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レキオ島唄アッチャー

「六諭」を超えた「琉球いろは歌」、その5

 中国語の教育にも
 程順則が「六諭衍義」を持ち帰ったのは道徳教育のためと言われることが多いが、それだけではない。
「程氏(順則)が、六諭衍義を上木した目的は、単に風教に資するという以外に、正音を教ふるにあつた事は、その序跋によつて知る事が出来る。即ち清国へ通好の際、言語未熟の為め、不便を感じる事多いので、官話(注・中国の共通語の旧称)を十分に教へ込んで置く必要があるが、経書は意義深遠で、語学の教科書として適当でない。…元来是の本は、俚俗(注・りぞく、田舎びている)に教ふるを目的としたのであるところから、俚辞俗語を多く使っているために、…言語を学ぶ上には、蓋し最も適当な教科書であった」(東恩納寛淳著「六諭衍義伝」)
 琉球の朝貢、交易などで中国に渡る際の、語学を身に着けるための格好の教科書として使う意図があった。
 「久米村で官話の教科書として使用したものである」(東恩納寛淳氏)とされていることを見ても、語学教育の教科書として重視されたことがわかる。
   琉球いろは歌
    安田和男著『「琉球いろは歌」と六諭のこころ』

 現代に生きる「琉球いろは歌」の世界
 程順則の「琉球いろは歌」の内容を見てみたい。いろはの順番に人間の生き方について詠んだ47首の琉歌からなっている。
 <「琉球いろは歌」というのは、程順則が詠んだ数々の琉歌を「いろは順」に編集したものです。それは、人間として生きていく上で不可欠な「心の在り方」について追求し、歌をとおして人々を諭し、教育したものと考えられます(安田和男著『「琉球いろは歌」と六諭のこころー-程順則名護親方寵文の教え』)。>
人間が生きていく上で大事にすべき普遍的な倫理観が歌いこまれている。「六諭衍義」を分かり易く説いたという域を超えた内容がある。
 <いろは歌は、味わい深く、「人生をどう生き抜くか」や「人としての美しい姿や誠の心とは」などをはじめ「恥ずかしい行いとは」と問いかけながら、読む人によって様々なことが浮かんで来るようになっています。そして誰にでも、ひとつくらいは心に響く歌があるはずであり、必ずや人生の道標となる歌が見つかると思います。
 何故かと言いますと、この歌は、中国の明朝の『六諭』や清朝の頃に広がった『六諭衍義』(りくゆえんぎ)を下敷きにした上に、当時の琉球に伝えられていた『寄言』(ゆしぐとぅ、教訓)をも参考にして創作されており、古今東西の英知を含んだ優れた作品になっているからであります。>
 上間信之はこのように指摘している(「名護親方の『琉球いろは歌』の秘密」)。47首すべてを紹介するわけにはいかないが、そのうち、今日でも胸に響く琉歌をいくつかあげてみたい。
     意見寄言
   日めくりカレンダー「琉球いろは歌」から
 
  最初のいろは順の「い」には、次の琉歌が置かれている。「」内は訳文である。
◇意見寄言や 身の上のたから 耳の根ゆあきて 肝にとめり
「他人から受ける意見や教訓は、我が身にとってはこの上ない宝である。だから、しっかりと聞いて忘れることがないように、心に留めおきなさい」
 これは「六諭」にある、父母や年長者の言うことはよく聞きなさいという「考順父母」「尊敬長上」の精神とは似て非なるところがある。つまり、父母や年長者だからというのではなく、友人や身の回りの方々の意見、指摘は「宝」として心に留めるようにのべている。
◇礼儀忘りりば 闇ぬ夜ぬ小路 我身どすくなゆる 歩みぐりしゃ
「人間が礼儀を忘れると、闇の夜の小道歩くようなもので、我が身を損ね、人生も歩み難くなります。」
◇隠ち隠さりみ 人ぬ過ちぬ 急じ改みてぃ 我肝磨き
 「自分がしでかした悪いことは、隠そうとしても隠せません。すぐに悔い改めて反省し、心を磨きなさい」
◇憎さある人も 憎さどんするな 肝ぬ道すじや 広くあきり
「憎いと思う人であっても憎んではならない。心は常に広く持つように心がけなさい」
◇無理ぬ銭金や 仇どなていつる 義理ゆ思みちみて 無理にするな
「能力の限界を超え、無理に得たお金は仇になるだけである。道理に合わない金銭の無理なやり取りをしてはならない」
◇楽な育つしや 苦さするむとい 物ゆ思みちみて 浮世わたり
「物事をただ楽にしようとだけ考えて育つと、将来苦労するもとになる。そのことをよくわきまえて世の中を生きて行きなさい」
 これらの琉歌は、身分や家柄などによって人の値打ちは決まるものではない、誰であっても努力することによって人の道を歩んでいけると説いている。これは、人の運命は定まっていて変えられないという「六諭」の精神とは明らかに異なっている。

◇黄金さちうてん 銀さちうてん 肝ぬ持ちなしど 飾いさらみ
「黄金や銀のかんざしを挿していても、これは表の飾りです。人の心の持ち方こそが、人を輝かせるのだ」
◇男生まりてん 女生まりてん 油断さん者ど 我身や持つる
「男に生まれても女に生まれても、怠け心を起こさずに一生懸命に働く者が、自分の身を保つことができる」
◇能羽(のは)ある者ぬ 肝たらん者や 花や咲ち出らぬ 枯木心
「いかに芸能や才能に優れていても、心の修養が足りない者は、花の咲かない枯木と同じような心である」
◇人や物毎に 我身勝りとぅ思てぃ 自慢する者や 馬鹿どぅなゆる
「またどんなことでも自分が優れていると自慢する者は、馬鹿者と言うしかありません」
◇手墨勝りてん 知能才勝りてん 肝ど肝さらみ 世界ぬ習や
「学歴があって知識や才能が勝れていても、もっとも大切なのは誠の心である。これが人の世の習わしなのだ」。
◇蛍火ぬ影に 墨習てでんす 油断さん者ど さたや残る
「蛍火を利用して学問をしようとする、絶え間なく努力する人こそが高い評価を受け、名声を残すものである」。

 これらの琉歌もやはり、人の値打ちは身分によって決まるものではないこと、才能がある家柄が良いと思い上がれば枯木のようになる、手抜きせずに学ぶ努力、心を磨くことが大切であると説く。性別により役割が異なるという差別扱いのではなく、男でも女でも努力することこそ重要だと説いている。これらの教えも、「六諭」からは出てこない。「六諭」を超えた普遍性を持った教えであると考える。

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「六諭」を超えた「琉球いろは歌」、その4

 年長者への従順を説く
 父母への孝行に次ぐ第二の教えは「尊敬長上」だという。世界は秩序を守る礼儀があるとし「主人と従うものの区別を定め、年上と若い人の順序を定めて乱さないことである」とする。「家の財産を分ける時に平等でなくても、兄の決定に従うべきである、…もし兄が悪い人で、弟にひどいことをしても、弟は兄を兄として従い、非難してはいけない」とのべている。
 「尊敬長上」は、兄弟だけの関係ではない。「長上というのは、自分より年が上とか、位が高いとかで、自分より上にいる人のことである」「自分より位の上の人は、たとえ年が若くても、すぐれたところがなくても、すでに位が高く、自分の上に立っている人なので。これも年長である」「主人と従者の関係は大事で、主人に対して礼儀正しくないのは世の中が許さないこと」とのべている。
 人生の先輩として年長者を敬うことは当然としても、年長をよいことにして、年下の者に厚かましい要求をする、圧力をかけて服従を求め、犠牲を強いるなどは許されない。年長、年下にかかわらず、同じ人間、人格として本来、上下の関係はない。たとえば、現代社会で企業における上司と部下、学校における教師と生徒、スポーツにおける監督と選手などの関係で、しばしば暴力や暴言をともなう強圧的な指導、教育などパワーハラスメントが問題になっている。「尊敬長上」の一面的な強調は、通用しがたいものがある。

 封建的な女性観念
各安生理」は、「各自の生涯については、定まった運命なのでこれを生理という。このなすべきこと、職業を運命と受け止めて、他を求めずに身をおちつけることを、生理に安んじて従うという」「女性にも各々の定まった運命(職や暮らし)がある。…家庭の中の女性は遅く寝るくらいの苦労はすべきである」「もともと貧しいとか金持ちとか、身分が高いとか低いとかは、運命なのだから、人の力ではどうすることもできないのである」「士農工商の職業はそれぞれやり通すべきで、変えてはいけない」とのべている。
 人の運命は定まっており、士農工商は変えられないとか、女性を家庭に縛り付けるなど、憲法で保障された職業選択の自由や男女平等の権利の保障に反し今日では到底通用しない倫理である。
 <各々生まれながら定まった運命に専念することが安心を得る道をする倫理観は、士農工商など封建的身分制社会を肯定する倫理、支える論理である。こうした倫理観を喧伝するのに最もふさわしい書の一つが『六諭衍義』の世界であり、安定した秩序社会の維持に腐心した支配階級の望むところだったのである。一般民衆は越えがたい身分の壁を前に、自らの位置する場所でいくらかの忍耐と諦念のなか、日々の生活に安心立命を願うしかなかったのである。(久米崇聖会発行『六諭衍義大意翻訳本』)>
 この「各安生理」と「孝順父母」「尊敬長上」が重なり合い、儒教的倫理、道徳観が封建社会の身分秩序、支配を支える論理、倫理として重視されたことを意味する。
 
  男性優位の社会 
 「和睦郷里」では、都会や田舎の区別なく、同じ村や地域に住む人は、「常に大切に思わなくてはならない」「郷里と和睦しなさい」「まずは自分の家庭でみな仲良くするのが基本」と説く。
 そして「妻が浮気者であるか、舅姑を大事にしないか、また嫉妬深かったり盗み癖があったりするなら、しきたりに従って離婚すべきである、しかし、その妻に親の家がなく、帰るべき所がないとか、長年連れ添って父母の喪にも立ち会ったとか、一緒になった当時は貧乏だったが今は金持ちになっているとかであれば…法として離婚してはいけない」とのべている。
 「妻の不貞などのみをあげており、夫については問わないなど、完全に男性優位の社会の言い分である」(『六諭衍義大意翻訳本』)。
      程順則の碑
     那覇市にある「程順則名護親方文頌徳碑」(久米崇聖会HPから)

 でんさー節にも儒教倫理
 「教訓子弟」では、女子について「…いつも穏やかで優しいことを第一として、何事も角を立てずにしとやかであるように教えるべきである。そうすれば大人になって結婚しても夫の両親を大事にし、夫の言うことをよく聞き…」とのべている。
 ここにも「女性への固定観念、封建時代の女性観が如実に表されている」(『六諭衍義大意翻訳本』)。
沖縄民謡のなかにも、このような女性観が盛り込まれた曲がある。その代表例が教訓歌としてよく知られている「でんさー節」である。
◇かわ油断する女 道油断する女 うりからど夫も油断しみゆる でんさー
 「川(井戸)を油断する女 道を油断する女 それから夫も油断させるのだ」
◇夫や家の中柱 女や家の鏡 黒木柱と鏡や 家内のすなわい でんさー 
 「夫は家庭の大黒柱 妻は家庭の鏡である 黒木柱と鏡は 家庭の繁栄の基である」   
◇親子かいしゃ子から 兄弟かいしゃ弟から きない持つかいしゃ嫁の子からでんさー
 「親子の仲がよいのは子の心掛け次第 兄弟の仲がよいのは弟の心掛け次第 家庭の営みが円満であるのは嫁の心掛け次第である」
 元歌は八重山民謡であるが、沖縄本島でも少し編曲されて歌われている。曲の全体は、島々に生きてきた人々が、大切にしてきた人の生きる道を示した教訓歌である。  
 しかし、「儒教的倫理観を思想背景としているため、今日の時代感覚にそぐわない面もある」(當山善堂著『精選八重山古典民謡集』)。特に、典型的なのは、女性観である。女性への古い固定観念、差別観が反映されている。自分でも、この部分は歌っていてとても同意できない。違和感がある。今に生きる教訓ではなく、琉球王府時代の古い女性観を知る遺物だと受け止めて歌っている。

 最後にある「母作非為(ひいをなすなかれ)」は、「悪いことをしてはいけない」「悪いことをすればそれはわざわいの基になる」という当然の教えが説かれている。時代を超えた倫理だろう。

 このように、「六諭」の内容は、現在でも通用する「普遍的な倫理観と、その時代特有の倫理観で、現代では否定される倫理観が混在しているのである(『六諭衍義大意翻訳本』)」
「六諭」と「六諭衍義」が、中国でも日本でも封建時代から明治にかけて道徳の規範として使われてきたのは、儒教的な倫理観が時の権力者にとって都合の良い倫理であり、封建社会の秩序維持にとって有益な論理として用いられたのだろう。
 「六諭」を読んだ時の違和感はここに原因がある。

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「六諭」を超えた琉球いろは歌、その3

 違和感のある「六諭衍義」
 「孝順父母」は、「養い育ててくれた恩は山よりも高く海よりも深い」「とうてい恩返しすることはできないのだが、せめて親孝行をして大切に養うべきである」と父母への孝行を強調する。そこからさらに「最愛の妻子といっても、妻子はなくしてもまた得ることができる。一度なくしてしまうと二度と得ることができないのは父母である」とのべている。
 「父母に孝行」というのは、産み育ててくれた両親に対して尊敬や感謝の心を持つことは当然である。しかし、親のいうことはどんな無理難題であっても無条件で従い、子どもを犠牲にしても孝行せよ、ということになると、とても違和感がある。
 このことを考えるうえで、参考になる逸話がある。北中城村仲順(ちゅんじゅん)の「仲順大主」の伝説である。
 <仲順大主は、妻を早く亡くした。3人の子どもがいた。財産を一番親思いの息子に譲りたいと思い、3人の息子を呼んだ。「私は年老いて物が食べられない。お前の嫁の乳を飲ませてくれ、子は捨ててくれ」と言った。長男も次男も「頭がおかしくなったのか、子は宝ではないか。それはできない」と断り出ていった。
 三男は「子どもはまた産めばよいが、親は一人しかいない。子を捨てて乳をあげましょう」と同意した。大主は「息子よ、子を捨てるなら東の森の三本松の下に三尺穴を掘って埋めよ」と言った。
 三男が、涙を流しながら穴を掘っていると、鍬の先に堅いものが当たった。小さなカメが出てきた。中には金が詰まっていた。大主が埋めたカメだ。大主は「ひどいことを言ってすまなかった。黄金はお前にやる」と言った。その後、仲良く暮らしたというお話である。 
 この伝説は、「六諭衍義」の精神を具現化して親への孝行の大切さ諭した内容である。親への孝養の徳を説くのが趣旨であるとしても、子を捨てて親に尽くせと息子に迫るのはちょっと残酷すぎる。沖縄では、子どもは宝であるというのは、現在でも共通認識である。沖縄に限らないかもしれないが。だから、この逸話について、次のような意見がある。
 <それが肉親としての普遍的な愛情によらず、上からの過酷な要求が下を犠牲にする形で展開されたために、きわめて人間的な反応をした嫁が退けられ、非人間的な盲従タイプの嫁が選ばれることになる。孝養の徳目だけが前面に打ち出され、子は金にも玉にもかえがたいという親の愛情が、長者にも嫁にも希薄になっている。極端に強調された孝養観ではあろうが、封建制下のいびつな人間性を見る思いである。(池宮正治著「沖縄の人形芝居」)>
 
 「組踊」の「孝行の巻」も
 もう一つ、事例をあげたい。それは琉球伝統芸能「組踊」の演目にある「孝行の巻」である。組踊を創作した玉城朝薫が作った演目5番の一つである。
   孝行の巻、文化デジタルライブラリー 
   組踊「孝行の巻」(文化デジタルライブラリーから)
 屋良漏池(ヤラムルチ)に住む大蛇が禍をもたらすため、占い師が子どもの生贄を備える必要があると告げ、役人が高札を立て、生贄になる人を募った。貧しい家の姉弟が、高札を読み、姉は自分が生贄になれば母や弟を助けることができると申し出た。いよいよ祭壇に姉が連れていかれ、祈りをささげると大蛇が出現した。だが、天から観音が降り、大蛇は退散した。自分を犠牲にして孝行をしよう気持ちに感心した王府は、姉を王子の妃に、弟を王女の婿にするというあらすじである。
 物語の結末は、姉は救われてめでたしめでたしとなるが、その主題は、親のためには自分の命を犠牲にしても孝行することを奨励する極端な儒教道徳に貫かれた物語である。
 子どもは親の所有物ではない。子どもの虐待が社会問題にもなっている。子どもの人権は尊重されるべきであるというのは、今日では常識となっている。親への孝行は大事であり、自分ももっと親に孝行すればよかったと自省の念がある。だからといって、子どもより親を大事にせよという親と子どもを対立させた孝行観は、いまでは受け入れられないだろう。

 
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「六諭」を超えた「琉球いろは歌」、その2

 琉球に持ち帰った程順則
六諭衍義」を琉球に持ち帰ったのが程順則(名護親方)である。
 程順則は1663年、久米村(現那覇市)に生まれた。父の泰祚(たいそ)は、清朝への使節に加わり、たびたび中国を訪れていたが、1674年、清朝に対する漢人武将による反乱「三藩の乱」に巻き込まれ、蘇州で亡くなった。
  順則は、1683年中国で勉強する留学生として中国に渡った。官費の留学生ではなく私費の留学である。福州で儒者の竺天植(じくてんしょく)、陳元輔(ちんげんぽ)から儒学を学んだ。
 「ある時、師の竺天植の家ではじめて『六諭衍義』を見て、国民の道徳教科書としてまたとない書であり、また口語調の文書で中国語の勉強にもうってつけだとの強い思いを抱いたという」(久米崇聖会発行『六諭衍義大意翻訳本』)。
   程順則

                    程順則
 その後20年が過ぎ、4度目に中国へ使節として渡った際、福州で自費により『六諭衍義』を木版印刷させた。程順則は、『六諭衍義』と版木を持ち帰った。
 <1718年、程順則は久米村に人材教育のための学校教育の必要性を感じ、明倫堂の建設を提言します。そのおかげで琉球初の学校が誕生し、数々の人材が育っていきます。
 卒業生達は、以降、琉球の国際貿易の担い手や、国内の教育界の指導者となっていきました。明倫堂は、日本各地に誕生する藩校及び寺子屋の見本ともなりました(亀島靖著『琉球歴史の謎とロマン その2 人物ものがたり』)>
 琉球に持ち帰った「六諭衍義」は、「久米村で官話(中国の共通語の旧称)の教科書として使用したものである」(東恩納寛淳著「『六諭衍義』考を上梓するに際して」)
 亀島氏によれば、程順則は、一般庶民に朱子学の教えを普及させるために「琉球いろは歌」を作ったとする。「六諭」の教えは、朱子学が説く儒教の家庭倫理を簡潔に要約したものだとされる。程順則は「琉球随一の朱子学者」(東恩納寛淳氏)であった。

 薩摩から将軍吉宗に献上
『六諭衍義』は、1714年に薩摩藩主の島津吉貴に献上された。その5年後、島津吉貴は8代将軍吉宗から琉球の政治、文学について尋ねられ、吉宗に『六諭衍義』を献上した。
 吉宗は1721年、儒学者の室鳩巣(むろきゅうそう)に日本語訳を命じた。荻生徂徠(おぎゅうそらい)には、和点(漢文を訓読するための文字、符号を書き入れる)を施すように命じた。
 鳩巣の訳本は、『官刻六諭衍義大意』として刊行された。普及するために、簡略された。徂徠の和点本は『官刻六諭衍義』として刊行された。
 「両書は、士階級の子弟だけでなく、町民や寺子屋での子弟教育に、道徳の教科書として、手習いの書として用いられた」(久米崇聖会発行『六諭衍義大意翻訳本』)。
 
 儒教道徳を教える「六諭」
「六諭」の内容について検討してみたい。「六諭」は次の6項目からなる。
孝順父母(父母に孝行し、いいつけを守りなさい)
尊敬長上(年上の人を尊敬しなさい)
和睦郷里(郷里と和睦しなさい)
教訓子孫(子弟を教え導きなさい)
各安生理(自分の運命に従いなさい)
毋作非為(悪いことをしてはいけない)
 掲げられた6項目の「六諭」は、儒教の徳目、倫理である。「儒教的倫理観によって著された道徳書」である。封建社会では、まもるべき道徳として奨励された。
「六諭」は簡単な徳目であるが、これを平易に解説した「六諭衍義」によって、封建的な儒教倫理がさらに強調されていく。ここでは、「六諭衍義」原文が手元にないので、儒学者の室鳩巣(むろきゅうそう)が日本語に訳した「六諭衍義大意」(翻訳本)によって見ていきたい。
 
 

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「六諭」を超えた「琉球いろは歌」、その1

 琉球王府時代に詠まれた程順則(ていじゅんそく、名護親方)の「琉球いろは歌」は、人間の生き方を諭した名著として知られていた。いろはの順番に47首の琉歌が詠まれている。だが、これまで直接読んだことがなかった。先日、三線サークルの仲間であるTさんから「琉球いろは歌」のコピーをいただいて、初めて全体を読んでみた。
 程順則は、中国に渡った際、師事していた先生の家で、『六諭衍義』(りくゆえんぎ)と出会い、自費で印刷して琉球に持ち帰った。同書は、6項目の儒教の教えからなる「六諭」の解説書である。
 『六諭衍義』は薩摩に献上され、さらに薩摩から時の8代将軍、徳川吉宗に献上された。和訳された『六諭衍義大意』は、寺子屋の道徳教科書として流布され、明治時代中期まで約180年間、修身書的な役割を担ったとされる。
        日めくりカレンダー  
        久米崇聖会が制作した日めくりカレンダー「琉球いろは歌と六諭衍義のこころ」
 「程順則は『六諭』の教えを琉球の人々に分かり易く伝える方法として『琉歌』を用いたものと考えられます」(安田和男著『「琉球いろは歌」と六諭のこころ』)「程順則の『琉球いろは歌』は、六諭の精神を沖縄風に歌い上げたもの」(座間味宗治著『琉球いろは歌と六諭衍義』)」と評されている。これらを見ると、あたかも「六諭」の内容を分かり易く琉歌にしたのが「琉球いろは歌」であるとされ、その精神は共通していると思わされる。
 改めて「琉球いろは歌」を読んでみると、人間の生き方、心の在り方として現代にも通用する教訓が歌われていて共感を覚える。そのあと、「六諭」を読んでみると、なにか違和感がある。現代では、素直に共感できない部分がある。これは、両者を同一視はできない、かなり大きな違いがあると直感した。

 「六諭」とは
 「六諭」(りくゆ)とは、明の洪武帝の時代に、「孝順父母」(ふぼにこうじゅんなれ)「尊敬年長」(ちょうじょうをそんけいせよ)「和睦郷里」(きょうりをわぼくせよ)「教訓子弟」(していをきょうくんせよ)「各安生理」(おのおのせいりにやすんぜよ)「母作非為」(ひいをなすなかれ)という儒教倫理をまとめたものである。
 儒教の伝統が古い中国で、明代になぜ「六諭」を作ったのだろうか。
14世紀にモンゴル民族の元朝を北に追いやって明を建国した洪武帝(朱元璋)が、モンゴル人の支配と、元末の農民反乱によって荒廃した農村を立て直しのため里甲制(りこうせい)を施行した。里甲制は、農家110戸で1里を構成する自治的な村落行政制度である。
 里甲制のもとで、労働に励み、租税を負担して国家財政の基盤となる存在と位置づけられた農民に対し、儒教の家族倫理を要約した「六諭」を発布し、里内で長老格の人物を里老人として、民衆に広めさせ、儒教道徳の徹底を図った。

「六諭」について、もう少し詳しく見ておきたい。
 <六諭とは、明洪武21年(1388)3月19日戸部尚書(古代の官職)郁新等が、太祖(朱元璋)の聖旨を奉じて宣布した教民榜文(きょうみんぼうぶん、略)41箇条中の自治章程の1条であって、…元来41箇条もある教民榜文中、自治章程の六諭のみが、後世特に尊重せられ、独立した勅諭のやうになったのは、明代自治制度の変遷の結果である(東恩納寛淳著「六諭衍義伝」)。>
 教民榜文とは、洪武帝による民衆教化の勅撰(ちょくせん)書のことである。明朝から、皇帝自らが道徳教化に関する聖諭を頒布し、庶民教化に聖諭を活用するのが伝統になった。
 <貧苦のなかで成長した洪武帝は民衆の統治によく配慮し、 六諭(りくゆ)を定め、 教民榜文(きょうみんぼうぶん)を頒布して、人民の守るべき分(ぶん)を教え、 皇帝に忠実に服従すべきことを説いた(明治大学法学部 加藤徹氏)>
 当初、国中の村で「六諭」がスローガン的に提唱されていたが、明末には里甲制がゆるまり、解体に向かうにつれて空文化した。
 清代になって、再び「六諭」が重視されるようになった。
 16世紀後半、中国浙江省会稽(かいけい)の范鋐(はんこう)が、「六諭」に平易な口語を用いて解説を施し、関連の文書、詩を加えて「六諭衍義」(りくゆえんぎ)を書いた。これが「六諭」の普及の上で大きな役割を果たした。「清王朝が国民の道徳書として、皇帝の名で出版した」(亀島靖氏)
 <清朝の時代となって、初代皇帝の順治帝が、1652年、国民の守るべき道徳規範として六諭を採用し、「六諭臥碑文」(聖論6条)として天下に頒賜した。次の康熙帝は、1670年に六諭に10の教えを加えて「上論16条」として天下に発布、さらに雍正帝の時代にも「聖論広訓」として天下に発布した(久米崇聖会発行『六諭衍義大意翻訳本』。>
 

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悲劇の乙佛皇后――「異民族に嫁いだ姫君」追加篇、下

 自害させられた乙佛皇后
 改めて乙佛(おつふつ)皇后について見ておきたい。北魏の西兗州(せいえんしゅう)刺史の乙弗瑗と淮陽長公主(孝文帝の四女)のあいだの娘として生まれた。幼くして容姿と立ち居振る舞いが美しく、父母に「かくのごとき者は、実に男に勝らん」と評された。16歳のとき、従兄弟にあたる元宝炬(げんほうきょ、後の文帝)に嫁いで正室となった。男女12人を生んだが、多くは若くして亡くなり、元欽(げんきん、後の廃帝)と元戊(後の武都王)だけが成長した。
 535年(大統元年)1月、文帝が即位すると、乙弗氏は皇后に立てられた。ときに西魏東魏との戦いに専念するために、北方の柔然(じゅうぜん)を懐柔する必要に迫られた。柔然がたびたび西魏の北辺を侵犯したため、文帝は柔然と盟約を結び、通婚を約束した。柔然阿那瓌(あなかい)の娘の郁久閭(いくきゅうりょ)氏と婚姻することを決めた。郁久閭は、阿那瓌の長女として生まれた。容色は端厳(姿が整っていて威厳があること)と評され、知恵を持っていた。
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             乙佛皇后とされる仏像(NHKテレビから)
 西魏の扶風王元孚が彼女を迎える使者として立った。元孚が南面を請うたが、彼女は「わたしは魏主にまみえていないのだから、柔然の娘である。魏の武官が南に向き、わたし自らは東面しよう」と答えた。
 538年(大統4年)1月、長安に入った。3月、皇后に立てられた。同年、文帝が郁久閭氏を迎えると、乙弗皇后は退位して別宮に移り、出家して尼となった。
 それでもなお皇后郁久閭氏(別称・悼皇后)の猜疑が止まなかったため、息子の武都王元戊の任地である秦州に移り住んだ。
 郁久閭氏は540年(大統6年)、懐妊したが、難産がたたって死去した。「文帝は不吉な犬の鳴き声を聞き、医者は廃皇后乙佛の霊であると答えたという」(「中国史人物事典」)。享年は16歳の若さだった。少陵原に葬られた。551年(大統17年)、永陵に合葬された。
 540年(大統6年)春、郁久閭氏が死去すると、柔然阿那瓌は娘が殺害されたものとみなし、兵を挙げて西魏に侵攻した。文帝は「百万の衆を一女子のために挙げるのか」と言って、中常侍(ちゅうじょうじ)の曹寵を乙弗氏のもとに派遣して自殺を命じた。乙弗氏は2子に遺言を残し、侍婢数十人を手ずから落髪させて出家させると、自室で死去した。享年は31歳。諡は文皇后といった。廃帝のとき、永陵に合葬された(ウィキベテア)。
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           麦積山石窟第43号窟(NHKテレビから)
 亡骸は 「麦積崖に龕を鑿って葬り、寂陵とした」とされている。そして東崖の西端近くに造営された第43号窟が、その乙弗の墓であるとみられている。
 麦積山石窟で、もっとも美しい微笑みの仏像が44号窟の仏像。西魏の文帝の乙佛皇后の息子が母を思いつくった仏像だとされている。
 西魏東魏、柔然などが争った時代は、一方で互いに和平や提携のために、女性を嫁がせる政略結婚が盛んにおこなわれた。政略結婚では、自分の意思を無視して異民族に嫁がされる女性が、政争の犠牲になり運命をほんろうされた事例が多々あったことはよく知られている。今回見た乙佛皇后のように、皇帝に嫁ぎ皇后となった女性の中でも、異民族から迎えた女性のために、皇后を廃され、あげくには自死に追いやられたというのは、政略結婚の冷酷な犠牲である。
 麦積山石窟の微笑む仏像として、現代に残された乙佛皇后の仏像を見ると、ただ美しいだけでなく、その悲劇的な生涯に思いを馳せた。
     終わり  2023年 1月
 
 参考文献
 藤野月子著「唐代の和蕃公主をめぐる諸問題について」
 菅沼愛語著「西魏――東部ユーラシア分裂時代末期の外交関係」)
 八木春生著「麦積山石窟西魏窟に関する一考察」
「ウィキベテア」など。


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悲劇の乙佛皇后――「異民族に嫁いだ姫君」追加篇、上

悲劇の乙佛皇后――「異民族に嫁いだ姫君」追加篇

 NHK「シルクロード・美の回廊2」を見ていると、「〝微笑み〟がきた道」で、麦積山石窟(ばくせきざんせっくつ)が紹介された。その中に、西魏の乙佛(おつふつ)皇后を偲んだ微笑みの素晴らしい仏像があった。この皇后は、異民族との政略結婚の犠牲となった悲劇の女性であることを知った。すでにこのブログで「異民族に嫁いだ姫君」をアップしていたが、そのなかで西魏の政略結婚の事例をいくつか書いていたが、この乙佛皇后の悲話は知らなかった。改めて、追加篇として「悲劇の乙佛皇后」を書いておきたい。

  麦積山石窟

麦積山石窟は、中国北西部の 甘粛省天水市にある石窟寺院である。そそり立つ断崖に掘られた194の石窟群と、7,200体を超える仏教彫刻と1,000平米超に及ぶ壁画がある。
 北魏(ほくぎ)時代に開かれた石窟や仏龕(がん)が多く、その後、西魏、北周、隋、唐、宋と造営が続けられた。420年ごろには、300人もの僧が常住していたと伝えられている。石窟は、断崖に作られた桟道によって連絡している。
 この中に、奈良の法隆寺の弥勒菩薩を思わせる微笑みの仏像がいくつもある。中でも第43号窟にある仏像は、とくに美しい。西魏の文帝の皇后であった乙弗皇后を偲んで息子が作らせたとの言い伝えがある。

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      麦積山石窟(NHKテレビから)
 北魏が分裂し西魏東魏

 本題に入る前に、この時代背景について触れておきたい。そうでないと、悲劇の意味がわからないからである。
 中国の南北朝時代にあった北朝の国の一つ、北魏では、孝武帝534年、大丞相の高歓(こうかん)を排除しようとして失敗し、洛陽から逃れて関中に入り、宇文泰(うぶんたい)に保護された。皇帝を失った中原では孝静帝を擁立した。一方、宇文泰は保護した孝武帝を相性が悪いと毒殺して、535年に孝武帝の従兄の元宝炬を帝に擁立した。元宝炬(げんほうきょ)が西魏の文帝である。北魏分裂による東西二つの魏のうち、函谷関の西側で関中を中心とした国を西魏、その東側の中原を中心として国を東魏と呼んだ。国名は後代の史家による命名であり、本来はいずれも「魏」を名乗っていた。
 西魏(535556)は当初から宇文泰が実権を握ったので、3代の皇帝はいずれも傀儡だった。556年宇文泰は死去した後、三男の宇文覚は、周公に封じられ、北周を建てたので、西魏は21年間の短い王朝に過ぎなかった。

北魏の代から5〜6世紀にモンゴル高原で遊牧民族の柔然(じゅうぜん)が活躍し、北魏とは抗争していた。柔然はアルタイ・天山方面の交通路をおさえて東西貿易で繁栄した。
 北魏は、柔然と対立する一方、互いに政略結婚による婚姻関係を結んでいた。
 柔然の可汗(君主の称号)、阿那瓌(あなかい)は、太昌元年(5326月、北魏に朝貢し、長男に公主を娶らせることを願い出た。永照2年(5334月、北魏の孝武帝は范陽王元誨(広平王元懐の子)の長女、琅邪(ろうや)公主を柔然に嫁がせた。
 北魏が東魏と西魏に分裂した後、大統元年(535年)、柔然が西魏を侵したので、西魏は柔然に和親を求めた。西魏は、535年から柔然の阿那に遣使し、和睦を請願していた。この頃、柔然が頻繁に入寇し、北方での防戦が負担になったため、西魏は柔然との和睦を図ったのである。西魏と柔然は和睦交渉の末、阿那の兄弟・塔寒に化政公主(西魏の元翌の娘)が嫁ぎ、文帝も阿那の娘郁久を娶って二重の婚姻関係を結ぶ事になった。

 536年、高歓が西魏に侵攻し、夏州(陝西省)を襲撃したため、霊州(寧夏回族自治区)や涼州(甘粛省)の刺史は高歓に降伏し、西魏には痛手となった。勢いづいた高歓は、537年にも西魏に侵攻し、10月、沙苑(陝西省)で西魏軍と東魏軍が激突したが、東魏軍が大敗した(略)。
 沙 苑 の 戦 い で 、 西 魏 は 東 魏 の 侵 攻 を 退 け た が 、 東 魏 の 脅 威 は 依 然 強 く 、 西 魏 は 、 柔 然 と の 親 善 を 強 固 に す る 事 で 、 東 魏 の 更 な る 攻 撃 に 備 え よ う と し た 。

 538年( 大 統 四 、 元 象 元) 、 文 帝 は 、 阿 那 の 要 求 を 容 れ て 乙 弗 皇 后 を 廃 后 と し 、 阿 那 の 娘 を 皇 后 ( 悼 皇 后) に し た。 こ れ に 対 し 、 東 魏 の 高 歓 も 柔 然 に 遣 使 し て 阿 那 に 通 婚 を 請 願 し た が 、 阿 那 は 西 魏 と 通 婚 後 の 538年5 月 に 東 魏 領 の 幽 州( 現 北 京) 、 九 月 に は 肆 州( 山 西 省) を 各 々 襲 撃 し 、 東 魏 の 使 者 元 整 を 殺 害 し て 東 魏 と の 通 好 を 絶 っ た。

阿 那 は 西 魏 と の 親 善 を 重 ん じ 、 東 魏 の 和 睦 要 請 を 拒 絶 し た の で あ る 。 そ れ で も 高 歓 は 阿 那 と の 通 好 を 望 み 、 報 復 に 柔 然 の 使 者 を 殺 す よ う な 事 は せ ず 、 使 者 を 柔 然 に 帰 国 さ せ た。 高 歓 は 、 連 年 西 魏 と 交 戦 し  敗 戦 が 続 い た た め 、 柔 然 と 婚 姻 関 係 を 結 ん で 西 魏 を 牽 制 しようとした。だ が 、 し ば ら く し て 不幸にして悼 皇 后 が 病 死 す る と 、 高 歓 は 阿 那 に 遣 使 し て、悼皇后が西魏に殺害されたと西魏を謗り(そしり)、阿那がかつて北魏の助力で国を保てた事、東魏こそが北魏の正統な後継者である事などを伝え、東魏と結ぶよう即した。
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 麦積山石窟の仏像(NHKテレビから)
柔然は、540年(興和2年)春、阿那瓌は東魏に朝貢した。しかし帰順して誠意を示すことはなかったが、東魏は、宗室の女性、蘭陵公主を柔然の阿那瓌に嫁がせた。興和4年には、阿那瓌は孫の隣和公主を東魏の高歓の息子、湛に嫁がせた。
 柔 然 の 阿 那 は、西 魏 と 婚 姻 を 結 ん だ に も か か わ ら ず 、 540 年( 大 統 6 、 興 和2 ) 西 魏 に 侵 攻 し 、 文 帝 と 廃 后 乙 弗 氏 の 復 縁 を 非 難 し た 。 阿 那 は 、 娘 ( 悼 皇 后) へ の 侮 辱 は 柔 然 へ の 侮 辱 に 等 し い と 見 做 し 、 報 復 の た め に 西 魏 を 攻 撃 し た の か も 知 れ な い 。 文 帝 は 廃 后 乙 弗 氏 に 自 殺 を 命 じ 、 宇 文 泰 も 諸 軍 を 沙 苑 ( 陝 西 省) に 駐 屯 さ せ て 柔 然 へ の 防 備 を 固 め た た め 、 柔 然 は 撤 退 し た 。

「高歓は、こうして西魏と柔然の間に楔を打ち込む傍ら、東魏と柔然の親善を強化した。西魏もまた、悼皇后の死後、阿那に遣使して再婚を試みたが、東魏に先を越され、再婚話は実現しなかった」(藤野月子著「唐代の和蕃公主をめぐる諸問題について」)。
 柔然は、その後、従属部族にあった突厥が隆盛し、552年、突厥の伊利可汗との戦闘に敗れて可汗の阿那瓌が自殺し、柔然は滅亡に向かった。「再三にわたる東魏、西魏と柔然による公主らの出嫁や嫁娶りは、華北と周辺諸国との複雑な情勢のなかで、婚姻関係を外交政策として重視していたことを表しているだろう」(藤野論文)。

 以上は、藤野月子著「唐代の和蕃公主をめぐる諸問題について」、菅沼愛語著「西魏――東部ユーラシア分裂時代末期の外交関係」)、「ウィキベテア」などを参考にした。

 





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日本がつくった「満州国」の断面、その6

 「満州国」崩壊と見捨てられた日本人
 1945年4月5日、ソ連は日ソ中立条約破棄を日本に通告してきた。これをうけて日本大本営は5月30日「本土防衛のために満州の4分の3を持久戦の戦場とする」ことを決定した。
 7月10日、在「満」日本人男性18歳から45歳が根こそぎ招集され、開拓団は婦女子と老人だけになった。
日本人開拓団のほとんどは満州の東北部に集中していたが、「これらの地域は、防衛作戦区域の圏外におかれ、ソ連が満州に侵攻した場合、まっさきにソ連軍に蹂躙され、犠牲にされる運命に置かれることになった」(笠原十九司著『日中戦争全史』)。
 しかし、それは軍事機密とされ、満州在住の日本人にはまったく知らされなかった。
 8月9日午前零時、ソ連軍が国境を越えて進攻し、猛攻撃がはじまった。土地や家を日本人に取り上げられた現地中国人の反撃もあった。
 「満州国」政府と関東軍は、日本人住民には何も知らせないまま、満州の南東部に向けて移動した。このため満州の4分の3は防衛線の外に置かれた。真夜中の突然の攻撃に驚いた日本人は、ただ逃げるしかなく、難民となる。
 8月10日には、日本大本営は「満州全土放棄も可」と関東軍首脳に伝えた。関東軍は指揮系統混乱のまま軍人軍属とその家族を優先して本土に輸送し、奥地の民間人を残したまま撤退した。

 残された民間人について、8月19日、大本営は「民間人の現地土着」方針を関東軍首脳に伝えた。救護の責任を放棄し、現地に置き去りにすることを意味する。8月末、東亜省の方針は「過去統治に鑑み将来へ備へ出来る限り中国大陸に残り忍苦努力すること」「国籍変更も可」という無責任な方針であった。
 駐「満州」大使は、日本人の大量死と難民化を日本政府に報せ、婦女子・病人を優先して帰還させてほしいと懇願したが、政府方針は「現地で忍苦努力を第一義に」の態度は変えなかった。
  長春につくられた日本人救済会の高碕達之助会長は「現地土着は不可能」と、惨状を伝える密書9月22日付を政府に送った。
10月10日に到着したが、政府は受け取りを拒否した。

        ソ連軍の進攻と日本避難経路、「満州国」とはなんだったのか
  地図はソ連軍の進攻と日本人の避難経路(『「満州国」とは何だったのか』から)
 <1945年夏は大雨の日が多く、逃避行に難儀し、ソ連軍の銃撃、略奪、強姦、虐殺と、飢え、傷病、集団自決などの悲劇が各地であいついだ。たとえば佐渡開拓団跡事件はソ連軍の不時着機を襲撃したため報復攻撃され、十余の開拓団が終戦を知らぬまま約1700人が戦死と集団自決で命を失った。瑞穂開拓団は婦女子495人が集団自決し、ハルピンに逃れたのは総員1056人のうち71人だけであった。麻山開拓団もソ連軍の攻撃で421人が戦死と集団自決をした。このように方々で多発した地獄のなかから奇跡的に生き残った子どもたちと女性が、現地人(漢族・朝鮮族・蒙古族・満族・ほか少数民族)に拾われ、助けられて生き残り、「残留孤児・婦人」となった(林郁著「中国『残留』日本人の軌跡」。日中共同研究『「満州国」とは何だったのか』)>。
 「関東軍と日本政府に見捨てられ、置き去りにされた膨大な日本人が犠牲にされたのである。軍隊は最後には国民を守らずに犠牲にさらす、という天皇の軍隊としての日本軍の本質が証明されたのである」(笠原十九司著『日中戦争全史』)。
 見捨てられ難民となった日本人は、極寒の各地収容所に夏のボロ着や裸に麻袋でとどめられ、収容所では凍死、餓死、虱による発疹チフス死が増えていった。ソ連兵の略奪や強姦もあり、抵抗して銃殺された人々もいた。凍土に穴を掘って同胞の死体を投げ込む、河川の氷の穴に死体を落とすといった辛い重労働もあった。ソ連兵の慰安婦にされた女性たちもいた。
 黒竜江省方正(ふぁんちょん)地区(ハルピン東方約180キロ)は奥地からハルピンに向かう道筋にあたり、ここに奥地からの日本人難民約8000人余が留まった。飢え、寒さ、伝染病などで方正在住の約4500人が息絶え、瀕死の女・子ども約4200人が現地人に引き取られ、方正は「残留」日本人集中地となった。
 「満州」での死者は対ソ連戦で約6万人、8月15日後に18万5000人、計24万5000人と日本厚生労働省は推定している。武装解除された日本人兵士はソ連の強制収容所に約60万人が連行され重労働を課され、残留中に約6万2000人が死亡した。
 この項は、日中共同研究『「満州国」とは何だったのか』の林郁著「中国『残留』日本人の軌跡」にから紹介した。
 私の世代は満州で生まれた友達もいる。満州で生まれ育ちながら、逃避行のなかで亡くなった方はどれほどいるだろうか。
 満州への侵略は、移民などで渡った日本国民にも、重大な犠牲をもたらした。けっして繰り返してはならない歴史であることを改めて感じた。
   2022年12月 終わり         沢村昭洋


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日本がつくった「満州国」の断面、その5

 東北抗日聯軍
 満州での抗日武装勢力のなかで、中国共産党が指導した組織として東北抗日聯軍があった。1932年以降、抗日紅軍遊撃隊や抗日遊撃隊がつくられていった。抗日遊撃隊は、それぞれ南満や東満、吉東やハルピン以東の広大な農村地区で活動し、日本軍に打撃をあたえた。その後、紅軍遊撃隊は東北人民革命軍に改編され、さらに1936年、抗日武装集団も吸収して東北抗日聯軍に再編成された。
        
    中華民国旗を持つ八路軍  
       写真は「中華民国旗をもつ八路軍」(ウィキベテア)
 
 <抗日聯軍は、機動的で敏捷な遊撃戦術をとり、夜襲・待ち伏せ・奇襲などで相手側を攻撃した。広大な東北人民の援護と支持を得て、抗日聯軍は「討伐」のなかでも絶えず発展を続け、日「満」の反動統治を大いに脅かした。統治者たちは抗日聯軍を「満州国」の「治安の癌」と呼んだ。1937年の盧溝橋事変の後、日本は、大挙して中国関内に進攻したが、東北からの兵力を引き抜くことができなかった。それどころか、続けて東北へ兵力を増強し、東北を中国侵略の後方基地として確保をはかった(『「満州国」とは何だったのか』、孫継英著「反満抗日運動と日本人の反戦運動」)。>
 日本軍は抗日遊撃区への討伐と抗日聯軍と民衆の連携を断つことをはかり、「1938年以降、東北抗日聯軍の闘争は極めて困難な段階に入った(同論文)」。
 1941年以降、東北抗日聯軍の一部はソ連領内に入り、そこで訓練するとともに後方基地とした。その後、立ち上げた東北抗聯教導旅団は、1945年8月、ソ連軍に随行して満州に反攻し、「八路軍新四軍」(※)と連携して迅速に満州全域を回復した。
 注・中国共産党の紅軍が国民党の国民革命軍に組み込まれ編制された軍。

 反戦詩人、槇村浩
 満州の抗日闘争といえば、日本の国内、それも郷里の高知県で、抗日運動に連帯する詩を詠んだ反戦詩人がいる。槇村浩(まきむらこう)である。詩集『生ける銃架』では、「高粱の畠を分けて銃架の影はけふも続いて行く…お前は思想を持たぬたゞ一個の生ける銃架だ…自らの解放に正しい途を撰び、生ける銃架たる事を止めるであらう」とうたう。
                      
『間島パルチザンの歌』は、「思ひ出はおれを故郷へ運ぶ…声なき無数の苦悩を載せる故国の土地!…お前の土のどん底から二千萬の民衆を揺り動かす激憤の熔岩を思へ!」と歌った。
 軍国日本のなかで、中国への侵略を批判して、満州・朝鮮民衆による抵抗闘争に思いを馳せ、共鳴する若き詩人が高知にいたことは、誇るべきことだと思う。厳しい弾圧により、拷問と投獄で身体を壊し、1938年、26歳の若さで病死した。
2018年5月、沖縄から高知に帰省した時は、槇村浩の墓と歌碑を訪ねたことを思い出す。
   IMG_5570_2022101721172767e.jpg

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日本がつくった「満州国」の断面、その4

 高まる反満抗日運動
 日本による傀儡政権の「満州国」の建国と関東軍の支配、大量の移民による土地の収奪などに、満州での抗日運動が高まっていった。
 具体的な抗日運動に触れる前に、1932年9月に起きた日本軍による重大な住民虐殺の平頂山事件について見ておく。
中国東北部の撫順市の近郊に平頂山集落がある。抗日運動が激しなる中で、日本が占領していた撫順炭鉱を警備する日本軍の撫順守備隊が、その前夜の抗日ゲリラに襲撃される事件が起きた。日本軍は、住民が抗日ゲリラと通じていたとして、平頂山集落の住民に記念写真を撮るためなどとだまして崖下に集めた。機関銃で住民をいっせいに銃撃し、赤ん坊から年寄りにいたるまで村民三千人あまりを殺害した。生存者がいれば銃剣で刺して回りとどめを刺した。しかも、事件を闇に葬るため、遺体にガソリンをまき焼き払い、がけを爆破して土砂で村ごと隠ぺいしようとした。
  平頂山事件 日中友好新聞
          平頂山事件での惨状(「日中友好新聞」から) 
1931年の満州事変以降、中国東北部の民衆や警察、駐屯していた中国東北軍の一部の将兵らは義勇軍、救国軍、自衛隊などの抗日武装組織に結集し、それらは東北抗日義勇軍と呼ばれた。参加人数は最高時で30万人前後(孫継英氏)にのぼった。
 遼寧省西部地区では、元省警務処長の黄顕声(ほわんしぇんしゃん)が呼び掛けて、一部の警察部隊を率いて日本軍を攻撃し、1931年10月から東北民衆抗日義勇軍を組織しはじめ、年末には兵員数6万人余を擁するまでになった。
 遼南地区では、東北軍将校の李純華(りーちゅんほわ)によって編成された東北抗日救国義勇軍第2軍区があり、日本軍との戦闘は数百回に及んだ。遼南の別の地区では、元鳳城(ふぉんちゃん)県警察大隊長の鄧鉄梅(ちゃんちゅめい)が組織した東北民衆抗日救国軍が活動した。
 遼東地区には、主として唐聚五(たんちーうー)の指導する遼寧民衆自衛軍があった。総勢10万余人を数えたが、1932年10月に至り、日本軍に包囲攻撃されて瓦解した。
 
 吉林省には、吉林自衛軍と吉林抗日救国軍、もう一つは中国国民救国軍であった。
 中国国民救国軍の主要な指導者は、東北軍営長の王徳林(わんとぅりん)だった。東満・吉林一帯を転戦した。民衆が続々参加し、3万5000人余に達し、吉林自衛軍と連携し日本軍に打撃を与えた。その後、苦境に陥り、王徳林らはソ連国境内に退いた。
 黒竜江省では、江橋抗戦を行った馬占山(まーちゃんしゃん)部隊と海満地区で抗日闘争を進めた東北民衆救国軍があった。二つの義勇軍は以前10か月間、共同してチチハルの包囲攻撃を行った。日本軍の攻撃で、弾薬もつき支援も絶たれて指導者と200余名がソ連境内に撤退した。
 <一時は極めて盛んだった東北抗日義勇軍も、1年余の歳月のなかで、相手は強く味方は弱く、戦力に大きな差があり、また構成が複雑で、大衆からも遊離し、そのうえ、国民党政府の不抵抗主義の影響も受け、強靭な抗日の指導中心を形成できなかった。しかし彼らは日本侵略者に深刻な打撃をあたえ、日本軍による東北占領や関内への侵攻の速度をゆるめ、民族精神を奮い立たせた。そして中国人民の抗日武装闘争の序幕を開いたのだった。(『「満州国」とは何だったのか』、孫継英著「反満抗日運動と日本人の反戦運動」)>
 1934年3月には、三江省依蘭県(いらんけん)土竜山(とぅろんしゃん)で農民暴動が起きた。
 ここは土地が肥沃で豊かなところだった。関東軍は、武装移民を移入させた。さらに可耕地の大規模に強制的に買い上げはじめた。買い上げ価格は、荒地も上等熟地も分けず、一律に超安値で無償同然の略奪だった。生命財産を守る自衛のため不可欠だった銃も没収した。このような土地の略奪や銃の没収に対して不満を募らせた農民たちは、土竜山の大地主で自衛団の団長でもあった謝文東(しぇうぇんとん)を総司令として、武装蜂起した。各地の農民が武器をもって集まった。3月9日、東北民衆軍の農民たちは太平鎮の鎮内に攻め込んで日本人移民団を包囲し、警察も武装解除させた。翌10日、関東軍第10師団63連隊長の飯塚朝吉大佐率いる日本軍と警察隊を迎撃し、飯塚大佐や鈴木少尉ら17名の日本兵を殺された。
 3月末、土竜山区から撤兵した関東軍は、政治的には威嚇と利益誘導、軍事的には大軍で包囲攻撃をするという両面作戦を採用し、民衆救国軍を孤立、分化、瓦解させていった。7月下旬には、民衆軍は800名ばかりとなり、10月初め、樺木崗(ほわむーかん)で関東軍の襲撃にあった民衆軍は大きな損害を受け、謝は10名余の部下とともに、依蘭県吉興河(ちーしんほー)の深山密林に逃げ込んだ。
 7か月に及んだ農民蜂起は失敗に終わったとはいえ、日本の満州の植民統治に大きな打撃をあたえた。


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