レキオ島唄アッチャー

横浜のCSファイナル進出、嶺井捕手ヒーローに

 プロ野球セリーグのクライマックスシリーズの第3戦は、横浜ベイスターズが巨人に延長11回、4対3で勝利し、CSファイナルに進出し、広島と対戦することになった。
 テレビ中継は、日テレ地上波の放送だったので、沖縄では見られなかったが、延長戦に入ったので、地上波は終了し、BS日テレでやっているかもしれないと思い、チャンネルを回すとドンピタリ、延長10回から見ることができた。
                 IMG_3160.jpg
                 野球の写真はすべてBS日テレから
 11回の表、ヒットとフォアボールでワンアウト1,2塁のチャンスの場面で、おりしも沖縄出身の嶺井博希選手がバッターボックスに入った。「嶺井君、ここで打てばヒーロだよ」とテレビ画面に向かって呼びかけた。
 巨人の田原投手の投げた初球を振り貫くと、痛烈なレフトフェンスに当たるヒットで、セカンドからランナーがホームインした。
 その裏、横浜の抑えは山崎投手。シーズン中、たまに打たれることがあったが、この前同僚選手が「山崎は1点差だったら大丈夫。3点差とかだと危ないが」としゃべっていたことがあった。その言葉通り、1点差を守り切りった。
 ヒーローインタビューは当然、決勝点を打った嶺井君がお立ち台に。
                  IMG_3165.jpg
 さすがに嬉しそう。彼は沖縄尚学高校で現ソフトバンクの東浜巨投手とバッテリーを組み、2008年、春の選抜大会で見事優勝した。その後亜細亜大でも、東浜とバッテリーを組み活躍した。3年前、横浜に入団したが、今シーズンは、新人の戸柱捕手がレギュラーに座り、ファームが長かったそうだ。それだけにこの大舞台での活躍は嬉しそう。解説の前横浜監督の中畑清氏は「彼は意外性がある」「インタビューでもしっかり話ができるようになった」とその成長ぶりを評価していた。
                  IMG_3161.jpg
 今シーズンで引退する三浦大輔投手(コーチ兼任)も、初のCSで2位の巨人に勝ち、ファイナルに進出することに嬉しそう。1998年の横浜優勝を経験する唯一の選手だけに、引退前に低迷を抜け出してファイナルまで勝ち上がったことは、感慨ひとしおだろう。
 いまの横浜の力量、勢いからいえば、巨人に勝てることは十分予想されていた。ファイナルの広島はそう容易くはない。なにしろセリーグで圧倒的な強さを誇ったからだ。でも、短期決戦では、どう転ぶのかは分からない。
 今シーズンの対戦成績は横浜の12勝13敗とほぼ互角の戦いをしている。12日からのファイナルが楽しみだ。
                IMG_3180.jpg
この花火は、横浜のCSファイナル進出を祝うものではなく、那覇大綱挽まつり、RBC市民フェスティバルの奥武山公園で打ち上げられた花火。近くの団地前からよく見えた。
スポンサーサイト
スポーツ | コメント:0 | トラックバック:0 |

頑張った!横浜ベイスターズ初のクライマックスシリーズ進出

 プロ野球でセリーグは広島が25年ぶりに優勝したことが最大の話題だが、横浜ベイスターズがクライマックスシリーズ進出もよく頑張ったと思う。なにしろ10年間最下位に低迷していたからだ。
 横浜との関わりは東京に住んでいた時代、ツレが横浜出身なので応援し、横浜球場にも足を運んだことがある。沖縄の春のキャンプでは、宜野湾球場に何度か見に行った。
 権藤監督のもとで1998年優勝した時のチームメンバーは今でも覚えている。その時のメンバーの最後の一人、三浦大輔投手も今シーズンで引退を表明した。010.jpg
          写真は2009年2月、宜野湾での横浜キャンプ
 体力の衰えもあるだろうが、若手が伸びてきて、初めて3位以内でクライマックスに進出できたことも踏ん切りをつける動機になったのかもしれない。
 ラミレス監督の采配については、あまりよくわからない。確かなことは、前監督の中畑清氏の4年間に少しずつチームが変わり、底力をつけつつあったのではないだろうか。昨年、途中でずっこけたが、当初はセリーグトップを走ったことでも、横浜のチーム力の向上がうかがえた。
 横浜球場に若い世代のファンが増え、観客数も伸びて、熱い応援を送ったことも、選手の頑張りを支えたことだろう。
 今シーズンは、3,4月は低迷したが、戦力がととのった5月からは、成績がよくなってきた。前は打線より投手力が脆弱だったけれど、新人の今永、2年目石田、中堅の山口、井納や中継ぎ陣と抑えも踏ん張ったと思う。打線は、4番筒香がオール日本の4番をに座るほどスゴイバッターに成長して活躍したし、ロペスの終盤での見事な働きや若手も成長して、投打のバランスもよくなった。監督はじめコーチ陣の指導も成果をあげているのではないだろうか。009.jpg
         写真は宜野湾キャンプでの工藤公康(左、2009.2)
 シーズンを通して、リードしていれば逃げ切れる、リードされていても逆転する。そんな試合がたびたび見られた。もちろん、中継ぎ、抑えの疲れもあり、逆転負けや競り負けしたこともたびたびあった。だから、優勝できなかった。まだ、戦力的にも厚みが欲しいところだろう。
 でも、初のクライマックスであり、短期決戦となれば勢いのあるチームが勝つ。3位が日本シリーズに出場する下剋上もこれまであった。ぜひ日本シリーズ進出に向けて頑張ってほしい。
スポーツ | コメント:0 | トラックバック:0 |

巨人が韓国サムスンと練習試合

 巨人軍が2月16日から那覇でキャンプを始めた。18日は韓国のサムスン・ライオンズと那覇セルラースタジアムで練習試合を行ったので、見てきた。 
           
 巨人は初の練習試合だし、糸満高校出身の宮国投手が先発予定。それにオープン戦と違って無料だ。内野スタンドは、たくさんの野球ファンが詰めかけていた。
                     IMG_7902.jpg

 宮国選手が先発で登板すると、一塁側から「宮国、頑張れ―!」の声援がなんども飛ぶ。なぜか幼稚園児2,30人が観戦に来ていて、やはり「宮国選手、頑張れ―」と声を張り上げていた。
                  IMG_7906.jpg
 でも球はあまり走っていない。フォークボールも決まらない。3回投げてホームランを含め6安打打たれて3失点。さんざんな出来だった。これでは、一軍枠に入るのも厳しいのではないか。そんな心配が頭をよぎった。
 
 選手名鑑を見ていた改めて驚いた。中日にいた堂上剛裕が戦力外通告になり、巨人で育成選手枠に入っている。014の背番号で、なんと打順5番に入っていた。かつては期待されていたはずだが、育成枠とは!
 でも、まだ若い。サムスンの投手を相手にいい打球を飛ばしていた。なぜか、元中日組の井端がDHで入っていた。
  
                      IMG_7907.jpg
 横浜にいた金城龍彦も巨人入り。元横浜の相川捕手もヤクルトから巨人入りしたので、元横浜組も2人いる。巨人は選手層が厚いのに、なぜか他球団からの移籍組が結構いる。捕手だった阿部は内野手で登録になり、正捕手争いがし烈だ。この試合では鬼屋敷が捕手に入っていた。 
                IMG_7908.jpg
 試合は4回までしか見なかった。巨人は4番に大田が座り、原監督の期待のほどがうかがわれた。
 サムスンは体格ががっちりした選手と左バッターが多かった。4回までに7本ヒットを打った。パワフルな感じがする。
 それに比べて巨人は、さほど球威があるとは思えないサムスンの投手を打ちあぐねていた。
 試合は最後まで見なかったのでわからない。
 後でニュースを見ると、堂上はホームランを含め2安打3打点と活躍し、一番光っていたそうだ。
 結局、後半に巨人の打撃がふるって9対3でサムスンに勝ったそうだ。投手リレーもうまくいったのだろう。

 沖縄の野球ファンにとっては、キャンプはプロ野球選手を間近で見ることができる年1回の機会だ。練習試合、オープン戦も直接、プロの試合が見られる絶好のチャンスだ。それに、県外からも、たくさんの野球ファンと取材陣など関係者が沖縄を訪れるので、経済効果もとても大きい。 
 2月一杯は、プロ野球の話題でもちきりだ。
スポーツ | コメント:0 | トラックバック:0 |

力道山を指導した沖識名

 戦後、日本プロレス界のヒーローだった力道山にプロレスを教え、コーチをしたのは、沖縄人の沖識名(オキシキナ)だった。彼について、耳にしたことはあったが詳しいことは知らなかった。2014年6月27日付の「琉球新報」で仲村顕氏(県立芸術大学付属研究所共同研究員)が書いている。「眠れる先人たちー墓所にたずねる琉球・沖縄史」という連載記事である。この記事をもとに、紹介したい。
                   Oki-Shikina2.jpg
  写真は「プロレス桃源郷へのいざない」ブログからお借りした。
 沖識名はリングネームで、本名は識名盛雄(シキナセイユウ)といい、与那原町与那原で1904年に生まれた。父は、ハワイに移民をしていたが、1912年に父が呼び寄せて盛雄は母とともにハワイに渡った。
 盛雄は、体格に恵まれ、小学校を卒業した頃から、柔道と相撲を習い始めた。ハワイでは沖の海という四股名で活躍し、ハワイの相撲チャンピオンにもなったそうだ。
 プロレスラーに転向したのは1931年のこと。日系人レスラーの三宅太郎に弟子入りした。プロデビュー後は、他のレスラーが持っていない技を武器にして米本土でも人気レスラーになっていったという。
 引退した4年後の1952年、相撲からレスラーになった力道山が、教えを乞いにハワイにきた。沖識名は力道山を徹底的に仕込んだ。沖識名のもとで修業を積んだ力道山は、53年に日本に帰国し、日本プロ・レスリング興業を設立した。
 54年には、日本における本格的な国際試合が行われた。プロレスは前年から放送が開始されたテレビで中継放送もされ、爆発的な人気を得て、発展していった。
 この国際試合のとき、沖識名はNWA世界タッグ王者のシャープ兄弟とともに来日し、試合のレフェリーをつとめた。
以後、19年間にわたり、日本のリングでレフェリーとして活躍した。
1973年にリングを去り、83年にハワイ・ホノルルで亡くなった。
 引退式では、日本プロ・レスリング興業から感謝状が贈られた。そこには、次のように記されている。
 「角界よりプロ・レスラーとして転向の不滅の英雄故力道山をハワイにおいて育成し今日の日本プロ・レスリング界発展の礎を築いた功績は誠に偉大であります」
 力道山といえば、子どもの頃、高知の田舎でもテレビの前に人だかりができて、熱狂的な人気を得ていたことを思い出す。そのヒーローを育て、試合ではレフェリーとして活躍したウチナーンチュ(沖縄人)がいたことは、思いもよらないことだった。
 沖縄が移民県であり、ハワイ・北米にたくさんの県民が渡ったから、日本より早く戦前からプロレスに触れ、レスラーとして活躍する場に恵まれたのだろう。お墓はハワイにあるので、残念ながら訪れる機会はない。
スポーツ | コメント:0 | トラックバック:0 |
| ホーム |