レキオ島唄アッチャー

八重瀬町のヌヌマチガマを見る

 野戦病院だった「ヌヌマチガマ」
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 八重瀬町新城にあるヌヌマチガマにはじめて行ってみた。ガマの入口付近は、「戦争遺跡公園」として整備され、「世界恒久平和を祈念する」と刻まれた立派な碑が建っている。
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 ガマを訪れた県外の生徒たちが、置いて行った平和を祈念する小石が並べられていた。
 ガマ全長約500mの洞窟で、西側(病院あれ施設側)は「ヌヌマチガマ」、東側は「ガラビガマ」と呼ばれている。
 ガマについての白梅同窓会による解説文を刻んだ石碑が建っている。
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  以下、説明文から要約する。
 沖縄戦で八重瀬町(旧東風平村、旧具志頭村)では、当時の人口の5割近い約7500人の住民が亡くなった。日本軍は当初、米軍の上陸地点を八重瀬町南部の港川と予想していたため、港川海岸を囲むように日本軍の陣地が配備され、港川海岸に近いこの周辺も使用された。
 富盛の八重瀬岳にあった第24師団(山部隊)「第一野戦病院の本部壕」で増加する負傷兵を収容できなくなったため、「東風平分院」とヌヌモチガマが「新城分院」として開設された。
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 このガマには、軍医・看護婦・衛生兵と、補助看護婦として第一野戦病院に配属されていた沖縄県立第2高等女学校の学徒隊(戦後の呼称「白梅学徒隊」)から5人が派遣され、炊き出し、包帯の洗浄などで地元の住民や女子青年も動員された。
 ヌヌモチガマには、手術台・病室・二段ベッド等が設置されていたが、負傷兵が増加するのに伴い、藁を敷いた地面にも寝かされるようになり、多い時には1000人を超えたと言われている。戦況の悪化により食事のおにぎりも1日2回から1回になり、薬品も包帯材料も不足して十分な治療を行うことができなくなった。
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 1945年6月3日東風平分院とこのヌヌモチガマ(新城分院)は閉鎖され、翌4日には、第24師団第一野戦病院も閉鎖された。病院の閉鎖にともない身動きのできない重傷兵は、衛生兵によって毒薬の青酸カリを投与されたり、銃剣などで「処置」(殺害)された。その数は約500人とも言われている。
 ヌヌモチガマ、ガラビガマは病院壕としてだけではなく、住民たちの避難壕としても利用されたのかは不明だが、沖縄戦では、行き場を失った多くの住民たちの命を守ったのは、このようなガマであった。
 白梅学徒隊は6月4日に病院長の解散命令を受け、鉄の暴風と形容されている地上戦を彷徨し56人中22人が戦没している。
 

 ヌヌマチガマの名前の由来ははっきりしないそうだ。「ヌヌ」とは通常、ウチナーグチ(沖縄語)で「布」のことを意味するので、布に関する由来があるのだろうか。
 
 ヌヌマチガマはいま少しややこしい問題がおきている。
八重瀬町が昨年6月、戦跡「ヌヌマチガマ」の指定管理と入壕受け付けを特定のNPO団体に委託した。このため、これまでガマを案内していたNPO法人沖縄鍾乳洞協会(山内平三郎理事長)=同町=は、別の民有地に地主を許可を得て新たに入り口を設けて独自に案内を始めている。
 ガマを訪れた日は、沖縄鍾乳洞協会が修学旅行生をガマに案内することになっていて、それに同行させていただき、ガマの内部を見ることができた。
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 ガマの入口には、戦争で使われた手榴弾や銃弾の穴が開いたヘルメットをはじめ数々の戦争遺品が置かれている。
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 畑の中にポッカリと開いたガマの入口は、通常は危ないので蓋をしている。入り口から木製の階段を下ると、鍾乳洞の大きな空間が広がっている。
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 戦後、ゴミ捨て場にされていた。沖縄鍾乳洞協会の人たちがみずから片づけ、階段も整備したそうだ。
 
 ライトを消すと真っ暗闇で、昼も夜もわからない状態になる。学徒隊の女子学生たちは、夜中でも負傷兵のうめき声に起こされ、傷口のウジ虫をとり、手当てする。ベッドもなしに寝かされた負傷兵と負傷兵の間に隙間を見つけて仮眠をとったという。
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 「毎日、兵隊の手や足が切断され、その手足を捨てに行った」という証言を聞いたこともある。
 ふたたびこのような惨禍を繰り返してはならないという思いを新たにする。 

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南風原病院壕の悪臭を再現

 沖縄陸軍病院南風原壕群の悪臭を再現して、26日から公開するというので出かけた。
 この病院壕が一般に公開された2007年に一度、見学したことがある。その際、案内してくれた方が、「再現できないのが臭いです」と話していた。狭い壕内は、たくさんの軍医、衛生兵、負傷兵、看護婦、学徒隊らがいて、血と汗、糞尿などで悪臭がたちこめていたという。 
                       南風原陸軍病院壕


 その臭いを再現しようと関係者が取り組んで、体験者の臭いの記憶に近い臭いを再現することに成功したそうだ。 
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 臭いを嗅ぐ前に、ガイドさんの案内で、南風原壕群20号に入った。入り口でヘルメット、懐中電灯を借りて入ると、一瞬にして戦時の世界に入り込む。
 「埋められた薬品類」があった。ガイドさんが説明する。「麻酔など薬品がそのまま埋められていました。麻酔なしで負傷した兵士の足を切断したけれど、麻酔がないのではなく、あったけれど戦争が何時まで続くかわからないので節約して使わなかったのです」。これまで「麻酔がなかった」という話をよく聞いたけれど、「節約」というのは初めて聞いた。 
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 南風原から撤退する時、重症患者にミルクと青酸カリを配り自決を強要したことはよく知られている。戦争の残酷さだけでなく、日本軍の非人間的な体質を示すものだ。
 壕を出ると、いよいよ再現された壕内の臭いだ。「これに再現された臭いが入っています」と持ち出されたのは、三重に密閉されたビンの容器だった。 
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 慎重に蓋をあけて取り出されたのは、青色の小さなビン。開けたビンの口を手で囲って鼻を近づけると、なんとも表現のしようのない悪臭が漂ってきた。5秒我慢して嗅いだ。血の臭い、汗の臭い、糞尿の臭い、どれでもない。一瞬嗅いだだけでも、たまらないのに、この悪臭が充満した壕内で、動けない兵士、働く看護の学徒隊らの辛さは想像を超える。 
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 ツレは10秒ほど嗅いでいたが、その後も一日中、この臭いを思い出して気分が悪くなるほどだった。
 沖縄戦の実相をリアルに伝えていくためには、病院壕と様々な戦時資料に加えて「臭いの再現」は欠かせない役割を果たすだろう。
 
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沖縄戦・激戦の地を歩く、その6・ハーフムーン

 精神異常が続出したシュガーローフの戦闘
 
 那覇市内に入った。米軍基地が返還されていま新都心として発展する「おもろまち」への国道330号線からの入口に、米軍が「シュガーローフ」と呼ぶ最激戦地がある。安里の「慶良間(けらま)チージ」と呼ばれた丘陵だ。米軍にとって、ここは太平洋戦争で硫黄島と並ぶ有名な激戦地となっているそうだ。この高地の争奪戦で日米軍が顔と顔が見えるほどの接近戦で、手りゅう弾を投げ合うなど死闘を繰り広げた。頂上部を11回も取ったり取られたりしたという。激しい戦闘で、米軍の死傷者は2662人にのぼった。ある意味でそれ以上に深刻だったのが、あまりに過酷な戦闘で精神に異常をきたす兵士が多発し、1289人の戦闘疲労者を出したことだった。

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  国道330号線を超えてすぐ東側にいくと、米軍が「ハーフムーン」と呼んだ丘がある。つい最近も遺骨が発掘された真嘉比(まかひ)の大道森だ。再開発する予定で道路が通るので、その前に発掘がされている。(2014年現在は開発が終わり、交差点となって、ハーフムーンのかけらもない)
 デイゴの大木がうっそうと茂る森のなかは、墓地があったが、墓を移転するためいま空墓になっている。ここに陣地壕がある。戦時中も、墓を無理やり空けさせ、墓を使って陣地壕を作ったという。あまりの米軍の猛爆撃で、遺骨もバラバラになっているほどだ。開発が進む那覇市内で遺骨収集ができる最後の場所になっている。今年、墓の裏の陣地壕を掘ると、遺骨、手りゅう弾、それに化学弾が出た。毒ガスではなく、催涙弾のようなものらしい。化学弾の出現で発掘は中止された。
 ここで遺骨収集ボランティアをしている具志堅隆松さんが説明してくれた。「今年6月22日、8月3日の2回掘った。6月には、遺骨は全身に近い形で出てきた。亡くなった日本兵を、爆弾でできた穴に土をかぶせて仮埋葬していた。持ち物からわかる。ポケットの位置に観音像があった。手がかりになる。8月は、土砂降りで壕の中に入ったら、遺骨が出てきた。日本兵だとわかったのは、飯ごうがいっしょに出てきたから。『クガ』と名前があった。この部隊に『クガ』は11人いる。飯ごうは将校用で3人将校がいて、いま2人に絞られている。中央部からもう一体出た。石鹸箱が出た。『真木』という名が見える。部隊に5人いるが、身長、年齢から2人に絞られている。来月、遺族が来るので希望すればDNA鑑定をする。遺骨はまだ現場に安置してあるんですよ」
 
 遺骨収集もしない国は無責任

                         ガマフヤーの具志堅さん
 「日米が接近戦をしたことがよくわかるのは、手りゅう弾の破片がよく出る。この鉄カブトも出たんですが、ここに穴があるでしょう。銃弾が貫通したんです(写真)。米軍の骨は出ないんです。かれらは戦死すると、きちんと収容するから骨はみつからない。武器がでるのは負けた側なんですが、ここでは米軍の武器も出るんですよ」。いかに両軍の被害が大きかったかがわかる。具志堅さんは静かに、しかし力を込めて語った。


 「まだここは一部しか掘っていないです。改めて感じるのは、沖縄戦はなんだったのか、われわれは、もう戦争はないという保証を手にしたのかということです」。別のインタビューではこうも話している。「国は徴兵し異国や各地に送り込み、戦死させながらその遺骨さえ収集しない。そんな無責任極まるものはないだろう。国民の命を奪う行為は普段は犯罪ですよ。それをやりながら国は最後まで責任を果たしていない」「なぜ遺骨収集をしているかとよく聞かれる。そんなとき『それは徴兵拒否の理由になる』と言っている。遺骨収集さえしない国に従う必要があるのか」(インターネット新聞)。

  講習の最後の講師は、やはり沖縄戦を体験した吉嶺全一さん(77歳)だった。とかく、沖縄戦では、日本軍は住民を守らない、そればかりか、県民をスパイ視して虐殺するなどの事件が相次ぎ、「米軍より日本兵が怖かった」という証言が多い。
  ただ、吉嶺さんはいう。「戦争は人間が人間でなくなること。その点では日本兵も米兵も同じです。米軍も残酷なこともしている。ある伍長は、戦場で袋を持ち歩いていたが、それは日本兵の死体から金歯を抜き取り入れるためだった。こんなこともやっていた。捕虜を殺した事件もある。バックナー中将が撃たれた日は、特に米軍は荒れていた。その日捕まった人は、民間人もほとんど殺されたそうです。広島、長崎で原爆も使ったでしょう。お配りしたこの紙を見て下さい。これは『jap hunthinng licennse』とある。つまり日本人を射殺する免許証です。人数の制限なし。絶滅まで有効、と書かれています。こんなものまで発行していたんです。だからとにかく、戦争だけはやってはいけません」と力説した。
  この言葉は、戦後の沖縄での横暴なアメリカ占領支配といまなお続く米軍基地の被害、さらに沖縄を足場とした、ベトナム、イラクなどへの侵略戦争での、米兵による残虐な殺戮にもつながる意味あいを感じさせた。
このような戦争は二度と繰り返してはならない、観光は平和があってこそ、だとの思いを改めて肝に銘じたフィールドワークだった。      
             (おわり。2008年12月31日 文責・沢村昭洋)


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沖縄戦・激戦の地を歩く、その5・前田高地

 猛攻を受けた前田高地・仲間高台
 次に浦添城跡を中心に前田高地・仲間高台に向かった。この丘陵に軍は、自然のガマ・トンネル壕・トーチカの連鎖陣地を張り巡らせていた。米軍はここに、太平洋戦争で最大規模といわれる猛砲撃と空からナパーム弾の投下を行い、この高地一帯を焼きつくした。首里主陣地防衛のための第62師団は、ここでの戦闘でほぼ全滅したほどの激戦だった。
 浦添といえば、琉球王府の正史では、舜天王統、英祖王統の発祥の地とされている。浦添城跡には、王族のお墓である「浦添ようどれ」もあり、歴史的な由緒ある場所だ。この地に立てば、米軍が上陸した読谷方面まで一望にできるとっても眺望のよい所だ。案内をしてくれた沖縄県平和祈念資料館友の会の仲村眞さんは「この浦添ようどれをはじめ琉球の歴史上も貴重な文化財、墳墓などが軍に陣地として使われたので、沖縄戦のさい徹底して破壊されたのです」と説明した。
                     クチグヮーガマ

 仲間・前田部落は、日本軍の陣地化した地域だけに、大激戦に巻き込まれ多数の住民が戦死したという。浦添城跡の下には、かなり大きな陣地壕があり、この付近にたくさんの住民の避難壕がある。その一つ「クチグァーガマ」(写真)に行った。人間の口のようにポッカリと洞窟の口が開いているのでこの名前がついたという。

 この日はガマに入るから、懐中電灯や手袋を用意し、虫がくるので黒や赤の衣服は着ないように注意され、みんな「装備よし」と構えてきた。でも行ってみると、このガマは、入口が金網で封じられていまは入れない。戦時中は、この仲間地区の6班の住民が隠れる壕だった。前田高地が戦場になると、住民は南部に避難し、動けない人たちがこの壕に残り、ここで亡くなったという。南部に避難しても、南部に住んでいるわけではないので、どこに隠れればよいのかもわからない。それでたくさんの人が亡くなったそうだ。前田部落の戦死者は住民934人中、549人にのぼり、戦死率59%に達する。仲間部落は503人中、278人が戦死し、戦死率55%にのぼる。どちらも全戸数の3割前後が一家全滅の悲劇にあっているというから、凄まじい。
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 この高地の北側の断崖の尾根道を進んでいくと、為朝岩(米軍はニードルロックと呼ぶ)という巨岩がそそり立つそばに着く。岩までは行けないが、その手前が高地でも一番高い地点になる。北は読谷、嘉手納から南は那覇、首里城まで、四方がすべて見渡せる絶景の地だ。それはまた軍事上の要所だった。制空権を米軍に握られた日本軍にとって、ここは米軍の動きを監視するうえで絶好の場所だ。「ここから日本軍は見張っていて、米軍への砲撃の着弾の様子を見て、命中率を上げるために首里の司令部に連絡していたんですよ。ここを攻略されると日本軍はもう何も見えなくなる」と仲村さんは言う。
 この高地と防御線を突破されると、もはや県都の那覇市、司令部のある首里まで一挙に攻め込まれることになる。この上から眺めると、軍事上の重要性が手に取るようにわかる。前に、日米の沖縄戦史を読んでいたが、地理的な軍事上のイメージはいまいちあいまいだった。やっぱりこうした戦跡地を実際に見ると、なぜここで激闘が繰り広げられたのかがよくわかる。前田高地では、日米両軍の接近激闘の争奪戦が続き、双方に多数の戦死者が出たという。
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 岩山の尾根道を降りてくると、「前田高地平和之碑」がある。「山三四七五部隊第二大隊戦友会」が建てたという。なぜか碑名は堂垣内北海道知事の書となっている。というのは、この部隊は、北海道出身者が多く「どさんこ部隊」とも呼ばれたそうだ。山形、沖縄の人たちもいた。
 碑を建てた生存者名のなかに、沖縄の叙事的な歌謡集「おもろそうし」の研究で知られる外間守善(ほかましゅぜん)さんの名がある。外間さんは、山形第三二歩兵連隊第二大隊に配属になり、南部から中部戦線に移動になって、4月末から5月初めに激戦を体験した。「この戦いで、800人から1000人いたと思われる大隊のうち、9月3日の投降までに生き残ったのはわずか29人。そのうち沖縄初年兵は私を含め9人しかいませんでした」と証言している。この体験を『前田高地』として出版した。
 慰霊碑は通常、表に戦死者名を刻み、裏側に碑を建てた生存者名を刻む。でも前田高地の戦死者はあまりに多いので、碑の裏手に、別に戦死者名を数㍍にわたって刻んだ岩板を掲げてある。ここにも、いかに悲惨な戦闘が繰り広げられたのか、がうかがえる。碑の付近には陣地壕も4カ所ほどある。
 前田高地といえば思いだす軍首里司令部のエピソードがある。防御線を突破され、窮地に立つ日本軍は「死中に活を求める」として、5月4日に「総攻撃」の作戦に出る。といっても、現実には無謀な作戦だった。だが、その前夜、首里の司令部では、牛島満司令官、長勇参謀長ら将官9人が、なんと「戦勝前祝会」を開いた。盛装した女性の華やかな接待を受けて宴会をしたという。
 ちなみに、首里司令部の洞窟内には、良家の子女や内地から招いた芸者、那覇・辻町の遊女らを集め、炊事の手伝いをさせていた。炊事だけでなく、宴会の接待までさせていたのだ。結局、作戦は初動から大損害を受け大失敗をした。一般兵士は決死の作戦に駆り立て、多数の兵士の尊い命を犠牲にしながら、司令部の幹部はこのような有様だった。当時司令部にいた八原博通氏が『沖縄決戦―高級参謀の手記』でこの事実を記しているから確かなことだ。
 

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沖縄戦・激戦の地を歩く、その4・中部戦線

 最激戦の中部戦線の戦跡を見る

 南部戦跡を見た後、2008年12月15日には、宜野湾(ぎのわん)・浦添(うらそえ)・那覇地区の中部戦線の戦跡を見た。この日の案内は、沖縄県平和祈念資料館友の会の仲村眞さん。われわれよりも若い世代だ。会社で年次有給休暇をとって案内のために来てくれたという。米軍は1945年4月1日に読谷村、嘉手納、北谷町の海岸に上陸した。
                         沖縄戦中部地図

 沖縄作戦に動員された米軍は約55万人。これに対し、沖縄守備軍は11万人にすぎない。決戦をすれば1週間で全滅する。「捨て石」にされた沖縄は、時間稼ぎのために、水際作戦は放棄した。上陸する米軍たいしに日本軍はまったく攻撃しなかった。

 上陸が4月1日なので、米軍は「エイプリルフールではないか」と気味悪がるほどだった。日本軍は、持久戦のために壕を掘りめぐらせ、地下にもぐっていた。特に、この宜野湾から浦添方面は、高地に陣地を構え、米軍を待ち受けていた。上陸した米軍の南下する部隊は、宜野湾の大山、牧港付近まで、直線距離で8㌔㍍、一週間は、ほとんど無抵抗で一気に進攻してきた。ここから本格的な戦闘が始まった。そして宜野湾から首里までのわずか同6㌔㍍の間に50日もかかるという戦史に残る激戦が戦われた。このため、日本軍は6割の兵力をこの中部戦線で失ったという。

 井戸の下のガマに2カ月間も隠れる
 最初に向かったのは、宜野湾市の我如古(がねこ)にある「チンガ―ガマ」だ。ガマといっても、井戸を降りて行くと横穴のようにガマがある。住宅地の地下に鍾乳洞が伸びており、長さ170㍍あるが、幅は狭く天井も1,2㍍と低い。まるで地下水道のようだ。このガマに通じる縦穴が井戸であり、この付近に5カ所あるそうだ。
  訪れたのは、呉屋さん宅の庭にある井戸(写真)だ。いま使われないので蓋をしてあり、呉屋さんが蓋を開けてくれた。井戸は深さが7,8㍍もあり、用意した金属製のハシゴを降ろしてくれた。時間の関係で入る人は代表3人に絞った。住民はガマに雨戸を持ち込み床や壁に張りつけて生活した。夜間に外に出て食料を調達したという。ちょうど、当時隠れていた89歳の仲宗根さんというおばあさんが出てきて、当時のことを次のように話してくれた。仲宗根さんは、宜野湾より少し北になる中頭(なかがみ)に嫁いでいたそうだ。
                       我如古の井戸

 「米軍が上陸したので、ここの実家に逃げてきたけれど、実家の人たちは島尻(南部)に逃げていて家にはいなかった。このガマに隠れた。一緒に10人くらい隠れていた。近くには30人くらい隠れていた。ガマは狭くて、立つことも歩くこともできない。食べるものもないし、寝るところもない。外に出てやられた人もいた。水を飲み、黒糖をなめて生きていた。2カ月くらい隠れていて、5月14日に救出されたが、そのとき私はまだ22,23歳だったけれど、もう今の年寄りよりもっと歳をとっていたよ」。この壕に住民が避難していることを知っていた米軍は、我如古出身者の協力を得て、ガマにいる人々に呼びかけて救出したという。

  次に向かったのは、嘉数(かかず)高地と西嘉数高地だ。日本軍の陣地は、軍司令部のある首里の前方にあたるこの中部で、高地となっている地形に沿って三重にわたる防御線を築いていた。第一の防御ラインが、嘉数を中心とする線だ。第2の防御ラインが浦添市の前田高地を中心とする線。第3の防御ラインが那覇市の安里(あさと)を中心とする線だった。
 嘉数の高地の下にトンネル壕を掘り、陣地としていた。陣地壕は朝鮮から強制連行した人々に掘らせた。沖縄には、本島はじめ離島にまで多数の朝鮮人が連行され、こうした重労働を強いられていた。仲村さんは「壕を掘った朝鮮人のお墓もあります」という。
 
  中部戦線には、第62師団(石部隊と呼ばれた)が配置されていた。この師団は前年の1944年8月にここに送られて来たそうだ。嘉数の部隊はなぜか京都の出身者が多かった。米軍は戦車を連ねて猛攻撃を加え、海と空からも砲撃と空爆を加えた。日本軍は、斬り込みの夜襲や爆薬箱を抱えて戦車に体当たりするなど玉砕戦法をとったが陥落した。
 沖縄戦の研究で知られる大城将保さんは、沖縄戦のガイド講習のさいに次のように指摘した。「日本軍の特攻作戦として、『一機一艦船』」の名で神風特攻隊が米艦船に突っ込む。海では、ボートで米艦船に当たる特攻部隊を座間味島、渡嘉敷島に配置し準備していた。秘密を守るため住民は島外には出さない。軍民同居のもとで島民の集団自決も起きたのです。陸では『一人十殺、一戦車』と称して、爆薬を抱えて戦車に突っ込む。日本軍は、空でも海でも陸でも特攻をさせたのです」。
 両方の高地には、「京都部隊激戦死守の地」の碑や、この地で全滅した「第62師団独立歩兵23大隊慰霊碑」などいくつもの碑が建てられている。「戦後、遺骨収集をしながら碑を建てたそうですが、まだ小さな骨はたくさん残っていますよ」と仲村さん。そういえば、「京都の塔」が嘉数台公園にある。「京都の塔」は、他の地方の碑が軍人を英霊扱いするだけで、沖縄県民の犠牲にほとんど触れていないなかで、「多くの沖縄住民も運命を倶(とも)にされたことは誠に哀惜に絶へない」と記している。きわめて稀な碑である。
                       京都の塔碑文
 これらの激戦地は、当時、どれほどの戦死者が横たわっていたことか。想像を絶する光景が広がっていただろう。観光ガイド講習を受けている講習生みんなで歩いて行っていると、ふと横の女性が、何か手にもって、それを頭の高さまで掲げながら進んでいることに気がついた。「あれ、何だろう。お菓子かな?」と思ってみた途端、他の人に勧めた。「これ使う人はどうぞ」。別の女性がさっそく袋から手にとって地面にパラパラと撒いた。「あっ、塩だ」。それは、戦死者の霊、魂を静めるための清めの塩だった。
 新しく買ってきたのか、大きなマース(塩)袋を一袋持って歩いている。このあとも、戦跡の先々で、このお塩がよく使われた。遺骨が見つかった場所では、塩を撒きながら「静かに眠ってね」と祈るようにつぶやいていた。南部でも中部でも、慰霊碑を見る場合も、まず戦死者に黙祷するのが先だった。沖縄は死者をとても丁重に扱う。とくに、先祖は、自分たちを守護してくれる霊力をもつと考えられている。先祖神そのものだ。だから、仏壇は、大型タンスほどの大きさがあり、ことあるたびに仏壇やお墓にたくさんのお供えをして、御願を重ねる。そうした伝統と風習が、戦跡めぐりでも塩で清める気持ちの背景にあるのだろうか。

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沖縄戦・激戦の地を歩く、その3・白梅学徒隊

 白梅学徒隊の碑のそばに「自決の壕」
 
 真壁の少し北側になる国吉に向かった。最激戦地の一つだけに、日米の碑が多い所だ。有名な「白梅之塔」がある。県立第二高女の女子学生で作られた「白梅学徒隊」の碑だ。といっても、沖縄師範学校女子部と県立第一高等女学校の女子学生でつくる「ひめゆり学徒隊」のことは何度も映画にもなり、全国に知れ渡っているが、「白梅」の方は、県外にはあまり知られていない。動員されていた八重瀬岳の野戦病院壕で解散命令を受け、砲弾が飛び交う戦場に投げ出された。いま塔があるすぐ横に上下に壕がある。この壕に着き看護にあたったが、砲撃で殺されたり、「自決」をしたという。以前に一度、この塔を見に来た時は、壕を見ないままだったが、「自決の壕」と呼ばれているガマを降りて行くと、鍾乳石が垂れ、それがポキッと折られたようになっている。火炎放射器で焼かれたのか、黒ずんだ焼け跡のようなカ所も残っている。白梅学徒隊は46人が動員され、17人が亡くなったそうだ。

                          白梅学徒隊

 女学校の生徒動員は、県立・私立合わせて7校、6部隊もあった。動員数は約457人に達し、その内、180人が死亡しており、死亡率が41%に及ぶ。男子の沖縄師範や県立・私立中学校の生徒は、鉄血勤皇隊や通信隊に動員された。その数は動員が約1766人でその内、約876人が死亡しており、死亡率は5割に達する(大田昌秀著『沖縄の「慰霊の塔」』から)。若い命がいかに無残な犠牲にされたことか、この数字でもうかがえる。
  
 大城さんによると「この付近には山形連隊(第三二連隊)がいたけれど、戦争が終わっているのもわからず9月前まで将校55人、兵士300人が壕に隠れていた。投降して生き残って帰ったそうです」という。戦後、「八原参謀(首里の軍司令部にいた)が、米軍に捕まっている日本兵のなかに、この部隊の親分たちが生き残っているのを見てビックリしたという話があるけれど、自分が(生き残って米軍に捕まった)高級参謀なのにねえ」と皮肉交じりに話してくれた。

 同じ日本軍でも、無謀な斬り込みで全滅したり、自決したり、住民を虐殺した人もいれば、冷静に判断して命を粗末にしなかった人もいた。同じ学徒隊でも、積徳学徒隊の病院長の少佐は、6月26日夕、「君たちは死んではいけない。必ず親元に帰りなさい」と言い、「手りゅう弾をください」という女子学徒に「君たちに渡す手りゅう弾はない」と断ったという。この学徒隊は、25人中亡くなったのは3人にとどまっている。
 
ここから少し西の真栄里(まえさと)に行くと、沖縄作戦を指揮していた米第一〇軍司令官のバックナー中将の碑がある。太平洋戦争中に米軍の戦死した将校では最高の階級である。バックナーは6月11日に、日本軍の牛島中将に、「今や戦勢は決定した。この上新たな戦闘を継続し、有為な多数の青年を犠牲にするのは真に忍び得ないし、また無益である」と人命を救助するために降伏を呼び掛けた。でも牛島中将は無視したという。
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 バックナーのような司令官は危険な前線には行かないのが常識だけれど、6月18日、この地で前線を視察中、攻撃を受けて戦死した。新しく立派な碑があるので、それがバックナーの碑かと思って見ると、戦死した日が1日遅い。大城さんも「これはバックナーじゃないね」と気付く。よくよく見ると、英語で「ディアス・エム・イースリ准将6月19日戦死」とある。その奥にある古い碑がバックナーのものだった。

巨大な轟(とどろき)の壕

この日の最後は、旧真壁村伊敷にある轟の壕(写真)だ。これはいままで見た中で一番大きいガマだ。ガマはポッカリと大きな口を開けている。奥はとっても深い。これならいくらでも入ることができそうだ。ガマの下から空を見上げると、緑が生い茂り、この風景は映画(「ガマ・月桃の花」)の舞台となったガマとそっくりだ。撮影に使われたのかもしれない。水はいくらでもあり、拝所もある。千羽鶴がたくさんかけられている。千羽鶴は沖縄の人はかけないそうだ。本土からの人がかけたのだろうか。
 このガマには、中南部から避難した住民、県の職員、日本兵など400人以上がいた。米軍が壕に対する攻撃をかけてきた。餓死者も出始めて、住民を外に出すよう日本軍に申し出たが、内部の情報が漏れるのを恐れる軍は「出れば殺す」と脅したそうだ。「でも海軍の空手名人だった人が説得して助け出されたですよ」と大城さん。
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  この人は、宮城嗣吉さんという。宮城さんは、このまま壕にいれば危ないと思い「私が壕を出ていく。絶対皆さんを助けに来る」と言って壕を出た。米軍に捕まった。米軍はガソリンを壕に流し込み焼き討ちにする作戦で出るという。宮城さんは「壕の下方に住民が千人もいる。兵隊はガソリンの流れない上方に潜んでいる。これでは住民が死ぬだけだ」と説明。命令は中止になり、6月24日、旧知の人3人と壕に戻り説得して住民を救出したという。勇気ある行動で多数の人が救われたのだ。(数字は人により違う)





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沖縄戦・激戦の地を歩く、その2・真壁

 真壁の千人壕
 南部の戦跡めぐりで次に向かったのは、宇江城(うえぐすく)だ。やはり第二四師団の司令部壕があった激戦の地だ。旧真壁(まかべ)村の東にあたる。ウチナーグチ(沖縄語)では東はアガリという。
 大城さんは語る。「このあたりは、180戸中、60戸が一家全滅になった。犠牲者は住民の60%を超えます」。「首里から軍が来るから住民はそれぞれ安全な場所を見つけて行け」と言われ、避難していたガマを追われ、暗渠や岩陰など身を隠せるところを探して潜んでいたという。この地は、日本軍の陣地があったから、米軍が朝の8時から毎日毎日、砲撃をしてきて、小山のような宇江城跡もハゲ山のようになっていたという。
 「このあたりは、村の下はみんなガマになっているんですよ」と大城さん。「ええ!ただ畑が広がっている風景なのに。その下がガマなんて?」。一瞬信じられない感じがした。でも、地表の土の下は琉球石灰岩に覆われており、その下はいたるところ空洞になり水が流れているという。
                      真壁のガマ
             
 「山雨の塔」が建っている。そのすぐそばは、谷川のような窪みになっており、降りて行くとぽっかりとガマが口を開けている。「アガリ(東)のクラガー」というガマだ。古くから住民の大切な水源となっていたそうだ。沖縄では水の湧き出る場所は「カー」と呼ばれ、小さな祠が置かれ、祈りのための拝所にもなっている。「水は命のもと」でもあるからだ。「このガマにはまだ遺骨がありますよ」と大城さんは言う。
 この師団司令部は、沖縄戦の組織的な戦闘が終結した日といわれる1945年6月23日以降も司令部壕に残っていたが、30日に師団旗を焼いて自決したという。「山雨の塔」が建ち、その脇に「軍旗奉焼地」の小さな碑がある。投降を許さない帝国軍隊の人命無視の軍規がなければ、死ななくてもよかった犠牲だ。
                            山雨の塔
ガマに隠れていた住民は、そのなかにハワイ帰りの人がいて 「ケガ人がいるから外に出てみよう」と出て住民は助かったようだ。
 このあと、真壁集落のはずれにある「アンティラガマ」というところに行った。千人壕と呼ばれるガマだ。たくさん人がいたからこう呼ばれているが、実際には1000人以上の人がいたそうだ。ガマでも水がない。隠れていた住民は、砲撃の止んでいる間をみて、水汲みに行かなければならなかった。でも外に出るのは危険だ。「水汲みや食糧を取りに行ったまま行方不明になったひとが犠牲者の七割くらいいるんですよ」と大城さん。
 このガマにいた人の証言によると、ガマの奥に水があったそうだが、奥には日本軍がいた。米軍の攻撃で入口にいた負傷者は全滅したが、奥にいた人は助かったらしい。この証言者は、千人壕の少し離れた場所にある別のガマに移った。ここは兵士と住民が雑居していた。そこでは、親を亡くして泣き叫ぶ男の子を、黙らせるため兵士が殺すのを目撃したという。

 異様なほど軍人の慰霊碑が林立

 このガマのそばに、「萬華之塔」(写真)がある。真壁の住民が付近一帯に散在していた遺骨を集めて合祀したという。1万9200人余が祀られているというから、このあたりの犠牲がいかに多かったのかがしのばれる。この塔の周りは、「独立重砲兵第百大隊鎮魂碑」とか「砲兵山吹之塔」(野戦重砲兵第一連隊)など、日本軍の部隊、軍人の慰霊碑、墓が林立している。
                       萬華之塔


 南部の戦跡地は、軍の部隊、軍人関係の慰霊碑、墓がいたる所に建てられている。無謀な侵略の戦争を開始したことから、この沖縄の地で多数の兵士が「捨て石作戦」の犠牲で尊い命を落としたことは痛ましいことである。県民の立場からすると、本来は住民の守ってくれると思っていた「友軍」兵士が、逆に住民をガマから追い出し死に追いやったり、虐殺する事態が続発した。その日本軍関係の慰霊碑があたりかまわず建てられ、しかも住民の苦難にはまったく触れないで、軍人をただ英霊扱いにし美化する碑文がほとんどだ。住民のための慰霊碑より、こうした軍関係の慰霊碑がやたら多くて目立つ状況に、複雑な思いを抱く県民がいるのも当然ではないかと感じる。
 次に向かったのは真壁城跡だ。いまは真壁公園になっている。琉球が北山、中山、南山の三山(三つの国)に分かれていた時代に、ここに南山の出城が築かれていたそうだ。古琉球とよばれるまだ沖縄内部で争いがあった時代に、城(グスク)が築かれたところは、小高い見晴らしのよい場所である。それはやっぱり時代を超えて戦争の際には軍事的な要衝となる。だから、日本軍は、首里城をはじめ県内の各地で城跡に司令部や陣地を築いたのだ。この真壁城跡には、岩山をくり抜いて砲台が築かれ、砲兵隊の陣地となった。陣地作りに小学生まで動員されたという。
 「真和の塔」が建っている。陣地を敷いていた第五砲兵団は1945年6月中旬、米軍によって全砲火を破壊され、残った兵士は全員が斬り込みを敢行し全滅したという。「軍が陣地をつくっていた場所は、米軍の砲撃の的になり被害が大きいですよ」と大城さん。旧真壁村が激戦の地となったのは、軍の陣地が各所にあったからだ。「それに比べて、軍の陣地があまりなかった知念、玉城の方は、米軍は素通りですからね」。軍事基地があると、ひとたび戦争になった時にどうなるのか、という実例がここにある。それに、「もし、日本軍が首里で降伏していたら住民の10万は助かった。日本兵の3万は助かった」と言われる。

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沖縄戦・激戦の地を歩く、その1

沖縄戦・激戦の地を歩く
                    
 沖縄県シルバー人材センター連合が、観光ガイド養成のため開いた講習を受講した。2008年のことである。太平洋戦争で、唯一住民を巻き込んだ激しい地上戦がたたかわれ、県民の4人に1人が犠牲になるという未曽有の受難の地である沖縄では、県外から訪れる観光客を案内するのに、沖縄戦の戦跡はぜひ見てほしい場所である。それだけに沖縄県民自身がガイドとして、沖縄戦の実相と戦跡をよく学ぶことをとっても重視している。だから、合計11回にわたる講習のなかで、4回は沖縄戦にかんする講習であり、とくに激戦の地を現地で実習するフィールドワークは、南部と中部の2回にわたり、実施した。沖縄に住んで3年を超え、いくつか戦跡を見たけれども、まだ有名な場所しか見ていない。今回、なかなか自分だけでは見学にも行けないような戦跡にも、案内してもらえたのは、とても貴重な体験だった。まだまだ沖縄戦の実相や戦跡の現状も、県外では十分知られていない。そこで、自分で歩いた戦跡をいくつか紹介したい。
 「ココログブログ」にアップしていたが、「FC2ブログ」で「沖縄の戦跡を訪ねて」を連載したついでに、再度アップしておく。

 南部の戦跡から 住民が遺骨収集し建てた南北之塔
「沖縄戦のなによりの特徴は、軍人よりも一般住民の戦死者がはるかに上回っているところにあり、その数は10数万におよびました」。県立平和資料館・設立理念にはこう記されている。県民の犠牲がとくに多かったのは南部だ。中部の読谷から北谷にかけての海岸に1945年4月1日、上陸した米軍が、沖縄守備軍(第32軍)の司令部のあった那覇市首里に迫ると、第32軍は司令部を摩文仁に移した。中南部に住む県民も、南部にこぞって避難したからだ。
                       沖縄戦地図
                   
 もし、首里陥落の5月末に日本軍がいさぎよく降伏していれば、どんなにたくさんの県民の命が救われたことだろう。しかし、現実には米軍の本土への攻撃を遅らせる時間稼ぎの「捨て石作戦」のために、日本軍は南部に撤退し、県民はさらに地獄に突き落とされたのだった。避難していたガマ(洞窟)から日本軍に追い出され砲弾に撃たれる、軍民雑居のもとで、スパイ扱いされたり、ガマからの追い出しや食糧強奪に少しでも抵抗すれば虐殺される。さらには集団自決に追いやられる。数知れない悲劇が生まれた。

 2008年12月10日、沖縄平和学習ガイド友の会会長の大城藤六さん(78歳)の案内で糸満市を中心に戦跡を巡った。大城さんは、沖縄戦の体験者であり、元校長先生や糸満市教育長も経験した人だ。最初に行ったのは糸満市の真栄平(まえひら)。「このあたりは日本軍の山部隊の陣地があり当時800人くらいいた。向こうに見える海は米軍艦がたくさんつながっていて、もう海が見えないほどだった。6月19日にはここまで米軍が進攻してきた。日本軍による虐殺事件で7,8人やられたこともあります」。
 ここに「南北之塔」が建っている。真栄平では住民の6割がなくなり、兵士と合わせて6000人の犠牲を出した激戦地だという。戦後1946年、収容所から戻ってきた住民は家を建てる前から遺骨収集をしたそうで、ここに納骨堂を建て、66年に改築するさい、現在の塔を建立したという。
                        南北之塔

 ちょっと複雑なのは、この塔がいまアイヌ兵士を祀っていると誤解され、アイヌの人々が定期的に来て「イチャルパ」(供養祭)を催し、祈り、踊りなどしていることだという。塔の片面に「キムンウタリ」と彫られている。アイヌ語で「山の仲間」という意味だそうだ。大城さんによると、山部隊にアイヌ兵士が一人いて、戦後20数年ぶりに沖縄を訪ねて来た際、塔を建てることを知り250ドル(当時は大金だった)寄付をしたので、片側のデザインを任せたら、この字を勝手に彫ったという。ところが、その後、アイヌ兵士と住民の交流があり、「アイヌの墓」があるという話になって伝わり、本になった(橋本進『南北の塔 アイヌ兵士と沖縄戦の物語』)。そして、あたかもこの塔が「アイヌの墓」であるかのような誤解が生まれたという。
 「アイヌの墓というのはまったく嘘なんです」と大城さんは言う。誤解をもとにして祀りを行うのはアイヌの人にとっても不本意だろう。こんな問題によって戦争で被害を受けた人々の対立が生まれるのは不幸なことだ。はやく互いに納得できる形で解決するように願うばかりだ。
 塔の横には「山三四七八部隊故将兵霊」という第二四師団の慰霊碑がある。「山」というのは日本軍の秘匿のために、この名称で呼ばれた。他の部隊にも「石部隊」「武部隊」などの別称がある。「この碑は住民に相談なしに勝手に作ったんですよ。地代も払っていない」と大城さんはにがにがしげに話す。塔の裏にはガマがあり、そのそばにも軍関係の個人墓、碑が建っている。これも勝手に作られたと言う。

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沖縄戦の戦跡を訪ねて、シュガーローフ

シュガーローフ(慶良間チージ)

 国道330号線から那覇新都心「おもろまち駅前」の交差点を左折するとすぐ左側、DFSギャラリアの向かいの丘陵部が沖縄戦の激戦地として知られるシュガーローフ(慶良間チージ)である。那覇市水道局の「安里配水池」と呼ばれる大型タンクがそびえる場所に、戦跡の地を示す説明板が建てられている。大分前に行ったけれど、まだブログでは紹介していなかったのでアップする。
 慶良間チージの「チージ」は頂上の意味。この丘が慶良間諸島の良く見える高地だったからだと聞く。説明板から紹介する。
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 「沖縄戦の激戦地。字安里の北に位置する丘陵地帯に築かれた日本軍の陣地の一つ。日本軍は“すりばち丘”、米軍は“シュガーローフ”と呼んだ。一帯の丘陵地は日本軍の首里防衛の西の要衝で、米第6海兵師団と激しい攻防戦が展開された。
 とくにここ慶良間チージの攻防は、1945年5月12日から一週間に及び、一日のうち4度も頂上の争奪戦がくりかえされるという激戦の末、18日に至り米軍が制圧した。
 米軍は死傷者2662人と1289人の極度の精神疲労者を出した。
 それ以後、米軍は首里への攻勢を強め、5月27日、首里の第32軍司令部は南部へ撤退した。沖縄戦は、首里攻防戦で事実上決着していたが、多くの住民をまきこんだ南部戦の悲劇は6月末まで続いた」
ここは、太平洋戦争で硫黄島と並ぶ有名な激戦地とされている。この高地の争奪戦で日米軍が顔と顔が見えるほどの接近戦で、手りゅう弾を投げ合うなど死闘を繰り広げた。頂上部を11回も取ったり取られたりしたという。シュガーローフは、日本軍側では安里52高地とよばれていた。
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 防衛庁防衛研修所戦史室著」『沖縄方面陸軍作戦』では次のように記述されている。
「首里西方の真嘉比、安里、天久台地区は、13日早朝から艦砲、地上砲火、航空攻撃に支援された戦車を伴う強力な米軍の攻撃を受けた」
「14日早朝から、全正面にわたって米軍の攻撃を受け、特に安里東側の52高地地区で激戦が展開された」
「16日那覇北方の安里から真嘉比にわたり、米軍は0800ころから強力な火力支援の下に戦車を伴って来攻し激戦が展開された。戦闘の焦点は52高地地区で、一時同高地頂上付近を米軍に占領されたが、わが部隊は有効な砲迫の支援もあって勇敢に撃退した。しかし、わが損害も多く52高地付近を守備していた海軍の山口大隊は昼間逆襲を実施し、大隊長山口少佐以下ほとんどが戦死し残存者は負傷者22名という状況となった」
米側戦史では16日は「沖縄作戦最悪の日」と称されている。 
17日、日本軍は「52高地の米軍を逆襲し同高地を確保した。0830ころから米軍は、猛烈な砲攻撃の支援下に戦車を伴って52高地、真嘉比地区に猛攻を開始した。52高地は包囲攻撃を受け接戦激闘が続き、米軍を撃退したが、わが損害も多大であった」
18日、「安里東側の52高地地区は、18日早朝から猛烈な砲迫の集中火と戦車を伴う強力な米軍の攻撃を受け優先したが、1000ころには52高地頂上付近は米軍に占領された」
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 新都心地区は、戦後は米軍居住地域として米軍が接収していたが、返還後に開発事業が行われ、大型商業施設や高層ビルが立ち並ぶ。
 まだ安里52高地の開発事業がはじまったころ、削り取られた丘の斜面には、米軍の無線機器の破片や、背嚢の金具、つぶれた水筒、アメリカ軍の小銃の残骸や日本軍の軍靴の底、ベルトのバックル軍服のボタンなど、日米両軍の装備品が無数の破片となって遺骨とともに散乱したという。
 これは、遺骨収集ボランティア「ガマフヤー」代表として、活動している具志堅隆松さんが1991年に目撃した光景である(同氏著『ぼくが遺骨を掘る人「ガマフヤー」になったわけ。』)。
 具志堅さんは、市役所に報告して遺骨収集を要望したが、収集されないまま遺骨を含んだ土は、トラックでどこかへ運ばれた。ここで遺骨を助けることができなかった悔しさが、具志堅さんがその後、近くの真嘉比で遺骨収集の活動に取り組む一つのきっかけとなったという。
 「安里52高地周辺は、無数の人間の血と命を吸い込んだ土から亡骸を取り出すという、戦争の犠牲者に対する慰霊と償いの行為をすることもないままに、『那覇新都心』として近代的な街に変貌していきました」と記している。
 新都心を歩くとき、決して忘れてはならない歴史と戦跡である。

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 沖縄の終戦記念日はいつなのか?

 沖縄の終戦記念日はいつなのか?
8月15日の終戦記念日は、沖縄ではいまひとつピンとこない。というか、この日に追悼行事はあまりない。というのも、牛島司令官が自決し、日本軍の組織的戦闘が終わったとされる6月23日を慰霊の日としているためだ。でも、1945年6月23日が沖縄戦の終結の日とはならない。まだ、各地と離島で、山やガマに隠れて抵抗を続ける日本軍と住民がたくさんいた。だから、8月15日の天皇の玉音放送と終戦の事実も知らないままだ。
 米軍の捕虜になった住民は、各地の収容所にいたが、日本軍の降伏を通訳から聞かされたという。自宅でラジオを聞ける状態ではない。
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             糸満市真壁にある「萬華之塔」
 沖縄戦の公式の終了は、1945年9月7日である。日本の降伏調印にともなって、沖縄本島を含む南西諸島の日本軍代表3人が、越来(ゴエク)村森根(現沖縄市)で、降伏文書に調印した。この日を沖縄戦終結の日とすべきという人もいる。
 悲惨なのは、終戦も知らされず、なおもガマや山などに逃げ隠れたり、日本軍に虐殺された人たちもいることだ。
 南城市玉城糸数のアブチラガマでは、避難民百余人と傷病兵7人が米兵の呼び掛けに応じて壕を出たのは、8月22日だった。3月24日にガマに避難した糸数集落の住民は、なんと5ヶ月ぶりに太陽の光を浴びたという。ここでも、住民虐殺事件が起きている。
 久米島では、島に配属された海軍通信隊(鹿山隊、40人)が住民をスパイ視して殺害する事件が相次いだ。8月15日以降も、住民に投降を呼びかけた仲村渠(ナカンダカリ)明勇さんと妻、子どもの3人が浜辺の小屋で刺殺され放火された。朝鮮出身の谷川昇さんの一家7人にスパイ容疑をかけて、子どもの手を引き、乳飲み子を背負って逃げる妻や娘2人、昇さんを殺害した。狂気の沙汰である。こうした虐殺の責任者の鹿山兵曹長は、平然と生き延びて、降伏調印の場に現れたという。
 日本政府の無条件降伏である終戦記念日は、沖縄にとっては、米軍の横暴な占領と支配のスタートを意味する。9月7日の降伏文書調印によって、沖縄、奄美は日本本土から切り離され、米軍の直接統治のもとに置かれたからだ。
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              糸満市の平和祈念公園にある「命どぅ宝」の碑      
 危険な基地として住民が閉鎖を求める宜野湾市の普天間飛行場も、占領のもとで建設が進められた。米兵のよる女性への暴行も、沖縄戦の初期のころから多発した。8月には、玉城村(現南城市)や金武村(現在町)などで、家族と食料を探していた女性が複数の米兵に山中に連れ込まれ暴行されるなどの事件が起きた。
 これらの記述は、主に「琉球新報・沖縄戦新聞」から紹介した。 

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