レキオ島唄アッチャー

比嘉加津夫氏の平敷屋朝敏論、その4

 「手水の縁」の作者論争への見解

  
  平敷屋朝敏の作った組踊「手水の縁」について、池宮正治氏が朝敏の作品ではないと主張し、それに西銘郁和氏が反論するという論争が行われた。池宮氏は、その理由として①組踊は王府主催の公営の演劇で、封建イデオロギーが注入されている②冊封使渡来の時上演されている③作者は踊奉行である⑤朝敏には文化英雄的面があるなど(以下略)6つの疑問点をあげている。
  この論争にかかわり、比嘉加津夫氏は、次のような見解を表明している。
 提起された「事実」や「資料」のみでは「手水の縁」が朝敏作から大きく位置をずらし、別の場所に立つということは考えられないということだ。…
  文学者を対象にあげて論をすすめる場合、作品論は必須の条件となるが、この論争では全く「作品世界」は無視されている。あまりにも早く説<結論>を出し、はやばやと居座りを決めてしまったという感じがしないでもないのである。…
「作品」と「作者」のかかわり、「作品」と「時代」のかかわりといった面を余りにも軽く見すぎたという気が強くするのだ。もっとも不都合になる「作品世界」の問題は意識的に避けているという感じさえおこさせる。…
 私見では、この点は池宮氏の論説の根本的な欠陥であると思う。
             瀬長島の歌碑
                     瀬長島にある平敷屋朝敏の歌碑
 (組踊への封建イデオロギーの注入について)
 支配層が儒教倫理や封建イデオロギーをとなえているという面のみが、時代の様相のすべてでは決してなかったということだ。(玉城)朝薫や朝敏らと同時代を生きたと言っていい士族らがあれほど「許田の手水」(注・「手水の縁」のもとになった伝説で、多くの人によって書かれている)に関する歌を残していたということは、さらに深層に多くの声にならない声、自由恋愛を憧憬する、あるいは指向する心性があったということを意味しているはずだ。…
  「組踊」なるものはすべて、儒教倫理を最大限に発揮すべきものであったということにはならない。…
  創作は、最終的には時代環境とでもいうべき思考様式と作者の内面(意識)に大きく規定されて生まれてくるものなのである。当時は、封建イデオロギーが様式として流れていた時代環境ではあったが、それに不満をもった人々も同時に存在したのであり、それだけが時代をつつんでいたわけではない。それについては、何よりも朝敏の擬古物語が証明しているし、「許田の手水」をうたった士族らの声が証明している。…

 (冊封使渡来の際の上演について)
  池宮氏が言っているのは、当時組踊は冊封使渡来の際に上演されたということ(しかし、渡来の際にのみ限って上演されたという資料はない)ということ…(しかし)「組踊=冊封使歓待用演劇」という部分からはずれていく考えは、さっさと欄外に置かれてしまうのだ。…
 <組踊は19世紀に入ると、首里三平等の盆祭に提供されたり、薩摩在番を招待して見せるなどのこともあるが、基本的に最後の寅の冠船まで、冊封使歓待のための芸能として発展してきている(池宮氏の著作の引用)>…
 19世紀以降であったという「断定」を裏づける確固たる資料があるのかどうか。…
                  朝敏妻の歌碑
                        宮城島にある朝敏の妻の歌碑
 私見であるが、池宮氏の引用部分は「盆祭に提供されたり、薩摩在番を招待して見せる」、つまり冊封使歓待以外にも上演することがあったという事実そのものが重要だと思う。
  池宮氏は「19世紀以降」と限定しているが、それ以前はなかったという証明はない。冊封使の渡来は、時に10年、20年の長い間隔がある。組踊という高い芸能力を要する総合芸能を維持し発展させていく上でも、日々の訓練だけでなく、上演する機会が求められたのではないか。本当に、冊封使の渡来の際に限り上演されたとすれば、琉球国王も冊封を受けた際に観るだけで、その後は在任中、一生涯にわたり観ることができないことになる。勝手な推測であるが、19世紀以前にも冊封使の渡来とは別に、上演する機会があったと考える方が自然ではないだろうか。

 (文化英雄的面について)
 この部分は、比嘉氏の引用文だけでは、朝敏が「文化英雄的面」をもっていたので「手水の縁」と結びつけられたという池宮氏の主張はわかりにくい。私見では次のことを意味するのではないかと思う。
  本来は「手水の縁」の作者は朝敏ではないのに、朝敏が処刑された悲劇の文学者として「文化英雄的面」をもったため、特異な組踊である「手水の縁」の作者と結び付けられ、それが固定化された。この説によれば、政治犯としての朝敏と「手水の縁」の内的な関連は、完全に断ち切られてしまう。
 
  この池宮説について比嘉氏は、次のようにのべている。
  愛の問題を内在的に深めていった平敷屋朝敏と「手水の縁」のもっている内容が自然に結びついていったはずのものであり、あるいは朝敏の事件と「手水の縁」のもっている反社会性とでもいうべき内容が重なっていったはずのものであって、決して文化英雄的側面と「手水の縁」が結びついていったということではない…あるいは朝敏の反制度的事件と「手水の縁」の反社会的思想が結びついていったのである。

  以上が、比嘉氏の評論で個人的に関心を持った部分のあらましである。
 評論を読んで感じるのは、「手水の縁」が朝敏の作品であるかどうかを判断するためには、朝敏の作品世界を分析することは「必須の条件」であること。作品で描かれた主題や人物の特徴、物語の内容と展開、作品相互の連関など、深く分け入って見ていけば、同一人物の作品であるか否かは見えてくる。
  実際に、比嘉氏は朝敏の一連の作品を検討して、「手水の縁」がそれ以前の朝敏の作品世界の延長線上にあるばかりか、新たな地平を切り開いた画期的な作品であることを立証している。
 それに加えて、当時の時代や社会体制と作品世界とのかかわり、作品がもつ意義とそれ故に担わなければならなかった作品の運命と朝敏の悲運について解明している。
  さらに、朝敏の反制度的事件と「手水の縁」の反社会的思想が結びついていった、とのべているように、後に処刑された事件と「手水の縁」は不可分の関係にある。その面からも「手水の縁」が朝敏の作品であることを明らかにしている。
これらの分析を通じていえることは、「手水の縁」が朝敏だからこそ創作できたということである。
  平敷屋朝敏の研究の上で、比嘉氏の著作は欠かせない意義を持っていることを改めて実感した。

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比嘉加津夫氏の平敷屋朝敏論、その3

 民衆の「熱い思い」を伝えた作品
 
  平敷屋朝敏の「手水の縁」が、当時の封建的な社会制度にあがらい、若い男女が自由な恋愛を成就するという、他に比類のない作品であったことを比嘉加津夫氏は、以下のように明らかにしている。
朝敏の「手水の縁」は、おそらくもっとも写本の多く現存している作品の一つである。組踊研究に長年うちこんでいる当間一郎氏は「手水の縁」の写本は、8種類ほどが現存していると言っている。最も古いものは多良間島石原家が所蔵しているもので道光28年(1848)のもの(略)で、残りは明治18年から明治39年までのものだという。
 そして、当間氏は
<「手水の縁」のみはごく初期においては、村踊りの世界ではほとんど演じられてなかったのに、このように写本が定着しているのはなぜか>
と問い、その理由について口碑伝承から、①表向きは歓迎されなかったが、若い人たちは非公式な形で多くのファンを持っていた、②それが恋愛物であったこと、③作品が首里王府へ反発して処刑された人だったためであろうという点をあげて説明している。
                安謝、朝敏処刑地の神社
       平敷屋朝敏が処刑されたと伝えられる那覇市安謝にある恵比寿神社
  この見解はかなりの信憑性を持っているのではないかと思われる。そして、その見解につけ加えるものがあるとすれば「手水の縁」の取り扱っている恋物語は、当時の社会制度に<アンチ>を提起したものであったということであろう。
 つまり、「手水の縁」は制度的儒教思想でもって民衆の心性を閉ざそうとし、自由恋愛を道徳的不義とみなして封殺しようとした時代の中から生まれてきた作品であったということである。そのため、制度が極度な姿勢でもって取り締まろうとした自由恋愛を、発想の基盤にして、作品をものにしたため、体制側から作品それ自体が一種のタブー本とみなされ、拒否されたのだろう。
 為政者にとって、自由恋愛は人心を乱らなものにするということで呪術行為や悪病のように嫌悪され、恐れられていたものの一つであった。どのような制度であれ、それが最高の形で保たれているということは、民衆一般の意識がその方向に向き直されていたということを意味する。制度の息づかいを首肯する形で動いていたということである。…
 「手水の縁」は、制度がもっとも嫌悪するテーマを積極的に追求し、そのため制度からつまはじきにされた作品であり、しかも作者が王府によって処刑された人だったためとみていいのではないか。現在の私たちは少なくとも、そのような制度や社会から遠くへだたったところでの思考にならされているため、たまたまそれらのことが奇異にみえたりするだけなのだ。だから「手水の縁」であろうが、平敷屋朝敏であろうが、蔡温や蔡温につらなる為政者であろうが対象化することができるのである。
  だが、すでに琉球処分が断行され、これまで王府及び薩摩支配が消滅していくと、またさらに民衆の無意識のかかえていたものが一せいにふき出してくる。そのひとつが「手水の縁」の蘇生にもつながっていたと言ってもいいのではないか。…
 写本が多く残っているということは、当時解禁された作品であるということも当然であるが、それ以上に多くの人々の無意識の中に潜在していた「熱い思い」をよく伝えている作品であったということのためではないか。無意識の層に抵触しない作品はどのような作品であれ生きられないし、残らない。また、それが作品の運命というものである。
                  朝敏処刑地の恵比寿神社の裏
             朝敏が処刑された場所と伝えられる恵比寿神社の社殿の裏
 又吉洋士氏の「朝敏研究小史」によると、廃藩置県以後、士族に独占されていた組踊が商業演劇でも演じられるようになり、中でも「手水の縁」は旧暦3月3日にはたびたび上演されていたとのことである。あるいは、明治45年(1912)4月20日の沖縄座上演で「濡れ場がリアル過ぎるということで中止を命ぜられた」とのことだ。…
 「手水の縁」は、歴史の中で二度の弾圧を受けたことになるわけだ。この時期「手水の縁」が解禁されるのは、大正3年(1914)3月であった。

 比嘉氏は、「手水の縁」が「自由恋愛を道徳的不義」とされた時代の中から生まれ、体制側から「一種のタブー本」とみなされたこと。王府時代だけでなく、廃藩置県後も上演中止を命ぜられ「歴史の中で2度の弾圧を受けた」こと。それにもかかわらず、組踊の写本が最も多く現存している作品であるのはなぜなのか。その理由として、この作品が自由な恋愛の成就を描いた「恋物語」であったこと、朝敏が処刑された悲劇の人物だったこと、「当時の社会制度に<アンチ>を提起したもの」だったことを指摘している。「手水の縁」が、民衆の間では無意識の中に潜在していた「熱い思い」をよく伝えている組踊だったため、抑圧の体制が終焉すると蘇生につながったことを明らかにしている。

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比嘉加津夫氏の平敷屋朝敏論、その2

理不尽な抑圧に立ち向かう

 比嘉加津夫氏の平敷屋朝敏論の紹介は続く。
  自由な恋愛は、それ自体が制度を越えようとし、理不尽な抑圧に対して反抗的に向かっていくものであり、統治者にとっては抑圧や抑制の対象とならざるを得ないのである。…
 「手水の縁」で朝敏は、閉塞した時代の緊迫性と自分の中で燃えたぎる心性の開放性を交差させたのである。…
「若草物語」や「萬歳」が<愛>ためにいのちを捨てる覚悟性で覆われているとすれば「手水の縁」は、<愛>のために制度をないがしろにする覚悟性が全面を覆っているといえる。もし朝敏が「文学」から「政治」の方向に意識を変容させていったとするなら、やはり現実世界を拒否して死の世界に向かっていった意識から現実世界でこそ抵抗していくという意識に、つまり<自死>から<生>の意識に変容していったことと重なっているはずだ。…
 朝敏が、愛の問題に執着したということは、これがより人間的で、より根源的なことがらであり、しかも時代性に深く密着していた問題だったからであろう。…

                     平敷屋朝敏の歌碑
                 うるま市平敷屋にある朝敏の歌碑

 朝敏を特異な表現者にしているのは、制度とか現実規範、現実観念といったものより、人間個々の内奥に宿る観念の方が大事なのだという思想の側にたっているというそのことによってなのではないか。…
 作品世界がすでに作者の未来を無意識のうちかこってしまっているのである。平敷屋朝敏は「国家の御難題」をたくらんだ悪逆悪道の族として処刑にふされた表現者だが、そのような死にざまを、作品世界がすでにかこっているのだ。 
 
 以上のように、比嘉氏は朝敏のその作品世界の内容と相互の連関を分析することによって、「手水の縁」がそれ以前の朝敏の作品と密接なつながりがあり、前の作品群の土壌の上に花開いた文学作品であることを明らかにしている。
また、「<愛>を蔵したものは現実世界で結ばれなければならない」こと、「自由な恋愛は、それ自体が制度を越えようとし、理不尽な抑圧に対して反抗的に向かっていくもの」であり、「現実世界でこそ抵抗していくという意識に」変容していったことを強調している。
そして、自由な恋愛を抑圧する封建的な社会体制の壁を乗り越えて、愛を成就さえるという文学的な達成は、他の文学者とは一線を画する「稀有な表現者」であることを解明している。
 「手水の縁」で描き出された作品世界が、のちに国家反逆の罪で処刑されるという未來の悲劇をはらんでいたこと、つまり文学作品と現実世界での政治行動が内的な連関があることを明らかにしたことは、「手水の縁」の作者論争でも重要な意味を持っている。
  比嘉氏はさらに、朝敏の文学観の飛躍の背景に「貧家記」体験があることを次のように述べている。     
                   朝敏の歌碑文
                     朝敏の碑文

(朝敏の作品世界の発展について)
 何が一体起きたのか。私はそれは「貧家記」体験(注・罪を受け首里から遠い領地の平敷屋に追いやられた)を持ったためというふうに原因は求められるのではないかと思っているのだ。…「貧家記」体験は、朝敏に、より現実意識を強いたはずだということである。どちらかというと感性や感受で現実世界に接していた朝敏が、いやおうなく現実世界に向かわざるを得なかったというのが「貧家記」体験であったのではないか。…

 私も、朝敏が滞在した平敷屋を訪れたことがある。そこには、朝敏のもとで農民の水不足を解消するため用水池が掘られ、その土を盛りつけて造ったと伝えられるタキノー(小高い丘)があった。朝敏を偲ぶ歌碑と碑が建てられている。
「朝敏は、薩摩支配下における苦難の時代に、士族という自らの自分におごることなく、農民を始めとした弱い立場の人たちに暖かい眼差を向けることの出来た、沖縄近世随一の文学者でありました」
碑文にはこのように記されている。
 「貧家記」にみるような農民との交わりやさまざまな労苦の体験を通じて、封建的な社会の現実と対峙する姿勢が養われたのかもしれない。
 
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比嘉加津夫氏の平敷屋朝敏論、その1

 比嘉加津夫氏の平敷屋朝敏論


 組踊「手水の縁」の作者で政治犯として処刑された平敷屋朝敏(ヘシキヤチョウビン)について、わがブログで取り上げてきた。拙著「琉球の悲劇の文学者 平敷屋朝敏覚書」では、「手水の縁」の作者は朝敏ではないという論説にたいして、素人なりの自分の考えを述べてみた。その際、関係する資料にいくつか目を通したが、「比嘉加津夫文庫」に収録されている「平敷屋朝敏(上、下)」「玉城朝薫・平敷屋朝敏ノート」(同文庫16,17,18)は残念ながら読んでいなかった。最近、やっとお目にかかって読んでみると、私の問題意識とかなれ共通する考察を早くからされていたことを知った。
 比嘉氏の著作から、私流に関心のあるところを、勝手な抜書きで紹介する。

比嘉氏の著作で注目したのは、朝敏の作品の内容を分析し、その作品世界の発展を時代とのかかわりを含めて評論していることである。
 朝敏の初期の作品「若草物語」は、大阪の住吉を舞台とした貧しい武士と遊女・若草の悲恋の物語である。近松門左衛門の心中物を思わせる主題である。「苔の下」は、琉歌の二大女流歌人である、遊女・よしやつると仲里按司(アジ)をモデルとした悲恋の物語である。
 次の「萬歳」は、安里の按司の息子・白太郎は勝連の浜川殿の真鍋樽金を一目見て恋に落ちるが、すでに地頭の息子に嫁ぐ身。二人が浜辺で死のうとする時、神の化身が現れて二人はめでたく結ばれる。
  この後「手水の縁」へと続く。波平村の山戸(ヤマト)が玉津(タマシン)と出会い、手水を汲んでもらった縁で結ばれる。しかし、親の認めない恋は許されず、玉津が処刑にされそうになるが、山戸の命がけの訴えが通じて二人は結ばれるという物語である。
                     朝敏の瀬長島の歌碑
               組踊「手水の縁」の舞台となった瀬長島に建つ朝敏の歌碑

 いかなる制度も愛や恋を縛れない
 
比嘉氏は、次のようにのべている。
 とげられぬ「思い」を抱き、それにうちひしがれてついに自死する「若草物語」や「苔の下」の流れから切れて朝敏は、ひたむきな思いは死後の世界ではなく、この世で結ばれなければならないという思いをこめるかのようにして「萬歳」をものにした。…
 「若草物語」や「苔の下」では、制度の厚い壁にねじふせられ、そのまま破局に向かっていくという形で物語世界は展開された。…
 「萬歳」では…制度の壁は厚く、一人の人の「思い」や「力」ではどうにも動かしえないはずのものとして存在していた。そのため…「神」の力に依拠し、制度の壁をおしのけるという方法へと向かわざるを得なかったのである。…
 だが「手水の縁」では、あの世とか「神」といったものを媒介にすることなく、二人は「思い」をこの世で実現していく。…
「いかなる天竺の鬼立ちの御門も 恋の道やれば開きどしゆる」(どんな天竺の鬼といえども、命をかけた若い男女の恋の道はとどめられない、という意味)というふうに、いかなる制度も愛や恋を縛ることはできないという信念を垂直に伸ばしていったのが「萬歳」であり「手水の縁」であったのである。…
 平敷屋朝敏は、ある時期を区切って「萬歳」や「手水の縁」の世界、つまり深い<愛>を蔵したものは現実世界で結ばれなければならないし、またそれは可能だという思いを持つに至った。ここに至る意識過程、意識の変様というものも朝敏を他の表現者とわけているところである。…
比嘉氏が「制度の壁」と呼んでいるのは、王府時代の封建的な「社会体制」と呼んでもよいのではないか。


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