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レキオ島唄アッチャー

ウチナーンチュ魂が宿る教訓歌。汗水節

「汗水節」
 次も県民にとても愛されている教訓歌「汗水節」である。
1、 汗水ゆ流ち 働ちゅる人の 心嬉しさや 他所(ゆす)の知ゆみ ユイヤサーサー
 他所の知ゆみ  しゅらーよー しゅらーよー 働かな(以下囃子は省略)
 〈汗水を流し働く人の 心からの喜びは 働かく人でないとわからない〉
2、 一日に一厘(グンジュ) 百日に五貫(グクァン)守てそこねるな 昔言葉
 〈一日一厘{50文} 百日になると5貫にもなる 先人達の言葉を良く守り、無駄にしてはいけない〉
3、朝夕働ちょて 積み立てる銭や 若松の盛(むて)い 年と共に 
 (朝夕働いて 積み立てるお金は 年と共に若松の如くに積み栄えて行く〉     
4、心若々と 朝夕働けば 五、六十になても 二十歳さらみ 
 〈心持を若くして 朝夕働けば 五、六十歳になっても まだ二十歳の若者のようだ〉
5、老(ゆ)ゆる年忘て 育てたる産子(なしぐゎ) 手墨(てぃすみ)学問や 広く知らし 
 〈老いる年を忘れ 育てた我が子には 広く学問をさせなさい〉
6、御万人(うまんちゅ)の為も 我が為ゆと思て 百(むむ)勇みいさで 尽くしみしょり
 (世間の人の為も 自分の為と思って 何時までも勇気を持って尽くして下さい〉     
      

 この曲は労働の喜びや尊さを歌っている。旧具志頭村仲座で生れた仲本稔さん(1904-1977年)が作詞した。1928年に県の貯蓄奨励民謡募集に応募して当選したものだ。仲座の青年団長だった時で、まだ25歳の青年時代である。仲本さんは、沖縄県の養蚕指導員や具志頭郵便局長などつとめた。
 仲本さんは、花や自然に親しみ、ふるさとをとても愛していた。膨大な日記をつけ、折々につづられた詩の数々は、読む人の心を打つ人間愛に満ちているという。
 この歌詞に、近代沖縄音楽の父とも呼ばれた宮良長包さんが作曲した。当初、題名は「勤倹貯蓄の奨」だったのを、宮良さんが改題して「汗水節」とした。これがヒットして、多くの県民に愛される歌となった。ただ、仲本さんと宮良さんは、生涯に一度も対面することはなかったそうだ(「琉球新報」2012年6月1日付)
 戦前の曲だけに多少古い勤労観もあるが、いまでも大切にすべき内容がある。現代社会では、「ブラック企業」や過労死、使い捨て雇用が横行し、働く喜びが感じられない状況もある。だが、本来は、人間らしい労働のもとで、働くことを通して、自分と家族の幸せだけでなく社会に貢献して、働く喜びを感じられるものだ。そういう社会であるべきだと思う。


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ウチナーンチュ魂が宿る教訓歌。でんさ節

「でんさ節」
 次は、三大教訓歌とされる曲の一つ「でんさ節」である。元歌は八重山古典民謡であるが、本島では、歌詞と旋律を少し変えてよく歌われている。ここは、八重山民謡の歌詞を紹介する。
1、島持つぃどう家持つぃ 舟乗るぃどうゆぬむぬでん 舟頭舟子(しどぅふなぐ)
 親子(うやふぁ) 揃(す)らにばならぬ デンサー
 (島(村)を治めることと家庭を営むことは 船を操ることと同じである 船頭と船子、
 親と子(村長と村びと)が 揃わなければならない)
2、親子かいしゃ子から兄弟かいしゃ弟から きない持つぃかいしゃー嫁ぬ子から
 (親子の仲がよいのは子の心掛け次第 兄弟姉妹の仲がよいのは年下の
 心掛け次第 家庭の営みが円満であるのは 嫁の心掛け次第)
3、人の大胴(うふどぅ)やかなさねぬ 肝(きぃむ)心どうかなさーる肝心良(ゆー)
 持つぁばど世間や渡らり
 (人の大きな身体は愛らしくない 胆心こそ愛らしい 胆心をよく持ってこそ世間を渡られる)

    

4、むにいざば慎み 口の外出だすなよ 出だしから 又ん飲みぬならぬ
 (物を言うときは慎め 口の外に出すなよ いったん出せばまた
  飲むことはできない)
5、車や三寸(みぶしぃ)ぬ楔(ふさびぃ)しどう 千里ぬ道ん走(ぱ)りみぐる
 人や三寸ぬ舌しどう大胴やふゎいしてぃ
 (車は三寸の楔で千里の道も走りまわるのだ
 人は三寸の舌で大きな体を食べてしまうのだ)
6、鳥や時取る職分(しゅくぶん) 犬(いん)や家の番職分 人ぬいたずら者 
 世間ぬ世捨てぃ
 (鳥は時を取るのが職分 犬は家の番をするのが職分 人のいたずら者は
 世間の役に 立たないもの)
7、上原のデンサー昔からのデンサー 我ん心(ばんくくる)いざばしきゆたぼり
 (上原村で歌っているデンサ節は 昔から伝えられている教訓歌である 
 私の心を歌うから 聞いてください)
         
 私の使っている大浜安伴著『八重山古典民謡工工四』には、7番の歌詞がない。でも、本来はこれが最初にあるのが自然ではないか。
 宮良里賢氏が西表島の上原村の与人(ユンチュ、村長)時代に作詞作曲した(喜舎場永珣著『八重山民謡誌』)。1768年から3年近く上原与人を勤めたというから、240年余り前の曲である。古い上原村は、1909(明治42)年には廃村になり、現在の上原村は、開拓移住者によって形成された村だという。
 「伝承では上原村創建当時風俗が乱れ、業を煮やした与人の宮良里賢が教訓歌をつくり流行させたという。上原村はこの歌ができて以来模範村になったようだ。歌の力の大きさを知らされる」(仲宗根幸市編著『琉球列島島うた紀行 八重山諸島宮古諸島』)
 現在、この歌詞を歌うと少し違和感をもつところもある。
當山善堂氏は「儒教的倫理観を思想背景としているため、今日の時代感覚にそぐわない面もあるかと思われる」としながらも、「総じて社会生活に処すべき普遍的な道徳規範が示されていて、日常生活に深く溶け込んでいる」(『精選八重山古典民謡集』)とのべている。
 この曲でいまでもとても共感するのは、「物を言う時は慎みなさい。いったん口から出た言葉は二度と飲み込むことは出来ないよ」という4番目の歌詞である。肝に銘じたい。



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ウチナーンチュ魂が宿る教訓歌。てぃんさぐぬ花

 沖縄民謡を歌っていると、人の生きる道を諭した歌、社会の中でのあり様を説いた歌など、「教訓歌」と呼ばれる歌がとても多い。歌い手も聞く方も、「とてもいい歌だよね」と愛されている。なかには、「少し道徳観が古いのでは」と思う曲もある。でが、それも含めて、長年にわたってウチナーンチュ(沖縄人)の肝心(チムグクル)によって育まれた歌であり、精神的なよりどころともなっている。
 たくさんある教訓歌のなかで、沖縄で愛される教訓歌を紹介したい。

 「てぃんさぐぬ花」 
 教訓歌といえば、まず第一に思い浮かぶのは「てぃんさぐぬ花」だろう。沖縄県が「県民愛唱歌~うちなぁかなさうた」として選定したように、みんな大好きな愛唱歌であり、代表的な教訓歌である。歌詞はいろいろあるがよく歌われるのは次の歌詞である。
1、てぃんさぐぬ花や 爪先(ちみさち)に染(す)みてぃ 親(うや)ぬ寄せ事(ゆしぐとぅ)や
 肝(ちむ)に染めれ
(鳳仙花は 爪先に染めて 親の教えは しっかりと心に染めなさい)
2、天(てぃん)ぬ群星(むりぶし)や 読(ゆ)みば読まりしが 親ぬ寄せ事や 読みやならぬ
 (天に群星は 数えれば数えることもできる 親の教えは数えることができない)
3、夜走(ゆるは)らす船(ふに)や 子ぬ方星(にぬふぁぶし)目当(みあ)てぃ
  我(わ)ん産(な)ちぇる親や 我んどぅ目当てぃ
 (夜走る船は 北極星が目当てであり 私を生んでくれた親は 私が目当てである)
4、成せば何事も 成いる事やしが 成さぬゆいからど ならぬさらみ
 (物事は何でもやろうと思えばできるが やろうとしないからできないだけである)
5、行きたらん事や 一人(ちゅい)足れい足れい 互に補てど浮世渡る
 (行き届かない事は 一人ひとり助け合い 互いに補い合い世の中を渡って行こう)
6、宝玉やてん磨かねば錆びす 朝夕肝(ちむ)みがち浮世わたら
 (宝玉であっても磨かないと錆びる 朝夕心磨いて世の中を渡ろう)
                 
         上間綾乃さんの歌う「てぃんさぐぬ花」
 この曲が「県民愛唱歌」に選ばれたのはなぜか。次のような理由がある(「沖縄県HP」)。
 県民に親しみを持って永く歌い継がれている。
 「各世代から支持されている。」「海外県人会でも歌われている。」「郷土への思いが込められた歌である。」「沖縄の言葉(うちなーぐち)で歌われている。
 歌詞の内容が深い。」「沖縄への誇りや愛着を感じる歌である。」「いろいろな場面で歌われる。」「県民の一体感を盛りあげる歌である。」
 この曲は、親が子どもに人生訓を押し付けるのではなく、子どもの立場から、自分を生み育ててくれた親の教えのしっかりと受け止めることの大切さを歌っている。そこが「外の教訓歌と異なる良さがある」(『由絃會教本の解説 うたの心』)。
 
 1番の歌詞にある、鳳仙花で爪を染めるとは、どういう習慣なのだろうか。
 かつては、女の子は化粧するのは「ジュリフージーで卑しい」と言われ、禁じられていた。しかし旧暦5月4日「ユッカヌヒー」だけは、「化粧」をしても許される遊びがあった。
 <(ユッカヌヒーの前夜)鳳仙花の赤い花びらを爪に貼りつけ、鳳仙花の葉で巻いてくくりつけ翌朝花を取り除いても、爪は真っ赤に染まって」いる(『南の島のインテリばあちゃん』新星図書出版企画・編集、一部省略)。近所の子どもどうし、綺麗に染まった爪の美を競い合った(「琉球新報」6月1日付「ティータイム」投稿)>。


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アルテで「島巡り」を歌う

 毎月恒例の「アルテ・ミュージック・ファクトリー」が12日夜開かれた。新年初のファクトリーで、23組も多くのエントリーがあり楽しい音楽会だった。
 今回も私に関わるものだけをアップする。
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    幕開けでは、八重山唄者のsonoさんの呼びかけで、6人が参加。「かぎやで風節」「上り口説」の2曲を演奏した。この音楽会で、これだけ三線がそろって演奏するのは私が知る限り初めてだ。演奏していても、よく揃っていて迫力のある幕開け演奏となったのではないだろうか。
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   越智さんは、トランペットで「愛の讃歌」を演奏し、ツレがピアノでコラボした。
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   私は歌三線で「島巡り」を演奏した。沖縄本島の南から北まで、各地の見どころを歌った曲である。
 2番に移ろうとすると、一瞬歌詞が飛んでしまい、歌い直した。何回出ても、ライブは練習通りにはいかない。
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   ツレはピアノ独奏でシューマンの「トロイメライ」を弾き、ピアノ弾き語りで中島みゆきの「時代」を歌った。
 体調が悪い中でしっとりとした良い演奏ができたのではないか。
 2部に入ってすぐに、体調の都合で帰り、全員の演奏を見られなかった。次回は体調を万全にして出れるようにしたい。

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「安里屋ゆんた」の不思議。その4

 実在のクヤマの伝承

「安里屋ゆんた」で歌われたクヤマは、竹富島に実在した人であり、島にはクヤマの生家もある。伝承では、クヤマは与人の賄女になったされる。だが、當山善堂氏が指摘した通り、竹富島で歌われる歌詞に登場するのは目差主だけであり、与人(ゆんちゅ、村長格)は登場しないとなれば、伝承との関係をどう考えればいいのだろうか。


 実在のクヤマの伝承とは次のようなものである。

一七二二年に竹富島の安里屋に生まれ、一七九九年に七八歳で亡くなったという。一七三八年に四人の新任役人の赴任と首里王府からの御検使役らが島に来るので、島は大騒動になり、接待の給仕に白羽の矢が立てられたのがクヤマだったという。まだ一六歳の若さだった。与人の賄女となったクヤマは、「いよいよ転任に際して与人役人は別れの記念に竹富きっての一等地、俗称ハンドウ畑五反歩(当時成人男子一人分の人頭税額に当り、粟約八俵くらいの反別)を与えた。クヤマ女に名残を惜しみながら島を去ったという」(喜捨場永珣著『八重山民俗誌』)。


  この伝承について、喜舎場永珣氏は、賄女になれば、「美衣美食に下駄草履が許され」、粗衣粗食の村の女性たちにとって「羨望の的」だったとのべている(『八重山民謡誌』)。當山善堂氏は、自身の母方の曾祖母が、かつて賄女とされて、役人が帰任する際、妻子は置き去りにされた実体験から、「決して綺麗な女の子を産むもんじゃないよー」と無念の叫びを繰り返していたという実例を示して、喜舎場氏の見解を厳しく批判してきた(八重山の芸能探訪―伝統芸能の考察・点描・散策』)。また、「役人の現地妻を強要する『賄い女』のありようは、首里王府から厳しく禁止された違法行為であり、実際に喜んで『賄い女』になった女性はほとんどいなかったであろう」(當山善堂著『精選八重山古典民謡集(一)』)と主張している。この見解から、竹富島クヤマの伝承について「このことも検証が必要だと思う」とのべている。

當山氏の喜舎場見解への批判と見解は正当だと思う。私も喜舎場氏の主張は一面的でそのまま肯定できない。ただし、「一等地まで貰った」というクヤマの伝承まで、史実でないといえるのだろうか。私は、この伝承はそれなりの現実を反映しているのではないかと思う。

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              竹富島の美しいビーチ

 背景に人頭税制下の貧困と隷属

 仲宗根幸市氏は「安里屋ゆんた」の解説で次のように述べている。

「元歌の内容は、竹富島玻座真村の安里屋にクヤマという絶世の美女がいた。早速、目差職・役人がクヤマに自分の妾になるよう相談を持ちかけたのである。ところがクヤマはきっと上役の与人も自分に申し込んでくるにちがいないと考えた。どうせ役人の妾になるなら目差主よりも与人の役人がよいと、目差主に肘鉄砲を喰らわしたのだ」(『琉球列島島うた紀行 第二集八重山諸島 宮古諸島』)

 封建的支配の小さな島で、役人の求めを拒否するのはとても勇気がいる。どんな嫌がらせや圧迫を受けるかもしれない。仲宗根幸市氏が指摘するように、どうせ拒否できなくて、「妾になるなら上役の与人の方がいい」と考え、仕えたとしても不思議ではない。この解釈だと、目差主の求めを拒否しても、与人の賄女になるのなら、いくら目差主でも文句は言えない。

 
賄女が悲しい宿命にある一方では、役人の帰任の際、土地を貰えるとか、「美衣美食に下駄草履が許され(る)」などの恩恵があり、やむなく賄女の道を選択した女性もいたことは否定できない。その背景には、人頭税下で貧困と隷属にあえぐ現実があることは確かである。八重山民謡の「大田節」のような、娘が役人の賄女になったことを父が誇りにする曲もある。
 これらを考えると、竹富島の「安里屋ゆんた」とクヤマの伝承には、それなりに史実が反映されていると思わざるを得ない。

當眞氏が指摘するように、「当りょ親」は目差主の対句となれば、歌詞には与人が登場しないで、目差主を主人公として成り立っていた。では、クヤマが与人の賄女になったという伝承と歌との関係はどう考えればいいのだろうか。

もともと与人は歌に登場しなかったのに、いつの間にか、クヤマが与人の賄女になった現実や伝承にそって、「当りょ親」を与人と解釈し、「目差主は嫌です。与人に仕えます」という歌詞に変えられた、ということもありうるのではないか。
 そういえば、クヤマが「美人に生まれた」という歌詞も、竹富島のもともとの歌詞にはない。だが、伝承にそっていつの間にか「美人に生まれた」と歌われるようになったのも、伝承による改作といえるのかもしれない。
 そう考えれば、竹富島の歌もそれ以外の島の歌も、それぞれに手が加えられて、歌い継がれてきたということになる。ただし、これは私の勝手な想像である。

 

竹富島の元歌と竹富島以外で歌われる「目差主も当りょ親も嫌です。夫に持つなら島の男がいい」という歌詞は、竹富島の歌詞を少し変えたというよりも、ほぼ完全な替え歌と考えた方がよい。美しいクヤマが役人の求めを拒否して島の男を選ぶという歌の主題は、八重山の民衆の願いが創り上げたクヤマ像ではないだろうか。そんな歌だからこそ、八重山の人々に広く愛され、歌われているのだと思う。私のような大和の人間がいま歌三線で歌っても、心に響き、気持ちが入るのは間違いない。八重山古典民謡の奥深さを改めて痛感する。

終り 


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「安里屋ゆんた」の不思議。その3

 竹富島以外はクヤマが主人公

 竹富島以外の八重山諸島で歌われる歌詞は次の通り。   

1、安里屋ぬくやーまに あん清らさ生りばしー
(安里屋のウヤーマニは 非常に美しい生まれでした)

2、幼しゃから 天晴り生りばしー 小さから 白さ産でぃばしー
(幼いことからかわいらしい生まれでした 小さいときから色白の産まれでした)

3、目差主ぬ請よーたら 当りょ親ぬ望みょーた
(目差役人が{賄い女に}請いました その役人が{側女として}望みました)

4、目差主や我なー否 当りょ親や此れー忌む

 (目差役人{の賄い女になるの}は私は否です 当の役人{の側女になるの}は自分は嫌です)

5、何でから 否でしぅー 如何でから 忌むでしぅー

 (どういうわけで否と言うのですか いかなる理由で嫌と言うのですか)

6、後ぬ事思いどぅ 末の為考やーどぅ
(後々のことを思えばこそ 将来のことを考えればこそ、です)

8、島ぬ夫持つぁばどぅ 後ぬ為ありぅでしぅー

  (郷里の人を夫にしてこそ 後々のためであると思うのです)
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                       竹富島


 歌詞は、當山善堂著『精選八重山古典民謡集(四)』から。79番は省略した。

  これまで當山氏以外の著作では「当りょ親」は、目差主の上役の「与人」と訳している。例えば「目差主は私嫌です。与人から持ち込まれた話も嫌です」(仲宗根幸市書『琉球列島島うた紀行 第二集八重山諸島 宮古諸島』)となっている。當山氏の「当りょ親」は目差主を言い換えた対句として訳している。


 民衆の願いが込められた歌詞

 二つの歌詞を比べて、まず最も大きな違いは、竹富島の歌詞は、長いだけでなく、目差主がクヤマに拒否されて島中を回って女性を見つけ、子どもまで生ませるという、芝居を観るような一つの物語になっていることである。その物語の主人公は、クヤマではなく、目差主が軸となって展開されている。

さらに、歌の内容を吟味すると、竹富島の歌詞は、目差主が見つけたイシケマについて、親の許しを得ると「あまりの可愛さに土さえ踏まずに抱き上げ」走ってきた、役人の宿舎の浦座敷でお酌をさせると「作法に叶っていた」、八つ折屏風(士族だけ許されていた)の中で「腕を組んで寝られた 股を支えてやりました」などと、その表現にとてもリアリティがあることである。これは、元歌であることのなによりの証左であると思う。

一方、竹富島以外で歌われる歌詞は、一番の特徴は、クヤマを主人公にした歌詞の流れになっていることである。そのため、幼い時から可愛らしく色白の美しい女性であったと、クヤマが絶世の美女であったことを強調されている。竹富島の歌とは主人公が入れ替わっている。目差主はクヤマに振られた役人に過ぎない。クヤマが役人を拒否したうえで、夫を選ぶなら島の男がよいという、極めてシンプルな内容である。そこにはあまりリアリティーは感じられないのも事実である。役人の求愛を島の女性が拒否するのはとても困難だという現実がある。でも、島の男も憧れるような美しい女性が、島外から来た役人による権威をかさにきた強引なやり方に、抵抗する女性であってほしい、夫に選ぶのは島の男にしてほしい。そんな民衆の願望が込められた歌だと感じる。

 

仲宗根幸市氏は、次のようにのべている。

     「封建時代田舎娘が役人に肘鉄砲を喰わして島で生活できるだろうか、という疑問にぶつかった。案の定…下っ端役人の目差は嫌だけど、どうせ妾になるなら上役の与人の方がいいというのが元歌の内容なのだ。元歌のクヤマの態度に納得できない八重山の人たちは、後世改作して目差も与人も嫌という内容にし、島の男がよいと結んだのである。たとえ事実はそうでなくても、八重山農民の健康的な気持ちが分かるような気がする」(『琉球列島島うた紀行 第二集八重山諸島 宮古諸島』)

喜捨場氏も、竹富島以外の歌詞の方は「当時の封建制度を度外視した一種のレジスタンス的なやけくそ的な歌である」「不可   能とは知りながら、当時の社会と制度のくやしさを呪い、いわゆる替歌によんで、絶対権力に対する抵抗を謡い、せめてもの自己慰安にしたものか」と指摘している(『八重山民謡誌』)。


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初詣。おみくじは大吉だった。

  2019年は、午前零時とともに那覇港に寄港する船の霧笛で年が明けた。
 今年の正月は珍しく元旦に初詣に行った。亥の年の守り本尊は阿弥陀如来で、これを祀る首里の達磨寺に初詣した。
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   参拝者が列をつくっていた。この寺は昨年も来た。首里のお寺の中でも阿弥陀如来を祀るのはここだけだ。(寺の写真は2018年)
 昨年、人間ドックで思わぬ病気が見つかったので、第一に健康を祈願した。この寺の名物はなで達磨だ。頭を丁重になでなでした。それにしてもこの達磨さん。存在感がスゴイ。

    DSC_5012.jpg 
    お守り売り場では、達磨さんを買った。テーブルの上に置いて毎日眺めている。
 おみくじを引いてみると、なんと「大吉」だ。
             おみくじ  
 おみくじによれば、病気は治るとあった。治るとは思わないが、悪くならないことを願うばかりである。
         DSC_5025.jpg 
    おせち料理を食べながら、今年も健康で幸多きことを願った。

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「安里屋ゆんた」の不思議、その2

 「対句」は八重山民謡の特徴
 當山氏の提起は、重要な視点を含んでおり、妥当だと思う。第一点の八重山の伝統歌謡は、沖縄本島の民謡とは異なり、「対語・対句の原則」が見事である。この「対句」は、同じことを別の表現で繰り返す作法である。例えば、子守歌の「あがろううざ節」では、次のように表現を変えて繰り返している。
♪九年母(クニブ)木ば植べとぅーし 香さん木ばさしとぅーし
 (ミカンの木が植えてあり 香り高い木が差してあって)
♪子守りや達ぬ揃る寄てぃ 抱ぎな達ぬゆらゆてぃ
 (♪子守達が寄り集まり 子を抱く娘たちが集まって)
♪墨書上手なりとーり 筆取るい上手なりとーり
(よく学問を学びなさい 勉強して立派な人になりなさい)

 竹富島の「安里屋ゆんた」も、24ある歌詞の最後までこの原則が貫かれている。だから、上句の「目差主」と下句の「当たる親」を別々の役人と見なし、「当たる親」を「与人」とするのは、原則から外れることになる。下句の「当たる親」は上句の目差主を言い換えであり、歌には与人は登場しないという當山氏の提起は、なるほどと納得がいく。となれば、歌詞も当初は、「目差主は 私は否です 当たる親(目差主)は 私は嫌です」だったのが、いつしか「目差主は 私は否です 当たる親(与人)に 私は仕えます」と改変された可能性があるのではないか。
 2点、3点目については、後からふれることにしたい。竹富島以外で歌われる役人の求愛を拒否する気高いクヤマの姿は、「大多数の人々の共感を呼ぶ女性像」であることは間違いない。だからこそ、この歌詞が時代を超えて広く愛され、歌い継がれているのだろう。
           
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                                 クヤマの生家にある歌碑

 目差主が主人公の竹富島の歌
 「安里屋ゆんた」の改作の問題とクヤマの実像を考えるために、改めて竹富島とそれ以外で歌われる歌詞を対比して紹介しておきたい。
 

まず竹富島で歌われている歌詞は、次の通り。

○安里屋ぬクヤマにヨー 目差主ぬくゆたらヨー
(安里屋のクヤマ乙女は 助役に見そめられ)

○目差主や ばなんぱヨー あたる親やくりゃおいすヨー
(助役の賄女はいやです 村長には御奉公します)

んぱてぃからみささみ べーるてぃからゆくさみ
(いやと言うならよろしい いやならそれでよし)
んぱてぃすぬみるみん べーるてぃすぬ しくみん
(いやと言った人の面当てに いやと言った人に聞かせるために)

○仲筋に走りおり ふんかどぅに飛びゃおり
(仲筋村に走っていき 同村に飛んでいって)

○村くりしみりばどぅ 道廻りし聞きばどぅ
(村を繰り廻ってみたら 道を廻りつつ聞いてみれば)

○女童(みやらび)ぬいかゆてぃ 美(あふぁ)り子ぬとぅらゆてぃ
(乙女に行逢った 素敵な美人に出会った)

○たるが子で問ふたら じりが子で名聞たら
(誰の子で何という者か どなたの子でその名は何というのか)

○かまどぅ子ぬ乙女よ 兼間(かねま)子ぬイシケマよ

 (かまど母の娘であります 兼間が子のイシケマであります)

○兼間家に走りおりよ 蒲戸家に飛びやおりよ
(兼間家に走って行き かまど家に飛んでいき)

○蒲戸子やくりゃおいすよ 兼間子やばぬんぴょーりよ

(かまどの乙女はこの役人にくれないか 兼間の娘は私にくれよ)

喜舎場永珣著『八重山民謡誌』の「安里屋節」の歌詞は24番まである。
この後、親から承諾をもらい、嬉しさにイシケマを抱きしめて、玻座真村に連れ帰り、役人の宿舎で一緒に寝て、子どもを宿らせ、男の子は島の統治者に、女の子はよき家庭の主婦にと願う。こんな歌詞の流れになっている。
 歌詞は、崎山三郎編著『声楽譜付 竹富島民謡工工四』、小濱光次朗著『八重山の古典民謡集』、喜舎場本を参考にした。喜舎場本は、最初の歌詞に、クヤマは「あん美らさ生りばしよ(絶世の美女に生まれていた)」という部分が入っていている。崎山本、小濱本にはない。クヤマの生家にある歌碑にも「あん美らさ生りばしよ」という歌詞はない



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石垣島でクリスマスコンサートを楽しむ

 連休だった12月23,24日、石垣島に旅行した。ツレのお友達に誘われて私たち夫婦と友人の4人で出かけた。
  ライブによく出かけていた沖縄随一のGSバンド「SSカンパニー」のリーダー、瀬底正真さんが、毎週木曜日、FM石垣サンサンラジオに出演していて、今回初めて石垣島でコンサートに招かれた。このラジオは毎週聴いている。SSを応援している方々が沖縄本島からも10人余り駆けつけることになった。
 天候はあまりよくなかったが、23日はレンタカーで回った。離島ターミナルに向かい、昼食を食べた。離島ターミナルといえば、偉大なチャンピオン、具志堅用高の銅像が名物。さすが人気があり、訪れた観光客が入れ代わり立ち代わり記念撮影をしていた。
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  石垣の絶景といえば川平湾。雨模様になってきて、海の色彩はどうかと心配したが、雨雲が垂れこめても、その美しさは変わらない。
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 雨が落ちてきたので、ユーグレナモールでお土産など買い物をしてホテルに帰った。
 夜は、別のホテルで「SSカンパニークリスマスコンサート」が開かれた。スポンサーが知られたU牧場で、「石垣牛物語」の出版記念を兼ねていた。といっても内容はすべてコンサート一色。ライブが始まると広い会場は満席。200人余りが参加した。

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 料理は石垣牛を使ったメニューで、すべて1コイン、500円。日頃石垣牛はあまり食べられないけれど、お腹いっぱい食べられた。泡盛は当然、地元の銘酒「請福」をいただいた。
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  コンサートは3部構成で、後半はすべてリクエストに応えての演奏だった。
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  GSを知らない若い世代から年配者まで、写真のような大盛り上がりだった。初の石垣ライブは大成功だったようだ。
  
    翌日は朝から雨降りで観光日和ではない。だが、せっかくなので白保にあるスポンサーのU牧場を訪ねた。牛舎には黒毛和牛など120頭がエサを食べていた。なぜか、カラスの集団が牛舎付近を飛び回っている。
   遠くに野底マーペで有名な野底岳が見えていた。黒島から強制移住させられた女性が、野底岳にいつも登り、故郷にいる彼のことを見ようとするが前に於茂登岳がそびえて見えない。いつの間にか石と化したという悲しい伝説がある。三角形の山姿が小さく見えている。
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  近くのカラ岳に連れて行ってもらった。とても見晴らしのよい所だった。付近は牧草地となっている。
 そこから新川方面に戻り、ジェラードが美味しいというやはりМ牧場のお店に立ち寄った。
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  グァバ、ドラゴンフルーツを食べたが素材の味がとても生きていて、美味しかった。この牧場の牛肉も売っていて、サーロイン300gをお安く手に入れた。
 2回目の石垣島だったが、なぜか今回は牧場と縁のある旅立った。
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「安里屋ゆんた」の不思議、その1

「安里屋ゆんた」の不思議

 八重山民謡の名曲「安里屋ゆんた」は、歌の舞台である竹富島とそれ以外の島で歌われているものは、歌詞が異なることについてこのブログ「愛と哀しみの島唄」でも書いた。それは、竹富島の安里屋の美女、クヤマさんが島に赴任してくる役人の賄女に望まれるが、竹富島で歌われる歌詞では「目差主(村の助役格)は嫌です 当たる親(与人、村長格)には仕えます」という内容である。ところが、竹富島以外では、「目差主は嫌です、当たる親も嫌です」ときっぱりと断り、「夫には島の男をもつことが後のためになる」と歌う。とても誇り高い女性に描かれている。
 
 竹富島とそれ以外の島で歌詞が異なる
 當山善堂氏の近著『八重山の芸能探訪―伝統芸能の考察・点描・散策』を読んでいると、「安里屋ゆんた」について、新たな視点による解釈を提起していた。「反権力のクヤーマニ像に共感」と題する論考で、以下のようにのべている。
《「賄女」を歌った八重山の伝統歌謡といえば<安里屋ゆんた>があり、それを基に出来たとされる端麗な二揚調の<安里屋節>がある。この歌のヒロインは、言わずと知れた「クヤーマニ」である。
(注・當山氏は、一般には「クヤーマ」であるが、<安里屋ゆんた(節)>では「クヤーマニ」となっている、としている)。
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                 竹富島、安里屋のクヤマの生家
 喜舎場永珣著『八重山民謡誌』所収の<安里屋節>や竹富島に伝承されている<安里屋ゆんた><安里屋節>の内容は、クヤーマニが目差主(めざしぅしゅー、村の長の補助役)の求愛を拒み、当(あ)たる親(うや、与人=ゆんちゅ、村の長)の求愛を受け入れたことから、腹を立てて目差主がクヤーマニよりも美しい「イスケマ」を見初めてめでたく結ばれるという筋立になっている。…クヤーマニは下級役人を拒絶し、上級役人を受け入れているのである。
 ところが、竹富島以外の各地で歌い継がれている<安里屋ゆんた(節)>は、どの文献をみても、クヤーマニは「目差主や ばなー んぱ 当たる親や 此(く)れー ゆむ(目差主は 私は否(いや)です 当たる親は 私は嫌(いや)です)」と一貫して役人の求愛を拒絶しているのである。喜舎場はこれらの歌詞の相違に言及し、竹富島の伝承が正しく、その他のものは絶対権力を有していた役人に背くことの出来なかった封建制度下の時代背景を無視した、後世の人たちによる改作であると否定的に捉えている。果たしてそうだろうか、とまたしても疑問がわく。》
 當山氏は、竹富島の伝承が正しく、その他の島で歌われる歌詞は後世の人による改作だという喜舎場氏の説明に強い疑問を投げかけている。批判を次の三点にわたりのべている。

 「当りょ親」は目差主の対句
 《一つは、喜舎場は上句の「目差主」と下句の「当たる親」を別々の役人と見なし、「当たる親」を「与人」と訳しているが、それは八重山の伝統歌謡の対語・対句の原則に照らして不自然であり、また下級役人の「目差主」が先に描かれ上級役人の「当たる親」が後に描かれているのも据(す)わりがわるい。ここは「当たる親」は上句を受けた「当の役人」「当該役人」、すなわち目差主その人だと素直に解釈するべきであろう。そうすると下句の「当たる親や 此りや おいす」の「此りや おいす(私は仕えます)」の部分が、いかにも唐突・不自然であることが浮き彫りにされる。この部分は「当たる親や 此りや ゆむ(当たる親=目差主は 私は嫌です)」とすればその後の物語は一貫した展開を示しすっきりする。つまりここに登場する役人は「目差主」だけだということになるわけである。

 二つには、当たる親を上級役人の与人だとして、クヤーマニがその求愛を受諾していたとするなら、下級役人の目差主が上級役人・与人の選んだ女性に横恋慕するだろうか、という疑問がわく。…
 三つめは、一、二と矛盾するが、伝統歌謡の内容を歴史的事実や背景と結びつけ、論理的一貫性を求める解釈方法は必ずしも適切ではないのではなかろうか、という考えである。…
竹富島ゆかりの多くの人が、クヤーマニは上級役人の与人に身を捧げたとする伝承・文献があるにもかかわらず、役人の求愛をきっぱり拒んだ素晴らしい女性だと誇りにしている。その気持ちを共有したいと私も思うし、喜舎場永珣の否定した「改作」とされる多くの文献資料や各地で伝承されている歌に描かれているクヤーマニこそ、大多数の人々の共感を呼ぶ女性像だと言えよう。
 以上のことから、伝播の過程でわれわれの祖先がその時代の息吹を取り入れながら「手直し・改作」してきたとすればその趨勢を肯定的に捉えるべきではないだろうか。》


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