レキオ島唄アッチャー

稲・粟を歌った八重山民謡

 稲・粟を歌った八重山民謡から
 八重山古典民謡のなかで稲粟を歌って典型的な曲を見ておきたい。
 八重山では古くから、八重山の島々を野国島(ヌングン島)、田国島(タングン島)とふたつに分けていたといわれる。山のある石垣島や西表島は田国島、隆起サンゴからなる、その他の島々(竹富島、黒島、新城島、鳩間島、波照間島が相当する)は野国島である。
 田国島とは、文字通り水田がある島々である。だからといって水田ばかりではなく、畑地も広い。稲と共に粟など農作物が作られていた。

 白保節
 石垣島白保で歌われる「白保節」では、稲と粟が歌われる。
♪白保村上なか 弥勒世(ミルクユ)ば給(タボ)られ 
ユラティクユラティク ブドゥリアスバ(以下ハヤシ略)
♪稲粟ぬなをりや 常(チゥニ)ゆいん まきらし
♪首里加那志 貢(ミムヌ)御残いぬ稲粟や
♪泡盛ん生らしょり うんしゃぐ(御神酒)ん造りようり
 歌意は次の通り。
♪白保村に 豊年を賜りました
♪稲粟の稔り具合は 例年にも増して豊作でした
♪首里王様への年貢を納めて その余剰の稲粟で
♪泡盛も仕込み 御神酒も醸造しました
 ここでは、稲・粟が豊作になったことを喜び、王府への年貢を上納して、更にその残りで泡盛を作ろうと歌う。 
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                      石垣島白保の海岸
 「夜雨節」
 珊瑚礁でできた水田がない島では、西表島や石垣島に舟で通って稲を作ったといわれる。通耕する場合も、米だけでなく、畑で粟も作った。また、住んでいる島の畑地では、粟など農作物を作ったそうだ。
 最南端の島、波照間島からは西表島に通耕していた。
 波照間島は、「かつての島の農耕は主食であった粟作が中心であった。そして17世紀の琉球王府による人頭税政策開始後は上納品(物納税)としての稲作が強制されていたため、米の豊作への願いもとりわけ切実であった」(「波照間島あれこれ」HPから)という。
 神行事も、粟作儀礼をベースにおき、「あとから稲作儀礼が加わった形」となっている。島には「上納用の水田(カネーズ)」があったそうだ(同HP)。
 
 波照間島に由来する「夜雨(ユルアミ)節」では、次のように歌われている。
 ♪夜雨ぬ降る年 世果報年(ユガフドゥシ)でーむぬ
 ♪稲粟ん稔(ナヲ)らし 麦豆ん実(ミキ)らし 
 ♪御主年貢 積ん上げー 御残りぬ稲粟
 ♪泡盛ん生(マ)らしょうーり 御神酒(ウンシャグ)ん造りょーり
 ♪弥勒世(ミルクユ)ぬしるし 夜昼(ユルブィルィ)ん酒盛るぃ
  歌意は次の通り。
 ♪夜の間に雨がよく降る年は 豊年である
 ♪稲も粟も稔らせ 麦も豆類も実らせ 
 ♪国王様への年貢は積み上げて置き 上納分のお残りで 稲粟で 
 ♪泡盛も醸造し お神酒も製造した
 ♪平和で豊かな世のしるしだ 夜も昼も酒盛りして祝おう 
 ここでは、稲・粟に加えて麦と豆類も作り実った様子がうかがえる。
 
 「鳩間節」
 やはり水田のない鳩間島からは、西表島に通耕していた。喜舎場永珣著『八重山民謡誌』は、次のように指摘している。
 「鳩間島はサンゴ礁の島で、田畑などは皆無であるが、人頭税はやはり米貢を強制された。これは蔵元政庁からの厳命で、上原と舟浦地方の荒蕪地を開拓して稲作に従事し、以て米貢の義務を果たしていた。命がけで海を渡ってくる鳩間人は、2、3日も田小屋に宿泊して男女協力して田植えをおえ、また夏の猛暑を冒かしては、稲粟の取り入れに海を渡って行って舟に満載して帰る」。
 「鳩間節」は、この舟で通い、収穫できた穀物を舟に積んで持ち帰る情景が歌われている。
♪前ぬ渡ゆ 見渡しば 行く舟来る舟面白ゑ
♪稲ば積んつぃけ面白ゑ 粟ば並みつぃけさてぃ見事
 歌意は次の通り
♪前方の海を見ると 新開拓地を往来する舟は 面白い眺めである
♪稲の穂を満載した舟 粟の穂を満載した舟は 見事な眺めだ
 かつてはこの曲を歌うとき、「西表島には水田で米を作るために通耕していたのに、なぜ粟も舟に積んで帰るのかな?」と疑問に思ったことだった。でも、通耕した西表島でも米だけでなく粟も作っていたとなれば、この曲の歌詞がよく理解できる。

 「小浜節」
 「果報ぬ島」といわれる小浜島は、水に恵まれていた。
 「利水条件は比較的良好である。台地、段丘がその地形的特徴をなし、しかも河川をもたない小さな島に利水の便があることは珍しい。島の水田は多くは天水田であり、水田は透水性が低く、地固めさえしておけば降水によってすぐに水は溜まる。また、深田も多く、耕運機などを持ち込めないところは水牛に頼ることも多い。 それに土壌に優れ、水も豊富でサトウキビを主に多くの米や農作物が栽培できる豊かな村落である」(『小浜島 竹富町史第3巻』)
 「小浜節」では、次のように歌われている。
♪大嵩に登てぃ 押し下し見りば 稲粟(イニアワ)ぬなをり 弥勒世果報(ミルクユガフ)
♪稲粟ぬ色や 二十歳頃女童 粒美らさあてぃどぅ 御初上ぎら
 歌意は次の通り。
♪大岳に登って 展望してみると 稲や粟は稔り 平和で豊かな世である
♪稲や粟の色は 二十歳の女性のように美しい 粒が美しく その初穂を神に捧げる
 水田のあった島らしく、島の大岳から見下ろすと、水田や畑に稲や粟が実り、豊作に恵まれた情景が目に浮かぶ。
 
 八重山民謡では、稲と粟が一対のものとして歌われている。といっても、稲にしても粟にしても人頭税の納税の過酷さに変わりはない。
 それに「米と粟が等価」であったとしても、結局はなにかと有利な稲作に重心が向けられ、米の上納を強いられた。そのため、危険をおかして舟で稲作のために他島に通い、泊まり込みで農作業をするという重労働が長年にわたって続けられた。さらには、水田のない島から西表島や石垣島のマラリア有病地に開拓のため強制移住させられ、幾多の犠牲を生んだという哀史があることを忘れてはいけないと思う。
 

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八重山民謡で歌われる稲粟、人頭税で粟も上納

 人頭税で粟も上納した
 八重山民謡を歌っていると豊年、豊作の願いを歌う曲には稲と共に粟がよく登場する。琉球王府の時代の農作物による納税は、八重山諸島は米、宮古諸島は粟が基本だったと聞いていた。八重山では、水田のない島にも人頭税で米の上納を強いたので、水田のない島から石垣島や西表島に通って稲を作ったという史実もある。
 「八重山では、宮古島と違って米が基本だから、粟が民謡でよく歌われているのはなぜだろうか」と不思議に思っていた。
  
 最近、沖縄県立芸大附属研究所の「八重山の歴史と文化」講座で、得能壽美氏の講演を聞き、同氏著『近世八重山の民主生活史』を読んでいたら、その疑問に答えてくれる記述があった。
  「八重山近世における人頭税制における粟納」で詳述されている。得能論文の結論を要約して紹介する。
八重山のあらゆる島・村において、人頭税の上納穀は米でなければならない、とはいわれていない。近世八重山における人頭税の現物納は、米・粟・布を主体として、その他の畑作物による上納が可能であったのである。米は他に対して賦課された上納物であったが、八重山はむしろ、明治36年に田2180町2反余・畑3922町6反余とあるように(琉球政府1967)、全体亭には畑がちの地域であった。

 八重山全域で粟が作られていた
 粟は近世の八重山全域で作られていた。近世八重山に賦課された人頭税の穀物納分は米だけではなく、八重山の各地で栽培されていた粟が重要な上納物になっていた。その粟は、黒島などの例から、基本的には畑租であったようだ。しかし、先にも述べたが、近世八重山に賦課された人頭税に関する史料(当時の公文書)では、田租・畑租の区別はなされていない。「米・粟」という文言において、田と畑の租税を意味している可能性はあるが、それは単純に合算されている。
 また、史料上に「~米」とある場合でも、その内容は必ずしもコメではない場合がある。「球陽」(注・首里王府の史書)など漢文で記された史料上でのことだが、コメを「大米」として、アワを「小米」と表記することもみることができる。
                  粟               
                          粟
 実際の賦課・徴税においては、史料でみるかぎり、賦課において田畑の区別をしないことで、徴収においても田畑の区別、つまり米・粟の区別をしていなかったのではないだろうか。むしろ、粟を二度夫賃米(注・緊急の際などに放出する)として貯えさせ、古米上納の原則から、粟での上納を制度化していったとすらいうことができるかもしれない。
  したがって、「水田のない島」は粟を上納すればよいという、最初の引用した喜舎場永珣の指摘は正しい判断であり、いちがいに「水田のない島に米の上納を強いた」ということはできないのである。
 得能氏は、八重山に属する黒島における近世の農耕と人頭税の上納、あるいは西表島への通耕について、喜舎場氏の主張(喜舎場1949、注・「黒島郷土民俗誌」)を次のように紹介している。
 「黒島は珊瑚礁の島であるために水田は皆無であって、遠く海を越えて西表島に渡り、稲作に従事するという困難さがあった為に、納税の如きも粟納であった」。
  「同島(註・黒島)は、珊瑚礁のために水田は皆無で、納税は全部畑の収穫を以てこれを納付しなければならない状態で、なかなか一通りの困難さではない」。
 得能氏はこれを整理して①黒島には水田がまったくなかったが、②畑はあり、③人頭税の上納は畑作物で行われ、具体的にそれは粟であった。それにもかかわらず、④西表島に通耕して稲作を行なっていたというのである。

 政策的に米納化へ進んだ
 得能氏は、八重山で粟が広く作られ、上納されたことを明らかにしたうえで、米と粟の関係について次のように指摘している。
  しかし田租と畑租が同等とされ、米と粟が等価であるならば、労働力を可能なかぎり稲作に向けた方が有利であったのではないだろうか。そして、鳩間島の例にしてみたように、他島での上納田地の配分は、税制の面からだけいえば「米の上納を強いた」ということができる。当然のことながら、近世を通じて農業技術や耕地の環境が同じであるわけではなく、政策的には水田作=米納化への道を進んだと考えるのが自然であろう。
  得能氏は、結論として、水田のない島から他島へ通耕して米を作った事実について「米の上納を強いた」ということができるし、政策的には「水田作=米納化への道を進んだ」ことを明らかにしている。
             

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「八重山の歴史と文化」を学ぶ

「八重山の歴史と文化」を学ぶ

 「八重山の歴史と文化」と題した文化講座が始まった。沖縄県立芸術大学付属研究所が開いたもの。10月7日から来年1月27日まで15回にわたり、各分野の専門家を招いて講演してもらうという企画。八重山に関心のある市民にとって、歴史と文化の全体像をその分野の第一線にいる人たちから学べるという機会はめったにない。素晴らしい講座であり、県芸大附属研究所に感謝したい。
 第1回は、新城敏男氏(名桜大学名誉教授)が、「八重山の歴史の概論」と題して話された。とくに、「八重山研究の父」と呼ばれる喜舎場永珣について、その八重山の土を踏んで中央を眺める基本姿勢、郷土に対する愛情と誇り、反骨精神も旺盛だった歴史観、その業績を紹介するとともに、八重山研究の難しさ、喜舎場説の中の問題点にふれ、研究を深めることの重要性を指摘した。
 
 第2回は、島袋綾野さん(石垣市教育委員会)が「八重山の先史時代」をテーマに講演した。先史時代を「後期更新世(旧石器)」「下田原期」「無土器期」の区分にそって話した。
 後期更新世(旧石器)では、石垣島の白保竿根田原洞穴遺跡で出土し話題になった人骨は、骨からコラーゲンを抽出し測定された年代では国内最古であること、DNAの分析も進められているおり日本本土より南の地域に多いDNAタイプであるとのべた。
 下田原期は本州の縄文時代の後期、晩期にあたり、土器・石器・貝器など遺物の組成は縄文時代と同様だが、土器の形式がまったく違い、文様がない丸底の鍋形や浅鉢形土器が主で把手がついた器形が特徴だという。台湾の土器に似ていて、台湾以南の地域との関係が指摘されている。
 
 個人的に私がもっとも興味を引いたのは、次の無土器期である。
 新石器時代に土器のない文化は全国でも珍しい。しかも、古い下田原期に土器があったのに、その後に無土器の時代が来たことになる。
 土器を持った文化が、何らかのきっかけで土器作りをやめたのか、別の集団が入って来たのか、現在も議論が続いている。
 八重山では約3500年前、約2000年前の2回大津波があり、関係している可能性も考えられるそうだ。
 土器がないため、調理には焼石が利用されたと考えられる(遺跡から焼けた石が出土した例がある)。貝斧など、フィリピン、オセアニア地域と共通する要素があり、南から集団が来たという考えを支持する研究者が多い。
 無土器期は約2000年前~12世紀くらいまで続き、この期の終わりに九州からの遺物(鉄製品も入る)が見つかり、北からの影響が出てくるという。
 
 無土器期は南方から集団が来た可能性があるとすれば、南方には無土器文化があるのだろうか。島袋さんは質問に対して、「南のサンゴ礁で出来た島々は土器が作りにくいけれど、作れる島では作っており、八重山と同じ無土器文化はない」と答えた。
 
 そういえば、以前にポリネシアの島を紹介するテレビ番組で、焼石を使って調理する場面を何度か見た記憶がある。確かに、鍋など土器を使わなくて調理し食べていた。
 「紀元前1300年ごろに、東南アジア島嶼部からモンゴロイド系のオーストロネシア語を話す人々が拡散してきた。ラピタと呼ばれる美しい土器を作ったこの人々は、タロイモやヤムイモなどの根裁農耕を行い、イヌ、ブタ、ニワトリの家畜も飼っていた。この人々は帆のついたアウトリガーカヌーをあやつり、オセアニア全体に広まっていった」(国立民族学博物館HP)
ラピタ人はなぜか土器を持たなくなった。
 片山一道氏(京大名誉教授)は、「ポリネシアでは、紀元前後から数百年間の間に土器をもちいなくなり、焼石をつかった蒸し焼き料理(石焼き料理)が現在まで料理の中心になっている」とのべている(同HP「幻の海洋民族『南太平洋のバイキング』」)。
なぜ土器を使わなくなったのか。
 「ラピタ土器はポリネシアのほとんどの地域で途絶えた。これは小さな島などでは、土器を作るのに適した粘土が得られにくかったためと考えられる」(同HP「オセアニア」)。

 八重山で有土器から無土器文化に移ったのはなぜか。
 やはり土器を持っていた下田原期の人々が、2度の大津波によって壊滅的な被害を受け、その後に南方から無土器文化の人々が移ってきたのだろうか。移ってきたとすれば、どういう人々だったのだろうか。
 無土器文化と聞くと、なにか文明的に土器をもつ文化より劣っていると考えがちだが、無土器でも焼石調理をするのが当たり前の社会であれば、どちらが文明的に進んでいるという問題ではないのかもしれない。
 まだまだ謎が多い八重山の先史時代だが、それだけ今後の研究で明らかにされることが期待される。

 八重山の先史時代については石垣市教育委員会「八重山諸島の考古学」で見ることができる。
八重山諸島の考古学
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盗んだ神を祀った御獄とは?鳩間島

『鳩間島民俗誌』を読む

 盗んだ神を祀った御獄とは?

 隣の島から神を盗んで村の御獄(ウタキ)とした。こんな驚くような話に出会った。大城公男著『八重山 鳩間島民俗誌』を読んだときである。
 鳩間島のヒナイ御獄という拝所である。『琉球国由来記』に友利御獄とともにその名がのっている古い御獄だという。
 琉球王府時代のことだ。鳩間島の住民が、西表島の御獄から盗んだという伝承があるそうだ。なぜ、神を盗まなければならないのか、神を盗むとはどういうことだろうか。 
 ※これは、前に「ココログブログ」にアップしていたものだが、八重山離島について連続して書いているので、鳩間島についても再アップしておく。
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                    『鳩間島民俗誌』の表紙
 海向かいの(西表島)ヒナイ村は雨がよく降り、作物がよく実った。鳩間島の人々はそれをヒナイ村の人々の拝む神のお陰だと考えた。そこで鳩間島の人々は、ヒナイ村の人々に彼らの拝む神を勧請(カンジョウ)させてほしいとと頼んだ。ところがヒナイ村の人々は、一言の下にその要望を拒否した。それでも鳩間島の人々は諦め切れず、一計を案じた。神を盗みだすことを計画したのである。
 通事家と加治工(カジク)家の男たちが選ばれた。二人はヒナイ村の海岸に舟を着け、こっそりと御獄に近づいた。ところが、ヒナイ村の人々に見つかってあっさり追い返されてしまった。次に二人は夕方舟を出し、……夜陰に乗じてヒナイ村の御獄から香炉の灰を盗み出した。それから男たちは大急ぎで舟をこいで返し、島に着くと海岸近くの木の陰にその灰を置いた。そこがこの御獄の最初の拝所となった。 
                           img_鳩間島地図

 
 大城氏は、この神を盗んでたてたヒナイ御獄をつくったのは、他の島からの移住者だったと見る。
 移住者はすでに村を守護する神を祀っていたが、それは祖先神であった。信頼する神以外に、雨の神・豊穣の神を必要とするようになっていた。新村の人々は、彼らの消費する量をはるかに超える生産高を求められていた。人頭税である。この政策が彼らの上に重くのしかかり、他に救いの神を求めたのである。こうして第二の御獄、ヒナイ御獄は建てられたそうだ。
 1701年から1703年にかけて黒島から鳩間島に百姓の移住が行われた。2回に分けて、合わせて150人を超える人が移住した。移住によって鳩間島の人口はいっきに4倍か5倍になったという。
 鳩間島から、米をつくるため西表島の北岸に海を渡って通っていた。

 重い人頭税を完納するためには、豊作、豊穣は切なる願いである。「雨の神・豊穣の神」をなんとしても必要としたのだろう。神を盗むという破天荒な行為の背景にも、人頭税による先島の百姓たちへの過酷な徴税があったのだ。
 著者は、鳩間島に生まれ、教育者として県立首里高校校長を定年退職したあと、東北大大学院前期博士課程を修了。すでに島外に出た住民からも聞き取りして本書をまとめたという。労作である。とくに、村の成り立ち・変遷と御獄の由来や神役の継承など祭祀の形態と組織を詳細に記述されている。
 
 鳩間島の名前の由来
 鳩間島の名前の由来に興味がある。大城公男著『八重山 鳩間島民俗誌』から紹介する。鳩間島に鳩が多数生息していたことに由来するという。鳩は穀物を主に食べる。島で鳩が急速に増えたのは、人が住みつき畑をつくるようになってから。人頭税時代に、鳩間島から西表島の北岸一帯に出かけて稲作をした。鳩も稲を目指して海を渡っていたそうだ。王府の八重山統治が進み、役人が島にやってきたとき、鳩の多い島という印象をもったのが島名の由来と推測している。
 ただ鳩は現在、島にいない。それは島の人口が激減し、畑も田を作らなくなったからだという。大城公男著『八重山 鳩間島民俗誌』から紹介した。
 たしかに、鳩は自然の中にいる野鳥というより、人の住む周囲にたくさんいる鳥だ。人が少なくて鳩もいなくなったとは、なんか寂しい感じがある。
鳩間島の名前の由来は、確証されているわけではない。でも、鳩が多いことに由来するなら、たしかに鳩間島の古くからの固有の名前というより、島外の人がつけた名前の印象が強い。
 島に人が住む以前には、他の名前があったのではないだろうか? 先ごろ亡くなった外間守善氏は「行き果ての『果て』を語根にした『果ての島』が語源であろうと考えている」「ハテあるいはハティに『鳩』の漢字を当てるようになってから、ハトと読み、発音するようになったものであろう」との見解を示していたという(『八重山 鳩間島民俗誌』)。
 ただ、これも根拠ははっきりしない。それに、鳩間島に「果ての島」のイメージがあったのだろうか。最果ての島と言えば、波照間島や与那国島があるからだ。





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かふぬ島 小浜島、その4

御嶽信仰
 小浜島では、御嶽(ウタキ)は「ワン」と呼ばれる。現在村落民が信仰しているワンは9つほどある。そのなかに、とても哀しい伝説に由来するワンがあるそうだ。『小浜島 竹富町史第3巻』から紹介する。

 アールムティワン(東表御嶽)
 御用布貢納のため上国する、兄の海路平安無事を妹が祈願したところといわれている。
 二人の兄妹(ビキィル、ブナル)は過酷な上納義務を果たすため、兄は稲作、妹は御用布織に精励していた。兄は西表島のユツンに渡り、平田原を開田し、稲作をしていた。兄は刈り入れたばかりの稲束を干し、夏はにわか雨が多いので注意して野良に出かけた。
 妹は機織に夢中になり、にわか雨に気付かず干してある稲束を濡らして台無しにしてしまった。帰ってきた兄は怒って、命にも代えられない1年の働きを無にするとは何事かと、機織りをしている妹を足蹴りした。妹は罪悪感とショックのあまり家を飛び出し行方不明になった。
 その後、思いがけない不幸が次々と生じた。やがてスタンダリ(ずぶ濡れ)になった彼女の霊魂姿が、アームルティ海岸に顕れた。島の人びとは、これたただの女ではないと悟り、この地を聖地として祀るようになった。

 沖縄の夏のスコールは、一瞬のうちに降り出す。気が付いたときには洗濯物を濡らすことはよくある。この伝説で、妹が機織りに夢中になって雨に気付くのが遅れてしまったことは、沖縄の気象条件を考えれば、強く責めることは酷な面がある。でも、兄が愛すべき妹を足蹴りにしたのは、稲束を濡らせば「命にも代えられない1年の働きを無にする」、つまりは年貢の完納が果たせなくなることの重大さがある。この伝説の背景には、過酷な人頭税があるだろう。それがなければ生じなかった痛ましい出来事といえるだろう。 
         、       小浜島結願祭 小浜島の結願祭(竹富町役場HPから)

 サクッピィワン(佐久伊御嶽)
 昔、元黒島の東船道家の人であるツカー(神司)がいた。彼女は賢明過ぎて時の役人から煙たがられた。やがて島から追放される運命となった。
 彼女をホールザーマイ参りにかこつけて乗船させ、目の悪いのを幸いに、途中嘉弥真島に降ろしてしまった。島では1751年に、5戸による小集落が創設されていた。島の南東海岸辺りに自ら御嶽を創設してそのツカーになった。
 後に5戸の人々は、島に水はなく天水に頼り生活に困り果て、小浜島に戻ることになった。目の不自由な司を連れ沿って船崎寄りのナイマンツ(地名)に渡り休憩した。山道、野道を通って集落入りし、カイマメーカーで休憩した。多分ここで腰を据えて先触れ幸いを祈願したのであろう。このような経過で小浜島で生涯を送ることになるが、やがて仲山の聖地に神として祀られるようになる。
 その理由は、死に臨んで「黒島の人には塩水を飲ませ、小浜島の人々には真水を与え給え」と遺言したからである。皮肉に事実黒島の地下水は湧き出ることなく全域塩水だらけであった。小浜島は地下水に恵まれ島内いたるところに井泉が湧き出ている。
 ナカヤマワン(仲山御嶽)の神は水の神と伝承されている。因縁のあることから、姉妹神として祀られるようになったのであろう。
 
 この伝説は、賢明過ぎるために役人から煙たがられ、黒島から追放された女性の悲劇である。ツカーが恨むべきは本来、黒島の役人であり、黒島の住民ではないはずである。視力に障害のある女性が役人から島を追われ、黒島を恨むというこの歌の背景にも、やはり人頭税のもと、役人の身勝手な振る舞いがまかり通った王府時代の島の現実があるのではないだろうか。 
 黒島は確かに島の地下を海水が流れており、井戸を掘っても海水混じりだと聞く。一方、小浜島は水に恵まれている。多分、ツカーの女性の遺言でそのようになったのではなく、昔からの黒島と小浜島の自然条件の違いを前提にして生み出された伝承なのかもしれない。
 終わり
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かふぬ島 小浜島、その3

明和の大津波
 小浜島も明和の大津波(1771年、明和8年)に襲われた。しかし、幸いにも被害は比較的少なかったという。『小浜島 竹富町史第3巻』から紹介する。
 大津波による被害状況が『大波之時各村之形行書』に詳しく記録されている。
 小浜島は住民は男388人、女512人の合計900人いたが、大津波が石垣島と同時に揚がり、男2人、女7人、合計9人が公務で石垣島に出かけていて溺死した。しかし村にいた男女891人は無事だったという。その内より男148人、女172人の合計320人を宮良村(石垣島)へ寄百姓(強制移住)した。男238人、女333人、合計571人残った。
 記録をみる限り、小浜島の状況はほかの島と比べて極めて軽傷だったという。

  大津波の死亡行方不明者は八重山全域で9313人、群島人口32・22%に達した。小浜島はなぜ大きな被害から免れたのだろうか。
 牧野清『八重山の明和大津波』でつぎのようにのべている。
 <小浜島は竹富や黒島、新城など隆起珊瑚礁の島とは違って、島の中央部に99・4メートルの大岳があり、島全体が高いので周辺の低地がいくらか洗われた程度であったらしく、作物被害畑が9町余、作物被害殿が11町余あったのみで、人の被害については蔵元へ公事のため出張していた9人の死亡者があっただけである>。

 地形的に津波の被害を受けにくかったと見られる。この面でも「果報の島」といえるのかもしれない。

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パナリ焼とザンの島・新城島,その6

「世果報節」(ユガフブシ、上地島)

 新城島を発祥の地とする「世果報節」もよく知られている。
 『竹富町史第5巻 新城島』では、次のように解説している。
 新城島をたたえ、農作物の豊かな実りを予祝した、めでたい内容の歌詞である。豊年を迎え、上納も無事に済み、家々では残った五穀をシラ(稲叢のこと)にして蓄え、お酒を造って、老若うち揃ってうたい踊る様子がうたわれている。慶田城用舛が新城村の与人時代に作詞作曲したと伝えられている。 
 音階は八重山では珍しい律音階(※)で、三線の調弦は三下調である。曲名はうたいだしの囃子詞から、《サーサー節》とも呼ばれている。
結願祭にはこれに振り付けた舞踊が奉納される。
※律音階とは、主に雅楽や声明=しょうみょう=などで用いられる五音音階。洋楽階名のレ・ミ・ソ・ラ・シの5つの音からなる。
                 
                             世果報節
歌詞は次の通り。
1、サーサー (サーサー<囃子詞>) 以下ハヤシは略
むかしからとぅゆむ ぱなりでるしまや たかにくばくさでぃ スリ
 うやきめなし ウネ シタリガヨー ンゾ シトゥデントンテン
2、とぅしどぅしぬ むじくいや みぬり でぃきぃでむぬ すんじゃなしみむぬ うはちあぎら
3、やぐとぅくらぐらに ちんあますくくや さきみしゆちくり ゆわいあしば
4、しらぎゆきかめる とぅしゆりやあまた かみざしにいむり くくるうりしゃ
5、さんぬかじしらん ぱがむぬぬまぎり うたとぅさみしん たちゃいむちゃ

歌意は次の通り。
1、昔から評判の 新城島は 高根久(※)を腰当に(背にして) 裕福を前にしている
  ※高根久(タカニク)は人工的に石を積み上げて造った物見台のこと。
2、年毎の農作物は 稔り豊かである 首里加那志(国王)への貢物は 御初の米をあげましょう
3、各戸の倉々には 積み余った穀物は 酒や神酒を造り 祝して遊ぼう
4、白髪雪をいただいておられる 年寄は数多く 上座に仰いで 心嬉しいものである
5、数えきれないほどの 若者が集い 歌と三線に 踊ったり跳ねたり

 題名の通り、豊かな自分の島を褒め、豊穣の世を祝う内容である。豊作の時は、家ごと倉ごとに穀物を積み余し、お酒を造って祝ったことがうかがわれる。お年寄りを上座にかざって大事に扱い、若者たちは歌三線を奏して舞い踊り楽しんだ様子がつづられている。
  ところで、八重山古典の調弦法は本調子・二揚・一揚調・三下げ(一二揚)の4通りある。八重山は本調子と二揚曲がとっても多いなかで、この曲は唯一、珍しく三下げの曲である。なぜこの曲が三下げになったのだろうか。
この曲は、沖縄本島で「サーサー節」として歌われている。ただし、琉球古典音楽の「サアサア節」と民謡の「サーサー節」がある。古典の「サアサア節」は、新城島の「世果報節」のように、最初の歌いだしに「サアサア」と入らない。途中と終わりに「サアサア」と入る。囃子の使い方が異なる。なにより、旋律が「世果報節」とは似ていない。
民謡の「サーサー節」は、私も今を練習しているところだ。歌詞は「月の夜やさやか 寝ても寝てられない 友達を連れて 遊ぼう みんな近寄って来いよ 友達よ」というように月の夜に遊ぶ歌。まったく異なる内容だ。でも「世果報節」と同じく最初の歌いだしに「サーサー」と入る。曲の旋律が「世果報節」とほとんど一緒である。

  「世果報節」は村褒めの豊年予祝の歌だから、明るく、祝いの雰囲気で演奏する。だが、「サーサー節」は、しっとり情感豊かに歌えば聞き惚れる曲だ。同じ歌をベースにしていても、歌詞を変えて、少し編曲し演奏の仕方、歌い方を変えただけで、これほど違う印象になるのかと不思議な感じがする。それは「くいぬぱな節」でも同じである。
  「世果報節」が新城島で生まれた曲であることは確かだが、上原直彦氏は、ラジオの民謡番組で「サーサー節」を流した際に、奄美にも「大島サーサー節」という曲があると話していた。
『南島歌謡大成(奄美編)』『日本民謡大観(奄美諸島編)』をめくってみたが、その曲名は見当たらない。ネットで検索すると「ラジオ喜界島」の「喜界島の島唄」のなかに、喜界島志戸樋(シトオケ)集落の「サーサー(座踊り歌)」があった。録音を聞くことができる。とても軽快な曲だ。ただ、歌詞と解説はまだ記載がないので、聞いただけでは歌の内容までつかめない。囃子として、「サーサー」や「シトゥテンヨウテン」が使われている。この囃子は「世果報節」で使われている「サーサー」「シトゥデントンテン」と似ている。曲調、旋律は、あまり似ているわけではない。「サーサー」という囃子だけならどこにでもありそうだ。でも、「シトゥデントンテン」もいっしょに使われているとなると、はたして偶然なのか、それともなんらか影響があったのか。真相はいまのところ不明である。







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パナリ焼とザンの島・新城島、その5

 「くいぬ端節」(クイヌパナブシ)
 新城島を代表する民謡といえば、「くいぬ端節」だろう。この曲は、沖縄本島では「恋の花」としてまるっきり異なる歌詞で歌われている。私も民謡サークルではずっと歌ってきたが、八重山古典民謡の元歌は、歌いだしてまだ半年ほどである。
『竹富町史第5巻 新城島』では「越ぬ頂節」(上地島)として掲載されている。

《越ぬ頂節》は新城を代表する民謡である。歌詞は8・8・8・6音を基調として琉歌形式で、「~に登って~を見れば~である」という、国見歌の類型的表現を借りながら、クイヌパナから見た四方の景色や風物をおおらかにうたっている。
  第1節は布晒しをしているマカ女の姿、第2節はマチ男のタコ捕りの妙技、第3・4節は男(夫)が捕ったタコをクヤマ女に与えるのを見て嫉妬する妻の様子、第5節はユリの花に見紛うマル女のカカン、第6節は沖を走る帆掛け舟の情景、第7節は航海の予祝がうたわれている。
  とりわけ第7節で「かりゆし」の言葉とともに出てくる「いぬのかじ」も、航海の無事平安を予祝するめでたい語として、古くから使われていた語であることを記憶しておきたい。
 
 歌詞は次ぎの通りである。
1、くいぬぱなぬぶてぃ はまさきゆみりば まかがぬぬさらし みむぬでむぬ
2、うふいしにぬぶてぃ まいびしゆみりば まちがたくとぅりゃ  うむしりきょーぎん
3、まちがとぅたるたくや くやまにうちわたし うるいしとすいてぃ わたしゃるきにゃよ
4、すばにたちゅるひょうや りんちなむぬやりば なびとぅまかいすいてぃ うちわたきにゃよ
5、うふどぅむるぬぶてぃ あがるかいみりば ゆりやはなでぃみりば まるがかかん
6、たかにくにぬぶてぃ にしヰぬとぅゆみりば かたふぶにでぃみりば まふどぅやゆる
7、かりゆしぬふにや かりゆしなぬしヰてぃいぬぬかじでぃみりば  はるがちゅらさ
  
  歌意を紹介する。
1、クイヌパナに登って、浜崎(地名)を見ると、マカ(女の名)の布晒しは 見事なものである
2、大石に登って マイビシ(海の所名)を眺めると、マチ(男の名)の たこ捕りは 面白い狂言のようだ
3、マチが捕ったたこは クヤーマ(女の子)に打ち渡し、珊瑚石の付いたまま 渡して来たよ
4、側に立っていた本妻のヒョウは恪気な女なので、鍋や茶碗など一緒に 打ち割ってしまった
5、大道盛に登って 東の方を見れば、百合の花か見れば マルという女の 下裳(腰巻のようなもの)であった
6、高根久に登って 北方の海を見れば、片帆船(一本マスト)と見れば、 真帆船であった
7、嘉利吉(めでたい)の船は嘉利吉を乗せて 嘉利吉おだやかであれば 走る早さの見事さよ 
                      新城島 (2)
              民謡に歌われた「くいぬぱな」とそこからの眺め(『竹富町史第5巻新城島』から)
 この曲は、高い所から眺めた島の情景が歌われる。女性は布晒、男はタコ捕りをしていると島ののどかな風景を歌っているかと思うと、場面は一変する。
 男(夫)が他の女性に蛸やサンゴ石をあげて、妻が嫉妬に荒れ狂う。暮らしの必需品である鍋や椀を叩き割る。怒りの激しさが伝わる。これだけの短い歌のなかに、ドラマが凝縮されている。いかにも島の日常生活の中から生まれたなかなか面白い曲である。

 音階は琉球音階である。
 安里武康は、「《くいぬぱな節》は本調子の軽快なリズムで、歌も踊りも楽しいものです。島人の楽しい集いには雰囲気が頂点に達すると、どこからともなく自然に沸き起こり大合唱となる我が愛するパナリの歌です」と紹介している。
  新崎善仁は《越ぬ頂節》の面白さについて、「速度を早めれば『雑踊り』の伴奏に適し、また、ゆっくり弾奏すれば見事な琉球古典音楽に様変わりする独特な味をもっている。このような幅広い多様性をもっている民謡はそう簡単に創れるものではない」とのべている。
  結願祭ではこれに振り付けられた二才踊りが奉納される。 
 
 本島で歌われる「恋ぬ花」は、歌の内容はまるっきり異なる恋歌である。上手な人がしっとり歌うととても情感のある曲だと思う。ところが元歌の「くいぬぱな節」は「軽快なリズムで、歌も踊りも楽しいもの」と聞いて、意外な感じがした。でも、歌詞を見ればなるほど、と納得がいく。
 話しは、少し横道に入る。私が使っている工工四(クンクンシー、楽譜)は、大浜安伴さん編集のものであるが、3番の歌詞に「うるいしとすいてぃ」の部分を「居る石と添いてぃ」という漢字を当てている。「居る石」とはいったいなんだろうか、と歌うたびに疑問があった。『竹富町史第5巻 新城島』によれば「うるいし」とは珊瑚石のことだと解説している。それで歌の意味がわかった。
 「うる」とは砂・珊瑚を意味しているので、「居る」の字を当てるのは誤解をまねくのではないだろうか。當山善堂氏は『精選八重山古典民謡集(三)』で、「珊瑚石(うーるいし)とぅ添いてぃ」と表記し、「居る」ではなく「珊瑚」の字を当てている。
 八重山民謡は歌詞が長いので、全部は歌わず、省略するのが通例になっている。人によっては、この曲の3,4番の歌詞は下品だからといって飛ばして1,2番から5,6番に飛ばすことがある。でも、この曲の歌詞は、くいぬぱなから眺めた情景が描かれ、一つの物語のように展開される。男が他の女性と仲良くする光景を目にして嫉妬するシーンがとてもユニークで、意外性のある歌詞なので、これがないと面白味に欠ける。下品といえば、5番の歌詞のほうがもっと品がないと思う。でも、八重山の民謡は、性描写を含めて素朴でおおらかに描くところに、古い時代の歌謡が描く人間模様の面白さがあるように思う。
  この曲でもう一つ難問がある。6番の歌詞にある「片帆船と見れば、真帆船であった」というくだりをどう解釈するのかということである。
  喜舎場永珣氏は『八重山民謡誌』で、この曲について、次のように解説している。
「人頭税時代には新城島にかぎって、米石の外に『ザン魚』の肉(海馬)を首里王府へ献納する規定であったが、その捕獲する船は他船と異なり「一本マスト」、すなわち片帆船であった。
  自分の良人(おっと)が、献納ザン魚を捕りに行ったが、数日になるまで帰島しないので良人を愛する妻は、人目を忍んで一人北方にある高根久と称する「盛り」に登って、北方(石垣島方面)を展望していると、地平線上に帆がちらっと見えたので、これはまさしく我が良人のザン捕りの片帆船だと糠喜びしていた所、近づくにつれよく見れば、船は真帆であった。妻の失望落胆はいかばかりであったろうかの意」とのべている。
  ただ、當山善堂氏はこの解釈には「違和感があります」とする。片帆船を「ザン魚」と結びつけ、「良人を心配する妻」という解釈は「深読みしすぎではないか」と疑問を持っている。ただし、なお「検討・研究を深めたい」としている。
 「片帆船と思って見ていたら真帆船だった」という歌詞が、たんなる情景描写で、そこになんの意味合いもないとすれば、歌として単純すぎる。島の男たちがザン捕りに船で近海に出かけていた習俗からみて、妻が夫のことを心配して海を眺めることは日常の光景だったのではないか。ザン捕りから帰って来た船かと思って見ていたら、別の船でがっかりするということも、ありうることだろう。素人の私としては、喜舎場氏の解釈は捨てがたいと思う。この歌詞には、なんらかの背景があり、意味合いが込められているのではないか、と思うからである。

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パナリ焼とザンの島・新城島、その4

 新城島を舞台にした民謡
 八重山古典民謡を歌っていると、新城島を舞台にした曲がいくつもある。小さな島なのに、なんでこんなに名高い歌があるのだろうかと不思議に思うほどである。
 新城島と聞いて真っ先に思い浮かぶのが「仲筋ぬぬべーま節」である。でもこれは、新城島で作られ歌われている曲ではない。
 竹富島の曲である。なのになぜこの曲を最初に取り上げるのかといえば、これまで紹介したような島の特産であるパナリ焼や貢納布を織るのに必要な苧麻が歌われているからである。

 「仲筋ぬぬべーま節」は、パナリ焼と交換で新城村の与人(ユンチュ)の賄女になった竹富島仲筋のヌベマの悲話が歌われている。その物語を『竹富町史第5巻 新城島』の「パナリ焼とシルミブー(白身苧)」から紹介する。
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                哀切な情感がこもった「仲筋ぬぬべーま節」聞かせてくれる唱者、杉田園さん

  パナリ焼とシルミブー(白身苧)
  良い御用布を仕上げるためには、まず良質な苧麻を得ることが先決条件である。竹富島行政の最高役である玉得与人は、八重山では新城島の苧麻がもっとも良質でしかも長尺であることを知った。すなわち当時評判高かった新城島の白身苧(シルミブー)である。これで織った御用布は、色艶がまことに良いという評判であった。そこで、竹富島の玉得与人は新城島に渡り、新垣与人にこの良質の苧麻の種子をもらいうけること、あわせて新城島の新城焼の赤甕を竹富村番所にもらいうける交渉をはじめたのであった。ところが新垣与人も、玉得与人に対して望むものがあった。新城島には新垣与人のよき賄女がいないから、竹富島から適当な乙女を選んで贈与してほしいというのだ。村ではなかなか協議がまとまらず、ついに意を決して竹富村番所に奉公している仲筋部落出身の幸本大和の一人娘ヌベマを賄女に差し出すと決定してしまった。この玉得与人の万感胸にせまる感情がそのまま歌になったのが有名な『仲筋ヌヌベマ節』である。後任の与人は、ヌベマの悲哀な話を聞いて同情し、その犠牲的精神に感激して、沖縄への「銘入りの琉球焼の水甕」を注文し、ヌベマの生家・寺本家へ寄贈した。(元資料大浜信賢著「人頭税とヌベーマの悲劇」)

 琉球王府の時代、八重山の離島や石垣島の遠島地にある村番所に役人が派遣されていた。単身で赴任する役人の身の回りを世話する「賄い女」が置かれていた。賄いといっても、結局は現地妻である。
  竹富島の役人が、上納布の原料である苧麻と素焼き甕を得るために、産地である新城島(パナリ)の役人から条件として要求された「賄い女」の派遣を受け入れた。その犠牲になったのが仲筋のヌベーマだった。
歌詞は次の通り。
1、仲筋ぬぬべーま ふんかどぅぬ女童 スリヤゥ イユサーヤゥヒーユーサ
2、一人(プィトゥリャ)ある 女(ミドゥ)な子(ファ)た ヌギャ居る 
 肝(クィム)ぬ子 以下ハヤシ略
3、ぱなり夫(プドゥ)持つぁしょうり うどぅぎゃ夫持つぁしょうり
4、なゆぬわん持つぁしょうる 如何(イキャ)ぬつぃにゃん 持つぁしょうる
5、白ぬ苧(ブ)ぬゆやんどぅ 赤がみぬつぃにゃんどぅ
 
 歌詞を訳文で紹介する(同書から)。
 「♪仲筋村のヌベーマは その村の娘は 一人っ子の女の子であった たった独りの気に入り娘であった パナリ(新城島)の役人に嫁がせた 気に入りの夫に嫁がせた 何ゆえに嫁がせたのか いかなる理由で嫁がせたのか ブー(苧麻)を手に入れるために 素焼きの水瓶を得るために」
 
 この曲は、「一人娘を送り出した親の自責の念と娘への憐憫の情が、ひきしまった旋律に乗せて描かれている」(當山善堂著『精選八重山古典民謡集』)といわれる。
 ただ、自分でいざ歌おうとすると、節回しがなかなか難しくていまだに歌いこなせない。しかし、プロが歌うと、とっても哀切な感じが伝わる悲曲である。


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パナリ焼とザンの島・新城島、その3

人頭税時代と新城島の暮らし
 『竹富町史第5巻 新城島』から紹介する。
 1750年(乾隆15)5月3日付けの「覚」…には新城村の与人(ユンチュ、村長格)や目差(メサシ、助役格)らがその前年に蔵元に提出した「覚」も添付されていた。その「覚」によると、新城島はもともと土地が狭い上に、石ころだらけの痩せ地であった。他の村に比べると、同じ面積の土地を耕すにも2倍の労力を要し、しかも収穫は5分の1程度であった。
 そこで百姓たちは、1722年(康熙61)に古見村(西表島)の「崎枝」に通って耕作するようになった。新城島では、水も塩分の濃度が高かったので、生活用水は「崎枝」から運んでいた。また、薪も少なかったので古見から採って来た。それでも農業だけでは生活するのは難しかったので、水甕や炉や土鍋などの焼物をつくったり、筵(ムシロ)や箕(ミノ)などの農具を作って、石垣島や西表島の村々で売り歩いて生活の足しにしていた。1739年から1746年の間に数回も「大風」(台風)に見舞われたので、百姓らは草の葉やそてつなどを食べて生き延びた。
 (注・西表島の大野ヤスラ、仲間野、崎枝、やしら野に通って作物を作り、南風見にも耕作地があった。
家を造る材木や、通耕に必要な舟を造るための材木なども切り出した。)

 明和の大津波
 大きな被害を受けたのは、離島では黒島と新城島であった。両島とも平坦な小島であった 新城島の人口554人(男305人、女249人)の内205人(男70人、女135人)が溺死した。島の総人口の37%にあたる。住家全壊は184戸、畑の流失は100町歩に及んでいる。349人が生き残り、もとのとおりに村を再建した。
 新城島の人口は、疫病などで減少し続け、1873年(明治6)には167人となった。その後、人口は徐々に増えて1933年(昭和8)には最高の555人となり、大津波前の人口を上回った。 
                       ジュゴン、鳥羽水族館
                   ジュゴン(鳥羽水族館HPから)
 ザンの捕獲から(島人の暮らし)
 昔の新城島では焼畑農業が行われ、毎年10月頃から荒野を焼き払い開墾し、粟播きをするが、粟播きが終わると、旧暦1月頃にかけて、厳しい冬の寒さにもめげず、海を渡ってソーデー(現在の西表島大原)に、近親者同士でグループをつくり男世帯で泊まり込み、田植えをした。田植えが済むと休養を取る暇もなく、1週間から10日くらい島を離れ、西表島、小浜島、石垣島の沿岸を次から次へと回航し、ザン捕りに精を出したという。

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