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奥間鍛冶屋の伝承をめぐって(1)、奥間大親

 奥間鍛冶屋の由来と系譜

 鎌倉芳太郎著『沖縄文化の遺宝』を読んでいたら、羽衣伝説のある奥間大親と奥間鍛冶屋をめぐって興味深い史料と解説があった。この機会に、奥間鍛冶屋の由来とその系譜について少し学んでみたい。

 琉球の王統や按司など有力家系の祖先についてまとめた慶留間知徳著『琉球祖先宝鑑』から、奥間大親とその先祖、子どもなど関係する人物を抜書きしてみた。同書は戦前、昭和8年(1933)初版、同37年(1962)再版されている。

 奥間大親の系譜
並里按司
 在所は佐敷新里村並里と云ふ家世。御骨は同村の沢川御嶽の内の墓に埋葬せらる
此の按司は五穀の種子植付教習の為国頭、中頭、島尻を巡行せられ功名を挙げられたる人なり
父は御巣人也
祖父は天済大神也
曾祖父は天美人也  

長男辺士名里主
 在所は父と同所其長男は辺士名子又其長男奥間大親二男も奥間大親此の人は宜野湾謝名村より同眞和志に行って住す。在所は奥間と云ふ家なり。又三男は赤嶺大主四男は東江大屋子五男は新城大主なり
                   奥間大親碑
                宜野湾市森の川にある奥間大親と察度王の名が刻まれた碑 
 奥間大親
 在所は宜野湾眞志喜村奥間と言ふ家也。死骨は同村の下海の前なる戊亥に向う高墓也
大親は国頭奥間村に生れ、父辺士名里主の在所は佐敷新里村に至り久しからずして宜野湾謝名村に住居農事を勤め居たり或時天(女)の森川にて沐浴するを見て飛衣を取り深く隠し置きしに天女上天の術を失ひ遂に大親と夫婦と成ってと一男一女を生めり夫れより程経て天女は飛衣の有所を聞き喜び終に取って身に掛け雲空に飛去る大親は又子供養育の為めに同謝名村又吉の元祖の女子を娶りて三男一女を出生すと言ふ
 父は辺士名里主也
 祖父は並里按司也
 曾祖父は御巣人也
  其御祖先は天済大神加那志也。在所は佐敷新里並里と言ふ 


 これを見ると、羽衣伝説をもつ奥間大親の祖先は、琉球開闢伝説につながっている。祖父と父は佐敷新里村を在所としていたという。奥間大親は、国頭奥間村で生まれたとされ、奥間を名乗っている。しかし、なぜか父は佐敷新里村にいたことになっており、父のもとに行き、その後宜野湾謝名村に住み、農業をしていたという。
 伊禮春一著『琉球家紋系図宝鑑』は、謝名村で養子に入ったとする。
「謝名村には百名大主の十二男真志喜大神が興し、二代目を真志喜五郎が継いでいた家があったが、その当時国頭辺土名奥間村の辺土名里主の長男、奥間大親は謝名村にやってきていたが真志喜五郎に跡目がなかったので養子に入って継いだのが奥間屋であるという」
 『琉球祖先宝鑑』でも真志喜五郎は「在所は同村の奥間という家なり。五郎は家には世子なく外子が五名あり」と記す。謝名村は現在、字真志喜とされる。

 謝名村の真志喜五郎についても、同書から紹介する。
  真志喜五郎
 母は宜野湾眞志喜村の奴留(ぬる)也。在所は同村の奥間と云ふ家なり。五郎は内には世子なく外子が五名あり田名大主島尻大屋子津波赤人久高大主中城牛太郎皆離島村々に分住す
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熊本大地震の益城町(マシキマチ)から

天授4年(1378年)9月、熊本東部託麻原一帯(益城町付近)で、南朝方(征西将軍軍営の良成親王)と今川軍が真正面から対峙したとされる。

 羽衣伝説をもつ奥間大親の祖先は、琉球開闢伝説につながっている。「察度の父奥間大親は、その父の在所佐敷間切新里村に到って父兄に対面したと記している。与那原湾に面する馬天の佐銘川大主居住の所であり、尚巴志発祥の地でもある。

谷川健一書「鍛冶屋の母」から

察度王の伝承は炭焼長者の伝承にほかならない。この伝承の一例をあげると、熊本県玉名市に式内社の匹野神社がある。この一帯は砂鉄が豊富で「かなくそ」が今でも出るところからみれば、それが製鉄を背景とした伝説であることが容易に分かる。

熊本出身の谷川健一は琉球誕生に名和水軍が関わったと推測しているが、中世の南北朝史には琉球への鉄器伝来の伝承と年代が重なります。今回の熊本大地震で大きく被災した益城町(マシキ)が、真志喜(マシキ)五郎の所縁の地であると思えてなりません。琉球を統一した尚巴志は佐敷按司(城主)で、母親は美里村の出身となれば熊本の地名の「佐敷、美里、益城(マシキ)、西原」沖縄の西原(与那原の隣)を含め、全てが偶然の一致では済まされない。

参考:尚巴志1372年〔誕生〕(南山地域の小さな城の城主の子として生まれる。)1392年〔21才〕:佐敷按司(城主)となる。
2016-04-23 Sat 18:37 | URL | 生盛 功 [ 編集 ]
生盛様、コメントありがとうございました。
地震被害の益城町と沖縄の真志喜との関連とは思いもしなかったですね。
 奥間大親の祖先は佐敷のようです。名和水軍が倭寇なら、琉球に来ていたことは確か。名和一族の根拠地の一つが熊本の佐敷だから、沖縄の佐敷との関連もありそうですね。
 真志喜五郎は父親が鎮西八郎為朝とされ、海運業をしていたことから、大和人ではないかといわれているので、九州・熊本あたりとのなんらかのかかわりがあるのかもしれません。
 興味深いご指摘ありがとうございました。
2016-04-24 Sun 11:22 | URL | レキオアキアキ [ 編集 ]
「奥間鍛冶屋の伝承をめぐって(2)、羽衣伝説」の中山察度王統が成立したのは1349(至正9)年のこと、後醍醐天皇が懐良親王を九州に向かわせたのが1341年頃で、薩摩に上陸したという。鞆の浦の小烏の合戦(1350年)に敗れた足利直冬は九州に敗走し幕府に屈服している。真志喜(マシキ)五郎が察度王伝承に関わりがあったとすれば、小烏の合戦(1350年)や九州における南朝方の敗走兵(1378年)ではなく、交易に携わっていたグループだったということになる。中世の南北朝史と琉球王国誕生には地名と時代背景からすれば疑いを持たないが、合戦に敗れた人々が南下をしたと考えることには異を唱えざるを得ない。しかし、奄美や沖縄には何故か平家落人を含め、数々の落人伝承が残されている。
2016-04-25 Mon 18:22 | URL | 生盛 功 [ 編集 ]
生盛様、コメントありがとうございました。
察度王の父、奥間大親が真志喜五郎のもとに、養子で入ったとすれば、五郎は察度と血のつながりはないけれど、祖父にあたる人なので、時代は13世紀、1200年代に生きた人になります。五郎が大和人とすればご指摘の通り、交易に携っていたでしょうね。海運業を営んだとも伝えられているので。 
2016-04-26 Tue 18:08 | URL | レキオアキアキ [ 編集 ]
熊本県の佐敷城は南北時代として歴史書に登場し、在地の豪族である佐敷氏の居城だったとされる。中世佐敷城を巡って、八代を本拠とする名和氏と相良氏との間で争奪が繰り返され、肥後守護である菊池為邦により相良氏の葦北領有が公認されたとなっている。熊本出身の谷川健一が、琉球誕生に名和水軍が関わったと説いているが、偶然な地名の一致だけではなく、名和氏が関わりを持つ佐敷城の争奪合戦が背景にあったのかもしれない。西海を活動拠点にした名和水軍が琉球列島まで勢力圏としていたとすれば、琉球王国を誕生させる最も有力な勢力であったと容易に想像がつく。
2016-05-22 Sun 11:27 | URL | 生盛 功 [ 編集 ]
生盛様、コメントありがとうございました。
熊本の佐敷城をめぐる争奪合戦の歴史など、まったく知らないことばかりです。
 勉強させていただきます。
 佐敷城の争奪合戦は、16世紀のことのようですが、沖縄の佐敷出身の尚巴志が琉球統一を果たすのは15世紀なので、名和水軍の影響が琉球にも及んだとすれば、それ以前なのでしょうね。
2016-05-22 Sun 20:01 | URL | レキオアキアキ [ 編集 ]

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