レキオ島唄アッチャー

記録的猛暑、ぜんざいが美味い

 この夏は異常な猛暑だ。沖縄の夏は、日差しは暑いが気温は32度が通常。それが今年は35度がもう14回に達する。記録的だ。36度の過去最高を記録した所もある。台風は来ないというか、高気圧が強く張りだしていて、近寄らない。雨はほとんど降らないので、サトウキビなど悲鳴を上げている。


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   そんな暑い時にピッタリなのが氷ぜんざいだ。南城市佐敷の手登根に美味しい店があるというので出かけた。ツレが聞いた情報だ。331号線沿いの手登根のバス停そばにその店はありわかりやすい。
 「いいやんべぇ」という。「いいあんべえ」というのがフツーだと思うけれど、面白い名前だ。 


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 店内に入ると、中央に大きな丸テーブルがあり、知らない人でもグルリと囲んで座って食べられる。
 張り出されたメニューを見ると、文字通り氷ぜんざいとかき氷だけ。冬でもこのメニューなんだろう。ぜんざい一筋の店。


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 ツレは「こくとうみつぜんざい」、私はスタンダードな「ぜんざい」にした。容器の底に金時豆のぜんざいと白玉が入り、氷が山盛りされ、その上にさらにぜんざいが載るという豪華な感じ。


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   食べてみると、氷はフワフワ、ぜんざいも甘さがちょうどよい味。一瞬暑さを忘れさせてくれた。

 19日も那覇は35度あった。8月の後半に入ると、暑さも峠を超すのが通常だ。でも今年はまったく気温が下がらない。もういいかげんに、涼しくしてほしい。雨乞いもしなくてはいけないくらいだ。

 そんなこの時期は、夏祭りのシーズン。土、日はあちらこちらで祭りや夕涼み会がある。
 夏祭りには出かけていないが、夜9時前に、ベランダに出ると、豊見城方面で打ち上げ花火が上がった。もうフィナーレらしく、夜空に華やかな大輪の花を咲かせていた。


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宮古島への鉄と鍛冶の伝来、その4。争乱の世へ

 「争乱の世」へ

14世紀には遺跡が増加した。この時代、土地を巡る争いが激しくなっていく。

13世紀の遺跡(集落)は少なく、保良元島、大牧、カームイ嶺、野城、高腰城、パナタガー嶺、住屋の7件の遺跡が知られているにすぎない。14世紀に入ると遺跡は増加する。「昔は西の百郡(むむふん)、東の百郡といわれるぐらい村々は多かった」(「宮古島記事仕次」)という。…

 この時代は「争乱の世」といわれる。争乱の目的は「田畑を奪い取る」ことにあったようだ。いわゆる土地領有権の争いであり、宮古も農耕社会に依拠していたであろうことがうかがい知れる。一方では各集落(遺跡)に陶磁器が出土することから、中国との交易活動も展開していたらしく、それは集落が連合しての行動と考えられる。14世紀は集落が増加したと考えられる時代で、宮古全体で50件余の遺跡が確認されている。人口規模にすれば2000人から3000人余と考えられる。(『みやこの歴史』)>

   14世紀の遺跡分布                    宮古島の14世紀の遺跡分布(『宮古の自然と文化第3集』から

 宮古島の村々には主長が生れ、さまざまな興亡があった。

<「宮古島記事仕次」によれば、西銘村に炭焼太良(すんやきだる)という人がいた。後に西銘の主長となる嘉播(かば)の親で、西銘城を拠点とする(注・長女の子が宮古島を統一した目黒盛豊見親とされる)。

保里(ふさてぃ)村には保里天太(てぃだ)と称される主長が保里城を拠点にしていた。石原(いさら)村の主長は思千代(うむちよ)按司といって石原城を拠点にしていた。根間(にーま)村の主長は根間の大按司という人。浦島(うらすま)の主長は浦天太という。

 村々では、家督相続争いがあったり、領地の拡大をめぐり、主長の間で、殺し合いや謀殺など、血なまぐさい争乱が起きた。(同書)>

 

 与那覇原軍を破った目黒盛豊見親

 「争乱の世」に突如として現れたのが、佐多大人(さーたうぷひと)を首長とする与那覇原(よなはばら)の軍団である。与那覇原は「平良より東」にある連合集落で、兵十行(つら、一行とは百人をいう)を擁していたという。多かった村々の過半は与那覇原に滅ぼされた。

 与那覇原軍は鍛冶場をもって武器を作っていたという。

<与那覇原軍は、仲曽根東方の盛加井泉(ムイカガー)がある与那覇原村を本拠地にしていたので、その名が付いたという。盛加井泉の近くにある寺フグ御嶽は、彼らの住居跡だともいわれ、御嶽には「大和神」を祀っていたという。また鍛冶場を持っており、「鍛冶神」も祀っていた。鉄塊から刀などの武器を作り、各村を襲い住民を皆殺しにして進撃を続け、北進して大浦多志(ウプラタシ)城を滅ぼした。(伊敷賢著『琉球王国の真実』)>
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                与那覇勢頭豊見親の中山朝貢の際の逗留跡

 与那覇原軍を打ち破ったのが、目黒盛豊見親(めぐろもりとぅゆみゃ)である。これにより島内の兵乱を鎮め統一の業を成し、島内統治の実績をあげ島民から慕われたという。

目黒盛は武道の達人だった。伝承によれば、さまざまな争いの場面でも「目黒盛はただ一人宝剣を懐に帯びて赴き、按司の接待に応じた」とか「雑兵の射かける矢を目黒盛は剣を以て打ち払った」とされる。武器として剣が盛んに使われたことがうかがえる。

目黒盛が与那覇原軍を打ち破った年代について慶世村恒任は、1365年頃とし、稲村賢敷は「洪武年間の初頃(1370年代)にあたり、与那覇勢頭豊見親の中山朝貢(1390年)より20年程前のことである」とする(『みやこの歴史』から)。

 

この年代は、鉄と鍛冶の伝来の時期を考える上で重要な意味をもつ。

下池和宏氏は、大和や久米島から鉄がもたらされたと伝えられる説話にふれて、14世紀頃に鉄が宮古島に流入していたと見る。

<14世紀頃の住屋遺跡から刀子、高腰城遺跡から鉄鏃、箕島遺跡や砂川元島から鉄鍋などが出土している。これらの事例は、少なくとも14世紀頃には鉄製品が宮古に流入していたことを証している。13世紀の遺跡から鉄製品は出土していない。説話にいう農具を作ったとあるのは解せないが、渡来した人々の時代は、14世紀頃であろうと考えられる。すなわち、説話には14世紀頃の世界が色濃く反映されていると見ることができる。…島々に渡来した人々は、先住の人々と融合して定着し、農耕など宮古の基盤づくりに励んだであろう。(『宮古の自然と文化 第3集―躍動する宮古の島々』の「『宮古人』を考える」)>

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             与那覇勢頭豊見親の中山朝貢の際の逗留跡
    
 宮古人は早くから海外交易に乗り出していたと見る下池馨氏は、次のようにのべている。

14世紀初頭、あるいはそれ以前から宮古にも高度の文化は勿論、青磁、鉄器、南蛮がめ等は移入あるいは輸入されていたとみるべきである。(『宮古の民俗文化』)>

 

ここからは、宮古への鉄と鍛冶伝来の年代について、若干の私見をのべたい。

まず、鉄滓や鉄製品の破片などが出土している遺跡の年代が「1516世紀頃」だけだとすれば、鍛冶の伝来は13世紀中頃という稲村説は早すぎるだけでなく、「14世紀中葉」という谷川説も早すぎることにならないだろうか。

 また、宮古島の実際の歴史の上では、14世紀にすでに鉄製の武器や農具が広範に使われたと見られる。下池和宏氏は、14世紀頃の遺跡から鉄片などが出土しており、「少なくとも14世紀頃には鉄製品が宮古に流入していた」とする。


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アルテで「命口説」を歌う

 毎月恒例のアルテ・ミュージック・ファクトリーがあった。今月のテーマは「渚」。エントリーは多くなかったが、テーマに沿って、それぞれ歌と演奏がされ、コンパクトで充実した音楽会だった。
 chica&takaは「★のラブレター」を歌った。誰の歌だろうか?
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 カーペンターズは「恋の島鳩間島」他を演奏した。
 島尻さんは知念さんのピアノ伴奏で「千の風になって」を歌った。
 絹枝さんは、ウクレレ弾き語りで「さとうきび畑」を歌った。8月はこの曲を歌うことに決めているそうだ。
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 私は、沖縄戦をテーマにした「命口説(ぬちくどぅち)」を歌った。なんと来月のテーマが「命」になっている。ひと月早く先取りしてしまった。ただ、前に情け歌を歌った時、「あなたの声は口説があっていますよ」とアドバイスをいただいたのでそれに応えるためにあえて歌ってみた。
 YouTubeに動画がアップされているので紹介する。

              

 この曲の歌意は次のとおり。
 
1、 過ぐる戦争を思い出すと 身の毛もよだつ恐ろしさだ

  この世の地獄であったのだ

 2、 日の丸を掲げ、竹槍に命を預けた国の為に

エイヤエイヤと勤めはげんだ

 3、天皇に忠孝尽くし信じていた、島人みんなの命と体をかけて

守り守ったことだった

 4、艦砲射撃が雨あられと降り注ぎ、惜しくもわが生まれ島はさんざんに

火の海、火の山となってしまった

 5、命をただ一つ引っさげて、沖縄の島尻(南部)から中頭(中部)、国頭(北部)と

  逃げて逃げ回ったことは忘られない

 6、海山川の形まで、変わり果ててしまったわが沖縄

  どうしてくれたのだろうか、神さま、仏さまは

 7、あのガマこのガマと隠れて、命がようやく助かりもうけたことだ

  でも親兄弟、子や孫まで、散りじりになってしまった

 8、いかに物を言わない草木だって、命あるため焼かれれば

  ああ、あわれ、あわれと泣かないことがあろうか

 9、戦争を起こしたのは何のためなのか、戦争を始めたのは誰だったのか

  神の仕業か人のなせることか(注・神には現人神といわれた天皇を含むのかも)

 10、戦世をしのぎ、みるく世(平和で豊かな世)を迎えると思えば

  あれこれと国がゆさゆさ揺れる、危ういことが果てしない

 11、幾年月日がたとうとも、沖縄の人はこぞって、あの戦争のことを

  子や孫に語りつぎ、いつまでも忘れるなよ 命口説

注・おおざっぱな意訳です。

 
 ツレはピアノソロで「渚のアデリーヌ」」を演奏した。好評だった。
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 アルテギターサークルは、越智さんが不在だったが、応援もあり、3人で「月影の渚」など演奏した。
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   ツレがもう一度ピアノソロで、ショパンの「ポロネーズト短調遺作」を演奏した。
 和田さんは、ギターを独奏した。曲目の紹介はなし。
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 伊波さんはギター弾き語りで、松山千春の「季節の中で」を歌った。
 仲村さんは、ギター弾き語りで斉藤和義の「歩いて帰ろう」を歌った。
 由美子さんは、オカリナで「想い出の渚」を演奏。糸数さんがギター伴奏をした。
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  東明さんは、ギターで「サンタルチア」など演奏した。
 糸数さんは、ギター弾き語りで「帰れソレントへ」を歌った。
 taka&yogがエレキで即興のコラボ演奏をした。
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 清美さんは、「ひばりの佐渡情話」を宇都宮さんのピアノとのコラボで歌った。
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 なぞかけ名人を名乗る方がはじめて出て、みなさんからお題をもらってなぞかけをして笑わせた。
  演奏曲目の紹介だけで終わってしまった。 
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宮古島への鉄と鍛冶の伝来、その3。グスク時代

 

 12世紀、グスク時代に入った宮古島

遺跡からの鉄滓、鉄片の出土などの調査結果では、稲村氏のいう13世紀中頃は早すぎるようである。鉄と鍛冶の伝来を考えるためには、考古学的な見地と同時に、鉄製の農具や武器の使用がもたらす社会の変化、発展についての歴史的な分析も欠かせない。

 ここからは、宮古島の歴史について『みやこの歴史』からスケッチ的に見ておきたい。

 宮古島は、八重山と同じように紀元前、有土器文化のあと無土器文化の時代が続いた。

<「南琉球先史時代の宮古」

(宮古島の東海岸の)浦底およびアラフなどの海浜で人々が生活を始めるようになる。土器を知らない人々の登場である。…アラフや浦底にやってきた人々は700800年ばかり居住したのち、1800年前頃(起元後200年)には浦底を離れてしまう。…宮古島を離れたアラフや浦底の人々に何が起きたのか。およそ800年間に及ぶ彼らの活動は途絶えた。宮古島に再び活気がもどったのはグスク時代である。>

 800年くらいの間、歴史の空白の時期を経て、宮古に人々が住み着き、遺跡が形成される。「先史時代の人々とは全く違う集団とも考えられる」(『宮古の自然と文化第3集』、下池和宏著「『宮古人』を考える」)。

                   12~13世紀の遺跡分布 
                
 
                        12~13世紀の遺跡分布(『宮古の自然と文化第3集』から)

宮古・八重山から出土する滑石製石鍋(長崎の西彼杵半島などで製作された)は、すくなくとも12世紀代には大和商人によって運ばれてきたと考えられている。(『みやこの歴史』)>

 

琉球史においてグスク時代とは、どのような時代なのか。

 <漁労を主体とした採取経済から、農耕を主体とした生産経済へ移行した時代を、グスク時代(12世紀~15世紀)という。…農耕社会は定住を前提とし、食料の備蓄を可能とするため、しだいに人々の生活は安定し、豊かな文化をもたらすようになった。…13世紀になると富と権力を手にした有力な按司が、砦としてのグスクを築き、武力を背景にそれぞれの地域を支配するようになった。(新城俊昭著『琉球・沖縄史』)>


 宮古など先島のグスク時代について次のようにのべている。

<先島でも14世紀はじめには農耕社会がいとなまれるようになり、各地に村落が形成された。宮古では、この村落を治めていた首長を天太(テンタ)とよび、村内でもっとも人徳のあるものが選ばれた。

 しかし、14世紀後半になると、武力によって村々を支配しようとする按司が各地にあらわれ、島全体が争乱状態におちいった。いわゆる群雄割拠の時代である。これをおさめ、宮古の統一をなしとげたのが目黒盛豊見親であった。(新城俊昭著『琉球・沖縄史』)。

 

 集落と人口が急増

 
宮古島では、グスク時代には、集落と人口が急増したという。

   『みやこの歴史」から  
    (『みやこの歴史』から)

12世紀から13世紀のグスク時代初期の遺跡は、現在78か所が確認されている。…14世紀になると遺跡の数が急増する。…遺跡は13世紀に比べて、その数が4倍以上も増加している。このことは、人口の増加があったことを示す。増加要因は自然増だけでは考えにくく、この時期には人々が島外から宮古に入り居住していたことが考えられる。宮古がいかに躍動的な時代であったかがうかがえる『みやこの歴史』。>

下池和宏氏も「この時期は13世紀に比べれば、遺跡の数が極端に増えている(図2)。13世紀の遺跡が発展・拡大したというだけでは説明がつかない程である。島外から宮古に渡来し、集落を形成した人々も少なくなかったと見るべきであろう」とのべている(「『宮古人』を考える」)。

宮古で、島外からの渡来を含めて、人口と集落の急増があったことは、農耕の発展をともなったのだろう。それは、14世紀には土地を巡る争いが激しくなることにもあらわれている。

 

遺跡と居住域

グスク時代は、石灰岩の丘陵台地に立地する遺跡と海岸沿いの低地に立地する遺跡が共存している、という。

                    14世紀の遺跡分布 
                           宮古島の14世紀の遺跡分布 『宮古の自然と文化第3集』から

<丘陵台地の遺跡には箕島、友利、上比屋山、ビンフ嶺、オイオキ原などがある。グスク時代初期の遺跡も丘陵台地に立地しており、一般的な居住域だと考えられる。このような環境にある遺跡のほとんどは16世紀をまたずに消滅している。あるいは放棄したことも考えられる。

一方、海岸沿いに立地する遺跡は、近世まで継続する集落跡で元島と呼ばれる。丘陵台地の人々と住み分けをしたことも考えられるが、まだよくわかっていない。『みやこの歴史』>

  


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宮古島への鉄と鍛冶の伝来、その2。炭焼長者の伝承

 宮古にもある炭焼長者の伝承
 鍛冶と鉄の伝来を伝える炭焼長者の話が日本の各地にあるが、宮古島にも「炭焼ダル(炭焼長者)伝承」がある。『みやこの歴史』から紹介する。 
 <鍛冶と鉄の伝来を伝える炭焼長者譚が、西銘(にすみ)の嘉播親(かばぬうや)の話として宮古島にも伝えられている。「宮古島記事仕次」は、この伝承を次のように記述している。
 炭焼太良(だる)は独りで身寄りもなく、山端の草庵に一人住んで常に炭を売って命をつないでいたから、其の名を得た、という。炭焼ダルは穀霊(萬穀の精)の導きによって野崎長井の里の真氏(もうす)を娶り、次第に富貴栄輝し、後には西銘のぬしとなり嘉播の親と称された(嘉播親の長女思目我=うむいみが=は、根間大按司(にーまうぷず)という人の次男根間の角かわら天太の大氏の夫人となり、島内を統一した目黒盛豊見親を生んだ)と。
 
 炭焼長者伝説は、鍛冶と鉄にかかわる集団によって日本各地に伝えられた、といわれ、この炭焼太良の伝承もそのひとつとされている。…
 柳田國男は…炭焼ダルが嘉播仁屋(かばにや)になったことについて、「荒れたる草の庵の炭焼太良が、忽ちにして威望隆々たる嘉播仁屋となったのを、ユリと称する穀霊の助けなりとする迄には、其背後に潜んで居た踏鞴(たたら)の魅力が、殊に偉大であったことを認めねばならぬ」といい、「島の文化史の時代区劃(くかく)としては、鋤鍬の輸入は或は唐芋より重大であった…」と、鉄渡来の重要性を強調している。>

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                                                             池間大橋
 農業の一大革新をもたらした鉄と鍛冶
鉄と鍛冶は、日本や沖縄本島から宮古に伝えられたようだ。その結果は、鉄製農具による農業の一大革新をもたらしたという。鍛冶を伝えた人は鍛冶神、農業神として祀られている。
 <鍛冶を伝えた渡来人が、宮古各地で御嶽の神として祭られていることについて、稲村賢敷(いなむらけんぷ)は、「これらの諸神はいずれも神名を金殿と称し鍛冶神であって、農具を製作して島民に与えたので島民はその徳を讃え、農業神として御嶽を建ててこれを祭ったと伝えられ、島立の神、すなわち祖神とは別個であることが明らかにされている」といって、「日本及び沖縄からの渡来人によって鍛冶の技術が伝わり、鉄製農具および漁具が製作されて一般に普及するようになったので、宮古の生産業、殊に農業に一大革新をもたらしたことを物語るものである」といっている(『みやこの歴史』)。>
 
 稲村氏は、鉄器と鍛冶の伝来について、東シナ海を荒していた倭寇の影響があるのではないか、とも指摘している。
 <私は平良市北部の遺跡調査をした結果、そこに残されている遺物に依って、この地方に居住した人々が当時東支那海の海寇として知られた倭寇の人々であることを明らかにすると共に、彼等はその青磁、南蛮焼等の所謂唐渡り物を日本々土に運んで行って売却し、更にそれに依って鉄又は鉄器類を手に入れて彼等の根拠地に持ち帰るようになり、そのために南島には鍛冶が伝来し農具が普及し農耕地は増加して部落が発達することになったということを平良北部の遺跡調査に依って知ることが出来たのであります。この事は又単に此の地方だけに限らず、南島一般について同様なことが考えられると思ってをります。稲村賢敷編『宮古島旧記並史歌集解』>


  鉄伝来の年代は

 鍛冶と鉄の伝来年代はいつだろうか。

 <稲村賢敷は、宮古における鍛冶の伝来、すなわち鉄製農具の使用について、13世紀中頃以後のことと云って、「かくして農地はにわかに増加し、戸口もこれに伴って増加した。かの『宮古島旧記』にある『当時は東の百郡、西の百郡とて住民所狭きまでに多く』というのは、こうした鉄製農具使用に伴う社会的変化を伝えたもの」であると述べている。

 谷川健一は、宮古への鍛冶の伝来は「14世紀頃」のことで、13世紀半ば頃とする稲村説は「歴史的根拠が薄弱である」といい、「鍛冶の技法と鉄器は日本から南島にもたらされたものであり、それは14世紀の中葉を皮切りに活躍を開始した倭寇が一役買っていたにちがいない」と述べて倭寇とのかかわりを指摘している。『みやこの歴史』>


 鉄伝来は14世紀中葉なのか

『みやこの歴史』は、遺跡出土の鍛冶関連遺物について、発掘調査の報告から、次のように指摘している(要約)。

 砂川元島は、1415世紀にかけて形成された遺跡で、円形の路床跡が発掘され、鉄滓(てっし)や鉄製品の破片も出土しているが、製錬炉ではなく精錬鍛冶を主体としたもので、鍛冶遺跡の年代はさほど古くなく、近世のものではないかと考えられる。

宮国元島は1516世紀頃を中心として形成された集落遺跡。小鍛冶に伴う炉跡と思われる遺構が2基検出され、鍛冶炉として理解される。平良の中心地、住屋遺跡は1318世紀の集落遺跡で、鉄滓、鉄器などの鍛冶関連遺物も出土しているが、1516世紀を中心とする集落跡から出土したもの。精錬鍛冶のみで、鉄生産の精錬滓は存在しなかった。

 <これら一連の遺跡の形成された年代や鉄滓、炉床跡、鉄製品等の出土状況などを考えあわせれば、鍛冶の伝来年代を13世紀中頃とする稲村の説は、やはり「歴史的根拠が薄弱」のように思われる。倭寇の活躍とからめて14世紀中葉頃とする谷川の説がより有力となるように思われる。>



 

 


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吉村昭の書いた沖縄の戦争

 吉村昭著『昭和の戦争5 沖縄そして北海道で』(新潮社)を読んだ。吉村氏の小説は、徹底した取材によって事実を細部にこだわって積み上げ、真実に迫るその手法と硬質の文体が割合好きで、『戦艦武蔵』『破獄』などいくつか読んでいた。
 沖縄戦についても『殉国 陸軍二等兵比嘉真一』があることは知っていたが、何となしにまだ気が向かないで手にしていなかった。
 先日、図書館で『昭和の戦争』シリーズで沖縄と北海道についての著作をまとめた本があったので借りて読んでみた。
 吉村氏は、まだ復帰前の昭和42年(1967)、沖縄戦に参加した中学生を主人公にした小説を書くために、沖縄に来た。1カ月半滞在して、90名近い人達に会い、証言を得た。テープを回し、メモをとりながら「何度嗚咽をこらえたか知れない」と記している。

 「殉国」は、14歳で陸軍二等兵となった国吉真一さんをモデルにしている。第5砲兵司令部に配属されてから、級友や将兵が戦死する中で、奇蹟的に生き続け、米軍捕虜となるまで、地獄のような戦場が克明に描かれる。小説というよりも、迫真のルポルタージュを読むようだ。
 「他人の城」は、対馬丸事件をテーマにしている。この悲劇を題材にした小説としてはもっとも早い時期の著作ではないだろうか。

 「剃刀」は、軍司令部にいた一人の理髪師の眼を通して戦争を描いている。「殉国」の中で、首里の司令部壕の外に4人の女性が荒縄で縛られ泥の中を転がっている場面がある。17,8歳の娘が斬り込み隊に志願してきたが、女性を斬り込ませるわけにいかないので説得したが暴れるので縛ったという。これまで沖縄戦について書かれた著作でも聞いたことがなかったので、この部分は真実だろうか、それとも作家の創作か、と詮索した。でも、これは、理髪師が目撃した事実であることが、この作品でわかった。
 「太陽を見たい」は、伊江島に米軍が上陸した際、女子斬込隊として5名が夜間突撃に参加して死亡したが、ほかにも斬込隊に参加して生き残った方がいて、その大城シゲさんを通して描いた短編である。
 「敵前逃亡」は、砲弾落下で意識を失い捕虜となった中学生の鉄血勤王隊員、秀一が主人公。渡嘉敷島に立てこもる日本軍の投降勧告の役を引き受けることを装って、脱走して日本軍に加わり、米軍と戦うつもりで日本軍陣地に入るが、敵前逃亡の罪で処刑される。他の作品は生存者の証言がもとになっているが、これだけは主人公は死ぬ。
 吉村氏は、記録文学ともいえる作品の中で、声高に自分の主張を叫ぶことは避けている。しかし、どの作品をとっても、そこには、戦争の残酷さ、日本軍の残忍さ、中学生や女性まで戦闘に巻き込んで行った悲劇が描かれ、圧倒される。
 吉村氏は、2006年、79歳で亡くなられた。
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宮古島への鉄と鍛冶の伝来、その1。鍛冶神をたたえる神歌

宮古島への鉄と鍛冶の伝来

 

宮古島や八重山への鉄と鍛冶の伝来はいつ頃だろうか。そんな興味を持っていたところで『みやこの歴史―宮古島市史第1巻通史編』が目に留まった。宮古島への鉄と鍛冶の伝来について、まとまった記述がされていた。そこからポイントを紹介する。

鍛冶神をたたえる神歌

 宮古には、鉄の伝来と農耕をめぐり「鍛冶神をたたえる神歌」がある。

                      
 <宮古の古集落の一つである狩俣に、鍛冶の伝来を歌った神歌(かみうた)「頂(つづ)の磯金(いしがに)のタービ」が伝承されている。これは、およそ次のような内容である。

 頂の磯金は、根の島、元の島の子孫が皆、大箆(うぷぴら)、鉄箆(かにぴら)がなくて、素手になっているので、大大和(うぷやまとぅ)に上がり、大大和の人から、青鉄・黒鉄を分けてもらい、船腹に満ちるまで積み上げて持ち帰り、自分の土地の真中で、大鍛冶屋、真鍛冶屋を根立て、根の島、元の島の男たちをはじめ、宮古中の男たちすべてに伝え広げた。頂の磯金よ、なんと誇らしい、今日の直る日よ。>

 これは、鉄製の農具がないため、日本に渡って鉄を分けてもらい、鍛冶を伝えたという伝承が歌われている。八重山にも、鉄がないため鹿児島に渡って求めたという石垣島大浜の崎原御嶽の伝承がある。でも、宮古島や石垣島から沖縄本島や奄美を通り越して、九州・日本まで出かけて持ち帰ったという伝説は、私はとても信じがたい。ただ、大事なことは、鉄と鍛冶が日本から伝わったことがうたわれていることだろう。
            
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              狩俣にある「四島の主の墓」
 

 これとは逆に、日本や沖縄本島などから鍛冶が伝わったという伝承がいくつかある。こちらの方に合理性がありそうだ。

 <多良間島で伝承されている「鍛冶神(かずがん)のニーリ」は、旧暦11月の「鍛冶崇び」(フイゴ祭り)に歌われた神歌で、大和で生まれた「鍛冶神がなす」が、大和から沖縄本島へ渡り、宮古島、多良間島と南下しながら鍛冶の技術を伝え広げていったことを、…歌っている(『みやこの歴史』、神歌は省略)。>

 

宮古には、鉄と鍛冶を伝えた人を鍛冶神として祀る御嶽がある。

平良字西仲宗根にある船立御嶽(ふなだてぃうたき)の祭神は、「かねとの・しらこにやすつかさ」の兄弟神(鍛冶神)で、次のような由来を伝えている。以下、要約する。

昔、久米島按司の娘と兄が舟で流され宮古に漂着し、船立に住居した。その後結婚した娘の子が成人して久米島の祖父を訪ね、黒鉄と巻物をもらい宮古に帰り、鍛冶をおこし、農具を作って人々に与えた。それまで牛馬の骨で田畠を耕し、年々飢餓にあっていたが、鉄製農具を使用し五穀豊穣となり、人々は兄妹の骨を納め神として崇めた。

 <城辺・友利の嶺間(みねま)御嶽の祭神は、「あまれふら・泊主」の男女神で、男神は平安名崎(へんなざき)の宮渡(みゃーど)浜に漂着した大和人と伝えている。「民間口碑によると『大和神かんか主』と唱え祭っている。かんか主とは鍛冶の神のことで、彼の大和人は鍛冶の技術に長じ、鍬や、鎌等の農具を作って農民に分け与えたから一般からその徳を慕われて鍛冶神として祭られた」といわれている。>

 
          
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                 東平安名崎
<これらの神歌や御嶽伝承は、いずれも鍛冶と鉄の伝来が、日本本土、あるいは沖縄本島(久米島)からもたらされたことを伝えている。>

<渡来した人々は宮古の地に定着して子孫を残し、当時の社会に一定の貢献をしている。特に鍛冶の伝来は渡来人と深く関係している。(『みやこの歴史』)>

 

なぜ久米島から伝わったのだろうか。下池馨氏は次のような見解をのべている。

<久米島、慶良間、伊江島等が正式に、琉球に入貢したのは察度以前(英祖王代の西紀1264年)であるから早くから、なべかま、陶器、青磁類も得られていただろうし、鉄材も入手して農器具の製造法も久米島には早くより伝えられていたと考えられるから、「久米島から2人の兄妹が漂流して来て、農器具の製造法を宮古に伝えたという伝説」(船立御嶽由来)も単なる伝説だけではなく事実を裏書きしているとみてよい(『宮古の民俗文化』)。>

 

伊良部島にある長山御嶽には、次のような伝承がある。城間武松著『鉄と琉球』から紹介する。

<男神かね殿と唱え祭る、この人鉄を持渡ったために金殿と唱えたとの事である。

 昔当島には鉄がなく耕作のことも牛馬の骨を細工してやっていましたが、大和人が渡来して鉄を持渡り、長山という所に住居して農具を持ち出し村人たちにも分け与えたので耕作は思うように行き五穀も満作して人民も豊かに生活するようになったので、作物の初を供えて大和人の跡を祭るようになり御嶽ができたと言い伝えている。この項『擁正旧記』から>

これによると、昔、島に鉄がなく牛馬の骨を細工して農具としていた。大和人が鉄を持ち渡ってきて居住し、鉄製農具を村人に分け与えたので五穀豊穣となった、とやはり日本から鉄が伝わったことを示している。


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一夜限りのサガリバナ

   夏の夜に咲くサガリバナが今年も咲いた。首里の鳥堀に大きな花の木があり、6月末に行った時はまだ咲いていなかった。
 7月中旬になり、もう一度行ってみた。
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 少し盛りを過ぎたかもしれないが、大きな花木から無数のつるが下がり、鮮やかな花を咲かせている。蕾もたくさんついている。

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 あたりは、花の甘い香りが漂っている。暗くなると咲き、朝陽が昇ると散ってしまう。

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 一夜限りの不思議な花である。夏の夜はサガリバナを見ないと寂しい。毎年見ても、やっぱり特別な美しさのある花である。
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団地の夏祭り

 近くの団地で夏恒例の祭りがあった。今年は、会場が変わり、コンパクトになった。「地域で笑顔いっぱい」が祭りのテーマである。

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  舞台で芸能が始まった。民謡三線クラブは子どもたちを中心に、民謡5曲を演奏した。オカリナ、太鼓も加わって楽しい演奏だった。
 子どもたちのエイサーや空手、フラダンス、女性たちによるビールの早飲み競争など続いた。
 
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 祭りといえば、生ビール。家からツレが料理を準備して持っていった。
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    ビール、泡盛も格安で飲めるのが嬉しい。祭には、団地住民だけでなく、近くの人たちも来る。隣のテーブルには、知り合いの方も家族連れで来ていた。

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 舞台では、最後の民謡ショーが始まった。
 まだ少し時間があるので、飛び入りで歌う方を募集するというので、二人で舞台に出てみた。
 男女デュエットで歌う「二見情話」を選曲した。
 
    
 この曲は、沖縄戦のあと名護市の収容所に入れられていた方が、戦争の哀れと忘れられない二見の美しい景色と人情を歌った名曲である。
 三線、ギターの生伴奏で気持ちよく歌うことができた。


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アルテで「月ぬ美しゃ節」を歌う


 毎月恒例のアルテミュージックファクトリーが8日夜、開かれた。今月のテーマは「虹」。エントリーは多くはなかったが、楽しいファクトリーだった。
          越智、虹 
   トップバッターは、トランペットの越智さん。ツレのピアノ伴奏で「ラブユー東京」など演奏した。
 知念さんは、ピアノ独奏で「川の流れのように」を演奏した。
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  カーペンターズは「島々美しゃ」を演奏。徳門さんは、ウクレレ弾き語りで「この広い野原いっぱい」を歌った。
  宇都宮さんはピアノ独奏したが、曲名は不明。得意の即興演奏かもしれない。演奏スタイルが独特だ。

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 カオルさんは、ギター弾き語りで「虹とスニーカーの頃」。chicaバンドは「綾香・にじいろ」を歌い、タカさんもギター弾き語りで「スコール」を歌った。

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  私は「命口説」をエントリーしていたが、聴いていただきたい方がお休みしていたので急きょ、八重山の「月ぬ美しゃ節」に変更して歌った。虹は太陽のもとだけでなく、満月のもとでも出ることがある。「月虹」(げっこう)と呼ばれる。南米のイグアスの滝では、満月のときは滝のしぶきで虹がかかるそうだ。

           アルテ虹、(2017-07-08) (2) 
   新良幸人に「月虹」というアルバムがあり、この「月ぬ美しゃ」も入っているので歌ってみた。聴かせる歌にならない。

 第2部は、アルテギターサークルが「虹の彼方に」など演奏した。
 ツレはカオルさんのギター伴奏で、森山良子の「あれ、あれ、あれ」を歌った。とても面白い歌詞だが歌うのは難しい曲。ギターとは事前の打ち合わせだけで、実際にギターとのコラボはこの日がぶっつけ本番。パフォーマンスも入った楽しい歌は、大受けだった。
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  由美子さんはオカリナで「虹と雪のバラード」を越智さんのギター伴奏で演奏した。宮国さんはギター弾き語りで「夏祭り」など歌った。
   ブルースの得意なotisさんは、初めて歌三線で「朝はどこから~十九の春」を演奏した。ギターの上手い人は三線もさすがである。
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     伊波さんはギター弾き語りで「しらゆり姫」 を歌った。仲村さんがギターを叩いてパーカッションとしてサポートした。仲村さんはギター弾き語りで「エロチカセブン」を歌った。

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   リエさんは、宇都宮さんのピアノ伴奏で「part of your world」など歌った。清美さんは、宇都宮さんのピアノ伴奏で「恋人よ我に帰れ」を歌った。

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   8月のテーマは「渚」。これは民謡でもいろいろな曲がありそうだ。

 

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