レキオ島唄アッチャー

「ヒヌカンのはなし」を聞く

 「沖縄県民カレッジ――美ら島沖縄学講座」で今回は「ヒヌカンのはなし」と題した講演があった。講師は沖縄国際大学非常勤講師の稲福政斉氏。以下、稲福氏の講演から勝手にかいつまんで紹介する。

1、ヒヌカンとは何か

 人間生活に欠かせない火や水はありがたい存在であると同時にそれへの畏れから、火や水を崇める火の神、水の神は世界どこにもある。

沖縄のヒヌカン(火の神)信仰は、古くから火への信仰と中国の竈神(かまどの神)信仰が融合したもの。
 沖縄では位牌より古くから信仰の対象とされた。

昔のヒヌカンは、石を3つ置いたもので、その原型は鍋を火にかけられるように石を3つ置いた「3石カマド」である。カマド自体がヒヌカンだった。

ヒヌカンの呼称には、ヒヌカン、フィヌカン、ピナカン(火の神)、ヤヌカン、ダヌカン(家の神)、ウカマ(御竈)、ウミチムン(御三つ物、3つの石)などある。

 

2、ヒヌカンの機能

1)一家の守護神

ヒヌカンは、火とは関係のない、一家の繁栄、家族の健康、家族の出産・結婚・死亡など日常の家庭内のあらゆることを拝む。ファイアー(火)の神ではなく、一家の守護神である。

各家庭のヒヌカンはそれぞれの家の神で、普通家族以外の人は拝まない。

(2)ウトゥーシドゥクル

 御通し所、遥拝所のこと。親元の位牌や祖先の墓を拝むことができない場合、ヒヌカンを通して祈願や報告をすれば、祖霊に通ずると考えられる。

               

            


        「御願ハンドブック」
          ヒヌカン概観図(『よくわかる御願ハンドブック』から)
    
 3、ヒヌカンのまつりかた

 伝統的なまつりかたは、カマドの後方に3個の石(ミチムン)を置き、神体あるいは「よりしろ」(依代、神霊がよりつく物)とした。古くは、カマドそのものをヒヌカンとして拝んだ。

 戦後、神体や「よりしろ」は3個の石からウコール(香炉)へとなった。家庭の台所にカマドがなくなり、祀る場所も、カマドの背後からコンロ後方や壁付の棚へと変化した。

 とくに近年みられる傾向として、ステンレス製のヒヌカン置台が用いられる。白い磁器のウコールやハナイチ(花生)が普及した。

 若い世代のヒヌカンの祭祀儀礼について、ヒヌカンの上天、下天(別途説明)などの再認知が広がっている。その背景には、ユタの指導やヒヌカンのやり方の伝承が途絶えてきて、マニュアル本から知識をえる影響も大きい。

 

4、上天と下天

 ヒヌカンは、年に一度旧暦1224日に天に上り、家族の1年間の行いのすべてを天の神に報告するとされる。
 ウグヮンブトゥチ(御願解き)もこの日に行なう。1年の成就したことに感謝し、不幸なことは解消するように願う。本来は上天、下天とは関係なかったが、いまは合わせて拝むようになっている。

 天に上ったヒヌカンは、下天する。そのさい1年間の家族の行いを記録する新しい帳簿を携えてくる。その日は、地域や家庭による異なる。12月末日、11日、13日、14日(中国南部)。沖縄では、下天が14日では、正月3日間は不在となり、年始の御願をするのに困るので早く帰ってきてほしいという思いがあり、12月末日や11日になったのではないか。

ヒヌカンは3体の神で、このうち2体は年末に天に上って、家族の行いを報告し、1体は残って家族を守るとする地域もある。

 

5、ヒヌカンの性別、数や禁忌

 ヒヌカンの性別と数は、中国では現在はおおむね男神1体とされる(1組の夫婦と考えられた時期もあった)。日本では、男神とする地方が多い。1あるいは3体。神の種類によって異なる。

 沖縄では、女神と考える傾向が強い。数は3体とされることが多い。3個の石を置いたことから、供物も3個供えるため。

 ヒヌカンをめぐる禁忌として、「台所では大声でどなったり、文句を言ったりしてはならない」。ヒヌカンは耳が遠いため、自分に文句を言っていると勘違いされ、怒りにふれるとされる。

 「供物のウサンデー(お下がり)は男が食べていけない」。ヒヌカンのウサンデーは、女性のものとされる。

 「ウコール(香炉)の掃除は12月24日以外にしてはならない」。香炉の灰の中には、ヒヌカンが家族の行いを記録した帳簿が隠されているとされ、普段みだりにさわると、帳簿を処分しようとしていると勘違いされ、怒りにふれるとされる。

 大筋、このような話だった。沖縄の人にとってヒヌカンは、日常生活の上でもっともお世話になっている神とされる。それだけに、質問コーナーでは、県民カレッジの講座としては最高の40通ほどの質問が寄せられ、関心の高さが示された。


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歴史が今に生きている沖縄、海ヤカラ

「海ヤカラ」に歌われた美女
 糸満市を舞台にした民謡「海ヤカラ」には、男女のロマンスの伝承がある。この前、このブログでアップしているが、簡略にして再度、紹介しておきたい。 

 「海ヤカラ」は、海のつわものや英雄を意味し、船頭や船乗り、魚捕りの名人を指している。
 <糸満市真栄里(まえさと)に「ドンドンガマ」と呼ばれるガマ(洞窟)があった。
 そこによそから漂着した男が住み着いて、漁が巧みなことから村人は彼を「海やからー」と名付けた。そのうち、村一番の美女が「海やからー」に恋した。村の青年たちは嫉妬から「海やからー」を亡き者にしようと企むが、ことごとく失敗。それならばと、2人への面当てにはやり歌で恋路をバラしたのだとか。今に伝わるその俗謡の1節に、「誰がし名付きたが、ドンロンぬガマや 真栄里美童ぬ 忍び所」とある。
 ちなみに、「海やからー」に恋した娘とは、現在の仲間門中宗家で、ラジオパーソナリティー・玉城美香さんのお母さんの実家だということも判明!>
  「週刊レキオ 島ネタchosa班」(2016.1.7)から、かいつまんで紹介した。玉城美香さんは、たしかに糸満市出身。「ミーカー」の愛称で知られる人気パーソナリティーである。毎日、ROKラジオ「チャットステーション」で声が流れる。私がよく聞くのは、同局日曜日昼時の「nannbuアワー」である。

歴史的な人物や民謡に歌われた人たちの子孫がいまもたくさんいることを改めて感じた。沖縄は狭い島国であり、人々のかかわりが濃密である。その子孫も、大和のように各地に散らばっていくのではなく、大半は島に暮らすという環境がある。それに王府時代に士族は家譜を作成して王府に提出することが義務付けられていた。沖縄戦で焼けてなくなった家譜が多いと聞くが、残された家譜もある。男系の血縁組織である門中(ムンチュウ)も存在し、自分たちの祖先への関心も他府県以上に強い。
 こうした背景があり、歴史が生きていることを感じさせことが多いのだろう。
       終わり

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ニシキヘビにご対面?離島フェア―2017

 今年も沖縄の離島の特産品を集めた離島フェア―2017が沖縄セルラーパーク那覇で開かれているので、ちょっとのぞいてみた。
 今年初めてお目にかかったのは、三線の胴に張るニシキヘビの皮である。
 「沖縄の三線に張ってある皮は、何の皮ですか」と質問すると、「ハブ!」と答える人が結構多い。県外の観光客だけではなく、ウチナーンチュでもそう思いこんでいる人がいる。
 琉球王府の時代から、三線にはニシキヘビの皮が使われていた。沖縄に生息しているわけがない。琉球は古くから東南アジア、中国と交易をして栄えていたので、皮が手に入ったのだろう。

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  宮古島の三線の店をのぞくと、なんと頭から胴体まるごと展示されているではないか。
「現在は海外で養殖されていて、三線やハンドバッグ、サイフなどに使用されます」と説明されていた。
 若いお店の男性が次のように説明してくれた。
 天然のニシキヘビは、動植物保護のワシントン条約で捕獲が制限されており、使えないので、ベトナムなどで養殖されている物を使っている。
  それに天然のニシキヘビは、キズがあったりすると破れやすいので、三線の皮には養殖の方がいい。
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                          こちらは久高島の特産、イラブー(海蛇)の燻製
   昔は、インドニシキヘビの皮を使っていたが、いまは養殖のビルマニシキヘビの皮を使っている。輸入するのは、通常、頭はついていない胴体だけだが、こちらは展示用として頭のついた皮を注文して取り寄せた。 
 
 ニシキヘビの皮は、三線店に行くとよく置いている。でも、全体を見るのは初めてだった。頭を見ると胴体の割にとても小さい。手を握った拳より小さいくらい。「これは小さい方です。これではネズミくらいしか飲み込めないですよね」と笑う。三線用にはもう少し大きいヘビ皮を使うそうだ。
 ネットでニシキヘビ養殖の情報を見てみると、ニシキヘビは見た目はどう猛だけれど、実際はおとなしいそうだ。ベトナムには蛇皮生産農場があり、一か所で数十匹も飼っているという。
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                      多良間島の黒糖
 それぞれのブースで、試食三昧だったが、今回は車で行ったので、泡盛の試飲ができなかったのが残念。石垣牛切り落としをお安く買い求めた。


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歴史が今に生きている沖縄、攀安知の子孫

攀安知の三、四男移住した津波古

 

北山王・攀安知(はんあち)の三男・外間子(ふかましー)、四男・喜屋武久子(ちゃんくしー)が北山を逃れて移り住んだとされる集落がある。南城市佐敷字津波古は、攀安知が中山王の尚巴志に討たれ、外間子と喜屋武久子が移り住んだ1416年から2016年で600年になるそうだ。
 2016116日に、「攀安知(はんあち)王の三男・外間子(ふかましー)、四男・喜屋武久子 移住600年祭」が津波古公民館で開かれた。外間子と喜屋武久子の子孫である3門中の約1200人が県内外から集まり、自らのルーツに思いをはせ、時代を超えて交流を深めたという。

これは、「琉球新報」1123日付の記事である。以下もこの記事による。

 外間子の子孫である桃原門中、安次當(あしどぅ)門中、喜屋武久子の子孫である福増門中は各門中で総会などは開いていたが、三門中が集う企画は初めて。福増門中の伊禮青勝さん(70)が開催を呼び掛け、今年6月に実行委員会が立ち上がった。

実行委員長を務めた伊禮さんによると、尚巴志に滅ぼされた攀安知は歴史上よく描かれないことが多く、門中の中には「北山系」という出自をタブー視する人もいたという。
                               

    
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                                     北山王の居城だった今帰仁城跡
 「だが、外間子や喜屋武久子は中国で得た知識を琉球に広めた功績のある人物。その子孫も各方面で活躍している。若い世代には誇りと自信を持ってほしい」と思いを語る。

 くしくも6日は尚巴志ハーフマラソンin南城市大会の開催日。「尚巴志が外間子、喜屋武久子を討たなかったおかげで我々が生れた」と笑う伊禮さん。「(同じく生き延びた)攀安知の次男、五男の子孫たちとも交流を持ちたい」と今後の展望を語った。


 佐敷の津波古といえば、よくそのあたりを通ることがある。北山の攀安知と聞くと、遠い遠い昔話のように思っていたが、その子孫の方々が血筋を受け継いで、600年の時を超えてそのルーツを大事にしていると聞くと、攀安知がなんかリアリティをもった人物として蘇る感じがするから不思議だ。
 詳しくは、わがブログで「攀安知の三、四男移住して600年、子孫が祝典」をアップしてあるので、そちらを読んでほしい。
    



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アルテで「十九の春」を歌う

  第142回アルテミュージックファクトリーが11日夜開かれた。今月のテーマは「枯」。14組が演奏した。
 トップは、1年ぶりぐらいに再登場した島袋さん。いくつかアクシデントが重なり休んでいた。ギター弾き語りで「旅の終わりに」など2曲を歌った。元気な姿を見せてくれたのが嬉しい。
                 
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  越智さんは、ツレのピアノ伴奏でトランペットを持ち「ラブイズオーバー」を演奏した。
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   たーかは、ギター弾き語りで尾崎豊の「15の夜」を熱唱し た。
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   絹枝さんはウクレレを弾き、ふーみんがリコーダーで合奏。「冬の星座」など2曲を歌った。
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   カーペンターズは「芭蕉布」など2曲を演奏した。久しぶりに島袋さんのドラムとリコーダーが入って盛り上げた。
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 私は「十九の春」「永良部百合ぬ花」の2曲を歌った。前者は「庭の枯れ木を見てごらん」と歌う。後者は「百合よ枯れるな」と歌うからだ。少し歌詞を省いて2曲で5分以内におさめた。「十九の春」の元歌は「与論小唄」だと言われる。偶然にも、与論島と沖永良部島という奄美諸島にゆかりの曲を歌ったことになる。
 
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    ツレは、ピアノ弾き語りでプリンセスプリンセスの「М」を歌った。よく声が出ていて、好評だった。
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     越智さんは、ギターで「枯葉」を演奏し、宇都宮さんがピアノでコラボした。

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 ツレはピアノ独奏で、ブラームスの「ワルツ変イ長調」を演奏した。

 ギターのターボ&ピアノ・宇都宮のコラボは、すべて即興演奏だった。ビックリ。

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 清美さんは、今回も美空ひばりの名曲「みだれ髪」を歌いあげた。
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 第2部では、宇都宮さんはピアノでほとんど出ずっぱりだった。
 12月のファクトリーで、「みなさんで『we are the world』を歌いたい」と提案。それに向けての練習を始めた。みんなで歌えれば素敵な歌声にあるだろう。
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 12月のファクトリーのテーマは「来」。さてどの曲にしようか。



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歴史が今に生きている沖縄、奥間大親

羽衣伝説の奥間大親の子孫

宜野湾市の羽衣伝説で知られる奥間大親の子孫にも著名人がいらっしゃる。

奥間大親は、国頭の奥間村の出身だが、養子に入って奥間家を継いだという。
 「謝名村には百名太主の12男真志喜大神が興し、2代目を真志喜五郎が継いでいた家があったが、その当時国頭辺士名奥間村の辺士名里主の長男、奥間大親は謝名村にやってきていたが真志喜五郎に跡目がいなかったので養子に入って継いだのが奥間家であるという」(伊禮春一著『琉球家紋系図宝鑑』)。

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          天女伝説のある森の川  

   奥間大親は、森の川で水浴びをする天女の羽衣を隠した。この天女と夫婦となり、一男一女が生れた。長男が察度である。天女が天に帰った後、謝名村又吉の元祖の女子をめとり、三男一女が生まれた。次男が泰期である。
 察度は仕事もしないで遊び好きで奥間大親は勘当した。察度は勝連按司の娘をめとり、後に英祖王統5代目、西威王が亡くなったさい「世子幼少にして母后政を乱す」(慶留間知徳著『琉球祖先宝鑑』)ため、察度が推されて中山王となった。
 次男の泰期は察度王の使者となり、明との交易のため、合計5回も往復した。さらに国頭村奥間で鍛冶屋を営んだことで知られる。金満按司とも呼ばれた。
 「奥間家は長男察度が父奥間大親に勘当され家を出て国王に登ったので次男金満按司が継いだという」(伊禮春一著『琉球家紋系図宝鑑』)

  伊禮氏の同書では「元祖・奥間大親」の奥間家は、「当主 佐喜真博」とされている。現在、宜野湾市長の佐喜真淳氏は奥間大親の末裔とされる。


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歴史が今に生きている沖縄、久高マンジュ主の子孫

 久高マンジュ主の子孫 
 
 沖縄のエイサー曲として有名な曲に「久高マンジュ主」がある。この歌について書いたところ、久高マンジュ主の子孫にあたる久高さんから、コメントをいただいた。この曲の歌詞がとても面白いと不用意に書いていたことに対して、「不愉快」「面白いといわないでほしい」との指摘をいただいた。
 久高マンジュ主は、いい歳をして、美しい女性を追いかけるとか、家計は窮乏して仏壇もきれいにできないなどと、はやし立てる内容だ。この歌は、遠い昔の伝説上の人物をモデルにしていると勝手に思っていた。
 久高さんのコメントは「私の祖先に対する歌らしいですが、いつもお盆の時や沖縄の行事時にこの歌が流れていて耳にします。この歌の意味が分かっているので正直言って不愉快です。歌を考えた人が許せない。だから面白いとか言わないでほしいです」という内容だった。
                          
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                          今年の旧盆で演舞する古蔵青年会のエイサー

 久高さんから追加のコメントが寄せられた。
「私の祖先は、もともと琉球が栄えていた時代、当時の王の側近で警護の仕事をしていたそうで、階級も上の位で立派な人だったそうです。ある日、王の命令で久高島に派遣され、そこで功績を上げて首里に帰って来た時に、当時の祖先の姓が照屋だったにもかかわらず、王が『姓を久高に変えなさい』と言ってそれからずっと久高になっているみたいです。でも酒と女遊びがとても激しかったらしく、庶民らがとてもひがんで<久高マンジュ主>をつくったそうです。まあ唄になるくらいだから、相当ひどかったでしょう」
 酒と女遊びが激しかったとしても、王府で大事な役職にあり、久高の姓もその功績によって王から授けられた立派な人だったことがよくわかる。エイサー曲は、久高マンジュ主の真実を反映していない。一面が誇張され、面白おかしく仕立てられたのだろう。
 
 久高さんは、初めて家系について調べていろんなことが発見できるよい機会だった、とのべている。 
 狭い島国の琉球・沖縄では、伝説や歴史上の人物や出来事について、関係した人たちを祖先にもつ人たちがいまもたくさんおられる。とかく、民謡に歌われた出来事や歴史で学んだ事柄を、現実と切り離された遠い過去のことと思いがちだ。でも、それぞれの家系は綿々とつながっていて、歴史がいまも生きていることを改めて痛感した。


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歴史が今に生きている沖縄、祖先は役人の現地妻

祖先は役人の現地妻だった

 八重山や宮古島では、離島や遠隔地に派遣された役人が、賄い女、現地妻(旅妻)を囲っていた。民謡には、現地妻との別れを悲しむ曲など現地妻にかかわる唄がかなれ多い。その現地妻が生み育てた子どもの子孫といわれる人々がいまもいる。歴史上の人物というわけではないが、そこには王府時代の歴史が刻まれている。
 その一人が、連合沖縄会長をつとめた狩俣吉正氏である。彼が郷里の宮古島の狩俣の歴史や民俗など記した著書『狩俣民俗誌』を読んでいると、みずからの出自について記していた。
 「私は狩俣で生まれ育った。琉球王国時代の役人が赴任先で囲った現地妻(旅妻)に生ませた息子が祖父・狩俣吉蔵である。若い頃から歴史、民俗、歌謡に興味を持ち、厳しいタブーの中で神歌を盗み聞きして覚え込んだ人である」「父・金吉は一二年間大城元(うぷぐふむとぅ)でアーグ(神歌担当職)をしていた。母・ヨシ子も一〇年ほど志立元(したでぃむとぅ)のウヤバー(世ぬ主)をしていたので、ウヤーン(秘祭)のことを知る環境は揃いすぎていた」。
                  
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                    宮古島の狩俣にある「四島の主の墓」
 『狩俣民俗誌』では、狩俣に伝わる祖神歌、ニーリ、フサ、ピャーシ、タービについて、生まれ育った狩俣の方言で、読み解き、これまで「恐い歌」だと思い込んでいた神歌が、「どれも大変すばらしい内容の歌であることがわかった」という。私は、まるでド素人だが、従来の解釈とは相当異なることを指摘しており、狩俣出身者ならではの研究結果ではないだろうか。

 同じ現地妻を先祖にもつ人に、黒島出身の當山善堂氏がいる。當山氏が書いた「『賄女』に関する一考察」(『人頭税廃止百年記念誌 あさぱな』)で書かれた黒島の実例について、拙文「人頭税哀歌」でも紹介させてもらった。
 この「考察」では、黒島のトゥヌスク・カマトさんが十六歳の時、黒島に赴任してきた目差役人の賄女となった。役人は任期満了により妻子の待つ石垣島に帰り、カマトは二人の幼児を抱えて黒島に置き去りにされた。
 その後、カマトは連れ子を持つ身で島の百姓と結婚して五男二女をもうけた。人並みには幸せだったかもしれない。
 ところが生前、カマトは胸をえぐるような言葉を繰り返し話した。「決して綺麗な女の子を産むもんじゃないよー。女の子は綺麗になるもんじゃないよー」。これは美人に生まれると、すぐ役人に目をつけられることを恐れたからだ。「カマトの悲痛・無念の叫びが、心に響いてくるではないか」と當山氏は記している。
 このカマトさんは、実は當山氏の母方の曾祖母だという。しかもカマトを賄女にして、捨てて帰った役人と正妻との間の子どもの子、つまり孫にあたる人物が、なんと當山氏が人生の師匠と仰いでいる人だったという。歴史が生きている実例がここにもある。
 

  當山氏は、実は八重山古典民謡について、曲目ごとに詳しく解説した『精選八重山古典民謡集』を4冊に分けて出版している。八重山民謡について最良の手引きとなる本である。
 当初は、黒島の賄女についての「考察」を書いた人と八重山民謡解説本の著者が同一人物とは分からなかった。八重山民謡の本を読んでいるうちに、「おや? この名前はどこかで見た記憶があるぞ」と思って、調べてみると、同一人物であることが分かった。
 これらの人々は、それぞれの仕事や活動で頑張ってきた人たちだが、みずからの系譜に関心を持っている。同時に、それぞれ地域の歴史と伝統、民俗、文化に強い関心を持ち、先祖の残した伝統を受け継ぎ、伝えることなどに情熱を注いでいることで共通しているように思う。


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歴史が今に生きている沖縄、蔡温の末裔

大政治家・蔡温の末裔
 
 琉球王府時代の著名な政治家・蔡温の末裔だとして知られているのが、前県知事の仲井真弘多氏である。
 蔡温は、琉球が中国に朝貢し、冊封を受けるようになってから後に、明から渡来してきた人たちの子孫である。
 
 <1372年に中山王が明に朝貢を始めると、翌年には南山と北山も相次いで朝貢を開始した。15世紀、中山が琉球を統一し、独立した琉球王国を建設した。これ以来、中国と琉球は朝貢関係を結び続け、明朝が「尚」という名を与え皇族とする慣わしも踏襲され、「第一尚氏王統」と称された。1392年、朱元璋は福建省の造船・船舶関係の特殊技能を持った「福建人三十六姓」(三十六姓というのは数が多いことを形容すると言われ、多くの福建人を意味する。日本では「久米三十六姓」と呼ばれる)を琉球に下賜した。これらの人々は琉球に着いた後、一つの集落を作った。当初「唐営」と呼ばれたこの集落が、現在の久米村にあたる。
 


               
孔子廟2

                 那覇市久米にある孔子廟
 明から下賜され、中国から渡来してきたということで、久米村の人々は琉球王朝から重用され、王朝の重役を務めた。後に前後して琉球王朝の名宰相を務めた2人の有名な政治家、鄭炯(ジョン・ジオン)と蔡温(ツァイ・ウェン)も久米村出身である。現在の沖縄県知事の仲井真弘多も当時福建から来た蔡氏の第19代末裔だ。現在も久米村の孔子廟では毎年孔子祭が行われている。(中国情報サイト「record china」May 22 2013 )>

 仲井真氏は、知事時代にそれまで普天間基地の県外移設の立場を投げ捨て、政府に追随して辺野古新基地建設を容認した。このため、県民の猛反発を受け、新基地建設反対を掲げる「オール沖縄」勢力の翁長雄志氏が当選した。

 この当時、「琉球新報」の読者の投稿欄で、仲井真氏と同じ門中(ムンチュウ、男系血縁組織)の方から厳しい批判の声が掲載されたことを記憶している。


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歴史が今に生きている沖縄、第一尚氏の末裔

 第一尚氏の末裔
 金丸に倒された第一尚氏の末裔と自称する方に、前にお会いしたことがある。
 沖縄ジョン万次郎会の定期総会で会ったSさんという女性は、沖縄にきて39年になる人だった。栃木県の出身だという。だが、意外にも「私のもともとの姓は尚なんです。それも第二尚氏ではなく、第一尚氏の子孫にあたるそうです」と語る。
 金丸が尚円王になったあと 第一尚氏の子孫が迫害を恐れて逃げたことは予想される。でも、栃木に子孫がいたとは、にわかには信じがたい。ただ、ご本人は、自分が沖縄に移り住んだこと自体に、強い縁を感じていた。琉球を統一した尚巴志は、もともと祖父は伊平屋島から本島の佐敷に移ってきたという。Sさんの娘さんが、伊平屋島に行ったところ、どこからか「よく来てくれた」というような声が聞こえたともいう。第一尚氏の子孫を裏付ける史料はなさそうだ。
 
                           佐敷、尚巴志の碑  
         佐敷上城跡にたつ尚巴志の碑
 ただ、クーデターで倒された第一尚氏最後の尚徳王の子どもは、3人が殺されたが、3男は乳母に抱かれて先祖の地、佐敷に落ちのびたとされる。後に屋比久(ヤビク)の地頭になり、屋比久大屋子と称したとのこと。しかも、その子孫は、王府から首里移住を許され、首里士族としての道を歩んだといわれる。ということは、廃藩置県の後、その子孫のなかから、上京して大学に学んだり、就職して、首都圏やなかには栃木県に住んだ人がいても不思議ではないかもしれない。
 まあこんな具合に、歴史上も重要な人物の子孫を名乗る人に、意外なところで出会うところが、沖縄ならではである。歴史がいまも生きていることを感じるのだ。




 第一尚氏といえば、尚巴志(ショウハシ)が開いた王統の一族が、現在も先祖を供養する「隠れ御清明(カクリウシーミー)」を秋に行っているという。これは「週刊レキオ」が2011年10月11日付けで報じたものである。

 尚巴志ゆかりの南城市佐敷の佐敷上城跡で、尚巴志長男系統の子孫の門中によって密かに行われてきた。門中(ムンチュウ)とは男系の血縁組織である。もう500年以上続いているというからすごい。

 「王統が変わった際『第一尚氏狩り』のような、前王統の血縁を排除せよというおふれが出され、清明祭で集まっている一門が狙われました。そのため、時期をずらしてひっそりと清明祭をし、御先祖様の前で一族の結束を固め、供養してきたといわれています」と門中代表の宮城春子さん(このとき75歳)。

 王統が変わったあと「当時は名前を変えたり、読谷や国頭に逃げたり、血筋を隠さないと命がなかったので必死だったんです。この風潮は明治時代になるまで続いたようです」(宮城さん)。だから文献にも残されていないそうだ。以上「週刊レキオ」から。

 



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