レキオ島唄アッチャー

友寄の獅子舞

 友寄の獅子舞
 ヒスイカズラを見に行った八重瀬町友寄(トモヨセ)は、伝統のある獅子舞で知られる。といっても、まだ見に行ったことはない。でも、集落の中にある友寄馬場公園には、巨大な獅子像がある。像の中は上り階段があり、滑り台になっている。滑り台はとても急な斜面で、滑り降りるのにヒヤッとする感じだが、子どもたちは楽しそうに滑っていた。
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 「字友寄には友寄の獅子舞をモデルにした沖縄一の巨大獅子舞滑り台(高さ7.13m、幅9m)を設置し『獅子の里』として、まちのシンボルとなっております」(旧東風平町HPから)
 台地のような場所にある公園は、緑地が長く伸びていて、かつては馬場だったことがわかる。
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 獅子舞は沖縄に古くから伝わる伝統芸能で、多くは旧暦8月15日の夜に演じられる。その中でも180年の伝統を誇る字友寄の獅子舞は、躍動感あふれる獅子舞として有名だという。
  戦前までの獅子は、1838年、郷土の彫刻家・中山宗経によって作られた。戦時に消失したので昭和43年(1968)、画家であり彫刻家の山田真山氏に製作を依頼したのが、現在の獅子である。
              
  琉球王朝時代、当時、天然痘が大流行したが、その疫病神を祓おうと、神事をつくしたあとに、獅子舞の型をあみ出したと「由来記」にある。以来、村の守護神として祭られ、無病息災、五穀豊穣を祈願して毎年旧暦8月15夜に舞われる。
獅子の頭は、デイゴの木で造られ、これに獅子面が彫刻されている。朱や黒、金、青色に塗って威厳を保つようにしてある。
一度、見に行きたいものである。

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久高島、カツオ漁時代

鰹(カツオ)漁業時代
久高島の男たちによる鰹漁業は大正の初め頃、与那国島で始められたという。
(鰹漁業の以外に)イラブ―漁、追い込み漁、引き網漁、延縄漁、潜り(海人草、サンゴとり)、突き船(カジキとり)などを八重山方面、奄美方面、それに台湾方面で営んでいた。
 
八重山や奄美方面に出かけているたいていの人は旧の8、9月頃には島に帰っていた。そうして旧3月の南風の吹くまで久高島に滞在し、その間は久高島近海で追込み漁をする。その網元がイビンミー家で、ザバニを4艘所有し、獲った魚は知念・玉城・与那原・中城辺まで売り歩いた。またエビなど高級魚は那覇市場で売っていた。
 今次大戦では、台湾、南洋方面の久高島の漁業従事者たちは戦争にまきこまれ、生き残った人々もすべてを失って命からがら島に引き揚げて来た。久高島もアメリカ軍が上陸し、家のほとんどは焼き払われ、数百年にわたって久高の男たちが蓄積したすべてが失われてしまった。
 久高の男たちは、沖永良部島、徳之島、奄美大島、喜界島、トカラ列島、屋久島、種子島、鹿児島、八重山群島、宮古群島、外国では中国(厦門・上海・北京等)、台湾、南洋(パラオ・テニヤン)に出て、数百年にわたり常に海人として進取の気鋭を持って活躍して来た。奄美方面では今でも沖縄の漁師をクダカーといっている。

< 沖縄戦に関連して思い出したことがある。久高島は小さな島なのに、住民は沖縄本島の金武町に移住させられていたという。金武町屋嘉には、「久高島住民強制疎開之記念碑」がある。 
  次の琉歌が刻まれている。
  「戦世の故に 生まり島はなり 屋嘉村の情き 忘してならん」
  戦争のために生まれ島の久高島を離れさせられた でも屋嘉村で受けた情けは決して忘れてはならない、という意味だろう。「並里仙人詠む」と記されている。>

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  旅妻を持つ男も
 半年以上も漁に出る久高の男たちは、島の本妻以外に旅妻(注・現地妻)をさがす者も多かったといわれ、旅妻との間にできた子孫は各地に多くいるといわれている。また本妻に男子がいない場合、旅妻との間にできた男子を島に連れて来て嫡子として育てた例も多い。
 「いりきハチャグゥミや、うないぐゎがみやぎ、ゆるぬるばらし、うとぅぎみそり、みそり」(ハチャグミというお菓子は私が作ったもの、貴男へのおみやげは私を抱くことです、ほどの意と解されている)
2首(1首は略)の歌は徳之島の旅妻が久高の男に歌ったと伝えられているものである。

 久高島で夫の留守の間、帰りを待つ妻の心境を歌った歌もあるという。
 「久高島に『旅する間は皆の夫だけど、クサバーを釣れば私の夫だよ』という歌がある。出漁中は旅妻があってもかまわないけれど、現役をしりぞき、久高島の浜でクサバー(浅瀬の魚)を釣るようになったら私一人の夫である、というのである。この歌は半年以上も出漁する男たちの立場を考え、じっと島でその帰りを待つ久高島の女たちの悟りともあきらめともつかない心境を歌ったものである。これはまた神に仕え守護者という高い次元にある久高島の女性だからこそ悟れる心境であるといえるのではないだろうか。なお久高島の女性は夫と旅妻との間にできた子供を我が子同様に育てたケースは枚挙にいとまのないほどである..。以上は比嘉康雄著『神々の原郷-久高島(上、下)』からの紹介である。
   終わり

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久高島、唐船時代

  比嘉康雄著『神々の原郷-久高島』(上、下)から、紹介の続きである。
  
唐船時代
  久高島の男たちは少なくとも15世紀頃からはクルンミーを操って大洋を航海する術を我がものとしていた。このような航海技術はやがて首里王府に認められ、当時中国と進貢貿易をしていた首里王府の進貢船の水主(カコ)として登用され、久高島の男たちが活躍することになる。
  この唐船時代は久高島の黄金時代というべき時代で、今もその栄華の跡を豪壮な石垣囲いにとどめる。
                    唐船
                  再現された唐船(読谷村ゆんた市場)

  <「旧藩時代には男子16歳にして必ず支那(中国)通いの唐船の船員になる掟があって、みなその任務につき、唐船船頭さんの出生地であった」(この項、桜井満編『久高島の祭りと伝承』の安泉松雄ノート「イザイホーの御祭」)>
  文献によると、久高島の男たちは唐船の乗り組員の他に
1、薩摩への飛船の船員、飛船とは公務の連絡。
2、宮古、八重山からの年貢の運搬。
3、伊良部島と鳥島間を豆・米などの食糧の運搬に従事。
この場合の船はクルンミーであった。
 進貢船の正式な乗組員で活躍する以外にトゥアッチャー(中国通いほどの意)という言葉があることから、首里王府とは関係のない私貿易も盛んにおこなわれていたことが推察できる。

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遠海に漁に出た久高島の海人

 遠海に漁に出た久高島の海人
 久高島のイラブ―漁については簡略に紹介した。島の男たちは、舟を巧みに操り、遠海に出かけて漁業を営んできた。久高の海人の歴史について、比嘉康雄著『神々の原郷-久高島』(上、下)から紹介する。
 
 イラブ―漁時代
  島ヌルといわれる久高ノロが村頭を使って伝統的にイラブ―漁を続けていた。イラブ―とはエラブ海蛇のことで、久高島南側岩間に産卵による。それを獲って燻製にする。
  燻製のことを「バイカン」といい、燻製する小舎を「バイカンヤー」という。久高ノロの管掌する久高御殿庭という祭場の一隅にハンアシャギと並列してある。
  燻製されたイラブ―は保存食として考えた場合、手間がかかりすぎる、食糧として効率が悪い。薬用として考えられていたと思われる。加工商品であった。このような立派な商品を島内で生産できるのは特定の人たち(現在では久高ノロ、外間ノロ、外間根人)に限られていた。
  そこで他の久高の男たちは当時すでにどこかで作られていたマーキブニ(くり船)を手に入れ、イラブーを求めてフカ(外洋)への旅立ちが初(始)まったと考えられる。
  
  マーキブニは、3名乗りの小さなものであった。この小さな船を3艘ないし4艘つなぎ合わせ、アダンの葉で作った帆を立てたもの、このような船をクルンミーとか、ナラリグゥといっていた。
  <現在久高島の伝承されている船は、マーキブニが最も古い。1本の丸太をくりぬいて作ったいわゆる丸木船、くり船である。「ナラリグゥ」、これはマキブニを何艘か結びつけたものを指す>
                     徳之島
                      徳之島
 イラブ―のおもな漁場は奄美群島であったらしく、旧暦3月に吹く南風イチュンベー(絹のように静かな南風の意)で出発北上し、漁場に着くと日常生活は日頃久高島のイノー(リーフ内)でおこなっていたバンタタキャーという追込み漁法で魚をとり、現地で物々交換をしてすごした。イラブ―は獲ると現地でバイカン(燻製)にした。旧暦9月頃に吹くシムクダリとかタカワタシニシという北風に乗って帰って来た。すでに燻製にしたイラブ―は、おそらく当初から販売のルートがあって、そこへ持って行ったと思われる。
  当初の販売先であるが、15、6世紀頃までには首里王府の城下町遊郭に持って行ったものと思われる。久高島の男たちがイラブ―を求めて外洋に出発したのがノロ制度施行前後と推定すれば、今から4、500年前となる。しかしこの出稼ぎ的なイラブ―漁の伝承は、今から約130年前からしかない。それ以前についてはこれまで記したとおり推定の域を出ないのである。
  戦後はこの出稼ぎ的なイラブ―漁はなくなったが、久高における久高ノロの管掌する伝統的なイラブ―漁は、現在まで連綿と続けられている。

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神職者にイラブ捕獲権与える

 なぜ神職者に権利が与えられたか 
 なぜ、イラブ―漁が島の神職者である久高ノロ家、外間ノロ家、外間根人家だけに、権利として与えられてきたのだろうか。
  野本寛一氏は「エラブウナギの民俗誌」(『久高島の祭りと伝承』)で次のような見解をのべている。  
  久高島におけるエラブウナギの捕獲権は、ノロ地・根人地という神役の畑地権(注・島の耕地は共有制となっているが、外間・久高両ノロ、外間・久高両根人は専有地が与えられている)と対応する同質のもので、島の祭祀にかかわる家に与えられたきわめて合理的な権利だと言える。
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   写真はドキュメンタリー映画「イザイホウ」の一場面(ホームページから)
 このことは、久高ノロの権利であるガマから、ムラガシラ(村頭)2人に対してもエラブ捕獲の権利が分与されていることによってもわかる。ムラガシラ分与は、久高・外間両ノロ家・外間根人家三分後に発生したものと考えられるのであるが、それには、旅稼ぎの多かった久高の男達を一年間神ごと奉仕で制約することへの報酬の意味があったと考えてよかろう。これは、6月7月のスクの収入の一割がソールイ(注・棹取神、筆者は頭領と見る)に与えられることにも対応する。
 久高ノロ家・外間ノロ家・外間根人家に世襲的にエラブの権益が与えられていることは、当然、島の祭祀を支える経済基盤の保障を意味しており、交替するムラガシラに対してはその役職に連動して権益も交替したのである。

  イラブ―捕獲の権利は、現在、どのようになっているのだろうか。
  「エラブ―漁獲権は、久高の頂点に位置する神役久高、外間両ノロと外間根人のみがもつ特権であった。このうち久高ノロの所有高は突出していたが、ノロ没後、利権を村に寄付した。現在は村内の希望者を募って捕獲させている」(齋藤ミチ子著「記録されたイザイホー ―画像から見た祭祀状況と聖域の変容―」)

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久高島のイラブ―漁

 女性は農業、男性は漁業
       
  久高島のイザイホーなど祭祀について紹介した。島の祭祀と民俗にかかわり、どうしてもふれておきたいのが、海蛇のイラブ―(永良部ウナギ)漁である。島の特産だ。島の周囲は、珊瑚礁でできた遠浅のイノー(礁湖)が広がっている。海岸の岩場にイラブ―はやってくる。イラブ―は昔から、食用としてだけではなく、薬用として重宝されてきた。
  久高では、女性は農業、男性は漁業を営んできたが、男たちは久高島でイラブ―を獲ってきたわけではない。島民がイラブーを獲ることは、制限されていた。

  採取者が決まっていたイラブ―漁
  比嘉康雄著『神々の原郷-久高島』(上、下)から、紹介する。       
  久高島では古くからイラブ―の採取権者が決まっている。それは久高ノロ家、外間ノロ家、外間根人(ニッチュ)家の、いわゆるミアムトゥと呼ばれる久高島の祭祀の中心的な家である。このミアムトゥから出自する神職者が、シマレベルのまつりの司祭者となる。つまり、イラブ―の採取権者は久高島のシマレベルのまつりを司る神職者の家なのである。
イラブ―の漁場を「アナグゥチ」「イラブガマ」といっている。つまりイラブ―の漁場は海岸の岩間である。漁場はミアムトゥに対応して3か所ある。

  久高ノロ家の伝統的なイラブ―漁は、村頭(注・シマレベルのまつりの雑事を担当する者)が加勢するが、実際にイラブ―を獲るのは村頭の妻2人(外間側・久高側)で、それに久高ノロ家が雇った婦人1人であった。つまりイラブ―獲りは女性だけとなる。
  イラブ―漁の時期は旧6月の初めから旧12月の末までである。最盛期は旧8・9・10月である。イラブ―漁の時期になると、先の3名の女性たちは毎晩イラブ―漁をすることになる。イラブ―漁のために作った小屋に仮眠をし、潮時を耳で聞き、イラブ―が寄って来る時に起きてイラブ―漁を始めるのである。
                    比嘉康雄他「神々の島」
   写真はイラブ―の燻製(比嘉康雄、谷川健一著『神々の島 沖縄・久高島のまつり』から)

  <夜更け、岩の裂目からそっと入り、洞窟の奥、波がひたひたと寄せてくる所に、じっと坐って待っている。やがて、ぴしっぴしっと音がして、イラブ―が波にのってやってくる。足元をするりと抜けるとき、さっと頭を掴むのだという=この項、比嘉康雄、谷川健一著『神々の島 沖縄の久高島のまつり』>
  久高ノロ家の現在のイラブ―燻製は、久高側村頭とその妻、外間側村頭とその妻、久高ノロ側が雇った男女の計6名でおこなっている。
  イラブ―の燻製は、ある一定量(120~140匹)の漁獲に達したとき、燻製作業がおこなわれる。
 燻製化したイラブ―は両村頭が交替で戦前からの取引先である与那原町の西銘永店(久高ノロの親戚)に出荷する。最盛期には島人の西銘竹太氏にも卸している。竹太氏は那覇の市場で売っている。
  <久高ノロのアナグチ(イラブーが産卵のために寄りつく場所)が一番よくイラブ―が捕れ、現在はほとんど久高ノロの方がイラブ―漁を行っている。久高ノロの燻製所は、久高殿の横にあるバイカンヤー。枯葉や炭火で10日近くもいぶすので、保存がきく。出来上がったものは、本島の市場に売り、その収益を久高ノロと村頭が分ける=この項、比嘉康雄、谷川健一著『神々の島 沖縄の久高島のまつり』>

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久高島の奇習「逃げる花嫁」

 久高島の奇習「逃げる花嫁」

  久高島には、結婚すると花嫁さんがお婿さんの家から逃げるという奇習があったという。いったいどういう風習なのか、比嘉康雄著『神々の原郷-久高島(上)』から紹介する。
  結婚式の翌日、婿側嫁側のそれぞれの実家で、夜、親戚が招待されてアトゥウェーがある。後宴のことである。後宴の翌日、婿家がまだ寝ている早朝、隣家から来て水汲みをしたり、お祝いの後片付けをしたりと働き、婿家が起きる時刻になると実家に帰って実家で食事をした。なお、アトゥウェー(後宴)後は、婿方の近所の家にも泊まることが許されない。
  <注・婚礼当日、水盃を交わし、夫婦の契りを結んだあと嫁の一行は、婿側があらかじめ決めてあった婿方の近所の家に向かう>
  もちろん実家にも泊まることができず、嫁は夜になると寝場所を求めて逃げ回ることになる。昼は婿方の畑の手伝いなどをしたりし、夕食の準備の手伝いまではして、夕食はとらずにこっそりと婿家を抜け出して、婿が捜せそうもないような友達の家とか、あるいは山の男子禁制のフボー御嶽なども良く隠れたという。友達が食べ物や寝具などを運んでくれた。婿はその友達数人を連れだって嫁捜しが毎夜おこなわれた。婿側には立入り捜査権が認められ、婿たちの家捜しにはどこの家も応じていたという。
  昭和の初め頃、ムラの協議の結果、嫁が逃げる期間を5日間と定めたので、それ以後は5日以内には嫁は婿につかまえられた。昔は1カ月、2カ月と一番長い人は1年も逃げた例もあったという。またあまり長く逃げるので婿はあきれ果て、捜すのをやめて出漁してしまい破だんになった例もあったという。
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                      久高島
 座敷イリーン
  つかまえられた夜から嫁は婿と寝ることになるが、いきなり2人で寝るというのではなく、婿の姉妹またはいとこ(女性)が嫁と婿の間に添い寝するという慣習があったという。2,3日ぐらいはそのまま寝た後、添寝役の女性は夜中にこっそり寝所をぬけ出し、2人にするというのである。

 女性は神のものと見る習俗があった
  なぜこういう風習があるのか、比嘉康雄氏はとくに解説していない。
そこには、女性を神のものと見る古い習俗があるらしい。
  池田弥三郎著『性の民俗誌』によると、「村の娘は、村の神の所有物だから、人間との結婚は、娘自身の意志ではないとよそおう必要があった。そうした『嫁かたぎ』の風習が残っているところがあった。沖縄の娘は結婚するとその夜から逃げ隠れてしまう。男は友人の力を借りてみつけなければならない』(「考えるための書評集」HP)。
  男性と結婚する場合、女性は神に対して自分の意志で結婚するのではないことを装う必要があった。そのために、結婚の契りをすると、昼間は畑仕事や食事の準備をするけれど、夜になると逃げてしまうのだ。
しかも、できるだけ早く捕まらないように逃げたという。
  戦前、久高島にも来た民俗学者の折口信夫氏は、この嫁入りしたときの島の習俗に関心を示したという。
日本の古代には、神に仕える女といふのは、皆「神の嫁」になります、だから「夫なる神の為に逃げ廻った」「現在でも、沖縄へ行って見ますと、さふいう事があります」として、久高島の例をあげている。
  「以前には花嫁が逃げてから早く捕えられると其村では殊に貞操観がやかましくて、結婚以前に会って居つたといふ事になつて、非常に悪く言はれ、爪弾きをせられる。だから、夜行きたくつても、出来るだけ逃げ廻るのです」(折口信夫著「古代生活に見えた恋愛」、ネット図書館「青空文庫」)
  
  三隅治雄氏は、折口が久高島でこの習俗を調査したことにふれて、「こうした、女に対して特に課した習俗の、この島にさまざま遺存している点を、折口先生は『わが国の昔女の有様を語つて居る』ものとして、なお肌目こまやかな採集を行われた」とのべている(三隅治雄著「女の祭り・女の働き」、『久高島の祭りと伝承』から)。
  折口氏は、この嫁入りのさいの習俗が「わが国の昔女の有様」が遺存したものと見ている。
  池田、折口氏らの説明を知れば、久高島でなぜ花嫁が逃げるのか、その意味がある程度理解できる。
花嫁が逃げる習俗の根底に、女性は神の所有物という思想があったとすれば、久高島のイザイホーの祭儀とは深いつながりがあるかもしれない。イザイホーは、島で生まれ、生きるすべての女性が30歳以上、祭祀集団に入り神女となる。その年齢の前であっても、島の女性はすべて生まれながらにして、将来は神女となる定めにあった。そういう「神の島」だからこそ、「逃げる花嫁」の風習が根強く残ったのではないか。素人的には、そんな気がする。

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神の島・久高島の祭祀と暮らし、祭祀集団

 久高島の祭祀集団

  島の祭りや行事を支えるのは、祭祀集団である。島の祭祀集団とその仕組みについて、桜井満編『神の島の祭りイザイホー』から、かいつまんで紹介する。
  久高ノロ家では、島に永住した最初の祖先はシラタルー・ファーガナシー兄妹だったと伝える。この兄妹が結ばれて一男三女が生まれ、長男マニウシは外間ニッチェ(根人)、長女ウトタルは外間ノロ、三女タルガナーは久高ノロの祖だという。ノロは孫継ぎであったが、現ノロから嫁継ぎになった。ノロの補佐役としてウッチガミ(掟神)がおり、ノロのもとに島で生まれた30歳以上70歳までの女性がミコ(巫女)として、ナンチュ(30~41歳)・ヤジク(42~53歳)・ウンサク(54~60歳)・タムト(61~70歳)の4段階に組織されている。
  この島の女性がミコとしてタマガエー(魂替え)する儀式がイザイホーである。ミコのことをタマガエーとも呼んでおり、神を畏れ敬う念は生活に根づいている。イザイホーに門中(注・ムンチュー、男系血縁集団)ウクリ神が特別の座を与えられるのも、セジ(霊力・呪力)の高い者を畏敬する風の現れであろう(桜井満著「セジたかき島のまつり」)。
                     イザイヤマからハンガマミヤの祭場に登場する神女、東方(ニラーハラー遥拝)
写真はイザイヤマからハンガマミヤの祭場に登場する神女たち(『沖縄久高島のイザイホー』から)
 
  神を祀る者
  イザイホーには久高島に生まれ育った30~70歳までの女性すべてが参加する。島の女性はナンチュ(30~41歳)・ヤジク(42~53歳)・ウンサク(54~60歳)・タムト(61~70歳)と年齢別に4階層に組織され、島の種々の祭りや行事にミコ(神女)として奉仕する。島の30~41歳までの女性は、このイザイホーに参加することによって、初めて神女の資格を得、ナンチュになるのである。そしてナンチュ以下タムトまで無事につとめると、テェーヤクと称し、島の一切の行事から解放される。
  島には外間ノロ・久高ノロ以下8人のクニガミ(国神)と称されるカミンチュ(神人)がおり、イザイホーはもとより、島の公的な祭りや行事を司っている。また門中の行事やそのほかに携る多くのウクリガミ、さらには漁の神を司るソールイガナシなどの神人もおり、これらの神人によって、島の祭祀集団が形成されている。

 1 ミコ(ナンチュ・ヤジク・ウンサク・タムト)
  ナンチュ イザイホーにおける3日3晩のナナツヤーでのおこもりののち、彼女たちはイキー(兄弟)を守るオナリ神に生まれかわるのである。この時にオナリ神としての神名を授けられる。タマガエーノウプティシジと称している。シジ(霊力)のウプ(大)なる神名を受ける意味である。
  ヤジク(ハタガミ) 前回のイザイホーでナンチュをつとめ、3年目ごとに順次この階層に進んでいるが、次のイザイホーでハタガミとしての神役をつとめて、はじめてヤジクになったことを正式に認められる。ナンチュのハタ(周囲)をとりまく人の意。
  ウンサク(ユラレガミ) ウンサクは酒の義で、祭りや行事で御神酒を接待する役をつとめる。イザイホーの時の呼び名はユラレガミ。ウンサクからは、3年目ごとの昇進はなく、次のイザイホーでタムトとなる。
タムト(ユラレガミ) 神女たちの元老格。祭りや行事においては、これといった役割はなく、ノロ・根神・掟神のお伴をし、これを補佐する。70歳をもってテェーヤクとなり、すべての神役から解放され、引退する。ただし、この時すでにウクリ神となっている者は、さらに終身そのウクリ神としての神役をつとめる。

 <比嘉康雄氏は、祭祀集団をナンチュ(30歳~41歳)、ソージャク(40代前半)、シュリユリタ(40代後半~50代前半)、ウンサク(50代後半)、タムトゥ(60歳~70歳)の5階梯に分ける。シュリユリタからタムトゥまでをヤジクという、としている。>
 <並木宏衛氏は、ナンチュから年上の順にウットゥヤジク(ソージャク)になり、それをつとめ終るとシュリユリタになる、はじめてヤジクとして認められる、としている(『久高島の祭りと伝統』)>

 2 クニガミ(国神)
  ノロ  久高島における最高の司祭者で、外間ノロと久高ノロがおり、御嶽の祭りをはじめ、久高島の公的な祭祀を司る。世襲・終身の神人である。(この島は以前外間・久高の両部落に分かれていた。そのために2人のノロがいるのであるという)。ノロが祀る神々は、ニライウプヌシガナシー等々35神あるという。
両ノロは。久高島を開いた神、シラタルー・ファーガンシーの直系の子孫とされ、代々孫継ぎであったが、近年は嫁継ぎとなっている。
  ニッチュ(根人)
  《外間根人》男性の神人としてはもっとも重要であるが、現在はまだ生まれていない(注・神役を継ぐ者が出ることを「生まれる」といっている)。
根人は、島の公的な祭りや行事にはほとんど参加するが、なかでも、「男の祭り」といわれる、旧8月12日のティーダーガミの祭りは、外間根人が中心となる祭りであり、ソールイガナシの任命権も、両根人にあるという。世襲・終身で、原則として長男が継ぐ。
  《久高根人》 終身の神人であるが、世襲ではなく、ウプンシミー門中から選ばれる。 
  外間根人と久高根人は、神人としては上下の差はない。

  ニーガン(根神) イザイホーにおいて、ナンチュたちの神名を占定する。
  ウッチガミ(掟神) 両ノロ・根神の補佐をとつめる終身の神人。
                  グゥキマーイ、神酒を準備するナンチュ、カチャーシー舞い
              写真は、イザイホーのグゥキマーイ(『沖縄久高島のイザイホー』から)

 3 ニーブトリ
  クニガミにもウクリガミにも入らない。ニーブは柄杓といい、ニーブトリは祭りの時に神酒を造り、その神酒を神にさしあげる役である。

 4 ウクリ神 
  ウクリンゴ・ムンチュウガミ・シジノカミサマなどとも称する。
  島には多くのムンチュー(門中、注・男系の血縁組織)がある。門中にはそれぞれムトヤ(元屋・本家)がある。ウクリ神は、ほとんどの者が、この門中のムトヤから出るシジ(霊力)の高い巫女であって、主として門中の祭祀を司る。
ウクリ神で、島に住む者は、ナンチュ・ヤジク・ウンサク・タムトといったいずれかの階層にある時、何らかの神からの啓示によって生まれ、次第にシジを高めていく。
  ウクリ神はシジタカサンでなければなれないという点がもっとも重要である。

 5 ソールイガナシ 
  カベールの神、タティマンノワカグラーをまつる。漁の神。
  村頭をつとめたのち、還暦を迎えた者から年齢順に定められる。生涯に一度はこの神人をつとめることになる。
  (並木宏衛、鈴鹿千代乃著「神と神を祀る者」)。

  祭祀の対象
  クニガミは島の公的な祭祀を、ウクリ神は門中の祭祀を、ナンチュ以上の神女はオナリ神として各家の祭祀を司るというように、整理することができよう。
  以上、久高島の祭祀集団については、桜井満編『神の島の祭りイザイホー』から紹介した。

  久高島のノロ制度
  比嘉康雄氏は、久高島にノロ制度の導入されたことによって、島の祭祀が変容したことを『神々の原郷-久高島(上)』で次のように指摘している。
  久高島にノロ制度が導入されたのは4、500年前であたったと思われる。以前はムトゥ家レベルの祭祀がおこなわれ、その内容もおもに健康とお祓いに関するものであった。それがノロ制度導入(実施)後、シマレベルの祭祀がおこなわれるようになっていった。
  ノロが直接司祭するまつりは、麦と粟の穀物に関するまつり、フバワク(御嶽まわり)とイザイホーである。ここでいえることは人びとの健康に重点を置いたまつりに、生産に関するまつりが新たに加えられたということである。言いかえれば、ノロ制度は人びとの健康を願う制度でなく、穀物の生産向上を主目的にし、つまり麦、粟(穀物)の生産力を政治権力が利用するための制度であったと、久高島のノロ制度から推察することができる。しかし、実際は、土地が狭く生産性の低い久高島に対して首里王府も穀物の生産高にあまり期待せず、むしろ琉球開闢の地、五穀発祥の地ということで久高島を位置づけていたと思われる。

  イザイホーの始まりはいつからなのだろうか。『沖縄久高島のイザイホー』の湧上元雄著「イザイホー見聞録」では、次のように指摘している。
  「さて第一尚氏最後の国王尚徳(1469年即位)に殉じて縊死を遂げた大里祝女国笠(クニガサ、根神に貶されてクンチャサンニガンとも)の後を継いだ大西銘祝女(ウプンシミヌル、本祀本祝女=フンシフンウル=とも)のころにイザイホー祭祀は始まったと伝える。そこには悲劇のヒロイン国笠の轍を島人に踏ませぬという意図と、怨霊への鎮魂慰撫の願いがこめられていたのである」
  尚徳王については、久高島参詣に出向いた際に、外間家の美少女祝女クニチサヤに心を奪われた。寵愛して王府への帰還を忘れている間に、首里でクーデターが起こった。尚徳は、急いで首里に戻ろうとしたが、行き合わせた舟で王家の虐殺と金丸の即位を聞き、海に身を投げて死んだという伝承がある。
  ただ、このイザイホーの始まりについての伝承が、どの程度、史実を反映しているのかは、わからない。そういう言い伝えもあるということに紹介である。

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神の島・久高島の祭りと暮らし、祭儀で謡われる神歌

  イザイホーのティルル
  祭儀の中で謡われる神歌には、島の人々の思い、願が込められている。
「イザイホーの歌には、ウムイとティルルがある。ウムイは香炉に向って坐って謡うもの、ティルルは立って舞いながら謡うものという区別があるのではないかという。アシビ(遊び)の歌はティルル、祈願の歌はウムイということになろうか」(桜井満編(『神の島の祭りイザイホー』)

  たくさんの神歌のなかから、一つだけ例示する。「七つ橋渡り後のイザイホーのムトゥティルル」である。その大意を比嘉康雄、谷川健一著『神々の島 沖縄・久高島のまつり』から抜粋で紹介する。
イザイホーのムトゥティルルを声高らかにうたいました。
どうぞナンチュたちを120歳までも長生きさせて下さい。
嶽々を栄えさせ
夫を栄えさせ、息子たちを栄えさせ、
元を栄えさせ、島を栄えさせ、
ノロの畑も、ムラ人たちの畑も栄えさえて下さい。
北の海へ行く、久高の男たちを守って下さい。
今年一年中、みんな、しあわせにして下さい。
神女たちは、
ニライカナイを拝み、天を拝み、
真南にあるスベーラキを拝みます。
明日の早朝には、もっと、もっと拝みたてまつります。
どうぞ、御神様、お聞き届けください。
  
  このティルルを読むと、久高島に生きる人々の深い信仰と、日々の暮らしのなかで思いや願いが刻まれている。

  神遊び
  イザイホーの儀式には、「アシビ(遊び)」という名称がついている。「ユクネーガミアシビ(夕神遊び)」から始まり、「カシララリシビ(かしら垂れ遊び)」、3日目の「ハーガミアシビ(井泉の神の遊び)」など。現代的な意味の「遊び」の観念とはまったく異なる。
  「久高島では、イザイホーの時にノロ以下のカミンチュ(神人)が歌い舞うことを、アシビまたはカミアシビと言う。折口信夫氏の言う『遊び』の原義――鎮魂のための歌舞が、ここに顕然と生きているのを知ることができるのである。
  また、そういう神遊びにうたう神歌を、この島ではティルルと呼んでいる。これをオモロとかウムイと呼ぶ人もあるが、ティルルとウムイ(オモロ)との間には区別があるようである。久高ノロ(安泉ナヘさん)の話によれば、ティルルは神様に申し上げることばで立ってうたうもの、ウムイは坐ったままうたうものではないかということである」(桜井満編『神の島の祭りイザイホー』)
  「遊び」は久高島だけではなく、広く沖縄の各地の祭祀にも残されている。

 年中行事が多い
 イザイホーは島の女性が神女になる儀式であるが、すでに1978年を最後に途絶えている。といっても、久高島には、年間を通してたくさんの祭りと行事がある。
                     005.jpg
                      久高島のカベール浜だと記憶する
  島の神々  
 久高島には、数多くの神々がいる。
  「久高島の人びとは、ウタキには常に祖先神がいて島を守り、カベールムイには竜宮神がいて海の幸をもたらし、東方の海の彼方、久高島の人々の死後の世界であるニライカナイからは、神が定期的に島を訪れ、祓い清めてくれる。天には太陽と月の神がおり、常に島人のしあわせをもたらしてくれると信じているのである」(比嘉康雄氏、『神々の島 沖縄・久高島のまつり』)
 
  年中行事は、じつに、27回も行われている。祭りは、神女たちの主催する、農耕に関する祭りと、男たちが主催する、海に関する祭りを柱に、ムラ人たちの健康祈願、祓い清めの祭り、それにニライカナイからの来訪神に関する祭りなどに大別される。祭りは、1ヶ月に1~2回、多いときは4回もある。祭りの日取りは、ティキガナカ(月の中の意)のミンニーの日が良いとされる。ミンニーとは、みずのえ、みずのと、きのえ、きのと、の4日間のことで、きのえ、きのとはウットゥ(弟)ミンニーといわれている。この日取りは、ノロなどのクニガミ(ムラ単位の祭りを司祭する神)たちが決める。あらかじめ、日が決まっている祭りは、旧正月、旧3月3日、旧3月29日のハマシーグ旧6月1日のキシウマーイ、旧6月16日のミルクグヮッティ、旧7月29日のヤーシーグ、旧8月祭、旧11月13日のアミドゥシなどである。祭りの場所は、外間殿、久高殿、各ムトゥ、浜、フボーウタキを中心にタキダキで行われる。
(比嘉康雄、谷川健一著『神々の島 沖縄・久高島のまつり』)


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神の島・久高島の祭りと暮らし、イザイホー

  島の女性が神女になる「イザイホー」
  沖縄では姉妹が兄弟を守護するという「オナリ神」信仰が根強く残っている。
久高の女性たちが、久高の祭祀組織に入る儀式が、イザイホーである。はじめに、簡略にその模様を見ておきたい。
「イザイホーは、久高島で生まれた、丑年の30歳から寅年の41歳までの女が、祖先のシジ(セジー霊威)を受け、島の祭祀組織に入る儀式である。女たちは、1ヶ月前のお願立てを初めとし、7回のタキマーイ(嶽通い)をして、イザイホー第1日目の早朝、祖母の家に行く。祖母の高炉から自分の高炉へ灰を引き継ぐことで、祖母から孫娘へのシジ(霊威)の引き継ぎが行われる。 
              七ツ橋、七ツ屋、タマガエーヌ香炉引継ぎ
写真は「タマガエーヌ ウプティシジ香炉の引継ぎ(『久高島のイザイホー』から)

  次に来世のシジ神(祖霊神)と現世の祭祀組織の頂点であるノロと根人から、久高島のミコになることの認証を受け、はじめて、ナンチュと呼ばれる神人になるのである。祭りは、霜月15日、子刻、ユクネーガミアシビ(夕神遊び)から始まる。それによってシジ神の認証を受けたナンチュたちが、2日目に洗い髪で、神々たちに、その披露をするカシララリアシビ(かしら垂れ遊び)、3日目、ノロ、根人からナンチュの認証を受ける朱リィキィの儀式とイザイ花を髪に挿してのハーガミアシビ(井泉の神の遊び)、4日目、イザイホーに降臨したニライカナイの神々を送るアリクヤー。ナンチュが、男兄弟とミキを交わすアサンマーイ。そうして、無事、イザイホーの儀式が終了した祝いの舞い、グゥキマーイ(注・後家廻り)が、鮮やかな扇をかざして舞われ、1日間をおいて、シデガフーという感謝の宴で祭りは終わる。 
                  お願立て、祭場作り
          写真は「お願立て 久高殿」(『久高島のイザイホー』から)

  ナンチュになった女たちは、ふたたび畑に戻り、島の栄えを、一家の栄えを願う。作物が豊穣であるように、海がその幸をもたらすように。――そして、なによりもまず、海人であるわが夫、わが息子の無事を祈るのである」(比嘉康雄、谷川健一著『神々の島 沖縄・久高島のまつり』)

  最近見た映画「イザイホー」では、白装束の女性たちが「エーファイ、エーファイ」と叫びながら、ナナツ橋を行きつ戻りつ渡る姿が強く印象に残る。繰り返されるその光景は、女性たちがもう神女として異界に入りつつあるような雰囲気を醸し出している。
 
  「エーファイ」の掛け声は、どのような意味あいがあるのだろうか。
  「久高ノロの御主人で島のよき指導者である安泉松雄氏は、久高の方言で『畏多い』ことをエーミサンというので、これが訛ったのではないかと推測される」(『神の島の祭り イザイホー』、桜井満氏)
  「エーファイ」という掛け声は、イザイホーの祭儀に常になされるもので、悪神を除いて良神を呼び寄せる意味があるという(同書、高橋六二氏)。 

  イザイホーの流れとその意味
  イザイホーの儀式の流れはどのような意味あいがあるのだろうか。もう少し詳しく見てみたい。桜井満編『神の島の祭り イザイホー』(尾崎富義著「まつりの日々」)から紹介する。
  イザイホーの神事を流れに沿ってみていくとき、二つの大きな儀式から成り立っていることに気付く。そのひとつは、初めの二日間は巫女(注・神女)の資格を得るための物忌み、三日目は資格授与、四日目はニライの神を迎えての祝福と共食という流れである。つまり海の彼方ニライカナイの神を迎えてまつることを第一義とする神事だという指摘である。
  そして今ひとつはナンチュが兄弟のオナリ神になるまでの一連の儀式ではなかったかということである。
  まず第一日目ユクネーガイの中心は、いうまでもなく七つ橋渡りにある。
                      七ツ橋渡り、アシャギに入った後祭場、ハシララリアシビ
       写真は「七ツ橋渡り」(『久高島のイザイホー』から)
  <新参のナンチュは、神アシャギの入り口におかれたナナツ橋を渡り、アシャギの後方のアダンの森イザイ山に建てられたイザイヤーにこもり、イザイガー(注・井泉)で禊ぎをくり返す。不貞の女はナナツ橋から落ちて血をはくといわれるように、ナナツ橋は、汚れなき女性がこの俗世界から隔絶された聖地イザイ山にはいるための橋であった。そして、クバやカヤで葺かれたイザイヤーで厳重な物忌にこもり、神聖なイザイガーで禊ぎをくり返すことによって、神に斎きまつるミコとしての資格を得るのであった(この項、桜井満著「セジ高き島のまつり」)>
   橋を渡った彼岸は穢れなき聖地である。それゆえに不貞の者は橋から落ちて死ぬという説明が生れてくる。聖地の穢れるのを忌むのは、何もイザイホーに限ったことではない。しかし、イザイホーにおいてこのことは特に重要視される。
ナナツ橋渡りの本義は、喧伝されたような貞操試験にあるのではない。それは聖域に入る儀礼であり、兄弟のオナリ神たりうるかどうかの選定であったのではなかろうか。
 
  次の二日目は忌籠りである。いったんイザイヤーに籠ると、グキマーイ(後家廻り)までは家族と会うことも許されない。子の刻と寅の刻に神遊びをして、早朝にはイザイガーで潔斎をするというのも、巫女またはオナリ神として神を祀り、兄弟を守護する資格を得るための厳しい物忌みであったのだ。
 
  三日目のシュティキ遊びはいわば合否の判定である。
  <ミコになった印に、根人がナンチュの額と両ほほに朱印をつけ、ナンチュのイキ(兄弟)が差し出すシュジィと称する米の粉の団子でノロがナンチュの額と両ほほをおす。兄弟が登場するのは、姉妹オナリ神の信仰に由来する。この項、桜井満著>
  押印に使われる団子上のものをシュジィ(またはスジ)と呼ぶのは、霊力・守護霊を意味する。このシュジィを兄弟が持つのもそれだけの理由があったに違いない。
                   朱リィキ全景、根人の朱リィキ、花さしアシビ
           写真は「花さしアシビ」(『久高島のイザイホー』から)                          

   四日目のグキマーイ(注・ナンチュが各自の家に立ち寄り兄弟と対面する)は認定の報告である。ナンチュがハブイを被りアダカの葉を押すのは、無事に守護霊を得てオナリ神となり得たしるしであったのだ。このときもまだ兄弟がこのハブイとアダカを受け取り外間殿まで持って行く。イザイホーにおいて兄弟はきわめて重要な責務を課せられていることがわかる。
   それゆえにナンチュになるに際して、兄弟のいない場合は甥でもよいし、ときには知人でもよい。とにかく兄弟を定めなければならないという。
   なお、この日のアリクヤー(注・アリクヤーの綱引きともいう)もまたオナリ神としての守護霊を得るための祭儀とみなすことができるであろう。
   ともあれ、沖縄では姉妹が兄弟を守護するという信仰が根強く息づいている。今こうしてイザイホーの神事に、選定―物忌―判定―報告といった一連の祭儀の流れをみるとき、イザイホーには、オナリ神信仰に基づく重要な意義があったことに気付くのである。
                      東方遥拝後の四方拝、アリクヤーの綱、グゥキマーイ
      写真は「アリクヤーの綱」(『久高島のイザイホー』から)

 オナリ神信仰
  沖縄のオナリ神信仰について、ついでにもう少しふれておきたい。
  沖縄の古層文化に母系社会が久しく存続したせいか、王府の抑圧にも拘らず、辺地や離島には兄妹始祖の民間伝承が数多く残された。沖縄の諺に、「御神一つの近親類(ウチヤンテイチヌチキヤオンバダン)」とあるように、祖神すなわち原母から生まれた兄妹による最初の夫婦から広がって血縁共同体のマキョやサトが成立したというのであろう。
  沖縄の「おなり(姉妹)神」信仰はその論理にもとづく。それは王権祭祀における国王とそのおなり神の聞得大君(キコエオオキミ)、村落祭祀における根人と根神、家の祭りの「ゑけり」(兄弟)とおなりとの関係でも、その原理は貫かれていた。そしてそれが原初的な姿でもっとも色濃く残っているのが、久高島の年中祭祀であり、イザイホー祭りではないだろうか。
  湧上元雄著「イザイホー見聞録」(『沖縄久高島のイザイホー』)から紹介した。

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