 

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沖永良部島の島唄散策、その1

  沖縄に似ている沖永良部島の民謡

  沖永良部島の島唄というか民謡は、沖縄民謡に似ているという。沖縄音階は「レラ抜き」の「ドミファソシド」だが、沖永良部島、与論島は同じ沖縄音階で、その北限だという。沖縄本島に近く、琉球文化の影響を強く受けたのだろう。
  かといって、「永良部百合ぬ花」や「沖永良部の子守歌」など代表的な曲を除けばほとんど知らなかった。島に行く前に、いくつかYouTubeにアップされている沖永良部島の民謡や踊りを見た。島に行ってから、ライブをやっている居酒屋「うたしゃ」で、島の人が歌う民謡を聞いたが、なるほど沖縄民謡と曲調は少し似ている。
  奄美大島を中心とする奄美民謡は、音階が沖縄音階ではないし、三線のキーが1オクターブ高い。弾き方もとても技巧的だ。なにより歌い方が違う。裏声を多用する。どこか物悲しげな曲が多い。沖永良部島は、見聞きした限りでは、裏声を使った曲はなかった。
           
       沖永良部島民謡 「サイサイ節」(那覇市与儀公園のさくらまつり)
 
  柏常秋氏著『沖永良部島民俗誌』の「民謡」の項からかいつまんで紹介する。
  広く用いられている歌謡は多種多様だが、その多くは他島のもので、中でも沖縄の歌曲が圧倒的地位を占め、本島の固有の民謡は、遊び唄、子守唄、物搗唄、持成唄の4種に過ぎない。
  この4種は、歌謡の目的による分類であるが、更に旋律即ち曲節により見ても、イキントー節(遊び唄)、ウシーウシー節(遊び唄)、子守唄、イト(物搗唄)、テジヤク(持成唄)の5曲だけである。
  歌詞は曲節の種類に係わらず、すべて五三・五三・五三・三三の三〇音詩である。だから遊び唄の歌詞は、どの曲節にも適用される。
 (注・沖縄の琉歌は八八八六の三〇音である。この八を五三、六を三三に分解しているが、基本形は琉歌と同様だと思う。ちなみに、沖永良部島は琉歌の北限だという)
 
  遊び唄とは、若い男女が夜間相会して歌い交わり楽しむ歌謡のこと。多くは野外で行われ、三味線の伴奏を必要とする。伴奏者はジユーテ(地謡)という。イキントー節、ウシーウシの2曲がある。イキントー節は本島最古の民謡と称することが出来る。
  外にアンチャメーグワと称する歌曲があって、前記2曲同様に愛好されているけれども、この名称の語源が沖縄語のアキチャメグワ(きつい)である点より見て、本島固有の民謡でないことは明らかである。
  歌詞は遊び唄という名に恥じず、男女の相思の情を述べたものが一〇中七・八を占めて圧倒的に多く、その他は人事の全面を網羅している。
○マクラクラ枕 物言(ムニイ)ルナ枕 里ガコト 吾事(ワコト) 言ルナ枕
  この和訳は次の通り。
  「枕くら 枕 物言うのではないぞ 枕 彼氏と私の話をするのではないぞ枕」(『南島歌謡大成 奄美編』)
  ―後は省略―
                 
 
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奄美返還の二島分離に反対、沖永良部島の歴史スケッチ

 二島分離の報道に反対運動が盛り上がる
 時代は飛ぶ。太平洋戦争が終わると、1946年1月29日、米軍は「奄美諸島は鹿児島県から分離し、米軍政の下に単独行政区に切替える」という通告を行った。大島郡は、沖縄県と同様、米国海軍政府の支配下に置かれた。
  奄美諸島は「臨時北部南西諸島」として沖縄県からも区別され、1950年11月には「奄美群島政府」となり、単独の政府が組織された。1952年、琉球政府が発足すると、琉球政府に合併されて、旧沖縄県に入ることになった。米軍政の下に、二転三転と目まぐるしく変わっていった。
  沖永良部島でも、1950年11月、米軍が大山にレーダー基地を建設し、米軍兵士が駐留を始めた。米軍基地は、73年に自衛隊に移されるまで23年間続いた。
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                  沖永良部島の田皆岬
 戦後の島民生活は、厳しい物価値上がりと食料不足に悩まされた。戦地からの復員や本土や満州(中国東北部)からの引き上げで島内の人口は急増した。戦争によって食料生産が減少し、さらに台風の被害によって主食の米、さつまいもがとれなくなったため、毎日の食料にこと欠いた。昭和初期から続いていた「ソテツ地獄」は戦後の昭和20年代まで続くことになる。
  1951年に入ると、サンフランシスコ講和条約の締結を前に、日本復帰運動が全郡で急速に盛り上がり、奄美大島日本復帰協議会が結成された。沖永良部島でも知名町・和泊町に支部が組織され、署名運動が始まった。
復帰運動は、奄美諸島の島々が一つの運動で結ばれた初の出来ごと。島民は「奄美」としての自覚に目覚め、99・8%の署名を集めて、日米政府へ訴え続けた。
  1952年9月、「北緯27度半以北の奄美諸島の施政権は日本政府へ返還」し、沖永良部島と与論島は分離するという情報が入った。全島民は驚き悲しんだ。「二島分離絶対反対」の運動が全島に広がった。和泊、知名、与論の町長は上京し、政府・国会、アメリカ大使館への陳情・嘆願を行った。
  ついに1953年12月、全郡民の悲願であった日本復帰が実現した。
  以上の歴史に記述は、先田光演氏著『沖永良部島の歴史』からの抜書きである。
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                         与論島の海岸
 
  奄美では、時代を表す表現として、琉球に服属する以前を「アマンユ(奄美世)」、琉球時代を「ナハンユ(那覇世)」、薩摩藩に支配されて以降を「ヤマトユ(大和世)」、米軍政の時代を「アメリカ世」と呼ぶ。島をめぐる歴史の変遷を象徴する言葉である。
  こうしてみてくると、沖永良部島は、琉球国と薩摩藩、日本政府と米軍政のもとで、幾度も翻弄され、さまざまな苦難をくぐってきた歴史をもつことが改めてよくわかった。
  島民の意識のなかでも、「沖永良部島は琉球・沖縄なのか、奄美・鹿児島なのか」というアイデンティティについての問いかけがあったと聞く。地理的な条件や歴史のなかで、そういう戸惑いも生まれたのだろう。復帰運動の中で、島民は「奄美」の自覚を持ったという。「奄美」の自覚の生まれたのがあまり古くないことに少し意外な感じがした。

  そういえば沖永良部島のテレビは、鹿児島と沖縄の両方の放送が見られる。
  いまでも、進学先や就職先で沖縄に来る人もいる。芸能分野でも、与論島出身の川畑アキラさんなど沖縄を拠点に活動している。沖永良部島の大山百合香さん(「うたしゃ」の娘さん)も、沖縄でも活動していた。
  沖縄闘牛で活躍する牛は、闘牛の盛んな徳之島育ちの牛がよくいる。闘牛アナウンサーで、自分も闘牛の持ち主である伊波大志くんは、よく徳之島にも出かけている。
  相撲界では、十両の千代皇は与論町の出身だが、沖縄の中部農林高校相撲部で活躍し、九重部屋に入って関取になったので、沖縄では郷土力士扱いをされている。
 
  琉球弧の島々は、本来は地理的にも歴史的、文化的にも相互に密接な関係をもっており、交流も続けられてきた。沖縄には、奄美諸島出身の人たちがたくさんいる。現に今回、沖永良部島に旅したグループの女性の一人は、夫さんが沖永良部島出身で、沖縄在住である。
  沖縄と奄美諸島はいま、人為的に所属県が分かれているけれど、そのつながりは脈々と続いている。奄美諸島のことをもっともっと知りたいという思いを強くした。


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沖永良部島の歴史スケッチ、薩摩の支配下で

 薩摩の支配下で
 1609年に薩摩藩が琉球に侵略すると、薩摩は奄美諸島を琉球から切り離して、直轄支配とした。島津氏は、奄美大島と徳之島に奉行(代官所)を置いた。沖永良部島は当初、徳之島代官の支配をうけたが、1690年に分離され、沖永良部島にも代官が設置された。
 代官所には、代官(藩主の代理人)・横目(犯罪取り締まり)・附役(ツケヤク、年貢取り立てなど)などを置いて、鹿児島から直接武士が派遣された。武士はすべて単身赴任であり、世話をする島の女性が使われた。役人と親しくなった女性は「島妻」といわれ、子どもが生まれると武士の子孫として養育され、今の役人に任命される者が多かった。
 藩役人の下には多数の島民が島役人に任命された。「与人(ヨヒト)」は島役人の最高職、島内にあった3つの各間切(マギリ、いまの町村)に置かれた。「目差(メザシ)」は与人の補佐役、「唐通事(トウツウジ)」は中国人との通訳、「筆子(テッコ)」は書記の仕事をした。 
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  かつて仮屋(代官の役所)があった場所にいま西郷南洲記念館がある

 薩摩は、奄美にたいして、①島人にふさわしい名前をつけるべき。何十郎・何兵衛などの名前は付け替えること②鹿児島のように月代(サカヤキ、髪を剃る)してはならない③鹿児島に来ている島人は、役人に出会うときは平伏し無礼にならないようにすること、などといった制限を加えていた。
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                     波が打ち寄せる和泊の海岸
 年貢米に代わり黒糖上納へ
 増え続ける借金をかかえた島津氏は、南島のさとうきびに注目する。奄美大島では、17世紀からさとうきびが植え付けられ、黒砂糖が生産されていた。1745年この黒砂糖を年貢米に代わりに上納させるようにしたのが砂糖政策の始まりであった。
 財政難に苦しむ薩摩藩は、1830年、さとうきびを強制的に田地にまで植え付けさせて、すべての黒砂糖を藩に取り上げるため、農民から厳しく取り立てた。この制度は、大島・喜界島・徳之島の三島に適用され、沖永良部島と与論島では年貢米の制度が続けられていた。   
 「沖永良部島の砂糖まで全部藩が取り上げてしまうと、船頭や商人達が買い入れるものがなくなり、彼等がもうけられなくなってしまう。だから、沖永良部島の砂糖は一般の商人が買い取ってもよい」とされていた。

  島津斉彬が藩主に就くと、幕末の動乱をおさめ、外国との紛争に備えるため、数多くの事業を行われた。1853年、これらの費用に役立てるため、沖永良部島の砂糖もすべて買い上げられることになった。
 斉彬の死後、西郷隆盛・大久保利通などがすすめた倒幕運動の財源は、南島の黒砂糖であった。明治維新の成功をささえたのは、南島の厳しい監視の中で強制的に生産させられた黒砂糖であったといってもよいだろう。

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沖永良部島の歴史スケッチ

 沖永良部島は、奄美諸島の一つといっても、与論島に次いで沖縄に近いこともあり、そこには独特の歴史がある。先田光演氏著『沖永良部島の歴史』から、読書ノート的に、関心のあるカ所を抜書き的に紹介する。都合で文章は多少、手を加えた。
 
「グスク時代」
島の歴史は1万年前から始まっている。縄文時代、弥生時代に類似した擬弥生時代をへて、7,8世紀には村落ごとに血縁を中心に集落が形成されたマキョ時代となる。
各地域ごとに勢力を拡大し、いくつかのマキョを支配する豪族「アジ」が生まれた。各地に「グスク」と呼ばれる館や小さな石積みの砦を築いた。豪族が互いに勢力を争った。グスク時代と呼ばれる。島が後の「世の主」によって統一されるまで、数百年間は、アジが互いに争いを繰り返したと考えられる。  
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                  沖縄の北山の居城だった今帰仁城跡

 沖縄の勢力が島を支配
沖縄本島のアジの勢力が沖永良部島の支配に乗り出した。14世紀に今帰仁城を本拠とする北山王国が地方行政官となって島を治めた。いくつかの伝説があるが、その一つによれば、北山王の二男・真松千代(マチジョ)が島を治めるため琉球から渡って来た。「世の主」といわれた。
                 
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                「世の主」の墓
 琉球の古謡集『おもろさうし』には、沖永良部島についての「おもろ」が12首収録されている。そのなかに次の「おもろ」がある。
「えらぶ世の主の お船 橋 しょわちへ えらぶ しまなちぇる」
歌意は「永良部世の主が 船を使って橋のようにして 永良部を領地にした」。島の世の主が、ひんぱんに琉球との間を往来し、橋をかけたように数多くの船を使って、沖永良部島を支配していたことがわかる。 

琉球が尚巴志が北山、南山を滅ぼし中山国が琉球を統一した。1416年、北山が滅びると、沖永良部島の世の主は、妻子共に切腹したと伝えられる。
 
 その後は、琉球王国が約200年間にわたりこの島を支配した。琉球は「大親子(オオヤコ)」と呼ばれる役職者を直接派遣して統治させた。この地方役人が「三島大親子・首里の主」だとみられる。首里の大親子が徳之島の大親子も兼ねたようである。

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沖永良部島は「花の島」

お土産は華麗な菊
 居酒屋「うたしゃ」でライブのことを紹介した。この時の続き余談である。
ライブが終わると、オーナーがお土産だといって、花の束をみんなにプレゼントしてくれた。菊の花が10本くらいはいっている。「間違っても売らないでくださいね」と冗談まじりに話していた。沖永良部島は「花の島」だという。テッポウユリは有名だが、それだけでなく、フリージア、菊、グラジオラスなど花卉栽培が盛んだという。
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 菊は、帰りの船に持ち込むと「花は船室に持ち込まずに、この通路脇において下さい」と船員が言う。「なぜ?」と尋ねると、「香りがあるので船室には入れないようにしている」とのことだった。
 自宅に帰って、花びらにかかっていたネットをはずすと、とても大きな花びらで華麗な菊だ。花屋で買うと相当の値段になるだろう。「売らないで」の意味がよくわかり、改めて感謝の念を強くした。

 テッポウユリの由来は
 ところで、沖永良部島でテッポウユリがなぜ有名になったのだろうか。元来は自生種(野百合)だったが、1899年(明治32年)にイギリス人貿易商人バンティングにより見出され、ユリ球根栽培が開始された。1902年にエラブリリーとして欧米に輸出を開始した。
 当時は貴重な外貨獲得の手段となり、1911年(明治44年)当時、植物輸出総額の7割がテッポウユリであり、鹿児島県産はその中でも重要な位置を占めていた。
 戦後、栽培技術の発展や流通ルートの確保などを通じて、切り花栽培が成長してきた。現在は切り花が主流となり、球根とともに島の主要な農作物となっている。クリスマス等の必需品として多くの国で愛されているという。以上は、九州農政局のHPから紹介した。
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       大石公園のテッポウユリ


 ユリといえば「沖永良部島の百合騒動」が有名だ。民謡の「永良部百合ぬ花」でも「♪永良部百合ぬ花 アメリカに咲かちヤリクヌ うりが黄金花 島によ咲かさ」「♪いかに横浜ぬ 波荒さあてぃんヤリクヌ 百合や捨てぃるなよ 島のよ宝」と歌われている。「永良部のユリをアメリカに咲かせよう ユリは黄金の花だ 島におおいに咲かせよう」「どんなに横浜の商社と争いがあっても ユリは捨てるなよ島の宝だよ」という歌意である。
 昭和5、6年には全国のユリ出荷量の3分の1以上は沖永良部産で占めた。値段が高騰したため商社は価格を統制、検査を厳しくし、農家の球根代の踏み倒しなども起きた。島では永良部百合組合を設立した。自主的な検査、適正価格の維持と代金の予納(前金)をさせるなど目的とした。譲らない商社に対して、自主的にオランダ商人と契約したため商社は降伏した。商社側も日本百合輸出組合を組織し、取引数量、価格、輸出時期など完全に統制されることになった。
 これは生産農家にショックを与え、3300人が結束していた同業組合は、2つのグル―プに分かれて対立することになった。この騒ぎの中に三菱商事が乗り込み、対立する一方についたため、争いは大きくなり、お互いの告訴、夫婦の離婚、井戸水争いに発展、農民の心に傷を残すことになったという。
以上は、先田光演氏著『沖永良部島の歴史』をもとに紹介した。
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 テッポウユリは、4月後半から5月初めにかけてがシーズンだ。きっと、「花の島」沖永良部は、テッポウユリの甘い香りに包まれるのだろう。
 そういえば、那覇市の大石公園でも、テッポウユリがたくさん植えられ、ユリ祭りが開かれる。この公園のユリは、沖永良部島和泊の人々から贈られたユリだという。身近なところで、そんな島との交流もある。


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「汐ほす母」の像

「汐ほす母」の像
 沖永良部島の国頭小学校の校庭にあるガジュマルの木のそばに、水を汲む桶を頭に載せた女性像があった。「汐ほせ母」と記されている。校門にも「汐ほす母」の精神を大事にする標語らしきものが目についた。何かいわれがあるのでは、と思ったので、校門のそばで花壇の手入れをしていた女性に尋ねると、次のようなことを話してくれた。
 「沖永良部島では、米を作るのに湧水や貯水池の水を使っていた。水の少ない地域は、米があまり作れないので、母が塩水を桶に汲んで頭に担いで汐を干す作業をしていた。作った塩は、ザルにいっぱいの塩、それも山盛りの塩を、もみ殻のお米一杯と物々交換していたそうです。裸足の子どもたちに、母親は懸命に働いて靴も買ってやるなど苦労して子どもを育てた。その精神を学んでいこうという意味のようです」と話していた。
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 島ではかつて、製塩が専売制になるまで島の全域でおこなわれていた。海水をそのまま煮詰めると燃料などの面からきわめて無駄が多くなるので、シューフシドゥ(潮干し場)で塩分濃度を高める「汐を干す」という塩分濃度を高める作業を行っていた。塩分濃度を高めてから、自宅で焚いていたそうだ。
 「汐ほす母」の像にも、島民の苦労の歴史や子どもにそそぐ親の愛情が刻まれているようだ。

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