契丹族が打ち建てた中国征服王朝「遼」、その92023-03-28 Tue 12:47
公主降嫁を外交手段とした遼
契丹人が打ち建てた征服国家の遼は、周辺の異民族に皇帝の娘・公主などを嫁がせる公主降嫁を重要な外交手段として盛んに行ったことを紹介しておきたい。 すでにこのブログで、中国の漢から隋、唐に至る時代に、中原王朝を中心におこなわれた公主降嫁について書いてきた。そのなかから、遼をめぐる公主降嫁の事例について改めて再録しておきたい。 中国は、唐の滅亡後、五代十国と呼ばれる王朝の興亡があり、戦乱の後宋が建てられた(後の南宋と区別するため北宋と呼ばれる)。南下した遼と北宋は対立し、遼の侵攻を受け1004年、「澶淵の盟」(せんえんのめい)と呼ばれる平和条約を結んだ。それ以降、遼と北宋とは共存の関係を維持していた。 遼はかつて唐から幾度も和蕃公主の降嫁を受けていた。その一方、近隣諸国へ盛んに公主降嫁を行っていた。10世紀以降に建国された遼、西夏、金、元の非漢民族王朝では、五胡十六国、北朝、隋唐の時代と同様、婚姻に基づいた外交政策の実施が再び盛んに見られる。 遼が公主降嫁を行った近隣諸国は、西夏の他にも、高麗・阻卜・カラハン朝・西ウイグル・青唐と多彩である。 ここで、非漢民族の国名がいくつか出てくるので、説明しておきたい。 高麗は、10世紀に新羅に代わり建国され、その後朝鮮半島を統一した。 西夏(せいか)は、チベット系タングート(党頂)が黄河上流のオルドス地方から西域にかけて建てた国。契丹に服属していた。独立してから大夏と称した。 阻トは、モンゴル高原に興ったチュルク系の遊牧民の部族集団。ケレイトと比定され、阻ト諸部はそろって契丹に背き、統合を遂げると、遼朝はその王権を認めた。 カラハン朝は、中央アジアのトルコ系イスラム王朝。西ウイグルは、東トルキスタンに栄えたトルコ系ウイグル人の国家。青唐は、青海地方において活躍していたチベット系の国家である。 ![]() 草原をいく馬車と行列(ドラマ「燕雲台」から) 高麗の場合 遼は建国当初は高麗とは比較的に安定した関係にあった。遼は北宋からも冊封を受けていた高麗を2度にわたり攻撃し、高麗は降伏した。高麗は遼に従順な態度を取り、統和14(996) 年、高麗が遼へ求婚した。高麗攻撃で活躍した蕭恒徳(しょうこうとく)の女が降嫁されることとなった。高麗は遼へ礼物を献上した。翌年、高麗王の王治が死去した。実際に公主降嫁が行われた否かを巡って研究者の見解が分かれている。藤野氏は、降嫁は「計画」の段階であったと結論付けている。 遼は相手を徹底的にねじ伏せた上で公主降嫁を行った。遼は公主降嫁を自国の「利益」となるように「外交政策における重要な手段として公主降嫁を充分に行使していたといえよう(藤野月子著「遼と近隣諸国との公主降嫁による外交について」)。 阻卜 「遼史」で阻卜(そぼく)として表記されているのは「タタール」である。遼からの公主降嫁は、統和22(1004)年、阻卜の君長である鉄剌里が来朝して求婚したが、遼は求婚を許可しなかった。しかし、同年、一転して遼は求婚を許可したとされている。 10~11世紀、阻卜は既に「国家」ともいえる姿を形成しており、遼・北宋・西夏・西ウイグル等の間に立って貿易・外交上の役割を果たし、遼とモンゴル高原の覇権を争っていた。遼は合計3回も阻卜を攻撃したが完全には征服できなかった。その後、遼は阻トにたいして優位にたち、鉄剌里は求婚するに至った。やはり高麗と同様、「相手を徹底的 にねじ伏せ、自身の優位性を存分に見せ付けた上で公主降嫁」(藤野氏)と見られる。阻卜も遼に対して毎年二万頭もの馬を納めなければならないなど遼への貢献に苦しめられた。遼に対する不満から、阻卜はしばしば反乱を起こした。 一方で阻トは、北宋へも朝貢していた。遼は、公主降嫁によって阻卜への支配力・影響力を強め、阻卜を引き付けることで「当時の国際情勢を巡り、特に警戒しなければならなかった北宋や西夏に対しての牽制として、自らの『利益』となるように外交政策における 重要な手段として公主降嫁を充分に行使していたといえよう(藤野月子著「遼と近隣諸国との公主降嫁による外交について」)。 遼代に行われた近隣諸国への公主降嫁は合計して8件あり、特に聖宗(せいそう、第6代皇帝)の時期に半数の4件が行われており、聖宗は婚姻に基づいた外交政策の有用性を理解していた。遼は、五代諸朝や北宋と盟約を締結するにあたり、優位に立てるように外交政策としての婚姻を巧妙に駆使していた。 カラハン朝の場合 中央アジアのトルコ系イスラム王朝、カラハン朝に遼から公主降嫁が行われた。 開泰9(1020)年、カラハン朝は遣使によって遼に対して求婚していた。太平元(1021)年には、遼は求婚を許可し、王子班郎君である胡思里の女である可老を公主に冊封して降嫁した。 カラハン朝はなぜ遼に求婚したのか。当時における遼の西域経営の進展状況から、西域諸国にとっては北宋よりも遼の方の勢力があり、対外政策上で緊急に対処しなければならない存在であったためと指摘がされている。 そもそも、遼はイスラム国家であるカラハン朝の東方進出を脅威と感じていた西ウイグルと連携を強化し、共同で反撃した。遼とカラハン朝との婚姻関係が成立して以降、カラハン朝による東方進出は中断され、安定した状況がもたらされたようである。 スポンサーサイト
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契丹族が打ち建てた中国征服王朝「遼」、その82023-03-24 Fri 09:17
猛安・謀克制とは
金は建国とともに猛安・謀克(もうあん・ぼうこく)という制度をもうけた。女真族を編成する社会組織・軍事組織である。 猛安とは「千戸、千戸長」を意味する。謀克は「郷里、族、族長」を意味する。300戸を1謀克とし、10謀克、3000戸を1猛安となる。 猛安と謀克にはそれぞれ同名の長がいて地位を世襲し、平時には狩猟などの生活に従事し、戦時には1謀克が100人、1猛安で1000人の兵士が、武具・食料を自前で用意して従事する。 初期は金の支配下に置かれているすべての民衆に猛安・謀克制が適用されていたが、金の勢力が華北に及ぶと猛安・謀克は再編される。1125年に猛安・謀克制の対象を女真族・契丹族・北方の諸民族に限定し、他の民族の管理には州県制が適用された。 金が急激に勃興した要因として、「太祖が猛安・謀克制という女真固有の社会的・軍事的組織を整備・活用して全女真族を結集し、その民族的エネルギーを100パーセントに発揮させた点にあった」(田村実造著『中国征服王朝の研究(中)』とされる。 ![]() 金朝と宋(『金(女真)と宋』から) 金軍が撤退すると北宋は再び背信し、雲州方面に金への反抗を命ずるなど和約を破ったので、1127年に金軍は再び南下して開封を陥落させて占領。欽宗(きんそう)を北方に連行して北宋を滅ぼした。 太宗ウキマイは、統治に慣れないことから、華北に北宋の宰相であった張邦昌を皇帝にすえ、傀儡政権「楚国」を作ろうとした。しかし、張邦昌は、33日で皇帝を降り、欽宗の弟の康王(趙構)を皇帝位につけることを画策した。南に逃れていた康王は、南京応天府(河南省商邱)で皇帝に即位し、高宗を名乗り、宋王朝(南宋)を復活させた。当時、北京付近には、徽宗、欽宗がまだいた。 金は再度の侵攻を本格化させた。南宋の武将・岳飛らの防御線を突破して、江南に侵入した。 1130年、金軍は撤退したが、山東全域と河南の大部分などに傀儡国家「大斉」を作り間接統治を行った。宋に怨みをもち、金軍に投降した劉豫(りゅうよ)を皇帝に据えた。斉国はわずか8年で廃されたが、宋は南遷し、斉のもとにいる漢人に「金の支配を受けるのはやむをえないというあきらめを、人びとにもたせた(陳舜臣氏)」という。 その後、金は斉を廃し、汴京(開封)を拠点として華北の直接支配に乗り出した。 1139年、金と南宋はいったん和議を結んだ。だが、和約見直しを図る金は1140年、南進を開始した。岳飛らに率いられた宋軍は金軍に大打撃を与えた。和儀を進めたい南宋の宰相秦檜(しんかい)は、民衆の人気が高い主戦派の岳飛を、危険な存在と見なし、冤罪をかぶせて岳飛を謀殺した。 金と南宋は1142年、あらためて両国の間で和約を結んだ(紹興の和議)。この和約は、両国は大散関(陝西省)と淮水を結ぶ線を境界とし、南宋は金に臣下の礼をとり、銀25万両、絹25万匹を毎年支払うという条件であった。金にとって圧倒的に優位な内容である。また、金に捕らわれていた徽宗の遺骸と高宗の生母が帰還することになった。欽宗は最後まで帰還できず北の地で亡くなった。 金は和議を結ぶと、華北の治安維持のため多数の女真族をその猛安・謀克(もうあん・ぼうこく)の組織のまま、満州から華北の地に移した。猛安・謀克は女真族の統治に適用し、支配下の華北の漢民族には州県制を適用するという二重統治体制をとった。 和議以後、長城以南に移り住んだ女真人は100万人を数えるといわれる。1153年、第4代の海陵王は、都を燕京(中都と称す。現在の北京)に遷し、華北支配を強化した。華北に移住した女真人に対し、漢民族から土地を徴発して与え、居住させた。華北の地は、圧倒的に漢人が多く住み、さまざまな社会問題が生じた。 契丹族の遼王朝は、漢族の文化圏と付き合いがあり「免疫性」を持っていて、政体の二元制は最後まで崩さなかった。しかし、奥地にいた生女真は、文化程度も低く、金の上層部は漢族文化に溺れるようになる。建国当初は、二元制をとり、女真族と漢族を分けて統治していたのに、次第に一元制となった。「漢族と分ける必要がないほど、女真族の漢化が進んだのです」(陳舜臣著『中国の歴史9』) 漢文化に染まり、漢化が進むと、勇猛だった軍事的な能力も衰退していった。 「猛安・謀克制を維持しつつ、かつ国家の手で手厚い優遇措置をうけながら、漢人と雑居をはじめる。しかし、経済・文化・社会など、あらゆる面で劣る女真人たちにとって、こうした先進社会での定住は好ましい事柄ではなく、漢化された女真人たちはしだいにその軍事的能力を喪失し、経済的にもまた貧弱化してゆかざるをえない」「女真族が質実剛健、武力中心の風習を喪失してゆくのは当然」であった(『中国史3五代・元』)「女真族が、漢文化に染まり、その軍事力と活力を喪失してゆくことが、何よりも重大であった」(同書) 大規模な移住で土地を与えられた女真族は、もともと狩猟民族で農耕は不慣れで、転業は成功せず、女真族の貧困化が起きた。土地は漢族に借金のカタに取られてしまう。金は女真族の救済のため、漢族から土地を取り上げ女真族に与えたので、漢族の不満と反女真の感情を高めた。また重い税負担を強いられる漢人の金に対する反発が次第に強まり、金滅亡の一要因となった。 金が国家の基盤を華北に移したことは、満州に残された女真族にとって、さらに北辺の遊牧民からの脅威が増すことになり、金はその防衛にあたる必要が生じた。新たな脅威となって現れたのが、13世紀にモンゴル高原の遊牧民を統合し、急速に勢力を伸ばしたモンゴルのチンギス=ハンであった。 金に対するモンゴル帝国の攻勢はチンギス・ハンの1211年に始まり、1次と2次にわたる戦争の結果、最終的にはオゴタイ・ハンの派遣したモンゴル軍の攻撃によって、1234年に滅亡する。 征服王朝の限界 中国征服王朝は遼から金、更にモンゴルへと続くことになる。 「古来、北アジアの遊牧民にとっては南方の中国や西南方の中央アジアの城郭諸国、わけても中国の豊饒な物資と高度の文物とは羨望の的であった。そのため北アジア遊牧民の中国侵略は、有史以来たえずくりかえされてきた。モンゴリアを統一したチンギス・カーンにとってモンゴル帝国を発展さすには、金朝(北中国)への侵寇は歴史的必然であったともいえよう」(田村実造著『中国征服王朝の研究(中)』 中国は古来北方民族によってしばしば征服され、支配されている。これらの北方民族はつねに特色とする強烈な武力によって中原諸国を席巻し、彼ら自身を支配者とする国家をうちたてた。遼や金、元と清がそうである。これほどまでに侵攻を繰り返してきた動機が「中国の豊饒な物資と高度の文物」にあった。 ![]() 契丹族が遊牧した草原(ドラマ「燕雲台」から) しかし、これらの国家は、いずれも時のたつのにしたがって支配民族自身が弱力化し、ついに崩壊をみるにいたった。そうして征服民族の弱化の原因はどこにあるのだろうか。 <ほとんどつねに被征服民族である漢人の、より高い社会経済的機構が、より低度の段階にある支配民族の社会組織を蟲ばんだ点にもとめられる。すなわち部族的団結を特徴とする支配民族の社会は、内部的に急速に分解をはじめ、素朴質実な生活は失われてもっぱら懶惰・柔弱の風が盛行し、ついには兵役さえも忌避するようになり、崩壊への途をたどりはじめるのである。女真人を支配階級として成立した金国もまたその例にもれなかった。金は建国のはじめ、剛强果敢な部族的軍隊を擁して比較的容易に遼の社稷(注・しゃしょく、国家)をくつがえし、さらに宋の北半をもうばったが、やがて女真人の一半を華北に移住させて漢人をおさえようとすると、彼らはかえって漢人に社会経済的な支配をうけることになり、しだいに本来の特質をうしなった。(三上次男著『金史研究1 金史女真社会の研究』)。> この項は『中国征服王朝の研究(中)』三上次男著『金史研究1 金史女真社会の研究』、『中国史3五代・元』、陳舜臣著『中国の歴史9草原からの疾風』「世界史の窓」「ウィキペディア」を参考にした。 |
契丹族が打ち建てた中国征服王朝「遼」、その72023-03-19 Sun 13:16
遼の立法と刑罰
ドラマのなかで、特に刑罰としてこれまで聞いたことのない厳罰が登場し、刑法に興味を持った。 遼では、法制度のうえでも二元制がとられていた。「唐律」(唐法制)を受け継ぐとともに、キタイ族固有の法制を温存しており、刑法の運用にも二元制がとられていた。 遼の刑罰・立法などを若干見ておきたい。佐立治人著「遼朝の立法・刑罰・裁判」 (関西大学法学論集64)から要約してみる。 遼の太祖は、初めのうちは罪を犯す者があれば、罪の軽重を量り、適当な刑罰に処して いた。適宜、法律を作ってゆき、親王が反逆に従った時は、場合によっては高い崖から投げ落として殺す。淫乱で無軌道な者は、五車で引き裂いて殺し、父母に逆らう者も、これと同じ扱いとした。皇帝の悪口を言う者は、鉄錐でその口を突いて殺した。 これらの罪の従犯は、罪の軽重を量って杖刑に処した。 その他にも、さらし首、はりつけ、生き埋め、「射鬼箭」の刑、投石器で投げとばす刑、体をばらばらにする刑を作った。ドラマで見た特異な刑と思ったのは「射鬼箭」(しゃきせん)という刑である。皇帝が親征する時に、進行方向に立てた柱に死刑囚を縛りつけて矢を乱射し、はりねずみのようにしてしまう刑である。このような重法を定めたのは、民が乱を起こさないよう威嚇するためであった。 神冊六年 (921)、 太祖は大臣に詔して,契丹族及び征服した遊牧諸民族を治める法律を定めさせた。服属した漢人に対しては,唐の「律令」を用いて裁判を行うこととした。 太祖朝の名裁判官といいわれた人物に康黙記(こうもくき)がいる。若い頃は削州 (現在の天津市勤県)の軍の部隊長であった。蘭州に侵入した時に遼軍に捕らえられたが、太祖はその才能を気に入り、部下に加えた。太祖は,契丹人と漢人との両方に関係がある問題は一切、黙記に託して妥協案を考えさせた。黙記の提案は悉く太祖の意にかなった。遼は当時、諸部族が服属したばかりで、法律が未整備だった。黙記は唐律の趣旨に沿って罪の軽重を判断した。有罪とされた者は皆、不当ではないと認めた。この黙記の裁判によって,契丹人は唐律の価値に気付いたのである。 第2代の太宗は、太祖が滅ぽした渤海国を治めるには、もっばら「漢法」(唐の律令を含む)に依ることと定めた。 太祖は,鐘院を置いて,裁判の不当を訴える民に鐘を撃たせ,皇帝に訴えが届くよう にした。穆宗の時に廃止されたが,第5代景宗の時、再び置かれた。鐘院の制度は,唐制の登聞鼓(しんぶんこ、王宮の鼓をたたいて民衆が直接王に上言する制度))に当たる。 第6代聖宗の時、「律文」(唐律を意味する)を契丹語に翻訳することになった。これ以後,契丹人に対しても唐律が適用される場合がでてきた。従来,契丹人が漢人を殴って死なせた場合と,漢人が契丹人を殴って死なせた場合とは、罪の軽重が異なり、前者の場合は牛馬で償わせ,後者の場合は斬刑に処し,さらに犯人の親属を没官して奴婢としていた。承天皇太后は,どちらの場合も「漢法」(唐律を指す)を適用するよう命じた。 その後も、契丹人が犯した「十悪」の罪に唐律を適用することや太祖以来の法令を纂修した547条から成る「条制」を編纂させるなどした。 遼を滅ぼした金 キタイ族の遼帝国を滅ぼし、代わって北アジアと華北を支配したのは女真族であった。かれらは中国東北地区の松花江、牡丹江(ぼたんこう)、黒竜江(アムール川)下流域、沿海州(現沿海地方)に分布していたツングース族に属する。 女真族は、ツングース本来の漁撈や農耕、養豚、狩猟を生業としていた生女真(生女直)と、遼の領土内に移されて遼の戸籍につけられていた熟女真(係遼籍女真)別けられる。 ![]() 阿骨打(ウィキペディア) 生女真のうち現在の黒竜江省ハルビン市近郊の阿城区一帯、東流松花江(スンガリ川)の支流阿什(アシ)河の河谷平野を拠点とした按出虎水(アルチュクスイ)完顔(ワンヤン)部と呼ばれる一部族集団が台頭してきた。 女真人が服属していた遼では、聖宗、興宗、道宗3代の最盛期の後を受けた天祚(てんそ)帝の時代、天祚帝は華美な中国の文物を愛し豪奢な生活を送った。女真に対して過酷な搾取を行った。 遼は、南方の宋と交易するだけでなく、ウイグルを通して西域とも交易し、西域の奢侈品を輸入していた。しかし、遼の支配域にはこれといった産品がなく、宋から受け取った銀と絹の多くは宋の産品を購入するために消費されていた。 毎年、鷹狩りに用いられる勇ましい鷹(海東青)を求めて完顔部の領域を経由し、松花江下流域に使者を派遣していた。この使者たちはむやみに貢納を命じて物品を徴発し、美女を求めるといった乱交を働いたので、女真の人びとを怒らせた。 12世紀のはじめ完顔部を中心に、その部長・阿骨打(あくだ、金の太祖)の指導下に活発な反遼運動をおこした。 阿骨打は1114年、遼の生女真にたいする要衝である寧江州を攻めて大勝し、続いて東北辺境の諸州を陥れ、遼の勢力を駆逐していった。挙兵の翌年1115年、皇帝の位につき、国を大金と号し、収国と年号をたてた。「金(アルチュフ)」の国号は、女真族が按出虎水(アルチュクスイ)から産出する砂金の交易によって栄えたことによるとされる。 1116年、阿骨打と女真軍は、東京遼陽府(現在の遼寧省遼陽市)を陥落させ、遼東方面、鴨緑江河口付近の諸州を支配下に収めた。そしてついに父祖以来の宿願であった全女真部族の統合し、金国建国をなしとげたのは、挙兵から3年を経ていた。 遼は阿骨打に講和を申し入れた。一方、北宋も金王朝に接近し、1118年、北宋と金で遼を挟み撃ちにすることをもちかけ、1120年に金と北宋との間で「海上の盟」と称される盟約を結んだ。 阿骨打は1123年に死去したが、弟の太宗呉乞買(ウキマイ)が後を継いで遼との戦いを続けた。1125年に、逃れていた遼の天祚帝を捕らえ、遼を完全に滅ぼした。 太宗ウキマイは1125年9月、北宋への侵攻を開始した。華北一帯を席巻し、1126年正月には北宋の首都の開封を包囲した。その結果、金は莫大な賠償(金500万両、銀5,000万両、牛馬1万頭、布帛100万匹)を得た。 領土は、満州・東・内蒙古・華北に広がり、統治する民には、女真人をはじめ漢人・奚人・契丹人・渤海人なども含まれた。 「金朝はツングース系の女真族王朝とはいうものの、それは王室とあまり数多くはない中核集団にだけいえることであり、実は大量のキタイ勢力が加わっていた。むしろキタイ国家は内部対立で自滅したのであり、そのほとんどの集団は金朝にそそまま横すべりしていたのである」(『中国史3』) |
契丹族が打ち建てた中国征服王朝「遼」、その62023-03-12 Sun 12:51
ドラマ「燕雲台」が面白い
遼の北府宰相・䔥思温(しょうしおん)に三姉妹がいた。三女の䔥燕燕(しょうえんえん)は、漢民族で遼の朝臣である韓徳譲(かんとくじょう)と出逢い愛し合う。第4代皇帝の穆宗(ぼくそう)は暴君で、権力争いが続いていた。䔥家は皇后を輩出する后族であり、3姉妹はその争いのなかに巻き込まれていく。長女は、皇帝の弟に、次女は初代皇帝の孫に嫁ぐ。3女の燕燕は、暗殺された前皇帝の息子耶律賢(やりつけん)に見初められる。燕燕と婚約していた徳譲と賢は親友で、穆宗を倒すため協力するが、穆宗が殺され、賢が皇帝に就くと、燕燕を強引に嫁がせ皇后とする。病身な皇帝に代わって政治に燕燕が乗り出す。皇帝の死後は皇大后として、徳譲の協力のもと政治の采配をふるう。北宋との争いでは自ら戦場に赴く。残念ながら、ブログでアップした時は、ドラマは終わった。遼を守り安定させ、北宋との間で「澶淵の盟」(せんえんのめい)を結び平和を築いた人物として描かれていた。 摂政となった睿智蕭皇后 ドラマでは主役の燕燕・睿智蕭皇后(えいちしょうこうごう)は、実際にはどういう人物だったのだろうか。 燕燕は、遼の北府宰相・蕭思温の娘として生まれたが、蕭氏は、かつては奚(けい)族とよばれる遊牧民のひとつ。代々皇后を出す名門だったという。 ![]() 睿智蕭皇后(ドラマ「燕雲台」から) 幼くして聡明で、蕭思温は「この娘は必ず家を成すことができよう」と評した。969年。景宗・耶律明扆(やりつめいい)が即位すると選抜されて貴妃となった。間もなく皇后に立てられた。このときまだ16歳だった。 夫婦仲は良く、二人の間には4男3女が生まれた。ところが景宗は病弱で朝廷の会議に出席できないこともあった。そこで蕭皇后が代わりに出席することが増えた。蕭皇后は刑罰や報酬の決定など政治や軍事に関係する事がらの決定権を保っていた。975年。景宗は記録係に「皇后が発言するときは「朕」や「予(余)」と書きなさい」と、まるで皇帝の発言を記録するかのように指示した。蕭皇后を皇帝と同じ地位まで引き上げた。 982年、景宗は闘病生活のあと病死すると、皇太后に立てられ、摂政にあたった。 息子の耶律文殊奴(やりつもんじゅど)が即位し、6代皇帝 聖宗となる。聖宗はまだ12歳。蕭太后が政治を行った。まだ蕭太后と景宗の地位が脅かされる状況もあるなかで、蕭皇后は二人の有力な大臣、耶律斜軫(やりつしゃしん)と韓徳讓を呼び出し、2人を朝廷の会議に出席する権限を与えた。南方の国境に守りを耶律休哥に任せ、韓徳讓は聖宗親子の警備を担当。韓徳讓はさらに北南枢密使、大丞相、封晋王の地位に就いた。蕭綽と韓徳讓は多くの大臣を排除し、皇族や大臣同士の会合や、用のない外出を禁止。彼らから軍事的な力を取り除き、聖宗と蕭綽の親子の地位は安定しました。統和元年(983年)、承天皇太后の尊号を受けた。統和22年(1004年)、北宋に対する南征の軍を起こすと、戎車(じゅうしゃ、戦車)に乗って、三軍を指揮した。 <蕭太后には実は、もっと大切な金字塔がある。それは、燕京から50キロ東南に位置する大運河の終着点で穀物の集散地である張家湾に至る運河の建設事業である。私は、この運河を綿密に調査したが、1000年の時を経ても黄土を固めた堤防によって、今もその姿を留めていることを知って驚いた。付近の人々に運河の名を尋ねてみると答えは異口同音に「蕭太后運河」であった(「人民日報インターネト版」)。> ドラマでは、蕭太后と韓徳讓が若い頃に婚約していたと描かれている。でも事実ではないらしい。景宗の死後、蕭太后と韓徳讓は愛人関係であったという説もあるけれど、信頼関係で結ばれていたことは確かだろう。 この項は、「アジアドラマの史実」「人民日報インターネト版」「ウィキペディア」を参考にした。 第4代皇帝景宗 次に、睿智蕭皇后の夫、景宗について見ておきたい。 第3代皇帝世宗の次男の耶律明扆(やりつ・めいい)は969年、第4代皇帝であった穆宗が暗殺されると、その後継者として契丹人と漢人の大臣たちに担がれ皇帝に即位した。 遼は建国以来、一族の中で争いが続いたが、一族や重臣たちの対立を和らげるために。政敵をむやみに粛清しなかった。それまで重かった契丹の刑罰を軽くした。契丹人が主要な役職を独占していたが、漢人を重要な役職につけて中国の統治方法を学び、皇帝の権限や組織を強化。中央集権化を進めた。 内政は安定し、農耕や畜産が盛んになり、力をつけた契丹は北宋との戦いで優位に立つことができるようになった。北宋に対抗するために、遼は北漢と同盟を結んだ。 979年、宋太宗・趙炅は北漢を滅ぼし中原をほぼ統一すると、その勢いで北宋軍は、遼に奪われた燕雲十六州を取り戻そうと攻めてきた。将軍の耶律沙(やりつさ)、耶律休哥(やりつきゅうか)たちが北宋軍を撃退した。翌年の980年、景宗は北宋の満城、雁門を攻撃させたが失敗。怒った景宗は10月に自ら大軍を率いて北宋に攻め込んだ。瓦橋関の戦いで北宋軍を破り多くの兵を討ち取り数名の将軍を捕虜にし、景宗は都に戻った。 しかし、景宗は病身で皇后の蕭綽が代わりに政治を行うようになり、政治や軍事の主要な事柄は皇后が決定したといわれる。 第5代皇帝聖宗 第5代皇帝の景宗が亡くなった後、長男が12歳で即位した。聖宗である。 統和元年(983年)に国号を大遼から大契丹に改めた。治世前半は母の承天皇太后(睿智皇后蕭綽)や父帝の代からの家臣団の補佐による執政体制であり、1009年に母が死去し、30代より親政を開始した。東辺では女真族を、西辺では西夏と協力しウイグル人の西域諸国を服従させた。 ![]() 遼の都、上京(ドラマ「燕雲台」から) 統和22年(1004年)には大軍を率いて親征を行い、北宋領の黄河河畔(現在の河北省)に侵攻した。これに対して宋は真宗の親征軍が迎撃したため、両軍は黄河を挟んで対峙した。しかし膠着状態が続いたため同年に澶淵の盟を締結して両軍は撤退した。これ以降、契丹は宋に対し兄事する関係となり、宋から毎年贈り物(歳幣)を贈られることとなった。 ただ、高麗について北宋との断交と契丹の年号を使用することを取り付けたが、その代償として江東6州を割譲しなければならなかった。その後、要衝である江東6州の奪還を目指して、何回か兵を送ったが、開泰7年(1018年)に高麗の名将姜邯賛に大敗し、侵攻を諦めて開泰9年(1020年)に両国で講和が結ばれた。講和において高麗が江東6州を領有することを認めたが、一方で高麗は再び契丹の年号を使用し、その冊封を受けることになったため高麗が宋と結んで遼の背後を脅かす危険性を取り除くことができた。 治世後半においては国内の内政・軍事の組織化に尽力し、中央集権化を推進して、契丹の全盛期を招来した。太平11年(1031年)に61歳で崩御すると、長男の只骨が皇位を継承して興宗となった。陵墓は慶州(現在のバイリン右旗索博日嘎鎮白塔子村)近郊にある。聖宗の中央集権化により国力を充実させた契丹は、興宗・道宗の時代まで全盛期が続いた。 景宗、聖宗は「ウィキペディア」を参考にした。 |
契丹族が打ち建てた中国征服王朝「遼」、その52023-03-07 Tue 18:36
征服のため特定の階層と結びつく
中国の遼など征服王朝は、3、4世紀に北方や西方から中国に移住した匈奴・鮮卑・羯・氐・羌の5つの非漢の少数民族が個々の部族集団のまま潜入してきて中国内で政権を建てたのと違って、遼などはまだ長城のかなたの北アジアにいるときから、たびたび中国に侵入して漢人農民を集団的にとらえて北方に連れ帰って定着させたりして、遊牧民と農耕民とからなる牧農政権を形成していた。牧農政権内部にしだいに階級分化が激化してくると、社会的矛盾を打開する一策として、中国や朝鮮半島や、あるいは西域諸国にたいする征服戦争を積極化してゆく。 征服王朝の中国侵略は、土地を占領し、その地の人民を支配するという一定の目標をもっている。武力による制圧だけでは一時的なもので、長続きしない。遼の第2代目の太宗は一時北中国の大半を占領したが、一年足らずで失敗して北方の本国に引き上げた。この失敗を反省して、北中国の漢人のなかに味方をもたなかったことが一つの敗因であると述懐している。 征服を長続きさせるためには、中国社会のいずれかの階層と結びつく必要がある。その階層とは、官僚・郷紳(注・地方の有力者)・富商である。かれらは背景とした国家権力が衰えると地位は不安定になる。これにかわる後ろ盾をもたなければならない。たとえ異民族政権であろうとこれと結託することに征服王朝を成立させる。 ![]() 南宋と金(『中国史3』から) たとえば、女真族の金朝がまだ北中国に君臨しない以前、かれらは傀儡政権として河 南に張邦昌の楚国を、ついで劉豫の斎国を建てて、それぞれ占領地を統治させていた。また元朝の世祖フビライ・カーンは元朝政権を樹立するにあたって、山東の張氏・東平良の厳氏・真定の吏氏・順天の張氏らの有力貴族(漢人世候)とかたく結んでおり、清朝も軍閥呉三桂を通じて華北の軍・民の有力階層との緊密な連携下に山海関を超えて華北に入った。 <征服王朝はやはり旧来の支配層である官僚や豪族や富商らのがわに立って旧秩序を維持し復興する政策をとり、前王朝の末期からつづく農民反乱や下からの抵抗運動を、その強大な武力によって抑圧鎮定しております。…いいかえれば征服王朝は遊牧民族のもつ武力と中国社会の支配層との抱合いによって成立した政治権力であるともいえましょう。… 征服王朝は中国社会の旧秩序を維持することに大きく作用しております。それとともに、かれらはまた北アジアの遊牧的封建体制や、それと相表裏する北アジア的土地所有形態――金朝の猛安・謀克制とか元朝の千戸制のような軍事組織と密着した土地制度――までもちこんでおり、これらは中国社会の進展を大きく阻害する因子であります(田村實造著『中国征服王朝の研究 上』)> 注・金朝の猛安・謀克制(もうあん・ぼうこく) 中国東北部(満州)で狩猟生活を送っていた女真が建国した金の軍事・行政組織。 千戸制 モンゴル帝国のチンギス・ハーンが、それまで部族ごとに編成されていた組織を「千戸制(せんこせい)」という仕組みに改め、軍事・行政を統括した。 全遊牧民を、10人の兵士を動員する集団に分け、その集団を10個束ねて100人の兵士を出す集団にした。 滅亡に向かう遼 遼朝においては、その中期以後遊牧部落制と農耕州県制との社会経済上の相剋がしだいに激化し、その結果牧地の狭あい化、牧馬制の崩壊により軍馬の不足をきたして国防力が弱体化し、それが遼朝滅亡の一要因となったことが指摘されている。 また、宋との講和が実現し、毎年莫大な賠償金を受け取ることの続いた遼の支配層は、次第に贅沢に慣れ、頽廃が進むこととなった。その間、中国東北部で遼の支配下にあった女真は、質素な狩猟・採集生活を続けながら強固な軍事組織を作り上げ、次第に遼の圧迫に反抗するようになった。 女真族を率いる完顔阿骨打(ワンヤンアクダ)は1114年、挙兵して、遼に対する反乱を起こした。翌1115年には、即位して金を打ち建てた。一方、宋も遼を倒すチャンスとして、金と連合して遼を南北から挟み撃ちを企図した。だが、宋軍はこの時期、長江流域で方臘(ホウロウ)の乱という農民反乱が起こったために動けなかった。完顔阿骨打の率いる金軍は1122年、遼の都の一つ上京臨潢府と燕京を陥落させた。完顔阿骨打は翌年に死去したが第二代皇帝に即位した太宗が、1125年に遼を滅ぼした。 |
契丹族が打ち建てた中国征服王朝「遼」、その42023-03-02 Thu 14:59
斡魯朶(オルド)とは何か
ドラマ「燕雲台」を見ていると、よく分からない遼の組織や習慣に出合わせる。その一つに斡魯朶(オルド)がある。皇帝をめぐる争いのなかで、この斡魯朶の兵権を誰が握るのかが、たびたび重要な問題となる。 遼朝では、皇帝はみな斡魯朶(オルド)を所有している。遼の阿保機(アボギ)が皇帝に即位すると、遊牧民・定住民の双方からなる私民・私兵をもって形成した。その前身とされるのが、阿保機が台頭してきたとき、豪健2000余人を選抜して護衛とし、最も信頼する一族の者に統率させ、これを「腹心部」と呼んだという。 「斡魯朶とは皇帝の帳幕の護衛とその私生活に資するための人的組織の全体、いいかえれば皇帝の私兵と私民の組織を意味する。皇帝は即位すると、遊牧・農耕の人戸を析(注・さく、分かつ)してこれを組織し、これに親衛隊の役割を務めさせる一方、その経済活動をもって采邑(注・さいゆう、領地)的役割を担わせ、歿後はその陵墓に奉仕させる仕組みであった」(島田正郎著『契丹国 遊牧の民キタイの王朝』) 皇帝が入れ替わるたびに、新たな斡魯朶が形成された。斡魯朶は歴史上、9人の皇帝と皇后、太后など13建置された。 古い方は、亡くなった皇帝の墓守となる。私兵だけでなく、私民がいた。皇帝と私的な関係にある隷民である。私民には、契丹人、漢人、渤海人その他の俘虜、生口(奴隷)、罪に問われた者などが含まれる。 この斡魯朶も、聖宗の頃から規模は著しく縮小されていった。帝権が確立すると皇帝と私的な関係に結ばれた隷民の組織は必要なくなったという。各斡魯朶は、中央政府の一機関の支配にも服するようになり、その構成員は中央政府と皇帝との二重の支配下に入るようになった。そして、実質的には部族制や州県制下の一般民と異ならなくなった。 ![]() 捺鉢の風景(ドラマ「燕雲台」から) 捺鉢(なば)とは何か ドラマでは、皇帝が宮殿を離れて移動して暮らす場面がよく出てくる。 「皇帝は、宮殿に起居したわけではなく、廷臣を伴って春・夏・秋・冬それぞれ決まった幕営地を移動しつつ暮らした」(島田正郎著『契丹国 遊牧の民キタイの王朝』) 移住する狩猟や釣魚に好適な草原の宿営地が「捺鉢」(なば))と呼ばれる。 「ここでは国政をとるかたわら射猟漁労に日をおくるが、これらにとっては射猟でも鷹狩でも漁労でさえも単なる遊猟ではなく、一種の武事修練であった」(田村實造著『中国征服王朝の研究 上』)。 皇帝はここで「大会議」を主宰し、政務や司法の決定を行うのが常で、皇帝の天幕が契丹政府の所在地となった。 「春捺鉢」は旧暦正月に始まり、場所は今日の吉林省長春河や長泊、そして河北省北部の安固里湖または北京周辺のいくつかの地点などさまざまであった。この期間は草原の沼地で魚釣りと「野鴨」や「天鵝(ハクチョウ)」狩りが行われていた。 「夏捺鉢」は毎年旧暦五月に契丹の南・北面官と各部族の代表が参加する最初の「大会議」が開催されることで重要である。皇帝はこの会議において、遼帝国の領民の運命に関わる重大な決定を行った。「大会議」が閉幕すると漢族の高官たちは、中京や南京へ戻って行ったが、契丹人は引き続き「捺鉢」に滞在し、狩猟に興じ、政務を執り、祖先の陵へ参詣する生活を送った。歴代の皇帝は、風光明媚な永安山をこよなく愛し、懐陵と慶陵をこの地に造り、5人の皇帝がそこに埋葬されている。 「秋捺鉢」には、皇帝の一行は、山中で鹿や虎を狩り、菊花酒で宴を張った。鹿狩りには、狩子が鹿皮を被って鹿笛を吹いて獲物をおびき寄せる独特の手法が用いられたという。鷹の最高級種は「海冬青」と呼ばれるもので、戦いの神として崇められ、現在のハルビン付近で、女真族によって飼育され遼皇帝への貢ぎ物として納められていた。 「冬捺鉢」は、3カ月以上にも及ぶ狩猟の時期であった。陰暦10月、契丹の部族長や南北面官、将軍たち、その他、外郭部族の代表たちが、「南北大臣会議」のために集まって来る。通常、この会議は内蒙古のシラムレン(西拉木倫河)の南の草原で開催された。 <四季の「捺鉢」にはそれぞれ、興味深い逸話が残っているが、『遼史』によると、1112年、春州(現吉林省)の周辺で開催された「捺鉢」は、その後の中国の政治情勢に重大な影響をもつものとなった。天祚(てんそ)帝の時代のこと、恒例の「頭魚宴」が祝われた際、酒席で各部族長が踊りを披露するよう命じられたが、生女真の完顔阿骨打(わんやんあくだ)のみは、幾度も促されたにもかかわらず、頑として踊ることを拒否した。契丹の朝臣たちは、阿骨打の傲慢さに激怒し、厳罰に処そうとしたが、天祚帝は「女真族は礼儀を知らないだけで、狩猟上手である」と誉めるところがあった。この寛容さが後にとんでもない結果を引き起こした。その三年後、阿骨打は遼を攻略し、金王朝の成立を宣言したのである(「人民中国インターネット版2010年8月」)。> <「捺鉢」は契丹人の生活に不可欠の要素であり、漢族風の恒久的な首都を造った後も、この伝統は維持された。乗馬と弓術の鍛錬をしながら、常時、移動することによって、契丹族は戦闘能力を高め、またこの移動の過程で支配者たちが、領内の異民族や異文化に触れ、伝統と情報を共有できたのであろう。「捺鉢」の四季は遼帝国の活力と特殊な支配形態をわれわれに伝えてくれる(同上)。> |
契丹族が打ち建てた中国征服王朝「遼」、その32023-02-25 Sat 16:49
政治体制も複合的
経済上の複合的体制は、政治制度の上でも二重の複合的体制を特徴とした。 征服王朝が複合的社会構成をもっている以上、それに適応するような複合的政治体制をとらざるをえなくなる。 遼の政治体制は、遊牧民と農耕民をそれぞれ別の法で治める二元政治だった。契丹族を代表とする遊牧民には北面官があたり、 燕雲十六州の漢人や渤海人らの農耕民には南面官があたった。原則的に、北は契丹族や他の遊牧民族には固有の部族主義的な法で臨み、南は唐制を模倣した法制で臨んだ。 北面官の機関には北枢密院・宣微院・大于越府・夷離畢院(いりひついん)・大林牙(だいりんが)院など8官署があった。北枢密院が遊牧民に関する軍事・政治の両権を一手に握っている最高機関となっている。この機関は太祖の勃興時には存在せず、後から南面官の役職と同じ名前で作られたものである。当初は大于越府が最高機関であったが、北枢密院が作られてからは有名無実化し、名誉職のようなものになった。 ![]() 遼の太祖となった耶律阿保機(ウィキペディアから) 南面官の最高機関は南枢密院である。北面官と異なり、兵馬の大権は持っていなかった。ほかに三省六部や御史台、殿中司、翰林院と言った唐制に倣った役職が置かれて統治されていた。 第3期の聖宗・興宗の時代になると、二元的統治の原則はそのままに「軍事の大権は契丹人が握り、漢人には主として吏務をとらせるという、契丹人の独裁制を基調とした二元制に改められた」(島田正郎著『契丹国 遊牧の民キタイの王朝』) このような二元制は、法制や兵制の上にもあらわれている。遼朝の法制は、中国歴朝のそれとは異なった性格をもっている。法律をみても、それは唐律をうけついではいるが、他方ではキタイ族固有の法制を温存しており、また、刑法の運用にも二元制がとられている。 遼の兵制は、北では国民皆兵制であり、これが基本的に国軍となる。南では郷兵と呼ばれる徴兵制を取っていたが、これは地方守備軍に当てられており、指揮権は南面官にはなく、各地方の長官が持っていたとされる。南軍も時に北軍に従って遠征軍に入ることもあった。 国家の機構をみても、北方の遊牧部族は、単于(遊牧国家の君主の称号)や可汗(遊牧国家で用いられた王号)は国内の遊牧諸部の単于・可汗氏族に属するもののうちから選出され、氏族制的要素がつよく、古代的である。 これに対して遼朝以後の征服王朝では、それまでの氏族制的な残滓はしだいに消滅して、その国家権力は、主権者によって再編成された部族社会を基礎に形成される。遼朝における太祖の18部の編成、あるいは聖宗の34部の編成(契丹人をはじめとする遊牧民は,太祖の時に編成された18部と,聖宗の時に編成された34部とを合わせて,52の「部」に編成されていた)とか、金の太祖の猛安・謀克制(もうあん・ぼうこくせい、金の支配民族女真族の社会組織・軍事組織)の確立とか、モンゴル帝国におけるチンギス・カーンの千戸制(血縁的な部族制を再編した軍事・行政組織)の創設とか、また清の太祖ヌルハチによる八旗制(満州人を中心とする社会組織。これを基礎に兵制も構成された)の設定などは、いずれも中央集権を確立し強化するため、従来の氏族制を解体して、主権者との封建的関係にもとづく新部族制を編成したものである。国家の機構も、中国的な君主専制の官僚体制に改変された後の可汗は、父子の単一世襲制となり、その権力はいちじるしく強化された。そして可汗を頂点とする官僚制と被支配者層とのあいだには、つよい封建関係が存する(田村實造著『中国征服王朝の研究 上』)。 この二元政治は、聖宗期を過ぎた頃から契丹族内での中国化が進んだため、実情に合わなくなった。これを宋のような体制に一本化しようとする派と契丹固有に固守しようとする派とで争いが激しくなり、滅亡の原因の一端となった。 |
契丹族が打ち建てた中国征服王朝「遼」、その22023-02-20 Mon 09:25
宋との間で「澶淵の盟」を結ぶ
太宗のあと3代をへて第6代の聖宗がたつと、この時代(982~1031)に遼の国力はさらに充実して、第2の発展期をむかえた。すなわち聖宗の治世50年間に、政治組織も軍事組織も整備され、強固な中央集権的専制体制がきずきあげられた。この国力をもって遼は、東は朝鮮半島の高麗を降し、西はチベット系のタングート諸部および西域のウイグル諸国を朝貢させた。また、そのころ中国を統一し国礎をかためていた宋朝に対して攻勢に出た。 1004年、遼の聖宗は南下して宋(北宋)の都である開封に迫まり、黄河北岸の澶州で真宗の率いる宋軍と対峙した。宋は西北からのタングートの侵攻も受けて危機に陥り、講和に乗りだして同年、遼と宋との間で「澶淵の盟」(せんえんのめい)が締結された。 交渉が真宗の澶淵出陣を背景に行われたことから、澶淵の盟という。遼に割譲されていた燕雲16州のうち、関南の地が奪回されていたので、遼は「失地」の回復を求めていたが、 国境の現状を維持し、宋は銀10万両、絹20万匹を毎年譲与するなどの内容である。 「国境線上での非武装地帯の設置などの画期的な手段がとられたこともあって、この条約による平和は1世紀以上続き、宋の経済や文化の発展の基礎になった(山内正博氏「日本大百科全書」 ![]() 遼と宋をめぐる東ユーラシアの地図(ウィキペディア ) 講和が成立してからの11世紀、遼は毎年送られてくる多大な財貨を元に、経済力を発展させて、宋や西夏(タングート)との交易で繁栄した。 聖宗につづく興宗(1031~55)、道宗(1055~1101)の3代の約120年間は遼朝の極盛期といわれる。この時期に遼は東アジア最強の国として、キタイの名は遠く西方にまでとどろいた。道宗のつぎには孫の天祚帝がたったが、遼もこのころから国勢が下り坂になり、1125年ついに女真族に滅ぼされて200余年にわたる支配を終わった。 キタイ族の遼帝国をほろぼし、かわって北アジアおよび華北を支配したのは女真族であった。かれらは東北マンジュリアの原住民であって、ツングース族に属する。12世紀のはじめハルビン付近のアルチュカ河流域(阿城)を根拠とした完顔(ワンヤン)部を中心に、その部長阿骨打(金の太祖、アクダ)の指導下に活発な反遼運動をおこし、ついに女真族を統一して金帝国を建国した(1115)。そののち太祖は宋朝とむすんで遼を南北から挟撃し、その首都の上京をはじめ中京・南京などをつぎつぎに攻略したが、1123年征戦のさなかに歿した。 征服王朝の歴史的な特徴 征服王朝は遊牧王国にくらべると、概して中国または朝鮮に近い地域から勃興しているため、中国や朝鮮の辺境に不断に侵入しては、農民を集団的にかすめたり、または本国の戦乱をのがれて投降してくる農民たちを各部族の勢力下に収容したりする。このような掠奪的な戦闘を通じて、首領たちのうちでも軍事的指揮権をにぎる最高首領(可汗)の権力はしだいに強化してゆき、ついにかれらを中心に農耕民と遊牧民ないし狩猟民とからなる「牧農的政権」が形成される。それとともにそれまでの遊牧国家の民族共同体的な部族制はしだいに解体されていく。可汗の地位は専制君主化して、可汗との封建的関係にもとづく部族の改編がおこなわれる。 「このため可汗は遊牧国家時代の単于や可汗とはちがって、中国的専制君主としてその権力は強化され、諸部長たちとのあいだには封建的君臣関係が確立する。それにつれて可汗の地位は、従来の部族選挙制から建国者の一族による複数世襲制となり、さらに父・子・孫へとうけつぐ単一世襲制となる。(『中国征服王朝の研究上』田村實造著)」> 遊牧・狩猟と農耕の複合社会 中国征服王朝は中国を統治するにあたっては、遼の後の金朝や元朝、清朝は支配部族を中国内地に移した。金朝は都を開封とし漢・唐・宋などの中国人王朝とおなじような国家体制を踏襲している。 だが遼朝だけは終始北アジアの本地に根拠をおいていた。そのかわり北方の領内に中国人を集団的に移し、多くの州・県を設置している。 「中国征服王朝は北アジアと中国―一部または全土―との両世界を支配する国家であるため、その社会は北アジア諸部族によって構成される遊牧・狩猟的社会と、被征服民である中国人を中心とする農耕社会との複合制であることが特徴といえるであろう。…両者の関係をその歴史的発展の過程においてみれば、中国的農業経済の体制が遊牧社会に浸透して、しだいに遊牧的経済体制をほりくずしてゆくのが常例であるといえる」(田村)。 |
契丹族が打ち建てた中国征服王朝「遼」、その12023-02-16 Thu 14:58
中国でヒットしたという歴史ドラマ「燕雲台」(The Legend of Empress)を面白く見ている。このドラマは、中国の北方にいた遊牧民であるキタイ(契丹)族が打ち建てた「遼」が舞台である。遼は中国最初の征服王朝であるが、これまでほとんど知らなかったので、どんな国だったのかとても関心があった。
見ていると、キタイ族だけでなく漢人がかなりいて、政治的な役割を果たしている。漢(中国)風の行政改革の推進とそれへの抵抗があり、それが重要な政治問題になっているなど、見るほどに興味深くなってくる。ドラマは、実在した皇后が主人公となり、皇帝の座をめぐる争いに、恋模様が絡んで展開されていく。 この際、知られざる遼についてすこしまとめておきたい。 中国史の中では、遼・金・元・清と続く中国北方の遊牧・狩猟民族が中国内に侵入してきて打ち建てた国家を中国征服王朝と見るか、遼や金は中国全土を支配していないので、征服王朝とは言えないと見るのか、その位置づけをめぐり論議がある。ここでは、学問的にどのように解釈するのかには踏み込まないで、便宜上、「中国征服王朝」として扱っておきたい。 ![]() 中国ドラマ「燕雲台」(BS12) 漢人を利用した遼の太祖 中国の北方、北アジアではウイグル王国が壊滅したのち、10世紀はじめ興安嶺東方地区の現在の内モンゴル自治区の東南部、遼河の上流域にいた遊牧民のキタイ(契丹)族が勃興した。 耶律阿保機(やりつあぼき、太祖)が907年、契丹可汗(遊牧民の王)の位について勢力を蓄え、916年に天皇帝と称し年号を神冊(しんさく)と定めた。さらに北アジア世界の制覇をめざした。天賛3・4年(924~5)にわたって西方ないし西北方の党項(タングート)・吐谷渾(トヨクコン)・ウイグル・阻ト(タタール)などの諸部族を遠征し、翌年には東方の強国・渤海を征討してこれを滅ぼした。渤海国のあとには東丹王国をたてた。長子の倍が東丹王となったが、太祖は帰途病死した(927)。次男の徳光(堯骨)があとをついで太宗となった。太宗は、兄の東丹王・倍を追放して東丹国を併合した。 大契丹国はのちに「遼」を名乗る。北アジアを征服した太宗は、さらに華北の燕雲16州(いまの河北省・山西省の北部16州)を割取し、一時は、黄河以北の全域を占領したこともあった。遼帝国は、万里の長城より南に初めて領土を獲得した。中国の最初の征服王朝となったのである。 太祖は、建国にあたり漢人を利用したという話が伝えられている。 建国神話によれば、太祖はキタイの諸部長からこの部族の伝統である君長の交代制を履行しないで、その位に長くとどまっていることを責められ、やむなく位をしりぞくと諸部の同意をえて、かねてから服属させていた多数の漢人たちを率いて漢城に移って別部をおこした。やがてかれは、これら漢人の農業生産力を基盤に大をなし、ついにキタイ族を統一するに至ったという(田村實造著『中国征服王朝の研究上』)。 「当時阿保機はいくたびか長城をこえて華北に侵入し、各地から多数の漢人を刧掠している。遼史の太祖紀や地理誌に、唐の天復2年(902)にシラムレン(注・河川名、黄色い川を意味する)の南に龍化州をきずき開教寺を建立したとみえるのも、こうしてえた多数の中国人捕虜をうつした結果である(同書)」。 「漢人の政治的手腕と経済的能力」は、太祖の建国にとって、欠くべからざるものがあったという(同書) 遊牧族といえば、これまでの匈奴からウイグルにいたる一連の遊牧王国があるが、遼の場合、著しい違いがある。 「それはキタイ族が北モンゴリアでなく中国に比較的ちかい東モンゴリアのシラ・ムレン流域を本拠としておこったという地理的関係にもよるが、かれらは、すでに部族連合体を形成していた時代から、中国の北辺を侵略して物資を掠奪するばかりでなく、農民を集団的につれかえって領内にうつしたり、あるいは投降してきた農耕民を収容したりして、これらの農耕民とキタイ族をはじめとする北アジアの牧畜・狩猟民とで牧農的政権を形成した(同書)。> 遼が華北の燕雲16州を領有 遼が華北の燕雲16州を領有したことは、その後の歴史に大きな意味を持った。この問題をもう少し詳しく見ておきたい。 当時の中国は、唐帝国が滅びた五代十国の混乱の時代である。 太祖が、満州・蒙古に統一政権を樹立したあと、2代目の太宗は中国の経略に主力をそぐため、しばしば長城をこえて後唐国を脅かしはじめた。933年、華北では後唐の潞王、李従珂(りじゅうか)が皇帝を簒奪し、4代皇帝に即位すると、かねてから不和の間柄である河東の節度使の石敬瑭(せきけいとう)を疎んじるようになり、石敬瑭を「天平軍節度使」に左遷した。 石敬瑭は国内の反乱に乗じ、遼に援助を求めた。この好機をつかんだ遼の太宗はただちに救援に応じ、天願11年(936)8月、大軍を率いて洛陽をおとしいれて後唐にかわって石敬瑭を位につけ後晋朝をたてさせた。石敬瑭は約にしたがい、会堂元年(938)11月河北・山西の北部にわたる諸州(幽など)のいわゆる燕・代16州を遼国に献じ、ほかに毎年金・帛30万両・匹を歳幣としておくることとした。 遼は後晋が従わなくなると、これを攻撃して滅ぼした。開封に入城して一時中原を支配。華北の大半を占領してしまった。国号を大遼国と称したのもこのときからである。 しかし、遼軍の中原占領は、民の私財を掠奪するなどの不始末が重なり、中国人の根強い抵抗をうけて反乱が中原の各地に起こった。そのうえ太宗が病死したため、遼軍はやむなく燕雲16州以北に撤退。モンゴル高原東部と華北のみを支配することに戻った。 このとき太宗はじめ幾多遼国の重臣たちが中原に進駐し中国文化の洗礼をうけたことは、燕雲16州の領有とあいまって、中国文化の遼国内への移入を活発にした。ことに官職制度・服飾・儀礼などの面にうける華化現象は著しいものがあった。しかも、無数の漢人が北方に連れ去られ、遼国に投降するなどして漢人は激増して、やがてかれらの政治的勢力はキタイ人に比肩するようになった。 この燕雲16州の領有や中原への進駐は、北アジア民族と中国との歴史的関係について重要な意味を持った。 <太宗の代に入って燕・代16州の領有、つづく汴京の占拠という一連の事件はー-たとえ後者は政治上軍事上は失敗におわったがー-遼朝の国土拡張および中国文化摂取のうえにも偉大な役割をはたしたといってよい。このことは、遼朝の政治的機構の複雑多元化、あるいは服飾儀礼上に一大変革をもたらす契機をなしたことにおいて、のちの聖宗のとき宋朝とのあいだにむすばれた澶淵の盟約が、遼朝の経済的発達におおきく寄与したこととともに、歴史上たかく評価されなければならない(田村實造著『中国征服王朝の研究上』)。> <後晋から華北の北京・大同近辺(燕雲十六州)の割譲を受ける。この時に渤海旧領とあわせて多くの農耕を主とする定住民を抱えることになった。このため、遼はモンゴル高原の遊牧民統治機構(北面官)と宋式の定住民統治機構(南面官)を持つ二元的な国制を発展させ、最初の征服王朝と評価されている(ウィキベテア)。> このころから遼の国家制度にも中国的な体制が採用されはじめた。 |
「六諭」を超えた「琉球いろは歌」、その62023-02-11 Sat 11:00
「玉の緒の命」を強調
◇惜しで惜しまりみ 玉ぬ緒ぬ命 若さたるがきて すそに持つな 「惜しんで惜しまれないのは、たった一つしかない命である。だから、若さを頼みにして命を粗末にしてはならない」 ◇貧(やし)る者とも 人ゆ欺くな 明日や身の上ぬ 定めぐりしゃ 「貧乏人だと思って人を馬鹿にしてはならない。明日の自分の身もどうなるかわからないのだから」 ◇勝るちゃさと思て 人すしら故か 人劣りなたる 我肝しみり 「勝りたいと思って他人の欠点をとらえ、それを誹(そし)るようなことをしてはならない。それよりも、その人より劣るようになった自分の心を責めなさい」 ◇怪我の源や 酒と色好み 朝夕思み染みり 按司(あじ)ん下司ん 「酒と色好みは人生における失敗の源である。上に立つ人も下で仕える人もそのことをしっかり心に留め置きなさい」 ◇肝ぬ根の責縄 すそにしちからや 手墨学問ん 仇どなゆる 「人間が心を引き締める縄を粗末にしてしまうと、どんなに学問を積んだとしても、それは結局何の役にも立たず 仇となるだけである」 ![]() 日めくりカレンダー「琉球いろは歌」から 「玉の緒の命」を粗末にしてはならないという琉歌は、「命どぅ宝」に通じる教えである。これらの琉歌は、いずれも時代を超えて人の生き方についての重要な教えである。やはり、 「六諭」には見当たらない教えである。というよりか、「六諭」は、人間の生きる上で心がけるべき倫理のなかで、ごく一部しかとらえていない。人間の命はなにより大事だという肝心は、儒教倫理による封建的な道徳観では視野は入らないのだろうか。 「六諭衍義」は、明治時代に作られた「教育勅語」にも、影響を与えたとされる。 「六諭という形式が、近代的教育体制のなかでの教育勅語などの形式にヒントを与えたのではないか」(角田多加雄著「六諭衍義大意前史」) 「教育勅語」の最初は「父母に孝行」で「六諭」と同じである。その後は、必ずしも「六諭」と同じではない。だが、明治政府が国民に天皇制国家の臣民たる道徳を押し付けることは「六諭」の形式の影響を見ることができる。 「教育勅語」はその後、「兄弟姉妹は仲良く」「夫婦はむつまじく」などと続く。最後には「一旦緩急あれは義勇公に奉し、以て天壌無窮の皇運を扶翼すへし」とのべている。これは、「軍人勅諭」では「死は鴻毛より軽しと覚悟せよ」とうたわれ、天皇のために命を投げ出せ、となる。 程順則が琉球王府の時代に「玉の緒の命」の大切さを説いたことは、とても重要な意義を持っていると考える。 「琉球いろは歌」の琉歌と訳文は、久米崇聖会編「琉球いろは歌 六諭衍義のこころ」、上間信久氏、安田和男氏の著作を利用させていただいた。 ![]() 久米崇聖会が発行した『六諭衍義大意 翻訳本』 「琉球いろは歌」を読んで気付くのは、よく「六諭」「六諭衍義」を「分かり易く伝える」とされてきたのに、実際には琉歌集には「六諭」の教えは極めて少ない。特に、孝順父母、尊敬長上、各安生理については、ほぼないと言って過言ではない。 県民愛唱歌の「てぃんさぐぬ花」では、孝順父母を具体化した琉歌がいくつも歌われている。 ◇てぃんさぐぬ花や 爪先に染みてぃ 親ぬゆしぐとぅや 肝に染めり 「てぃんさぐの花は爪先を染めなさい 親の言うことは心に染めなさい」 ◇天ぬ群り星や 読みば読まりしが 親ぬゆしぐとぅや 読みやならぬ 「夜空の群れる星は 数えれば数えられる 親の言うことは数えきれない」 ◇夜走らす舟や にぬふぁ星目当てぃ 我ぬ生てぃる親や 我ぬ目当てぃ 「夜走る舟は 北極星が目当て 私を生んだ親は 私が目当てだ」 これらは、いずれも「孝順父母」の教えが基本になっている。だが、「琉球いろは歌」には、「孝順父母」の教えは見当たらない。不思議なほどである。 なぜなのか。父母の孝行などは言わずもがなで、誰もがわかっていることだから詠んでいない、といわれるかもしれない。でも必ずしもそうとは言えない。「六諭衍義」では、各命題について、詳しい解説をしており、重要な教えだと思えば、何度でも琉歌に詠むことは可能だったはずである。 だからといって、程順則が「六諭」の教えのなかで、孝順父母、尊敬長上、各安生理などを軽く見ていたとは言えない。中国から多大な自費を払っても、「六諭衍義」の版木を持ち帰ったことから明らかである。 ただし、いざ琉球の人々に伝えるべき教えを琉歌に詠むにあたって、どのような教えが重要なのかを考えぬいて詠み、選んだ琉歌がこの「琉球いろは歌」の内容となったのだろう。 「琉球いろは歌」は、「心の在り方」「心をみがく」ことの重要性を説いた琉歌が最も多いのが特徴といえる。 安田和男氏は、次のように指摘している。 <「琉球いろは歌」は、幅広く人間が人間として生きていいくための指針を示したものとも受け取れます(『「琉球いろは歌」と六諭のこころー-程順則名護親方寵文の教え』)>。 「琉球いろは歌」には、王府時代の封建的な道徳を超えた思想が密かに盛り込まれていると上間信久氏は指摘する。 <親方が『琉球いろは歌』に盛り込んだ思想は、今でいう「人間学」であり、あの当時にあっては時代をはるかに越えたもので、「男女平等」など「あってはならない思想」だったのでありましょう。 それ故に「秘密にして後々のために隠さざるを得なかったのであろう」と私は解釈しています(上間信久著『名護親方の「琉球いろは歌」の秘密』)>。 たしかに、「琉球いろは歌」は、儒教的封建的な道徳にとどまらず、時代を超えて、現代に通じる人間の生き方を示した優れた琉歌集であると思う。 終わり 2023年2月 沢村昭洋 |