レキオ島唄アッチャー

上陸記念碑に見る万次郎の足跡、その2

  万次郎、アメリカ本土に上陸、日本人留学生第1号の誕生

 

1843年、万次郎が救出されてから2年後、船はアメリカ最大の捕鯨基地、マサチューセッツ州ニューベットフォードに帰港しました。万次郎は、日本人として初めてアメリカ本土に上陸しました。

 
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 万次郎の訪れたアメリカは、西部開拓の時代でした。ホイットフィールド船長は、ジョン・マンを我が子のように愛し、ふるさとのフェアヘーブンに連れ帰り、英語、数学、測量、航海術などの教育を受けさせました。ここに、日本人留学生第1号が誕生しました。


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 学校を卒業した万次郎は、捕鯨船フランクリン号に乗って7つの海を航海し、副船長にまでなりました。航海を経てニューベッドフォードに帰港した万次郎は、カリフォルニアで起こったゴールドラッシュのことを知りました。

1850年、万次郎は、日本へ帰国するための資金を得ようとサクラメントの金山に向かい、600ドルを稼ぐと、仲間のいるハワイへと向かいました。

 

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 日本帰国へ第一歩、いざ琉球・小渡浜に上陸

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ハワイに到着した万次郎は、伝蔵、五右衛門らに帰国の決意を伝えました。また、「琉球の地に小舟にて渡れば便利なり」と考え、捕鯨ボートを購入し、アドベンチャラー号と名付けました。そして、上海へ向かう商船サラボイド号へ乗船しました。

 
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18501217日、サラボイド号は上海へ向けてハワイを出港しました。翌年185122日、北風が吹きみぞれが降る悪天候の中、万次郎たちは、糸満市喜屋武岬の沖合でアドベンチャラー号を降ろし、陸地を目指しました。深夜、海岸に着くと干潮だったため浜には行けず、仕方なく岩礁にいかりを下し、朝まで一眠りしました。朝になると、近くにいた釣り人の指示に従い、万次郎、伝蔵、五右衛門の3名は、小渡浜(古港口:フルンナトゥグチ)に上陸することができました。



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上陸記念碑に見る万次郎の足跡、その1

ジョン万次郎が琉球にその第一歩を記した場所、糸満市大渡海岸に万次郎上陸之碑が建立された。記念碑は、六角形の台座の上に万次郎の銅像が立っている。台座は六角の各面には、万次郎の足跡を描いた絵図入り説明板が取り付けられている。説明板は、万次郎の足跡、功績が簡潔に記されており、万次郎に関心のある方々に是非、見ていただきたい。県内に数ある記念碑の中でも、銅像と台座の絵図の美しさ、内容の充実ぶりは、第一級の碑であると思う。機会があれば、大渡海岸を訪れてこの記念碑を直接見ていただきたい。

 

記念碑の紹介の前に、万次郎の上陸に至る経過を簡略に示した説明板があるので、まずはこちらから紹介する。

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万次郎アドベンチャラー号で琉球・小渡浜に上陸

 万次郎はハワイに到着後、帰国に際しサクラメントで得た資金で捕鯨ボートを購入し、アドベンチャラー号(adventurer)と名付けました。アドベンチャラー号は、長さ約8メートル、幅約1・8メートルで、帆1本、オール2本が備えられていました。

 また、万次郎の帰国に協力したハワイのデーモン牧師は、自らが発行する新聞・フレンド紙において、「彼が故国への帰還に無事成功すれば、日本と外国との国交樹立に大いに貢献するであろう。日本人と英国人、そしてアメリカ人との間の意思疎通をもたらす優秀な通訳になることは間違いない。ジョン・マンのアドベンチャラー号の成功を祈る。」と記されています。



  ここから後は、台座の各面を順序に沿って紹介する。 
  万次郎、足摺岬沖で嵐に遭い漂流、太平洋の孤島で捕鯨船に救助される

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   万次郎は、中ノ浜(高知県土佐清水市)で生まれました。
1841年、漁師になった14歳の万次郎は、宇佐浦からはえ縄漁に出ました。この舟には、船頭の筆之丞(後に伝蔵と改名)、重助、五右衛門の3兄弟と、寅右衛門、そして万次郎の5人が乗り込みました。ところが、漁に出て3日後に足摺岬沖で嵐に遭い、漂流しました。その後、太平洋の孤島・鳥島に漂着しました。そこで過酷な無人島生活を送り、143日後、アメリカの捕鯨船ジョン・ハラウンド号によって救助されました。

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 ジョン・ハラウンド号のウイリアム・
H・ホイットフィールド船長は、5人を安全なハワイへと連れて行きました。旺盛な好奇心と前向きな行動力で船長に認められた万次郎は、4人の仲間をハワイに残し、1人アメリカへ渡る決心をしました。また、そのころに「ジョン・マン」という愛称が付けられたといわれています。

 



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ジョン万次郎上陸記念碑が披露される

 糸満市大渡海岸にジョン万次郎上陸之地の記念碑(銅像)が建立され、2月18日、お披露目式が盛大に行われた。

 漁船で漂流しアメリカの捕鯨船で救助された万次郎が、10年ぶりの帰国のため、上陸の地に選んだのが琉球の摩文仁間切(いまの町村)の大渡海岸。1851年2月2日(旧暦1月3日)に上陸した。18日は、上陸した日と同じ旧暦正月3日にあたる。

 万次郎が上陸した日は小雨まじりの寒い日だったが、この日は青空が広がり暑いくらいだった。

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   万次郎が上陸した小渡浜の上に当る展望の良い場所に記念碑は建立された。
 式典に先立ち、小渡浜では、万次郎が上陸した際、飲んだであろうコーヒーが振る舞われ、思わず167年前の万次郎の姿を思い浮かべた。

 披露目式には、高知をはじめ県外からも多数来沖され、200人を超える人たちが参加した。

  大渡海岸は、沖縄戦の激戦地、摩文仁の丘の西側にあたるので、最初に1分間の黙とうをささげて式典が始まった。
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 ジョン万次郎上陸之地記念碑建立期成会会長でもある上原昭糸満市長が、住民が期成会をつくり、沖縄ジョン万次郎会とも協力して記念碑ができたことに感謝し、銅像をこれから南部観光の拠点の一つとしたいと述べた。

                    
   来賓の万次郎直系子孫5代目の中濱京さんが、日本最初のアメリカ文化、デモクラシーはボートに乗ってこの摩文仁にやってきた、万次郎と先祖も天国から喜んで見ているだろうと挨拶した。
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 万次郎の出身地、高知県土佐清水市の磯脇堂三副市長は、万次郎が土佐の維新の志士に影響をあたえた、小渡浜から日本の近代化が始まったとその意義を述べた。

 関係者によって記念碑の除幕が行われた。
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 銅像は、右手で指をさし、左手には2冊の本を抱えた万次郎が、郷里の土佐の方向に向かって立っている。六角形の台座には万次郎の足跡が美しいカラーの絵図とともにで紹介されている。青空の下、見事な記念碑・銅像が姿を現すとひときわ大きな拍手がわきあがった。
             
 
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 アトラクションで、地元の米須小学校6年生が勇壮なエイサーの演舞を行い盛り上げた。

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 建立期成会では、高知県出身で糸満市在住の和田達雄さんが、期成会の結成の立ち上げからかかわり、銅像や台座の絵図も提案して採用されるなど情熱を注いでこられた。万次郎と同郷の者として、尽力された和田さんと糸満市民に深く感謝したい。

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   次回から、銅像の台座を詳しく紹介したい。


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ピアノとのコラボで「童神」を歌う

  アルテ・シニア世代のピアノ音楽会vol.8が16日夜開かれた。
 この日は夜は雨模様になり、少し参加者は少なかったが、みなさん楽しんでピアノをひかれていた。
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  ツレは、ピアノソロで「ベネチアのゴンドラ」を演奏した。とて も聞きごたえのある演奏だったのではないか。

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   私は歌三線で「童神」をツレのピアノ伴奏で歌った。このピアノ音楽会では久しぶりの演奏だった。前日から急に練習した割にはあまりミスなくて歌えたようだ。
                       童神 (2018-02-17 21-50) (3)  
   ツレは、ピアノ弾き語りで「愛の讃歌」(美川憲一版)を歌った。声がよく出ていて好評だった。
 この音楽会も8回目となり、すっかり定着した。みなさんこの音楽会で日頃の練習の成果を披露できることにとても喜びを感じているようだ。
 

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「かにくばた」の異名同曲、歌詞は別の曲と類似する「亀久畑節」

 宮古の「東川根盛加後」に似ている

 
ところが、ここで注目されるのは、与那国の「亀久畑節」は、奇妙なことにその歌詞が宮古島のもう一つ別の民謡と似ていることである。
 仲宗根幸市氏によれば、娘が男性に「家まで送ってください」と誘い、男性が「もう自分はここで帰る」といいつつ、女性の情熱と才知でついに、女性の家まで送らされ、寝床まで誘われるとういうこの歌の後半は「宮古民謡の『東川根盛加後(あがずかーにむずかぐす)』と一部内容が似ている(『琉球列島島うた紀行 <第二集>八重山諸島 宮古諸島』)」という。

「東川根盛加後(あがずかーにむずかぐす)」の歌詞も是非知りたいところだ。幸い、仲曽根氏の著書に歌詞と解説が掲載されている。

「71番まで歌詞のある長編のクイチャーあーぐ。東川根盛加後のクイチャーをみに行った女性が、途中で美男子の若按司に会い、あれこれ理由をつけて「私を家まで送れこむって」とアタック。そして、家の門まで、家の仲間で誘い込む内容。」

「この長編のクイチャーあやぐの後編は、与那国の「かみんぐ畑ドゥンタ」と酷似している。…宮古のクイチャーあやぐが祭りをみに行く途中出会った男を誘う内容なのに対し、与那国のドゥンタは、田草とりの帰路意中の男性を誘い込むのである」
 なるほど、男性に送らせて家に誘い込む物語の構図はソックリである。


 宮古の「東川根盛加後」は歌詞が71番まである長編の曲とすれば、歌詞が4分の1ほどしかない短い与那国の曲が元歌として影響をあたえたとはとても思えない。逆に宮古の長編の面白い恋愛物語が、与那国に伝えられ、一部が「亀久畑節」の歌詞に取り入れられたと見るのが自然ではないだろうか。

「亀久畑節」の旋律は「東川根盛加後」とは似ていない。ということは、旋律はもともと与那国で歌われていたものに、宮古の「東川根盛加後」の歌詞が面白いので、そのエキスを取り入れたということだろうか。もし、宮古の「かにくばた」が元歌で与那国にそれが伝わったのなら、旋律も歌詞もそのまま歌えばよい。旋律はそのままで、歌詞だけ別の「東川根盛加後」を取り入れるということは通常、考えにくい。このことを見ても、宮古の「かにくばた」が元歌で与那国に伝わり「亀久畑節」になったとは考えづらい。

    東崎(与那国町HP)  
          東崎(与那国町HPから)                               
 
 かつては宮古の管轄だった与那国島

 さて、与那国島と宮古島は、遠く離れているのに、石垣島などを介さずに直接に影響を及ぼすような関係にあったのだろうか。実は離れていても、古くから密接な関係があった。

かつて、与那国島は宮古島の管轄で、多良間島は八重山の管轄だった。宮古島は琉球国が形成される14世紀ごろには、既に主として東南アジア方面との貿易を運営し、与那国島を貿易の中継地としていた。

1500年に、首里王府に反乱を起こした石垣島のオヤケアカハチを、宮古の仲宗根豊見親の先導する王府軍が征討した後、1501-1503年頃に地理的に不合理として両島の管轄を交換したという。

1522年には、与那国島の首長だった鬼虎が首里王府に従わず、王府の命で宮古の仲宗根豊見親(空広)軍により討伐されたが、鬼虎は、もともと宮古島の出身ともいわれる。興味のある方は、このブログで「与那国島はかつて宮古島に属していた」をアップしているので、そちらも読んでいただきたい。


 このように深い関係にあり、人の交流があったのだから、文化の面でも民謡が島から島へ伝わり、影響を与えたことは容易に想像できる。文化的には先進地だった宮古島から与那国島に伝わったのか、逆に宮古人が与那国の歌を持ち帰り、取り入れたのか。むしろ相互に影響し合ったのかもしれない。

これまでの検討を踏まえて、与那国の「亀久畑」と宮古の「かにくばた」とは、前奏、囃子までソックリではないが、何等かの影響下で歌われるようになった相関関係のある曲ではないか、というのが私なり結論である。

もしそうなれば、すでに異名同曲とされる宮古の「かにくばた」と本島の「高離節」「にんぐるまーと」に加えて、与那国の「亀久畑」までなんらかの糸でつながることになる。


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那覇市内でもカンヒザクラ見頃

 那覇市内でもカンヒザクラが見頃を迎えている。与儀公園に出かけた。
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    与儀公園は、市内のど真ん中にあり、そばには県立図書館、知事公舎もある。
 公園内を流れる川の両側が桜並木になっている。
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 ここの桜は比較的大きな樹が揃っているので、見ごたえがある。
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  沖縄は毎日、寒い日が続くが、この寒さももうすぐ峠を越すのではないか。

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 ピンクの鮮やかな桜を見ているとそんな気がする。


 

 

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アルテで「夫婦船」を歌う

 毎月恒例のアルテ・ミュージック・ファクトリーが10日夜開かれた。今月のテーマは「愛」。音楽では「愛」を歌う曲はとても多いので、みなさんテーマにそった曲目を演奏された。

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 今回も、自分達にかかわることだけを書いておきたい。
 越智さんがトランペットで「愛燦燦」を演奏し、ツレがピアノで伴奏した。
 私は沖縄民謡「夫婦船(ミートブニ)」を演奏した。夫婦の愛情を歌っているのでテーマに合っているだろう。
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 「世間は果てしない船路のようなもの、夫婦以外に頼るものはない」「夫は帆柱 妻は船体 どんな困難があってもいっしょだよ」というような意味の歌詞である。歌はなんとか歌えたが三線はなぜか何回か音が抜けた。

 ツレは、ピアノ弾き語りで「かりゆし58」のヒット曲「アンマー」をうたい、ピアノ独奏でメンデルスゾーン無言歌「ベネチアのゴンドラ」を演奏した。
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  みなさんから「よい演奏だった」と好評だった。日頃の練習が実を結んだのだろう。
 3月のテーマは「金」(きん、ゴールド)。すぐに曲目は決まった。少し早いテンポの曲なので、音が抜けないように練習あるのみだ。
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「かにくばた」の異名同曲がいくつもある。与那国の「亀久畑節」

 与那国の「亀久畑節」

 次に八重山古典民謡の「亀久畑節(かみくばたぶし)」を取り上げたい。これは、RBCの「民謡で今日拝なびら」では取り上げていない。しかし、前から「八重山古典民謡工工四」を見ていて、宮古民謡の「かにくばた」と同じ曲名なので、これは偶然の一致とは思えない。どちらかが影響を与えて生まれた曲ではないのかと気になっていた。

 今回、「かにくばた」の類似曲として3曲が比較されていたが、もう一歩踏み込んで、八重山民謡のこの曲を紹介しておきたい。

「与那国島を発祥の地とする歌であるが、石垣風の歌い方では歌詞も旋律も例によって相当に変わっている」。當山善堂著『精選八重山古典民謡集』(三)はこのようにのべている。當山氏はこの曲の特徴について「八重山音階の変型」としている。
                     

 

この曲の歌詞を當山氏は12番まで、喜舎場永珣著『八重山古謡』(下)は16番まで紹介している。歌詞は、両者によって順番と内容が多少異同がある。歌詞の全部は長いので抜粋する。當山本を基本にし、喜舎場本から多少補った。

1、亀久畑 ういみぐち 登りょうり

 (カミングバタ、ウイミグチに登って)

  注・喜舎場本の歌意―亀久畑に田草取りに行って 南方の小高い所に 登って見たら

4、女童(みやらび)ば 愛しゃーすば 巻き来(きょー)り

 (女の子を、好きな娘を連れてきて)

5、片手しや 田草取り 此ぬ手しや 首抱き

 (片方の手では田草を取り もう一方の手では可愛い娘の首を抱き)

8、夜やなり 日や暮りてぃ あばとぁぬ

(夜になり日が暮れてしまった なんと心細く怖いことよ)

9、くいてぃ迄 かたんぐや迄 我(ぱぬ)送り

 (クイティまで、カタングヤまで 私を送ってちょうだい)

10、貴女(んだ)ま行(ひ)り ばぬま行るん 女童

 (貴女はもう帰りなさい、私ももう帰るから娘さん)

最後は喜舎場本から。

16、ンドゥティマディン ニザシキマディン バヌウグリ

 (戸口までも 寝座敷までお出でよと手を取って離さない 二人寝床で恋の夢を結んだ)

 當山氏の解説を紹介する。

<若夏のある日、恋し合っている島仲村の男性と比川村の女性が二人で仲良く田んぼの草取りをしている場面から物語は始まる。「片手では田草を取り、もう一方の手では彼女の首を抱いて」のくだりは、恋する男女の健康的な姿が目に浮かび、微笑ましくもあれば気恥ずかしくもあり、田草取りはちゃんと出来たのであろうかと気になる描写ではある。

 それはさておき、いつの間にか日が暮れあたりは薄暗くなってきた。そこで、娘は「アバツァヌ!(わたし怖いわ、どうしましょう?!)」と男にすり寄って、自分を家の近くまで送ってくれるよう頼む。女は次から次へと送り先を延ばし、ついに自分の寝所まで男を誘い込むという筋書きである。>

 <カミクバタ=田んぼの地名で、「亀久畑」の字を当てる。地元本(福里武市・宮良保全・冨里康子共著『声楽譜附 与那国民謡工工四』)では「カミングバタ」。元来は畑地であった所の一部を田んぼにしたのだが、この歌では古い呼び名を用いているようである。>

 

 喜舎場氏は、曲名を「カミングバタドゥンタ」(与那国)としている。「ドゥンタ」とは「ユンタ」のことである。

 <亀久田は島仲部落の南方にある田圃である。恋女は比川部落の者で、そこは田圃からは東3キロぐらいのところにある。男は島仲の者で、二人は遠路を通って恋愛をしていた。田圃は祖納部落から約35キロほどにあった名高い沃田であった。最初は畑であったが、のちに田圃に開田したと古老は伝えているという(『八重山古謡』(下))。>

 喜舎場氏は、「昭和16年(1941)に亀久田の観光を試みたが、その周辺の景色は何となく詩情をそそる風光明媚な所であった」(同書)という。

                       ティンダバナ(与那国町HP)

                              ティンダバナ(与那国町HPから)
この曲は、入口は亀久畑という田畠の草取りの情景から始まるが、若い男女の恋模様が物語のように歌われている。

喜舎場氏は次のように解説している。

<当時の風習として二人切りの田草取りはいたって稀れであったところから考えても、水も漏らさぬ二人仲であったように考えられる。なお原歌の中にも「片手で恋女の首を抱き片手で田草を取った」と謠ったところから察しても、そんな田草取りはほんの稀れである。この古謠は性の自由解放を赤裸々に歌ってある恋愛詩である(『八重山古謡』(下))>。

田畑での恋愛模様をおおらかに歌う曲想は、八重山古典民謡のとっても面白いところである。

 

与那国のこの曲は、歌の旋律、流れは宮古民謡の「かにくばた」にかなれ似ている。しかし、大きな違いは、宮古の曲の際立った特徴がみられないことである。その一つは、うたもち(前奏)がまったく異なり似ていないこと。もう一つは、囃子が与那国の曲は「サースリ」という単純にすぎず、宮古の曲のような「ニングルマトゥマトゥヨー」という面白い囃子とはまるで異なることである。

加えて、宮古の曲はとてもテンポが軽快であるが、与那国の曲はもっとゆったりしている。この曲はもともと、三線なしで歌われていて、のちに三線で歌うようになったのだろう。だから前奏はあとから付けられたのかもしれない。

 といっても、与那国と宮古の両曲は、曲名は同じであり、歌の旋律も似ている。しかも注目すべきは「田畑で女性を抱く」という興味深い情景の歌詞が両曲とも入っていることである。これは偶然の一致とは思えない。与那国と宮古のどちらが先かはわからないが、何らかの影響を及ぼして生まれた曲ではないだろうか。

 
 宮古の「かにくばた」が与那国に伝わったとしたら、前奏から始まる軽快なテンポ、面白い囃子も取り入れるだろう。わざわざテンポを遅らせ、前奏を変え、囃子を切り捨てるだろうか。疑問がわく。沖縄民謡の伝わり方を見ると、八重山民謡には、早弾きの宮古のクイチャーや奄美諸島の六調はそのまま伝わっている。八重山民謡の「鳩間節」「川平節」などは本島で早弾き曲にされている。そんな事例を見ると、与那国島の「亀久畑節」の方が古くからあり、宮古に伝わり、前奏や曲のテンポ、囃子など編曲されたのではないか、と思いたくなる。


 


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「かにくばた」の異名同曲がいくつもある。宮古民謡の「かにくばた」

 宮古民謡の「かにくばた」
 この曲を初めて知ったのは、沖縄に移住してまだ間もない頃だった。宮古島出身の唄者「Hirara(ひらら)」さんが歌っていた宮古の泡盛「菊之露」のコマーシャルが、テレビでよく流れていた。日本人離れしたお顔立ちの彼女が歌うこの曲は、とても沖縄民謡の感じがしなかった。工工四(楽譜)を見て確かに宮古民謡だとわかった次第。
 この曲は次のような意味がある。 
「新しく村建をする為野原地から狩俣大浦に移動を余儀無くさせられた子供達に対し親が開墾地の麦の様に勢いよく栄えよ家近くの豆の莢(さや)のように栄えに栄えよと励まし将来の幸福を祈念する歌である」(平良重信著『解説付 宮古民謡集』)。
                    
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        宮古出身のHiraraさん(「真和志まつりで」)
    解説では、「かにくばた」は「兼久畑」の漢字が当てられ、人名としている。
 歌詞と歌意の内容を紹介する。6番までは国吉源次版宮古民謡工工四から、7,8番は平良重信著『解説付 宮古民謡集』から。砂川国夫氏のブログ「宮古民謡解説集」も参考にさせていただいた。

1、かにくばたよ 抱きみいぶす 乙女小(ブナリヤガマ)
 (かにくばたとは美人の女性のこと 抱いて見たい女性)
 ヤイサースウーリヌ乙女小
 (ハヤシ)サーハラユイサ クラユイサーサ
 ウッショーシショーヌ ニングルマトゥマトゥヨー
 (ハヤシは以下省略)
2、あらすぬ麦だきよ むとういかぎ 乙女小
 (良い土地に実る麦のように すごく良い嫁になるだろう)
  ヤイサースウーリヌ乙女小
3、野原土地ぬ豆だきよ 家近(ヤッカ)ふぬサヤぬ如(ニヤ)ん
 (その土地に実る豆のように 家の近くの土地に実る豆のように)
  ヤイサースウーリヌサヤぬ如ん
4、後ゆかよ 行末(スウラ)ゆか吾等(バンタ)がむてい
 (ゆくゆくは大変幸せになるのは 私達である)
  ヤイサースウーリヌ吾等がむてい
5、女子(ブナリャウワ)うばよかぐうんな乗(ヌウ)し 大浦(ウプラ)んかい
 (女の子が産まれたらかごに乗せて 大浦村あたりまで遊びに連れて行きたい)
  ヤイサースウーリヌ大浦んかい
6、男子(ビキリャウワ)ばよ 建馬(タティンマ)乗し 狩俣(カズマタ)んかい
 (男の子が産まれたら素晴らしい馬に乗せて 狩俣村あたりに連れて行きたい)
  ヤイサースウーリヌ狩俣んかい
7、夜なびすういばが母(ンマ)よ 夜詰(ユヅミ)すうい生しやるうや
 (夜中まで添いうた私の母よ 夜詰めで添うた生みの親よ)
  ヤイサースウーリヌ生まれるなしゃやるが
8、男子(ビキリヤウォ)ぬよ 夜ぱでや酒ど飲む
 (男の子の 夜出歩きしたら 酒を飲む)
  ヤイサースウーリヌ酒ど飲む

 この曲の解釈を巡っては、解説者によって多少理解の違いがある。
 国吉源次版「かにくばた」(兼久畑)の解説は、<「かにくばた」とは女性の名である。絶世の美女であったらしく、彼女と一緒になることができれば、家庭隆盛、幸せになるだろうと願う男心を歌っている。>とのべている。上原直彦氏もほぼこれと同様な解釈をしていた。
 ここには、平良重信氏が述べたような、開拓地に移住させられる子どもたちの様子はまったく見られない。
 宮古民謡の唄者であり、ブログで宮古民謡の解説集を書いている砂川国夫氏は、次のように解釈している。
 <宮古の新しい地への開拓の為に強制的に移動させられた子供達に対してその子たちの親達が別れの寂しさを感じながらも新しい地で頑張って 道を切り開いて言って欲しいと願いを込めて出来たといわれています。 この歌が出来た当時は子供も立派な労働力として扱われていたので 新しい地を開拓するのにふさわしい人材だったのでしょう。>
 ここには、「絶世の美女」だとか、女性との恋模様の要素はまったくない。
 平良氏の解釈に近いのではないか。
 在沖宮古民謡協会発行『宮古民謡工工四』の「かにくばた(其の一)」(「兼久畑(其の二)」もある)の解説も、平良重信本とほぼ同じ内容である。
     
        宮古島のネーネーズの歌う「かにくばた」。アカペラで歌っている

 『琉球列島島うた紀行』を書いた仲宗根幸市氏は、「かにくばた」は、別名「にんぐるま」と呼ばれているとして、次のように解釈している。
 <開墾地の繁栄を祈願する親心と、ユーモラスな男女の交換歌(クイチャー)。別名「にんぐるま」ともいう。軽快な旋律は集団演舞に向き、特に囃子が面白い。沖縄の「にんぐるまーと」と異名同曲。歌の囃子に「ニングルマート」とうたわれることから名付けられているようだ(『琉球列島島うた紀行 <第二集>八重山諸島 宮古諸島』)>。
 私見をのべるほどの見識はないけれど、国吉氏の解説のような美女の憧れる男心を歌っただけの曲とは思えない。確かに最初の歌詞で、「かにくばたよ 抱きみいぶす」と歌い、「抱いてみたい女性」と出てくるので、恋模様の曲かと錯覚しやすい。それに囃子でも「にんぐるま」が印象的に繰り返されるので余計にそんな感じになる。
 だが、そもそも「かにくばた」とは「兼久畑」とも書かれるように、女性の名前らしくない。
「兼久」とは沖縄語では「海岸に近い砂地」(『「沖縄語辞』)という意味がある。兼久の地名はとても多い、「前兼久」(恩納村)「大兼久」(大宜味村)などもある。それに「畑」までついているのでなおさら女性の名前らしくない。寡聞にして女性の名前でこんな名前は聞いたことがない。

 それに、次回に取り上げる八重山民謡の「亀久畑(かみくばた)節」は、宮古民謡の「かにくばた」とは「亀久」か「兼久」の違いはあるが、曲名でみればほぼ同じと見てよい。八重山民謡の「亀久畑」は、与那国島の地名である。
 仮に人名だとしても、歌の歌詞全体を見ると、平良氏や砂川氏らがのべているような、開拓地に移住する子どもたちへの親の願いが込められた曲という解釈に共感を覚える。
 とくに、意味が分かりにくい最後の7,8番の歌詞について砂川氏は次のように解釈している。
7、夜なびすいがばが母よ夜詰みすうい生しゃやるが
 (夜中まで添い寝してくれた私の母よ 移住する前の日まで夜通し
  付き添ってくれた生みの母よ)
  ユイサースゥリーヌ生まれるなしゃやるが
8、男子(びきりゃうぉ)よ 夜ぱずでぃや酒どぅ飲む
 (男の子は 夜外に出れば酒を飲む そうじゃないと強制的に
  移住させられた気持ちが発散出来ない)
  ユイサースゥリーヌ酒どぅ飲む

 「宮古の悲しい歴史が垣間見える曲です。
 でも、曲調はアップテンポでまるで新天地での期待が感じられる様な曲調です」(ブログ「宮古民謡解説集」)。
 この砂川氏の解説に魅かれるものがある。
 砂川氏によれば、「宮古民謡の三線の旋律は琉球古典音楽がベース」だとのこと。
<古くからある宮古民謡は楽器を使わず無伴奏のアカペラで歌い継がれてきました。宮古民謡に三線の演奏が加わったのは1950年代頃と言われ、長い歴史の中ではつい最近の話です。…三線の伴奏を初めて作ったのは、古堅宗雄、友利明令、平良恵清の3人の共作によるものでした。
 古堅宗雄は鍛冶屋を営みながら琉球古典音楽を学んでおり、…伴奏をつけるにあたり、琉球古典を参考に要素を随所に取り入れて作り上げていったそうです(ブログ「砂川国夫宮古民謡解説集」)>。
 砂川さんの指摘のように、宮古民謡が三線で演奏されるようになったのは戦後のことだとすれば、「かにくばた」の特徴あるうたもち(前奏)はもともとあったのではなく、三線で弾くようになってからつけられたのか。沖縄本島の異名同曲と見られる「高離節」は、琉球古典音楽として三線で演奏されて歌われていたのだろうから、「高離節」が影響を与えたのか。
 それとも、宮古の「かにくばた」が三線なしのアカペラで古くから歌われていて、それが本島で三線演奏用に整えられ、その旋律に「高離節」の琉歌をのせて歌うようになり、それが宮古に反作用し、前奏のついた三線曲として「かにくばた」となったのだろうか。
 いずれにしても本島と宮古島の文化的な相互作用のなかで異名同曲が生れたのだろう。


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ジョン万次郎上陸之地記念碑、2月18日披露へ

 ジョン万次郎が1851年、琉球に上陸したことを記念する等身大の銅像・記念碑が糸満市大渡海岸に建立され、2月18日に披露されることに なった。 
  NPO法人ジョン万次郎上陸記念碑建立期成会会長の上原昭糸満市長が30日、明らかにした。

              ジョン万次郎上陸之地記念碑、銅像 (2)  
   完成予想図は、糸満市の記念碑の基本計画から使わせていただいた 
  市の「基本計画」を見ると、万次郎の功績を後世に伝える、子どもたちの夢を育む、新たな観光資源としていくことを整備の方針としている。
   銅像は約1㍍80㌢ある。台座は六角柱とし、万次郎の代表的なシーンを6つの面に説明図と絵図を並べて、万次郎の歴史的な功績をわかりやすく紹介するそうだ。
   
 銅像と六角図は、期成会で熱心に活動してきた高知県出身の和田達雄さんの提案作品だという。  
 これまで大渡海岸は万次郎の上陸地といっても、何も説明するものがなかった。記念碑を見れば、万次郎の功績が誰にも理解されるだろう。素晴らしい 銅像・記念碑である。
       
 費用は約2600万円で一括交付金を活用したという。万次郎が上陸した旧暦1月3日にあたる2月18日に現地で披露目式を行い、当日は、万次郎の出身地、高知県の土佐清水市長はじめ県外からの関係者も来られる。万次郎の直系子孫5代目の中濱京さんも参列される予定だという。
 是非、多くの県民と沖縄を訪れる観光客もこの記念碑を見ていただきたい。

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