fc2ブログ

レキオ島唄アッチャー

ウクライナ問題。ロシアだけ非難するのはおかしいという声について考える

  ロシアによるウクライナへの侵略に多くの人々が心を痛め、ロシアは戦争をやめよ、ウクライナに平和をという声が高まる一方で、アメリカやウクライナの対応にも問題があった、どっちもどっち、ロシアだけ非難するのは一方的だ。マスメディアの報道は偏っているといった声がある。ウクライナでの今日の事態をどう見たらよいのか、判断の基準となるのは国際法や国連憲章だと思う。その視点で考えてみたい。

 ◆ウクライナの対応にも問題がある。
 ウクライナがNATOに加盟しようとしてロシアに脅威を与えたから、ロシアの安全を守るためにやむを得ないという意見もある。本来、軍事同盟であるNATOは解消すべきものだと思う。ソ連の崩壊後、NATOが東方に拡大したこと。さらに隣国のウクライナまで加盟することにロシアが危機感をもったことは確かだろう。
 しかし、脅威があるからいって、隣国を武力侵略してよいとはならない。脅威があるから先制攻撃してよい、となれば世界は収拾がつかない。果てしなく戦争が激化し、第3次世界大戦、はては地球の破滅までいきかねない。
 二度にわたる世界大戦を経て、再びこれを繰り返さないために、つくられたのが国連憲章である。国連憲章は、各国の領土保全と独立を守り、武力による威嚇と武力行使を禁止している。国際紛争は平和的手段で解決することを義務付けている。だから、国連総会特別会合ではロシア非難決議を採択したのである。

 ◆アメリカも再三、侵略を行ってきた。
 アメリカが戦後、ベトナム戦争やイラク戦争を繰り返してきたことが、国際法上も許されない侵略であることは間違いない。だが、アメリカが侵略をしたからといって、ロシアの侵略が正当化されるものではない。ロシアにしても、戦後、旧ソ連時代にハンガリーやチェコスロバキアへの武力干渉、アフガニスタンへの侵略があった。どの国でもあっても侵略戦争は国際法や国連憲章に照らしても許されない野蛮な行為である。

 ◆ウクライナとアメリカ側からの一方的な報道ばかりで、ロシアについての報道が少ない、ロシア側の主張が公正に報道されていないという意見がある。
 ウクライナ側からの報道が多くて、特に民間人の被害、虐殺などが詳しく報道されていることは事実である。戦争にさいして当事国の主張が互いに相反することはいわば当然ではある。問題は、それらの報道、主張はどちらの言い分が事実にたっているか、正しいのかを見極めることである。映像で映し出されるウクライナの戦争被害の現実は、当初、ロシア側は「攻撃は軍事施設などに限定しており、民間施設は攻撃していない。ウクライナの自作自演」などと主張していた。だがいまとなっては、民間住宅、病院、学校、鉄道の駅、劇場、商業施設への無差別攻撃は大規模であり、否定しがたい事実である。
 また、ウクライナの民間人虐殺について、戦争には犠牲がつきものだから、という意見もある。しかし、戦争だからなにをやってもよいということにはならない。戦争であっても守らなければならないルールがある。民間人の殺害は、ジュネーブ条約など国際人道法に反する犯罪行為である。また、化学生物兵器なども国際法で使用が禁止されている。
 
 ◆プーチン大統領の核兵器使用発言について
 プーチン大統領は核兵器の使用もあるという脅しを加えている。核兵器は、大量破壊兵器の最たるものであり、その使用は国際人道法の原則によって禁止されている。核兵器禁止条約では、核兵器の保有・使用を禁じているだけでなく、核による威嚇も禁止している。
 日本でも世界でも「ロシアによる核兵器の使用を絶対に許してはならない」という声と運動が広がっている。
 改めて、プーチン大統領とロシアは、ウクライナへの侵略を止め、平和を回復すること、いかなる事態であっても核兵器は絶対に使用しないこと求めたい。

スポンサーサイト



未分類 | コメント:0 | トラックバック:0 |

首里金城町の内金城嶽と大アカギ

 内金城嶽とアカギの巨木
 首里城に近い金城町にある内金城嶽(うちかなぐすくたき)を訪ねた。何回も金城町石畳を見て、この付近の井泉も見ていたが、まだ行ったことがなかった。石畳の真中あたりにある村屋(むらやー)から、東に少し行くとある。
御嶽は二つあり、左手にあるのが小嶽、右手にあるのが大嶽。御嶽には、アカギの巨木が立ち並ぶ。沖縄で見た樹木の中では、一番の巨木である。樹齢200年~300年とも言われるが、巨樹の迫力からは、もっと古いのではないかとの感じを受ける。
こうした巨樹は信仰の対象ともなったそうで、御嶽は、アカギを囲むように石垣が築かれて、石門がある。
     大嶽 (2)
                            大嶽
 説明板には次のように記されている。
 <古い記録に登場するこの御嶽の起源は、たいへん古いと言われています。『琉球国由来記』には、茶湯崎(ちゃゆざき)村(現松川)の項に記され、真壁大阿母志良礼(まかべのおおあむしられ)が仕えていたことがわかります。神名は東側の大嶽がカネノ御イベ(金乃御部)またはモジョルキヨノ大神(若依休大神)、西側の小嶽はイベツカサ御セジ(威部司御筋)と伝えられています。また、一般にこの御嶽はフェーデン(拝殿)と呼ばれていま 9㎡ほどの広さをやや丸く石垣で囲い、正面には直線のまぐさ石をかけた石門の形となっています。
      小嶽2
       小嶽  
 石囲いの中には神聖とされる大木(アカギ)があり、その下に3個の石が立てられるという、沖縄独特の形式です。
また、小嶽には年中行事の一つで、旧暦12月8日に行われる鬼餅節(ムーチー)の由来伝説が伝えられています。>
 注・大嶽に拝殿が創建されたので、大嶽のことをフェーデン拝殿とも呼んだ。今は、その拝殿はない。(『琉球国旧記』訳注から)。   
         IMG_20211114_103818.jpg

 大アカギの説明板には次のように書かれている。
 <内金城嶽境内には推定樹齢200年以上と思われるアカギの大木が6本生育しています。樹高は約20mで、樹幹にはホウビカンジュ・ハブカズラ・シマオオタニワタリ・クワズイモ・ハマイヌビワなどが着生しています。
アカギは琉球列島・熱帯アジア・ポリネシア・オーストラリアなどに分布するトウダイグサ科の樹木です。沖縄県内では普通に見られる樹木ですが、このような大木群が人里にみられるのは内金城嶽境内だけです。第二次世界大戦前までは首里城内及び城外周辺にもこのようなアカギの大木が生育していましたが、戦争でほとんど消失してしまいました。>
        大嶽アカギ1
    大嶽のアカギ
 沖縄戦で、米軍は読谷村から北谷にかけての海岸から上陸して南下してきた。32軍司令部のあった首里城は、猛烈な砲撃で破壊され焼きつくされた。ただ金城町は、首里城の裏側に位置するので、消失を免れたのだろうか。 
   
    小嶽アカギ3   
    小嶽のアカギ
 貴重なアカギの巨樹である。古くから神木とされたように、内金城嶽は神聖な雰囲気に包まれている。
       IMG_20211114_103730.jpg


未分類 | コメント:0 | トラックバック:0 |

尚巴志の遺骨をどこに隠したのか

 このブログでアップしていた「英雄・尚巴志の墓を訪ねる」について、金丸がクーデターを起こしたとき、尚巴志の遺骨を金城町の大日寺に隠したと書いた。これを読んだコバさんから「金城町の大日寺へ隠したとありますが、建立されたのが尚質王時代1660年ごろです。クーデターは1400年中頃ですので200年程時代が合いません。クーデター当時にはお寺はなかったのではないでしょうか?当方の情報が違っている可能性もあります。ご回答頂けましたら幸いです。」とのコメントをいただいた。
この部分は當真荘平著『月代の神々』からの引用だった。改めて同書の関係部分を引用する。
 <天山陵墓が焼き打ちされる前に屋比久之子平田之子は、いち早く西室の坑道伝いに大中町側の山林を抜け出し、赤田町の達磨寺にたどり着き、夜陰に乗じて赤田御門の城下を抜けて、金城町の大日寺の奥に尚巴志王らの玉骨を隠した。寺院に入ったので金丸の追手は追跡できなくなった。その後追手の隙を見て、北山討伐の時駐屯し地勢にも詳しく妾の東松田祝女の故里の伊良皆の森に中に玉骨をお祀りしたのではないだろうか。屋比久之子平田之子を助けて行動をともにした親雲上、里之子たちはクーデターがおさまった後も、隠者としてささやかな生活を続けていたのであろうか>。

 では、大日寺はいつ、どのように創建されたのだろうか。『琉球国旧記』(原田禹雄訳注)から引用する。
<東松山大日寺(※1)《首里の金城町にある》
 順治年間(1644-61)、頼慶(らいきょう)和尚なる者がいた。この僧は賢い人で、日本で勉強して、密教の奥義を受け、また両部の本源(※2)をきわめ、兼ねて儒教の書を学び、かなり義理のくわしい点を知って帰国した。久米村(くにんだ)の東寿寺で説法をし、儒教の講義をして、人々に教えた。
 この時、尚質王は、頼慶に、儒書の侍講を命ぜられた。道が遠く、往復するのに苦労であろう、ということで、王は宅を首里金城町に賜わった。寺院を創建して、大日如来の尊像を安置した。
 康熙31年(1692)壬申(佐敷王子)尚益公が、薩摩へ行かれる時に、日秀上人の像を勧請あそばされて、(大日寺に)奉安されたのである。>
 ※1首里金城町3丁目の内金城嶽の東北にあった。真言宗。山号は東照山。寺号は遍明院ともいう。明治には廃寺となっていた。
※2両部は、金剛界と胎蔵界のことであるが、ここは両部神道であろう。
         尚巴志の墓
            読谷村伊良皆にある尚巴志の墓
 この史料で見ると確かに大日寺は尚質王の時代、順治年間(1644-61)に首里金城町に創建された。首里で真言宗の寺としては初めてだった。金丸がクーデターを起こしたときは1469年であるから、寺の創建は175年後であり、明らかに間違いである。筆者は裏付けをとっていなかったので、この部分は訂正したい。
 ただし、金城町の大日寺はなかったとしても、金城町のどこかに仮安置した可能性はある。
 尚巴志の遺骨の行方について、伊敷賢著『琉球王国の真実―琉球三山戦国時代の謎を解く』が詳しく記しているので、その部分を引用する。
「尚徳王一族は首里城を去る時に、先祖の遺骨も持って逃げた。首里王城での政変をいち早く察知した屋比久之子平田之子は、首里大中町に天山陵(てんざんりょう)にあった先祖の墓を開き、石棺に入っていた尚巴志王・尚忠王・尚思達王などの玉骨を甕に入れなおし、読谷山間切伊良皆村の佐久川原の嶽内に隠した」「天山陵墓跡には壊された石棺の台座が残されているが、墓室は破壊され、第二尚氏4代目尚清王の北谷王子の御拝領墓(グフェロ-バカ)になった。現在、墓跡地は個人の屋敷となっており、所有者によって墓前は整備され石碑も建立されている。首里金城町の雍氏(名乗頭「興」)門中慶佐次家の屋敷には尚巴志王統4代目尚思達王・尚金福王・尚泰久王の墓があり、天山陵から移送するとき仮安置して分骨したという」。
「戦国時代には戦に負けた一族の墓を暴く習慣があり、首里大中町にあった『天山陵』も尚円王配下が雇った大和武士たちによって焼き討ちにされ、石棺も破壊された」。

 読谷村伊良皆には尚巴志の墓があるので、天山陵から遺骨を移したことは確かである。その前に當真氏が隠したと記した金城町の大日寺が、当時はなかったとすれば、読谷山に移す前にどこに隠しのか。仮安置されずに読谷山まで移したのか判然としない。伊敷氏は、尚巴志の遺骨を仮安置したと記述していない。ただ、尚思達王・尚金福王・尚泰久王の遺骨は金城町慶佐次家に仮安置されたとしている。第一尚氏の王たちの遺骨を仮安置したのが金城町という点では、當真氏と伊敷氏の見解は符合する面がある。
 大日寺のあった場所は、首里金城町3丁目の内金城嶽の東北だったという。金城町にある内金城嶽は、「古い記録に登場しているこの御嶽の紀元(ママ、起源)は12世紀まださかのぼる」(「那覇市観光資源データベース」)という。この御嶽は、石垣で囲い石門があり、そのなかにアカギの大木がある。
  大嶽 (2)
            首里金城町にある内金城嶽(大嶽)
       
 遺骨を金城町のどこかに隠したとすれば、神聖な御嶽に隠した可能性はないだろうか。これはまったくの思いつきだが、そんな推理も頭をよぎった。
 重要なことは、一時的にどこかに隠したのかではなく、最終的に読谷山伊良皆に隠した事実であり、それ以上の詮索は不要なのかもしれない。
 なぜ、遺骨は読谷山伊良皆に移送されたのだろうか。
 「伊良皆村には、尚巴志王の妾に東松田ヌルの実家があ(る)」「尚巴志王の孫平田之子屋比久之子読谷山伊良皆村に隠れ住んだ」「伊良皆山には屋比久之子平田之子の墓もあり、後に佐敷森(サシチムイ)と称された」(『琉球王国の真実』)。
當真氏もすでに見たように同様の記述をしている。
 「その後追手の隙を見て、北山討伐の時駐屯し地勢にも詳しく妾の東松田祝女の故里の伊良皆の森に中に玉骨をお祀りしたのではないだろうか。屋比久之子平田之子を助けて行動をともにした親雲上、里之子たちはクーデターがおさまった後も、隠者としてささやかな生活を続けていたのであろうか」(『月代の神々』)
伊敷、當真両氏とも、尚巴志王の妾、東松田祝女(ヌル)の故里の実家を頼ってきたと見ている。首里から遠く離れ、追手からも逃れるのに適しているからだろう。

未分類 | コメント:0 | トラックバック:0 |
| ホーム |