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レキオ島唄アッチャー

「あやぐ節」の不思議、その1

  「あやぐ節」 の不思議
 この曲は、宮古島の伝統歌謡の「あやぐ」(「美しい言葉」の意味)を題名として
いて、宮古の歌かと思うと、宮古の工工四(楽譜)には掲載されていない。主に
沖縄本島で歌われている。歌詞を見ると、一つ一つの歌詞の意味は理解できる
が、全体の構成とその意味について、いまいちよく分からないところがあった。先
日、民謡仲間のTさんと話している時、「由絃会の歌詞集の古いものと新しいも
のを比べると、4番と5番んの歌詞の順序が入れ替わっているのはなぜだろうか」
と議論になった。順序を変えた理由を推察してみると、この曲の構成と意味につ
いて理解が深まった。知っている人は知っているだろうが、知らない人は知らない
ことではないかと思い、現在の理解の到達点を記しておきたい。
 この曲がちょっとややこしいのは、歌の舞台や基本的な構成、歌詞の解釈につ
いて、研究者によって様々な解釈があることだ。たとえば、仲宗根幸市氏は<「あ
やぐ節」は宮古から旅してきた船乗りと遊女との問答歌(『琉球列島島うた紀行 
三集沖縄本島周辺離島那覇・南部』)>とのべている。つまり、歌の舞台は那覇
であり、宮古の船乗りと那覇の遊女との関係を描いた歌だと理解している。


 沖縄民謡を解説しているサイト「たるーの島唄まじめな研究」は次のように解説
している。
 <「沖縄ぬ主」つまり沖縄から来た役人または船員の男性と、宮古島の「みやら
び」(娘)たちとの熱い恋の思いを歌ったものである。>
 ここでは、歌の舞台は宮古島であり、沖縄から来た男性と宮古の女性の恋とい
う理解である。宮古島を舞台とした場合でも、男性も宮古島の船乗りや役人で、
宮古の女性と恋仲にあるという見方もあるだろう。

 私も当初、仲宗根氏の解説も読み、この曲の最初に、薩摩藩の在番奉行所を意
味する「仮屋」が出てくるし、他に那覇の地名も登場するので、沖縄本島を舞台と
する曲だと勘違いをしていた。
でもT氏との共通の理解は、歌の舞台は宮古島であり、宮古から船旅に出る男性
と女性の恋歌ということである。しかも、男性を思う女性の立場から歌われている。
 この男性が、宮古島在住者で用務があって那覇に行くのか、沖縄本島から宮古
に来た男性が那覇に帰るのかで歌詞の理解が変わってくる。歌詞と歌意の紹介は、
由絃会の教本によるが、この教本は、2番では「沖縄では短い滞在で帰って来て下
さい」と願いながら、4番では「沖縄に帰っても」とのべ、本島からやって来た男性の
ように表現している。矛盾する解釈ではなかろうか。
    
 「あやぐ節」の歌詞を改めて紹介する。
1,道の美らさや 仮屋の前 あやぐの美らさや 宮古のあやぐ (囃子は省略)
 (道が美しいのは仮屋の前 歌の美しいのは宮古のあやぐである)
 1番はあくまで宮古のあやぐの美しさを仮屋の前の道の美しさと対比して強調し
ているだけであり、あくまで主役は宮古のあやぐである。
2,手拭の長さや なぎ長さ 庭に植てるガジマル木の 葉の長さ
(沖縄での滞在は手拭の長さでは長すぎる せめて庭のガジュマル木の葉のよう
に、短い滞在で帰って来てください)
 この2番の歌詞は、文言だけ見ると意味が分かりにくい。だが、この解説のように
意訳すれば船出する男性への女性の思いが表されている。
3、うばが家と ばんたが宿と 隣やれば 今日も見り 明日も見り かなし里よ
(あなたの家と私の家が 隣同士であれば 毎日逢うことができるのに 愛しい人よ)
 3番は、男性の家と女性の家が隣同士ならよいのに、ということは、互いの家は
離れていることが前提となっている。
仲宗根説のように、宮古から那覇に来た舟乗りと遊女の仲を歌っていると見るなら、
3番の歌詞の意味が分からない。宮古島を舞台と見れば、歌詞の意味が理解しや
すい。
 次の4番と5番の歌詞が、由絃会の工工四(楽譜)の旧版と新版で入れ替わって
いる。


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シニアピアノ音楽会で「やいま」を歌う


 シニアピアノ音楽会vol13が17日夜開かれた。、丸3年を迎えた今回は、
初めて参加する方や、前に一度見に来たり、出たことがある方が多く、多
彩な顔ぶれによる充実した音楽会になった。
    13回
  私は、ツレのピアノ伴奏で「やいま」を歌三線で歌った。
 石垣島を離れて12年、故郷を偲ぶ曲である。
    やいま2 
   「いい曲だから譜面が欲しい」という方があり、工工四(楽譜)をコピーして
お渡しした。これを五線譜に直して演奏してみたいとのことだ。いつか、その
方のピアノかギターによる「やいま」を聞いてみたい。

 ツレはピアノソロで、ショパンのワルツ7番嬰ハ短調とバッハのインベンショ
ン1番ハ長調を演奏した。
    DSC_5651.jpg
  みなさん、この3カ月ごとの音楽会に向けて努力されており、それぞれに味
わいのある演奏だった。
 


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獲得形質も遺伝する?

 NHKテレビで「シリーズ人体Ⅱ遺伝子第2集 ❝DNAスイッチ❞が運命を変え
る」(2019.5.11)を見た。 日頃、遺伝子などには極めて弱いのであまり関心はな
かった。でも見ていて、ちょっとひっかかったのは「親のDNAスイッチは一代限り
引き継がれないものとされていたが、それが覆された」という内容になっていた
からだ。
 「DNAスイッチ(エピジェネティクス)」とはなにか。「命の設計図と言われる遺伝
子には、いわばスイッチがあり、オンとオフを切り替えれば、その働きをがらりと変
えられる」とのこと。「すでに、がん治療の最前線では、そのスイッチを薬でコント
ロールする治療が可能に。そして、肥満などの体質を決める遺伝子から、記憶や
音楽などの能力に関わる遺伝子まで、全てスイッチがあり、コントロールできる可
能性が浮かび上がってきました。さらに、精子をトレーニングして、生まれくる我が
子へ優れたDNAスイッチを受け継ごうという研究まで始まっています」(NHKの番
組紹介から)。
 
 北極圏のある村では、メタボで心筋梗塞になる人が多い。その祖父の代に大豊
作だった。食べすぎると子や孫が普通に食べても肥る。DNAスイッチが変化し受
け継がれた。DNAスイッチがリセットされてない。

 「親が経験によって獲得した性質や体質が次の世代に遺伝することがあると分
かった」という。
 沖縄でも、親が肥っていると、子どもも肥ると言われるそうだ。これは、親の食生
活が影響して子どもも肥るのだろうと思っていたが、それだけではないらしい。
 ノーベル賞学者の山中伸弥氏は「「生死のDNAスイッチはいったんニュートラル
になるとされてきたが、その一部は残る可能性が示唆されている」と解説していた。
ただし、山中氏は「大胆な仮説」とのべていた。
 他にも、マウス実験により恐怖の体験が遺伝することを実証されたという。
 宇宙飛行士の兄弟がいて、弟だけ宇宙に滞在して変化を見たところ、宇宙に340
日いると9000以上のDNAスイッチが変化した。宇宙での環境の変化に対応して適
応できるように変化している。「DNAスイッチは未知の環境にもすばやく適応し生き
抜くために備わった仕組みなのです」とのこと。
 山中伸弥氏のメモは「「長い時間をかけて環境に適応する『進化』 短期間の環
境の変化を乗り越える『DNAスイッチ』→その組み合わせで人類は生き延びてきた
」と解説していた。
 
 これまで、「獲得形質は遺伝しない」ということが定説とされ、私も科学に詳しい
知人からそのように聞かされてきた。ただ、獲得形質がまったく遺伝しないという
ことには少し疑問をもっていた。戦後の急速な身長の伸びや時代によって顔の形
まで変化する事実は、食生活や生活習慣の変化などだけで説明できるのか、モヤ
モヤ感が残っていた。

 改めて調べて見ると、この番組で取り上げたような「親が経験によって獲得した性
質や体質が次の世代に遺伝することがある」という研究結果が発表されている。
 京都大学の西田栄介 生命科学研究科教授、岸本沙耶 同博士課程学生、宇野雅
晴 同特定研究員らの研究グループは、親世代に低用量ストレスを与えることで獲
得されるホルミシス効果(ストレス耐性の上昇や寿命の延長)が、数世代にわたって
子孫へと受け継がれることを発見しました(2017年1月9日午後7時に英国の学術誌
「Nature Communications」にオンライン掲載)。
 以下、研究の概要である。
 <生物学では長らく、後天的に獲得した形質は遺伝しないと考えられていました。
ところが近年になって、その通説を覆すような事象がいくつか報告されるようになり
ました。例えば、高カロリー食により肥満になった父ラットから生まれた娘ラットが、
通常食で育ったにもかかわらず糖尿病の症状を示すという報告が挙げられます。
このように、親が生育した環境によって子供の表現型が変化を受ける可能性が示
唆されているものの、それがどのようなメカニズムで生じるのかについてはほとんど
明らかではありません。
            獲得形質は遺伝 
                 同研究の概要から

 そこで本研究グループは、親から子へと受け継がれる生存優位性に着目し、寿命
・老化研究に広く用いられるモデル生物である線虫C. elegansを実験対象として、獲
得形質の継承メカニズムの解明に迫りました。
 その結果、親世代において、成虫になるまでの発生過程で低容量のさまざまなスト
レスを与えて育てると種々のストレス耐性が上昇すること、さらにその耐性上昇はス
トレスを与えずに育てた子世代や孫世代にも受け継がれることを見出しました。加え
て、オス親のみにストレスを与える場合にも、その子世代の線虫でストレス耐性上昇
や寿命の延長といった効果がみられることが明らかになりました。このことは、核内
でのエピジェネティックな変化が、獲得形質の継承に関わっていることを示唆してい
ます。>
 獲得形質の遺伝は、19世紀にラマルクの進化説で主張されたが、それは否定され
てきた。今後の研究の発展が望まれる。


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今帰仁勢力に騎馬軍団の影響か、その7

 攀安知アラン騎馬兵団の後裔か
 上間篤氏の見解に戻る。さまざまな角度から検討した上で、次のように結論づ
けている。
 <これまでの考察の結果、中世今帰仁勢力ゆかりの出土史料及びその文物は、
元朝末期の江南地方で歴史の間に葬り去られたアラン騎馬兵団との繋がりを証
左・傍証する色合いに満ちていることが判明した。かかる考察結果を基に演繹す
るならば、中世今帰仁勢力を束ねた領袖琴安知は、元朝末期の混乱期に江南地
方で消息を絶った拜住(注・元軍の南宋計略の際、軍功に輝いた武将の4世代目
の領袖)指揮下のアラン兵団を出自とする落人集団の後裔にあたる人物であった
と判断される。…千代金丸の氏素性に言及すれば、それは、攀安知とその配下の
中核軍団が、常々軍神として崇め奉っていたアラン刀であったと解釈される。(「撃
安知とその家臣団の氏素性を探る」)>
 
 長い歴史の中で、中国大陸や朝鮮半島から琉球弧の島々に渡ってきた人たちが
いたことは様々な伝承、資料でもうかがえるが、西域出自の騎馬軍団が渡来した
可能性については、考えたことがなかった。
 今帰仁城跡出土の文物にこれら騎馬軍団の視点から光を当てた上間氏の考察
はとても新鮮だった。元朝治下の江南地方にアラン騎馬兵団ら駐屯し、元朝崩壊
とともに落人集団となったことも、寡聞にして知らなかった。難を逃れるために海を
渡って琉球にやってきたこともあり得ることである。
        056_2019021423040266f.jpg 
               今帰仁城跡
 ただ、西域出自の騎馬軍団にかかわりのある文物が発掘されたからといって、必
ずしもそれを持った人々が渡来してきたとは限らない。今帰仁城跡からは、13世紀
末から14世紀初頭頃の中国製の陶磁器が見つかっているように、帕尼芝、珉、攀
安知らが北山王となる「それ以前から海外との交流や権力の集中化、そして築城
が何期かに分けて行われている」(『今帰仁の歴史―なきじん研究vol.3』)とされる。
 元朝は1279年に南宋を滅ぼしたが、1368年には元朝も崩壊し、明の支配となった。
今帰仁勢力は、明以前の元朝の時代からすでに交易を行なっていたことになる。
明代になってから、帕尼芝6回、珉1回、攀安知11回の進貢が記録されており、旺
盛な交易を行なっていた。
 発掘品の中にある西域出自の騎馬軍団とのかかわりがあるかもしれない文物も、
交易を通じて輸入されただけであるかもしれない。
 
 上間氏も、「通底する要素が認められる」「近似性が指摘される」「西域趣味との
関わりを彷彿とさせる」などとして、慎重に断定的な表現は避けている。
 江南地方に駐屯していたアラン騎馬兵団の一部が、海を渡って今帰仁に来たとし
ても、それが攀安知となったとも限らない。帕尼芝が北山王となったのは1322年とさ
れるが、最初の明への進貢は1383年であり、実際はもっと後の時代ではないかとも
みられる。元の滅亡が1368年なので、アラン騎馬兵団の一部が逃れて来たとすれば、
帕尼芝の時代ということになる。帕尼芝と攀安知は、血縁関係にあるとされる。攀安
知の明への最初の進貢は、1396年である。帕尼芝、(播)、珉は琉球人で、攀安知
けがアラン騎馬兵団ゆかりの人物ということがありうるだろうか。渡来した騎馬兵団
の人たちは、北山王の配下となり、その庇護のもとにとどまっていたのかもしれない。
 その過程でさまざまな武具、生活用具、遊具など持ち込み、文化、宗教、呪術にか
かわることも伝えて、影響を及ぼしたことは十分にありうることではないかと思う。
 上間氏の提起した問題が、今後さらに研究が発展することを期待したい。 
    終り              文責・沢村昭洋      


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危険な交差点の信号改善を

 先だって夕方のテレビで、交通事故の多いワースト交差点として、よく通ってい
る交差点が取り上げられていた。事故の多い原因を指摘していたが、大事な点が
抜けているのではないかと感じていた。
 この交差点とは、国道329号線バイパスの仲井真方面から上間方面に行ったとこ
ろにある津嘉山バイパス入口の三叉路である。その右折の際に対向車との衝突事
故が多いという。ここは、右折信号がなくて、時差式信号である。時差式では、右折
の「⇒」が示されない。右折信号があれば、かなれ事故は減るはずである。そのよう
に思って「琉球新報」に投稿した。
 2019年5月13日付で掲載されたのでアップしておきたい。
   
交差点信号
   これを投降した直後に、滋賀県で対向車を確認もせず右折して乗用車が衝突事
故を起こし衝突された車が保育園児、保育士の集団に突っ込み2人死亡、多数の
負傷者を出す重大な事故が起きた。T字交差点の右折での事故は意外に多い。滋
賀の場合は、信号に関係なく、対向車の確認もしないで右折するという初歩的で重
大な危険運転の結果であるが、同じT字交差点の衝突事故の防止という意味では、
タイムリーな投稿となったかもしれない。


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アルテで「十七八節」を歌う

 
 毎月恒例のアルテ・ミュージック・ファクトリーが11日夜開かれた。今回のテ
ーマは「好」。このテーマだとたくさん選択できる曲がある。今回は飛び入りも
あり、20組近くが演奏した。
 越智さんはトランペットで、ツレのピアノとコラボして「ラブユー東京~雪国」
を演奏した。
   
DSC_5626.jpg 
 三線仲間のTさんは、「ナークニ」を演奏した。味わいのある歌だった。
 私は歌三線で「十七八節」を演奏した。この歌は、男女掛け合いで歌う。
 17、8歳頃は夕暮を待つ、夜が暮れれば自由に遊べると歌い出す。二人は待ち
合わせの約束をしている。彼女も遊び好き、彼も遊び好き、夢の浮世を語りあって
遊ぼうと歌う。
   
ファクトリー「178節」
 ちょっとドキッとするのは、彼女が心変わりして私をすそにすれば刀歯にかけて恨
みをはらすと歌うところ。女性は、彼の刀の鞘は二つはないでしょう、夫を二人持つ
ことはないよ、とかわし、今日は別れてまた明日遊ぼうと歌う。
 琉球では士族も刀は差さなかったので、なぜ「刀歯にかけて」と歌うのか、少し疑
問がわく。でもここは史実は度外視して、「心変わりしないでほしい」という心情を表
現した例え話と理解しておきたい。

 ツレはピアノ弾き語りで「ノクターン~カンパニュラの恋」を歌った。
 ピアノソロでは、ショパン「ロマンス」とバッハの「インベンション1番ハ長調」を
演奏した。「ロマンス」はとても表情豊かな演奏だったのではないか。
    
DSC_5637.jpg 
   来月のテーマは「冷」。暑くなってくるかららしい。民謡では、沖縄は雪は降らない
のに、「庭には雪が降っている」という歌詞の曲がある。これから考えることにしよう。
 


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今帰仁勢力に騎馬軍団の影響か、その6

 攀安知は渡来系武人の風貌?
 ここで改めて攀安知(はんあんち)について触れておく。
攀安知は、「資性はなはだ剛毅にして、武勇は絶倫であった。常に中山国を討っ
て天下をにぎろうとの野望をいだいていたが、武力をたのんで善政をしかなかっ
たため、一族の名護、羽地、国頭など、近隣の諸按司からきらわれ(た)」(『今帰
仁村史』)という。
 羽地按司が、山北王(攀安知)は兵馬をととのえて中山を討伐しようとしている
と告げた。尚巴志は浦添、越来、読谷山、名護、羽地、国頭の各按司に命じて大
兵を率いて攻撃させ、山北は大敗した(『蔡鐸本中山世譜』から)。
 

 攀安知には「渡来系武人」の風貌を連想させるものがあるという。
 <『中山世譜』が伝える琴安知像にも、日本古来の武士像とは一線を画す、渡来
系武人の風貌を連想させるものがあって面白い。この史書には、撃安知が武芸絶
倫の人であったと記されている。またこの人物の最後の振る舞いに言及した段に
おいては、彼が千代金丸を振りかざして霊石に十字を切刻したことや、自刎(注・
じふん)して果てたことなどが記されている。因みに自刎とは、鋭利な刃物で自ら
の頚動脈を切断して命を絶つことをいい、切腹とは一線を画す自殺行為を指す。
(「撃安知とその家臣団の氏素性を探る」)>
 攀安知の最後を「切腹」とした解説もあるが、『中山世譜』は「刀をぬいて盤石
を切り、自刎して」と明確に記している。
 確かに、霊石に十字を刻んだり、首を切り自害する行為は、日本や琉球の武
士らしくない。 
          060_20190214230404d8a.jpg 
                     今帰仁城跡の城壁
 攀安知の名前の由来は
 攀安知の名前も少し風変りである。「攀」の文字を音写表記すると、<トルコ・
モンゴル語起源の王を意味する「ハン」に通底する要素が認められる>。その下
の「安知」の呼名の響きは、<弓の達人を意味するモンゴル語起源の「アンチ」に
比定されておかしくない特徴が感知される>。上間篤氏はこのように解釈してい
る(『中世の今帰仁とその勢力の風貌』)。


 歴史家の伊敷賢氏は、<攀安知は「ハンアンチ」と読んでいるが、本来は「播
王の王子」のことなので、「播按司」(ハンアンジ)と書いた方が良いと思う>との
べている。播王とは、怕尼芝の世子で伊江王子播(ハン)のこと。怕尼芝の在位
年数が69年とあまりにも長すぎるので、初代と二代珉王との間に一代あり、帕
尼芝亡き後、播が王を継ぎ数年して高齢のため王位を譲り珉(ビン)王が継いだ
と見ている。珉王は病気のため急死した。そのとき、伊江播王の妾・伊江播加奈
志の王子攀安知が珉王の王子を退け、王位を奪ったという(伊敷賢著『琉球王
国の真実―琉球三山時代の謎を解く』)。


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今帰仁勢力に騎馬軍団の影響か、その5

 「馬に乗る得体の知れない武士」
 西域出自の騎馬軍団の運命に関わり、上間篤氏は興味深い伝承を紹介して
いる。
 15世紀中葉の明代の『歸田詩話』と題された詩選集には次のような記述があ
るという。
 <「至正年間の末期に杭州の東端に位置する沿海地域を占拠した方国珍の勢
力が色目人いわゆる外国人をことのほか忌み嫌い、それに恐れをなしたイスラム
教徒の丁鶴年なる人物が素性を隠して逃亡を重ね、ついには梟のごとく闇に乗じ
て東海の彼方へと行方をくらました」、とする内容を伝えている。問題の沿海地域
から東の海原の彼方といえば、いわずもがなそこには奄美や沖縄の島々が南北
列をなして点在している。(上間篤著『中世の今帰仁とその勢力の風貌』)>

 中国の沿海部から海を渡れば、琉球弧の島々に至るので、追いつめられたイス
ラム系の人々が沖縄に来たことは十分に考えられる。
 
 宮古島に伝わる伝承にも蕃坊社会(注・外国商人の居留地)との関わりを想起さ
せるものがあるという。宮古古謡に機織りの伝来を伝える一句が存在する。
 <「福州が住みづらい場所となり 機織りの道具と布を携えて この地に辿り着
いた」
 福州といえば、宋・元代の彼の地には回商集団が拠点とした蕃坊が存在したこと
で知られ、さらにそこには居住区内での生活物資や必需品の生産を担う色目工房
(外国人の職工が生産を担った工房)といったものが存在した。(『中世の今帰仁
その勢力の風貌』)>
         シイナグスク一の郭城壁 
                シイナグスク一の郭城壁(「今帰仁村文化財調査報告書第27集
               シイナグスク2」から)
 今帰仁にも、とても興味深い伝承が語り継がれているという。
 <むかしシイナ城(注)には絶世の美女がいたそうであるが、西がわ山の山頂
に若い武士があらわれ、夜ともなればいつも恋の歌をうたっていたそうで、彼の
女はこれに対して返し歌をうたい、いつしか二人は相愛の仲となって、逢う瀬を楽
しんでいたという。ところが、伊豆味のアブ岳に住み、馬に乗って出没する得体の
知れない武士があらわれてからは、その美女と西側の若い武士の姿は見えなく
なったそうだ(新城徳祐、『沖縄の城跡』、緑の生活社、1982年)。
 伝承に登場する「馬に乗って出没する得体の知れない武士」といったものの存
在には、元朝末期に寄る辺を失って方々に散って行った色日系騎馬軍団を出自
とする落人集団との関わりを想起させる趣が漂う(「攀安知とその家臣団の氏素
性を探る」)。>
 注・シナイグスクは、今帰仁村呉我山にある。「北山城(今帰仁城)のできる前
に、ここに城を築いて住んでいた按司がいた。しかし、水の便が悪かったので、
しばらくしてから北山城に移った(新城1975※)」という伝説がある。(「今帰仁村
文化財調査報告書第17集 シイナグスク」から、※新城徳祐1975年「史跡名勝
及び口碑伝承」『今帰仁村史』)
       
 同じ琉球の北部地域に住み暮らす武士であれば、「得体の知れない」とは言
わないだろう。この島の中では見かけない風体、風貌の武士だったのだろう。
しかも「馬に乗って出没」というのだから、騎馬軍団とかかわりの臭いがしない
でもない。
 シイナグスクは、住んでいた按司が水の便が悪かったので北山城(今帰仁城)
に移ったという伝承があるので、絶世の美女がいたというのは、移る前の古い
時代の話となるのではないか。もし、この武士が海を渡って来た騎馬軍団の落
人だったとして、時代的には符合するのだろうか。
 いずれにしても「得体の知れない武士」の伝承は、それ以上に具体的な事実
があるわけではない。あくまでも想像の域を出ない。
 それに、騎馬軍団の落人が今帰仁に来たのなら、「為朝の琉球渡来伝説」の
ようなもう少しそれらしき伝承があってもよいのではないだろうか。そんな気も
する。

  馬といえば、今帰仁城跡から出土する食料残滓として、獣魚骨が検出されて
いるが、「ウマが大量に消費された点は注目される」という指摘がある(『今帰仁
城跡発掘調査報告Ⅰ―志慶真門郭―』)。琉球から明への進貢には馬や硫黄
が使われたが、今帰仁城跡から馬の骨がたくさん出ているということは、この時
代に北山で馬が大量に飼われていて、進貢だけでなく、さまざまな用途に使わ
れ、食されてもいたようだ。



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今帰仁勢力に騎馬軍団の影響か、その4

 千代金丸と称される刀剣
 もっとも注目されるのは、千代金丸と称される刀剣である。伝来する系譜、来
歴は不詳である。
 <尚家伝来の刀剣。琉球の歴史書『球陽』によれば1416年に中山王との戦い
に負けた山北王がこの刀で自害したとされる。
 刀身は平造りで無銘。刃文などから日本製と思われる。鞘は金板で覆われ、
琉球で製作されたと思われる柄頭は、菊文と「大世」の2文字が彫られている。
手打ちの柄など、日本刀の形式とは異なる独特な造りである。(「那覇市歴史博
物館デジタルミュージアム」HPから)>

 この解説では、「刃文などから日本製と思われる」としながらも、「片手打ちの柄
など、日本刀の形式とは異なる独特な造り」と特殊な造りであることを認めている。
千代金丸 
            写真は「那覇市歴史博物館デジタルミュージアム」HPから

 上間篤氏は「日本刀とは無縁の存在」と断定し、要旨次のようにのべている。
 千代金丸(全長92・1㎝)は反りの浅い彎刀で、茎(注・なかご、刀の柄の部分)の
作りは11㎝ほどと極端に短い。柄は成人男性の握り手を少々上回る程度。千代金
丸はサーベル仕立ての特徴を呈し、日本刀とは無縁の存在である。
 元朝末期の中華本土にはアラン人の血統の人々が3万人余りに達していたとさ
れる。元朝が瓦解し、後ろ盾を失った彼らが虐殺を伴う災難に直面し、壊滅的打
撃を被った。からくも生き延びる術を手に入れた落人たちがいたことも否定されない。
沿海方面に駐屯した色目衛兵らの周辺には杭州、福州、泉州などに拠点を構える
蒲一族も、南人系人民の攻撃の槍玉に挙げられた。
 色目馬族部隊、なかんずくアラン近衛部隊の足取りや結末といった観点から、千
代金丸の来歴の問題に探りを入れる手掛かりになる。 
 千代金丸は①そのサーベルに比定されておかしくない刀身の容姿、②西域趣味
を彷彿とさせる意匠をちりばめた刀装具及び柄頭③片手使用を想定した柄の拵え
④ノブ型の形状を見せる柄頭⑤鍍金を施した金属製の鞘を併せ持つといった取り
合わせなどから判断して、元朝治下の色目工房の刀鍛冶によって作刀された儀仗
剣の一振りであると推定される。
中世今帰仁勢力の素性を推し量る有力な目安にもなる。(上間篤著『中世の今帰
仁とその勢力の風貌』)。

 上間氏は「元朝治下の色目工房の刀鍛冶によって作刀された儀仗剣の一振りで
ある」と推定している。
 千代金丸の写真を眺めて、上間氏の考察を読むと、「日本刀とは無縁の存在」とい
うのもうなずける。
 上間氏は、「13世紀の後半期以降およそ80年に渡り、元朝軍の守備隊として長江
のデルタ地帯及びその南方に連なる江南地方に駐屯した西域出自の騎馬部族も、
やがては四散消滅の運命を辿ることになる。」と述べるとともに、難を逃れて海を渡っ
た可能性を示唆している。
 果たして、アラン人など西域出自の騎馬軍団のなかから沖縄に逃れてきた人たち
がいたのだろうか。

 
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「漂巽紀畧」の注釈を試みる 竹内氏が講演

 沖縄ジョン万次郎会定期総会が27日、豊見城市社会福祉協議会ホールで開か
れ、総会後「『漂巽紀畧』の注釈を試みるーー幕末の琉球と万次郎」と題して、美
ら島沖縄大使の竹内おさむ(經)氏が講演した。

 竹内氏は、琉球に上陸した万次郎が土佐に帰還した際、10年に渡る異国体験
を土佐藩絵師の河田小龍に語り、それをまとめたのが『漂巽紀畧』(ひょうそんき
りゃく)。その現代語訳版の刊行への注釈を軸に話した。
   
ジョン万次郎講演会2019.4.27

 万次郎が14歳で「読み・書き・算盤」も習えぬまま漂流し、英語は達者だが日本
語はカタコトで、話す異文化情報を理解し書き止める上で小龍が苦労した跡がう
かがえる。聞き違いや誤解を含め多少のミスが生じたことは否めない。

万次郎ら3人が琉球に上陸したボート「アドベンチャラ号」を「万次郎と伝蔵が舵
を取り五右衛門は櫂を漕いで」と記述されているが、舵取り
2人は不要で櫂を漕ぐ
のに
2人必要なので、万次郎らは舵ではなく櫂を漕いだと推測される。上陸した万
次郎ら「異国人」見たさに住民が集まった様子が目に見えるように綴られている、
一旦は那覇に向かい出発したが、疲労が募り、日が暮れて真夜中の頃、那覇まで
4丁のところに着いた地点は、小禄(垣花)だろう。急ぎの使者が来て「オナガ村」
(現豊見城市字翁長)まで引き返えさせたのは、護国寺に宣教師ベッテルハイムが
居住しており那覇に入れるべきではない背景があった、那覇湊の近くに琉球を支
配する薩摩藩の屋敷「在番奉行所」があったことなど指摘した。
       
竹内おさむ

 在番の隣には「昆布座」があった。昆布が採れない沖縄の昆布消費量が全国上
位を占める背景に、薩摩支配下の琉球と清国との交易関係がからみ、蝦夷地(北
海道)で採れる昆布が薩摩・琉球へと運ばれる密売ルートがあった。漢方薬の原
料「唐粗材薬」を必要とする富山の売薬人側と大量の昆布が魅力の薩摩藩との利
害が一致した。北前船に積まれた昆布を日本海沿岸のどこかの湊で積み替え、
薩摩に直行。長崎以外で輸入は禁制の唐薬種を売薬人が密かに購入するという
取引方法が行われていたのではないか。琉球に運ばれた昆布は那覇湊にあった
「昆布座」に納め、中国へ輸出された。薩摩は進貢貿易を利用し莫大な蓄財をなし,
「『昆布』は、討幕へと富国強兵を勧める牽引力ともなっていった」(竹内著「幕末の
琉球を探るーー琉球へ運ばれた昆布の道」)。

 竹内氏の万次郎への愛情あふれる講演だった。

なお、『漂巽紀畧 全現代語訳』は201812月、講談社学術文庫として発行(定
800円)された。


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