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宮古島への鉄と鍛冶の伝来、その5。政治社会の変貌

鍛冶伝来で政治社会が変貌

宮古島への鉄と鍛冶の伝来を考える上で、考古学的な知見と同時に、宮古島における鉄と鍛冶の伝来がもたらした社会的な変化を分析することも欠かせない。

その点で、稲村賢敷氏の論考は、興味深い。

稲村氏は、日本および沖縄からの渡来人によって鍛冶の技術が伝わり、鉄製農具および漁具が製作されて一般に普及するようになったことは、「宮古の生産業、殊に農業に一大革新をもたらしたことを物語るものである」と強調。鉄製農具の使用がおよぼした宮古島の政治社会の変化について、次のようにのべている。

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            豊見親墓の案内碑

  <耕地および人口の増加は、従来のように小さい血縁部落内の生活に満足することができなくなって、新開地(原や里)の発達となったのである。…狭小なる地域の祭祀を中心としてできた血縁部落は自然に変貌して、土地の開墾と分配および所有権相続権を中心とする政治社会が発達するようになる。…強力なる武力を有する男子中心の社会ができるようになったものと思われる。…平良地方においては、この新しい政治社会の統率者となった者を天太(てだ)と称した。…祭祀社会における祖神に対する尊称が、そのまま政治社会の統一者に対しても使用された。

 平良地方において天太と称した者には、(1)保里(ぶさと)天太(てだ)、(2)根間角(にーまつね)がーら天太、(3)浦天太、等がある。彼らは何れも要害に拠って城を築き、武力を備えていた。これはその勢力下にある農民を統制すると共に、附近に居る強敵の侵冠を防衛する必要のためであった。…

宮古における鍛冶の伝来は、これからなお50年乃至100年ばかり遡って13世紀中頃以後のことになり、鎌倉時代の末頃であったと考えて間違いないようである。>

 農耕社会への発展と人口の増大、それを背景として台頭した各地域の支配者間の武力抗争は、鉄製の農具と武器なしには考えられない。

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           仲宗根豊見親の墓

 与那覇原軍を目黒盛豊見親が打ち破ったのは1370年前後と見られている。目黒盛が争いの中で「宝剣」で矢を打ち払った逸話に見られるように、この時代の争乱に刀剣、弓矢が使われたことは確かである。

稲村氏は、14世紀には広く鉄製品が使われたことを踏まえて、鉄と鍛冶の伝来から普及までの時間的な経過を考えて、その年代を「50年乃至100年ばかり遡って13世紀中頃」と推定したのではないだろうか。
 稲村氏の推定は考古学的な知見からは早すぎるとしても、宮古の社会発展と変化の歴史を見れば、14世紀はじめには鉄と鍛冶が伝来していたと考えるのが、自然ではないだろうか。

 谷川氏と稲村氏は、鉄と鍛冶を伝えたのは倭寇と見ているが、必ずしも倭寇だけとは限らないのではないか。喜界島の城久遺跡では11世紀後半~12世紀ごろの鍛治炉の跡が20基以上、発見されている。喜界島は南島交易の拠点だったといわれ、活発な交易活動により鉄器が琉球諸島に持ち込まれていたと見られている。

宮古島に滑石製石鍋が12世紀代には大和商人によって運ばれたとすれば、喜界島で造られる鉄器が交易を通して持ち込まれたことも十分考えられる。

宮古島には倭人、琉球人、大陸の人々などが渡来している。「特に鍛冶の伝来は渡来人と深く関係している」(『みやこの歴史』)ことは確かだ。

各集落(遺跡)に陶磁器が出土することから、中国との交易もあったようだ。1317年、中国温州に14人が乗った小舟が遭難し漂着した。保良元島の首長の管轄下にある宮古人婆羅公管下密牙古人)と見られ、シンガポール方面に貿易のため出かけていたという。14世紀初めに東南アジアまで交易に乗り出していたとなれば、すでに海外から鉄器が持ち込まれたことは容易に推察される。

宮古島の農耕社会の発展と「争乱の世」の現出という歴史のなかで、鉄製の農具や武器が使用された現実から見れば、少なくとも14世紀のはじめ頃には、宮古島に鉄と鍛冶が伝来したことがうかがえるのではないだろうか。

それにしても、沖縄の離島の中で、宮古島は独特の歴史の歩みがあって、興味は尽きない。

   終わり            文責・沢村昭洋

                          


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