レキオ島唄アッチャー

南島に現れる仮面、仮装の神々、世界に広がる仮面文化

 世界に広がる仮面文化

 これまで南島の異形の神々について、紹介してきた。「なぜ顔を隠すのか」について、外間守善氏の見解を見てきた。「なぜ顔を隠すのか」とは「なぜ仮面をつけるのか」という問題につながる。「人はなぜ仮面をつけるのか」について、自分なりにもう少し検討してみたい。
 民族の祭りに仮面(マスク)が登場する風習は、古くから世界各地に分布しているそうだ。
 
 <人類はなぜ「仮の面」(仮面)を必要としたか。仮面は、人類文化の原始時代から存在し現在に至っているし、地球上の各地域に多様に存在している。
 人類は強大な他の動物に比較すると、肉体的にきわめて非力である。そのうえ、他の動物と違って、死、病気、災禍などを事前に意識して不安になる。
 仮面は、かぶることだけで存在自体の表情を変えることを可能にする。神や祖霊や妖怪(ようかい)などの仮面をかぶれば、人類はそれら超自然的存在になった気になれる。
 仮面をかぶることにより、人は自己であると同時に自分以外の別の存在ともなるので、人間がたとえば神や精霊や妖怪悪魔や祖霊や死霊などの仮面をつけ、それらの存在となり、一般の人々が仮面をつけた人間をそれらの超越的な存在とみなすという図式ができるので、仮面は超越的存在と人間とが霊的に交流する媒体となるもの、といえよう。
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                         八重山のアンガマ面
 災禍は、悪霊の仕業と考える。悪霊を追い払うには、それ以上の力で対抗しなければならない。したがって、シャーマンが恐ろしい形相の仮面をつけ、太鼓など打ち鳴らして祈祷(きとう)する風習が珍しくない。
 病気ばかりでなく種々の厄払いの盛んな所の一つが日本で、節分をはじめとして悪鬼・災禍を払う祭り用の鬼などの面が多彩にある。こうした仮面は、家に掛けておくだけで招福除災になるとされ、飾り仮面として世界のあちこちに存在する。>

 以上は「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」から抜き書きである。
非力な人間が仮面を着けることにより、超自然的存在になれる。悪魔を追い払うためにはそれ以上の力で対抗しなければならない――とのべていることが注目される。
 世界各国の300を超える仮面を精力的に蒐集した芹沢銈介氏も同様の見解を示している。

<「仮面」は、自身以外になるための「変身」の道具であり、また目に見えない、人間を超越した力の持ち主を表現したものといえるでしょう。それは神であり、精霊や鬼神でもありました。…
 アフリカの諸部族において仮面は、政治や特殊な結社、裁判、農耕や収穫の儀礼、成人儀礼、葬送、魔除けなど日常生活のすべてにかかわる、 なくてはならない存在です。強調された目鼻や装飾は、自然界と人間界の秩序を、仮面が支配していると言ってよいほどの強いインパクトを感じさせます(「芹沢銈介があつめた仮面」から )。>

 仮面をつけることは、外間氏がのべるように、「異界の神と現世の人との区別」というだけでなく、仮面は「人間を超越した力の持ち主を表現したもの」となる。
 パプアニューギニアの仮面文化は、南島の仮面神と似ているらしい。
        パプアニューギニア マスクフェスティバル 観光局ニュース 
                パプアニューギニア「ナショナル・マスク・フェスティバル」
           (同政府観光局ニュースレターから)
 <毎年7月にニューブリテン島で開催される「ナショナル・マスク・フェスティバル」はPNG(パプアニューギニア)の仮面と部族が一堂に会するお祭りですが、中でも飛抜けて個性的なのが、胴体を葉っぱで覆われた個性的な仮面神「トゥブアン」、そしてトンボの目のようなマスクを被った「バイニンマン」。一方、鹿児島県南西諸島のお盆祭りに登場する仮面神を見てみると、悪石島の「ボゼ」、硫黄島の「メン」は日本らしからぬ、南洋文化の影響を感じさせる風貌のマスク。これらをよく見比べてみると、どことなく似ているような…。
 (ラピタ人の一部は「黒潮」の流れに乗って、日本の南西諸島に到達したと考えられており)日本とパプアニューギニアは同じ起源を持ち、太平洋という海と仮面文化を共有する仲間である、と考えると何だかワクワクしてきます。(パプアニューギニア政府観光局ニュースレターvol24)。>

 すでにアカマタ神のところで紹介したように、喜舎場永珣氏も、神事に唄われている歌の節々には「唐」「真南蛮」「安南」などの地名が出てくることから、「南方地方との関係がすこぶる濃いように思われる」とのべていた。異形の神々の仮面、草装の姿など見ていると、なんらかの南方との関係があるのかもしれないと考えたくなる。

 最後に私の個人的な感想をのべておきたい。
 南島の異形の神々の役割の本質は「稲作豊穣の感謝、予祝」(外間氏)とされるが、その多くは、悪魔祓いをして幸いをもたらしてくれる神々である。仮面、仮装につけた泥を住民が付けられると,悪魔祓いの利益がある(悪石島ボゼ、宮古島パーントゥ)、手に持つ枝葉で叩かれると災厄を祓われる(薩摩硫黄島のメンドン)、悪魔払い、厄払いの神(小浜島、ダートゥーダー)など。
 
 悪魔や災厄を追い払うためには、悪魔に対抗できる力をもつ必要がある。仮面をつけることによって、超越的な存在となり、霊力をもち、災厄を追い払い、豊作や幸せをもたらしてくれると信じられたのではないか。
 恐ろし気な形相の仮面、仮装を写真や動画で見ていると、そんなふうに思えてならない。世界と日本の各地で、その姿や名称は異なっても、仮面、仮装という点では共通性をもつ異形の神々の祭祀が生まれて、伝統ある民俗文化として受け継がれてきた。
 非力でたえず自然災害や凶作、疫病などの災禍、病気や死の不安にさらされ、災厄を払い豊年や幸福をもたらす神の出現を待望する人々の願望が、仮面、仮装したり、泥をつけることによって、人間を超越した存在となり霊力をやどす異形の来訪神を生みだしたのかもしれない。改めてそんな思いを強くした。
    終わり        2018年6月20日                文責・沢村昭洋


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南島に現れる仮面、仮装の神々、なぜ顔を隠すのか

 なぜ異形の神々は顔を隠すのか
 「来訪神:仮面・仮装の神々」をユネスコ無形文化遺産登録に提案しているということは、これらの祭祀がとても重要な民俗行事であることを示している。私が興味を持ったのも、本来、豊作や厄払いなど人々の願いをかなえてくれる神々なら、沖縄のミルク神や仏像の弥勒菩薩のようなふくふくしい顔を思い浮かべる。だが、これまで見てきた南島はじめ各地に現れる仮面・仮装の神々は、その多くは恐ろし気な形相である。その特異な形相にはどんな意味が込められているのだろうか。

 また、これらの神々は仮面や仮装という共通項はあるけれど、それらの異形の神は、たまたまそれぞれ独自に生まれたのか、それとも一部であってもなんらか影響を及ぼした関係があるのか、ないのかなど、もっと深く知りたいという思いがわいてくる。
なぜ神々は仮面をつけ、仮装するのかについて、外間守善氏は論文「異形の神の顔かくしの論理」で次のような考察をしている。
 
 <なぜ神々は顔をかくすのだろうか、ということについて考えてみたい。
 日本本土の来訪神は正月に現われ、南島の来訪神は節祭(旧暦7月で南島の正月)に現われるが、そのことについて下野敏見は、稲作中心の生活サイクルの組み立て方、神祭りのし方、来訪神の迎え方に拠るのであろう、というような推論をしているが、卓見であると思う。
 異形の来訪神は、恐ろしい仮面の様相から悪神にされている地方もあるが、その役割の本質は稲作豊穣の感謝、予祝であり、村や人々に平和、幸福をもたらす有難い来訪神なのである。>

 異形の来訪神の役割の本質は「稲作豊穣の感謝、予祝」であり、「村や人々に平和、幸福をもたらす有難い来訪神」だとする。
民俗学的には「来訪神と祖霊神を二分立する考え方」もあるが、「本来的には祖霊神も来訪神だったわけであり、深層でのつな がり、根は同一だった」、沖縄の祖先神アマミクも「そのもとは来訪神だからである」とする。
      悪石島ボゼ、鹿児島県観光サイト 
           悪石島のボゼ(「鹿児島県観光サイト」HP)
 「では、来訪神であれ、祖霊神であれ、異形なさまで出現する神々は、なぜ顔をかくし、風体をやつしているのであろうか」と本題に入る。
 <私は、その理由を二つに分けて考えている。その一つは、聖なる神と俗なる人との分別であると思う。異界からやってきた神の尊厳を維持するために、顔かくしの仮面をし、草装をすることで、形にみえる区別をしたのがまず一つに理由だと思う。異界の神と現世の人とは、そういう形で厳然と区別されたわけである。>
 
 仮面や仮装によって「異界の神と現世の人」を「厳然と区別」する意味があるとする。現世の人とあまり変わらない姿では、現世を超越した神らしい神聖さを感じないからだろうか。
  外間氏は、もう一つに理由として、民俗学者の折口信夫が、「『やつす』ということは、もとは、神祭り、寺の法会に参列する人は、禁欲生活にはいりげっそりと衰える。その後に人格が転換して神聖なるものになる」との解説を引用しながら、次のようにのべている。

 <古くは、身を「やつす」ことで人格が神格に成り変わっており、…「やつす」という語は、みすぼらしい、みにくい姿をやつして(仮装して)おのが姿をよりよくみせようとすることから、「やつす」そのものが、おめかしをするという意味に変わってきていることがわかる。>
 沖縄本島本部町伊野波のシヌグに伝わる来訪神ムックジャーがみすぼらしい姿に「やつし」て出現してきたことをはじめ、各地の来訪神が顔に黒い泥を塗ったり、赤や黒の面、面に赤と黒の配色による条紋をほどこしてることなどは「やはり一種のいろどりであり、『やつし』だとみられないだろうか」と指摘する。

 「『やつす』は、まさに、おめかしの原初的な姿であったことになる。少なくとも、おめかしをするという美学の原理は、『やつす』という語にかかわっていたわけであり、異形の神々の顔かくしの意味の一つがほどけてきたようである」との見解をのべている。
 外間氏は、「みにくい姿をやつして(仮装して)おのが姿をよりよくみせ」、「やつす」ことで「人格が転換して神聖なるものになる」とみる。
 来訪神、仮面・仮装の神々が、顔を隠すのは、そこに深い意味が込められている。お互いの影響関係は分からないが、こうした神々を生みだされた背景には、それぞれの地域で、そこに生きてきた人々の長い暮らしの営み、歴史がある。
  こういう神々の祭祀が、ユネスコ無形文化遺産として登録されれば、改めて大きな注目を集めるだろう。貴重な民俗文化として後世に伝えていきたいものである。


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南島に現れる仮面、仮装の神々、秋田のナマハゲ

 秋田・男鹿のナマハゲ
 
 ユネスコ無形文化遺産登録めざす文化庁の提案の紹介の続きである。
<男鹿(おが)のナマハゲは,秋田県男鹿市に伝承される,正月に行われる行事である。当地では,大晦日(12 月31 日)の晩になると,ナマハゲと称する神が人里を訪れるとされ,家々を巡り歩き,新年を祝福する。昭和20 年代までは小正月(1 月15 日)に行われていた。
         
男鹿ナマハゲ、文化庁
                                 男鹿のナマハゲ(文化庁の提案文書から)
 囲炉裏などで長く暖をとっていると,手足に火斑(ひだこ)ができるが,これを当地ではナモミといい,何もしない怠惰の表れと解している。ナマハゲはそのナモミを剝ぎとってしまう,ナモミ剝ぎの転訛とされ,すなわち怠惰を戒めるの意からそう呼ぶようになったとされている。
 ナマハゲは,各地区の青年たちが扮するが,大きな鬼の面を被り,ケデ(藁蓑)を身にまとい,手には包丁や桶を持つなどして「泣く子はいねがー,親の言うこど聞がね子はいねがー」「ここの嫁は早起きするがー」などと大声で叫びながら家々を巡り,その都度,当家より料理や酒で丁重にもてなされ,去っていく。
 
 この行事は,年初に当たって神々が訪れ,人びとに祝福を与え,地域に幸いをもたらすといった行事である。類似の行事は全国に分布するが,特に男鹿のナマハゲは,我が国の民間信仰や神観念の形態をよく示しており,秋田県男鹿半島における来訪神行事の典型例として重要である。>


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南島に現れる仮面、仮装の神々、薩摩硫黄島のメンドン

 薩摩硫黄島のメンドン

 ユネスコ無形文化遺産登録めざす文化庁の提案の紹介の続きである。
 <薩摩硫黄島(さつまいおうじま)のメンドンは,鹿児島県三島村の硫黄島に伝承される,季節の節目に行われる行事である。毎年,八朔の行事日となる旧暦の8月1日・2 日に,メンドンと称する神が現れ,地域と人びとの邪気を追い祓う。
  メンドンには,若者や子供たちが扮する。蓑を身にまとい,頭にはテゴと呼ぶ籠に紙を貼って作った奇怪な面を被る。手にはスッベと呼ぶ枝葉を持つ。夕方,神社の前で若者たちが輪になって太鼓踊りをしていると,突如,拝殿奥から1 体のメンドンが走り込んできて,踊り手の周囲を3 周し,去っていく。
           薩摩硫黄島メンドン、文化庁 
               薩摩硫黄島のメンドン(文化庁の提案文書から)

 これが終わると,次々とメンドンたちが走ってきては,踊りの邪魔をしたり,飲食に興じる観客たちの中に分け入るなど,悪戯をはじめる。手に持つ枝葉でしきりに叩くが,これに叩かれると魔が祓われてよいなどという。こうして,メンドンらは神社を出たり入ったりしながら,せわしく駆け回るが,踊りの終わったあとも夜中まで所かまわず出没,徘徊している。

 この行事は,夏・秋の節目に当たって神が訪れ,地域とその人びとの災厄を祓うとともに,幸いをもたらすといった行事である。類似の行事は南西諸島に分布するが,なかでも薩摩硫黄島のメンドンは,我が国の民間信仰や神観念の形態をよく示しており,種子島・屋久島地方における来訪神行事の典型例として重要である。>


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南島に現れる仮面、仮装の神々、甑島のトシドン

 鹿児島県甑島のトシドン 
 
 ユネスコ無形文化遺産登録めざす文化庁の提案の紹介の続きである。
<甑島(こしきじま)のトシドンは,鹿児島県薩摩川内市の下甑島に伝承される,正月に行われる行事である。当地では,大晦日(12 月31 日)の晩になると,トシドンと称する神が山の上に降り立ち,首のない馬に乗って人里を訪れるとされ,家々を巡り歩き,新年を祝福する。
         甑島トシドン、文化庁 
                     甑島のトシドン(文化庁の提案文書から)
 
 トシドンには,男たちが扮する。長い鼻に大きな口の奇怪な面を被り,藁蓑のほか,シュロ(棕梠)やソテツ(蘇鉄)の葉などを身に付ける。各家の戸口で馬の足音をさせてから屋内に入ると,特に子供達に,大声で脅したり,本人から日頃の暮らしぶりを問いただし,よい子になるよう諭し,ときとして褒めるなどする。こうして最後には,子供に褒美としてトシモチ(歳餅)と呼ぶ大きな餅を与え,背中に戴かせ,去っていく。歳餅もちは,これを貰わないと1つ歳を取ることができないとされており,いわゆるお年玉の初原と考えられている。
 
 この行事は,年初に当たって神々が訪れ,人びとに祝福を与え,あるいは訪れることで歳改まるといった行事である。類似の行事は全国に分布するが,なかでも甑島のトシドンは,我が国の民間信仰や神観念の形態をよく示しており,南九州の来訪神行事の典型例として重要である。>




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南島に現れる仮面、仮装の神々、悪石島のボゼ

 ユネスコ無形文化遺産登録めざす来訪神
 こらからは、沖縄以外の異形の神について書いておきたい。このブログを書いているうちに、「来訪神:仮面・仮装の神々」のユネスコ無形文化遺産登録に向けて文化庁が提案していることを知った。対象になっているのは、以下の国指定重要無形民俗文化財である「来訪神」行事10 件である。
・甑島のトシドン(鹿児島県薩摩川内市)
・男鹿のナマハゲ(秋田県男鹿市)
・能登のアマメハギ(石川県輪島市・能登町)
・宮古島のパーントゥ(沖縄県宮古島市)
・遊佐の小正月行事(山形県遊佐町)
・米川の水かぶり(宮城県登米市)
・見島のカセドリ(佐賀県佐賀市)
・吉浜のスネカ(岩手県大船渡市)
・薩摩硫黄島のメンドン(鹿児島県三島村)
・悪石島のボゼ(鹿児島県十島村)
 
 このなかから、九州以南の離島の来訪神と本州では、有名な秋田のナマハゲだけを紹介したい。

            悪石島ポゼ、文化庁
            悪石島のボゼ(写真は文化庁の提案文書から)

 トカラ列島・悪石島のボゼ

 <悪石島のボゼは,鹿児島県十島村の悪石島に伝承される,季節の節目に行われる行事である。毎年,盆の最終日となる旧暦7 月16 日に,ボゼと称する神が現れ,地域と人びとの邪気を追い祓う。
 ボゼには,3 名の若者たちが扮する。赤土と墨を塗りつけた異様な仮面を被り,体にはビロウの葉を巻き付け,手足にはシュロ皮やツグの葉を当てがう。手には,それぞれボゼマラと称する男根を模した長い杖を持つ。この日の夕方,ボゼは呼び太鼓の音に導かれ,盆踊りで人びとが集まる広場に現れる。ボゼは,ボゼマラの先端に付けた赤い泥を擦り付けようと,観衆を追い回す。この泥を付けられると,悪魔祓いの利益があるとされ,特に女性は子宝に恵まれるなどという。騒ぎがしばらく続いたのち,太鼓の音がゆったりとしたリズムに変わると,ボゼは体を揺するようにして踊りはじめ,再度急変の調子で再び暴れだし,その場を去っていく。
 
 この行事は,夏・秋の節目に当たって神が訪れ,地域とその人びとの災厄を祓うとともに,幸いをもたらすといった行事である。類似の行事は南西諸島に分布するが,なかでも悪石島のボゼは,我が国の民間信仰や神観念の形態をよく示しており,トカラ列島における来訪神行事の典型例として重要である。>
 
 以前に、下野敏見著『トカラ列島―南日本お民俗文化誌3』で悪石島ボゼについて読み、驚いたことがあった。宮古島のパーントゥとなんらかの影響はないのだろうか、と思った。いまのところ、それは不明だが、琉球弧の島々で、こんなに仮面神があることにとても興味を持つ一つのきっかけとなった。


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「ヒヌカンのはなし」を聞く

 「沖縄県民カレッジ――美ら島沖縄学講座」で今回は「ヒヌカンのはなし」と題した講演があった。講師は沖縄国際大学非常勤講師の稲福政斉氏。以下、稲福氏の講演から勝手にかいつまんで紹介する。

1、ヒヌカンとは何か

 人間生活に欠かせない火や水はありがたい存在であると同時にそれへの畏れから、火や水を崇める火の神、水の神は世界どこにもある。

沖縄のヒヌカン(火の神)信仰は、古くから火への信仰と中国の竈神(かまどの神)信仰が融合したもの。
 沖縄では位牌より古くから信仰の対象とされた。

昔のヒヌカンは、石を3つ置いたもので、その原型は鍋を火にかけられるように石を3つ置いた「3石カマド」である。カマド自体がヒヌカンだった。

ヒヌカンの呼称には、ヒヌカン、フィヌカン、ピナカン(火の神)、ヤヌカン、ダヌカン(家の神)、ウカマ(御竈)、ウミチムン(御三つ物、3つの石)などある。

 

2、ヒヌカンの機能

1)一家の守護神

ヒヌカンは、火とは関係のない、一家の繁栄、家族の健康、家族の出産・結婚・死亡など日常の家庭内のあらゆることを拝む。ファイアー(火)の神ではなく、一家の守護神である。

各家庭のヒヌカンはそれぞれの家の神で、普通家族以外の人は拝まない。

(2)ウトゥーシドゥクル

 御通し所、遥拝所のこと。親元の位牌や祖先の墓を拝むことができない場合、ヒヌカンを通して祈願や報告をすれば、祖霊に通ずると考えられる。

               

            


        「御願ハンドブック」
          ヒヌカン概観図(『よくわかる御願ハンドブック』から)
    
 3、ヒヌカンのまつりかた

 伝統的なまつりかたは、カマドの後方に3個の石(ミチムン)を置き、神体あるいは「よりしろ」(依代、神霊がよりつく物)とした。古くは、カマドそのものをヒヌカンとして拝んだ。

 戦後、神体や「よりしろ」は3個の石からウコール(香炉)へとなった。家庭の台所にカマドがなくなり、祀る場所も、カマドの背後からコンロ後方や壁付の棚へと変化した。

 とくに近年みられる傾向として、ステンレス製のヒヌカン置台が用いられる。白い磁器のウコールやハナイチ(花生)が普及した。

 若い世代のヒヌカンの祭祀儀礼について、ヒヌカンの上天、下天(別途説明)などの再認知が広がっている。その背景には、ユタの指導やヒヌカンのやり方の伝承が途絶えてきて、マニュアル本から知識をえる影響も大きい。

 

4、上天と下天

 ヒヌカンは、年に一度旧暦1224日に天に上り、家族の1年間の行いのすべてを天の神に報告するとされる。
 ウグヮンブトゥチ(御願解き)もこの日に行なう。1年の成就したことに感謝し、不幸なことは解消するように願う。本来は上天、下天とは関係なかったが、いまは合わせて拝むようになっている。

 天に上ったヒヌカンは、下天する。そのさい1年間の家族の行いを記録する新しい帳簿を携えてくる。その日は、地域や家庭による異なる。12月末日、11日、13日、14日(中国南部)。沖縄では、下天が14日では、正月3日間は不在となり、年始の御願をするのに困るので早く帰ってきてほしいという思いがあり、12月末日や11日になったのではないか。

ヒヌカンは3体の神で、このうち2体は年末に天に上って、家族の行いを報告し、1体は残って家族を守るとする地域もある。

 

5、ヒヌカンの性別、数や禁忌

 ヒヌカンの性別と数は、中国では現在はおおむね男神1体とされる(1組の夫婦と考えられた時期もあった)。日本では、男神とする地方が多い。1あるいは3体。神の種類によって異なる。

 沖縄では、女神と考える傾向が強い。数は3体とされることが多い。3個の石を置いたことから、供物も3個供えるため。

 ヒヌカンをめぐる禁忌として、「台所では大声でどなったり、文句を言ったりしてはならない」。ヒヌカンは耳が遠いため、自分に文句を言っていると勘違いされ、怒りにふれるとされる。

 「供物のウサンデー(お下がり)は男が食べていけない」。ヒヌカンのウサンデーは、女性のものとされる。

 「ウコール(香炉)の掃除は12月24日以外にしてはならない」。香炉の灰の中には、ヒヌカンが家族の行いを記録した帳簿が隠されているとされ、普段みだりにさわると、帳簿を処分しようとしていると勘違いされ、怒りにふれるとされる。

 大筋、このような話だった。沖縄の人にとってヒヌカンは、日常生活の上でもっともお世話になっている神とされる。それだけに、質問コーナーでは、県民カレッジの講座としては最高の40通ほどの質問が寄せられ、関心の高さが示された。


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友寄の獅子舞

 友寄の獅子舞
 ヒスイカズラを見に行った八重瀬町友寄(トモヨセ)は、伝統のある獅子舞で知られる。といっても、まだ見に行ったことはない。でも、集落の中にある友寄馬場公園には、巨大な獅子像がある。像の中は上り階段があり、滑り台になっている。滑り台はとても急な斜面で、滑り降りるのにヒヤッとする感じだが、子どもたちは楽しそうに滑っていた。
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 「字友寄には友寄の獅子舞をモデルにした沖縄一の巨大獅子舞滑り台(高さ7.13m、幅9m)を設置し『獅子の里』として、まちのシンボルとなっております」(旧東風平町HPから)
 台地のような場所にある公園は、緑地が長く伸びていて、かつては馬場だったことがわかる。
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 獅子舞は沖縄に古くから伝わる伝統芸能で、多くは旧暦8月15日の夜に演じられる。その中でも180年の伝統を誇る字友寄の獅子舞は、躍動感あふれる獅子舞として有名だという。
  戦前までの獅子は、1838年、郷土の彫刻家・中山宗経によって作られた。戦時に消失したので昭和43年(1968)、画家であり彫刻家の山田真山氏に製作を依頼したのが、現在の獅子である。
              
  琉球王朝時代、当時、天然痘が大流行したが、その疫病神を祓おうと、神事をつくしたあとに、獅子舞の型をあみ出したと「由来記」にある。以来、村の守護神として祭られ、無病息災、五穀豊穣を祈願して毎年旧暦8月15夜に舞われる。
獅子の頭は、デイゴの木で造られ、これに獅子面が彫刻されている。朱や黒、金、青色に塗って威厳を保つようにしてある。
一度、見に行きたいものである。

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久高島、カツオ漁時代

鰹(カツオ)漁業時代
久高島の男たちによる鰹漁業は大正の初め頃、与那国島で始められたという。
(鰹漁業の以外に)イラブ―漁、追い込み漁、引き網漁、延縄漁、潜り(海人草、サンゴとり)、突き船(カジキとり)などを八重山方面、奄美方面、それに台湾方面で営んでいた。
 
八重山や奄美方面に出かけているたいていの人は旧の8、9月頃には島に帰っていた。そうして旧3月の南風の吹くまで久高島に滞在し、その間は久高島近海で追込み漁をする。その網元がイビンミー家で、ザバニを4艘所有し、獲った魚は知念・玉城・与那原・中城辺まで売り歩いた。またエビなど高級魚は那覇市場で売っていた。
 今次大戦では、台湾、南洋方面の久高島の漁業従事者たちは戦争にまきこまれ、生き残った人々もすべてを失って命からがら島に引き揚げて来た。久高島もアメリカ軍が上陸し、家のほとんどは焼き払われ、数百年にわたって久高の男たちが蓄積したすべてが失われてしまった。
 久高の男たちは、沖永良部島、徳之島、奄美大島、喜界島、トカラ列島、屋久島、種子島、鹿児島、八重山群島、宮古群島、外国では中国(厦門・上海・北京等)、台湾、南洋(パラオ・テニヤン)に出て、数百年にわたり常に海人として進取の気鋭を持って活躍して来た。奄美方面では今でも沖縄の漁師をクダカーといっている。

< 沖縄戦に関連して思い出したことがある。久高島は小さな島なのに、住民は沖縄本島の金武町に移住させられていたという。金武町屋嘉には、「久高島住民強制疎開之記念碑」がある。 
  次の琉歌が刻まれている。
  「戦世の故に 生まり島はなり 屋嘉村の情き 忘してならん」
  戦争のために生まれ島の久高島を離れさせられた でも屋嘉村で受けた情けは決して忘れてはならない、という意味だろう。「並里仙人詠む」と記されている。>

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  旅妻を持つ男も
 半年以上も漁に出る久高の男たちは、島の本妻以外に旅妻(注・現地妻)をさがす者も多かったといわれ、旅妻との間にできた子孫は各地に多くいるといわれている。また本妻に男子がいない場合、旅妻との間にできた男子を島に連れて来て嫡子として育てた例も多い。
 「いりきハチャグゥミや、うないぐゎがみやぎ、ゆるぬるばらし、うとぅぎみそり、みそり」(ハチャグミというお菓子は私が作ったもの、貴男へのおみやげは私を抱くことです、ほどの意と解されている)
2首(1首は略)の歌は徳之島の旅妻が久高の男に歌ったと伝えられているものである。

 久高島で夫の留守の間、帰りを待つ妻の心境を歌った歌もあるという。
 「久高島に『旅する間は皆の夫だけど、クサバーを釣れば私の夫だよ』という歌がある。出漁中は旅妻があってもかまわないけれど、現役をしりぞき、久高島の浜でクサバー(浅瀬の魚)を釣るようになったら私一人の夫である、というのである。この歌は半年以上も出漁する男たちの立場を考え、じっと島でその帰りを待つ久高島の女たちの悟りともあきらめともつかない心境を歌ったものである。これはまた神に仕え守護者という高い次元にある久高島の女性だからこそ悟れる心境であるといえるのではないだろうか。なお久高島の女性は夫と旅妻との間にできた子供を我が子同様に育てたケースは枚挙にいとまのないほどである..。以上は比嘉康雄著『神々の原郷-久高島(上、下)』からの紹介である。
   終わり

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久高島、唐船時代

  比嘉康雄著『神々の原郷-久高島』(上、下)から、紹介の続きである。
  
唐船時代
  久高島の男たちは少なくとも15世紀頃からはクルンミーを操って大洋を航海する術を我がものとしていた。このような航海技術はやがて首里王府に認められ、当時中国と進貢貿易をしていた首里王府の進貢船の水主(カコ)として登用され、久高島の男たちが活躍することになる。
  この唐船時代は久高島の黄金時代というべき時代で、今もその栄華の跡を豪壮な石垣囲いにとどめる。
                    唐船
                  再現された唐船(読谷村ゆんた市場)

  <「旧藩時代には男子16歳にして必ず支那(中国)通いの唐船の船員になる掟があって、みなその任務につき、唐船船頭さんの出生地であった」(この項、桜井満編『久高島の祭りと伝承』の安泉松雄ノート「イザイホーの御祭」)>
  文献によると、久高島の男たちは唐船の乗り組員の他に
1、薩摩への飛船の船員、飛船とは公務の連絡。
2、宮古、八重山からの年貢の運搬。
3、伊良部島と鳥島間を豆・米などの食糧の運搬に従事。
この場合の船はクルンミーであった。
 進貢船の正式な乗組員で活躍する以外にトゥアッチャー(中国通いほどの意)という言葉があることから、首里王府とは関係のない私貿易も盛んにおこなわれていたことが推察できる。

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