FC2ブログ

レキオ島唄アッチャー

「朝ばな節」考、その1

「朝ばな節」考

 毎月恒例のアルテ・ミュージック・ファクトリーで、石川さゆりの歌う「朝花」を歌三線で歌ってみた。この曲は、熊本県出身の樋口了一さんの作詞作曲である。奄美大島の島唄「朝花節」(あさばな節)がモチーフになっていると聞いた。奄美ではとてもよく演奏される名曲である。ところが、同じ題名の曲が八重山民謡の中にもあると聞いて驚いた。歌詞を見ると、どうも奄美の影響を受けた曲らしい。「あさばな節」についてもう少し知りたい。

 奄美大島では「朝花は、歌遊びや祝宴の席でも最初に歌われるように、座の清めや、歌う前のウォーミングアップの役割を持つ」(奄美大島瀬戸内町HP)という。
 <島唄は、"朝ばなに始まり朝ばなに終わる"とも言われております。歌詞は、集いの場の挨拶が交わされるかと思えば、教訓的なものがあり、叙情詩があり、叙事詩あり、劇詩あり、詩の三代部門すべてが含まれており、最後には、"送り朝花"として歌われる別れの歌詞があり、一晩中「朝ばな節」だけ唄っていても尽きないほど多くの、楽しく面白い歌詞が残されております。(「奄美の館」HPからhttp://www.geocities.co.jp/HeartLand-Renge/2639/uta/uta_102.html)>
 
 歌詞がこれほどたくさんあるというのは、びっくりである。「朝ばな節」には種類があるらしい。
<「朝ばな節」には二通りある。その一つは通常「朝ばな」とよばれている短い節の朝ばなで、もう一つは文字どおり長い節の「長朝ばな」である。「長朝ばな」は、あまりにもテンポがのろくて繰り返しが多く、特定の歌い手でないと歌えない難解な曲である。それを誰にでも歌えるようにくずしたものが、通常の「朝ばな」である。これは、詩型も異なる。「長朝ばな」が八八八六調、三十音4句の琉歌の形態をとっているのに対し、「朝ばな」は3句の全く自由な詩型になっている。歌う仕来りももあって、祝典の際は初めに「朝ばな」を2,3首歌ってすぐ「長朝ばな」を歌うことになっている。曲調も挨拶歌に相応しく喜びにあふれ、歯切れのよい壮快な感じを与える曲である。(「島唄の解説」HPから。武下和平 CD「立神」解説書より転載http://kudadon.sakura.ne.jp/minyou/utakaisetu1.htm)>
 
 「朝ばな節」の歌詞を見ておきたい。瀬戸内町HPにアップされている歌詞は、次のように始まる(http://www.town.setouchi.lg.jp/tosyokan/kan/bunka/minzoku-kogei/shimauta/asahanabushi.html)。
「ハレーイ 朝花はやり節 (ヨイサ ヨイサ ヨハレ ヨイヨイ)
ハレーイ 唄ぬはじまりや 朝花はやり節
(朝花はやり節。歌の始まりは、朝花はやり節だ。)
             
 武下和平氏のCD「立神」は次の歌詞を載せている。
 かん誇らしゃんむんや 汝(な)きゃとくま寄(ゆ)りゃとぅてぃ かん誇らしゃんむんやむんや
(貴方たちとここに寄り合って、語り合うことが出来るとは、こんなに嬉しいことはありません)
いもちゃん人(ちゅ)どぅ真実やあらむぃ 石原くみきち  いもちゃん人どぅ真実やあらむぃ
(石原道を踏み越えて、わざわざお訪ね下さった人こそ 真心のある人ではないでしょうか)


スポンサーサイト
島唄 | コメント:0 | トラックバック:0 |

ニライカナイはどこにある。オナリ神信仰

 オナリ神信仰をめぐって
 吉成直樹氏の『琉球民俗の底流』では、「オナリ神信仰をめぐる問題群」についてのべている。とくにここでは、主に国頭で古くから行われているシヌグとウンジャミ(海神祭)との関係を考察している。吉成氏の見解に入る前に、まずこの祭りついて見ておきたい。
 シヌグは次にような祭りである。
 「国頭村安田(あだ)で旧暦7月の初め、亥の日に行われる。厄払いに重きをおいた豊年予祝儀礼。400年近い歴史のあり、ウンジャミ(海神)祭とならぶ重要な祭祀。国の『重要無形民俗文化財(1978年)』。シヌグは兄弟ないし男の祭という意味があり、男達が中心。山の神に農作物の豊作、集落、家族の繁栄をまず祈り、次の海に向かって同様の祈りをささげる。男達は草木を身にまとい、神に扮して村を浄めるために山を下りてくる」(『沖縄大百科』)
                017.jpg

 ウンジャミ(海神祭)は次のような祭りである。
 「旧暦7月の行事で、盆行事後の亥(い)の日とする所が多い。穀物の収穫を終えた、農耕暦の1年の境目の時期で、そのときにあたり、祝女(のろ)を司祭者として、海神を迎え、豊作と豊漁を祈願する。シヌグと対(つい)をなしている村も多い。国頭郡北部には、シヌグと隔年に行う村もあり、海神祭を女の節供、シヌグを男の節供と説明したり、シヌグを大(ウフ)シヌグ、海神祭をシヌグ小(グワー)と規模により呼び分けたりしている。シヌグが、成人儀礼的な男子を中心とする村落組織による祓(はらえ)の行事であるのに対して、海神祭は、与論島で祝女海神(のろうみがみ)(ヌルウンジャミ)というように、成巫(せいふ)儀礼を伴う、祝女が率いる女子中心の祭祀(さいし)組織による祈願の神事の色彩が濃い。」(「日本大百科全書」)
                015.jpg
                 安田のアシャギ
 吉成氏は、小野重明氏の議論を引用して以下のようにのべている。
 <国頭では古くから照葉樹山地を舞台にシヌグの祭りが行われてきた。シヌグは国頭から奄美にかけての土着のお祭りであり、北山王の下でのお祭りであった。中山王による三山統一の後、第二尚王朝三代の尚真王の時代を迎えて、聞得大君(注・キコエオオキミ)を頂点とするノロ神女制度が確立されるとともに、王朝文化を支える海洋性平地文化は大きく進展する。国頭の地にもそれぞれの集落にノロ制度の祭祀が整えられたが、ウンジャミはその神女制度が国頭へ持ち伝えた祭りではなかった。国頭に土着した照葉樹山地文化と、首里からノロ神女制度がもたらした海洋性平地文化との対立抗争がおこった結果としてウンジャミが国頭の地でつくられた(小野)。
 シヌグとウンジャミの出自=系譜は異なり、かつ男性年齢階梯組織の祭りが先行して形成された祭りであるとするのである。この点を補足すれば、安田では、ウンジャミとシヌググァ(小シヌグ)と呼んでおり、ウンジャミはシヌグより後発の祭りであることを示唆している。>

 吉成氏は、男性中心のシヌグは、女性中心のウンジャミより先行して形成された祭りであり、ウンジャミが後発の祭りだとする。
 その根拠として次のようにのべている。
 <女性の霊的優位あるいはオナリ神信仰が基礎にあるならば、琉球列島に広くみられるような、女性(姉妹)が男性(兄弟)を守護するという形式の祭りになるはずであり、シヌグのような男性のみの祭りは成立しなかったと考えるのが自然である。男性主体の祭りと女性主体の祭りという対になり、対抗関係にある祭りが存在すること自体、オナリ神信仰がそれらの祭りが成立する以前には存在せず、関与していないということを示している。
 素人は、オナリ神信仰はとても古い歴史をもっていると思い込みがちである。しかし、そうではないらしい。
「国頭に土着した照葉樹山地文化と、首里からノロ神女制度がもたらした海洋性平地文化との対立抗争がおこった結果としてウンジャミが国頭の地でつくられた」(小野)
 「女性(姉妹)が男性(兄弟)を守護する」というオナリ神信仰が古くからあれば、「シヌグのような男性のみの祭りは成立しなかった」(吉成)という論者の考察はとても興味深い。
   終り


沖縄の民俗 | コメント:0 | トラックバック:0 |

アルテで「朝花」を歌う

 毎月恒例のアルテ・ミュージック・ファクトリーが8日夜開かれた。今月のテーマは「楽」だった。先月は台風接近でエントリーが少なかったが、今月は若い人、グループの参加があり、楽しい音楽会になった。
   今回も、自分達にかかわるものだけをアップする。
 越智さんは、ツレのピアノ伴奏で、「霧の摩周湖」をトランペットで演奏した。
      DSC_4334.jpg
  私は、石川さゆりが歌った「朝花」を三線を弾きながら歌った。この曲は、熊本県出身の樋口了一さんが作詞作曲した歌謡曲である。奄美諸島の名曲「あさばな節」をヒントにして作られたという。奄美では、島唄を歌う時は始まりに歌われる曲で、歌詞もたくさんあるという。
      IMG_5650.jpg 
 「朝花」は一人の女性が彼に先立たれ、子どもを育てながら、楽しい時、苦しい時にこの歌を歌って、生きていくという内容である。歌っていると気持ちの入るいい曲である。ふーみんさんにリコーダーでサポートしてもらった。

 ツレは、ピアノ弾き語りで「別れの曲」を歌った。ショパン作曲、平原綾香作詞の曲。ツレはこのところ、平原綾香がクラシックに歌詞をつけて歌った曲にすっかりはまっているようだ。
      DSC_4341.jpg
  ピアノ独奏では、ショパンの「ノクターン嬰ハ短調遺作」を演奏した。クラシックに詳しい方から「ショパンの演奏ではこれまで一番良かったですよ」と評価された。練習は裏切らないということだろう。
 
音楽 | コメント:0 | トラックバック:0 |

ニライカナイはどこにある。八重山の御嶽

 

八重山の御嶽にある「底」の名称

吉成直樹氏は、八重山の御嶽には「底」という名称が存在することに注目する。
<御嶽の名称に「底」という言葉をもつものが存在することは何を意味するのであろうか。…牧野清『八重山のお嶽―嶽々名・由来・祭祀・歴史―』(1990年)には、記載されている232例のうち12例までが「底(スク)」という言葉をもつ。…

 この「底」は文字どおり「地の底」を意味すると考えたい。仲松弥秀は、神と人間を結ぶ役割を果す「穴」を象徴するアーチ型の門がどのような場所にあるのかを列挙するなかで、八重山の多くの御嶽、と述べていたことを思い出していただきたい。これは、八重山の御嶽名の「底」が「地下」を意味するとともに、アーチ型の門が、やはり象徴的に地下へと入る門であることを示している。
         194.jpg 
              石垣市大浜にあるアーチ型の門

 ひるがえって、「グスク」という名称も、その語源に定説はないが、この「スク」もまた「底」なのではないか、という疑いが生じるのは当然である。(『琉球民俗の底流』の「地下世界と御嶽」>



 私のブログ「『底』の字がつく民謡の不思議」でも、波照間島の事例を次のように紹介していた。

 <波照間には「スク/シュク」が語尾につく場所がいくつかある。「美底(ミスク)御嶽」(北集落)、「阿底(アスク)御嶽」(冨嘉集落)、「大底(ブスク)御嶽」(前集落)といった御嶽や、「ミシュク」(ニシハマ上)「マシュク」(北東岸)、「ペーミシュク」(冨嘉集落南)といった古い村落の跡である。
 波照間において、「スク」の名のつく場所はいにしえの島民の居住地が聖域となった場所であり、原初形態の「グスク」に相当しているといえる。…こうして見てみると、波照間において「スク(シュク)」は、聖域となった琉球王朝支配以前の村跡を指す名称であり、「グスク」の一形態であるといえる。(「波照間島あれこれ」HPから)>
 ここには、吉成氏の問題意識との共通点があるように思われる。



沖縄の民俗 | コメント:0 | トラックバック:0 |

玉城デニーさんの素顔

 亡くなった翁長雄志知事が生前、玉城デニー衆院議員について「玉城デニーさんは戦後沖縄の歴史を背負った政治家」として期待をしていたそうだ。翁長さんのこの言葉にはどんな意味合いが込められているのか、よく分からなかった。だが、玉城デニーさんの生い立ち、経歴を知るとその意味がよく分かった。

 今回、玉城デニーさんは翁長知事の遺志を受け継ぐと明言されている。各家に配られた「平和・誇りある豊かさを! ひやみかちうまんちゅの会」ニュースに玉城デニーさんの生い立ち、人柄について書かれていたので、そこから紹介したい。

 <二人の母に育てられたアメリカ系ウチナーンチュー

 玉城デニーさんは、アメリカと琉球、2つのルーツを持つアメリカ系ウチナーンチューです。戦後の沖縄の歴史をダブルで受け継ぐ、わんぱくな子ども時代を過ごしました。昼夜を問わず仕事に励んでいた実の母親と、その間に面倒を見てくれた育てのお母さんに見守られて育ち、「僕には2人の母がいる」と語ります。育てのお母さんを「おっかあ」、実のお母さんを「アンマー」と呼んで育ったデニーさんは、「2人のお母さん」にいまでも感謝をしています。>


 <ひたむきな沖縄への原点

若い頃は経済的にも苦しい時期もありましたが、ロック・ミュージックに没頭し、いつでも前向きな気持ちでいたそうである。福祉職、内装業、音楽マネージャーなど、様々な職を経験しましたが、「自分も誰かを幸せにしたい」という気持ちが根本にありました。ラジオ・パーソナリティーやタレント活動を行なううちに、地方自治に関心を持ち始め、政治の道に進むことを決意。市議会議員1期務め、国会議員に転身後も、「ひたむきに沖縄」の政治信念を貫いています>

 


政治 | コメント:0 | トラックバック:0 |

ニライカナイはどこにある。実在する穴

 実在する「穴」

 吉成直樹著『琉球民俗の底流』の紹介に戻る。

吉成氏は、地底から穴を通して「にらい大主」が出現し、また太陽神「あがるいの大主」が「てだが穴」から出現するというように、地底の神々は「穴」から出現するという観念が認められる事例が実際に存在するとして、以下のように紹介している。。

<仲松弥秀の『神と村』(新版)の装丁のおもて表紙には、「玉城城の穴型岩くりぬき門」の写真があり、うら表紙には次のような説明がある。
                         玉城城跡

 

 「南島沖縄においては、神の世界と人間の世界は、穴でつながっていると想像されている。この穴は『てだが穴』という。神はこの穴を通られて人間の世界に出現されるのである。沖縄の神祀るグスク・御嶽には、この写真のように岩をくりぬき、あるいは積石造りの、穴をかたどったアーチ型の門が設けられているのが見られる」…

 いずれにしろ、なぜ神々の世界と人間の世界が穴で結ばれているのかということを考えれば、神々は地下に通じる穴から出現するからということのほかには考えられない。(『琉球民俗の底流』)>

 
  私も、南城市の玉城城には、沖縄に移住してすぐにでかけたことがある。このアーチ型の石門は、夏至の日には太陽の光が穴から差し込むそうだ。ニライカナイに通じていると考えられたのだろうか。主郭跡には、天つぎあまつぎの御嶽(雨粒天次御嶽)などがあり、聖地でもある。
 沖縄の城(グスク)には、アーチ型の石門がある。とくに、中城城跡や座喜味城跡などは見事なアーチ門で印象深い。玉城城のアーチ型石門がその原型だったことになる。
 アーチ門は、御嶽にもあるとのべているが、そう言えば各地の御嶽を見た時にも、石積みのアーチ門をよく見かけた。那覇市首里当蔵の安谷川嶽(アダニガータキ)も立派なアーチ門がある。説明板には「宝珠をのせたアーチ門は拝殿の役目をし、左右に連なる石垣によって境内を内と外に分けています」と記されている。

                        039.jpg 
  石垣島の美崎御嶽も、御嶽の周囲は石垣がめぐり、中央部には宝珠をのせたアーチ型石門がある。首里城の
園比屋武御嶽門(ソノヒャンウタキ)に類似するといわれる。やはり「拝殿にあたる」と説明されている。このアーチ門は、拝殿であると同時に、神が通られて人間の世界に出現する穴をかたちどった門を意味しているのだろうか。

                          248.jpg   
                          写真は石垣市美崎御嶽のアーチ門
 
 鳥越憲三郎氏は御嶽だけでなく、村落を開き創建した家・根所にも神の出入する門があるする。

<根神なる巫女は、最初から根神という名称のもとに発生したものであった。…巫女達は現在においてもなお祭祀の際には完全に神としての自覚を持つとともに、一般民衆もまた同じ信仰を抱いているのである。…

 根所とか旧家などでは、一般日常生活の際に用いる通常門のほかに、垣根の他の側に小さな門が造られている。この門(じょう)は神の出入する門であると信じられていて、祭時の時の巫女はこの門から出入りするが、この時の彼女は神として意識して行動している。(『琉球古代社会の研究』)> 
 これらのグスク、御嶽、根所のアーチ門も「神の世界と人間の世界は、穴でつながっている」「神はこの穴を通られて人間の世界に出現される」という共通の意味合いをもつ存在だったのだろう。



沖縄の民俗 | コメント:0 | トラックバック:0 |

ニライカナイはどこにあるのか。二面性

 ニライ・カナイの二面性

 吉成直樹氏は、中本正智著「ニライカナイの語源と原義」の見解を次のように紹介する。

 <結局、「ニライ」「カナイ」の原義は、いずれも太陽神の居所であり、ヒトが休息する居所がその人の拠点であるように、太陽神の拠点は日ごと現れては夜に隠れる地の中であると考えられた。太陽は水平線の彼方から空と海を真赤に焦がして上がってくることから、「土の屋、日の屋」が永い歴史のうえに次第に推移していって、現在のような意味に落ち着いたとしても不思議ではない、と述べる。(『琉球民俗の底流』)>

 

 そういえば、昨年7月、このブログでも次のような見解をアップしたことがある。

ニライ・カナイには、太陽神(王)が生れる「でたがあな」(太陽の穴)がある。
穴から生まれた太陽神は、西に沈んだ後、地底の穴を通り「太陽の穴」から再生すると考えられた。

    琉球王権がイメージしたニライ・カナイは、太陽神がすむ光り輝く白い世界と考えた>

これは、安里進氏(沖縄県立芸術大学附属研究所客員研究員)の講演「お墓と琉球王権のグスク・王陵(王墓)の意外な関係」からの紹介である。

           IMG_3489.jpg 
           沈んだ太陽は地底の穴を通り再生すると考えられた

 吉成氏は、中本氏の見解を踏まえて、さらに次のように展開している。

<八重山などで見られる仮面仮装の来訪神は、あくまでも垂直的な地下を志向する「地下他界」に結びつくとしたことは、ニライ・カナイの原義が「土の中」であると指摘することと符合するし、女性神役の祭祀が水平的な海のかなたの海上他界に結びつくとしたことは、太陽は水平線の彼方から空と海を真赤に焦がして上がってくることから、現在のような意味に落ち着いたとする指摘と合致しているのである。

 この中本正智の議論に従えば、八重山のニライ系の他界(地下他界)と結びつく仮面仮装の来訪神儀礼が古く、女性神役が中心となるニライ系の他界(海上他界)に結びつく儀礼は相対的に新しいということになる。…

 
 こうしてみると、まず地下他界を意味するニライ・カナイが存在しており、その後に。それから変容した海上他界としてのニライ・カナイがその上に覆うように波及したということになる。(『琉球民俗の底流』)>

 吉成氏は、ニライ・カナイの原義は「土の中」であり、八重山の地下他界と結びつく仮面仮装の来訪神儀礼が古く、女性神役が中心となる海上他界に結びつく儀礼は相対的に新しい、としている。

 この点は、前にブログで紹介した外間守善氏の見解とは異なる。


 外間氏は、
スクの地名が、海辺の高地にあって祖神のいる遙かなる原郷と深くかかわる聖性をもっていた」として、次のようにのべている。

<古くは、神々の行動は水平軸に動いていたのに、それが天上と地上を結ぶ垂直軸を中心にするように変わっていったため、海の果ての遠い所をあらわした「スク」「そこ」の原意が、ものの高低をあらわす「底」という新しい意味を生みだし、それが言葉として広がり深まっていったのであろうと考えるからである。

そうだとすれば、『古事記』の時代にすでに薄れてしまっていた日本古語の原意が、遠い南の島々に残映していたことになる。特に、海と海神と稲作文化にかかわっているスク地名は、海辺の高地にあって、遙かなる海(祖神のまします原郷)と深いかかわりを持つという聖性をもっていたわけである。(外間守善著『南島文学論』)>

古くは神々の行動は「水平軸」で動いていたのが、いつの間にか天地を結ぶ「垂直軸」に変わったため、海の果てを表した「スク」の原意が高低を表す「底」という意味を生みだしたと見る。

 吉成氏と外間氏の見解の相違はどう見るのか、筆者にはまだ判断するほどの見識がないので、多様な議論を紹介するだけに留める。

 



沖縄の民俗 | コメント:0 | トラックバック:0 |

ニライカナイはどこにあるのか。地下他界?

 ニライ・カナイはどこにあるのか

 沖縄では、海のはるか彼方に神の住むニライ・カナイがあると考えられてきた。ただ、ニライ・カナイがどこにあるのか、についてはいくつかの見解がある。そう単純ではないらしい。たまたま吉成直樹著『琉球民俗の底流』を読んでいると、ニライ・カナイ信仰や来訪神信仰などについて興味深い考察がされていた。以前、このブログでアップした「『底』の字がつく民謡の不思議」「南島に現れる仮面、仮装の神々」ともかかわりのあるテーマである。吉成氏の著書からいくつかの関心のある問題にしぼって見てみたい。 

 ニライ・カナイは地下他界?
 海のはるか彼方、あるいは海底にある聖なる国と考えられてきたニライ・カナイ。しかし、沖縄の各地、離島で現実に行われている祭事を見ると、「確かに、海のはるか彼方、海底の世界の国としてのニライ・カナイを対象としているものがある一方で、あくまでも地下の世界にニライ・カナイを考えているものも存在している」(『琉球民俗の底流』)。
 吉成氏はこのように述べている。ニライ・カナイが、本来、あくまでも垂直的な地下を志向する地下他界であったこと、また先島諸島(宮古諸島、八重山諸島)では、現在でも地下他界を意味すると考えざるを得ない儀礼群が残されていることを明らかにしようとする。
 琉球列島では、祭りごとは女性が中心になって行なわれることが多い。この神女たちを中心とする神人たちが行うニライ・カナイに結びつく儀礼は、「あくまでも水平的な海上他界である」とする。
 
  しかし、八重山諸島には、いささか趣の異なるニライ・カナイに結びつく儀礼群が存在する。
 <男性たちの年齢階梯的な結社によって行われる来訪神儀礼、折口信夫の用語、すなわち「折口語彙」では「まれびと」と表現される人神の訪れる儀礼がそれである。八重山諸島では、アカマタ・クロマタ(ときにはシロマタも)、マユンガナシと呼ばれる。男性が全身に蔓草を身にまとったり、クバの葉、蓑笠などを身につけて人神になり、村を訪れ、祝福し、村を去っていくのである。
これらの儀礼では、来訪神は地下あるいは土中から出現すると考えられている(吉成直樹著『琉球民俗の底流』)。>
   
                
                
 これまでの研究では、地底は海底に、さらには海のはるか彼方に連なると考えられ、これもまた広い意味での海上他界であり、両者に本質的な違いはない、とみなされてきたことにたいして、吉成氏は異論を提起している。
 男子結社による仮面仮装の習俗とノロ・ツカサを中心とする神女たちによる儀礼は、その「出自=系譜が異なる」とする。
 水平的な海上他界は、「女性を中心とする神女たちに結びついていて神女組織が整えられるに及んで、その神女組織とともに展開した可能性を示唆する」とみる。
 「端的に言えば、男子結社が行うニライ・カナイ系の他界と結びつく来訪神儀礼と神女たちの儀礼では文化史的価値(広がっていった時期)が異なるのではないか」ということである。

沖縄の民俗 | コメント:0 | トラックバック:0 |

日本画で県展入選する腕前

 5月に郷里の高知に帰省した際、かつて同じ職場で働いた元同僚の2人と50年ぶりに再会したことを書いた。そのうちの一人、F君は日本画を趣味としている。どのような絵を描いているのか知らないままだった。彼が自分の描いた日本画の写真を送ってきてくれた。とても素晴らしい日本画だと思うので、いくつかを紹介したい。  

 F君は、奥さんに言われて何か趣味をと考えていた矢先、日本画の大家、東山魁夷の絵を見て「これだ!」と思いたち、日本画の通信教育を2年間受けたという。50数年前、宿毛市の山奥の職場で働き、同じ寮で生活をしていた当時は、娯楽のない山奥の生活なので、よく仲間と一緒に酒を飲んだことだった。私の持っていたクラシック音楽などレコードを聴いたり、時に先輩の指導で写真の現像と焼き付けをしたことを思い出す。だが、絵を描くのが好きだという話は一度も聞いたことがなかった。だから、青春時代のF君からは想像できなかった。互に仕事を退職してから、年賀状の交換で、日本画を描いていることを知ったのはほんの数年前である。
    img172 (2) 
     2016年高知県展入選の作品「追憶実りの秋」と作者のF君

 F君は、いまでは、高知県美術展覧展で再三入選する腕前である。私は知らなかったけれども、働いている当時から絵を描くのは上手かったようだ。
 送ってくれたカラー写真を見ても、日本画の繊細な表現、鮮やかな色彩、大胆な構図など入選するのも当然だと思われる。現物で見ればいっそう魅了される出来栄えだろうと思われる。
 「追憶実りの秋」は、かつて田舎ではお米を刈り取った後の稲を脱穀する情景を描いている。F君の追憶の中での情景なのだろう。これは本来は画題にはなりにくいテーマだと思うけれど、見事に描き出されている。画を見ていると、かつての田舎の光景が蘇るようで懐かしい。 

 次の作品は「春の兆し」。春を迎える山林の風景が繊細な筆致と色彩豊かに描かれている。山と森林の四季折々の移り変わりと木々や草が芽吹き始める頃の美しさを知り抜いた人でなければ描けない絵ではないだろうか。2017年県展入選作品である。
          林  
 次は、2014年県展入選の「備え」と題する作品である。川に造られた堰堤と水門だと思う。山里で暮らすと川は身近にあり日常の風景である。でも、堰堤などは素人的には絵画の対象とは考えにくい。それは色彩は単調で、構図も面白みに欠けると思ってしまうから。でも、さすがに彼の絵は、落ち着いた色調で、どっしりとした存在感があり、川面に映る水門も鮮やかに描かれ、空の色合いも変化がある。入選もうなづける作品だと思う。 
        
       堰堤
  次は2015年四万十市美術展で市長賞(特選)を受けた作品「清流仁淀と水門」である。F君は四万十市の出身であり、同市出身者は出品資格があるという。
 この絵も清流にかかる水門を描いている。大胆な構図によるどっしりとした水門の存在感と鮮やかな朱色のゲートが対照的。深緑の水面の色彩やススキの繊細は描出など、さすが市長賞をいただいただけの出来栄えだと思う。
 
    img171 (2)
       
 次は、2016年四万十市美術展推薦作品「秋景 奥南川渓谷」。秋色に染まる林や渓谷の岩々、そこを流れる清流の色合いの微妙な表現など、渓谷の秋が見事に映し出されている。
    谷川
 次は「静寂」という作品。大栃の国有林「さおりケ原」の冬の情景を描いている。積雪がまだかなれある森に出かけて、このような情景を見ることは、情熱がなければできないことである。表題の通り、どこまでも広がる静寂を感じさせる。かつて私も大栃でも働いたことがあり、F君から場所を聞くと、一度は行ったことがあるはずである。でもこのような情景は見た記憶がない。 

    雪林 
   秋は美術展のシーズン。F君も県展に向けて準備中のようだ。これからも、F君ならではの視点の日本絵を見たいものである。



高知 | コメント:0 | トラックバック:0 |

郷土愛にあふれた「おくふじ新聞」

   5月に郷里の高知に帰った際、かつて宿毛市で働いていた当時の同僚と、50年ぶりに再会したことをこのブログでも書いた。
 その際、友人の一人、K君が手作り新聞を発行していること、K君からこれまでに発行した新聞をいただいたことを紹介した。
 沖縄に帰ってきてから、改めて宿毛時代のことを何か書いて投稿してほしいという要望を受けた。宿毛周辺には、1962年から69年まで7年間いたことになる。宿毛市といっても、市街地から20数キロも奥に入った楠山・笹山という地域で5年間も働いていた。その思い出を、いくつかのエピソードを交えて書いて投稿した。K君から、投稿は数回に分けて掲載したい。その前に帰郷の想い出を書いた文章(ブログアップ済み)から、3人で再会した部分を掲載したいとのことだった。勿論、了解した。
                    IMG_5564.jpg 
                   「おくふじ新聞」を発行するK君
 先日、さっそく掲載紙を郵送してきてくれた。それで改めて、K君が発行する手作り新聞のことを紹介しておきたい。
 K君は、奥さんと二人で、宿毛市の山奥にある郷里の地名を付けた手作りの「おくふじ新聞」の発行を始めた。奥さんは不幸にも病気で10年ほど前に急逝したという。その後も毎月発行を持続して、2018年8月5日で128号を数える。発行人として、自分の名前と奥さんの名前を記し、夫婦の共同の作業として発行を継続しているところに、新聞にかける強い情熱と亡き奥さんへの深い愛情が込められている。
 
    img169.jpg
   新聞は、郷里の出身者をはじめ郷里に住んでいた人やなんらかの関わりのあった人など90人ほどに送っているという。A4伴カラー刷りで、レイアウトもとても工夫されて読みやすい。多いのは郷里にまつわるニュースや想い出のエッセイ、郷里にゆかりの人たちの話題や動向、季節の花々や果物、野菜の話題、郷土の歴史、ユーモアあふれる小話、人生訓、俳句など文芸まで掲載されている。彼は自身も俳句を詠むそうだ。とにかく紙面の隅々に郷土愛が溢れている。
 きっとこの新聞を読んでいる人たちは、郷里にかかわることがよくわかる何よりの情報源であるし、紙面を通して郷里への思いを共有しているのだろう。紙面を読めば、新聞発行にかけるK君の努力とその紙面を待っている読者の期待を感じることができる。
                    img170.jpg 
   私の帰省の想い出は、3人が再会し、お酒を酌み交わした写真付きで2面のトップに掲載していただいている。3人の写真を見ていると、50年ぶりに会った楽しいひと時が甦る。さらに、紙面全体を通して、50数年前の青春時代を過ごした場所に想い出を運んでくれる。その当時、一緒に働き、過ごした人たちもすっかりもうお年をめしている。みなさんの健康と長寿、幸多きことを願わずにはいられない。


高知 | コメント:0 | トラックバック:0 |
| ホーム |次のページ>>