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レキオ島唄アッチャー

「独孤伽羅―皇后の願い」の面白さ、その3

 隋を建国した楊堅
 楊堅の政治についてみておきたい。
 楊堅は都を大興城(後の長安)とした。そして後梁や陳を滅ぼして、中国全土を統一した。西晋の滅亡以来、約300年にわたり続く乱世に終わらせた。
 内政では、「開皇律令を公布、中央官制を三省六部に整え、さらに地方に対しては郡を廃して州・県を設置した。また、官僚の登用においても九品中正法を廃止し、新たに科挙制度を設けた。さらに貨幣の統一、府兵制や均田制などの新制度を設けるなど、中央集権体制を磐石なものとした。また、仏教の興隆にも尽力し、その仏教を重視した政策は、仏教治国策とまで称せられた」(ウィキペディア)。
  
 皇太子に立てていた楊勇は、奢侈で多くの側妾をもち、正妃を疎かにしたため、廃嫡された。次男の楊広(後の煬帝)が代わって太子に立てられた。楊堅は病の床についている時、楊広が楊堅の寵愛する宣華夫人に手を出そうとしたこと聞き、怒って廃嫡しようとして逆に殺されたという説がある。ドラマ「隋唐演義」は、この説で描かれていた。
 だが、即位した煬帝は、奢侈な生活に女好みだった。大運河の建設、高句麗遠征を繰り返し、民衆に負担を強いる圧政に不満が広がり、各地で反隋の反乱が起きた。
     
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        伽羅と結婚した楊堅(テレビ画面から)

 曼陀の子が隋を滅ぼす
 反乱を起こした勢力の中に、李淵がいた。太原留守であった。挙兵すると、煬帝の留守中の都、大興城を陥落させた。
 煬帝を太上皇帝に 祭り上げて、その孫恭帝侑を傀儡の皇帝に立てた。江南にいた煬帝が殺害されると、李淵は恭帝から禅譲を受けて即位し、唐を建国した。唐公国の称号を持っていたことから「唐」を名乗った。

 ドラマでは、曼陀は伽羅を嫉み、陥れる策略を巡らせたと描かれている。実際の歴史でも、曼陀と伽羅の姉妹を母親とする李淵と楊広は従兄弟である。その李淵が煬帝を打倒し、叔父にあたる楊堅が打ち立てた隋を滅ぼしたのである。姉妹の因縁がこんな形で現れたともいえる。
 
 唐を建国した時点では、まだ中国の各地に挙兵した群雄が割拠していたが、李淵の次子李世民が討ち滅ぼしていった。皇太子は、李淵の長男、李建成だった。だが、李建成が追い落とし図ったことを事前に察知した李世民は、李建成と弟の李元吉を殺害し実権を握った。
 李淵が退位すると、李世民が第2代の皇帝となった。血にまみれた皇帝即位だったが、李世民は、名君として知られ、その政治は「貞観の治」として名高い。その治世について書かれた『貞観政要』は、広く日本や朝鮮でまで帝王学の教科書として読まれた。李世民は、北周の宇文泰の外曽孫にあたり、北周の歴代皇帝とは血縁関係にある。
 皇帝の後継を巡っては、兄弟間での争いは珍しくない。このあたりは既にドラマ「隋唐演義」で見た。その時はまだ、南北朝時代の歴史はよく分からず、南北朝時代から隋、唐を巡る攻防に、こんなつながりがあるとは知らなかった。ましてや、独孤家の三姉妹のからみがあるとは、まったく想像できなかった。
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              アシナ公主と結婚した武帝(テレビ画面から)

 突厥を巡る政略結婚
 北周から隋、唐の時代に活躍し権力を握った人々のルーツを見ると、匈奴や突厥、鮮卑系など辺境の地出身者が多い。宇文泰の祖先は匈奴系だが、彼は代郡武川鎮(現在の内モンゴル)の生まれで鮮卑の人だという。独孤信は突厥系である。李淵の一族は、実際は鮮卑系の出自で「中原の支配権を正当化するために自身が漢民族の末裔であることを主張した」とか「武川鎮出身で鮮卑国粋主義復興の風潮が強かったから、元は漢人だったのが鮮卑化した」といった説が主流である(ウィキペディアから)。
  匈奴は5世紀まで中央ユーラシア東部に一大勢力をもち遊牧国家を築いた。突厥は、6世紀に中央ユーラシアに存在しテュルコ系遊牧国家。鮮卑は遊牧騎馬民族で南北朝時代には南下して北魏を建てた。

 ドラマ「独孤加羅」の中で、交戦中の北周と北斉が突厥を味方につけようと、それぞれアシナ公主(阿史那)との政略結婚を企てる。危険な任務を担う勅使となった楊堅が突厥王を訪ねるが、王はすでに北斉と手を組んでいて、楊堅は捕らわれるシーンがあった。突厥とは対立関係にあると思っていた北周が、突厥のアシナ公主と政略結婚を求めるということが、不思議だった。
 アシナ公主は、突厥の木汗可汗(ぼくかんかがん、可汗は王号)の娘だった。西魏の宇文泰は東魏や北斉と争うため、突厥の援助を借りた。北周の武帝が即位すると、北周と突厥の間に数回の使者の往来があり、彼女が武帝の許に嫁ぐことが決められた。北周から120人が迎えに赴いた。婚姻を約束していた木汗可汗は履行しようとしなかった。たまたま落雷と大風が起って、ゲル(家屋)を突風で吹き飛ばしたため、天の譴責出ると考え、礼をもって彼女を送り出した。皇后に立てられた(ウィキペディア)。

 これが、北周の武帝の正室、阿史那皇后である。武帝の長男、宇文贇(うぶんいん)が即位すると皇太后になった。鮮卑系国家・北周と突厥の同盟のため、武帝に嫁いだとされ、政略結婚だった。
 ただ、武帝の跡を継ぐ宇文贇は、阿史那皇后との子どもではない。ドラマでは、宇文贇は側室との子どもで、それをアシナ皇后が育てることになる。
 側室とは、西魏が梁の都・江陵を攻め落ちした時連行された李蛾姿(りがし)。父の宇文泰は、彼女を宇文邕の側室にした。美しかった彼女は宇文邕に寵愛され、宣帝・宇文贇と漢王・宇文賛を生む。宇文賛は、楊堅が皇帝の座を奪うと処刑されることになる。
 
 なぜ、皇后がいるのに、側室の子どもを皇太子にしたのか。ドラマで武帝は「突厥との子どもを皇帝にするわけにはいかない」と語るシーンがある。
 <武帝は突厥出身の彼女を好きではなくそっけない態度でした。同盟のための形だけの皇后でした。北周と突厥の関係を心配した臣下たちは宇文邕を諫めたので、阿史那氏を大事にするになったといいます。(「中国韓国の歴史ドラマの史実」から)>
 この時代の政略結婚としては、逆に、北周から突厥に嫁ぐこともあった。隋代には、義成公主のことが知られている。
 突厥の啓民可汗(けいみんかがん)は、597年安義公主を娶った。その安義公主が亡くなったため、楊堅は、義成公主を啓民河汗に嫁がせた。啓民可汗が亡くなると、レビラト婚に基づいてその子の始畢可汗(しひつかがん)に嫁いだ。
 
 <ある日、始畢可汗が隋を遠征しようと計画をした際に、彼女はひそかに煬帝に使者を派遣して、このことを知らせた。後に始畢可汗が逝去すると、その弟の処羅可汗(しょらかがん)に嫁いだのである。処羅可汗が逝去するとその弟の頡利可汗(けつりかがん)の妻となり、可汗夫人として地位を保った。…
 やがて、李淵が中原を制覇して、唐の時代を迎えると彼女はこれに不快感を示した。同時に煬帝の皇后であった蕭皇后が孫の楊政道と突厥に逃れると、彼女はこれを受け容れた。以後、彼女は夫の頡利可汗を唆して、唐と幾度も争った(ウィキペディア)。>
 突厥王に嫁いでも、隋の出自という立場は変わらず、貫いたようだ。
 ここで、レビラト婚について触れておく。父兄が死んだとき、子弟が妻妾をそのまま娶る習俗が「レビラト婚」である。匈奴やモンゴル族などユーラシアの遊牧民の間では、そういう習俗があった。ドラマ「武則天」でも似たようなことがあった。太宗の側室だった武則天が、太宗が死ぬと太宗の子である李治、後の高宗と結婚し皇后となる。中国でも、漢民族から見れば不道徳のように見えるけれど、隋や唐の皇帝の出自から見ると、違和感はなかったのだろう。
 続きは次回へ
 
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比嘉加津夫氏の平敷屋朝敏論、その4

 「手水の縁」の作者論争への見解

  
  平敷屋朝敏の作った組踊「手水の縁」について、池宮正治氏が朝敏の作品ではないと主張し、それに西銘郁和氏が反論するという論争が行われた。池宮氏は、その理由として①組踊は王府主催の公営の演劇で、封建イデオロギーが注入されている②冊封使渡来の時上演されている③作者は踊奉行である⑤朝敏には文化英雄的面があるなど(以下略)6つの疑問点をあげている。
  この論争にかかわり、比嘉加津夫氏は、次のような見解を表明している。
 提起された「事実」や「資料」のみでは「手水の縁」が朝敏作から大きく位置をずらし、別の場所に立つということは考えられないということだ。…
  文学者を対象にあげて論をすすめる場合、作品論は必須の条件となるが、この論争では全く「作品世界」は無視されている。あまりにも早く説<結論>を出し、はやばやと居座りを決めてしまったという感じがしないでもないのである。…
「作品」と「作者」のかかわり、「作品」と「時代」のかかわりといった面を余りにも軽く見すぎたという気が強くするのだ。もっとも不都合になる「作品世界」の問題は意識的に避けているという感じさえおこさせる。…
 私見では、この点は池宮氏の論説の根本的な欠陥であると思う。
             瀬長島の歌碑
                     瀬長島にある平敷屋朝敏の歌碑
 (組踊への封建イデオロギーの注入について)
 支配層が儒教倫理や封建イデオロギーをとなえているという面のみが、時代の様相のすべてでは決してなかったということだ。(玉城)朝薫や朝敏らと同時代を生きたと言っていい士族らがあれほど「許田の手水」(注・「手水の縁」のもとになった伝説で、多くの人によって書かれている)に関する歌を残していたということは、さらに深層に多くの声にならない声、自由恋愛を憧憬する、あるいは指向する心性があったということを意味しているはずだ。…
  「組踊」なるものはすべて、儒教倫理を最大限に発揮すべきものであったということにはならない。…
  創作は、最終的には時代環境とでもいうべき思考様式と作者の内面(意識)に大きく規定されて生まれてくるものなのである。当時は、封建イデオロギーが様式として流れていた時代環境ではあったが、それに不満をもった人々も同時に存在したのであり、それだけが時代をつつんでいたわけではない。それについては、何よりも朝敏の擬古物語が証明しているし、「許田の手水」をうたった士族らの声が証明している。…

 (冊封使渡来の際の上演について)
  池宮氏が言っているのは、当時組踊は冊封使渡来の際に上演されたということ(しかし、渡来の際にのみ限って上演されたという資料はない)ということ…(しかし)「組踊=冊封使歓待用演劇」という部分からはずれていく考えは、さっさと欄外に置かれてしまうのだ。…
 <組踊は19世紀に入ると、首里三平等の盆祭に提供されたり、薩摩在番を招待して見せるなどのこともあるが、基本的に最後の寅の冠船まで、冊封使歓待のための芸能として発展してきている(池宮氏の著作の引用)>…
 19世紀以降であったという「断定」を裏づける確固たる資料があるのかどうか。…
                  朝敏妻の歌碑
                        宮城島にある朝敏の妻の歌碑
 私見であるが、池宮氏の引用部分は「盆祭に提供されたり、薩摩在番を招待して見せる」、つまり冊封使歓待以外にも上演することがあったという事実そのものが重要だと思う。
  池宮氏は「19世紀以降」と限定しているが、それ以前はなかったという証明はない。冊封使の渡来は、時に10年、20年の長い間隔がある。組踊という高い芸能力を要する総合芸能を維持し発展させていく上でも、日々の訓練だけでなく、上演する機会が求められたのではないか。本当に、冊封使の渡来の際に限り上演されたとすれば、琉球国王も冊封を受けた際に観るだけで、その後は在任中、一生涯にわたり観ることができないことになる。勝手な推測であるが、19世紀以前にも冊封使の渡来とは別に、上演する機会があったと考える方が自然ではないだろうか。

 (文化英雄的面について)
 この部分は、比嘉氏の引用文だけでは、朝敏が「文化英雄的面」をもっていたので「手水の縁」と結びつけられたという池宮氏の主張はわかりにくい。私見では次のことを意味するのではないかと思う。
  本来は「手水の縁」の作者は朝敏ではないのに、朝敏が処刑された悲劇の文学者として「文化英雄的面」をもったため、特異な組踊である「手水の縁」の作者と結び付けられ、それが固定化された。この説によれば、政治犯としての朝敏と「手水の縁」の内的な関連は、完全に断ち切られてしまう。
 
  この池宮説について比嘉氏は、次のようにのべている。
  愛の問題を内在的に深めていった平敷屋朝敏と「手水の縁」のもっている内容が自然に結びついていったはずのものであり、あるいは朝敏の事件と「手水の縁」のもっている反社会性とでもいうべき内容が重なっていったはずのものであって、決して文化英雄的側面と「手水の縁」が結びついていったということではない…あるいは朝敏の反制度的事件と「手水の縁」の反社会的思想が結びついていったのである。

  以上が、比嘉氏の評論で個人的に関心を持った部分のあらましである。
 評論を読んで感じるのは、「手水の縁」が朝敏の作品であるかどうかを判断するためには、朝敏の作品世界を分析することは「必須の条件」であること。作品で描かれた主題や人物の特徴、物語の内容と展開、作品相互の連関など、深く分け入って見ていけば、同一人物の作品であるか否かは見えてくる。
  実際に、比嘉氏は朝敏の一連の作品を検討して、「手水の縁」がそれ以前の朝敏の作品世界の延長線上にあるばかりか、新たな地平を切り開いた画期的な作品であることを立証している。
 それに加えて、当時の時代や社会体制と作品世界とのかかわり、作品がもつ意義とそれ故に担わなければならなかった作品の運命と朝敏の悲運について解明している。
  さらに、朝敏の反制度的事件と「手水の縁」の反社会的思想が結びついていった、とのべているように、後に処刑された事件と「手水の縁」は不可分の関係にある。その面からも「手水の縁」が朝敏の作品であることを明らかにしている。
これらの分析を通じていえることは、「手水の縁」が朝敏だからこそ創作できたということである。
  平敷屋朝敏の研究の上で、比嘉氏の著作は欠かせない意義を持っていることを改めて実感した。

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比嘉加津夫氏の平敷屋朝敏論、その3

 民衆の「熱い思い」を伝えた作品
 
  平敷屋朝敏の「手水の縁」が、当時の封建的な社会制度にあがらい、若い男女が自由な恋愛を成就するという、他に比類のない作品であったことを比嘉加津夫氏は、以下のように明らかにしている。
朝敏の「手水の縁」は、おそらくもっとも写本の多く現存している作品の一つである。組踊研究に長年うちこんでいる当間一郎氏は「手水の縁」の写本は、8種類ほどが現存していると言っている。最も古いものは多良間島石原家が所蔵しているもので道光28年(1848)のもの(略)で、残りは明治18年から明治39年までのものだという。
 そして、当間氏は
<「手水の縁」のみはごく初期においては、村踊りの世界ではほとんど演じられてなかったのに、このように写本が定着しているのはなぜか>
と問い、その理由について口碑伝承から、①表向きは歓迎されなかったが、若い人たちは非公式な形で多くのファンを持っていた、②それが恋愛物であったこと、③作品が首里王府へ反発して処刑された人だったためであろうという点をあげて説明している。
                安謝、朝敏処刑地の神社
       平敷屋朝敏が処刑されたと伝えられる那覇市安謝にある恵比寿神社
  この見解はかなりの信憑性を持っているのではないかと思われる。そして、その見解につけ加えるものがあるとすれば「手水の縁」の取り扱っている恋物語は、当時の社会制度に<アンチ>を提起したものであったということであろう。
 つまり、「手水の縁」は制度的儒教思想でもって民衆の心性を閉ざそうとし、自由恋愛を道徳的不義とみなして封殺しようとした時代の中から生まれてきた作品であったということである。そのため、制度が極度な姿勢でもって取り締まろうとした自由恋愛を、発想の基盤にして、作品をものにしたため、体制側から作品それ自体が一種のタブー本とみなされ、拒否されたのだろう。
 為政者にとって、自由恋愛は人心を乱らなものにするということで呪術行為や悪病のように嫌悪され、恐れられていたものの一つであった。どのような制度であれ、それが最高の形で保たれているということは、民衆一般の意識がその方向に向き直されていたということを意味する。制度の息づかいを首肯する形で動いていたということである。…
 「手水の縁」は、制度がもっとも嫌悪するテーマを積極的に追求し、そのため制度からつまはじきにされた作品であり、しかも作者が王府によって処刑された人だったためとみていいのではないか。現在の私たちは少なくとも、そのような制度や社会から遠くへだたったところでの思考にならされているため、たまたまそれらのことが奇異にみえたりするだけなのだ。だから「手水の縁」であろうが、平敷屋朝敏であろうが、蔡温や蔡温につらなる為政者であろうが対象化することができるのである。
  だが、すでに琉球処分が断行され、これまで王府及び薩摩支配が消滅していくと、またさらに民衆の無意識のかかえていたものが一せいにふき出してくる。そのひとつが「手水の縁」の蘇生にもつながっていたと言ってもいいのではないか。…
 写本が多く残っているということは、当時解禁された作品であるということも当然であるが、それ以上に多くの人々の無意識の中に潜在していた「熱い思い」をよく伝えている作品であったということのためではないか。無意識の層に抵触しない作品はどのような作品であれ生きられないし、残らない。また、それが作品の運命というものである。
                  朝敏処刑地の恵比寿神社の裏
             朝敏が処刑された場所と伝えられる恵比寿神社の社殿の裏
 又吉洋士氏の「朝敏研究小史」によると、廃藩置県以後、士族に独占されていた組踊が商業演劇でも演じられるようになり、中でも「手水の縁」は旧暦3月3日にはたびたび上演されていたとのことである。あるいは、明治45年(1912)4月20日の沖縄座上演で「濡れ場がリアル過ぎるということで中止を命ぜられた」とのことだ。…
 「手水の縁」は、歴史の中で二度の弾圧を受けたことになるわけだ。この時期「手水の縁」が解禁されるのは、大正3年(1914)3月であった。

 比嘉氏は、「手水の縁」が「自由恋愛を道徳的不義」とされた時代の中から生まれ、体制側から「一種のタブー本」とみなされたこと。王府時代だけでなく、廃藩置県後も上演中止を命ぜられ「歴史の中で2度の弾圧を受けた」こと。それにもかかわらず、組踊の写本が最も多く現存している作品であるのはなぜなのか。その理由として、この作品が自由な恋愛の成就を描いた「恋物語」であったこと、朝敏が処刑された悲劇の人物だったこと、「当時の社会制度に<アンチ>を提起したもの」だったことを指摘している。「手水の縁」が、民衆の間では無意識の中に潜在していた「熱い思い」をよく伝えている組踊だったため、抑圧の体制が終焉すると蘇生につながったことを明らかにしている。

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比嘉加津夫氏の平敷屋朝敏論、その2

理不尽な抑圧に立ち向かう

 比嘉加津夫氏の平敷屋朝敏論の紹介は続く。
  自由な恋愛は、それ自体が制度を越えようとし、理不尽な抑圧に対して反抗的に向かっていくものであり、統治者にとっては抑圧や抑制の対象とならざるを得ないのである。…
 「手水の縁」で朝敏は、閉塞した時代の緊迫性と自分の中で燃えたぎる心性の開放性を交差させたのである。…
「若草物語」や「萬歳」が<愛>ためにいのちを捨てる覚悟性で覆われているとすれば「手水の縁」は、<愛>のために制度をないがしろにする覚悟性が全面を覆っているといえる。もし朝敏が「文学」から「政治」の方向に意識を変容させていったとするなら、やはり現実世界を拒否して死の世界に向かっていった意識から現実世界でこそ抵抗していくという意識に、つまり<自死>から<生>の意識に変容していったことと重なっているはずだ。…
 朝敏が、愛の問題に執着したということは、これがより人間的で、より根源的なことがらであり、しかも時代性に深く密着していた問題だったからであろう。…

                     平敷屋朝敏の歌碑
                 うるま市平敷屋にある朝敏の歌碑

 朝敏を特異な表現者にしているのは、制度とか現実規範、現実観念といったものより、人間個々の内奥に宿る観念の方が大事なのだという思想の側にたっているというそのことによってなのではないか。…
 作品世界がすでに作者の未来を無意識のうちかこってしまっているのである。平敷屋朝敏は「国家の御難題」をたくらんだ悪逆悪道の族として処刑にふされた表現者だが、そのような死にざまを、作品世界がすでにかこっているのだ。 
 
 以上のように、比嘉氏は朝敏のその作品世界の内容と相互の連関を分析することによって、「手水の縁」がそれ以前の朝敏の作品と密接なつながりがあり、前の作品群の土壌の上に花開いた文学作品であることを明らかにしている。
また、「<愛>を蔵したものは現実世界で結ばれなければならない」こと、「自由な恋愛は、それ自体が制度を越えようとし、理不尽な抑圧に対して反抗的に向かっていくもの」であり、「現実世界でこそ抵抗していくという意識に」変容していったことを強調している。
そして、自由な恋愛を抑圧する封建的な社会体制の壁を乗り越えて、愛を成就さえるという文学的な達成は、他の文学者とは一線を画する「稀有な表現者」であることを解明している。
 「手水の縁」で描き出された作品世界が、のちに国家反逆の罪で処刑されるという未來の悲劇をはらんでいたこと、つまり文学作品と現実世界での政治行動が内的な連関があることを明らかにしたことは、「手水の縁」の作者論争でも重要な意味を持っている。
  比嘉氏はさらに、朝敏の文学観の飛躍の背景に「貧家記」体験があることを次のように述べている。     
                   朝敏の歌碑文
                     朝敏の碑文

(朝敏の作品世界の発展について)
 何が一体起きたのか。私はそれは「貧家記」体験(注・罪を受け首里から遠い領地の平敷屋に追いやられた)を持ったためというふうに原因は求められるのではないかと思っているのだ。…「貧家記」体験は、朝敏に、より現実意識を強いたはずだということである。どちらかというと感性や感受で現実世界に接していた朝敏が、いやおうなく現実世界に向かわざるを得なかったというのが「貧家記」体験であったのではないか。…

 私も、朝敏が滞在した平敷屋を訪れたことがある。そこには、朝敏のもとで農民の水不足を解消するため用水池が掘られ、その土を盛りつけて造ったと伝えられるタキノー(小高い丘)があった。朝敏を偲ぶ歌碑と碑が建てられている。
「朝敏は、薩摩支配下における苦難の時代に、士族という自らの自分におごることなく、農民を始めとした弱い立場の人たちに暖かい眼差を向けることの出来た、沖縄近世随一の文学者でありました」
碑文にはこのように記されている。
 「貧家記」にみるような農民との交わりやさまざまな労苦の体験を通じて、封建的な社会の現実と対峙する姿勢が養われたのかもしれない。
 
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比嘉加津夫氏の平敷屋朝敏論、その1

 比嘉加津夫氏の平敷屋朝敏論


 組踊「手水の縁」の作者で政治犯として処刑された平敷屋朝敏(ヘシキヤチョウビン)について、わがブログで取り上げてきた。拙著「琉球の悲劇の文学者 平敷屋朝敏覚書」では、「手水の縁」の作者は朝敏ではないという論説にたいして、素人なりの自分の考えを述べてみた。その際、関係する資料にいくつか目を通したが、「比嘉加津夫文庫」に収録されている「平敷屋朝敏(上、下)」「玉城朝薫・平敷屋朝敏ノート」(同文庫16,17,18)は残念ながら読んでいなかった。最近、やっとお目にかかって読んでみると、私の問題意識とかなれ共通する考察を早くからされていたことを知った。
 比嘉氏の著作から、私流に関心のあるところを、勝手な抜書きで紹介する。

比嘉氏の著作で注目したのは、朝敏の作品の内容を分析し、その作品世界の発展を時代とのかかわりを含めて評論していることである。
 朝敏の初期の作品「若草物語」は、大阪の住吉を舞台とした貧しい武士と遊女・若草の悲恋の物語である。近松門左衛門の心中物を思わせる主題である。「苔の下」は、琉歌の二大女流歌人である、遊女・よしやつると仲里按司(アジ)をモデルとした悲恋の物語である。
 次の「萬歳」は、安里の按司の息子・白太郎は勝連の浜川殿の真鍋樽金を一目見て恋に落ちるが、すでに地頭の息子に嫁ぐ身。二人が浜辺で死のうとする時、神の化身が現れて二人はめでたく結ばれる。
  この後「手水の縁」へと続く。波平村の山戸(ヤマト)が玉津(タマシン)と出会い、手水を汲んでもらった縁で結ばれる。しかし、親の認めない恋は許されず、玉津が処刑にされそうになるが、山戸の命がけの訴えが通じて二人は結ばれるという物語である。
                     朝敏の瀬長島の歌碑
               組踊「手水の縁」の舞台となった瀬長島に建つ朝敏の歌碑

 いかなる制度も愛や恋を縛れない
 
比嘉氏は、次のようにのべている。
 とげられぬ「思い」を抱き、それにうちひしがれてついに自死する「若草物語」や「苔の下」の流れから切れて朝敏は、ひたむきな思いは死後の世界ではなく、この世で結ばれなければならないという思いをこめるかのようにして「萬歳」をものにした。…
 「若草物語」や「苔の下」では、制度の厚い壁にねじふせられ、そのまま破局に向かっていくという形で物語世界は展開された。…
 「萬歳」では…制度の壁は厚く、一人の人の「思い」や「力」ではどうにも動かしえないはずのものとして存在していた。そのため…「神」の力に依拠し、制度の壁をおしのけるという方法へと向かわざるを得なかったのである。…
 だが「手水の縁」では、あの世とか「神」といったものを媒介にすることなく、二人は「思い」をこの世で実現していく。…
「いかなる天竺の鬼立ちの御門も 恋の道やれば開きどしゆる」(どんな天竺の鬼といえども、命をかけた若い男女の恋の道はとどめられない、という意味)というふうに、いかなる制度も愛や恋を縛ることはできないという信念を垂直に伸ばしていったのが「萬歳」であり「手水の縁」であったのである。…
 平敷屋朝敏は、ある時期を区切って「萬歳」や「手水の縁」の世界、つまり深い<愛>を蔵したものは現実世界で結ばれなければならないし、またそれは可能だという思いを持つに至った。ここに至る意識過程、意識の変様というものも朝敏を他の表現者とわけているところである。…
比嘉氏が「制度の壁」と呼んでいるのは、王府時代の封建的な「社会体制」と呼んでもよいのではないか。


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