レキオ島唄アッチャー

オリオンビールがあたった

  昨日、宅急便が届いた。心当たりがないのでなんだろうか、と思って開いてみると、なんとオリオンビールの6缶セットが送られてきた。
 さる6月に那覇セルラースタジアムで開かれたプロ野球日ハム対ソフトバンク戦の招待キャンペーンに応募していた。
 オリオンビールの6缶パックの底にあるシールを貼って応募するものである。でも残念ながら今回は音沙汰無し。当たらなかった。         
                  37366131_1797435990369031_4810572278729277440_n.jpg
 ところがチケットが当たらなかった人にはWチャンスがあり、それが今回の「オリオン6ブランドアソートパック」だった。
      37345062_1797435077035789_8152507437216169984_n.jpg
   まだ飲んだことのないブランドもある。わが家はこの中で、最近は「贅沢気分」にはまっている。フォークユニット「F&Y」の良明さんが、このビールのCМに流れるギターを演奏しているので、飲んでみた。結構いい味わいだから。
 それにしても、プロ野球のチケットが当たらなかったからとビール6缶送ってくれるとは、なんという旺盛なサービス精神だろうか。ますますオリオンを愛飲しなきゃー。われらが県産品、オリオンビール最高!
スポンサーサイト
日記 | コメント:0 | トラックバック:0 |

もっと評価されてよい島津久光、挙藩一致

 「挙藩一致」で行動
  久光が兵を率いて出発する前の3月中に、藩内に次のような久光の論書が示されていた。
 <この論書で最も強調されているのは「慷慨激烈」の節を主張する志士や「浪人軽率」の所業などに共感して接触を持つようなことをしてはならないとする点で、…俗にいう尊攘慷慨の志士と、私的に交際することを禁じたものであるが、言い方をかえると、藩士個人で国事運動にかかわることを禁じたもので、国事周旋運動は挙藩一致で行うものであることを、主張していたのである。…

西郷は久光の命令(論書)に背くとともに、薩摩藩の基本方針にも反していたのである(佐々木克著『幕末政治と薩摩藩』)。>
           IMG_7301.jpg 
                         沖永良部島にある「西郷隆盛 敬天愛人 発祥の地」の石碑

 

 このころ京、大坂には、過激な尊王攘夷派の志士たちが集まり、久光の上京を期として決起しようとしていた。薩摩藩士の有馬新七、柴山愛次郎らは、志士田中河内介(元中山忠能家の家士)とともに、京都所司代の襲撃を計画していた。
 久光がこのような無謀な挙に反対の立場であった。藩士を寺田屋に派遣して説得したが、受け入れなかった有馬等は、上意討ちとなった。
 有馬らの行動は、「久光の論書と藩の基本方針に背いたうえに、勅命にも反したものであった」(同書)。
 
 西郷の処分や寺田屋事件は、冷徹、非情な対処であるが、結果としては薩摩藩の挙藩一致の体制を作ることにつながったのかもしれない。
 藩のまとまりという点においては、薩摩藩と長州藩とは大きく異なる。
 <たとえば長州藩は文久276日に、京都の藩邸でいわゆる攘夷の藩論を定めたが、藩地の「俗論派(保守的門閥派)」の反対意見が強く、薩摩藩のような藩全体に支持された藩論とはいい難かった。それゆえ藩内の対立が続き、ついに元治の内戦(注)となったのである(佐々木克著『幕末政治と薩摩藩』)>。 
 (注)朝廷と幕府が長州征伐軍の派遣を決め、藩が存亡の危機を前に、攘夷を志向する長州正義派とこれに反発する俗論派が武力衝突となり、最終的に正義派が勝利した。 
 
 久光らが幕末の激動期に「挙藩一致」の基本方針を厳格に守り、目的に向かって一致して行動したことは、薩摩藩が討幕と新政府樹立のため重要な役割を果たすうえで、キーポイントの一つになったのではないだろうか。

 



歴史 | コメント:0 | トラックバック:0 |

祝第150回記念アルテミュージックファクトリー

  毎月恒例のアルテミュージックファクトリーは第150回を迎え、14日夜,記念のファクトリーがあった。何年ぶりかの懐かしい人たちもかけつけ、大盛況だった。
                                DSC_3998.jpg
 越智さんのトランペットとツレのピアノのコラボによる「帰れソレントへ」から始まった。
                                      ファクトリー越智 (2)
 私の出番もいつもより早く回ってきた。「多良間ションカネー」を歌った。今回は、「思い出」がテーマだった。数年前まで宮古民謡の名手Tさんがこの曲を聴かせてくれたことを思い出す。哀調のある歌三線だった。
           DSC_3929.jpg
 多良間に派遣された王府の役人と現地妻との別れの情景を歌っている。詳しくはこのブログで「多良間ションカネーの謎」などで書いているので、そちらを見ていただきたい。この曲を歌うと、NHK大河ドラマ「西郷どん」で、奄美大島に流された西郷が、愛加那と結ばれるが、3年を経て子供2人が生れるけれど、西郷は呼び戻され、彼女と子どもを残して島を出る悲しい場面が思い出される。きっと、昔の多良間でもこんな状況だったのだろう。

 アルテギターサークルの合奏では、スイスから空手を習いにきえいる女性もパーカッションで参加した。2曲目では、いま茨城県にいるUさんもかけつけて、「ケセラセラ」を歌った。
                             DSC_3931.jpg            
 ミーシャさんはギターソロで「秋桜」「みだれ髪」を演奏した。
                                DSC_39333.jpg

 同じ三線仲間のTさんは、「二見情話」を歌った。歌三線の演奏が増えると嬉しい。
                             DSC_3936小

 一部が終わると、パーティータイム。パーティーの幕開けで、私とTさん、Hさんの3人で「かぎやで風節」を演奏した。ほとんど練習なしにしては息の合った演奏ができたのではないか。
        1532133055777.jpg

 平良さんが、3カ国語で乾杯の発声をしたあと、糸数さんとayaさんがベルディー作曲オペラ「椿姫」から「乾杯の歌」を歌った。二人が参加者一人一人と乾杯をして回り、最後は全員で「カンパーイ!」と合唱。大盛り上がりとなった。
                             DSC_3952.jpg
 オードブルを食べながら歓談。その間に、舞台ではベリーダンスも披露された。
                            DSC_3961.jpg
 記念のファクトリーとあって、参加者が多くて、第2部は、28組がエントリーした。
 Nさんのギター、ツレのピアノによる弾き語りで、「奇跡の地球(ほし)」を歌った。1年ぶりでNさんは緊張したというけれど、ノリのよい演奏だった。
                              DSC_3966.jpg
 ツレはピアノ独奏で、ブラームスの「ワルツ変イ長調」を弾いた。ピアノの音色もきれいだしノーミスで、良い演奏だったのではないか。
                           DSC_3970.jpg
 しばらく休んでいたTさんは、娘さんのピアノ伴奏で歌とハーモニカ演奏をした。毎年、慰霊の日のある6月には「月桃」を演奏してきた。今年は7月になったけれどこの曲を歌い、平和への思いが込められた歌声だった。
                           DSC_3972.jpg

 私と同郷のYさんは「おぼろ月夜」を歌った。若々しい歌声だった。
                            DSC_3974.jpg
 ギター独奏のピカリンさん、カオルさんも久し振りの出演。もっともっと聞きたい演奏だった。
                         DSC_3984.jpg
 やはり久し振りに、ベースのKさん、ドラムのSさんとピアノのUさん、ボーカルのRさんによる「イパネマの娘」、ayaさんによる「ジュピター」、清美さんによる「superstar」と素晴らしい歌声が続いた。
                       DSC_3986.jpg  

 3代目龍潭ボーイズの楽しい演奏につづいて、そのメンバーEさんはギター、Tさんはウクレレでそれぞれ初めてソロの弾き語りを披露した。
                         DSC_3993.jpg
 与那原からきた「東浜レディースギターサークル」は「日曜はダメよ」など演奏。サークルの指導者、Kさんもギター独奏で素晴らしいテクニックを披露した。
                     DSC_3997小

  最後に全員で「世界に一つだけの花」を合唱。歌声が会場に響き渡った。
                    DSC_4004.jpg  
 5時間以上の音楽会だったけれど、長さを感じさせない楽しさだった。
 アルテは、ジャンルや演奏の上手下手は関係なく音楽大好き人間が集い、語り、演奏しあう場である。参加する人みんなが「世界で一つだけの花」である。こんな音楽会が「世界に一つだけの音楽会」でもある。
     DSC_4010小 
   4年に1回というより年1回くらいは、こんな楽しいファクトリーがあればいいな、と思った。
 
音楽 | コメント:0 | トラックバック:0 |

もっと評価されてよい島津久光、兵を率いてい上京

1000余の兵を率いて上京

島津久光は、小松帯刀と大久保利通そして藩兵一千余を率いて、文久2年(1862316日に鹿児島を出発し、4月上洛した。上京は単に朝廷・京都を守護するだけではなく、他に明確な目的があった。
 <薩摩藩・久光の政治運動の基本路線は、朝廷と幕府の改革を要求・実現することであり、今回はその出発点として位置付けられるものだったのである。そしてこの改革は「徳川家御扶助、公武合体」を実現するためのものであり、そのことは「先君(斉彬)の遺志」であり、それを実現することでもあった。すなわち薩摩藩は挙藩体制で、斉彬の遺志に基づいて行動するものであることを主張していたのである(佐々木克著『幕末政治と薩摩藩』)。>

<外様雄藩・薩摩藩の藩主後見人であり藩主の父であるというだけで、当初は好奇の目でみられていた、無位無官の武家にすぎない久光の出府は、結果論的にではあるが久光の存在を、強くかつ広く世にアピールすることになったのである(同書)。>

                    
              IMG_7306.jpg 
            沖永良部島にある西郷隆盛の像

 この久光の上京計画には、当初、奄美大島から鹿児島に帰った西郷隆盛は、強く反対したとされる。朝廷に対する十分な根回しがなくては、公武周旋を依頼する勅諚が出されることは難しいこと、諸侯との接触も浅く、無位無官の久光では、諸侯の協力も期待できないという理由からだ。「しかし西郷の頭が時代に遅れていた」(佐々木克著『幕末政治と薩摩藩』)。
 久光は西郷に、先発して九州各地の情勢を視察して、下関で一行を待つように命じた。西郷は「上方の状況を知り、命令を無視して大坂へと走り尊王攘夷派をなだめてまわった。しかし、命令を無視された久光は激怒。さらに姫路で西郷が尊王攘夷派をあおっていると聞かされたため怒りは頂点に達し、西郷をとらえさせ、はじめ徳之島、のちに沖永良部島に流した」(『鹿児島県の歴史』)。
 


歴史 | コメント:0 | トラックバック:0 |

もっと評価されてよい島津久光、誠忠組

 誠忠組と深いきずな
 幕末の薩摩藩といえば、とかく西郷隆盛、大久保利通、小松帯刀らが脚光を浴びることが多い。当たり前のことではあるが、かれらは勝手に活動していたのではない。藩の戦略と方針にもとづいて活動していたのであり、それを統率し、指導していたのは、「国父」久光であり、藩主・忠義であろう。

 久光と西郷や大久保をはじめ藩士との関係は、以下のような事例を見ればよくわかる。

 西郷隆盛、大久保利通、岩下佐次右衛門らの薩摩藩有志(誠忠組)は、水戸藩有志と計って大老井伊直弼の襲撃を計画し、安政6年(1859)から万延元年にかけて、幾度から脱藩し決行しようとするが、それを思いとどまるようにと久光が説得するなかで、久光と誠忠組の信頼関係が結ばれたとされる。
 安政6年9月、忠義(茂久)は実父久光と相談。久光は忠義に脱藩突出の中止を求める直筆の論書(さとしがき)を書かせ、これを大久保に送った。以下の内容である。
 <いま世の中が動揺し容易ならぬ時節となっている。そうしたなかで万一「事変」が起こった際には、自分(茂久)は藩を挙げて天皇と朝廷を守り忠誠を尽くすつもりであり、それは順聖院様(斉彬)の遺志を引継ぎ実現することである。このことをお前たち有志の面々はよく心得て、藩の柱石となる気持ちで、自分(茂久)を支え助けてもらいたい(佐々木克著『幕末政治と薩摩藩』)。>
                       大久保利通_4 

                           大久保利通
 「この異例の藩主論書に大久保らは感激して脱藩を中止、血判入の請書を提出し、みずからを精忠組(誠忠組とも)と称するようになった。こうして薩摩藩の尊王攘夷派の中核となる精忠組が誕生したのである」(『鹿児島県の歴史』)

 <本来なら厳罰に処されて当然の大久保たちを「誠忠」、忠義の者であるとまで呼び持ち上げました。薩摩からは一人も脱藩者も出さない、保守派にも急進派にも薩摩は一つになって行動するという基本方針を宣言したのです。それは計り知れない効果をもたらしました(NHKEテレ2018・6・5「幕末動乱の処世術 島津久光 自分の器を自覚せよ!」)。>
 
 志學館大学教授原口泉さんは次のように評価している。
 「これは感激でしょう。(大久保ら)もらう身になって思えば誠忠の士へといまは時期早々だけどいざという時には薩摩藩をあげて立つという挙藩体制の大事さをこの諭書のなかでさりげなく盛り込んでいる。一つにならなきゃ駄目なんだよということ。斉彬も築けなかった挙藩体制を久光が実現したということはまぎれもない事実なんですよ。そして斉彬という超エリートに久光はコンプレックスを持っていたことは否めないと思いますよ。ただ斉彬ができなかった挙藩体制を私が実現したと、その排除じゃなくて取り込むという政治方針を久光は骨の髄までもっていたと思います。」(NHKEテレ2018・6・5「幕末動乱の処世術 島津久光 自分の器を自覚せよ!」)

 久光と誠忠組との間が深いきずなでつながれたことが、その後、薩摩藩が一つにまとまって行動する土台となった。

 <幕末に内紛や分裂をする藩が多い中で薩摩は一丸となって突き進みそれが明治維新への大きな原動力となります。意見が対立し組織が分裂しそうな時、双方の意見に耳を傾け折り合いをつけてゆく。久光はこうした姿勢で藩をまとめ上げたのです(NHKEテレ2018・6・5「幕末動乱の処世術 島津久光 自分の器を自覚せよ!」>

 
 
安政7年3月3日には、井伊直弼襲撃が起きた。3月23日には、知らせが藩庁に届いた。
 <翌24日、大久保は久光邸に行き、関東表が大変であるから、前の約束に基づき、関東守衛の名目で出兵し、実際は京都に滞在して、禁裏の守衛に就くべきであると強硬に主張した。しかし久光は承知しなかった。たしかに事変が起こったら出兵すると約束した。しかし此度の事件は、水戸藩浪人による事件で「兵乱」とはみなせない。しかも薩摩藩士が関係しているから、幕府がどうでてくるか予測もできないときに、軽率に出兵などできない、兵事は国家(薩摩藩)の大事であるから、よくよく前後のことを考えることが大事であると述べ、大久保を諭した(佐々木克著『幕末政治と薩摩藩』)。>

 誠忠組の、安政5年12月の最初の「突出」計画以来、安政6年9月、安政7年2月初め(山口三斎帰藩の際)、同21日、そして同じく3月の参勤発駕の際と、計5度におよぶ「突出」計画は、一度も実行されることなく終息したのであった。

 <最初の西郷隆盛が主張した「突出」計画はもとより、誠忠組の計画は「突出」したあとの具体的な方針や見通しを欠いた、いかにも杜撰なもので、正義の行動であるという自己中心的発想と熱情から、勢いにまかせて出て行くようなものであった。これにたいし島津久光は、冷静な大局観と状況判断に基づいて、誠忠組の要求にたいして、説得力をもった論理で対応していたといえよう。また繰り返しなされた「突出」計画と、建白・嘆願そして大久保利利通との面談などにたいして、そのつど忍耐強く対応し説得にあたった。おそらくこのような久光の責任者としての姿勢と政治的資質は、薩摩藩全体に大きく評価されたに違いない(佐々木克著『幕末政治と薩摩藩』)。>

 とかく先鋭的に走りがちな藩士の杜撰な「突出」計画や井伊直弼襲撃事件への久光の対応を見ると、「冷静な大局観と状況判断」にもとづいており、「暗愚の公子」などという一部のうわさが根も葉もないものであったことがわかる。

 久光は「先を見通す力を持った戦略家であり政治家であった」。市村哲二・黎明館学芸専門員はこのように指摘する(NHKテレビ「歴史秘話ヒストリア」201852日放送「西郷隆盛をつくったふたりの上司」)。

 


歴史 | コメント:0 | トラックバック:0 |

「潜伏キリシタン」とは?

「潜伏キリシタン」とは?
 今回の世界遺産登録で「潜伏キリシタン」という表現を初めて知った。これまで「隠れキリシタン」という表現しか知らなかった。
 「潜伏キリシタン」について、長崎県世界遺産推進課のホームページ(http://kirishitan.jp/values/val002)は次のように解説している。
 <
「潜伏キリシタン」とはキリスト教禁教期の1719世紀の日本において、社会的には普通に生活しながらひそかにキリスト教由来の信仰を続けようとしたキリシタンのことを学術的に「潜伏キリシタン」と呼んでいる。そして、彼らの「信仰を実践するために独自の対象を拝むという試み」と、「共同体を維持するために移住先を選ぶという試み」を併せて「潜伏キリシタンの伝統」と呼ぶ。なお、禁教期よりも前にキリスト教に改宗した人々のことを、同時代の日本ではポルトガル語由来の「キリシタン」と呼んだ。また、キリスト教が解禁となった19世紀後半以降も引き続き潜伏キリシタン以来の信仰を続けた人々のことを「かくれキリシタン」と呼ぶが、その信仰のあり方は解禁以降に次第に変容したとされ、変容が進んだ段階の人々を「カクレキリシタン」と表記する場合(研究)もある。>

 
       大浦天主堂、長崎県世界遺産登録推進課
           浦上天主堂(長崎県世界遺産登録推進課HPから)


 「潜伏」と「隠れ」の違い
 「潜伏キリシタン」と「隠れキリシタン」の違いについてもう少し見ておきたい。ライター事務所「ツムギヤ」ブログでは次のように紹介している。http://writer-akira.com/blog40/


  <「潜伏」「隠れ」が誕生した背景には、国内における禁教の歴史があります。
 1549年、フランシスコ・ザビエルが種子島に上陸し、日本にキリスト教を伝えたのは有名な話。
 その後、次第に信仰が広まって「キリシタン大名」なども誕生しましたが、1614年に江戸幕府が全国に「キリスト教禁教令」を発布します。
キリシタンは信仰を隠したり、やめたりすることを迫られました。

「潜伏キリシタン」の場合
「潜伏キリシタン」は、禁教令が出た後も表面的には仏教徒を装いながら、キリシタンであることを隠し続けた人たちのことです。
 キリスト教徒であることは捨てませんでした。

 ちなみに、禁教令が出た30年後の1644年、日本における最後の宣教師・小西マンショが殉教してしまいます。
 潜伏キリシタンは、指導者が一人もいないなか、禁教が説(ママ)かれるまでの約230年間、信仰を守り続けました。
江戸時代は、生きるために仏教徒であることを表向きは受け入れざるを得ませんでした。

「隠れキリシタン」の場合

  一方の「隠れキリシタン」ですが、仏教徒を装っていた点では「潜伏キリシタン」と一緒なんですが、1873年に禁教の高札が撤廃されキリスト教が黙認されるようになったあとも、カトリック教会に戻ることなく、独自の信仰形態を続けました。
 
「独自の信仰形態」というのがポイント。「隠れ」の人々は、もともとキリシタンだったのに、こっそりと信仰を続けているうちに日本の昔ながらの民俗信仰などの影響を受け、独自の変化を遂げてしまった、ということが背景にあります。
 
カトリック教会に戻らなかったのも、カトリックとは異なる独自の宗教になってしまっていたからかもしれません。>
 
 
本来は、禁制下で信仰を貫いた潜伏キリシタンの人たちの歩み、苦難の歴史に思いを馳せるべきだが、個人的な関心で横道にそれてしまった。でも、今回の登録によって「潜伏キリシタン」のことにたいする関心が強まることはいいことだろう。





歴史 | コメント:0 | トラックバック:0 |

島原の乱で荒廃した地に国策で移住

 島原の乱で荒廃した地に国策で移住
 中東・バーレーンで開催中の国連教育科学文化機関(ユネスコ)第42回世界遺産委員会は30日、江戸時代」キリスト教禁制と独自の信仰の歴史を伝える「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」(長崎、熊本)を世界文化遺産に登録すると決定した。
 「2世紀以上にわたる禁制下で進行を継続した独特の宗教的伝統を物語る、他に類を見ない証拠」と高く評価し、12の構成資産全てが世界遺産にふさわしいと判断した(「琉球新報」7月1日付)。
 
 島原にはもう30年以上前に仕事で行ったことがある。その際は、島原・天草一揆と天草四郎について少し関連する本を読んだ記憶がある。今回の世界遺産登録に関連して、この一揆の鎮圧で荒廃した島原半島に、九州だけでなく四国からも住民が移住させられたと聞いた。移住のことは、前に読んだかもしれないがすっかり忘れていた。世界遺産登録とは関係ないが、「そんな歴史があったのか」と島原の歴史に思いを馳せた。
      原城跡、長崎県世界遺産登録推進課HP  
              原城跡(長崎県世界遺産登録推進課HPから)


 12の登録資産の一つ、「原城跡」は1637~38年の島原の乱の舞台となった。キリシタン農民が立てこもった。徳川幕府はポルトガル船の来航を禁じ、鎖国体制をとるなかで、宣教師不足となり信徒が潜伏するきっかけになった。
 島原の乱では島原、天草の領民計3万7千人が犠牲となり、島原半島南部はほぼ無人化したという。幕府は1642年、九州諸藩や幕領などに移住者を出すよう命令を出した。
 今年2月から3月にかけて、島原半島への大規模移住を題材にした初の特別展が、南島原市口之津町の口之津図書館で開かれたそうだ。
 <当時、半島は年貢が軽減される“移住特区”となり、優遇策目当てに無断で移り住む人が増えるなど混乱も起きた。…特別展では熊本、豊後高松、萩の各藩に宛てた移住令の書簡を展示。移住者の総数は不明だが、別史料では熊本藩から島原、天草へ男女計356人や牛馬11頭が移った記録もある。
 一方で、熊本藩の史料は、労働力を奪う移住策が熊本の農民にとって「迷惑」だったと記し、萩藩は「牛疫(ぎゅうえき)」の発生で農民が疲弊して多くの移住者を出せない事情があったことを伝える。各藩が異例の移住令に困惑した様子もうかがえる。(「西日本新聞」2018年02月28日)>

 島原そうめんの由来 
 島原といえば手延べそうめんが有名。これも四国の小豆島からの移住者が伝えたという説がある。
 長崎県食品販売株式会社HP「島原そうめん史」は次のように記述している(http://www.mentatu.com/somen-history.html)。
  <(島原のそうめんは)西有家町の須川地区が発祥の地とされています。(1637年(寛永14年)頃)
 島原の乱の後、住民が居なくなった島原半島には、九州をはじめ各地から強制的に移民が集められました。また、幕府直轄領だった小豆島から多くの強制移民が当地に集められました。島原の乱の40年以上前より、小豆島そうめんは作られており、この小豆島そうめんが島原の乱後の強制移民によって伝えられたのが、島原そうめんの起源とされています。
 
 ただし、島原のそうめんの由来については、中国の福建省から伝わった説もあり、確定していない。
 移住といえば、かつて琉球では、石垣島で明和の大津波で壊滅的な被害を受けた白保をはじめ地域に、波照間島など八重山の離島から移住させたのをはじめ、人口の少ない島や地域に首里王府が強制移住させ、住民が苦難を強いられた歴史があることを思い起こした。
 島原半島への移住はさらに大規模なものだが、移住に特典があったとしても、さまざまな辛い歴史があったことだろう。


歴史 | コメント:0 | トラックバック:0 |

一夜限りの神秘なサガリバナ

 夜咲く神秘な花、サガリバナが今年もこの時期、咲き誇っている。首里の崎山の瑞泉酒造所のある通りが名所なので首里に用があるついでに立ち寄ってみた。
             
   陽が落ちたので崎山に向かうと、落陽はつるべ落としといわれるようにすぐに暗くなってきた。崎山に着くとすでに車を止めて見ている人がいる。この通りはサガリバナの並木になっている。
 どの木も、数え切れないほど無数のつるが下がり、蕾や花がついている。
     まだ蕾が開き始めたところで、花びらが完全に開いていない木が多かった。
     DSC_3856.jpg
 今年はとても下っているツルの数が多い気がする。

     DSC_3866.jpg
 白や薄いピンクの花びらが開いてきて、とても美しい。花は一夜限りで朝には散ってしまう。
          DSC_3867.jpg
    花にはミツバチがたくさん集まっていた。蜜があるのだろう。周りにはとても甘い香りが漂っている。
 この夜は、おりしも満月だった。写真は崎山ではなく、わが家の近くである。

       DSC_3854.jpg 
日記 | コメント:0 | トラックバック:0 |

もっと評価されてよい島津久光、斉彬の遺志受け継ぐ

斉彬の遺志を受け継ぐ

 忠義が藩主となった当時は、まだ斉興(なりおき)が健在だった。後見役となった斉興は斉彬の政策には批判的で、斉彬がすすめた諸事業の中止・縮小を命じた。安政6年(1859)3月、藩主の後見役となった久光は、斉彬を嫌った父、斉興の意向とは異なり、斉彬の遺志を受け継ぐ。
 「斉彬は久光の資質を高く評価し、かつ藩政に関しても相談していたから、両者の信頼関係は確かで、斉彬の考え方は十分に久光に伝わっていたと思われる」(佐々木克著『幕末政治と薩摩藩』)
 「久光は斉興派の重臣島津豊後久宝を失脚させて藩の実権を掌握。斉彬が推進していた公武合体路線の継承を訴え藩論の統一をはかった。また、集成館の復興に着手し、蒸気船も購入した」。ただ、斉彬の死後、西欧を見下す風潮が藩内に広がり、「集成館の復興は造砲部門など一部にとどまった」(『鹿児島県の歴史』)という。

      島津斉彬 
            島津斉彬

 

 薩摩藩はその後、西欧の軍事・科学技術の導入を積極的に進めた。
 文久2年(1862)、久光が1000人余の兵を率いて上洛し、さらに江戸に行った帰り、久光の行列を乱したイギリス人を殺傷した生麦事件が起きた。これがもとになり薩英戦争を招き、西欧の強力な軍事力を目の当たりにすることになる。
 薩摩藩は、焼失した集成館の復興、機械工場・鋳物工場・鍛治場・木工場・製薬所など工場群が建てられた。大砲や弾薬の製造、蒸気機関や艦船修理などを行なった。銃砲も西欧から大量に輸入し、兵制もイギリス式に改めた。外国船の購入により海運・海軍力も強化した。
 これらを支える人材育成に力を注いだ。元治元年(1864)、洋学校・開成所を設立し、英語・陸海軍砲術・兵法・天文・地理・航海術・数学・物理・医学など教えた。教授に招かれた中に、中浜万次郎もいた。翌年には、日本人の海外渡航が禁止されている中で、薩摩藩は3人の使節団と藩費留学生15人をイギリスに派遣した。
 「国禁をおかしての派遣であるから、このころ薩摩藩は公武合体路線から離脱しはじめたとみられる」(『鹿児島県の近現代』)
 
 久光はとかく、国学に通じ、伝統を重んじて「守旧的」「田舎者」などと称されがちだが、「国父」として斉彬の遺志を受け継ぎ、軍事や産業の近代化や人材の育成に力を注いだことは、その後の薩摩藩の公武合体から討幕と新政府樹立へと向かう上で、それを支える重要な力となった。
 大阪学院大学経済学部教授 森田健司は、次のような評価をしている。
 
実子の忠義(1840-1897)が藩主となってからは、「国父」として藩政の実権を握り、公武合体運動の推進で活躍し、斉彬以上に薩摩藩の力を高めることに成功している。>THE PAGE」の「連載【西郷隆盛にまつわる「虚」と「実」】(全5回)」から、https://thepage.jp/detail/20180129-00000003-wordleaf?utm_expid=90592221-90.x0Auz-QlTn2yldOAHtyYkA.0&utm_referrer=http%3A%2F%2Fsearch.yahoo.co.jp%2F


歴史 | コメント:0 | トラックバック:0 |

もっと評価されてよい島津久光、「暗愚の公子」か

 NHK大河ドラマ「西郷どん」は、名君島津斉彬(なりあきら)が亡くなり、異母兄弟の久光が藩主ではないが「国父」として薩摩藩の指導者として登場している。西郷隆盛とは仲が悪かったといわれ、西郷が主役のドラマでは、久光が悪者に描かれるのではないかという心配の声が出ている。すでにあまり賢い人物とは描かれていない印象である。これまでとかく、久光は斉彬と対比され、「暗愚」「田舎者」「保守派」「野心家」などという噂がつきまとう。
 「西郷どん」は毎回楽しみにして見るので、少し薩摩藩についての歴史本を読んでいる。それで感じるのは、これまで久光に持っていた印象とはかなれ異なること。彼が藩の指導者として、よく考えた判断をしていたのではないだろうか、と思うところがある。島津久光が歴史上に果たした役割はもっと評価されていいのではないか。そんな感想をもった。
 

NHKの注目される企画

 NHKは大河ドラマ「西郷どん」を放送していることと関連して、薩摩藩の歴史にかかわる企画を何回か放送しているが、とくに島津久光に注目した企画が目に付く。
 BSプレミアム201814日「英雄たちの選択 ここに始まる~島津久光率兵上京の決断~」は、「西郷、大久保らを中心に語られてきた幕末史が大きく書きかえられようとしている」として久光の率兵上京の決断に焦点をあてていた。NHK総合201852日「歴史秘話『西郷隆盛をつくったふたりの上司』」として、久光と藩重臣・桂久武を取り上げていた。久光が西郷とただ敵対したという視点ではなく、西郷に厳しく対処することによって西郷を育てていったという観点からの企画だった。

 NHKEテレ2018年6月5日「幕末動乱の処世術 島津久光 自分の器を自覚せよ!」は、次のように指摘していた。

<斉彬から薩摩と「日本」を託され、難しい時代のかじ取りを担った久光。斉彬のようなカリスマ性はなかったものの、対立する意見の落とし所を的確に見つけ出す「調整型リーダー」として手腕を発揮した。>

これらは、幕末史における久光の役割と功績を再評価しようとするものとして注目した。

では、久光がどのような人物であり、どのような役割を果たしたのか、実際の歴史の流れの中で、総論的にではなく、いくつかのポイントに絞って見てみたい。


      島津久光像、原田直次郎筆 
         島津久光像
 

「暗愚の公子」なのか
 島津久光は藩主斉興(なりおき)の5男で、母は側室お由羅の方である。長兄斉彬のほか兄3人・弟3人がいたが、斉彬を除く男兄弟がすべて早く亡くなった。安政5(1858)年、斉彬が急死し、「その遺言により異母弟の久光の長男忠義(茂久)が薩摩藩主となった」(『鹿児島県の歴史』)。

蘭学を好み開明的だった斉彬に対し、久光も学問好きで、和漢の学に通じて、博覧強記の人だったとされる。斉彬は久光の能力をどのように見ていたのだろうか。

「斉彬は久光を有能なブレーンとして信頼していた」(市村哲二・黎明館学芸専門員、нHKテレビ「歴史秘話ヒストリア」201852日放送「西郷隆盛をつくったふたりの上司」)
 「斉彬は久光の資質を高く評価し、かつ藩政に関しても相談していたから、両者の信頼関係は確か」だった(佐々木克著『幕末政治と薩摩藩』)。
 斉彬は、久光を高く評価していたようだ。

 

 斉彬の後継者について、遺言は必ずしも忠義一本ではなかったともいわれる。佐々木克氏は次のようにのべている。
 <斉彬は遺言で山田壮右衛門に、長男の哲丸が幼いから、後継者は異母弟の久光か、久光の長男忠徳(又次郎、当時19歳、注・のちの茂久)かどちらかを、前藩主で隠居して当時江戸に居た斉興に相談して決めるように伝えた。
 なお遺言に関しては、託された証人の一人である新納久仰も記録を残しており、この記録では、後継者は又次郎(忠徳)を第一とするという遺言であったとしており、先の山田壮右衛門の記録とは少しニュアンスが異なるが、しかし斉彬が後継者候補として又次郎に比重をおいて考えていたことを示していると判断してよいであろう(『幕末政治と薩摩藩』)。>

  勝田孫弥著『大久保利通伝』の記述によれば、「久光は学問もあり見識は優れ、気節のある有能な人材であったけれど、自ら世を避けて、退隠したような生活を送っていたため、久光の人となりを知って、正当に評価する者がなく、暗愚の公子と評価されていた、ということである」(佐々木克著『幕末政治と薩摩藩』)。
  (注)藩主となった島津忠義はその時期によって名前が異なる。以下のように名乗っていた。「幼名
壮之助。通称又次郎。元服後の初名は忠徳(ただのり)だったが、藩主在任中は茂久(もちひさ)を名乗る。なお、忠義は維新後の慶応4年(1868年)1月16日に改名した諱(いみな)である」(ウィキペディア)

  久光はなぜ藩主にならなかったのか。
 <斉彬の時代には、藩内における久光の評価は、かんばしいものではなかったであろうから、それらの点をわきまえて、久光は自ら後継者となることを、斉彬の重臣の前で辞退する意志を表明したのではなかろうか。新納の記録は、以上のような事情が反映されていると見てよいであろう。後継者をめぐる争いを避ける意味でも、久光のとった態度は、賢明であったと評価できるであろう。御家騒動の記憶は、まだ鮮明だったのである(佐々木克著『幕末政治と薩摩藩』)。>



歴史 | コメント:0 | トラックバック:0 |
| ホーム |次のページ>>